『ベイマックス』


原題“BIG HERO 6”。同名のアメコミが原作になっているとのこと。

以下、ネタバレです。





予告編では“BIG HERO 6”的な要素は伏せられているため、原題を聞いた時にベイマックスが6体出てくるのかなと思ったら違った。
予告編を見る限り、死んだ兄の残したふわふわのロボットと弟の心温まるほっこりヒューマンドラマというイメージですが、実際は、痛快!ヒーロー活劇!といった具合でした。
ほっこり要素もないわけではない。それは主に予告で使われているのですが、ベイマックスに穴があいて、奇妙な音を出しながら空気が抜けていてセロハンテープでとめるシーンとか。

もちろんそれもこの映画の肝だとも思う。兄タダシも「思わず抱きしめたくなるフォルム」としてベイマックスを作ったのだし。
激情したヒロが悪者を殺そうとしたときに、それを止めるのはベイマックスなのだ。ベイマックスには、ベイマックスを作ったタダシの心が引き継がれている。タダシはいなくても、心は残っている。この辺は予告がしめしている通りなのだと思う。

けれど、予告にはまったく出てこなかったバトルの要素もふんだんに取り入れられているのだ。
まず最初から、ロボットファイトである。自作したロボット同士を戦わせている様子は、『リアル・スティール』や『ガンダムビルドファイターズ』のようだった。
屈強な男のあやつる見た目も怖いロボットを、小さいヒロの小さいロボットが見事倒すシーンのあとで、後ろの席に座っていた子供が「すごい…」と言っていて、予告があれでもちゃんと伝わっているのが感じられてほっとした。

そして、BIG HERO 6の6、この話の主役たちはタダシの同級生の科学おたくたちだった。ヒロを加えた5人+ベイマックスで6である。ベイマックスは“=タダシ”でもあると思う。
彼らが自分たちの特技を生かして戦う。スーツも自作する。一般人がヒーローに?というのは『キック・アス』っぽい感じでもあったけれど、それぞれの特技を生かしたスーツなのでそれよりは『アイアンマン』っぽいのかもしれない。スーツを着たベイマックスの飛び方もアイアンマンっぽかった。

ヒロとベイマックスを抜かした4人のキャラクターは、魅力的なのにまったく予告やポスターなどには出てこない。GO・GOの円盤が車輪になっていて足に付いているスーツ、両手がレーザーの刀になっているワサビのスーツ、ポシェットが付いていて日本の女児向けヒロインのようなハニー・レモンのスーツ、フレッドは着ぐるみの怪獣で口から火を吐く! もうどれもこれも恰好良いので、いまからでも遅くないので新しいCMでも作って欲しい。きっと、彼らのことが気になって映画を観たい!と思う人もいるはずなので。
でも、いままで予告で流れなかったおかげで、ネタバレを回避できて、映画を観た時に初見で興奮したので、逆に良かったのかもしれない。

予告で出てきた、スーツを着たベイマックスが力こぶを作るとスーツが全部飛んでっちゃうというシーンは本編では出てこなかった気がするけどどうなんだろう。予告だと、ケアロボットだからスーツは着られなかったみたいなオチに思えるけれど、実際はかなり恰好良く着るし、スーツを脱着できるベイマックスのおもちゃもロビーで売っていた。
スーツを着れば、ベイマックスは空も飛べるし、改造されたスーツではロボットパンチも搭載されている。

スーツを着たベイマックスにスーツを着たヒロが乗って飛ぶシーンは本当にワクワクした。
東京とサンフランシスコを混ぜたというサンフランソウキョウの町並み自体も見応えがあるけれど、それが空を飛びながら見られるのだ。鯉のぼりを模したものが浮いているのもおもしろい。
サンフランソウキョウというから東京なのだろうけれど、ヒロの家の近くの坂の様子と路面電車は、少し函館にも似ていた。

最後に、人間のためにロボットが犠牲になるのは、『インセプション』のTARSを思い出した。人工知能のようなものを持ったロボット共通の切なさ。
ロボットパンチを攻撃のためではなく救うために使うというのが泣ける。また、ロボットパンチの拳の中に、実はチップを隠し持っていたという結末も粋でした。

