『ローン・サバイバー』、『バーニング・オーシャン』に続くピーター・バーグ監督&マーク・ウォールバーグ主演の実話もの。今回はボストンマラソンの爆弾テロ事件を扱っている。

この二作の実話ものは観ていないので評判はいいけれど出来自体を確かめていないのと、マーク・ウォールバーグが険しい顔で銃を持って警戒しているポスターから、アクション映画なのかと思っていた。
音楽がトレント・レズナー&アッティカス・ロスだったからでなければ観ないつもりの作品だった。
これが大傑作であり、本当に観て良かったと思う。逃すところだった。

アクション映画ではなくほぼドキュメンタリーだった。実際の映像も多く使われている。私はBS世界のドキュメンタリーっぽいと思ったけれど、他にもまる見えとかアンビリバボーなどとも言われているようだ。
最近公開された中だと『ハドソン川の奇跡』にもテイストが似ていると思う。

映画を観たあとで事件のあらましを確認したところ、かなり忠実なようである。

事件は2013年と最近だし、センセーショナルだったので記憶も新しい。犯人も背負ったリュックを置いたとか圧力鍋とかくらいは知っている。だから、犯人探しの映画だったら退屈だと思った。
けれど、犯人は最初に出てくるし、企んでいる場面も少し出てくるから誰なのかはわかる作りになっている。
警察やFBIが追いつめる過程も描かれているが、もちろんそれらも緊迫感があるのだが、それだけではない。

警察やFBIの中の人々にもスポットが当てられているが、それ以外にも被害者、ボストンの町の人々、MITの学生など、個人個人がつぶさに、丁寧に描かれる。
登場人物が多い、群像劇とも言える形がとられている。

以下、ネタバレです。
ネタバレといっても、事件を知っているならばその通りです。









まず最初にテロ事件の起こる前夜が描かれる。
それぞれの普通の夜だ。仕事から遅い時間に帰ってきてワインとピザを食べる。「明日はパトリオット・デイ(愛国者の日)だからマラソンを見に行くか野球を見に行くかしよう」と話している。
普通の人々の普通の生活である。
場面が変わっても静かで穏やかな音楽が流れ続け、人々の平和な生活がすべてひとまとめに繋がっているのがわかった。まだ事件は起こっていない、平和な日常。

そのまま静かに夜があける。
マラソン大会で爆発が起こることはわかっているからひやひやして観ていた。ただ、映画内の人たちは爆発が起こるなんて知らないし、マラソン大会を楽しんでいる。いつの間にか私もそちら側に感情移入していたようで、完全に油断するタイミングで爆発が起こったので、かまえてたはずなのに驚いてしまった。なぜ気を抜いていたのだろう。もしかしたらここでも日常の穏やかな音楽が流れていたのかもしれない。

爆発で人々の日常が一気に崩れる。
事件を知らないでマラソンを続けてる人が走って突進してきたり、ちぎれた肉片を見てあれなに?とパニックに陥る人がいたり。
前夜の様子やマラソンを楽しむ親子の様子が描写されていたため、被害者の顔がちゃんと見えてくる。
本当に普通の人々が巻きこまれたのがわかる。

何をしたわけでもないのに急に巻きこまれる様子は、なんとなく事件というより自然災害のような印象を受けた。
また、一緒にいた家族が混乱の中で離れ離れになってしまう様子からも『インポッシブル』を思い出した。
ひとごとではない、自分と重ね合わせられて、自分がその場にいるのが容易に想像できるので、怖くて涙が出てくる。

ただ、いくら急に降りかかってくる悪夢というのは同じでも、今回は自然災害ではない。人が起こしたことだ。防ぐことはできる。

序盤に出てきて、マラソン大会の現場にいない人物については、どのように事件に関係があるのだろうと思いながら観ていた。
登場人物の多い群像劇だが、それだけ多くの人が一つの事件で影響を受けたのだ。

MIT POLICEとパトカーに書いてあったので、MITにもなると専用の警察が常駐してるのかとも思ったけれども、どうやら警備員的な役割らしい若者。彼は、MITの学生をデートに誘い、寮のような場所で仲間とはしゃいでいた。
彼も普通の男の子である。しかし、テロの犯人に銃を奪われ、殺されてしまった。なんと理不尽なのだろう。
このようなマラソン大会の爆発以外の事件にまつわる犠牲者が出ていたのは知らなかったが実話だった。

犯人の友達のMITの学生も出てくる。犯人が防犯カメラに映った画像を見た彼らが犯人に「お前か?」とメールを送る。はっきりとは肯定されなくても確信し、けれど、特に通報などはせずにいつも通りに暮らしていたけれど、警察にメールのやりとりをしたことが見つかり、ゲームで遊んでいたところに突入される。
彼らも実在したらしいのだが、捜査妨害で刑務所行きになっていてはっとした。
なんとなく、そんなに重大なことだと思わなかったけどよく考えればそりゃそうだ。たぶん、実際の彼らも重大なことだと思ってなかったのだと思う。隠蔽という自覚もなかったのではないか。

中国人のビジネスマンのような男性は国に両親を残しながら、アメリカで成功しようとしていた。お金ももっているらしく、女の子にモテるという理由でベンツに乗っていた。この人もマラソン大会の現場にはいなかったのだが、犯人に車ごと拉致されてしまう。
間一髪逃げ出して通報するが、これが犯人を追い詰める決め手になったようだ。
逃げ出す前に音がぐわっと大きくなり、逃げ出すシーンで緊迫した曲に変わるのは、少しベタな気もしたので、もしかしたら映画だけの演出なのかと思ったがこれも実話。知らなかった。

またこの後で、かなり大規模な町中での銃撃戦があるが、これも実話とのこと。アメリカ、危険すぎる。家にはこんな時用なのか、シェルターもあるようです。住民がハンマーを投げて「これを投げて!」というのはおもしろかった。

