2014年公開。フランスでは2013年公開。
ロマン・ポランスキー監督。『おとなのけんか』を思い出すような舞台調の作品だった。こちらも元々は舞台とのこと。主人公トマはヒュー・ダンシーが演じたらしい。
一発撮りなのか、すべて長回しなのか…と思うほど、場面の転換がない。映画内の時間経過がそのまま現実の時間経過になっている。
映画を観ているのに、観劇体験が味わえる。
ある劇場内の出来事だけで、登場人物も二人のみ。途切れないので目が離せず、緊張感があってスリリング。

ある台本作家の男トマ(マチュー・アマルリック)の元に、オーディション希望の女性(エマニュエル・セニエ。監督の妻だそう)が現れる。
トマは一日主演女優のオーディションをしていて、質の低さに悪態をつく電話をしていた。現れた女性は他の人のオーディションが終わった頃に現れたし、外の雨でずぶぬれだし、どこか娼婦のような下品な服装で演技なんてできそうもない。トマも馬鹿にしていたようだった。

けれど、ためしに読み合わせをしてみると、台本はしっかりおぼえているし、主演の女性の気持ちも理解できているようだった。
ここで演じられる劇中劇がレーオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホの小説『毛皮を着たヴィーナス』。SMのM(マゾヒズム)の語源となったマゾッホである。

読み合わせをする俳優が帰ってしまったために、男性役をトマ自身が読むが、さっきまで普通に話していたのに、役に入ると急に空気が変わる。
彼女は演じているだけなのか、もしかしたら、演技ではなく本心なのではないか。女性の名前が役名と同じワンダなのも手伝って、境目が曖昧になって余計にドキドキする。どこまでがセリフなのかわからない。けれど、役から素に戻れば、やっぱりさっきと同じような感じで…。落差に驚いているが、やっぱり読み合わせを再開したら、また二人きりの濃密な時間が流れる。翻弄されながらも、ワンダにのめりこんでいくのがわかる。

観ている私もトマと同じ気持ちになっていた。
最初こそこいつなんなの?と思っていたし、警戒もしていた。けれど、途中からこの謎の女性のたくらみなんて考えなくなっていた。
きっとこの女性は本当にこの役が欲しかったのだろう。そして、演じているうちに自分と同じように演じることに夢中になってしまい、芝居と現実の区別がつかなくなって…。一緒に堕ちて行くような幸福な終わり方を想像していた。

劇中劇は服従に関する話なので、「シルブプレ(お願いします)」というセリフがよく出てきた。二人のやりとりがフランス語なのがセクシーでいい。

ただ、劇中劇にわざとらしい効果音がつくのがおもしろい。多少コミカルなので、没頭している姿を嘲笑うかのようにも思えた。それか、踏みとどまれという警告か。

後半でトマ自身がワンダを演じ始める。最序盤で、「いい女優がいないから、俺が網タイツ履いて演じてやろうかな!ガハハ」みたいなことを冗談めかして言っていたけれど、深層心理では本心だったのだ。
ワンダにレザーのブーツを履かせてもらう。女言葉を使い出す。恋い焦がれる人物に自分自身がなってしまうパターンだ。それだけではなく、さっきまでMだった人間が一転してSになる。SM紙一重である。どっちもいい。

ワンダに言葉巧みに乗せられて、女性の恰好になり、舞台セットに縛り付けられ、真っ赤な口紅を塗られる。ああ、どうなってしまうの…というところで。

ガーンと下に落とされる。そんな上手い話はねーよと言わんばかりに、上げて上げて落とされる。
ワンダが行ったのは、女性蔑視への復讐である。
最初の電話のシーンでは、「俺が演じてやろうかな」というセリフの他にも、しっかりとオーディションに来た女優たちを馬鹿にする発言をするトマがとらえられていた。
そして、ワンダがアンビギュアス(Ambiguous=曖昧)とアンビバレンス(Ambivalence=両面価値)と間違えるのが何度か出てくるけれど、それも示唆だったのだ。
好きだけど嫌いというふたつの感情が渦巻いていたのだろう。

最後、ワンダは悪魔のような顔をして踊っていた。上半身をはだけていても、まったくセクシーではない。先程までの、服を着ている姿のほうがよっぽどセクシーな雰囲気だった。

あまりのことに拍子抜けしてしまうけれど、拍子抜けさせるための作りなので仕方がないだろう。急に夢から覚めたようになる。

女装をして、舞台のセットに縛り付けられて、口紅を塗りたくられて、トマは一人残されぽかんとしている。
馬鹿みたいに見える。トマだけじゃなく、私も取り残された感じがするので、たぶん同じ顔をしていただろう。






監督は『マン・オブ・スティール』に続き、ザック・スナイダー。ブルース・ウェイン役にベン・アフレック、レックス・ルーサー役にジェシー・アイゼンバーグ。

わからない部分が多数あったので、まともな感想が書けない。それは、そもそも原作であるアメコミを読んでいないからわからないものなのか、読んでいる人でもわからないのかすらわからない。

一応ですが、
原作であるアメコミはまったく読んでいない。
バットマン映画はノーラン三部作しか観ていない。
スーパーマン映画は『マン・オブ・スティール』しか観ていない。
SNSで漏れ聞こえてくる俳優関連の知識だけは入っている。

こんな状態だけで観ました。

以下、ネタバレです(でもネタバレのようなこともできていないかと思う)。








ブルース・ウェインの過去、両親が殺されるシーンから始まるが、本作でクラーク・ケントの過去については特に語られない。それは、『マン・オブ・スティール』を観てねということなのだろう。途中で、地球での父親であるケビン・コスナーも出てくるし、明らかに続編である。ただ、『マン・オブ・スティール』というタイトルでスーパーマンだとは思わない人もいるかもしれないし、この映画を最初に観ている人も多そう。
クラーク・ケントの恋人であるロイス(エイミー・アダムス)もいきなり出てくるし、本作から見始めたらわからない部分もありそう。

