奇妙な高層マンションが舞台になっている。ほぼ、マンション内の出来事のみです。
原作はジェームズ・グレアム・バラードによる1975年の小説。
監督はベン・ウィートリー。『ドクター・フー』シーズン8で監督を務めているらしい。シーズン8だとピーター・カパルディがドクター役になった最初のほうかな。まだ見ていません。
ちなみに衣装のオディール・ディックス=ミローも『ドクター・フー』シリーズで80年代から衣装を担当しているとのこと。その他、『ブルックリン』の衣装担当も彼女。もともとは79年にBBCに入社、96年にフリーランスになったらしい。

キャストはトム・ヒドルストン、ジェレミー・アイアンズ、ルーク・エヴァンス、シエナ・ミラーと豪華。

私は出演者と高層マンションが舞台ということ以外にまったく情報をいれずに観たらわからない部分も多かったので、もしかしたら、ある程度ストーリーを把握しておいたり、原作を先に読んだりしたほうがいいかもしれない。
本当は、誰が何階に住んでいるか、知っておいたほうがいいと思うけれど、その情報は公式サイトにも載っていないし、公式側が明かしていないということは知らずに観ろということなのかもしれない。

以下、ネタバレです。









マンションの形は歪である。日照の問題なのか、途中から斜めになっている。設計者のロイヤルは、「五棟作って丸く並べ、指のようにしたい」と言っていた。そのくせ、外観は建物だから当たり前ですが、無機質である。
それはCGのせいかもしれない。実際にある建物での撮影ではなく、外観はすべてCGなのだが、ひんやりしていてなんとなく不気味さが漂っていた。

その得体の知れなさから、100階建てとか通常では考えられない高さを想像していたのだが、40階建てと現実味のあるものだった。
その中で、低層階、中層階、高層階と住んでいる場所ごとに格差が生まれていた。マンションが社会の縮図である。ただ、この映画ほどめちゃくちゃなことにならないにしても、日本でも同じようなことは起こっているらしい。ためしに“高層マンション,格差”で検索してみたら、お悩み相談がぼろぼろ出てきた。

この映画のストーリーとしては、高層階の金持ちの住民がパーティー三昧な毎日を送っているが、低層階の住民は上の階の人間たちの好き勝手に巻き込まれ、電気を止められ不便な生活を強いられている。あることをきっかけに我慢の限界に達し、暴動が起きてマンション内はめちゃくちゃになる…といったところ。

観客はマンションに越して来た医者(トム・ヒドルストン)の目線で観たらいいのかなとも思うけれど、彼にしても考えていることがよくわからない部分もたくさんあった。途中まではまともに見えたが、ペンキで部屋の壁を塗り始める部分もよくわからなかったし、結局、壁に貼っていた写真の女性が姉なのかどうかも不明。あの写真がキーになるのかと思ったけれど、途中からなんの言及もされていなかった。
引っ越しと一緒に持ってきたっぽい段ボールも開封していなかったし、その中身はなんなの?と聞かれたときには、独り言のように「セックスとパラノイア」とぼそりと言っていたけれど、箱の中身がキーになることはなく、明らかにもされなかった。

もしかしたら、ルーク・エヴァンス演じるドキュメンタリー作家が観客が心を寄せるべき相手だったのかもしれない。けれど、それも、見終わって少し情報を見たから言えることだ。
まず、医者の一つ上の階(26階)に住んでいるのかと思っていた。最初、上の階のベランダから声をかけてきたからだ。でもそれは、不倫相手の部屋だったのだ。実際は妻と子と一緒に3階に住んでいた。
この映画では、何階に住んでいるかがかなり重要な位置を占めている。それは、登場人物それぞれの根幹をなすものと言ってもいいと思う。
だから、3階のところを26階と思っていたというのは、キャラクターのことを何も理解できていなかったのだ。

だから、最後に最上階で女性たちに次々に刺された原因もよくわからなかった。レイプ魔と言われていたけれど、26階の女性以外にも手を出していたのだろうか。
ただ、最上階にいた女性たちは男たちから下に見られている様子で、それに怒りをおぼえていそうな描写もあった。だから、ワイルダー(ルーク・エヴァンス)がロイヤルを殺しに来たのを助けるようなことをするのもよく理解できなかった。

