試写会にて。わかったことと、わからないこと。
以下、ネタバレです。





クーパーがどうやって助けられたのかがよくわからなかったんですが、あの時のアメリアの顔は幻じゃなかった。映画の序盤でワームホールを通る時に、アメリアが“彼ら”の姿を見てハンドシェイクをする。結局“彼ら”はクーパーだったというのが五次元空間でわかるので、アメリアが見たのは、クーパー。クーパーは五次元空間からワームホールを通って排出された。別の銀河へ行くアメリアと出るクーパーがハンドシェイクしたのだ。映画の序盤と輪になるようにして繋がっている。
ワームホールは土星の軌道上にあるということだったので、クーパーが太陽系に戻って来た時に遠くに見える明かりはおそらくクーパーステーションなのでしょう。時間のずれによって、方程式が解かれ、すでにステーションの打ち上げも済んだあとだったのだと思う。クーパーステーションの近くに排出されたから、たぶん発見も早かったのではないかなと思う。

宇宙船ですが、エンデュランスがなんで回っているのかわからなかったんですが、あれは遠心力によって重力を発生させているらしい。確かに序盤でゆっくり回転をかけながら「今、1Gになった」と話すシーンがあった。ドーナツ型の宇宙船は珍しいのかと思っていたけれど、ワープを実現できる形でもあるらしい。
それで、地球から打ち上げたレインジャーはドーナツ型の母船エンデュランスにドッキング出来るんですが、もう一つの四角を組み合わせたようなランダーは最初からドッキングされていたのだろうか。それとも、マン博士が乗ってきたのがランダーなのだろうか。「浄水設備を持ってくる」と言ってたので、持ってくるのは母船エンデュランスからだろうし、もともと母船についてたのかもしれない。

最後の方でガルガンチュアに行くときの分割の仕方も最初はいまいちわからなかったのですが、ランダーとレインジャーとエンデュランス、三機にそれぞれTARS、クーパー、アメリアとCASEが乗っている。それで、たぶんランダーかレインジャー…アメリアとCASEが乗った機体だけが重力ターンでエドモンズの星へと向かった。

序盤の、インドの無人機を追いかけるシーンがとてもいいんですが、これがのちの内容にまったく関わって来ないのが残念。荒涼とした大地に突如低空飛行の物体が現れて、父と子供二人で車で必死で追いかける。ハンス・ジマーのノスタルジックな曲もいいし、コーン畑の中を突っ切って行く映像が美しい。

TARS、CASE関連のシーンは全部好きなんですけれど、四角いだけなのに愛嬌があるように撮られているのがおもしろい。
ミラーの水の星で、大波から逃げるときに、CASEがアメリアをお姫様抱っこしているのが可愛らしい。

不本意ながらマン博士の星に行くことになって、生きているマン博士を見たアン・ハサウェイの表情が少しの時間しか映らないんですが、セリフが無くてもすべてを語っていて素晴らしい。
本当は恋人の星に行きたかったけれど、ほとんど生きている保証はなくて、だから行くの反対されたのは腹が立ったけれど、実際に生きているマン博士の姿を見たら、やっぱりこっちに来て良かったと思うと同時に、恋人に会うことは完全に諦めた顔。正解の選択をしたにも関わらず、やはり寂しい。それが全部表情に出ている。

大人になったマーフの泣きかたがいい。演じているのはジェシカ・チャステイン。ビデオレターで話しながら途中で泣いてしまうんですが、両手で顔を覆って豪快に拭う様子が子供がそのまま大人になったようで、彼女の性格がよくわかる。
マーフィーの法則=“起こるべきことが起こるべくして起こる”というセリフも二回出てきたし、もっと重要っぽいのだけど、よくわからない。

マン博士のシーンについては考えれば考えるほどわからなくなってしまうんですが、助けにきてもらうために嘘をついたのなら、助けに来た時点で「あれは嘘だった。実はこの星には何も無い」と告白してしまえば良かったのではないか。
わざわざクーパーを呼び出して嘘なのを告白した上で、クーパーを殺そうとしたのはどうしてなのだろう。
一人でレインジャーに乗って母船を乗っ取ろうとしていたけれど、最初に嘘だとみんなに知らせて、全員でエンデュランスへ戻るわけにはいかなかったのか。