同じメンバーが活躍する続編も見てみたい。その時には是非、予告に全員登場させてあげてほしい。

デヴィッド・クローネンバーグ監督作品。ジュリアン・ムーア、ミア・ワシコウスカ、ジョン・キューザック、ロバート・パティンソンなど、豪華俳優陣が集められている。

以下、ネタバレです。




予告では、ジュリアン・ムーアが自信過剰でプライドが高く厚顔無恥な、とにかくめちゃくちゃな人物を演じているようだったが、予告の通りだった。本編は勿論予告より長いのでそれ以上の強い印象を残す。
老いて贅肉の付いた体をゆさゆさしながらのスキップと、少し息の切れた♪ラララ〜ラ、ラララ〜ラ、ヘイヘイヘ〜イという歌声から受けるのは狂気でしかない。
トイレでふんばりながら話しかけてくるシーンも酷い。力んでいるから、ブーブーと放屁だけはしてしまう。それで、「あんた彼とヤったの?」などという下世話な質問をしてくるのだから、もう最低。
観る人に不快感を与えるあたり、やはりジュリアン・ムーアの演技がうまいのだろう。カンヌ国際映画祭の女優賞も納得である。

ジョン・キューザックも大概不気味だったが、こちらは『ペーパーボーイ』のほうが不気味さでは上だった。でも今回も胡散臭く、怖い役です。

何を考えているかわからない感じはミア・ワシコウスカも同じだった。明るい表情もあったにはあったけれど、裏に常に暗さを纏っていた。後半になるにつれて空元気も消えて、眉をひそめ、怖い顔になっていた。
彼女はなんとなく体温を感じないというか、儚いというか、人ならざる者というか、人間を食いそうな感じというか、独特な雰囲気のある女優だと思うので今回の役も合っていた。
だから、『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』の吸血鬼役も合っていたと思う。ただ、あの鬼っ子は陽の部分だったが、今回は陰の部分だった。あの役は実は幽霊で…と言われても納得してしまいそう。

今作の脚本家が実際にハリウッドでリムジンの運転手をしていた経験を元にしているらしいので、運転手役であるロバート・パティンソンが主役なのかと思っていたがそんなことはなかった。
彼のナレーションでストーリーが進んでいくとか、傍観者として全体をまとめる役割であったりもしない。どちらかというと、出番はそれほどなかった。
デヴィッド・クローネンバーグ監督と組んだ前作『コズモポリス』のラストでロバート・パティンソンが気になったのでもっと見たかった。

これはもしかしたら監督の特徴なのかもしれないけれど、セリフが多くて、カメラは喋っている人を撮りながら話が進んでいっていた。
うんちくのようなうんちくでないような、ストーリーに関わっているような関わっていないような、伏線のような伏線でないような。
タランティーノのように無駄話を延々とさせるということではないけれど、とにかく一度喋り始めたらずっと喋っているので、そのうち字幕を追う目が滑るというか、集中力が削がれるというか、単調に思えるシーンが多々あった。

喋るけれどそれが彼らの本心かどうかはわかりかねるし、登場人物の誰もが誰かに寄り添うこともない。アガサは運転手と寄り添いかけるが結局めちゃくちゃに壊される。ストーリー上のまとめ役もいないので、一人一人が別のことを考え、違った方向を向いているように感じた。そして、誰にも共感も感情移入も出来ない。
ラストも本当にこれで良かったのかわからない。解決したようでしていないと思うし、なんとなく不完全燃焼感が残った。

ただ、映画は必ずすっきり終わらなくてはいけないとも思わないし、この全体を流れる奇妙な不気味さはちょっと他の映画では味わえないと思う。

今年の年末で閉館になる新宿ミラノ座のさよなら興行、「新宿ミラノ座より愛をこめて〜LAST SHOW」での上映。
IMAXでなくても大きなスクリーンで観たい、という時によく利用していた劇場だったので、閉館は本当に残念です。
いつも座る席を決めていたんですが、今回はほぼ満席で座れなかった。

映画上映前に、支配人の方から作品の簡単な紹介があった。劇中に出てくる童謡は大林宣彦監督のオリジナルとのこと。てっきり尾道か広島の地元の童謡だと思ってた。
また、ロビーでラベンダーの香りを焚くという粋な演出も。それに対しての「お客様がタイムリープの能力を身につけても、責任は負いかねます」という、これもまた粋な言葉には、会場から拍手が起こっていた。

1983年公開。ビデオやテレビでは何度も観ているけれど、映画館では初だった。フィルム上映。

タイトルが出た後、尾道の街並の中を制服姿の高校生が登校していて、桜が満開で…というシーンがまず美しい。特に説明は入らないけれど、その前のシーンがスキー旅行で、帰る時に「山は冬だけど降りるともう春なんですね」みたいなセリフがあって、大体の季節がわかる。

子供の頃に観た時には、日本人形の首が伸びるシーンよりも時計屋の主人が店の奥で不気味に笑っているのが怖かった。時計の針が飛んでくるのの後だと憶えていたので、顔を伏せていたんだけれど、大人になってから観ると、それほど怖くなかった。