ここまでほとんどずっと音楽が流れていたけれど、銃撃戦のシーンでは無音になり、銃声だけが響いていた。
音がずっと流れているのも緊迫感が持続するのに役立っていたと思うが、流れていた音楽が急に止まって無音になるのもそれはそれで緊迫する。
音の作り方もうまいけれど、緩急のつけ方というか、ここぞというときに音楽を止めることで効果を最大限に発揮できるのもうまい。
そこまで主張するわけではなく、意識して聴いていないとずっと流れていることに気づかないような、ふわーっとした音楽なのだ。私はトレント&アッティカスということで、意識して音楽を聴いていました。

もう一つ、緊迫感のあるシーンは犯人の妻を尋問するシーンである。何者だか、作中での言及はないけれどFBIからも一目置かれていた。急に声が低くなるなど、凄みをきかせていた。しかし、妻はイスラム教徒であり女性だから夫を裏切れないということでかたくなな姿勢を崩さない。結局尋問官が根負けしたのか、気持ちを察したのか折れることになる。
犯人の妻役にメリッサ・ブノワ。スーパーガールのイメージが強かったのですが、だいぶ違っていて驚いた。

他にもJ・K・シモンズやケヴィン・ベーコン、ジョン・グッドマンなど有名な役者さんが出ているが、どの人も個を殺しているというか、全体の一部になっているように感じた。
あとで確認してみたところ、実在の人物にかなり似せているのがわかった。

途中ではさまれるオバマ元大統領の演説がはさまれた。これは役者さんではなく、実際の映像だったが、訴えかけてくるものが大きく、その力強さに涙が出た。

最後にも実際の映像が流れる。地元の野球チーム、レッドソックスがユニフォームにチーム名ではなくBOSTONとつけて試合をし、オルティーズが挨拶をしていた。
そして、警察を呼び、球場からは拍手が起こっていた。

現場にいて、命は助かったものの足を失った男性は、再開したボストンマラソンに参加し、完走していた。爆発した時に現場にいたのだから、怖さもあっただろう。何より、片足がない中で、走る練習をするのも辛かったと思う。
それでも、決して負けないという姿を見せた。

パトリオット・デイに起きたテロだから映画はこのタイトルだけれど、それだけではなく、愛国者の日というそのままの意味も含まれていたのだと思う。
もちろんテロなど起きない方がいいし、許せないけれど、それをきっかけに結束が強まった。

ひどい事件をひどく描くサスペンスではなく、それをきっかけに、人々の決して負けないという強さや、なんとしても犯人をつかまえるという正義が描かれていた。
青臭くてもなんでも、それ以上正しいことなんてないだろう。

日本のポスターだとアクションサスペンス調だったけれど、海外版のポスターは靴紐の色合いでアメリカ国旗が作られているというものだった。一人の靴紐なら二本だけだけれど、このポスターからは複数の人の気持ちが見えてくる。素晴らしいデザインと思う。

(画像はサントラCD)






原作はイギリスのベストセラー小説『A Monster Calls』。一応ジュブナイルもののようです。
原案シヴォーン・ダウド、原作パトリック・ネスとなっているのは、シヴォーン・ダウドが乳がんで執筆途中に亡くなっており、パトリック・ネスがそれを引き継いだとのこと。
監督は『永遠のこどもたち』『インポッシブル』のJ・A・バヨナ。

以下、ネタバレです。








最初にフェリシティ・ジョーンズとシガニー・ウィーバーの名前が出て、フェリシティが姉かな?と思ったら、母親役だった。でも。若い母親という役どころだったのでいいらしい。

家にいる母親は病気で、学校ではいじめられて…ということで、主人公コナーには心を落ち着ける場所がない。彼は空想するのが好きなようだった。だから、怪物が出てくるということを聞いても、彼の空想上のものなのだろうと思っていた。白昼夢か実際の夢なのかはわからないけれど、実在しない、彼の心の中だけにいるその怪物の力を借りて、いじめっこに復讐をしたり、つらい現実を乗り切るのだろうと思っていた。

怪物というと悪い奴のイメージだけれど、映画に出てくる怪物は直接被害は加えない。姿形は恐ろしいし、威圧的ではあるけれど。大きな木が動き出したものである。
彼は三つの話をするから、最後にお前が物語を話せという。この望みもなかなか特殊だと思う。

怪物の話す物語は、アニメというかCGというか、実写ではなくなっておもしろい。もしかしたら、本作はほぼ怪物の話すストーリーでできていて、半分はアニメだったりするのかなとも思ったけれど、そうではなかった。

怪物のボイスのキャストがリーアム・ニーソンなんですが、彼の声がとてもいい。物語を話す口調が落ち着いていて、包み込むようで。コナーも怪物の話に「なぜ?」などと相槌を打っていて、夢中で聞いているようだった。もしかしたら、唯一落ち着ける場所を見つけたのかもしれない。
母親も病気だったし、誰かから読み聞かせてもらうことも初めてだったのかもしれない。

怪物の話す物語は、そのアニメイラストも相まって幻想的だったが、内容は考えさせられるものだった。誰が悪いかは一概に言えないもの、矛盾しているようでも世界はそうゆうものだと思わされるもの。
一般的なジュブナイル文学がそうであるように、少年は物語を聞いて、その上体感して、ひとまわり成長したようだった。

そして四つ目のコナーが話す物語である。心の奥底は悪夢となって現れていたようだ。コナーは悪夢の内容を話す。自分と向き合って、本当に思っていたことを認める。
本当は母親が長くは生きられないことがわかっていて、その日を待つのがつらいから、夢の中では母の手を離してしまった。殺したのは自分だと。
実際に殺したわけではもちろんないけれど、夢の中での行為が現実に影響を与えると思っていたようだし、手を離したいと一瞬でも考えてしまったことをずっと後悔しているようだった。