マン博士は「人類を救うため役目をまっとうする」と言っていた。プランAが実現不可能なことを知っていたようだったし、プランBの実行とすると、母船でエドモンズの星へ向かうつもりだったのだろうか。ただ、行ったところで、受精卵から人類を生み出すには代理出産が必要だし、マン博士一人ではどうにもならないのではないだろうか。そもそも、プランBの場合、アメリアが代理出産をするつもりだったのだろうか。

マン博士も、教授が出発の時に読んだ詩を読んでいた。イギリスのディラン・トマスという方の詩らしい。“絶望をせずに怒りを原動力にして行動しろ”といった意味だと思うのですが、マン博士をあの行動へ走らせたのは正義感なのだろうか。手柄を横取りするつもりだった?

それぞれの星が階層のようだし、五次元というかガルガンチュアはLIMBOのようだし、やはり『インセプション』に似ていると思う。地球と宇宙との二元中継のようになるのも似ているし、互いに作用し合う点も似ている。
ただ、『インセプション』よりはわかりにくいと思うし、力技で乗り切るシーンも多いと思う。
それでも、事象事象の繋ぎ方や話の運び方の突拍子も無さはクリストファー・ノーランにしかできないと思うし、それを思いついたとしても、映像にするのはやはりすごいことだと思う。とんでもない頭の中を見せてくれてありがとうございます。





1993年にアメリカで実際に起きた殺人事件の映画化。
以下、ネタバレです。





実話となるともしかして…と思ったけれど、やはり、犯人は捕まっていないようです。そのため、映画で勝手にでっちあげるわけにもいかず、もやもやした感じが残る。

映画の進み方は淡々としていた。裁判シーンと警察の取り調べが大半である。
主役の調査員(探偵?)を演じているのがコリン・ファースなのだが、なぜコリン・ファースがこの事件に肩入れするのかがよくわからなかった。
死刑に反対する気持ちはわかる。けれど、被害者の少年三人とも、容疑者の少年三人とも関わりはないようだった。
最初、離婚協議書を持っていたので、リース・ウィザースプーン演じる容疑者の母親が元妻なのかと思った。妻と別れてはいても、被害者の父親なのかと思ったのだ。それにしては冷静だと思ったら違った。

いまいち立ち位置がわからないし、わりと冷静な人物のようだったので、彼の怒りはあまり伝わって来なかった。
裁判でも警察とのやりとりでも、これはどうしたって違うだろうという少年たちが犯人に仕立てあげられていって、観ているこちらが憤ってしまうけれど、主人公はそこまで怒ってもいないようだったし、映画内でも指摘されているけれど、弁護士でもないから弁護もできないし、結局、杜撰な捜査に対してどうすることもできないし、真犯人らしき人が捕まることもない。
観ているこちらの怒りを昇華させてくれる人がいないので、もやもやだけが溜まる。

これは実話なのだし、もやもやする事件だったというのも、みんなあらかじめわかっていることなのだろう。
嫌な事件だったので適当な人物を犯人にでっちあげて、この事件については終わらせたい。そんな警察や住民たちの集団心理は理解出来た。それに対して、親だけがもやもやした気持ちを引きずっているのもわかった。
母親はまだ犯人をさがそうとしているとのこと。
どう考えても継父があやしそうだったけれど、逮捕はされていない。
犯人にでっちあげられた少年たちは、裁判を続けないことを条件に釈放されたが18年間は刑務所の中にいた。
実際の現在の様子がこうでは、映画自体もすっきり終わるはずもない。

この冤罪事件については、研究されたドキュメンタリービデオもあるそうなので、事件自体が気になったらそちらを観た方がいいのかもしれない。『パラダイス・ロスト』というタイトルで3まで出ている。

この『パラダイス・ロスト』にも出てこない人物として、嘘発見器でクロが出たアイスクリーム売りがいるらしいんですが、それを今回演じたのがデイン・デハーン。
最初、3人の少年が冤罪で、デイン・デハーンが出るならば、キャストの知名度的にも絶対に彼が犯人なのだろうと思っていたのですが、これも実話ということで特定はされずに謎だけが残った。