三角関係ものというのはもともと好きな要素なんですが、それに加えて、タイムリープでも記憶喪失でも前世の記憶でもなんでもいいんですが、知らない相手を何か知っているような気がしてしまう、気になってしまうというロマンティックさという、二つの要素が入っているところも『時をかける少女』が好きな要因です。

あと、今回久しぶりに観て気づいたのは、どうやら三角関係以上だったということです。はっきりとセリフでは出てこないけれど、委員長(とも言われてないけれど、クラスの代表っぽい女子)はごろちゃんのこと好きっぽかった。和子とごろちゃんが話してるときに、複雑な顔をしてるシーンがあった。たぶん、ごろちゃんのこと好きでありながら、ごろちゃんが和子のことが好きなのもわかってたんだろう。

今回、私は深町くんより、断然ごろちゃん派でした。飄々としているようで、和子のことをずっと守ってる。返してもらったハンカチを顔に当てるシーンは、素直になれなさを表しているようでいじらしかった。
最後に実験室で倒れている和子を発見した時には、いつもは「芳山くん」って呼んでるのに咄嗟に「和子ちゃん!」って、昔の呼び方が出ちゃってた。たぶん、高校生になったし、なんとなく恥ずかしくて、気取って「芳山くん」なんて呼び名にしてたんですよね。和子は「ごろちゃん」って呼ぶのに。なのに、幼馴染みらしい呼び方が、咄嗟の時には出てしまう隠しきれなさ。意地を張り通せない。
10年後になっても、和子を遊びに誘おうと電話をかけてくるあたりも本当に好きなんだと思う。和子はあの調子だし、おそらくほとんど断り続けてるんですよね。そのめげない姿勢も、報われて欲しいと思った。

でも、ラストで深町くんがもう一度出てきてしまう。お互い憶えていなくても、何かが気になるのか、タイミングがずれても二人で振り向く。和子がこの先、何かあるとしたら、ごろちゃんより、このニュー深町くんのほうなんですよね。
幼い頃から大人になるまで、ずっと和子のことを気にかけているのはごろちゃんなのに…。
つらいけれど、ただ、この切なさも三角関係の醍醐味でもある。

主題歌の歌詞もほぼ深町くんのことのようですし、たぶん、深町くんとのラブストーリーがメインなんですよね。それもわかってるんですけどね…。

あと、いままでメロンのくだりは普通に観てたんですけど、あれって父のゴルフのブービー賞の景品なんですね。日曜日に貰って来て、月曜日は「まだ熟してない」と言われ、火曜日に一日置いて「食べごろ」と言われる。

和子は日にちを行ったり戻ったりするけれど、日めくりカレンダーや黒板の日付やメロンなどで日にちがわかるようになっている。周囲の人物に加えてメロンも時間と一緒に正常に進んでいるけれど、和子だけがちょこちょこ移動しているのがわかりやすい。

あとは、改めて見て、30年前としてはSF表現がかなり斬新だと思った。
特に最後の時の旅人になったときの映像はおもしろい。和子が昔の姿を窺おうとすると、子供和子がその場からすっと姿を消す、同じ人が一緒に存在出来ないルールもここですでに採用されている。
ここで、深町くんは和子をお姫様抱っこするんですが、これって最初の和子が実験室で倒れているシーンでごろちゃんが和子を持ち上げられないのと対になっているのかもしれない。結局、足の方をごろちゃんが持って、頭側を深町くんが持って、二人で保健室に連れて行くんですが、深町くんは一人でも和子をお姫様抱っこできる。ここでも深町くんに軍配が上がってた。

この映画はエンドロールも最高でたぶん誰も席を立てないと思う。実験室で倒れている和子が、おもむろにむくりと起き上がって、主題歌を歌い出す。MVとNG集が一緒になった感じのもの。ここでは不気味な笑みを浮かべていた時計屋の主人ものりのりで、幼い頃に観たときにもほっとしたものです。
そして、最後の原田知世のまったく汚れの無いはにかんだ笑顔が本当に可愛い。いい映画を観たという想いがじんわりと浮かんできて、爽やかな気持ちで席を立てるのだ。