だから、父親にも祖母にも友達にも先生にも罰せられるのが当然だと思っていたし、罰してほしかったのだろう。罰せられることで、何か赦されると思っていたのかもしれない。

けれど、ずっとそんなことを考えてしまったことで悩んで、心の奥底にしまっておくよりも、逃げずにいっそ吐き出して、認めてしまった方が楽にはなるし、死を受け止める覚悟もできる。

結局、怪物ってなんだったの?というのは明らかにはされない。少年を成長させるために、少年が作り出した空想の産物? つらい現実を乗り切るためのシェルター? もちろんその一面もあるのだとは思うが、エピローグを見ていると、もっと不思議な事実がありそうだった。

はっきりとは示されないし、ここからは私の想像でしかない。ちょっと気になったのは、コナーの祖父は写真でしか出てこないけれど、これがリーアム・ニーソンなんですよね。写真はちらっとしか出ないし、ただ単に、怪物の声がリーアム・ニーソンだから姿もちょっとだけ見せちゃうよ、というファン向けサービス精神なのかもしれない。けれど、考えすぎなのかもしれないけれど、祖父がリーアム・ニーソンというのがヒントであるとしたら。

祖父…、病気のコナーの母親の父ですが、彼もはやくに亡くなっているようだった。コナーが幼い頃のビデオには、祖母向けのメッセージしかなかったので、もしかしたらコナーが生まれる前に亡くなっているのかもしれない。

コナーの母親は美大に行くのを諦めてコナーを産んだらしいので、その前に亡くなっているとなると、もしかしたら十代で父親を亡くしたのかも。
コナーが母親を亡くすのが13歳。母親も同じ年齢のあたりで父親を亡くしていて、コナーとまったく同じ気持ちになったことが考えられる。

コナーの母親は美大には行けなかったけれど、水彩画が好きで、コナーにも教えていた。ラスト付近では、彼女の昔のスケッチブックが出てくるが、そこには怪物が話してくれた物語に出てきた王妃や、調合師が描かれている。
ここで、コナーが最初に怪物に目を覆われた時に、水彩画が見えると言ったことや、怪物の話す物語が実写ではなくアニメ調だった理由もわかった。

ということは、怪物はコナーの空想の産物ではなく、もっと不思議な力が働いていたのだろう。それか、小さい頃に母親から読み聞かせてもらった物語をコナーがすっかり忘れてしまっていたのかもしれない。

コナーの母親は父(コナーの祖父)と仲が良さそうだった。写真でも、まだ小さい母親が父親に抱きついていたし、父から譲り受けた『キングコング』をコナーと一緒に観ていた。『キングコング』はイラストもスケッチブックに描いてあった。

そして、スケッチブックには、小さい女の子とあの怪物が一緒に描かれている。女の子は怪物の肩に座っていて、仲が良さそうだった。女の子はコナーの母親だろう。祖父役がリーアム・ニーソン、怪物の声がリーアム・ニーソンということは、怪物は祖父なのではないだろうか。

だから、もしかしたら、コナーが忘れてしまった、かつて母親に聞いた物語は、母親が父親(コナーの祖父)から聞いた物語だったのかもしれない。それを聞いて、スケッチブックにイラストを描いたのかもしれない。
祖父役なのは本当にカメオで、リーアム・ニーソンが一致しているのは関係なく、イラストもストーリーも母親作の可能性もある。
原案のシヴォーン・ダウドが作家であることを考えると、彼女の自伝的な意味合いもこめられた作品でもあるなら母親作だろうか。

母親は亡くなる前にコナーに「100年一緒にいられたらいいのに」と言っていた。病気でなくてもそれは無理な話だ。でも、物語を受け継いでいくことで、もしかしたらそれは可能になるのかもしれない。





マイク・ミルズ監督。脚本もマイク・ミルズで、アカデミー賞脚本賞にノミネートされた。
1979年のサンタバーバラが舞台。
実際に観ないとわからないような、不思議な雰囲気のある作品だった。

以下、ネタバレです。








ルームシェアと言ってしまえば簡単なんだけれど、もっと複雑で、でも実在しそうなキャラクターたちが描かれている。

夫と別れたドロシア。息子のジェイミーは15歳で反抗期気味。父親がいないせいもあるのか、おませさんだ。幼なじみのジュリーに思いを寄せている。
ジュリーはジェイミーより少し年上で、母親がセラピストでセラピーの会に強制参加することでおそらく逆に病んでしまい、いろいろな男性と関係を持っている。けれど、ジェイミーとは親友だから肉体関係は持たないようにしている。頻繁に遊びに来ては、夜添い寝して帰っているようだった。
ドロシーの家を修理しているウィリアムは修理に便利だからなのか、なぜか一緒に住んでいる。元ヒッピーで大地がどうの、瞑想がどうのと少し胡散臭い。女性にはもてるらしい。
もう一人の居候アビーは赤い髪の毛が特徴。パンクとアートが好きなカメラマン。ニューヨークへ行っていたけれど、子宮頸がんの疑いで地元サンタバーバラへ帰ってきた。

ドロシア、ジェイミー、ジュリー、ウィリアム、アビーの五人全員が主人公とも言える内容だった。

夫と別れたドロシアはパワフルで仕事もこなすし、ジェイミーが学校に行きたくなければ自由にさせていたし、理解のあるサバサバした母親なのかと思っていた。きっと、同居のウィリアムと結婚し、新しい家族になるのだろうと思っていたが、実際の人生がそうであるように、映画内でもそううまくはいかない。
ドロシアだってサバサバしているように見えて、息子が好むような最近の音楽がわからずに知ろうとして苦労するし、一緒に住んでいるからといって、それだけの理由でウィリアムと結婚することはない。ウィリアムと話が合わないからだ。ジェイミーも同じことを思っている。

1979年の夏の短い期間だけが描かれるが、それぞれの生い立ちが軽く説明されることで、どんな人間なのかわかってくる。
それぞれが悩んでいて、その悩みは唐突に現れたものではなく、すべての流れからそりゃそうなるよね…と納得させられるものばかりだった。
だから、登場人物が本当にいる人物のように見えた。