また、この映画は原作と同じく70年代が舞台だったらしい。確かに、ルーク・エヴァンスはもみあげが長く、裾の広がったズボンを履いていた。けれどそれは、今の時代のおしゃれで個性的な恰好をしている人なのかと思っていた。このあたりもキャラクターを見誤っている。

時代がよくわからなかったのは、トム・ヒドルストンがスーツだったせいか、いつものトムヒにしか見えなかったせいである。髪型も現在のトムヒだった。時代がよくわからなかったのとは別に、とても恰好よかったです。相変わらずスタイル抜群。

70年代が舞台と聞くと、高層マンションが40階建てなのも納得がいく。現在ではそれほど高くなくても、70年代にはとんでもない高さだろう。

登場人物では他に、医学生(?)の自殺の理由もわからなかった。医師(ラング=トム・ヒドルストン)が「脳に云々」と余命宣告のようなことをしたからだろうか。そもそも、それすらも本当かわからない。それくらい主人公のことが最後まで信用しきれてない。
ラストのモノローグで、「診察が必要な人が多そうなので、マンション内で開業しようと思う」と言っていたけれど、お前が仕組んだんじゃないよね?とも思ってしまった。
また、散乱していた黒いゴミ袋の中身は、やっぱりマンション住民の死体だったのだろうか。

ストーリーは暴動を境に前半と後半に分かれると思う。前半はどこかぴりぴりしていて、取り繕われている印象もうけたが、それでもおすまししているというか、新しい生活の始まりという雰囲気だった。戸惑うことは多くても、そのうち馴染むだろうという希望があった。
ただ、主人公の部屋の生活感のなさが気持ち悪くもあった。

最上階の金持ちはベランダというか屋上庭園のようなところで馬を飼っていて、それも妙な感じだった。その部屋に行くプライベートエレベーターが総鏡張りなのも怖い。合わせ鏡で自分の姿が何人も映っている。

度重なる停電や、おむつをつまらせるな!とダストボックス係に起こられるなど、少しずつ綻びが出てきて、亀裂が広がっていくのが見えるようだった。

そして暴動が起きてからは、マンション内は荒れに荒れる。殺しはもちろん起こる。マンション内のスーパーマーケットでは食料が不足し、自分の妻と食料を交換する者も出てくる。一気に文明のない頃に戻ったみたいになっていて、最上階の金持ちたちはみんな裸でパーティーである。犬も殺して食べる。

前半との対比は面白かったものの、おそらく低層階と高層階との争いだったのだとは思うけれど、誰が誰と戦っているのかがいまいちわからなかった。
女性たちが集まって子供と身を寄せていたのは低層階の人々だったと思う。ただ、ワイルダーの妻は3階なので低層階の人間だが、最上階で産気づいて、高層階の人間に出産を手伝ってもらっていた。ただただ暴力的だったので、低層階は赤子もろとも全員死ねくらいの感じかと思っていたのに。

前半はひんやりした感じ、後半は血なまぐさい暴力。登場人物の行動の理由がよくわからない部分も多く、話もわかりづらかったけれど、映像から受ける印象としては全体的にとても邪悪なものだった。悪夢的というか。
原作も読んで、ちゃんと理解してみたい。




一応『ターザン』の続編にあたるのだと思う。
いつ以来の続編なのだろうと思ったら、2013年にアニメで作られていたようです。一番最初の映画が1918年でその後、映画やテレビシリーズなど含め、50作品くらい作られているのに驚いた。有名なキャラクターではあるけれど、そんなことになっているとは。

ターザン役にアレクサンダー・スカルスガルド。ジェーン役にマーゴット・ロビー。
サミュエル・L・ジャクソン、クリストフ・ヴァルツも出ています。
監督は私的にはジョン・シム出演のドラマ『ステート・オブ・プレイ』『セックス・トラフィック』のシリーズディレクターであり、世間的にはハリーポッターシリーズの監督で有名なデヴィッド・イェーツ。

以下、ネタバレです。





本作が原作や他の作品を基にしているのかどうかはわからないけれど、ターザンは本名のグレイストーク卿ジョン・クレイトンという名前で、英国貴族として、イギリスで政治にも関わっているようだった。そこは独自性があっておもしろかったんですが、ジャングルへ行ってからはなんとなくどこかで観たような、ありきたりなストーリーになっていたのが残念。

