2010年公開。『プリデスティネーション』で気になったスピリエッグ兄弟監督作。
脚本も兄弟によるもの。『プリデスティネーション』は原作があったけれど、こちらはないのかもしれない。

レンタルでもホラーの棚に置いてあったし、ホラーといえばホラーだと思う。ヴァンパイア映画です。でも、夜道をヴァンパイアが徘徊し、人間が怯えて暮らす…というこのジャンルの普通の映画とは明らかに違っていた。
だから、ホラーだからと言って尻込みしてしまうのはもったいない。ただ、首は飛ぶし、血も大量に出てくる。襲い方はどちらかというとヴァンパイアよりもゾンビっぽい感じだった。内臓を食べるシーンもあります。
苦手度にもよりますが、ゴア表現はそんなに大したことはないので、普段ホラーは観なくても、『プリデスティネーション』をおもしろいと思ったらおもしろいと思えるはず。

舞台は今よりも少し未来。一匹のコウモリからウィルスが蔓延して、人類の9割がヴァンパイアになっていた。
まずこの設定からして他とは違っていて面白い。永遠の命などを求めて、自らヴァンパイアになるのである。ほとんど全員がヴァンパイアという、ヴァンパイアが普通の世界だから、尚更拒む人間も少ない。
ただ、ヴァンパイアの食料はご存知の通り、人間の血液なんですよね。ヴァンパイアが増え過ぎたせいで、食料不足に陥っている。なんとなく、現代社会にも通じるところがある。
駅のスタンドでは血液を混ぜたコーヒーを売っていて、通勤客が列を作ってるのですが、次第に混ぜる血液が減って来て暴動が起こったり。誕生日に、純度の高いボトル入りの血液がプレゼントされていたが、まるで、ワインのようだった。
だから、ヴァンパイア中心の世界とはいえ、ファンタジーというよりは、今の日常とそれほど変わらないため、すっと世界観が理解出来る。

主人公のエドワードは、その食料不足解消のために、代用血液の開発にいそしんでいる。このあたりも、途中で一緒に研究していた同僚が先に開発に成功して、上司が大もうけしようと目論むとか、現代の社会派ドラマにもありそうな感じになってた。

ヴァンパイアが飢えたり、ヴァンパイアの血を吸ったりすると、サブサイダーというモンスターのような存在になってしまう事実が途中でわかり、会社の会議などで話し合われているのですが、もうヴァンパイアがモンスターだという認識は本人たちにはないようだった。その辺の主観の変換も面白い。大多数が正義とは言えないけれど、きっと圧倒的な安心感はあるのだろう。

また、物語上、ヴァンパイアを悪としてしまうと悪が多すぎるので、更なる悪としてサブサイダーを出したのだと思う。『ウォーム・ボディーズ』でもゾンビの他に、ゾンビを襲うガイコツみたいなのが出てきていたけれど、それと同じような感じだろう。

血を吸うというのの他に、太陽の光に弱いというのもヴァンパイアの基本設定を踏襲している。電車は地下鉄であり、車も紫外線から保護するための改造がされている。
ナビではないけれど、「日中運転モード開始」とか「紫外線注意」などと喋る車でその辺がしっかり未来っぽい。その他にも、血液の研究施設や主人公の家など、日の光を遮っているせいもあるのかもしれないけれど、どことなく未来っぽい雰囲気を漂わせていた。

色合いも白っぽかったり、青や緑っぽかったりと無機質で冷たい感じのするものだった。また、ヴァンパイアのイメージというか、潔癖なまでの無菌状態のような清潔さも感じられた。不潔なヴァンパイアって中々見かけない。

対照的に、人間が出てくると日光の下だったり、室内であっても、照明が暖かみのあるもので統一されていた。

主人公エドワードを演じているのがイーサン・ホーク。エドワードは途中でヴァンパイアから人間に変わるのですが、イメージががらっと変わっていた。ヴァンパイアでは目の色が黄色だったり赤かったりする。髪型もオールバックで、服装ともにきっちりした印象だったけれど、人間になった途端、髪型も服装もラフなものに変わっていた。ヘアワックスも使わないし、ベストの前のボタンも開けたままなので、動いた時に乱れる。
ヴァンパイアのときは余裕というか、クール&スマートな印象だったけれど、人間になったらそのまんまですが人間味に溢れ、体温すら伝わってくるようだった。

『プリデスティネーション』でも、各時代によって印象がガラリと変わるような撮り方をしていて、今回も同じ印象を受けた。おそらく、独自の世界観を作り出すのがうまい方々なのではないかと思う。かっこいいです。

エドワードがヴァンパイア時代に、日中モードで走っていた車が後方から襲撃され、銃口から日の光が入ってくるシーンがある。まっすぐ走っていれば光から外れた場所に座っていればいいけれど、襲撃されているため、運転も荒くなる。カーブをすると、光の入り方が変わり、触れてしまうと火傷をしてしまうため、車内で必死で日光から逃げるというのが面白かった。普通に生活をしていたら、別に日の光が致命傷になることはないし、考えつかないことですよね。日光を遮った車が襲撃されたら? 日の光が差し込む車がカーブをしたら? そんなことまで考えているのが凝っていると思った。

キーマン役でウィレム・デフォーが出てくるのですが、いい場面をすべてかっさらっていく、ご都合主義的というか、ちょっとずるい役だった。でも合ってます。
エドワードの上司役にサム・ニール。さすがというか、どっしりと構えた悪役で、こちらも合っていた。