それもそのはず、ドロシアはマイク・ミルズの母を、アビーは姉をモデルにしているそうだ。また、マイク・ミルズがそだったのもサンタバーバラらしい。ドロシアを演じたアネット・ベニングは母親が好きだった映画を鑑賞したり、アビーを演じたグレタ・ガーウィグは姉の読みそうな本を読み、聴きそうなレコードをかけ、実際に話もしたらしい。

ドロシアは1999年に亡くなる。亡くなるシーンは流さずに、ドロシアのナレーションで、“私は1999年に死ぬ”とひとごとみたいに入るのがおもしろい。死は本作ではそれほど重要ではない。
20世紀が舞台だから、ドロシアは大恐慌時代を生きた女とか言われているし、カーター大統領の演説をみんなで見ているシーンも出てくる。
その当時に流行った音楽、クラッシュやトーキング・ヘッズ、バズコックスなどが豊富に使われいるだけではなく、パンク対ニューウェイブといったような文化的な背景も使われている。ジェイミーがトーキングヘッズのTシャツを着ていると、パンク少年にバカにされたりなど、性格だけではなくて好みからも人物が立体的に浮かび上がる。おそらく、マイク・ミルズ(51歳)の好みがパンクからニューウェイブに移り変わっていった時期を参考にしているのだろう。
アビーもルー・リードとかDEVOのTシャツを着ていたが、これもマイク・ミルズの姉の好みだろうか。

個々のキャラクターが悩みを抱えながら、ドロシアの家で奇妙な関係を築いている。すごく近い関係だけれど恋愛ではない。セックスもしない。いや、する人もいるし、淡い恋心を抱いている人もいる。けれど、誰と誰がくっついてめでたしめでたしという単純な話ではなく、歯車は微妙に噛み合わない。
でも、終盤のみんなでダンスをするシーンでは一瞬だけ噛み合ったのかもしれない。
ここだけではなく、悲しくても楽しくても、踊るシーンの多い映画だった。これもパンクのクラブなどのことを考えると、時代背景もあるのかもしれない。

ドロシアは息子について悩み、別れた夫以外に誰かを好きになることができるのかと悩む。ジェイミーのジュリーに対する恋は成就されない。ジュリーも親しすぎてセックスできないというのはどうなのかと思う。アビーもがんではなかったにしても子供に希望は持て無さそうだし、アーティストとしても成功できなさそう。ウィリアムは何を考えているかわかりにくかったけれど、人と濃い関係が築けないことに悩んでいるようだった。
全員、具体的には違うけれど、漠然とした将来への不安は抱えていたし、もう全員のことが愛しくなっていたから、幸せになってほしいと思っていた。

1979年の夏のことだけ描かれているが、彼らにはこれまでの人生やこれからの人生もある。これまでのことはざっと説明されたが、終盤でちゃんとこれからの人生についても教えてくれる。
全員があっけなくバラバラになっていた。映画内で描かれた濃密に思えた時間も、人生の中では一部だというのがわかっておもしろい。

ただ、全員が幸せになったみたいで観ている私も幸せな気持ちになった。映画を見終わった後だと、サンタバーバラの海をバックに五人が並んでいるポスターが一層素敵に見える。

キャラクターがいきいきしているのは描き方のせいもあるけれど、命を吹き込んだ役者さんたちの力もある。

ドロシアを演じたアニット・ベニングはタバコをふかしながら気丈に振舞っているパワするな女性だし、笑顔も素敵だけれど悩んでいるのもわかる演技が素晴らしかった。笑った時の顔のシワも美しい。ちょっとデヴィッド・ボウイにも見えた。
ジュリー役のエル・ファニングは透明感があって、いろんな男性と関係を持っているという役柄だったがいやらしく見えない。妖精のようだった。
アビー役のグレタ・ガーウィグは『フランシス・ハ』のフランシス役だの女性だと知って驚いた。と同時になるほどと思った。どこか、心に傷を抱えているような演技が良かった。
ウィリアム役のビリー・クラダップは、内面があまり見えなくて年齢も不詳で悟りをひらいたような役で、これはこれでうまい。
ジェイミー役のルーカス・ジェイド・ズマンは撮影期間2ヶ月とは思えない、どんどん大人になっていく演技が素晴らしかった。ドラマ出演が多いらしいけれど、映画でも観る機会が増えそう。


『LOGAN/ローガン』



『X-MEN』のキャラクター、ウルヴァリンのスピンオフ作品。また、ヒュー・ジャックマンが演じるウルヴァリンの最後の作品となる。最初の『X-MEN』が2000年なので実に17年である。

監督は『ウルヴァリン:SAMURAI』のジェームズ・マンゴールド。『ウルヴァリン:SAMURAI』はあまり好きではなかったけれど、本作は素晴らしかったです。
以下、ネタバレです。



原作は『Old Man Logan』。映画を観る前に売店でこのコミックスが売っていて、表紙のローガンがタイトル通り老いて見えたが、実際の映画でも初老だった。

2029年が舞台だが、ローガンはリムジンの運転手をしているが、どうやら寝泊りもその車の中で家もないようだった。瓶から直接酒を飲み、そのまま運転をするなどかなり荒れている。
また、刺青の入った医者から薬を受け取っていた。体調も悪そうだし、荒廃しきっている。

その薬もドラッグなのではないか、ローガンはアルコール中毒でドラッグ中毒なのか?と思いながら観ていたら、それはチャールズあての薬だった。
けれど、ホッともしてられないのは、チャールズのほうこそ年老いていて、痴呆気味で力を操れない。危険だから光の射さない巨大なタンクの中に閉じ込められている。