無理を言ってついてきたヒロインが、悪者にさらわれる。ターザンは助けるために奮闘し、悪者を倒し助け出してヒロインにキスをする。
ヒロインの美貌に悪者があわよくばと近づいていくのもよくある要素だ。
もう、最初にヒロインが無理を言ってターザンについてきた時点で、絶対に足をひっぱることになるんだろうなと思った。そして、やっぱりさらわれてイライラしてしまった。

最初、サミュエル・L・ジャクソンが悪者かと思ったけれど、すごくいい奴でした。ターザンと一緒にジャングルを駆け抜けて一緒に戦う。けれど、ターザンのような能力はないので、いちいち驚いたり苦労したりする、観客目線のキャラクター。
どちらかというと、こちらがヒロインっぽくもあった。
ターザンと言えば、植物の蔦を使って木から木へ飛び移るアクションが有名だ。その時に、背中に女性がしがみついている画像もよく見かけるが、あれをサミュエル・L・ジャクソンでやる。

そう考えると、ヒロインは二人もいらないのではないかと思えてくる。捕まった女性を助けるために奮闘するわけではなく、ただ単に悪者を倒すためで良かったのではないか。
でも、ヒロインはジェーンなんですよね。それは、ターザンをやる以上、出さないと仕方ないのだろう。

もういっそ、ターザンじゃなくて、動物を自由自在にあやつれるヒーロー物にすれば良かったのではないか。
その場その場に適した仲間(動物)を使って、危機を乗り越えるくらいの奇想天外なものが観たかった。

最後も船の爆発からどうやって逃げたのかわからない。いつの間にかヒロインの後ろに立っていて、それでめでたしめでたしと言われても雑すぎる。
ワニか水牛の助けで、どちらかの背中に乗って帰ってくるくらいのことはしてほしい。動物との絆が中途半端だった。意思疎通ができているのかいないのか。

ターザンであるがゆえに、過去のおさらいというか、回想シーンがちょこちょこ挿入される。それも、中途半端な場面で入るので、その都度、話の流れが止まってしまうように感じた。
もっと上手い方法はなかったのだろうか。

結局、事態が解決してもイギリスには帰らないようだった。
ジェーンがコンゴで子供を産んでいて、このラストにするならば、無理矢理でもついてこなきゃいけなかったのだろう。

そもそも、なんでイギリスに帰って貴族の生活をしていたのだろう。ターザンという名前で呼ばれるのも嫌がっているようだったし、最初はコンゴに行くことすらしぶっていた。行ってみたら、やはりここが俺の居場所と再確認したのだろうか。

ターザン役のアレクサンダー・スカルスガルドは途中で上半身の衣類を脱ぐのだが、その筋肉に驚いた。『メイジーの瞳』のときには優男風の印象だったし、ドラマ『トゥルー・ブラッド』での裸を見てもこんな筋肉ではなかった。この映画のために体を作ったのだろうと思う。
前半で、英国貴族のすました服装でお紅茶飲んでたけれど、そのブラウスのしたにあんな肉体が隠れていたのだと思うと興味深い。




邦画、しかもアクションは観るつもりがなかったんですが、あまりの高い評価につられて行ったらとてもおもしろかった。
私は怪獣映画や特撮にはあまり詳しくなく、ゴジラシリーズも特に観ていないです。根っからのゴジラファンが観たらどう思うかは不明。

以下、ネタバレです。









最初に出てくる東宝ロゴが昔風で、その時点でまずニヤニヤしてしまった。そういえば、『シン・ゴジラ』の昔風のタイトルロゴが一番最初に発表されたときにも同じような気持ちになった。
そして、最初に場所を示すテロップがエヴァンゲリオンを彷彿とさせる明朝体だったときになるほど、と思って、最初に出てきた未確認生物が真っ赤な体液だか血液をぶっしゃー!とぶちまけたときに、ああ、これエヴァンゲリオンでいいんだと確信した。
この最初の生物が這って出てきて、ガメラ風だったので、ゴジラが出てきてこの生物と戦うのかなと思っていた。完全にギャレス・エドワーズ版の影響です。
ところが、この生物がやおら立ち上がって、形を変える。どんどんゴジラっぽくなってくる。形態を変える様子もエヴァンゲリオンに出てくる使徒のようだったし、これを見てる官僚たちが信じられないように「進化だ…」と話している様子も、NERVのようだった。