エドワードの弟、フランキー役にオーストラリアの俳優、マイケル・ドーマン。最初に兄の誕生日に特別な血液を持ってきたところから最後まで、ずっと、兄の事を考えて行動していた健気な役だった。目がくりっとしているルックスも魅力的。彼の出ている映画がもっと観てみたい。

やっぱりこの監督さんたち、配役もいいんですよね。この前の作品『アンデッド』も観てみたい。



イーサン・ホーク主演。
過去に戻って犯罪をくいとめる…と聞いていたので、『ミッション:8ミニッツ』みたいな感じかと思っていた。ポスターも似ていた。でも、『ミッション:8ミニッツ』は相当良くできた映画だったので、劣化版コピーのようになってしまうのではないかという心配をしていた。
結果的にはそれはとんでもない誤解でした。口コミやRotten TomatoesでのFresh 84%を信じて良かった。
タイムリープものではあるけれど、一癖も二癖もある。SFはSFなんだと思うけれど、CGなどはほとんど使われていない。予告編だとアクション映画のようだけれど、銃もほとんど撃たないし、アクション要素も少ない。

予想を覆された。ラストの衝撃度もものすごいので、ネタバレは絶対に知らずに観た方がいいと思う。

以下、ネタバレです。







オープニングは過去に戻って爆弾魔の犯行を食い止めようとするシーン。失敗するんですが、これから映画が始まるというところなので、まあ意外ではない。この爆弾魔との因縁ともいえる対決がこの映画の中心になるのだろうなと思っていた。

場面が変わって、イーサン・ホークがバーテンダーを演じる薄暗い場末のバーのような場所が舞台になる。そこへ訳ありっぽさぷんぷんの美青年が現れる。
レオナルド・ディカプリオ、エドワード・ファーロング、デイン・デハーン系の影のある顔だったけれど、声質からもしかして女性が男装してるのかなと思った。

そこから、その人が自分の数奇な半生についてバーテンダーに話し始める。「私が少女だった頃…、」という話し出しで、やっぱり思った通りだったと思った。幼い頃から喧嘩が強かったというようなことを話していたのと、この作品がWikipediaで“オーストラリアのLGBT関連の映画”というくくりになっていたことから、きっと性同一性障害なのだろうと思い込んでいた。

しかし、そんな方向へは話は進まなかった。しかも、二人の会話、というか、彼女がバーテンダーに話している時間がまったく終わる気配がない。
この映画は会話劇なのか? SFなはずではなかったのか? 爆弾魔を追ってるんじゃなかったっけ? これ、なんの話だっけ?

そう思いつつも、バーテンダーと同じく彼女の話に没頭する。孤児であり、気性の荒さのせいで友達もできず、養子にももらわれず、就職の面接で落とされ、出会ったある男性と恋に落ちるも、男性は消え、お腹には彼の赤ちゃんだけが残った。
もうここまでで悲惨なのですが、極めつけが帝王切開での出産時に命を落としそうになり、半陰陽(女性器も男性器もある)だった彼女は、男性化の手術をされてしまう。

命を救うためとはいえ、勝手な処置で取り返しのつかないことになった。望んで男性になったわけではなかった。
それでも、子供と一緒なら生きていける…と思っていた矢先、赤ちゃんが誘拐されてしまう。犯人はつかまらないけれど、おそらく消えた男、父親なのではないかと彼女は思ったし、私も思った。

腹には帝王切開の跡、おまけに胸に乳房切除の跡も残っていて、かなりショッキングな裸も映る。
一人きりで必死に男性の話し方をしようとするシーンがあるんですが、泣けてしまって仕方がなかった。
字幕だと男言葉になるだけですけれど、英語だと同じだけれど、話し方や声のトーンで男性っぽくするしかないんですよね。
最初は気丈に、男らしく自己紹介を繰り返している。けれど、何度か話すうちに、気丈な部分が剥がれ落ち、本来の自分の話し方に戻ってしまう。女性の話し方です。自分の心の性と体の性の不一致が起こっている。

バーテンダーに話してる時点では、もう男性的なふるまいにも慣れたと言っていた。それどころか、挑発するような目で、先日、射精ができるのがわかったとも言っていた。
カウンターからビリヤード台、テーブルと場所を変えながら話し込むうちに、心を開いたのかもしれない。二人が話している様子はまるでデートのようにも見えたし、彼(彼女)の表情は射精ができるようになったからためしてみるか?と誘っているようにも見えた。

でもセックスをするわけでもない。恋愛感情を抱いたわけでもなさそうだった。じゃあ、なんで、この人の半生を聞くシーンがこんなに長いのか。この人が爆弾魔で、これは因縁めいた会話なのか。

バーテンダーは彼女(彼)の話を聞き終えて、過去に戻ってお前の人生をめちゃくちゃにしたやつを殺せるとしたらどうするか?と問う。これは、最初にモノローグみたいな感じで出てきた言葉なので、ここから本編か!と思った。
そこで、ああこれは、笑ゥせぇるすまん的というか、世にも奇妙な物語的というか、不幸な目に遭った人が不思議な人に不思議な力を与えられるパターンか、と思った。話の中心は復讐だったのだ。
彼女(彼)を連れて過去へタイムスリップをする。物語が動き出す。二人の冒険が始まる! なんて、呑気な事を考えていた。間違っていた事がほんの数分後に明らかになる。