『マン・オブ・スティール』の最後のバトルでは町を壊しまくっていて、本当に守ろうとしているのか、住んでいる人、働いている人などは大丈夫なのかと思っていたが、それはただ派手さを追求しようとした描写ではなく、伏線だったようです。このことが問題になっていた。
ただ、これで人々がスーパーマンに対し、畏怖の念をいだいて、バットマンをあのライトで呼んで倒してもらう、みたいな話なのかと思っていたけれど、そうではなかった。
それだけなら、とてもシンプルだし、わかりやすかったと思う。でも、レックス・ルーサーがいらなくなってしまう。

バットマンがどう思うかはおいておいて、世間の人々はスーパーマンのことをずっと怖がっているのかと思っていたらそうでもないようだった。
メキシコの死者の日にはスーパーマンが事態を救っていて、そこでは皆が感謝をしているようだった。スーパーマンを真ん中に置いて、骸骨(メイクの人たち)が手を伸ばしているのは、少し不吉さも漂って絵が恰好良かった。ポスターにしてほしい。

結局、レックス・ルーサーの暗躍で二人は戦うことになるのだが、そこにたどり着くまでがとても長い。予告編や、もちろんタイトルでも二人が戦うのはわかっていることだ。ちょっとひっぱりすぎな感じもした。ザック・スナイダーなこともあって、画面もずっと暗いです。

レックス・ルーサーがロイスを屋上に呼び出すあたりからがわくわくしました。かなり後半だけど。
レックス・ルーサー役のジェシー・アイゼンバーグ、彼らしい早口は今回も健在。けれど、いつからか童貞臭がしなくなってしまった。髪型かもしれない。でも、彼女がミア・ワシコウスカだもんな…。垢抜けるに決まっている。
キレモノというか、危ない部分はあるけれど、恰好良い天才のようになっていた。

ただ、結局、レックス・ルーサーがなんで二人を戦わせたのかもよくわからなかった。最初は、自分は父親から愛されなかったけれど、養父にさえ愛されたクラーク・ケントに対する恨みなのかとも思ったけれど、そんな人間味のある面を出してくるとも思えない。
バットマンとスーパーマンの共倒れを謀ったのだろうか。二人が同時に消えたら自分の計画がやりやすくなるとか。

たぶん名前があるのだと思いますが、バットマンがスーパーマンと戦うときに着てくるゴツゴツしたスーツが恰好良い。重くて動きづらそうだけど、ただの悪党ではなく神様と戦うにはあれくらい必要なのだろう。

それにしたって、普通の人間では無理なのではないだろうか?と思っていたが、エメラルドの物体(クリプトナイトというらしい)が弱点らしく、それで倒すことができそうだった(ちなみに、倒れたスーパーマンの足を持って引きずるシーンで、赤いマントが床に大きく広がっているのも恰好良かった。ここもポスターで欲しい)。
しかし、映画を観ている側はスーパーマンが悪ではないことを知っているし、戦いたくて戦っているわけではないことを知っている。だから、バットマンがんばれ!という気持ちにはなれない。

大ピンチだけどどうするのだろう?と思っていたら、スーパーマンは「マーサ」という名前を口にする。それはクラーク・ケントの養母の名前なんですが、ブルース・ウェインの母も同じ名前のため、手が緩む。
一瞬、え?兄弟?と思ってしまったが、ブルースの母は撃たれて死んでしまっているし、もちろんそんなわけはない。ただの偶然である。そんなご都合主義でピンチを脱出するなんて許されるの?と思ってしまった。けれど、それは私がここまで両母親の名前を意識してなかったから、そんなこと急に言われてもと思っただけで、元々アメコミを読んで、常識として母の名前が同じというのを知っている人からしたら、伏線回収とかうまく生かしたなと思うのかもしれない。

そして、わりとあっさり共闘することになる。二人が戦っている時間はほんの少しだった。もう一回くらい、映画の前半にバトルがあったら良かったのに。一回目では引き分けのまま帰って、もう一回対戦、それで共闘するくらいが良かった。
共闘ものや呉越同舟ものは好きだけれど、もっと争ってからタッグを組んでほしい。

そして、共通の敵、ドゥームズデイと戦うんですが、この敵も知ってたら盛り上がったんだろうな…という感じがした。名前はなんとなく知っていた。

二人で戦っていたところに駆け付けるのがワンダーウーマン。彼女についても、昔テレビで観たことはあったけれど詳細わからず。
でも、各所で彼女が出てくる時の音楽がめちゃくちゃ盛り上がると聴いていて、映画で実際に観たときにこれか!と思って顔がにやけてしまった。“Is She with You?”というタイトルです。
今回、音楽はハンス・ジマーとJunkie XLなんですが、この曲はJunkie XL色が強いと思う。『300<スリーハンドレット> 〜帝国の進撃〜』の後半の、ネタバレになるので詳しくは書きませんがすごく盛り上がるところがあっって、そこの音楽に似ている。この映画の音楽もJunkie XLです。

そして、最後もあっさりとスーパーマンが死んでしまって驚いた。この先、ヒーローがいっぱい出てくるみたいだし、スーパーマンはここで退場なのかもしれないな…と思っていたが、最後の最後に…。

本当に、話はよくわからない部分も多かった。けれど、そこで匙を投げたくなるわけではない。これから何かが始まるワクワク感は確かに残った。

ワンダーウーマンがフォルダを確認しているシーンでは、他のヒーローの姿も少しだけ見ることができる。エズラ・ミラーが一瞬映ったときに、そういえば、結構前に彼がDCのヒーローをやるという話を聞いたことを思い出した。あの稲妻のアイコンはザ・フラッシュというヒーローらしい。他の二人、海の中にいたのはアクアマン(ジェイソン・モモア)、サイボーグ(レイ・フィッシャー)とのこと。

“ジャスティスの誕生”というサブタイトルから、ただ単にスーパーマンとバットマンのどっちかが勝つか、二人で何かに勝つかして、そのまま、正義の味方見参というような意味かと思っていた。けれど、このジャスティスって、ジャスティス・リーグのジャスティスだったのか。
物語の動き出す瞬間が確かに目撃できる。