予習のつもりで前日に『X-MEN:フューチャー&パスト』を観ていたのだが、だいぶ雰囲気が違う。二人から精気が感じられない。衰退が感じられる。それに、『フューチャー&パスト』ではほかのミュータントも多数出てきてワイワイしていた。危機を迎えていても死ぬときは一緒だというか、戦うのにも協力していた。
『X-MEN』といえば、シリーズ通してそのイメージだ。互いの得意な能力で補いながら敵をやっつける。
しかし、『ローガン』の世界ではミュータントは絶滅寸前。しかも二人とも衰退している。お手伝いとしてキャリバンもいるが、彼も早々に離脱してしまう。

キャリバンを演じたのがスティーブン・マーチャントで驚いた。ローガンは金を貯めて船を買い、海上でチャールズと暮らそうとしていたようだ。おそらく、それで静かに死んでいこうとしたのだろう。キャリバンは太陽の光に弱いため、そこにもついていけない。
また序盤で敵側に捕まってしまう。自爆でローガンたちの危機を救うけれど、ローガンたちはそれを知らない。
死んだ後も遺伝子を採取されていたようだった。もしかしたら最後にヴィランとして出てくるのかと思ったけれどそれはなかった。
スティーブン・マーチャントだし、出番としてもう一声欲しかったけれど、もう一声あったところで結局かわいそうな役どころだったと思う。

それに、かつての仲間がヴィランとして大復活というような派手なシーンは本作にはない。もちろん、キャリバンがひっそり自爆しても、仰々しくローガンを助けに来る展開もない(途中で離脱した仲間は後半で助けにくる法則)。チャールズの危機にエリックが助けに来ることもない。エリックなんて話にも出てこない。
もっと、渋くて重くて、じっくりと腰を据えて観る作品なのだ。

だから、『X-MEN』シリーズ恒例だけれど、最初のロゴマークでFOXのXだけが印象的に残る効果も今回はなかった。そうゆう映画ではないのだ。

一番派手だったのは、チャールズの能力が暴走したシーンかもしれない。画面の揺れのせいか、音のせいか、4DXでは観ていないのに、鑑賞しているだけでもダメージが与えられて、静まると心底ホッとした。

ヒュー・ジャックマンとパトリック・スチュワートがうまいのはもちろんだけれど、少女、ローラ役のダフネ・キーンの演技も素晴らしかった。
研究所でウルヴァリンの遺伝子から作られた少女で、同じように爪を出せる。喋らないが、凶暴で、瞳はつねに周囲を威嚇しているようだった。

ストーリーはほとんどロードムービーである。コミックスに描いてある、本当に存在するのかわからないEDENというローラが研究所で一緒だった子供たちがいる場所を目指す。
目的地は存在するのかわからないし、研究所の人間は追いかけてくるし、幸せなロードムービーではない。

中盤、逃亡ロードムービーでは定番の一般家庭を巻き込んでしまうシーンがある。荒んだ心の三人が困っている農家の三人を助け、家に招待してもらう。けれど、そこに追っ手が来てしまう。

チャールズはこんな楽しい夜は久しぶりだと言っていた。そりゃそうだ。外も見えない、陽も射さないタンクの中に一人きりで、一体どれくらい長い間か閉じ込められていたのだろう。
けれどその直後、チャールズはウルヴァリンのクローンに殺されてしまう。

ローガンも束の間だけれど普通の家庭を味わえたのだろうか。娘(ローラ)と父親(チャールズ)と一緒にいる気持ちになって、少しでも安らぎを得ただろうか。
しかし、最後には農家の父親に銃を向けられる。彼らのせいで息子と妻が殺されたのだ。また一つ恨みを向けられる。

チャールズが死に、見ず知らずの優しい家族が殺され、恨まれる。
ローガンが、これもローラのせいだと思っても仕方がないだろう。ローラもローラで子供らしい面もないから、二人はベタベタした関係にはならない。笑顔もない。
そもそもローガンは、一人で(それかチャールズを看取ってから?)静かに死んでいこうと思っていたはずだ。それなのに巻き込まれたような形である。

でも、ローラが悪くないこともわかっているし、自分の遺伝子が使われているから娘のようなものである。それに、自分と似たところがあることもよくわかっていたはずだ。だから、ベタベタしていなくても、確実に絆は生まれていた。

終盤でローガンが「愛した人は全員傷つく」と言うと、それにローラは「じゃあ、私は安心ね!」と怒ったように返していた。
間接的に私のことは愛してくれないんでしょ?と伝えたような形で、ここでこの子がさみしかったのだと気づいた。

EDENとして示されていた場所に、子供たちは集団で暮らしていた。ローガンの髭をハサミで切ってくすくす笑うなど、子供らしい面もあった。それがウルヴァリンカットなのが泣ける。ローラだけではない。子供たちにとって憧れのヒーローだ。

ミュータントとしての特殊能力も望んではいないものだと思う。けれど、子供たちはそれを使って追っ手を殺していた。劇中に『シェーン』の一部が出てきて、「いいことであっても、人を殺せば一生つきまとう」というようなセリフが印象的に使われている。
ローガンはそれでずっと苦しんだのだろうし、子供たちもこの先それで傷付くのだろう。

ローガンとローラの悪夢についてのやりとりもあった。ローラは傷つけられる夢を見ると言い、ローガンは傷つける夢を見ると言う。どちらも同じく胸が痛むのだろうし、ローラや他の子供達が見る悪夢も、次第に傷つける側に変わるのかもしれない。

この映画の予告編でナイン・インチ・ネイルズの『Hurt』のカヴァー版が使われていた。予告編を見たときにはなぜカヴァーのほうなのだろうと思ったけれど、映画を観ると、なるほど、ジョニー・キャッシュが70歳で歌ったカヴァー版のほうが合っている。

ナイン・インチ・ネイルズが1994年にリリースしたアルバム『The Downward Spiral』に収録されている曲である。この時、歌ったトレント・レズナーは29歳。ドラッグやアルコールに溺れていて、自傷行為などについて歌われた曲とも言われていた。