過去の彼女が好きになってしまったのは、紛れも無い彼本人だった。なんて残酷なんだろう。復讐すらも許されない。
本作のタイムリープルールでは、過去の遡って、本人に会う事もできるようだ。『時をかける少女』など、片方が現れるともう片方が消えるなど、同一人物が同時に存在できない場合が多いけれど。

バーテンダーは彼に選択肢はあると言って、自分は爆弾魔追跡へ戻っていく。
選択するのは自由だと言われたって、愛さずにはいられない。だって、一人きりなのだ。どれだけ孤独なのかは、自分のことだから自分が一番良くわかっている。誰からも愛されていないのに、自分までもが見捨てるわけにはいかない。

それでも、未来から来たのだからずっと一緒にいるわけにはいかない。バーテンダーが彼を連れて未来へ戻る。過去には彼女一人が残される。そして、お腹には赤ちゃんが…。

でもそれじゃあ、父親が彼だったということは、生まれた子供を誘拐したのは誰だったの?と思いながら観ていたら、バーテンダーが過去に戻って赤ちゃんを抱き、そのまま更に過去へ戻って、孤児院の前に置いていた。

そりゃ、両親なんていないだろう。全部自分なのだから。怒濤の如く明らかになっていく彼(彼女)の半生。前半に聞いた話の種明かしのようだった。
半生を聞いていた時点でも、悲惨だとかそりゃないよとか思っていたけれど、種明かしを見るとあっさりとそれを上回ってしまう悲惨さだった。
過去の彼女が愛したのも自分で、産んで愛しいと思い誘拐されて身を切られる想いをしたけれど、その子も自分だったのだ。
幼い頃に、家族に憧れて両親に想いを馳せた事もあるだろう。子供を産んで、やっと家族ができたとも思っただろう。すべて幻想だったのだ。永久に一人きりだったのだ。

タイムスリップで冒険なんて始まらない。時空をこえて、一人の人間が奇妙に繋がってしまっただけだった。

彼(彼女)はバーテンダーの“過去に戻って犯罪をくいとめる”仕事を引き継ぐことになる。バーテンダーは爆弾魔を捜すために、一人、最後の仕事へ出かけるためタイムスリップする。
ここでまた、そりゃないよ事象が上書きされる。爆弾魔は、度重なるタイムスリップで精神を病んでしまった彼自身だった。犯罪阻止のためによかれと思って任務を遂行していただろうに、結果的にこんなことになるとは。
バーテンダーは爆弾魔である自分自身を銃で撃ち殺すが、おそらく何年後かに彼も爆弾魔になってしまい、過去から来たバーテンダーに撃ち殺されるのだろう。

彼(彼女)だけでなく、バーテンダーもこんな因果に巻き込まれてしまった。ああ、やりきれないと思っていたら、憔悴しきったバーテンダーの裸に見覚えのある強烈でショッキングな手術跡が…。そういえば、序盤で任務失敗で顔焼かれて、整形手術してましたよね…。

最後の最後に、そりゃないよ事象が更に上書きされるとは思わなかった。層になったそりゃないよの一番外側だ。頭を抱えそうになった。

だから、バーで話を聞いていたときも、さも相談に乗っているような感じだったけれど、全部、経験してきたことだったのだ。経験してきたこと、つらい過去の記憶を自分の口から改めて聞くというのはどんな気持ちだったのだろう。
彼(彼女)がどんな気持ちで話していたかもわかるはずだ。つらい話でも、やっと人に聞いてもらえたというように、彼(彼女)の話は止まらなかった。バーテンダーはそれを黙って、すべて受け止めていた。
また、いくら誘われたって(誘っていたのかはわからないけれど)、セックスをするわけはない。子供はできないにしても、自分とのセックスで一度酷い目に遭ったのだから、もうしないだろう。

絡まった糸をほぐしてみたら、実は一本だったような感覚だ。結局、愛したもの、執念を燃やしていたものすべてが自分自身だった。一人きりだったのだ。タイムリープをこんな使い方するとは。やるせなさと絶望感が残ったが、最初に想像していたストーリーがまったく違う方向へ裏切られていくことでの新鮮な驚きがあった。

タイムリープものやどんでん返しもの特有ではあるけれど、すべて知った上で、もう一度最初から観たい。ただ、最初から最後まで苦しい想いをしながら観る事になりそう。

原作はロバート・A・ハインラインの『輪廻の蛇』。劇中で「自分自身の尻尾を追いかける蛇」というセリフも出てきた。このタイトルを知っていたら、ストーリーが予測できてしまったかもしれない。原題『All You Zombies』もなるほどといった感じ。
小説だと、登場人物などを頭の中で想像しながら読む分、最後の衝撃がより凄そう。
ただ、短編らしいので、映画は97分とはいえ、だいぶ要素が足されているのではないかと思う。

ラストの衝撃度勝負だけではなく、美術面や低予算ならではの工夫もおもしろい。

登場人物は、バーテンダー役のイーサン・ホークと彼/彼女役のサラ・スヌークとエージェント役のノア・テイラーのほぼ三人のみ。
特にオーストラリアの女優さんだというサラ・スヌークの男女の二役は素晴らしかった。無骨で勝ち気で尊大な女性と、影をたたえて皮肉っぽく笑う男性。女性の時は明るく、男性の時は暗く、と照明にも気をつけられていたらしい。