出番はそう多くはなかったけれど、映画の雰囲気をガラッと変えるほどの力はあった。暗いけれど挑戦的な目。アイスクリーム売りの時のタンクトップ姿。後ろ向きにかぶったキャップ。監視カメラへの視線の投げ方と、ティッシュでカメラを隠すしぐさ。すべてが、ただならぬ空気と色気を纏っていた。
ただ、デイン・デハーンの色気は今回に限ったことではないし、彼目当てなら別の作品でもいいのではないかと思う。

コリン・ファースもデイン・デハーンも好きなので、この映画は共演を楽しみにしていたんですが、二人一緒のシーンは無かったのではないか。コリン・ファースが監視カメラの映像を見ていたくらいだったのが残念。

試写会にて。
何も情報を入れないまま観ました。
以下、ネタバレです。




本当に何もわからないまま観たので、もしかしたら地球は荒廃してもう住むところがない、地球を汚した私たちが悪い、みたいな説教まじりの環境映画なのかなとも思っていたんですが全く違った。地球は荒廃していたけれど、私たちが悪いという要素は全く出てこなかった。荒廃している原因については言及されていなかった。

トンデモ映画といえばトンデモ映画な気もする。でも、規模の大きいトンデモ映画です。

宇宙に出て行くんですが、私が宇宙のことを知らなすぎてなんとも言えないんですが、たぶん、本当の宇宙とはだいぶ違うところがあるのではないかと思う。
それを考えるとSFでもないような気もする。

だいたい、SF映画ならば、ロボットの形状にももっとこだわると思うんですよね。すごく簡素な、真四角のロボットが出てくる。もっとヒトガタとかにすればいいのに、四角い。でも、粋なことを喋るし、SF映画によく出てくるタイプの愛すべきAI。そのため、あの形状が謎。
最初に出て来た時は、エヴァンゲリオンのSound onlyのような、どこかで声を出している人が別にいるタイプの物体なのかと思った。あれで独立しているとは。
ちなみに、『アイアンマン』だとジャーヴィスがポール・ベタニーだったり、『月に囚われた男』だとガーティがケヴィン・スペイシーだったりしましたが、今回は特に有名な人というわけではなさそう。(ジョン・シム主演の『Life on Mars』のアメリカリメイク版に1エピソード出ているらしい)

あと、普通のSFだと考えられないのは、宇宙服同士での取っ組み合い。宇宙飛行士同士ってそういえば、あんまり喧嘩をすることってなかったような。それが、頭突きをかまして、相手のヘルメットの部分を割ったりする。「お前のほうが割れるかもしれないぞ!」「五分五分だ!」みたいな言い合いがありましたけど、そもそも、頭突きで割れちゃうものなのか。それほど、相手のヘルメットも強固ということなのか。

マン博士が手動でドッキングさせようとするときの映像も、あまり他のSFでは考えられないアナログなひやひや感。

何にしても、SFにあんまり慣れていない人が撮ってるなというのがわかっておもしろい。

あと、ブラックホールとか、ワームホール、次元なんかの説明も、この映画独自のものなのか、本当のところどうなのかがわからない。
私は詳しくないので、この映画のルールで考えて観ていたけれど、詳しい人は噛み付いたりするかもしれない。

この星での一時間が地球での○年間というルールは、少し『インセプション』を思い出した。また、宇宙と地球でそれぞれ持ち場は離れていても一つの目的に向かって活動している様子も『インセプション』と似ている。
また、サイトーとコブもそうでしたが、なんらかの事情によって、同じ時を歩んで来たもの同士の時がずれてしまうのが好きなので、ラストのシーンや、地球ではあっという間に23年間経ってしまった時のビデオレターの溜まり具合などは切なかった。ドクター・フーでもそんなエピソードがありました。

ただ、時の進み方にしても、星に降り立った瞬間から変わってくるのかどうかがよくわからなかった。あと、宇宙船も一体何分割できるのかとか、ドッキングしていたのは宇宙ステーションなのか、それにしては動いていたけれど…など謎が残った。もう一度観た時にちゃんと注意していようと思う。

最後、クーパーがどうやって助けられたのかがいまいちわからなかった。アメリアの顔が見えたけれど、アメリアは恋人の星へ行ったあとだったし、幻だったのだろう。
酸素が残り○分と言われていたけれど、どうやって、どこで、誰に助けられたのか。