マーベルのヒーローチーム、アベンジャーズと比べると(比べたら怒られるかもしれない。DCファンとマーベルファンは、スタートレックファンとスターウォーズファンみたいなものかもしれないし、原作ではジャスティス・リーグのほうが前らしいので。でも、原作未読のため、映画の話として、敢えて比べると)粋なセリフが少ないかなと感じた。トニー・スタークのようなお調子者がいないからだろうか。

それでも、ドゥームズデイとのバトルでワンダーウーマンが出てきた時、スーパーマンとバットマンが「君の知り合いだろ?」「いや、お前のだろ?」って二人で「誰?」ってなっているのはおもしろかった。

あと、執事のアルフレッドは、『ダークナイト』のマイケル・ケインも皮肉っぽいことを言いながら、ぼっちゃんに対する愛はかかさないとてもいい役だったんですが、今回もとてもいい。今回はジャレミー・アイアンズです。『ブライズヘッドふたたび』のチャールズも良くて、もちろんだいぶ年はとっているけれど、いい年の取り方をしている。無精髭、シャツ腕まくり、なのに上品。眼鏡も似合っています。

レックス・ルーサーは原作では坊主なのに、ジェシー・アイゼンバーグの髪の毛はそのまま…という不満も某SNSで見かけたのですが、ラスト付近で、捕まって髪剃られていた。なるほど! なんとなく、『007 スペクター』のブロフェルドの近くに毛の長い白い猫が歩いていたシーンを思い出した。がっつりでなくても、ちょこっとした原作オマージュ。それに、レックス・ルーサーは死んでいないので、次作以降はもしかしたら坊主で出てくるのかもしれない。

レックス・ルーサーは自分の部屋にある、下から悪魔が這い出てこようとしている絵画を見て、「この絵は上下逆だと思わない? 悪魔は本当は空から来るのに」と言う。もちろん、スーパーマンのことを示しているのだと思うけれど、映画のラスト付近で、部屋の絵が逆になっているのが映る。レックス・ルーサーはまだスーパーマンに対する恨みというか悪意というか、想いを抱えたままなのだろう。このままで終わるとは思えない。

思い出していると、何故だかもう一度観たくなってしまう…。よくわからなかったのに不思議な映画。




2010年出版の“Unbroken”という同タイトルのノンフィクション小説がもとになっているとのこと。
アンジェリーナ・ジョリー監督、コーエン兄弟脚本と日本でも話題になりそうな布陣なのに、公開規模がとても小さい。
それは、週刊誌によって、反日映画というレッテルが貼られたせいなのかもしれない。はっきりいって、これが反日映画として公開しないのなら、『レイルウェイ 運命の旅路』や『戦場のメリークリスマス』も公開できない。
また、人肉を食べる描写があるというようなことも言われていたようですが、出てきません。「日本人は魚を生で食べる」というセリフとの勘違いかと思っていたけれど、原作では少し触れられているらしい。
こんなことで公開規模が小さくなってしまうのは惜しい映画だった。それでも、公開してくれただけでも良かったけれど。

タイトルですが、“アンブロークン”を前にして『アンブロークン 不屈の男』にしたほうが探しやすいのではないかとも思ったけれど、少しでも、あの反日映画、カニバリズム描写がある…といった情報を忘れさせるために逆にしたのかもしれない。

以下、ネタバレです。






映画は大きく前半と後半に分かれている。オリンピックの陸上選手であるルイ・ザンペリーニが戦争で戦いながら、過去の選手生活を思い出していると、乗っている飛行機が撃墜されてしまう。海上に不時着したものの、生き残ったのは三名。
ここから『ライフ・オブ・パイ』や『白鯨との戦い』のような海上漂流ものになる。もっとゴリゴリの戦争映画だと思っていたので意外だった。
ここからしばらくは、ルイを演じるジャック・オコンネルとフィルを演じるドーナル・グリーソン、マックを演じるフィン・ウィットロックの三人芝居です。
食料や水は尽きそうになる、照りつける太陽、下には鮫、助けは来ない…。どんどん痩せていくが、特にドーナル・グリーソンは大丈夫なの?と心配になるくらいあばらが浮き出ていた。
本作、キャストも豪華ですが、この前見た『マネー・ショート』で気になったフィン・ウィットロックはここでも恰好良かったです(ちなみに、『マネー・ショート』でコンビを組んでいるジョン・マガロはどこに出てきたのかわからなかった)。ただ、マックは海上で途中で息絶えてしまう。ここで出番が終わりかと思うと残念でした。

そして、待望の助けが来る。が、近づいて来たのは日本軍の船だったため、二人は捕虜にされてしまう。
ここからが後半。海上漂流ものは終わり、作品のカラーがガラッと変わる。

ここで、収容所の所長、渡辺伍長を演じるのがMIYAVI。名前は聞いたことがあったものの、あまり詳しくは知らない人でした。ミュージシャンで俳優としては本作が初とのこと(インディーズ映画には出ている模様)。
渡辺は捕虜を痛めつけて従わせることで喜びを得ているような人物だった。これが、MIYAVIとよく合っていた。外見は若い頃の岡村靖幸とか鳥肌実のようだった。蛇などのは虫類を思わせるような、ぬめっとした陰湿な目つき。顔は整っていて、感情が欠落しているように見えた。“美しく創られた怪物”ともとの小説に書かれているらしい。
英語は特別うまいわけではないけれど、日本語より英語のほうが演技がうまく感じた。

捕虜の収容所の代表者みたいな役でルーク・トレッダウェイも出ていた。顔もですが、演技も際立って良かったのは知っている役者だからだろうか。

収容所の外の日本描写も少しあったのですが、よく外国人によって描かれるようなトンデモ日本じゃないのが好感が持てた。
町を歩く人の服装、モダンな建物などがしっかりしていたのは、監修が入っていたのだろうか。