彼女が就職をしようとする会社、スペースコープの女性の制服のレトロ未来具合が絶妙だった。宇宙関連の会社なので洗練されてはいるけれど、舞台が60年代と昔だから、昔の人が考えた未来みたいなイメージ。現代から見るとレトロ。昔の万博のコンパニオンの制服のよう。

タイムマシンもギターケース型とちょっと変わっていた。タイムリープするからSFではあるんだろうけど、SFだとCGで作られた銀色で大振りな乗り物型のタイムマシンを想像してしまう。原作の通りなのかはわからないけれど、映画では携帯型のタイムマシンで、ぱっと見、流しのギタリストにしか見えない。
行き先の日付もデジタルではなくて、ダイヤル式で合わせたりする。80何年かに作られたというようなことを言っていたと思う。タイムマシンが未来ではなく今よりも30年くらい前に作られていたという設定も新しい。そのため、デザインが昔風なのだと思うけれど、おそらく予算にも合っているのだと思う。

アクションも極力控えめ。バーテンダーは犯罪阻止のやり手だったようだけれど、仕事をしているのは最初の失敗したシーンだけで、過去の活躍っぷりはわからない。
だから、カッコイイSFアクションみたいなものを想像して観に行くと拍子抜けするかもしれない。

監督・脚本・製作をこなしているのはピーター・スピエリッグ/マイケル・スピエリッグ兄弟。ピーターのほうは本作の音楽も担当している。この兄弟、一卵性の双子らしく、そんな二人が自分が自分に会うというストーリーを監督したのかと思うと、更にぐっとくる。


2012年のイギリスBBCとアメリカHBO制作のドラマ。ベネディクト・カンバーバッチ主演。
全三話ですが、一話が90分くらい。
この前見た『スモール・アイランド』は第二次世界大戦少し前でしたが、こちらは1908年スタートで第一次世界大戦少し前から始まる。ベネディクト・カンバーバッチが戦争へ行くという面では一緒。ただ、『スモール・アイランド』のほうがテーマが深く、重く、根深い問題が扱われている気がした。こちらはどちらかというと、戦争そのものよりも、戦争で味付けしたラブストーリーといった感じ。見て、考えさせられるようなものではなかった。

敬虔なキリスト教徒であるクリストファー(ベネディクト・カンバーバッチ)が半ば騙されたような形でシルヴィアという女性と結婚することになる。風貌も派手で、他の男と駆け落ちなどをしても、クリストファーは悲しそうにはするものの、怒らない。
クリストファーは女性活動家のヴァレンタインに出会い、彼女に恋をし、惹かれ合う。しかし、キリスト教徒のためか、時代背景なのか、クリストファーは離婚はできないという。
クリストファーの心が他の女性に移ったのを知ると、シルヴィアも本気になって夫の心を繋ぎ止めようとし…というように、二人の女性の間で揺れ動くカンバーバッチといった内容。

タイトルの『パレーズ・エンド』のパレードというのは、最初に“信じる者と果たすべき義務を止めるわけにはいかない”というナレーションから、結婚生活や子供との生活のことかと思った。エンドということは離婚をしてヴァレンタインを選ぶのだろうと思っていた。
途中で戦争の話になり、兵士の行進している姿が映ることから、“パレーズ・エンド”は戦争が終わることもさしているのかもしれない。

シルヴィアを演じるレベッカ・ホールが最初に上半身のヌードを見せて少しぎょっとしてしまった。どんな時間帯で放映されたドラマなのかわからないけれど、イギリスやアメリカはオッケーなんですね。
最後の方でヴァレンタインを演じるアデレイド・クレメンスの裸も出てきた。しかも、クリストファーと結ばれる夢を見ているシーンで、夢のシーンの裸なんてあってもなくてもいいようなものだと思うけどなんなんだろうと思っていたら、そのあとで、夢が現実になるシーンがあった。
現実シーンはわりとしっかりした絡みというか、ベネディクト・カンバーバッチがおっぱいに直に触っていた。これはかなり最後のほうのシーンなのですが、それを見て、すべて合点がいったというか、納得してしまった。
これってハーレクインだ…。

女性の裸も、男性向けのサービスシーンではなくて、女性向けだったのだ。ヴァレンタインを自分と重ねて見て、自分に触れるベネディクト・カンバーバッチを想像するためのドラマだった。綺麗な奥さんがいても、諦めなければ最後には自分の元に彼は来てくれる。そんな夢を見させてくれる作品なのだ。

ベネディクト・カンバーバッチは日本でもベネ様などと言われていたけれど、イギリスでも王子様なのだ。しかも本作では金髪である。軍服姿も凛々しい。

二人の女性と戦争に翻弄されるベネディクト・カンバーバッチを見よというドラマだった。気弱だけれど、どこまでもいい人で、描かれ方がまるでアイドルのようだった。

その一方で、戦争の描き方はやや薄く感じた。
被弾するシーンではカンバーバッチが宙に舞い、笑わせるために作ったシーンではないことはわかるけれど、どこか滑稽に見えてしまった。もしかしたら、去年のアカデミー賞のフォトボムを思い出したのかもしれない。ドラマの作り方のせいではないのかも。