2009年公開。ピクサー・アニメーションスタジオ製作。ピート・ドクター&ボブ・ピーターソン監督。二人とも中で声の出演もしています。

映画はカールじいさんの幼少期から始まる。エリーと出会い、結婚をして、困難を乗り越えて、二人で仲良く暮らし、やがて年老いてエリーが亡くなる。ここまでのカールじいさんの半生を10分間でやる。最初の幼少期はセリフなどもあるけれど、結婚以降は音楽のみで、でも何があったかがしっかりとわかる作りになっている。たった10分とは思えない濃さだし、ずっと連れ添った(と思えてしまう。10分なのに!)エリーが亡くなったところでは、泣いてしまった。
この冒頭10分があるとないとでは全く違う。主人公カールじいさんの歩んで来た道がわかる。ふまえた上で映画本編の冒険なのだ。
もともとはエリーが冒険に積極的だったし、エリーがカールを引っ張るようにして、若い二人が冒険に出てもよかったはずだ。しかしそうすると、ありきたりな話になりがちかもしれない。

ずっと連れ添った妻が亡くなり、家も立ち退きを迫られて、もう後先なくなったところで、引っ込み思案だったじいさんが、一念発起して一人で冒険へと旅立つ。
じいさんがじいさんになっていても旅立つ理由が、冒頭10分を見るだけですべて伝わってくる。そこに説明臭さは一切無い。

そして、大量の風船で家ごと飛び立たせるという斬新さもいい。いろとりどりの風船によって浮かび上がるシーンは、映画館で観たかった。

目的地のパラダイスの滝へは、わりと序盤で辿り着いてしまう。パラダイスの滝が見える場所から歩いて目指す。家は浮いたまま、じいさんと相棒の少年が引っ張っていく。タイトルに“空飛ぶ家”とついているから、家を乗り物としての空の旅だと思っていたのに、そうくるとは思わなかった。
でも、最初の10分といい、目的地にすぐについてしまうところといい、時間配分がおもしろい。
また、見えている目的地を歩いて目指すというのもじいさんだしちょうどいいのではないかと思った。

途中、ずっと憧れていた人に会うことができて、その人が悪い人になっていたのはショックだった。意外性を持たせるためだと思うし、悪役が必要だったのもわかるけれど、じいさんの憧れがやぶれるのはとてもさみしい。じいさんになるまで憧れていたし、じいさんになっての 冒険の先で出会う現実としては厳しいと思う。しかも、亡くなった妻の想いとともに行っている冒険なのに。二人を結びつけたのもその憧れの人だったのに。
しかも、最後は上空から落下して終了というさみしさ。落下したところまでしか出ていないけれど、おそらく死んでしまったのだろうと思う。
もっと、途中で改心するとか、どうにか憧れを保てるような何かを残して欲しかった。

家も落下してしまうけれど、それがパラダイスの滝の横に降り立つのは良かった。じいさんは辿り着けないけれど、二人の想いが宿る家はちゃんと目的地にたどり着いたし、エリーが少女の頃に描いた絵の通りになった。
映像では出ないけれど、残っていた少しの風船の力を借りて、そこにふわりと降りた様子が見えるようだった。優しく静かな終わり方でした。

原題は“Up”というシンプルなもの。そのままでは公開しにくそうなので、邦題が別に付くのはわかる。ただ、本編でも、カールじいさんとは呼ばれていないんですよね。彼のことを呼ぶのはほとんどが一緒に冒険をするラッセルで、呼び方は「フリドリクセンさん」だった(吹替の場合)。じいさんの冒険というのがこの映画の珍しいところなので、じいさんという言葉は残したい。けれど、フリドリクセンじいさんではゴロも悪いし、○○じいさんならばファーストネームのほうがしっくりくる…。なので、カールじいさんでも仕方がないのかなと思う。



2014年公開。アメリカでは2013年公開。
ジェイソン・サダイキス主演。ジェニファー・アニストン共演。主人公の友達で麻薬組織の元締めの人、どこかで見たことがあると思ったら、『ハングオーバー!』シリーズのスチュ役のエド・ヘルムズだった。

バラバラの人たちが旅の道中で結束するというと、『リトル・ミス・サンシャイン』を思い出すけれど、あちらは一応本当の家族だったけれど、こちらは違う。
メキシコの国境を通るために、一人の独身男性よりも家族旅行を装った方があやしくないだろうというひらめきのもと、集められただけだ。しかも、麻薬の売人、場末のストリッパー、親が留守しがちの子供、ホームレス娘(っていわれてたけど、家出娘みたいなニュアンスなのかも)という、ハンパもの。これを考えると『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』的でもあるのかもしれない。

旅がメインのロードムービーなのかと思ったら、わりと簡単に目的地にはたどり着く。帰路で出会った家族とのすったもんだと、実は元締めから騙されてたというアクシデントはあれども、道すがらというわけではない。
大きく何が起こるというよりは、細かく起こることで笑わせていくコメディだった。