収容所に送られるときに、ルイとフィンはばらばらにされるので、そこでドーナル・グリーソンも出てこなくなる。
渡辺が他の捕虜たちに、プロパガンダ放送を拒んだルイのをことを殴れと言うシーンで、捕虜たちは当然嫌がるのだが、そこで代わりにどこからか連れてこられたフィンが殴られる。ルイはそんなことは当然許せないから「俺のことを殴ってくれ」と捕虜たちに言う。後半ではここの少しのシーンだけだったかな…。頭を怪我していたし、労働はしていなかったのだろうか。
もしかしたら途中で死んでしまったのではないかと思っていたけれど、最後に生きていたという報告が文字だけで出る。それならもう少しドーナル・グリーソンが出てきたら良かったのにとも思うけれど、あくまでもルイを軸にした話なので、入れなかったのかもしれない。

後半、渡辺に命じられて、ルイが重い木材を持ち上げるシーンがある。木材は棒状だったし、ルイが痩せて髭もはえているせいか、キリストにも見える。
海上で漂流しているときに、助かったら神の道に入ると言い、戦争後に実際に入ったらしいのと、渡辺や日本軍のことも“赦す”というのがテーマになっているので、キリストのように見えたのも意図された映像なのかもしれない。

最後、実際のルイが日本に来てマラソンを走っている映像が流れた。1998年の菜がのオリンピックの聖火ランナーだったらしい。にこやかに沿道の日本人に手を振っていて、涙が出てきた。
『戦場のメリークリスマス』でセリアズがヨノイにキスをするシーンを思い出した。あれも“赦し”だろう。『レイルウェイ』の手紙の交換も同じだ。

戦争について考えさせられる面も存分にあるし、おもしろかったけれど、実在の人物に起こったことを辿っているだけにも思え、作りがやや単調にも感じた。
上映時間137分ということで、前半の海上漂流パートが長い気もした。捕虜パートだけでも良かったかもしれない。ただ、個人的にはフィン・ウィットロック目当てだったため、前半が削られると彼の出番が無くなってしまうのも困る。
あとやはり、二つの困難を乗り越えたということを描きたかったのだろうから、両方無くてはいけなかったのだろう。
ちなみに、原作では戦争後のルイの人生も描かれていて、これはこれでとてもおもしろいらしいので読んでみたい。

なんにしても、俳優が監督をしたとは思えない、良い出来だと思う。小規模上映になってしまったのは本当にもったいない。


『凶悪』



2013年公開。ノンフィクション小説『凶悪 -ある死刑囚の告発-』の映画化。
死刑囚の告発というサブタイトルの通り、死刑囚に面会に行くシーンが軸になっている。軸にはなっていても、そのシーンが長いわけではない。

序盤、死刑囚須藤(ピエール瀧)の面会に行った記者藤井(山田孝之)が、「事件の首謀者が娑婆にいるのが許せないから、記者の力で刑務所に入れることはできないか」と過去の事件の告発を受ける。

映画の最初に、捕まる前の須藤のシーンが少し入るんですが、ほんの少しだけでも酷い所業で、なんとなく、すべて仕組まれているのではないかと疑ってかかってしまった。須藤の証言は曖昧だし、調査もうまくいきすぎているように思えた。曖昧な証言の裏付けがとれるにつれ、もしかしたら娑婆にいるという首謀者と結託していて、首謀者が根回しをしているだけなのではないかと思ってしまった。
また、藤井は会社の上司からこの事件を追うのを止められている中、独自に取材をしていた。誰も知らないで単独行動をとって、ドツボにはまるタイプではないか。

藤井が調査するうちに様々なことが明らかになり“先生”と呼ばれる首謀者の姿が見えてくる。とはいえ、この必死で追っていて謎とされている“先生”がリリー・フランキーなんでしょ?と思っていた。リリー・フランキーが演じることを知らなければ出てきた時の衝撃度が違ったのに…と思った。メインキャストの一人だったので、知らないでいるのは不可能だけれど。

ただ、映画は“先生”の行方を追うものではなかった。
ある、古びた家の埃で曇った窓ガラスを拭き取り、藤井が中を覗いた時に、ベルトで首を絞めて人を殺す“先生”を目撃する。そこから過去パートに映る。
この時間の遡り方はおしゃれだしうまいと思った。

ここから先、須藤と“先生”による、タイトル通り、凶悪な悪行三昧が映し出される。長いし、映画を見終わってみると、この過去パートに裂かれている時間が長かった。
こう、映画の感想を書くときに、内容を思い出して反芻する作業をするのですが、それすらも嫌だし、文章に残してしまうと頭にもより鮮明に残ってしまうので書きたく無い。

弱い老人が虐待され、殺される姿だった。何人も、しかも残虐に。殺す側のピエール瀧とリリー・フランキーの演技は、もう本当に嫌だけれどうまい。この二人は他の作品だと少し浮世離れしてるけれど良い人みたいなのを演じていることが多い。けれど、何を考えているのか、心の奥底は見せない怖さも抱えている。二人は似たイメージである。そして、本業が俳優ではない。よくこの役にキャスティングしたと思う。
この中盤の長い過去パートには、良心となる記者藤井も出てこないし、もちろん警察も出てこない。悪い奴が長時間のさばる。見てられない、はやく終われ、きついと思っていた。

序盤に、須藤が舎弟を車の中で銃殺するシーンがある。序盤の時には部下の腹に銃を突きつける須藤の姿を映したあと、遠くから車を撮り、車がカッと光るのと銃声が聞こえる。これで、ああ、殺したんだなとわかる。わかるじゃないですか。
けれど、中盤の長い残虐過去パートでは、このシーンも車の中から撮っている。撃たれる舎弟、撃つ須藤の姿を至近距離でとらえる。
このシーンを見て、ああ、敢えて、だったかと気づいた。最近観た『サウルの息子』や『マジカル・ガール』は残虐な部分はわざとぼかし、観る者の想像力に任せた。この映画では、敢えて、これでもかというくらい残虐な部分を詳細に撮っている。どちらがいいとか悪いとかではなく、手法の違いです。

“先生”が外で電話をしていて、そこも過去パートだと思ったんですが、その様子を張り込んでいた藤井が撮影して、現在に戻ったのがわかる。この戻り方もなかなか粋。
そして、過去パートというよりは、藤井が取材し、知った真実なのだとわかる。ここで、藤井の頭の中と、観客の頭の中が同期された。藤井が取材した内容なのに、藤井視点でやらないのもまたうまい。