アメリアの恋人が発見した星は空気があるようだったけれど、最終的には地球の人々はそこへ移住することになるのだろうか。

いくつか疑問も残っているので、もう一度しっかり観てみようと思う。

マット・デイモンが出てくるのはカメオ扱いなのかノンクレジットだったこともあり、まったく知らなかった。
ノンクレジットのわりに出演シーンが多く、しかも、すべてが嘘というちょっと悪役めいた役。すべて嘘だったので、はっきり言って彼にあんなに時間をさく必要があったのかなと思う。マット・デイモンは嫌いではないけれど、だったらもっと、ちゃんと意味のある役で観たかった。

クーパーの息子の成長した姿をケイシー・アフレックが演じているのですが、兄のベン・アフレックとマット・デイモンって大親友ですよね。まさかその繋がりで…とも思ってしまった。マット・デイモン、次回のノーラン映画にはもっとちゃんとした役で出て欲しい。

全体的には『インセプション』と似てるといえば似ているんですが、『インセプション』が前半にルール説明をして後半に実戦(実践)をしていたのに対して、この映画では合間合間にその都度ルール説明が入るので、まったく気が抜けない。一生懸命観ていると、知らぬ間に169分経っている。
『インセプション』では結局一人も欠けることはなかったけれど、今回は仲間がどんどん死んでいくのはつらい。でも『インセプション』は会社の跡取りの考え方を変えさせるのが目的だったのに対して、今回は地球の危機と話が大きくなっているので仕方がないのかもしれない。
それと、ルール説明にしても、『インセプション』は夢の話だし100%の創作として説明をそのまま聞いているけれど、『インターステラー』に関しては宇宙がまず実際にあるから、ルール説明を聞いても、でも本当のところはどうなんだろうと考えてしまう。
すべてノーランの創作、エンターテイメントと割り切ってしまえば楽しめる。




『美女と野獣』


クリストフ・ガンズ監督版、実写映画。
『美女と野獣』の原作は読んだことはないのですが、あらすじを見る限り、原作そのまんまでもないようだし、もちろんディズニーアニメ版とも違う。
ただ、『マレフィセント』のように『眠れる森の美女』がまったく変えられてしまったわけではないので良かった。
また、原作はフランス文学なのを知らなかったのですが、こうしてフランスの監督さんにフランス語で撮られるのは正しいと思う。

以下、ネタバレです。






ディズニーアニメ版と似ているところは、父の代わりにベルが野獣の城にとらわれるところと、野獣の城から一時帰宅したのが原因で村の人が野獣の城を襲撃するのと、ベルの愛で野獣が人間に戻るところくらい。登場人物の名前や職業もディズニーアニメ版とは違った。

また、ラブロマンス面を期待して観ると拍子抜けだと思う。最後にはベルは野獣に「愛してる」と言うが、いつそのように気持ちが動いたのかわかりにくかった。

そもそも、それほど野獣とベルが一緒にいるシーンがない。
野獣の内面というか生い立ちも、ベルはおそらく森の精が見せた夢で知るけれど、身を以て優しさを感じたようなシーンは無かったのではないかと思う。
本当に、そもそも触れ合い自体が無かった。

ダンスのシーンもあるけれど、ディズニーアニメ版のようなロマンティックなものではなく、緊迫感のあるものだった。ベルの顔が強張っていた。ただ、野獣は傷つけないようになのか、手袋をはめ、爪を隠していた。
そもそも、家に一時帰らせてもらうための、取引としてのダンスなのだ。ベルとしては身売りに近い。けれど、このひんやりしたダンスシーンが最高だった。
ドレスもベルがヴィヴィッドなブルーで、野獣がレッドなので、色合いも綺麗。

ベルが最後に「愛してる」と言うのも、本心からとは思えなかった。野獣を救いたいというよりは、家族を救うためにわざと言ったように思えた。

ベルは姉二人兄三人の六人兄弟という設定で、そこに父親も加えた家族の描写が前半に多かった。そのため、野獣よりも家族を大切にしているように思えたのだ。
これは原作でもディズニーアニメ版でもそうだけれど、もともと野獣の城へ行ったのも、父親の代わりだったし。