セリフも細かくて、“不幸な身の上話は嫌いなんだよ。だから『プレシャス』のDVDも観てない”とか、パーカーの帽子をかぶっている子に対して“お前は『8マイル』のエミネムか”とか、いちいちおもしろい。また、“俺がマーキー・マークで、お前らはファンキー・バンチだ。わかったか?”みたいなセリフがあったけれど、これは日本語訳では“俺がジュリーでお前らがタイガース”になっていた。確かにマーキー・マーク&ザ・ファンキー・バンチ(マーク・ウォールバーグが過去に組んでいたヒップホップグループ)はわかりにくいけれど、ジュリー&タイガースじゃないし、意味合いとしては、原語のほうがもっと“俺”の立場が上な感じがする。ちなみにこの場面、劇場では“俺がフミヤでお前らがチェッカーズ”だったらしい。私はWOWOW視聴だったんですが、DVDはどうなんだろう。
でも、他にもコメディならではの細かいセリフがあったし、字幕が大変だったと思う。近年よくある町山さん監修かと思ったけれど、これは違うようです。
ちなみに、WOWOWだと“ブラック・コック・ダウン(ブラック・ホーク・ダウン)”はそのままカタカナだったけれど、劇場だと“黒い巨塔”だったらしい。

花火を買ってくれと子供役たちが騒いで、妻役が「買ってあげたら?」と言うシーンや、子供役が好きな女の子にうまくキスできなくて、それに対して父親役がアドバイスを送るシーンは、それだけ見れば本当の親子のようだった。

車のラジオから流れるTLCの『Waterfalls』に合わせて妻役と子供役二人が歌うシーン。夫役が「この曲好きじゃない。当時からピンと来なかったし」と言っていても、三人は好きで歌い続けている。ラップの場面で息子役のどちらかといえば冴えない坊主が完璧にやってのけるんですよね。そこで、絆は深まったし、あとで夫役が一人で車に乗っているシーンでも、この曲が流れてきて切なくなっている。完全に、“家族”の思い出の曲になったのだ。

ラストシーンでは郊外の一軒家に、四人が暮らしていて、そのいかにも幸せそうな様子から、旅を通じて本当の家族になったんだな…と思ったら違った。裁判までの間の証人保護プログラムのため、集められていただけだった。おまけに庭ではマリファナが栽培されていて、まったく懲りた様子がない。
家族というより、共犯者が増えただけですね。このハズし方が最高だった。

だから、原題の“僕たちミラー家です(WE’RE THE MILLERS)”のわざとらしさも好きです。でもやっぱり、人の名前が入っている原題は変えられてしまうようで。

エンドロールの前にNG集が入っているのも楽しい。共演者同士が仲良くやっているところを観ていると、こちらまでにこにこしてしまう。
特に、『Waterfalls』が流れるべき場面で、フレンズのテーマ曲が流れるドッキリはおもしろかった。ジェニファー・アニストンのやられたーって顔が可愛かった。



ホビット三部作の三作目であり、『ロード・オブ・ザ・リング』の一作目に繋がるらしい。
サブタイトルは“行きて帰りし物語”のほうがいいのではないかと思っていたけれど、“決戦のゆくえ”で良かったと思う。
いま調べたら、原題も“There and Back Again”ではなくて“The Battle of the Five Armies”に変更されていたらしい。

以下、ネタバレです。



面白かったことは面白かったけれど、ホビットの三作目と言われるとどうなんだろうと思った。一作目でビルボが「冒険に行くんだ!」と意気揚々と駆け出したシーンの印象が強かったので、冒険で三部作観たかった。今作はほとんどが戦闘シーンだった。

前作は竜のスマウグが「村を襲ってやる」と言って、飛んで行くところで終わった。一体どうなってしまうのか、ひやひやする終わり方だった。今作は前作のあらすじも何もなく、いきなりスマウグが村の上空に来るシーンから始まる。
前作のあらすじは別になくてもいいと思う。でも、スマウグのシーンはあっさり終わってしまう。

前作で、バルドが黒い矢を放てば…みたいな話が出てたけれど、まさにそれでスマウグが倒される。今回出てくる新しい案は特にない。ピンチらしいピンチと言えば、弓が折れて息子の肩を使って矢を放つというところくらいで、わりと短時間で事態は収束する。村は焼き払われてしまうが、スマウグは討伐される。