そして、なんとエヴァンゲリオンと同じ音楽が使われていた。別にレアBGMというわけではなく、テレビシリーズを見たことがある人なら誰でも知っているBGMである。これで、今まで観てきた既視感は意識されたものだったのだと確信した。

ヤシオリ作戦という名前のヤシマ作戦に似た名前のものも出てくるし、よく考えてみたら、『シン・ゴジラ』と言うタイトルからして『シン・エヴァンゲリオン』じゃないか。

もちろんゴジラが出てくるシーンは大きいスクリーンのほうが迫力があっていい。けれど、そこまでゴジラがたくさん出てくるわけではないので、IMAXや4DXじゃなくてもいいかもしれない。
けれど、これでいいと思うのだ。どうせ邦画だとそれほどお金もかけてもらえないし(15億とのこと。これは海外だと低予算の部類)、そのせいでどうせゴジラシーンはしょぼくなってしまうのだ。
邦画のアクション映画の何がいやかって、見ごたえも何もなく、安っぽくなってしまうところだ。予算のせいではなく、単純に下手なのかもしれない。

そうなるならば、ゴジラのシーン(アクションシーン)を一気に削ってしまえばいい。
それで、この『シン・ゴジラ』は何のシーンに割いているかというと、ほぼ会議である。官僚たちがあーだこーだと話し合っている。作戦を立てている。
そんなのがおもしろいのかと思うかもしれないし、書いていておもしろいとも思えないけれど、これがおもしろいのだ。これが一番テクニックがいるところなのかもしれないと思った。

ほとんどの人物は早口で、その喋っている人を正面からとらえるカメラが次々と切り替わる。めまぐるしいし、ちゃんと聞いちゃうから集中して観る。
ゴジラはほとんど最初から出てくるから、日常シーンはなく、ずっと緊迫した状況が続いている。だから、余計なシーンが無くて映画全体が引き締まっている。

どれだけエヴァンゲリオンっぽくてもエヴァンゲリオンではないのだから、当たり前だがエヴァンゲリオンは出てこない。本来ならば、未知の生物に対してエヴァンゲリオンをぶつけるところだが、この世界には存在しない。

ではどうするか。単純な話だが、知恵を出し合うのだ。官僚も自衛隊も学者も、みんなで力を合わせて、巨大な脅威に立ち向かっていく。
「あなた…生きて帰ってきて!」みたいな直接的な表現じゃなくても、とても感動的である。こんな描き方があるのだ。
ちなみに、今まで無表情で捲し立てていた市川実日子が、事態が解決したあとにふっと笑うのがとても可愛かったです。

みんなが自分の出来ることを精一杯やる。登場人物が多く、その一人一人についての描写もちょっとだけしかないけれど、キャラクターが濃くておもしろかった。
スピンオフでもやらないだろうか。
第二、第三の使徒という感じに、第二のゴジラが攻めてきてもいい。日本壊滅しちゃうのでそれはないと思いますが。

ゴジラは東京と神奈川に上陸する。
最初の上陸は東京湾から入り、蒲田、品川と進んでいき…。進んでいくルートは映画を観ながらもリアルに思い浮かべることができる。位置関係がわかる。
二度目も鎌倉に上陸して、多摩川を越えて東京に入ってくる。わかる。
一回目の上陸のあとは、直接被害がなかったところは電車を運行させていた。「横浜まで折り返し運転をしております」というアナウンスが遠くで流れたときに、まあそうするだろうなというのがリアルに想像できた。

そして、緊急事態があったときのテレビのL字型画面。一つのチャンネルだけ変わらず、みなしごハッチを放送する様子。すべて知っている風景だ。

この有事が起こった時の既視感は、3.11の大災害を経験してるから感じるものなのだろう。あの時のことを思い出して、漠然とした不安感に包まれる。

ゴジラと言えば放射能熱線を発射したり、なにかと放射能と関わりがある。洋画だと、核兵器とか放射能の扱いはだいぶ雑なんですが、邦画ではデリケートな問題だし、扱い方によっては、不謹慎と言われるのではないかと思った。
けれど、私たちが放射能の怖さを知っていることを、うまく利点に変えて、怖さだけが助長される作りになっていたと思う。