私はラブロマンス目当てではなかったので別にこれで良かった。ただ、童話を子供に話す形で映画が進んでいき、ラストで話していたのがベルで、子供と父親と人間に戻った野獣と一緒に暮らしているのがわかるんですが、その時の、野獣を演じたヴァンサン・カッセルの抱擁の仕方が素敵だったので、もっとラブロマンス面に力を入れてくれても良かったと思った。

何を目当てで観に行ったかというと、役者さんと衣装・美術などです。
ヴァンサン・カッセルも前述通り良かったです。過去に王女を後ろから抱きしめるのも良かった。横を向いた時の鼻のラインが人間の姿でも野獣に似ている。

エドゥアルド・ノリエガも出ていた。スペイン俳優ですが、フランス語も話せるとは。ただ、だいぶ歳をとった感じ。前作は『ラストスタンド』で、観ていないんですが、ここでも悪役だったようです。

ベルを演じたのがレア・セドゥ。所謂、女優顔というか美形というよりはモデル顔といった感じなんですが、だからこそなのか、どんな衣装も似合っていた。
家族と暮らしているときの質素な服装も似合っていたけれど、野獣の城へ行ってからの日替わりのドレスもどれも綺麗でした。
あれは野獣セレクションなんでしょうか。アクセサリーや髪飾りもそれぞれドレスに合わせてあった。ヘアスタイルも素敵でした。
どれもわりとバキバキした色合いだったため、その衣装のまま、もともとの家に行くと随分場違いに見えた。

それくらい、野獣の城自体もバラの蔦が絡まっていたり、食卓が豪華だったりと華美なものだった。

ベルの夢の中で出てくる過去の映像の、王女のヘアスタイルがだいぶ昔のものだと察せられて、王子が野獣に変えられてから時が経っているのが説明はなくともわかった。

また、野獣の城の屋外には、水中に半分沈みかけた巨像などがあるんですが、それが、村人の襲撃の際に動き出すのが恰好良かった。あれなんだろう、不気味だなと思っていたのが、まさか、襲撃に備えていると思わなかった。苔の生えた巨像の方の部分に野獣がいて、絡まった蔦を引っ張って操っているのもかっこ良かった。

あの巨像たちは、過去に一緒に狩りに行ってた人たちなのかな。その辺も説明がなかったけれど、狩りで連れていた大量のビーグルも、謎の生き物に変えられていた。
謎の生き物、可愛かったけれど、臆病なせいで、影に隠れてて結局最後までちゃんと出てこなかったの残念。ちなみに、ディズニーアニメのように、動くティーポットや燭台などは出てきません。

2012年アメリカで公開。日本ではDVDスルーでした。
原題がRise of the Guardiansで、もともと『不思議の国のガーディアン』という邦題まで決まっていたのに公開が見送られてしまった。

原因ですが、アメリカでの成績がふるわなかったせいもあるかもしれないのですが、出てくる人物があまり日本に馴染みがなかったからだと思う。

このストーリーはおとぎ話の主人公版アベンジャーズみたいな感じで、普段なら別々に活躍しているキャラクターが集められている。
サンタクロースは馴染みがあるだろう。イースターバニーも、時期に不二家でペコちゃんがウサギの着ぐるみを着ていたし、日本においても売り出されているイメージがある。
ただ、子供が抜けた歯を枕の下に置いておくとコインに変えてくれるトゥース・フェアリーや、睡魔ザントマン(英語読みでサンドマン)については馴染みがないだろう。

このストーリーは子供たちがサンタクロースや他のキャラクターや妖精を信じられなくなったら?というのが主題なので、日本の子供は信じる信じない以前に知らないので、どうしようもない。そう考えると、メルヘンチックな作品だけれども、かなりターゲットが絞られていると思う。

ただ、大人でも存分に楽しめる作品でもある。ジャックフロストは、子供に雪をぶつけて擬似的に一緒に雪合戦を楽しんでも、サンタクロースやイースターバニーほど有名ではないため、子供たちには認識されない。信じていなければ、いないことになってしまう。