こんな短い時間で片付くなら、『ホビット3』までひっぱる必要はあったのかなと思ってしまった。2の最後に入れられたのではないか。
前作の最高潮の盛り上がりに続けて観たかった。いきなり最高潮から始まっても、気持ちがついていかない。
そう考えるとやはり、あらすじを入れてもらって、その間でちょっと気持ちを盛り上げたほうが良かったのだろうか。

その後は、トーリンがスマウグの金貨にとりつかれてしまうことはあっても、ほぼ戦闘です。人間、エルフ、ドワーフ、オーク軍が入り乱れる。サブタイトルの“The Battle of the Five Armies”のとおりなんですが、もうホビットをはずして、“The Battle of the Five Armies”というタイトルの映画のようなだった。
Fiveのもう一つはなんだろう。魔法使いかホビットかなと思うけど、ガンダルフは魔力を失ってるからホビットかな。

わくわくするような冒険を期待してたんですが、今回は場所はほとんど動かない。ただ、はなれ山を目指していてそこに辿り着いたのだから、どうするのだろうとは前作の時に思った気がする。
行きて帰りし物語だったなら、ビルボがホビット庄に帰る冒険が観たかった。でも原作がある映画だし、勝手にそんなこともできないのだろう(原作未読)。
それか、今回の戦闘を短くして、前二作をもう少し短くして、少しずつずらせば三作目の途中ではなれ山に辿り着いたのではないか。

今回、ビルボはほとんど活躍しない。あまり戦闘に向かなそうだし、戦闘が主の本作では仕方が無いのかもしれないけれど、補助的な役割だった。
どちらかというと、トーリンが主人公のようだった。ただ、金貨に惑わされたトーリンが、自分自身の声で正気に戻るのはもったいないと思う。自分の中の“祖父とは違う”という言葉を反芻してのものだった。あんなに仲間がたくさんいるのに、仲間の言葉には聞く耳持たずだったのは残念。

映画のほとんどを占めるのは戦闘というか戦争で、それぞれの軍の人数の多さにまず圧倒される。楯をがっと並べてその隙間から槍を出した守りの部隊と、それを乗り越えて戦闘部隊が飛び出してくるシーンも恰好良かった。

人間は馬に乗っているのは、まあよくある風景である。その中でもバルドが白馬に乗っているのは、周囲にも村の代表と認められたようでかっこいい。他の種族が他の乗り物に乗っているのが面白い。
エルフの王スランドゥイルはムースのような大きな角をつけた動物に乗っている。左右の角で三匹ずつオークをとらえて首を刎ねるのが恰好良かった。また、動物の大きな角とスランドゥイルの太い眉毛がなんとなく合っていたのもおもしろい。
ドワーフ軍の代表、トーリンのいとこのダインはイノシシのような大きな豚のような動物に乗っていた。ドワーフは体が小さくごつっとしているが、動物も同じようなイメージだった。
それぞれの種族がそれぞれの体に合った動物に乗っていた。また、その動物たちが装飾品や鎧を身につけているのも見ていて楽しかった。ちょうど『300』の象のように。
動物の装飾だけではなく、武器などの造型のこだわりや一つの画面の中での情報量の多い戦闘、大人数が入り乱れているあたりなど、ところどころで『300』を思い出すシーンはあった。

トロールが出てきた時のその大きさにも驚いた。ここも引いて撮っているので、人間大に比べての巨大さがわかる。その攻撃方法もおもしろく、背中に二、三人オークを背負っていて、トロールが屈んで後ろのオークたちがパチンコの容量で石を飛ばし、壁を破壊していた。
このような、ストーリーとはまったく関係のない細かいところに凝っている様子も『300』っぽい。逆に言えば、今作はそのほとんどが戦闘シーンで占められているので、凝ってはいるけれど、内容はほぼないです。

前二作を観ているときもゲームっぽいなと思っていたのですが、それはファンタジーRPGっぽかった。今回は、ゲームはゲームでもジャンルは違う。大人数の戦闘は戦国BASARAのようだったし、後半のトーリンやキーリがアゾク達と戦う一対一の戦闘は格闘ゲームのようだった。どちらにしてもアクションです。

倒れた塔を橋代わりにして、壊れるところをひょいひょいジャンプして渡るレゴラスは、エルフの軽やかさがよくわかった。華麗でした。ゲームだったらあんなにタイミングよくジャンプするのは難しそうと思ってしまった。

その次のアゾクとトーリンの戦闘は更に難しいステージといった感じだった。まず、足場が氷になっているため立っているのもやっとで戦いづらい。そして、鉄球のようなものを打ちつけてくるので、避けても足場が壊れる。これは難易度が高い。