この映画では、ゴジラの上陸が他人事とは思えない
例えば、アメリカの知らない風景やCNNのニュース速報画面を見ても、このような気持ちにはならない。日本人だからこそ味わえる感覚だ。邦画ならではなのだろう。

リアリティを追求していても、安易に流行りのPOVに逃げていないのもいい。ゴジラを下からみるショットや、最初の船の中を録画している様子など、少しは使われていたけれど、そこまで多用していないのも好感が持てた。

特撮やCGに関しては、詳しい人からはもう少しがんばってくれという声もあるようだけれど、そこまで気にはならなかった。熱戦を背中から出しているシーンは確かに安っぽくは見えた。
在来線爆弾についても、あんな動きしないと言われているのを見たが、あの、電車が蛇のように絡み付くショットは強く印象に残っているので、もうかっこよければそれでいいのではないかと思う。





実在の脚本家ダルトン・トランボの自伝。
この人のことを知らなかったので、家族を顧みない、でも才能のある脚本家の話かと思った。サブタイトルの“ハリウッドに最も嫌われた男”というのも、その原因は気難しい性格ゆえかと思った。
偏屈オヤジが家族のあたたかさに触れて改心するハートウォーミングストーリーを想像していた。

実際には、赤狩りの話だった。家族ものというよりは、社会派ドラマの面が強い。家族も重要な役割なので、家族ものとも言えるけれど、単純にそれだけじゃなかった。

予告編を何度か見て、その時には、共産主義のきょの字も入ってなかったと思ったんですが、今公式サイトの予告編を見直してみたらばっちり入っている。予告編騙しかと思っていたけれど、私がちゃんと見ていなかっただけのようです。

トランボ役のブライアン・クランストンが主演男優賞にノミネートされた。

以下、ネタバレです。関連作品である『ヘイル、シーザー!』についてもネタバレがあります。






『ヘイル、シーザー!』も同じ時代であり、題材も同じくハリウッド関係者の赤狩りである。冷戦ものと言ってもいいかもしれない。
『ヘイル、シーザー!』のほうがコメディ色が強いかなとは思う。市街地から離れた場所にある小屋の中で、共産主義者たちが隠れつつ議論をかわしていた。今から考えれば、あの人たちがハリウッド・テンのメンバーだったのかもしれない。『ヘイル、シーザー!』は実話ではないけれども、なぞらえてはいそう。
チャニング・テイタム演じるミュージカル俳優が結局共産主義者たちのリーダーであり、ソ連に憧れて、潜水艦に乗って行ってしまうが、あそこまでやるとやはりスパイ容疑がかかるというか、結局スパイになったりするのだろうか。

あの時代(1940年代後半あたり)の背景、アメリカでの共産主義者に対する弾圧をまったく知らなかったので、『ヘイル、シーザー!』も俳優は豪華だけれど、話は理解できたようなできていないようなと思っていた。けれど、『トランボ』を観た後ならば理解できることも多いと思う。

ただ、『トランボ』は社会派作品とはいっても、堅苦しさはない。逮捕されて、刑期を終え、出所後は特に開き直ったかのような強さが見えた。
トランボの飄々としていて、したたかな様子はおかしみすらある。ブライアン・クランストンがよく合っていた。『ブレイキング・バッド』の教授の印象が強いので、裏で何かとんでもない悪いことを考えているのではないかとひやひやもしたけれど、そんなことはなかった。
年齢も高齢のようにも見えるから、幅広い年齢が演じ分けられていた。もちろん、顔だけではなく演技でも表現していたとは思う。
個人的には肩にインコを乗せていたあたりのトランボが好きです。

トランボご本人は、実際にはどんな人物だったのだろう。
他の名前でもアカデミー賞はもらっているくらいだし、映画の通り、ちゃっかりしたしたたかな人物だったのかもしれない。