子供たちの夢を守るのがガーディアンズの役割であるが、ガーディアンズは子供たちに信じてもらうことで存在できるので、逆に守られてもいる。
この関係の描き方が素晴らしかった。
どこか飄々とした悪餓鬼だった彼がガーディアンズの仲間になって、子供たちの夢を守ろうと思った時に、子供に認識されるんですね。やっと、姿が見える。一緒に遊んでいたのは僕だよと伝える。抱きしめる。
一人きりだったジャックフロストがちゃんとみんなの前で存在できた。単なる夢物語だけではなく、孤独感からの解放も描かれていて涙が出た。

ただ、悪役であるブギーマンも同じように信じてもらえないから見えないと言っていたんですね。結局彼は、最後にまた認識されなくなってしまう。いくら怪物とはいっても、ジャックフロストとも似ているところがあると思ったので、彼一人だけがかわいそうだった。

初見は飛行機内で、今回は映像配信をパソコンで観たため、両方とも小さい画面になってしまったが、細かいところも作り込まれているので大きいスクリーンで観たかった。
最初のジャックフロストの雪祭りのシーン、そりでみんなで歯を集めにいくシーンなど、空を飛ぶシーンも多く、迫力がありそう。
また、サンタクロースのおもちゃを作っているシーンや、イースターバニーのたまごを塗っているシーンも大画面で観たい。
ジャックフロストがガラスなどを凍らせるのは、『アナと雪の女王』と同じくらい氷表現として美しい。

キャラクター造型も独特なんですが、この作品のように戦うサンタクロースは初めて観た。二刀流です。太ってはいるけれど、ちゃんと動けてかっこいい。
子供に信じてもらえなくなったために、途中でもふもふの普通のウサギの姿に変わってしまうイースターバニーは、普段は2メートルで、ブーメランを二つ持っていて、これまたかっこいい。

そして、ジャックフロストの容貌は、私がこの映画を観るきっかけになった。氷の妖精だからですが、銀髪で肌が白い。でもパーカーを着ているなど、ほぼ普通の少年の姿です。旅行中にこの少年の姿を観て、美少年っぷりに驚いて、帰りの飛行機の中で映画を観ることにしました。それで、飛行機の中なのにも関わらず号泣。

声の出演は、ジャックフロストがクリス・パイン、サンタクロースがアレック・ボールドウィン、イースターバニーがヒュー・ジャックマン、トゥース・フェアリーがアイラ・フィッシャー、ブギーマンがジュード・ロウと、主要キャラクターがかなり豪華な面々になっています。



イギリスの舞台を映画館で上映する企画の日本上陸版。イギリスの舞台など、観たいものがあっても簡単には観に行けるものでもないし、とても嬉しい企画。
ロイヤル・ナショナル・シアターで上映されたものだけなのかと思っていたが、他の舞台も取り上げられているらしいのと、ロイヤル・ナショナル・シアター自体が映画館上映のためにカメラワークなどにもこだわって作ったものらしい。

何作品か上映されているのですが、今回、『フランケンシュタイン』のアンコール上映を見ました。
ダニー・ボイル監督、音楽はアンダーワールドといつものコンビ。
ベネディクト・カンバーバッチとジョニー・リー・ミラーのダブルキャストというかダブル主演というか、博士役と怪物役を交互に演じている。
見た目を重視してしまってカンバーバッチが博士役をやったバージョンを観たんですが、これは両方観て初めて完成するのかもしれない。

舞台は怪物が生まれるシーンから始まる。原作だと、その前にフランケンシュタイン博士の生い立ちや、人間を作り出すことにとらわれていく狂気や苦悩が描かれるのですが、その辺はすべてカットされていた。そのため、怪物視点からのシーンが多い。
あと、フランケンシュタインと結婚することになるエリザベスについても、急に出てきてしまった感じ。

フランケンシュタインというと、『怪物くん』に出てくるあの姿が想像されるのですが、あれは1931年の映画『フランケンシュタイン』のイメージであり、「フンガー!」しか言わないのもたぶん同じところからの引用なのですが、もともとのフランケンシュタインはどんどん頭がよくなっていく。