それはそれで恰好いいけれど、70歳のジョニー・キャッシュが歌うと、人生を振り返るような内容とも聞こえてくる。痛みは鋭利なものではなく、体に染みていく。
ジョニー・キャッシュは『Hurt』を歌った翌年に亡くなったらしい。
痛みを抱えて死ぬというのは映画の内容やイメージと合っている。
ジョニー・キャッシュはエンディングにも『The Man Comes Around』が使われている。

ラストで、ローラが墓標の十字架を斜めに傾ける。エックスだ!
ここで初めてエックスの文字が出てくる。最初のロゴが光らないのは、ここで初めて出すという意味もあったと思う。

ローラは墓を離れがたそうに見ながらも、他の子供たちについていく。
ここでずっと泣いているわけにもいかない。親を弔うことも許されない過酷な状況。未来は明るいとは思えない。でも、完全に希望がなくなってしまったわけではない。

映画が終わった後、椅子から立つのも一苦労だった。ずしんと重い。それを感じていたのは私だけではないようで、明かりがついて映画館を出る時の雰囲気がいつも映画を見終わった後のものとは違っていた。
一人で観に来ている人が多かったせいもあるかもしれないが、ほとんど喋り声は聞こえてこない。それぞれがそれぞれの想いを胸にしっかりと焼き付けているかのようだった。
これを感じるために映画館へ観に行ってるのだと思えるような雰囲気だった。

観終わったあと、本作のポスターを観ても、キャッチコピーを観ても思い出し泣きしそうになった。観ている間は号泣はしなかったが、少し時間が経つとじわじわと押し寄せてくる感情がある。しばらくローガンのことを考えてしまう。



『光をくれた人』



監督は『ブルーバレンタイン』『プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ』のデレク・シアンフランス。
主演のマイケル・ファスベンダーとアリシア・ヴィキャンデルはこの映画をきっかけにお付き合いをスタートさせたらしい。

以下、ネタバレです。







子供のできない夫婦のもとに赤ん坊が流れ着き、夫婦が育てるが実の母が現れて…というストーリーなのは予告編を観て知っていた。
だから当然もう夫婦なのだろうと思っていたら、二人が出会うところから映画がスタートしたので驚いた。
また、マイケル・ファスベンダー演じるトムは退役軍人で、人との付き合いを避けるために孤島の灯台守を志願し…という少し複雑な背景があった。

前半はまさにこれはお付き合いを開始する…という雰囲気だった。孤島は文字どおり二人きりの世界だし、風景も美しい。風も強そうだったが、それもまた良かった。デスプラの叙情的な音楽ともよく合っていた。

ただ、島に流れ着いた赤ん坊をイザベル(アリシア・ヴィキャンデル)が育てたいと言い始め、イザベルにまったく共感できなかったのでイライラしてしまった。
二度流産をして、この先子供ができるかどうかもわからない。赤ちゃんが流れ着いたことを報告すれば、孤島では養子として育てることはできず養護施設に送られてしまう。そんな言い分がわからないこともない。
養護施設というと、4月に公開された『LION』でも、子供達が酷い目に遭っていた。あれは極端なのだとしても、良い暮らしはできない。確かに可哀想ではあるけれど、報告すれば親が見つかるかもしれない。イザベル以外にも親が見つかるかも。養子としてひきとり、イザベルだけ町に帰るなどの選択肢はなかったのだろうか。

でも、トムは夢も希望も失っていた中でイザベルに愛されたから、彼も彼女をとても大切にしているんですね。それで、彼女の希望を叶えてしまい、報告しない。
ここでトムを必死に説得するイザベルは、グザヴィエ・ドランがよくやるようなぐるぐる目になっていた。何か(ここで言うと赤ちゃんを育てること)を盲信して、聞く耳を持たない。少し狂ったようにも見える。アリシア・ヴィキャンデルの演技がうまいだけに余計にイライラする。
トムも今の彼女には何を言っても説得できないだろうと悟ったのだと思う。

けれど、わりとすぐに本当の母親が現れる。トムの匿名の手紙がきっかけで娘が生きていることを知ることになるが、そのトムをイザベルが責めるのもすごく自分勝手だと思ってしまった。
赤ん坊と一緒に流れ着いた父親と思われる男性の遺体を埋めたのもトム一人だし、二人の本当の赤ちゃんが埋められた上の十字架を引っこ抜いたのもトム一人である。イザベルはただ赤ちゃんを抱っこしてあやしていただけだ。
それなのに、裏切っただの許せないなどと騒ぎ立てて、もともと自分の子供じゃないくせに…と思いながら観ていた。

合間に本当の母親ハナのエピソードもはさまれる。夫はドイツ人で、戦争後のオーストラリアでは肩身の狭い思いをしていたようだった。
ハナの実家はお金持ちのようだったし、ドイツ人と結婚することを許されていなかったけれど、二人で駆け落ちをする。そんな中でできた子供である。
トムとイザベルのエピソードの中ではすでに遺体の状態だった男性がしっかりと動いていた。片方からの視点では遺体というか脇役以下のような存在でも、もう片方では重要な役割を担っている。誰かにとっては取るに足らない人物でも、誰かにとっては大切な人だというのがわかる。

私はもうこの辺りではイザベルのことが見ていたくないくらいになっていたので、ハナのエピソード中心にしてくれていいのに…とも思った。

結局娘はハナの元へ帰るが、赤ちゃんの時の記憶はなく、ハナのことを本当の母だとは思っていない。娘はイザベルの元に帰りたがっているし、イザベルも娘と離れて悲しい。ハナは本当は自分が産んだのに母親と認識してもらえなくて悲しい。トムは一人罪をかぶって投獄されている。
もしかしてこれは、誰も幸せにならないパターンなのではないかと思ってしまった。

また、ハナ側ではなく、イザベル側を中心に描いているということは、結局、イザベルの元に娘が帰っていって、この先も二人で幸せに暮らしていきましたとさというめでたしめでたしになってしまったら嫌だなと思っていた。