再び、刑務所で須藤と藤井は面会するが、藤井の顔つきが序盤と変わってしまっていた。序盤はただの使命に燃える記者といった感じだったけれど、ここではげっそりしていた。表情が死んでいる。家庭の事情もほったらし、とりつかれたように事件を取材していたこともあるだろう。真実があまりにも酷かったせいもあるだろう。疲弊しているのは観ている私たちも同じである。
序盤と同じ構図なのに、表情が違うだけで受ける印象がまったく違う。
「キリスト教に入信したんですよ」などと言いながら、表情がすっきりしている塀の中の須藤に比べて、藤井はどんよりしている。どちらが犯罪者なのかという顔をしていた。

藤井は事件の全貌を知るうちに、犯罪者のことが許せないという思いが強くなっていった。犯罪者たちがのうのうと生きていては、殺されて行った人がうかばれない。犯罪者たちを刑務所に入れるだけではなく、死刑にすること、それが藤井の目的になっていたようだった。

家で痴呆症の姑の世話をする妻に苦労を話されても、「このままでは死んでいった人の魂がうかばれない!」と怒鳴っていた。それはそうなんだけれど、妻も「私は生きてるんだよ!?」と言っていた。ここも少し『サウルの息子』を思い出した。周りが目に入らなくなっている点でも同じ。結局藤井も、この事件にとりつかれている。

難しい問題ですけど、話は死刑制度の是非に帰結する。
藤井が取材した結果により、“先生”も刑務所に入るが、立件できる殺人が一件のため、無期懲役がせいぜいではないかという。藤井はなんとしても死刑にしたいから、もっと取材を続けようとする。

藤井との面会に応じた“先生”が、「私を一番殺したいと思ってるのは被害者ではなくて…」と言って、ガラス越しににやっとしながら藤井を指差す。お前だと言わずに、指だけ差すのがまた怖い。対面していた“先生”が去った後で、藤井の強張った表情がガラスに映っているのを撮るのも味わい深い。いままで、面会シーンでは、話す人物の顔を正面から撮るシーンが多かったのだ。

最後には映画を観ているあなたはどう思いますか、という問いかけだけが残る。もちろん、そんなモノローグは出ないし、文章が出るわけでもない。
けれど、あなたも藤井と一緒に、おぞましい事件を見てきましたよね? 許せないのはもちろんとして、死刑になったほうがいいと思う? それとも、生きて罪を償わせたほうがいいと思う?と問いかけられているようだった。藤井の執念を理解させるために、中盤にこれでもかというほどの長くて残虐な過去パートを入れたのだ。

難しい。こちらを指差す“先生”は、気に食わないことがあったら死刑とは、結局お前(ら)も俺と一緒の人殺しだろとでも言いたいようだった。
藤井を突き動かしていたもの、それは最初は正義感(ともしかしたら雑誌の売り上げ)だけだったけれど、最後はなんとしても死刑にという思いだけだった。一つの思いにとらわれるのは危険なことには間違いない。けれど、無惨に殺された人がいる以上、刑務所の中とは言え、生きて些細な喜びを感じることがあるのが許せないという気持ちもわかる。私の答えはまだ出ない。




ちなみに、DVDにはキャストと監督によるオーディオ・コメンタリーが入っているらしい。たぶんそれは楽しいトークではないかと思うので、聞いて怖いピエール瀧とリリー・フランキーの印象を元に戻したい。



『英国王のスピーチ』、『レ・ミゼラブル』のトム・フーパー監督作品。
アカデミー賞ではアリシア・ヴィキャンデルが助演女優賞を受賞し、エディ・レッドメインが主演男優賞、衣装デザイン賞、美術賞にノミネートされた。

世界で初めて性別適合手術を受けたデンマーク人の実話。小説化された『世界で初めて女性に変身した男と、その妻の愛の物語』(デヴィッド・エバーショフ著)の映画化になるらしい。

以下、ネタバレです。







世界で初めて性別適合手術を受けた…というふれこみだったので、もう序盤で手術を受けるのかと思っていた。予告編だとエディ・レッドメインが女装をしているシーンが多かったので、それはもう手術後なのかと思っていたのだ。
だから、アイナーの妻であるゲルダは早々に女性になったリリーのことを受け入れるのかと思っていた。

序盤で、軽い感じで女性モデルが来ないから足下だけでも代役やってよーと頼んでいたし、脱がせた服の下に女性スリップを着ていても怒らないし、パーティに女装で行ったら?と提案していたし、もうとっくに理解をしたのかと思ってしまった。

けれど、パーティで女装したアイナーが男性とキスをしているのを見て、ショックを受けていた。まったく受け入れていたわけではなく、その後のセリフでも出てくるけれど、彼女としてはあくまでもゲームのつもりだったらしい。

ここでアイナーというかリリーにキスをする男性ヘンリク役にベン・ウィショー。あてがきではないかと思えるほど、彼のための役のようだった。それほど出番があるわけではないけれど、彼そのまんまというかぴったり合っていた。

好きな人が自分を対象にしなくなるというのはショックである。スタート地点にも立てない。嫌われたほうがまだマシという気もしてくる。しかも、少し前までは自分を愛してくれていたのだ。
もしかしたら、最初は別の男性をキスしているところを見て、浮気現場目撃みたいな気持ちになったかもしれない。けれど、もっと問題は根深いと途中で気づいたのではないだろうか。

女装をやめてほしい。リリーにはならないでアイナーに戻って自分を愛してほしい。その気持ちもわかる。
けれど、その努力をしたところでもう戻れないというリリーの気持ちもわかる。

観ていて、グザヴィエ・ロランの『わたしはロランス』のことを思い出した。けれど、ロランスはトランスジェンダーで異性愛者だったのかな。もしかしたら、恋愛は関わらないパートナーだったのかもしれない。

一回目の手術を終えてから、ベッドの真ん中にカーテンのような薄い布が引かれていたのが切なかった。結婚したいというようなことを言うリリーに「私たち結婚してたのよ?」とゲルダが言ったけれど、リリーはそれは違う人とだと言っていた。もうリリーの中では完全に決別できていても、ゲルダの中ではできていない。