上部に無数の豆電球がつり下げられていて、それが雷のように光る。舞台上には丸い、もしかしたら子宮のようなものがあり、そこから文字通り、怪物が生まれ出てくる。このシーンから舞台版は始まっていた。
原作だと、怪物を作り出したフランケンシュタインが、自分のしたことの重大さに気づいたのか、怪物の容姿を恐れたのか、とにかく怖くなって逃げ出したあとである。
生まれ出てきた怪物は最初立ち上がることすら出来ないのですが、着実に成長していく。這うように舞台上を動いていたのに、少しずつ立ち上がっていく。意味のない叫び声を上げる。
この、着実に、でもすごいスピードで成長していく様が見事だった。舞台上にはジョニー・リー・ミラー一人だけで、内容を知らなかったら前衛劇のように見えるかもしれない。鬼気迫る演技が迫力のあるシーンだった。

醜い容姿のため、人間からは叫び声を上げられ、石を投げられる。そこで傷ついている怪物には、明らかに人間としての感情が芽生えていた。
盲目のおじいさんだけが優しくしてくれて、本を貸してくれたり言葉を教えてくれたり。
このシーンは原作だと遠くで見守っている時間が長かったと思う。そして、本も怪物の独白によって書かれていたが、舞台なので、おじいさんと怪物の心の触れ合いが多く描かれていた。
ここで、醜い容姿のために蔑まれているが、怪物は実は優しい心を持っているとわかる。博士に作り出されたのに心を持っているのだ。
ここの二人のやりとりは、ほのぼのとするものが多くコミカルで、劇場からも笑いが漏れていた。

しかし、怪物が懸念していた通り、一緒に住んでいた息子夫婦は外見の醜さを忌み嫌い、怪物を棒で叩いて追い出そうとする。
畑の石を退けてあげたり、影で手助けをしていてこの仕打ちは、少し『ごんぎつね』を思い出す。

皮肉なことに、怪物は読んでいた本から復讐という感情も学んでいて、一家が住んでいる家に火をつけて逃げる。そして、自分をこんな姿で作ったフランケンシュタイン博士にも会おうとする。

原作だと博士の気をひくために、怪物はもっと何人も殺しているんですが、舞台版だと弟のみだった。
自分が作り上げた怪物と対面して、その知能の高さに感動しているさまは、やはりどこか狂っているように見える。

また、怪物に脅されたからといって、花嫁を作ろうとするのもやはり、一体作り上げた自負があるのだろうし、まともとは思えない。
結局、弟の亡霊に、花嫁が子供を産んで怪物が増えたらどうするのかと問われ、完成間近で拒否することになる。

怪物の気持ちをわかる。父母ともいえるかもしれない創造主に拒否され、他の人間にも拒否されて一人きり。愛やさびしいという気持ちを知らなければわからなかったろうが、すべての気持ちを知ってしまった今となっては、感じるのは孤独感なのだ。

見た目的には怪物のほうが醜くても、本当の悪魔は博士のほうに見えた。舞台版だと、特に序盤の苦悩が描かれていないため、怪物のほうの気持ちがわかってしまう作りとなっていた。

博士が倒れたときに、怪物が「本当に一人きりになってしまう! お前は俺なのに!」と言うシーンもあるが、それを考えると、やはり逆キャストバージョンを観て、この舞台は完成するのかもしれないと思った。ダニー・ボイルもそこまで意図して作ったのだろうし。

原作を読んでいたときにも、実は怪物など存在しなくて、博士の妄想上の生き物で、殺人も博士が行っているのかと思った。実際、疑いもかけられたりする。しかし、後半で、(怪物の独白ではなく)第三者も怪物と対面するシーンが出てくるので、存在はしていたらしい。
でも、二人で一つという面はあったのではないかと思う。

このナショナル・シアター・ライブ、40カ国以上で公開されているらしいけれど、日本に来たのが今年初めて、ということもあるのかもしれないけれど、字幕が少しいい加減だった気がする。セリフに対してやけに短かったり。
あと、最初にロイヤル・ナショナル・シアターの歴史やナショナル・シアター・ライブについてのCMみたいなのが流れるのですが、そこには字幕がついていなかった。外国で観ているようでわくわくはしたけれど、宣伝効果はないと思う。
それでも、本編が字幕付きで観られただけでも、有り難い話ではある。
ソフト化の予定はないそうです。