戦闘は戦闘で、これ単体で見れば非常に見応えはあって面白い。ただ、140分のほとんどが一つの戦闘で、しかも、これがホビットの最終章というのはどうなのだろうと思う。別の映画だったら最高でした。

戦闘が終わったあとには、きっとこれは『ロード・オブ・ザ・リング』に繋がるのだろうなと思うエピソードも出てきた。
レゴラスの向かう先のことも出てくるのだろうし、ガンダルフがビルボの家を訪ねてくるシーンで終わったけれどそこから始まるくらいなのではないかと思う。また、序盤だけれど、森の奥方が追い払ったネクロマンサーたちのことも出て来るのだろう。

毎度お馴染みのHFRで観ましたが、相変わらず明るいシーンでは色がはっきりしすぎてコントのようになっていた。
ただ、今回は村が焦土にされるのも夜だし、戦闘シーンも雪が積もっていて空も曇りのため、あまり日中のシーンはなかった。
また、瞳の色がいつも綺麗な色になるのが目をひいていたけれど、アゾクの小さな瞳まで綺麗な澄んだ色になってしまっていた。

前二作と雰囲気は違っても、画面につめこまれた情報量という面では同じなので、高画質のほうが細かいところまでよく観られたとは思う。

あと、HFRは関係ないかもしれないですが、今回もカメラが後ろにぐわーっとひくことで全体の広さを示す撮り方をしていて、これが毎回酔う。

あとこれも、別にHFRとは関係がないかもしれないけれど、スマウグが上空後方から来るシーンで、本当に映画館の後ろのほうから飛んできたように錯覚した。

原作は600万部売り上げた小説であり、作者のギリアン・フリンは脚本として携わっている。デヴィッド・フィンチャー監督作品。音楽はすでに常連になったトレント・レズナーとアッティカス・ロスで、この辺も楽しみにしていました。

以下、ネタバレです。






何度か映画館で予告を観ていたんですが、その印象とはまったく違うものとなった。
妻エイミーが失踪したポスターの横で偽っぽい笑顔を浮かべる夫ニック。水に沈んで行くエイミーの映像から、誰かに殺されたか自殺したか、とにかくもう死体は上がったのだと思っていた。
そして、次第に周りから疑われるニック。「殺していない」というセリフから、何か陰謀に巻き込まれようとしているのか、或いは本当に殺したけれど偽っているのかと思っていた。
妻が殺され、夫が疑われながらも犯人を捜し出すという話だと思っていたのだ。要は『Prey』と同じ感じですね。

また、最初に見た特報では『SHE』が使われていたのもずるい。いかにも恋愛映画でござい、といった風だった。

現に序盤の回想シーン、出会いのシーンやプロポーズのシーンは、ロマンティックムービーのようだった。ベーカリーの裏で、雪のように舞う粉砂糖が口唇に付いていたのを指で払ってキスをするシーンも素敵だった。
ここで使われている曲が、ふわっとしていて幻想的なものなんですが、どこか不安感をあおるもので、このさじ加減がやはりあの二人の仕事なのだと感じさせた。手放しで幸福感に浸れない。

序盤ではニックの浮気がバレたり、実は二人とも失業して、金の切れ目が縁の切れ目かと思うようなギスギス具合だったりと夫婦間がうまくいっていなかったことがわかる。これはもしかして本当にニックが殺しちゃったのかもしれないと思いながら観ていたら、どうやら罠にはめられたようで、しかも罠をしかけたのがエイミーではないか、という疑いが出てくる。

ニックと彼の味方でいたいと思う妹、彼を疑う警察官の視点で進んでいき、失踪しているエイミーは失踪しているので当然ですが、回想シーン以外には出てこない。エイミーに関しては予測しか出来ない。ここまではなんとなく普通のミステリーのようだった。

しかしその後、話がエイミー視点になるのだ。事件を探る側が真実に辿り着くわけではなく、“犯人”自らの視点で、手口をばらすのがおもしろい。
しかも、ラストではなく映画の中盤過ぎくらいで出てくるのは珍しい。

それは思っていたよりもずっとおぞましい真実で、しかもそれがなんてことのないことのように、駆け足で説明される。
自分の血を抜きながら本を読んでいる姿も、妊婦の尿をこっそりと採取する姿も、なんとも思ってなさそうに見えた。
用意周到、長い間かけて練られた計画で、慌てること無くてきぱきと犯罪現場を作り上げる様子はコミカルで痛快にも見えた。
ここでは、少しNINを思わせる曲が使われていた。