ヴァレンタイン目線で見れば確かにハッピーエンドだけれど、個人的にはシルヴィアのほうが好きだった。最初の方の男遊び具合はひどいけれど、途中から焦って必死になってしまう様子や、意地っ張りで嘘つきな性格も可愛く見えてきた。けれど、振り向いてもらうために、強硬すぎる手段に出たのが別れを決定的にしてしまったと思う。
大切にしていた木を勝手に切られたら、それは怒る。取り返しがつかない事をしてしまったら、取り返しのつかない事態を招くのは当たり前のことなのだ。
怒ったクリストファーが切られた木を新居へ持って帰るが、もうすべて忘れるためなのか、それを暖炉にくべるラストは良かった。過去を断ち切って、新しい日々が始まる。清々しい気持ちになった。




クリント・イーストウッド監督作品。実在の伝説的な狙撃手を描く実話。どの程度実話なのかわからなかったんですが、ご本人の回顧録を原作にしているので、おそらくほとんど実話なのだと思う。

以下、ネタバレです。







4回のイラクへの派遣と戦闘の様子が映画の中心になっていながらも、その合間の日常に帰って来た時の様子も描かれている。
狙撃兵のクリス・カイルは伝説とか英雄などと呼ばれていて、腕は確かなこともあるのかもしれないが、次第に日常との齟齬を感じているように見え、戦闘地域のほうが生き生きとしていたようだった。また、友人や他の兵士を自分が救わなくては、という使命感にも燃えていたようだった。

兵士がむしろ戦争にひかれてしまう様子は少し前だと『ハート・ロッカー』でも描かれていた。あの映画も優秀な爆弾処理班の班長が主人公で、スーパーマーケットのシリアル売り場で呆然とするシーンが印象的だった。
映画は主人公が戦場へ戻っていくシーンで終わる。俺の生きる場所はここだとでもいうべき背中が印象的だった。流れるミニストリーも合っていた。

『アメリカン・スナイパー』では、クリス・カイルの弟も戦地へかり出されている。ちゃんとは描かれないけれど、小さい頃に弱虫だったことから考えてもあまり戦闘が得意ではないはずだ。彼は戦争なんてくそくらえというようなことを言っていたし、正常な立場の人間として描かれていたのだと思う。やはり、戦場に惹かれてしまうというのは間違っている、“戦争は麻薬である”といっても断ち切らなければならないという監督からのメッセージにも思えた。

『ハート・ロッカー』は戦争に向かうシーンで終わるので、映画を観終わっても自分もなかなか日常へ帰って来られなかった。
『アメリカン・スナイパー』での戦闘シーンでは臨場感のある突入シーンも多くて、キャスリン・ビグロー作品ばかりですが、『ゼロ・ダーク・サーティ』の最後の突入シーンも思い出した。あの映画も観終わっても、なかなか感覚が戻って来ないようだった。

しかし、『アメリカン・スナイパー』では観終わってもふわふわした感じにならなかったのは、クリス・カイルがちゃんと戦争から帰って来たからだと思う。もう戦争は嫌だという気持ちになり、妻子と一緒の日常生活の中へ戻って来たシーンもわりと長めに入っていた。

戦闘はリアリティのあるものだったけれど、後半は少しドラマティックというかお話っぽく、エンターテイメント寄りになっていた。友人の敵討ちをするシーンでは遠く離れた相手に弾が当たるか当たらないかというところでスローになったり、撤退シーンで砂嵐が来たり。砂嵐のせいで画面がよく見えず、撤退できたのかできてないのかがわからなくてハラハラした。

実話なのでネタバレも何もないんですが、ABCニュースやCNNだと行われていた裁判の模様も流していて、せっかく映画を観るし結果を知りたくなかったので、この話題が始まったらTVを消すようにしていた。
ただ、裁判はどうやら妻がおこしたものだということと、クリス・カイル自身は出ていなかったので、死んでしまったか逮捕されているかどちらかだとは思っていた。戦地で亡くなったか、帰って来てもPTSDで自殺をしてしまったか、PTSDで不安定になり誰かを殺してしまったか。

結局は逆で、PTSDの退役軍人に射殺されてしまうという一番やりきれない結果になってしまった。戦場から戻って来た兵士の多数がPTSDになってしまうというが、クリス・カイルも映画を観る限りだと少し正常ではなくなっていた部分もあったようだった。でも、そこから回復していたのに。そして、同じ退役軍人の助けをしていたというのは、精神力の強さがうかがえるし、尊敬すらしてしまう。

もちろん、撃った犯人が悪いことには違いない。ただ、戦争に行ってなかったらどうなっていただろうと考えると、本当にやりきれない気持ちになる。
ちょうど映画を観た日に、終身刑の判決が出た。陪審員7人中3人は死刑でもいいのではないかと言っていた。アメリカではこの映画が裁判の行方に影響を与えたのではとの意見もあるらしい。

私はこの事件を知らなかったけれど、たぶん、アメリカでは相当有名な事件だったはずで、アメリカの人たちは結果を知った上で観ていたのだと思う。
射殺されてしまう日が描かれる時、スクリーンに日付のテロップが出るため、知っていたらここでまず気づくのだろう。
そしてクリス・カイルが兵士と射撃場に出かけるシーンまでしか映画では描かれない。その後、画面が暗転して、文字のみで射殺の事実が知らされるだけだったのがより衝撃的だった。
撃たれるシーンを入れないのは、みんな知っていることだろうし、英雄が殺される姿をわざわざラストに入れることはないということかと思ったが、お子さんに配慮してのことらしい。また、事件が起きたのが2013年2月と最近なので、詳しいこともわからなかったのではないかと思う。
亡くなる前に映画化の話が出ていたというのも更にやりきれない。