『高慢と偏見』


ジェーン・オースティンによる1813年の小説は、何度か映像化されていますが、今回観たのは1995年のコリン・ファースがダーシーをやったドラマです。全六話。

20年くらい前のドラマだし、ドラマの舞台になっているのは更に前なので、かなり時代を感じる作りになっている。髪型や服装も昔っぽい。コリン・ファースもお姿は麗しいながら、変なもみあげです。
イギリスの時代物といえば、最近だと『ダウントン・アビー』が人気ですが、あれは1912年。この話の100年も後ということで、まったく違った。

最初はあまり世界観がわかっていなかったんですが、あまり裕福ではない家の五人姉妹のお婿さん探しのてんやわんやだった。中でも二女のエリザベスとダーシーのロマンスが中心になっている。

五人姉妹なので、母親が特にお嫁に出そうと躍起になっていて、もちろん娘のことを思ってのことでもあるのだろうけれど、自己中心的にも見える。
二話目の最後のほうで出てきた従兄弟で牧師のコリンズが、いい人そうに見えるけれど上にへこへこしすぎるというか、恰好もそれほど良くなくて、このキャラはどうなのかと思っていたら、エリザベスに結婚を申し込んでいた。エリザベスは断るんですが、そのことについても、お母さんがまあうるさかった。何についても口を出してくる。娘が大事なのか、世間体が大事なのか、自分の家が大事なのかよくわからない。

後半の末っ子リディアの駆け落ち関連についても、褒められた話ではないのに娘が一人片付いたことに大喜びし、リディア本人も幼さから状況がわからず誇らしげになっているあたりが、観ながらもあまりいい気分にはならなかった。
リディア以外の四姉妹も長女のジェーンは大人なので作り笑いでにこやかにしているけれど、四女は明らかに渋い顔をしていて、長女から下にいくにつれて、順に顔が険しくなっていくのがおもしろかった。

現在のドラマだと、主人公サイドや視聴者に対して不快な態度をとる人物は最後のほうで天罰的に悪い目に遭ったりしますが、このドラマでは他の登場人物をより幸せにするという方法がとられていたのが良かった。

他の姉妹の恋愛模様も一話から同時進行していくのが面白かった。
長女のジェーンも、あっさりうまくいくのかと思いきや、外野からの邪魔や勘違いが入り、結局最終話までもめていた。でも、誰もが認める良い人物だったし、幸せになってよかった。

主人公エリザベスとダーシーについてですが、最初の印象は最悪なんですね。ダーシーは最初からエリザベスのことが気になっていたようだったけど、とにかくプライドが高くてつんけんしている。
告白するときも真顔な様子から、なんとなく『ブリジット・ジョーンズの日記』でコリン・ファースが演じていた役に似ているなと思っていたら、この作者自体が、『高慢と偏見』に影響を受けていたらしい。
この話があったあとで、映画版でもコリン・ファースが演じているとは、かなり粋だと思う。すべて知った上で、原作から映画化する際に、コリン・ファースが演じることになったという流れを聞きたかった。相当驚いたと思う。

最初はエリザベスと同じで、ダーシーのことをいけすかない奴と思っていたんですが、屋敷の見学に行くあたりからだんだん好きになってくる。

この屋敷がとても立派なのですが、チェシャーのライム・パークというところらしい。マンチェスターの南東あたりみたい。なかなか行きづらそうだけど、行ってみたい。ロケ地として有名らしいので、ツアーか何か組まれているかもしれない。

ダーシーが泳ぐ池も実際にあるらしい。服を着たまま池で泳いでそのまま上がるんですが、水に濡れた姿でエリザベスと対面するんですね。まさか、いるとは思っていないので、とんでもない姿で、でもプライドが高いからそれほど大慌てもせずに。でも確実に動揺がわかる姿が良かった。その後、必要以上にびしっとした恰好で出て来るのも可愛い。

最後はジェーンとビングリーの結婚式と、エリザベスとダーシーの結婚式が一緒に行われる。その時はダーシーも真顔ではなく、ちゃんとにこやかでした。

ヒロイン、エリザベスを演じたのはジェニファー・イーリー。調べてみたら、『コンテイジョン』で薬を発明して得意げに鼻を膨らませてた方ですね。あの役、好きでした。このドラマの頃には実際にコリン・ファースと交際をしていたらしい。