ここまでの回想シーンででてきたエミリーとはえらく違っていた。おそらく、警察や夫のニックでさえも見たことの無い姿だと思う。
前半とここ以降、エミリーを演じるロザムンド・パイクがまったく違う人に見えるのがすごい。豹変している。前半だと聡明で明るくて美人で…という感じだったけれど、ここからは聡明なのは聡明なのだろうが、違った方向にその才能を生かしている。表情も強かで冷たい。
逃亡しているからノーメイクだったり、パートナーに暴力を振るわれたように見せるために自分で自分をかなづちで殴ったりと、なんでもする感じだった。

ニックは友達はいなかったんじゃないか、妊娠しているはずは無いと言っていた。浮気をしていて、気持ちは離れていても、ある程度正しいところを見ていたことになる。
また、妹がエイミーのことを好きなれないと言っていたのも、女の勘というか、正しかったことになる。

しかも、話が進んでいくと、エイミーの昔の彼もレイプ犯に仕立て上げられたという話が出てくる。今回が初犯ではなかった。前からのことだと考えると、結婚記念日の宝探しについても同じなのかもしれない。緻密な計画を立てて、人を引っ張り回す。
このように歪んでしまったのは、おそらく母親の書いた絵本が原因なのだろうと思う。『完璧なエイミー』という同じ名前のキャラクターで、明らかにモデルにされているのに、現実のほうが劣っている。人間なのだから当たり前だ。でも、母親はおそらく、理想を押し付けたのだろう。だから、エイミーも相手に完璧な理想を求めた。

逃亡中に金を盗まれたエイミーが縋ったのは、昔ストーカーじみたことをされたデジーだった。ニール・パトリック・ハリスが演じてます。ここでなんでデジーに連絡したのだろう。本当に頼れる友人なんていないのだというのもわかる。気が動転していて忘れてしまっていたのかもしれない。少し考えればわかりそうだけれど、エイミーはデジーの別荘で軟禁状態にされてしまう。

ニック側ではエイミーの死体は出ないし、マスコミや世間の声が次第にニックを犯人にしようとしていて、警察もそのように動き出していた。絶体絶命の中、テレビで良い夫を演じることで一旦は収まるけれど、それを見たエイミーは帰りたいと思う。
理想の夫は演じられていたものでも、それを見て惚れ直す。結構、惚れっぽい面もあるのだと思う。
ただ、軟禁状態でどうするかといったら、また計画を立てて、偽装して、逃げてくる。いままでと一緒のことだ。

血だらけで帰って来たエイミーをニックは抱きしめるが、あくまでもテレビ向けのこと。頬にキスなども、見えない角度で口唇をパッとやるだけ。

マスコミや世間は勝手で、その様子を見て理想の夫婦などとまつりあげるが、ニックはたまったものではない。でもエイミーは繋ぎ止めておきたい。
そこでどうするかといったら、また計画を立てて実行する。
不妊治療中だったため、ニックの精子が病院にあったので、それを使って勝手に子供を作ってしまう。

子供のことを出されたら、もうニックも別れられないんですよね。エイミーの望みが全部叶えられたところでおしまい。
エンドロールに使われているのは、後味の悪さを示すような曲でした。なんともいえないもやもやした気持ちが胸の奥にずんと残っているのに、重さを更に追加するような曲だった。不安感が増す。
そんなところで終わって、その先を私たちに委ねられても。
刑事と妹がどうにかしてくれるのに期待するしかない。

本当だったら、エイミーが逮捕されたり、エイミーがこうなってしまった原因と思われる母親とのなんらかの和解などがあると、見終えてすっきりするんですが、そんな甘い終わり方ではなかった。

最初と最後に使われているのが同じ感じのショットなんですが、セリフは一緒だけれど、エイミーも同じ顔だったのだろうか。明らかに、最後のエイミーのほうが怖いことを考えているように見えた。映画が始まる前と最後とでこれほど印象が変わるとは。

ベン・アフレックの良い夫に見えるけれど、実は流されやすく弱い部分があるという演技も良かった。カメラを向けられて笑ってしまう部分はつられすぎだろうと思う。そういえば、顎を指で隠して話すシーンがあったけれど、これは原作だとどうなっているのだろう。ベン・アフレックだから顎なのだろうか。

それでも、やはりこの映画はロザムンド・パイクなのだと思う。『ワールズ・エンド』で観た時には、さばさばしていて好感は持てるけれどちょっと田舎っぽい印象だった。今作では、ちゃんとしているときには気丈で洗練された美人に見えるし、裏の顔は血の気がないというか硬い表情で、本当に怖い。
ただ、憎らしいけれど、なぜかもっと観ていたいような、不思議な魅力があった。