映画ではそのあと、追悼パレードの様子がおそらく実際の映像で流される。彼がいかに愛されていたかがよくわかった。
そして、そのあとのエンドロールが無音というのもまた、どうしてこうなってしまったのだろうと考える時間を与えてもらったようにも思えた。

クリス・カイルを演じたのはブラッドリー・クーパー。鍛えたせいなのか首がだいぶ太くなり、顔も太って見えた。軍人の体を作ったのだろう。いつものイケメンとは少し違っていた。

クリス・カイルの妻、タヤを演じたのはシエナ・ミラーなんですが、実際のタヤさんのアカデミー賞参列時のドレス姿が女優さんかと思うくらい綺麗だったのも印象的。
あと、エンドロールを見ていたら、TAYA'S THEMAという曲があって、作ったのがクリント・イーストウッド監督だったようです。

予告で、「間違えたらコトだぞ」というセリフがあって、字幕が戸田奈津子さんでは?と話題になっていたけれど、本編だと「間違えたら軍刑務所行きだぞ」になっていた。字幕は松浦美奈さんでした。予告編だと字幕の文字数制限がより厳しくなるんだろうか。
あと、予告の緊迫した場面が本当に序盤にでてきたのはびっくりした。クライマックスにも見えるけれど、最初の射撃のシーンだった。最初からクライマックスである。

2009年、BBC製作のテレビドラマ。93分ずつの前後編。
ベネディクト・カンバーバッチ特集として放映されていたけれど、ベネティクト・カンバーバッチの出番はそれほど多くありません。でも、ナオミ・ハリスやデヴィッド・オイェロウォなど、映画で活躍している俳優さんが出演している。
マイケルを演じたアシュリー・ウォルターズは『Tu£sday(邦題:バンクジャック 襲撃の火曜日)』で、ジョン・シムと共演していた。

どこか因縁めいた群像劇のような作品だったので、主役を一人には決めづらいけれど、一番中心となっているクイーニーを演じているのはルース・ウィルソン。あまり名前は聞いた事がなかったのですが、『ウォルト・ディズニーの約束』のお母さん役の方だった。2007年のドラマ版『ジェーン・エア』のジェーン・エア役や、『ローン・レンジャー』にも出演していた。

元々小説があって、それを原作としたドラマらしい。
舞台は1940年代のロンドン。クイーニーの夫のバーナード(ベネディクト・カンバーバッチ)は戦争に行って帰って来ない。クイーニーは義父と暮らす家を下宿としてあけていて、そこにジャマイカからイギリスの空軍に入ったマイケル(アシュリー・ウォルターズ)がやってくる。マイケルにひかれたクイーニーは関係を持ってしまう。

空襲が激しくなり、クイーニーは義父と一緒にヨークシャーへ疎開する。そこでマイケルに似たギルバート(デヴィッド・オイェロウォ)に会う。二人は親しくなるが、ギルバートが人種差別により攻撃された時に、義父が巻き添えになり、殺されてしまう。

戦争後、ギルバートはジャマイカに戻るが、仕事を求めて再びイギリスに行きたいと願う。恋人に一緒に行くのを誘うが、彼女には病気の母親がいた。
彼女の友人、ホーテンス(ナオミ・ハリス)は、元々マイケルと一緒にイギリスに行く事を夢見ていたが、戦争から帰って来ないため、せめてイギリスに行く夢だけでも叶えたいと思い、ギルバートと結婚をすることを望む。

ここまでが前半で、人物関係が少し複雑。ホーテンスとクイーニーは二人ともマイケルのことが好きなんですが、お互いのことは知らない。クイーニーには夫がいるけれど、生きているか死んでいるか、戻ってくるかわからない。また、クイーニーとマイケルは人種の問題もある。
時代が時代なだけに、二人が歩いているだけで悪い事を言われる。後半でも、イギリスに来たギルバートとホーテンスが仕事の面で苦労をしていた。
「こちらが母国を思っていても、母国は知らん顔だ」というイギリス批判が印象的だった。人種差別というとアメリカの映画やドラマのイメージだったけれど、イギリスでもこんなことがあったのだ。憧れの地と思って渡って来た移民の方々はさぞショックだったろう。このドラマでも、特にホーテンスが国に失望していく様子は悲しかった。

後半、イギリスに来たギルバートとホーテンスはクイーニーの下宿で暮らす事になる。最初はホーテンスもギルバートをイギリスに来るために利用して、政略的に結婚しただけだったけれど、仕事面などで白人のイギリス人から迫害されるうち、ギルバートの優しさに気づいていく。
そんな中、戦争から突然夫のバーナードが帰ってくる。クイーニーにとってはもう忘れた人だし、おなかにはマイケルとの間の子供がいた。バーナードは帰還兵特有のPTSD気味になっていて、かわいそうといえばかわいそうである。家に下宿している二人も追い出そうとしていた。他の白人イギリス人がそうであるように、彼も人種差別主義者だった。

クイーニーに赤ちゃんが産まれ、妊娠していることすら知らなかったバーナードはその肌の色を見て驚く。それでも、「君の子だから育てたい」と言っていたが、クイーニーは世間の状況や夫の子ではないことが見た目でもわかってしまうことなどを鑑みて、苦渋の決断をして、子供をギルバートとホーテンスに渡し、育ててもらう事にする。