友情、母娘、姉妹…二人の関係はいろいろなものに例えられると思う。母娘の場合、母がゲルダです。アイナーのことを愛したままリリーと一緒にいるという状態が一番苦しいと思う。映画のラスト付近では乗り越えられたのだろうか。少なくとも、一回目の手術が終わっても乗り越えられていない。
少し見方を変えてみると、同性愛者が異性愛者に恋をした時の気持ちはこんな感じなのだろうかと思ってしまった。

助演女優賞を受賞しただけあってアリシア・ヴィキャンデルの演技が素晴らしかった。観終わった後で『コードネーム U.N.C.L.E.』のギャビーだと気がついた。ギャビーの演技がまずかったというわけではなく、あの時は60年代ワンピースに睫毛バサバサメイクだったから小娘感が強かったのだ。今回は最後のほうなどは肝っ玉母さんのようになっていた。

ゲルダは気丈な女性で、アイナーがリリーでいる時間が長くなればなるほど、どんどん強くなっていったというか、サバサバしてきていたけれど、アイナーの幼馴染みのハンスの前では弱さを見せていた。彼女にも頼る人がいて良かったと思う。わっと何かが決壊するようにして抱きしめるシーンが良かった。

ハンス役のマティアス・スーナールツが抱きつきたくなるようながっちりした体型をしている。今回はびしっとキメた恰好の金持ち独身貴族みたいな役柄で、服装も髪型もかっちりしていたので気づかなかったが、『君と歩く世界』の主人公の男性役だった。あっちはそんなに綺麗とは言えない恰好だったし、雰囲気がまったく違う。

手術後、ヘンリクに、「じゃあ、医者が君を女性にしたってこと?」と聞かれ、「女性にしたのは医者じゃなくて神様よ」と答えるシーンがある。
幼い頃にハンスとキスをした時にリリーが一度出てきたと言っていたが、それ以降、目を背けていたのだろう。忘れていたわけではないはずだ。ただ、幼い時分でもいけないことだとわかって、おそらく蓋をしていたのだろう。

女性モデルの代役としてストッキングを履き、チュチュを合わせたときの表情がとても良かった。私は恋に落ちる映画が好きなのは、この表情が観られるからなのだ。
胸の中にぽっと小さな何かが生まれる。この映画の場合は生まれるというよりも、思い出したというのが正しいかもしれない。何かしらの発見があったようなはっとした表情から初々しさと艶かしさが混じるような表情にかわり、やがて恍惚とした表情や泣きそうな表情など、様々な感情が混じり合い、溢れ出しそうになる。
セリフはないんですが、このシーンのエディ・レッドメインの表情が素晴らしかった。

ポスターや予告編でも見ていたけれど、エディ・レッドメインの女装姿が本当に綺麗だった。
最初のパーティの時、女装がバレて、こいつ男だぞ!みたいにみんなの前で辱められるシーンがあるのかと思ったけれど、無くて良かった。気づいていたヘンリクが心遣ったおかげだろうか。

ドレスが派手なせいもあったかもしれない。赤っぽい髪(ウィッグ)の色かもしれない。リリーは一際目をひいていた。

手術後にデパートの女性店員の中に混じって一緒にきゃいきゃいしてましたが、この中にいるのは確かにエディ・レッドメインなのにまったく違和感が無かったのがすごかった。

さすがに身長はごまかせないけれど女性にしか見えない。それは、化粧やドレス髪型のせいだけではない。手つきなどのしぐさの研究と、自然に出てくる表情などすべてが合わさって、女性らしさが作られていた。

原題は『The Danish Girl』。そのまま『デニッシュガール』というタイトルでも良かったのではないかと今まで思っていたけれど、デンマークの女の子とか言葉の響きとかもポップすぎるのかもしれない。
というのも、また実話で事実を知らないパターンだったのですが、二度目の手術がうまくいなかくて結局亡くなってしまうという結末を知らなかった。
世界初の手術だからそんなリスクも承知していただろう。それでも、女性の体に、本来の体になりたかったのだ。

エンドロールを見ながら、デスプラの叙情的な音楽とともに余韻にひたりながら、これはタイトルは『リリーのすべて』で良かったのかもしれないと思った。

トム・フーパー監督、『レ・ミゼラブル』の時は歌っている人物のアップばっかりで少し気になったけれども、今回もやはり人物のアップは多い。しかし、エディ・レッドメインやアリシア・ヴィキャンデルが繊細な演技をしていて、表情で語られる部分が多い映画だったので、今回はこれで良かったと思う。

あと、家を中心として建物の中の映像が多かったけれど、シンメトリーや奥行きを生かした撮り方をしていた。
デンマークの家は同じあたりからのショットが多かったのもこだわりだろう。部屋の向こうにいる人物を扉の外から撮るのもおもしろかった。

ヘンリクの住宅は、両側に黄色い長屋のような建物が奥に伸びていて印象的だった。
また、デンマークの家が四角い部分が多かったのに対し、パリでの家やその建物は丸い部分が多かった。
何かしら、建物に対するフェチシズムも感じられた。




2011年公開『モンスター上司』の続編。アメリカでは2014年に公開されたが日本ではビデオスルー。
原題が『Horrible Bosses』なので別にいいんですが、“モンスターペアレント”という言葉自体が最近使われないので、通常の意味で怪物などととらえられてしまうかもしれない。

前作で酷い上司の元で酷い目に遭わされた三人が、今作では上司につかえないで済むように自分たちで会社を起こした。シャンプーと水が一緒に出てくるシャワーヘッドで、それを紹介するテレビに出演したところ、投資家から連絡がくる。けれど、まんまと騙されてしまい…?という内容。

三人組を演じるのは前作と同様、ジェイソン・ベイトマン、ジェイソン・サダイキス、チャーリー・デイ。投資家親子はクリストフ・ヴァルツとクリス・パインという豪華さ。

前作から引き続き、怖い上司役だったジェニファー・アニストンとケビン・スペイシーも出てくるが、ケビン・スペイシーはともかくとして、ジェニファー・アニストンはゲストという感じではなく、完全にメインキャラのような出方をしている。