映画本編には、予告編に入っていた家族に対して冷たくあたるシーンもある。これだけ観ると、家族をないがしろにする人物なのかなと思ってしまった。でも、それはほんの一部であり、最初から最後まで、基本的には家族想いな男だった。

違う名前で脚本を書いていても、その別名義は家族は知っているから、アカデミー賞授賞式に出席していなくても、家族だけでわっと喜ぶ。
別にステージにあがらなくてもいい。そんなことは重要ではなく、才能が認められたことには変わりない。そして、家のソファに受賞した本人も居て、家族全員で喜びをわかちあえるという状況は逆に幸せそうにも見えた。
けれど、エンドロールで、トランボご本人による音声で、「子供に3歳の時から秘密を背負わせたのは申し訳なかった。父親の職業を聞かれても答えられないのはつらかっただろう」という言葉があった。
確かに、常に守らなければいけない秘密があるというのは大変だったと思う。ましてや小さい子供だ。自分のために子供が苦労するのはしのびなかったと思う。

でも、トランボは意志を強く持って、貫き通していた。決して、権力に屈することなく、自分を曲げていなかった。
そして、それがしっかり娘にも受け継がれていたのが感動的だった。娘は共産主義者ではなく、黒人排斥反対運動をしていたのだが、ちゃんと親のことを見ていて、自分が正しいと思ったことは曲げないというのを学んでいたようだった。

エンドロールに使われていたトランボご本人や家族の写真が、写真集にできそうなくらい素敵だった。
エンドロールを見進めると、どうやら妻のクレオが撮ったものらしい。映画内でもよく写真を撮っていたし、本当にカメラが好きだったようです。



『はじまりのうた』のジョン・カーニー監督。またまた音楽映画。
今回は80年代イギリスを席巻した、デュラン・デュラン、ザ・クラッシュ、A-haなどが多数使われている。

以下、ネタバレです。







『ブルックリン』では1950年代、本作は1980年代が舞台になっているけれど、どちらの映画でもアイルランドは同じく不況である。そして、主人公たちが、そこから抜け出そうとする。二つの映画のテーマは同じだと思う。

主人公のコナーは、貧困のために転校することになるが、その先の学校が荒れ放題。いじめを受け、校長からも疎まれる。そんな中で出会ったから、ラフィナは天使にも見えたのではないだろうか。
一目惚れをして、ラフィナがモデルをしていると聞くと、「僕のバンドのミュージックビデオに出てみないか?」みたいな誘い方をしていて、案外積極的だなと思った。
ただ、その時点ではバンドすら始めていない。相手が決まっているとは言え、モテたくてバンド始めるのと一緒ですね。

メンバーはすっと集まるし、演奏もわりとすぐうまくなるし、バンドとしてあっという間に形になる。あまりこのあたりは、映画内では重要視されていないようだ。
同じ荒れた学校の生徒のようだったし、コナー以外の子らも彼らなりの問題を抱えていたと思うのだ。赤毛だったり、黒人だったり、友達がいなかったり…。個性的っぽいのにあまり描かれないのが残念。
バンド内分裂みたいなのもなかったのかとか、ウサギを飼っている子は少し主張してたが、主人公以外の意見はあまり反映されていないようだった。
あくまでもコナー中心であり、コナーの夢(ラフィナと付き合う)のために都合良く集まったメンバーのように感じてしまった。

ラフィナは最初、すかした感じだったし、ビデオ撮影現場に現れた時も「騙された!帰る!」といったように怒るかと思った。けれど、バンドメンバーにメイクもしてあげる。ビデオ撮影にもノリノリだった。見た目と違ってこの子の性格でしょう。声もかわいい。もっと年上お姉さんかと思ったら、コナーの一つ上だった。

15歳の男の子の簡単に影響されてしまう感じが可愛かった。デュラン・デュランのビデオを見たら、作る曲も似ちゃう。
歌詞も、ラフィナのことを赤裸々に書いていて、すでに告白のようだった。でも、「このモデルっていうのは君のことじゃないからね」と隠しているのが良かった。

その他にも、ザ・キュアーの曲を聴いたあとにはロバスミの髪型にしてたり、スパンダー・バレエの『Gold』のMVを見た後にはポマードをつけて学校へ行ったりしていた。ホール&オーツの『Maneater』を聴いた後に作った曲も曲調が似ていた。いちいち影響を受けるのが可愛い。