戦争や人種差別など、その時代ならではの事象が反映されて、より重厚で複雑な人間ドラマになっていた。ただ単に、あなたが好きというだけでは済まされない。

最後、ナレーターがマイケルであることが明らかになり、マイケルの元にクイーニーの子供が渡っていたようだけれど、わかりづらかった。マイケルはクイーニーとの間に子供ができたことを知らないまま、カナダへと行ってしまったようだった。
それでも、ギルバートとホーテンスとは知り合いだし、クイーニーの写真もあったから、マイケルが気づいたのだろうか。その上で、マイケルはクイーニーにはもう連絡はとらなかったのだろう。
カナダに行くときにマイケルが誘うか、クイーニーが私も連れて行ってと言うかすればうまくいったのかもしれない。けれど、マイケルの性格的に一人で行きたそうだったし、クイーニーも故郷と家を捨てるのに躊躇したのだろう。おそらく、バーナードのことも気にはかかっていたのだろうし。そう思うと、どうしたってうまくはいかなかったのかもしれない。

ベネディクト・カンバーバッチは、もしかしたら『つぐない』以来の酷い男の役だったりするのかとも思った。明らかに自分の子ではない赤ちゃんに手を触れた時に、精神的に不安定なようだったので、どうにかするのではないかと思ってしまったけれど、優しくさみしそうに笑っただけだった。帰って来られなかった理由も、一度の過ちで梅毒をうつされたと恥じただけだった。結局は弱くて、優しい男だった。


映画の感想ではありません。

トーキョー女子映画部様の新宿ピカデリー・アンバサダー企画に参加させていただきました。コンセッション“PICCADILLY CAFÉ”がリニューアルオープンということで、新メニューを試食してきました。

チョコブラウニーピッツァ 400円
ピッツァといっても、見た目はクレープに近いです。生地はクレープよりは厚く歯ごたえがあった。中にブラウニーとマシュマロが包まれています。頂いたものは切ってあるものだったので、中身と生地を一緒に食べるのが少し大変だったのですが、切ってなければ片手で食べられるかもしれない。

トリプルチョコディップチュリトス 450円
ココアシュガーをまぶしたチョコチュリトスをチョコソースに付けて食べるということでトリプル。フランスのMONINというシロップを出している会社のダークチョコレートソースが、濃いけれどそれほど甘くないのがいい。ココアシュガーが指に付くので、お手拭きを付けてもらうか、紙で巻いて食べるかしたい。

国産チキンナゲット 350円
ケチャップとマスタードが付いている。5個350円だと某ファーストフードと比べてしまうと少し高く感じるけれど、そこは国産ということで。粗挽きなので、より鶏っぽくもある。今回試食させていただいた中でこれだけが甘くないものだったので、全体的なメニューを見てももしかしたら少ないのかもしれない。甘いものは食べたくないけど何かつまみたい時に。

黒豆ぐらっせ 350円
北海道産黒豆使用とのこと。今回いただいた中で、個人的にはこれが一番おすすめ。映画館で食べる時に大事なのは、手元を見ずに食べられること、暗い中でも食べやすいこと、音やにおいがしないことなどだと思うけれど、それらすべてを満たしていると思った。味も甘すぎず、豆だけれどぱさぱさせずしっとりしていた。ラム酒の香り付きとのことでしたが、お酒っぽいわけではなくほのかでそれも上品でおいしかった。

カフェモカ 450円
こちらにもフランスMONIN社のダークチョコレートソース使用。ディップで食べても思ったけれど、甘過ぎないのがいい。甘い食べ物と一緒に飲んでもしつこくならない。


映画館というと、ポップコーンやホットドックくらいなものかと思っていたけれど、こんなにオリジナル商品をたくさん出しているとは思わなかった(黒豆ぐらっせはパッケージ商品なのでオリジナルではないのかも?)。普段、映画館のコンセッションをあまり利用していないのですが、どれもこれもおいしかったので、今度自分でも買ってみたいです。

1996年に起きた事件を題材にした作品。監督は『マネーボール』『カポーティ』のベネット・ミラー。二作品とも実話を元にしているし、ドキュメンタリーの監督もしているので得意な分野なのかもしれない。

以下、ネタバレです。







要は三角関係のもつれから起こった殺人事件のようだった。
できた兄とそれを羨む弟。弟に目を付けた富豪。富豪は弟に飽きて、兄にも手を出す。兄はなびかず弟一筋。富豪は気に食わず兄を殺す。
簡単に言ってしまえばそんなストーリーだった。富豪のワガママと面倒でやっかいな歪んだ性格ゆえに起こった殺人事件だと思うけれど、これがひたすら濃厚に、濃密に、ドロドロと描かれている。
その辺は題材がレスリングであるところと、兄のデイヴ・シュルツを演じるマーク・ラファロの容貌を見てもわかると思う。
少し前に『はじまりのうた』を観たばかりですが、あまりにも違う。マーク・ラファロが出ていると知らなかったら気づかなかったかもしれない。ただ、滲み出る色気は隠しきれていなかった。

序盤でチャニング・テイタム演じる弟のマーク・シュルツと兄のデイヴがレスリングのトレーニングをするシーンがあるんですが、組み伏せているだけでどうしても性的に見えてしまう。