セックス依存症役のジェニファー・アニストンは前作同様、きわどいセリフを吐きまくる。焦って逃げようとして、「トイレに行きたいんで…」と言うと「ここですればいいじゃない」、「大のほうなんで…」と言うと「何の問題が?」。三人組のほうがたじたじである。けれど、怖い上司ではなく、おもしろ性欲お姉さんといった感じで、投資家親子も上司ではないし、タイトル通りではないかなと思った。
また、前作で拒んだのはデール(チャーリー・デイ)だけということで、執着心で追い回す姿はほぼ恋愛のようにも見えてしまった。

ただ、ジェニファー・アニストンが出てくると、ストーリーの流れが止まってしまうのだ。彼女も大筋のストーリーに絡んでくれば良かったけれど、別のところで出てくる。彼女のシーンをばっさり抜いてもストーリーの意味は通るし、おそらく一時間くらいにおさまりそう。

上記のトイレ行きたいんでのシーンで「最後の一振りは残しておいてね」というセリフを言った後で、「こんなこと言えないわ!」と恥ずかしがるNGシーンがエンドロール付近に入っている。きっと、こんな感じで、スタッフはジェニファー・アニストンにいろんなセリフを言わせるのが楽しくなってきてしまったのではないだろうか。それで、歯止めが利かなくなって、彼女のシーンが多くなってしまったように思う。
ジェニファー・アニストンとクリス・パインを絡んだら良かったのに、二人の接触はないためバラバラの印象を受ける。

また、ジェニファー・アニストンが強烈すぎるため、ストーリー自体はあっさりした小粒のものに感じてしまった。
クリス・パインも良かった。むしろ、クリス・パインに頼りすぎではないかと感じるくらいたくさん出番があった。

海外版のポスターやDVDパッケージで悪い顔をして縛られているのを見て気になっていたけれど、本当に悪い役だった。ただ、あの顔を見たら、三人の仲間になったふりをしていても、最終的には裏切るんだろうなというのはなんとなく予想ができた。それにしても、父親を本当に殺すまで悪い奴だとは思っていなかった。父親の元へ帰って行って、三人のほうへ舌を出すくらいのものかと思っていた。

クリス・パイン、去年のアカデミー賞歌曲賞を受賞した『Glory.』のパフォーマンス(アフリカ系アメリカ人公民権運動関連。『グローリー/明日への行進』の主題歌)を見て涙を流していたんですよね。絶対にいい奴なんです。こんな人が悪い役をやるのがとてもいい。韓国人家政婦のことを「キムチ!」などと罵るシーンのあとでも、カットがかかった後で謝ったに違いない。

悪いクリス・パインはいいし、ジェニファー・アニストンも良かった。メインの三人の要素は少し薄い感じではあったけれど、わーきゃー騒いでいる様子はかわいいし楽しい。
どれも楽しいし、ちゃんと笑えた。しかし、それぞれの要素がうまく作用していないように思えた。組み立て方の問題なのだろうか。

ケヴィン・スペイシーが入っている刑務所に三人で面会に行き、「俺は上司だぞ! 話を聞け!」というような、前作のパワハラ上司らしさを出した一言が映画の締めとなる。
だったら、もっとストーリー自体にも関わってほしかった。受刑者となっているので仕方ないのかもしれないけど、塀の中からもっと“上司”として指示を出したりしたら、タイトル通りのモンスター上司っぽさも増したと思う。


 

『ロブスター』



カンヌ国際映画祭審査員賞も受賞作。
独り身の人は45日以内にパートナーを見つけないと動物にされるという荒唐無稽なストーリー。監督はギリシャ人のヨルゴス・ランティモス。『籠の中の乙女』という作品も相当変わっているようなので観てみたい。今回が初英語作品とのこと。

話の妙さとギリシャ人監督ということから、出演者も無名なのかと思ったら、コリン・ファレル、ベン・ウィショー、ジョン・C・ライリー、レア・セドゥ、レイチェル・ワイズと何故か豪華。

コメディといえば、コメディだけど、笑いにくいというか、笑いは全然起こっていなかった。

以下、ネタバレです。







まず、妻と別れた主人公のデヴィッドがホテルのような施設に連行される。犬を連れているけれど、それは兄で、パートナーが見つけられなかったため、動物に変えられたのだと言う。その時点で、犬を連れた男性ではなく、兄弟に見えてくるから不思議。荒唐無稽ではあるけれど、ルールもすんなり呑み込めた。動物に変えられた人間に、人間の時の記憶や感情が残っているのかどうかは結局最後までわからなかった。

この施設の施設長をオリヴィア・コールマンが演じていた。『ブロードチャーチ』の女刑事ですね。彼女がデヴィッドにどの動物になりたいか尋ねる。そこは選ばせてもらえるらしい。そこで、彼が希望したのがタイトルになっているロブスター。100年生きるとかずっと生殖能力があるとかいろいろ理由もあった。(けれど、レッド・ロブスターが映画のスポンサーになっているのは違うと思うぞ!)(監督による、この映画の元となった短編は、最後、デヴィッドの妻がロブスターを食べるシーンで終わるらしい。それが、デヴィッドかどうかは明らかにされないらしいけれど…)

施設側はたぶん悪気なく、本当に良かれと思って、カップルを作ろうとしているらしかった。ダンスパーティもちゃんとくっつけようときっかけ作りのためにやってくれてたんでしょう。施設長とパートナーがいい声で歌っていましたが。
男(女)が一人の場合、酷い目に遭うけれど、カップルの場合はそれが起こらないという寸劇も、ほぼコントだったけれど、啓蒙のためにやってたのだと思う。女一人で歩いているとレイプされるけど、カップルだとレイプ班も手を出せないという。
45日以内に見つけられないと動物にされるのも、なんとかカップルを作らせてあげようというありがたい配慮なのだろう。

歌や寸劇で思わず笑っちゃったけど、これに近いことが日本でも言われている気がする。悪気はないのだろうけれど、遊びがないというか、極端なのだ。0か100としか考えられないのか。