ハナを演じたのがレイチェル・ワイズなんですが、彼女が髪が真っ黒なせいもあるのか、夫と子供を亡くしたから暗い顔をしているという演技のせいか、結構魔女っぽいというか、悪役っぽく見えるんですね。対するアリシア・ヴィキャンデルは天真爛漫でたぬき顔。イザベルの主張が通ってしまうのかな…と思わざるをえなかった。

しかし結局、イザベルはトムにどれだけ愛されていたかを知り、罪を告白する。ハナは夫が言っていたことを思い出し、ハナを赦す。
なんとなく、ハナのドイツ人の夫が主人公のような感じがしたし、そのような作りで観たかった。そして、キリスト教の話なのかなとも思った。

おそらく20年後くらいだったと思うが、トムとイザベルは人里離れた場所で暮らしていて、そこに大きくなった娘が孫を見せに来る。

きっと、小さい頃はイザベルと引き離されることの意味がわかっていなかったとしても、大きくなるにつれて、自分がさらわれたことを認識し、イザベルのことを恨んだこともあったと思う。しかし、会いに来たというのは、これはこれでハナと同じように二人に対する赦しなのだと思う。

中盤から最後の方までイザベルの行動に共感できなくて、少し怒りながら観てしまったが、最後は嘘のように優しく穏やかな気持ちになれる不思議な映画だった。




イギリスやドイツ、アメリカでは2016年公開。日本ではビデオスルー。
監督はデクスター・フレッチャー。
この監督さん、DVDの特典映像で顔を見て、なんか見たことがあると思ったら『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』のソープ役の方だった。他、『レイヤー・ケーキ』や『キック・アス』など、マシュー・ヴォーン監督作常連の俳優さんで、本作は製作にマシュー・ヴォーンの名前がある。

製作とはいってもマシュー・ヴォーンは本作にだいぶ関わっているようで、主演のタロン・エガートンを推薦したのも彼らしい。『キングスマン』関連ですね。

原題は『エディ・ザ・イーグル』。実在したイギリスのスキージャンプの選手のニックネームだが、日本での知名度の低さから変えられたのだろう。
また、本作はこの選手について描かれているが、やはりこれも知名度が低くてビデオスルーになったと思われる。

ヒュー・ジャックマンとタロン・エガートンの二人の力で公開できなかったかなとも思うけれど、ポスターなどに二人の姿は映っていても、二人三脚という感じではないからかもしれない。いわゆるブロマンスな雰囲気はない。あるのかと思っていた。


エディ(タロン・エガートン)は素人なので、元スキージャンプ選手のピアリー(ヒュー・ジャックマン)から基礎を学んだのは良かったと思うが、あくまでも基礎である。
エディがぎりぎりオリンピックに出場できる記録を出した時に、ピアリーは「今出てもオリンピックで恥をかくだけだから、みっちり練習をして四年後にメダルを目指そう」と提案する。

普通なら、エディがコーチであるピアリーの意見に同意して、すったもんだありながらも二人で頑張って、見事メダルをとってエンディングとなるところだ。
けれど、これはフィクションではないからそうはならない。

彼は子供の頃からオリンピックに出ることに憧れていた。憧れて、様々な努力を続けてきた。
それで、やっと出られることになったのだ。四年後に出られる保証はない。基準となる記録が変わるかもしれないし、怪我をするかもしれない。最悪、死んでしまうかもしれない。

周りの選手は子供の頃からスキージャンプをやっていたのも知っていただろうし、おそらく彼は、きっとメダルまでは遠いのはわかっていたのだろう。
だから、押し切って、意見が割れたまま出場する。
ピアリーはオリンピックには行かず、テレビで見ている。エディはメダルこそ取れないが活躍…と、実話だからこうなるのだ。

完全にエディの独壇場である。
オリンピックに出る!という気持ちだけで突っ走るエディ。素人だから周囲のサポートはもちろんある。だが、他の人は等しく脇役という感じで、ピアリーはその中の一人という感じなのだ。
ただ、かつてのコーチから破門されそこから認めてもらうということで、一応ピアリーの成長物語の意味も含まれているから他の脇役よりは出番が多い。

また、最初のほうで、アル中同然のピアリーが酔っ払ってジャンプをして見せるシーンがめちゃくちゃ恰好良かった。服装もジーンズである。くわえタバコで頂上に立ち、滑り始める姿をカメラはすぐ横で追う。挑むような表情だけれど、とても楽しそうだ。タバコをポイっとこちら側に捨てると、雪に落ちてジュッという音がする。映画内で一番忘れられないシーンである。

タロン・エガートンはエディご本人に近づけて、大きな瓶底メガネで、口を少ししゃくれさせていて、とてもいつもの彼には見えない。
役柄もいつものわんこ系ではなかった。スポーツなんてやりたくないけれどコーチ(ヒュー)に見初められて、仕方なしにやっているうちにジャンプに目覚め、やがてオリンピックに…という内容なのかとなんとなく思っていたけれど違う。

エディは一途にオリンピック一筋。夢を叶えるために猪突猛進。スキーの柄のジャンパーまで着ていて、ちょっと病的でもある。
しかも、これならいけるかも?という単純な理由で大人になってからスキージャンプを始める。
何度失敗しても、上に上がっていって繰り返す。怖くはないのだろうか。

映画内でPOVっぽい映像も出るが、頂上に立っただけで足がすくみそうだ。映画でもスタントすらやりたがらないらしく、選手の方を使ったらしい。
大抵子供の頃から始めるスポーツというのも、物心つく前に慣れさせるのが目的らしい。物心がつくと、恐怖心で飛べなくなるのだとか。

エディの場合は恐怖心よりもオリンピックに対する気持ちが強かったのだろう。しかも、ピアリーの手助けや送り出してくれた両親(というか母親か)の後押しもあって、一年でオリンピックに出てしまう。さらに、メダルまでは遠いとはいえ、自己ベストを叩き出す。