この時に組み伏せられたマークが苦悶の表情を浮かべていたのは、どうしても兄に勝てないのを感じてのことだと思う。講演会でも、どうやらデイヴのほうが名前が知られているらしかった。兄には妻子がいるのに、マークは一人きり。
しかも、貧しい生活をしているのがセリフは無いけれど描写でわかった。講演会で小銭を得てもハンバーガー、普段はインスタント麺にケチャップか何かを足して食べているようだった。また、ジャージのズボンがちゃんと腰まで履けていなくて、パンツが少し見えてしまっていた。おそらく彼女すら長い間いない。一人きりの孤独な生活が、長期間続いていそうだった。
多分、幼い頃に親を亡くしていて兄が親代わりだと言っていたから、普通の兄弟以上の愛情を持っていて、けれど、すべてを持っているデイヴが憎らしくもあったのではないかと思う。
最初の方の、あまり喋らず、一見朴訥にも見えるけれど、奥底で愛憎渦巻いているマークの様子を演じたチャニング・テイタムがうまい。ぬぼーっとしているだけですべてが伝わってきた。

そんな行き詰まりを感じる日々の中で、急に大富豪であるジョン・デュポンに声をかけられたら、あやしいと思ってもついていってしまうのは仕方が無い。今より悪くなる事はないだろうと思うし、何より兄ではなく自分を選んでくれたというのが嬉しかったのだろう。

デイヴは止めていたし、観ている私も何か酷い目に遭う予感はしていた。そんなうまい話があるものかと思った。けれど、マークの立場になったら、そうせざるを得ないだろう。まるで、拾われた野良犬のようだった。

この先しばらくはマークとデュポンの蜜月というか、すべてがうまくいっていた。良い状態でトレーニングをすれば、マークも試合に勝てる。勝てばデュポンは喜ぶし、デュポンに褒められたらマークも嬉しい。
ただ、いい関係に見えたが、パーティーでのマークの演説原稿をすべてデュポンが書くなど、どうやらデュポンは自分の思い通りになる人間が欲しいだけのようだった。

デュポンは金持ちだから性格が歪んでしまったのかと思ったけれど、どうも親子関係に問題があってのことのようだった。結局は母親に褒めてもらいたいという、ただそれだけのように見えた。
マークをレスリングで勝たせる事でアメリカ国家を云々と言っていたが、そんな大それたことではなく、ただ、身近な人物に「偉いわね」と言ってもらいたかっただけなのではないだろうか。きっと、ただ、それだけなのだ。さみしかっただけなのだ。
だから、マークに「デュポンさんはまるで父親のようで」などという原稿を読ませたし、マークがどう思っていたのかはわからないけれど、デュポンは疑似親子だと思っていたのだろう。

ただ、デュポンに影響されたのか、マークが放蕩三昧になってしまい、勝てなくなってしまう。ここで、チャニング・テイタムが髪を染めるのですが、そうするとそれなりに恰好良く見えてしまったのもさすがだと思った。
勝てなければ、デュポンも功績をあげられない。功績をあげなければ、母親に褒められない。勝てるためにはどうしたらいいかと考えたデュポンは、兄のデイヴに声をかける。もう、マークの気持ちは何も考えていない。

マークはもちろんおもしろくない。結局、また兄の方が認められて、自分は捨てられる。こうなると、デュポンもデイヴも信じられなくなって、再び一人の殻に閉じこもるんですが、デイヴだけはずっと、最初からずっとマークのことを信じてるんですよね。なので、この場面でも、必死でマークの心を開こうと、マークを試合で勝たせようとする。だから、マークも兄のデイヴの方を向いていく。

もうデュポンは本当におもしろくない。デイヴを手元に置いても、休みの日にはデイヴは家族を大切にするから遊んでくれない。マークは夜中におしかけても、絵画室でのトレーニングという少し異常な行為にも応じてくれた。
おそらくここで、デュポンの中では、大事だったマークを連れ去ったデイヴは悪みたいな自分勝手な変換も行われていたと思うんですよね。だったら、マークをもっと大事にすれば良かったのに、そうもしなかったのは自分なのに。
マークがデュポンを尊敬していた時間も確かにあったとは思うのだ。そこから捨てられたから、恨みもまた倍増だったのだと思う。デュポンはマークの気持ちの変化がわからなかった。
そして、自分に従わないデイヴの気持ちもわからなかった。マークがたまたま孤独だったからついてきただけなのに。誰でもが自分の思い通りになるわけではない。

けれど、やっぱり自分の思い通りにしたかったので、撃った。

現実の話はわからないけれど、映画を観る限り、三人の心の動きはよくわかった。何故マークがデュポンについていったのか、何故デイヴはデュポンに従わなかったのか、何故デュポンはデイヴを撃ったのか。
密着するようにして、心の動きを生々しくとらえていく。そして、レスリングのトレーニングシーンと試合シーンの撮影の仕方も、近いせいか、汗や裸体のとらえかたが生々しい。

最後、マークがレスラーとして歓声を浴びているシーンで、何故か涙が出てしまった。やっぱり一人きりになってしまったからだろうか。好きでやっているようには見えなかったからだろうか。やっと脚光を浴びられたからだろうか。

デュポンは全体的に憎々しく不穏なんですが、演じているのはスティーヴ・カレル。コメディ寄りの役ばかり見ていたので、この役は驚いた。横向きのショットが多く、そうすると鼻の大きさが目立つ。権力や自己顕示欲の象徴のようにも見えた。