ベン・ウィショー演じる足の悪い男は、同じく足の悪い女と付き合っていて別れたためにこの施設に来た。施設の中でよく鼻血を出す女に狙いを絞って、自分で壁に鼻を打ちつけるなどして、「僕もよく鼻血出すんだ」なんて言って彼女を仕留めた。
今作のベン・ウィショーはわざとなのか変な角刈りみたいな髪型で、あまりおすすめできません。

相手との共通項を話しかけるきっかけにするというのはよくある手段かなとは思うんですが、デヴィッドはやや病的に似ている人を好きになる傾向がありそうだった。
デヴィッドも同じように情のない女に、自分も情がないふりをして近づいていく。だが、情がないというのは鼻血のような見た目と違って内面のことだからうまくいかない。
兄(犬)を残虐に殺されたことで嘘だということがバレてしまい、施設に戻されそうになる。

ここで、施設のメイドが逃げる手助けをするので、もしかしたら、彼女とどうにかなるのかと思った。けれど、純粋な手助けだった。

デヴィッドはうまく逃げて、独身者が集まっている場所に引き入れられる。映画は施設内での45日間の出来事を描いているのかと思った。期限ギリギリで誰かと恋に落ちるか、反乱をおこすかして免れるのかと。
しかし、ここで折り返しである。あの施設に比べたら、動物にされる必要はないし、誰かと焦ってカップルになる必要もない。ほっとした。
けれど、ここはここで極端で、逆に恋人を作ると罰せられるという。先程までの世界と間逆になる。また0か100だ。

口に血が滲んだガーゼをあてている人がいて、いちゃついたために“赤の接吻”という唇を切られる罰を与えられたらしい。“赤の性交”という罰もあるらしくて、詳しい説明や映像は出ないけれど想像はつく。

この厳しい集団のリーダーがレア・セドゥ。冷徹な目をしていて、どんな局面でも他人など信じないといった雰囲気だった。かっこよかった。

町に買い出しに出るシーンがあるのだが、本当にカップルだけしかいない。一人で歩いていようものなら、警官から職務質問を受ける。
生き難い。けれど、今はどうかわかりませんが、男性が一人で歩いていると繁華街で職質をよく受けるらしいですよね。同じ服装をしていても、女性といると声をかけてこないとか。やっぱり、何故か日本の状況と似通っている点がある。

デヴィッドはというと、この厳しい規律のある集団の中の女性を好きになってしまう。女性のほうもデヴィッドに一目惚れをする。
いつ人を好きになるかなんてわからないものだ。いつ出会うかもわからないし、タイミングもある。人を好きにならなくてはいけない世界、人を好きになってはいけない世界。世界が0か100で極端でも、人の気持ちはそんなにうまく割り切れるものではない。機械ではないのだ。

独身者たちの集団が施設に攻め入るシーンがある。デヴィッドは鼻血カップルの生活の場へ乗り込んで行く。二人と養女、三人でお揃いの服を着ていた(施設からあてがわれたのかもしれない)。デヴィッドは彼の鼻血は嘘だとバラすが、今更なんなのだといった風だった。
最初はふりだったかもしれないけれど、生活はそれなりにうまくいっているようだった。幸せとまではいかなくても、少なくとも不幸せじゃないように見えた。ベン・ウィショーの表情は諦めにも似ていたけれど、現状を受け入れているようでもあった。何より彼は、動物になるのが嫌だったのだ。

独身者の集団のリーダーたちは施設長とパートナーの寝室に押し入る。リーダーがパートナーに施設長のことを15段階だとどれくらい愛しているか?と聞いたら「14かな」と言っていた。
0か100の極端ではない、曖昧な本心が、銃を突きつけられてやっと出た。
寸劇やダンスの歌を唄っているときには得体の知れなさを感じていたけれど、普通の人間なのだというのがわかってなんとなくほっとしたような気持ちだった。

施設内の撹乱がうまくいったことを祝って、独身者たちの集団でもダンスパーティーが開かれる。ヘッドフォンをしてエレクトロミュージックで一人で踊る。サイレントディスコですね。
これも、施設内のダンスパーティーとは真逆だった。あっちはムードたっぷりの曲で、二人でチークダンスを踊っていた。ダンスパーティー一つとっても極端。

デヴィッドと女性は相思相愛なのを確かめて、サインで会話をし始めるが、抜け出して町で暮らそうということになる。集団の中でいちゃつかずに、カップルになったら外に出て行けば罰もないのでは?と思ったけれど、集団を抜けること自体が禁忌だったらしい。
リーダーにバレて女性は失明させられた。
デヴィッドは女性のことを近視という共通項で好きになったのだ。奥さんと別れる最初のシーンでも「次の男もメガネか?」と聞いていたし、人を好きになるには何か同じ点が無くてはいけないと思っているらしい。
別の男性が近視の女性に話しかけていたときも、お前も近視なのか?としつこく詰め寄っていた。ほとんど病的ともいえる絡み方だった。近視同士だからって好きになるとは限らないのに。
でも、そこまで共通項を大事にしていて、彼女が失明したということは。映画のラストはそこまでは映らないけれど、近視にあれだけ執着していたということは多分…。
同じ近視だから好きになった。それはただのきっかけではないのか。そのあと、近視以外の面でも好きになっていけばいいのではないか。それとも、好きで居続けるためには何か、共通項が無いといけないのか。監督の恋愛観ではなく、デヴィッドの性癖のようなものなのではないかと思うけれどどうなのだろう。

愛は盲目(文字通り)具合と話の進み方の荒唐無稽具合から、『マジカル・ガール』と共通点があるのであわせて観ると楽しそう。『ロブスター』のほうが風刺は強いです。
あと、動物に変えられるって、何か魔法みたいなものでぽんっと一瞬で変化するのかと思ったけれど、どうも手術をして人間の体を改造していくようで、その処理をする“秘密の部屋”が出てくる。もちろん、その中でのことは描かれないので観る者の想像に任せられている。このあたりもまさに『マジカル・ガール』でした。せっかく同時期に公開されているので、片方観たらもう片方も是非。