エディはイギリス初のスキージャンプオリンピック代表選手であると同時に、カメラの前ではしゃいだ様子が話題になったらしい。
記録よりも記憶に残る選手である。そして、エディが出たのは、1988年のカルガリー冬季五輪だが、なんと『クール・ランニング』で有名なジャマイカのボブスレーチームも同じ大会に出ていたらしい。映画内でも話題に上がる。

映画内には80年代ポップスが多く使われている。時代に合わせたのだと思うけれど、あまり仰々しくなく、ある意味軽薄な音楽が映画の雰囲気ともよく合っている。特に、ここぞというタイミングで、ヴァン・ヘイレンの『Jump』の印象的なイントロが流れた時にはぴったり来すぎて笑ってしまった。

映画内のエディもへこたれない前向きさと、逆に考えると呑気な性格のチャーミングな人物だったが、ご本人も負けず劣らずで脚色なしのようだった。
DVDの特典映像で撮影現場を見に来た話をしていたけれど、紅茶を進めると「ありがとう。ビスケットもいただいていいかな?」と言っていたらしい。ちゃっかり者である。

記録以外の部分で人気になったようだし、オリンピックはこの一回限りでスポーツはやめたのだろうと思っていたら、スピードスキーで世界歴代9位の記録を持っているらしく侮れない。映画が終わる場所が到着点ではなかった。好きだけでどこまでも突っ走る姿が痛快である。





『メッセージ』



ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督。アカデミー賞作品賞などノミネート。
主演はエイミー・アダムス。
以下、ネタバレです。








なんだかわからない飛来物が地球にやってきて大騒ぎになる。言語学者ルイーズの元に軍の関係者が訪れて、中にいる“宇宙人”の声を聞かせて解読しろと言う。これがかなり序盤なので、もう中に何者かが存在して、コミュニケーションはとれないまでも接触をしているのに驚いた。

そして、ルイーズは軍のヘリで前線へ連れて行かれる。つるっとしていて、静謐なフォルム。攻撃的ではない。しかし、とても大きいし、静かなだけに不気味ではある。まるで観客もヘリに乗っているかのような映像に口をあんぐりと開けてしまった。旋回するヘリの窓から映されるその異様で巨大な物体と、眼下にかまえられた軍の前線基地からただ事じゃなさが伝わって来る。

基地の中で、“宇宙人”と接触をはかるためにワクチンを接種される。カメラはルイーズと物理学者のイアンのすぐ後ろにつくので、私たちも基地の中に入ったような感覚になって緊迫感が伝わって来る。

そして、“宇宙船”の中へ潜入。近くに寄ると、少しだけ浮いていることがわかる。中に入ると無重力のようになっていたり、不思議なことばかりである。ここも序盤から宇宙船の内部に潜入することになって驚いた。
毒ガス検知のためのカナリアなのか、鳥カゴもあって、そのなかで小鳥がピッピッと鳴き声を上げ続けているのも一層不穏な雰囲気。

そして、半透明な仕切りの向こうにタコ型の宇宙人がぼんやりと現れる。このタイプの宇宙人かと思う。だけど、想像していたよりも大きい。大きくて得体の知れないものがぬっと浮かぶ様も迫力があった。もうこのあたりまで、ずっと口を開けたまま夢中になって観てしまった。

白を基調にした雰囲気といい、宇宙船の馬鹿でかさや不穏な雰囲気は、同じドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の『複製された男』を思い出した。監督のSFはこの雰囲気になるのかもしれないと考えると、10月公開の『ブレードランナー 2049』も楽しみである。

また、基地の中と宇宙船の中という閉鎖された空間での描写が中心で、外の人間たちの騒動(暴動やカルト教団の集団自殺など…)は、ニュースやインターネット動画でのみ知らされるという作りも面白かった。視点が統一されているので緊迫感が続く。

ただ、この先、少しずつ会話をかわしながら、彼らが来た目的を聞こうとするんですが、その目的は予告編ですでに見てしまっていたので、「武器を与えに来たんだよ…」と思いながら観てしまった。武器が何なのか、それを使って何をするかなど、物語の核心部分ではなかったけれど、予告編に入れるのは勘弁してほしかった。

そして、原作を読んでいないせいもあるのかもしれないが、途中から話がよくわからなくなってしまった。
最初の過去の回想と思われた部分が実は未来で…というのはわかる。時系列については逆にわかりやすいくらいだった。

わからなかったのは、ヘプタポッドが何の目的で来たかである。何千年後だか、遠い未来にヘプタポッドたちを人間が救うから、ここで人間を滅ぼすわけにはいかないから、ルイーズに未来がわかる力を与え、この場を救わせたが、ヘプタポッドが来る前も世界情勢は悪かったのだろうか。彼らが来たせいで分断しそうになっていたわけではないのか。
それとも、この先、世界情勢がまずくなったときに、宇宙人襲来の危機を乗り切ったのだから…という思い出の共有で団結するための演出だろうか。

未来のことがわかるのはルイーズだけだったが、ヘプタポッドに危機が訪れるときには、とてもルイーズが生きているとは思えない。
ルイーズが授かった力というのは、超能力的なものではなく、ヘプタポッドの文字を理解することで得た知識のようなものなのかもしれない。
ルイーズは講演会を開いていたし、本を出していたから、それを読んで理解をすれば、誰でも未来を見通せるのだろうか。

でもそうすると、夫であるイアンに、未来がわかると言ったら離婚をすることになった理由がわからない。ルイーズが未来がわかるということを、イアンは信じていないのだろうか。娘が病気で死ぬなんて縁起でもないことを言うなという感情論だろうか。
宇宙人と邂逅をするなどという体験をしたのはイアンも同じである。それでも、信じられないことなどあるのだろうか。どんな不思議なことでも、そんなこともあるかもしれないという気持ちになりそうだけれど。

原作は短編らしいので、もしかしたら余計にわからなくなってしまうかもしれないけれど、このままではもやもやしたものが残ってしまうので読んでみたい。