ただ、次々できあがる曲にしてもMVにしても、ラフィナの協力があったとはいえ、すぐに形になっちゃったなとは思った。バンド関連のことでの苦労はないです。
これは、もしかしたら監督の特徴なのかもしれない。

『はじまりのうた』にしても、そんなうまくいくか?みたいなところがあったし。それか、音楽的な才能についてはある程度あるもの同士なのだろう。あと、音楽映画なのだし、曲ができない苦悩とかバンドの悩みなどはすっ飛ばさないと話が進まない。

また、そこでも悩んでいては映画が暗すぎてしまうからかもしれない。
コナーは家庭内の問題を抱えてて、学校でもいじめられて浮いていた。これで、バンドまでうまくいかなかったら救いがない。バンドやってるときくらい楽しくあってほしい。

バンド活動が上手くいくことで、学校での問題は克服しつつあり、ラフィナとも次第に仲良くなっていっていた(この辺についても、コナー以外のバンドメンバーにも上向きに働いていたんじゃないかなと思うけれど描かれません)。
それと反対に家庭内での問題はどんどん大きくなっていき、両親は離婚をすることになってしまう。

コナーにはお兄さんがいて、レコードをたくさん持っていて、バンド活動に関してアドバイスもくれて、ギターもうまく、音楽の先生のようになっていた。コナーも憧れているようだった。

序盤は学校も辞めたらしいし、長髪ひげ小太りによれよれのTシャツで、ただのボンクラのように見えていた。ただ、そこには両親との深い確執があり、長男としての責任もあったようだった。
大麻が切れたと言っていたのが本当だかわからないけれど、弟のコナーに本音をぶちまけるシーンがつらかった。
ある程度、兄が犠牲になることで、弟のコナーは好きにやっていられる。それをコナー自身はそれまでまったく知らなかった。

体育館のような場所で演奏するシーンがとても良かった。エキストラとして数人を呼んで、「『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のパーティーのシーンのように指を鳴らして踊って」と言うが、エキストラの子らは映画を観たことがなく、ダンスも上手くいかない。
でも、演奏が始まれば、バンドメンバーの衣装もびしっと決まる。ステージの下にはたくさんのお客さん。ミュージックビデオの主役であるラフィナも入ってくる。両親もいて、仲良く踊っている。兄貴も髪を切って爽やかになっていて、バイクで駆け付ける。最高に幸せな空間である。
だけど演奏が終わると、元の寂しい体育館に戻る。両親とお兄さんはもちろん、ラフィナも来ない。現実をつきつけられたようだった。

ラフィナはロンドンに行ってモデルとして活動するという夢にやぶれ、アイルランドに帰って来る。
メイクと髪型のせいかもしれないけれど、普通の女の子になってしまい、年相応に見えた。けれど、まったく魅力的じゃない。
そんな彼女が、今度はコナーのバンドに逆に感化されていたのも良かった。

学校でギグをやるんですが、ここでやる曲がバラードやパンクも混じっていて、ここまでバリバリのニューロマだったので、できればそのままやってほしかった。けれど、バラードはラフィナに対する想いであり、パンクは校長批判だったので、それに合った曲を、ということだったのかもしれない。ニューロマはかっこつけ成分が強く、メッセージを強く伝えるのには向かないのかも。

コナーはラフィナと一緒に、祖父の小さい釣り舟でアイルランドからイギリスを目指す。
思いつきで行動をするのも15歳だと思うけれど、アイルランドからいちぬけみたいな感じで、残される人々の気持ちはどうなっているのだろう。

バンド仲間は? コナーがラフィナと付き合うために集められて、バンド活動もうまく行きそうだったのに、コナー以外のメンバーはアイルランドに残されてしまうのか。
ウサギを飼っていたメンバーは「俺たちを引き上げてくれ」と言っていたし、「これが最後のライブになるかも」という言葉に「いいよ」と応えていたのであれで了承したのだろうか。
いじめっこをローディーとして雇ったのだから、本当はもっと活躍させてあげてほしかったが。

両親はどうでもいいとして、お兄さんはどうだろうか?
彼自身もドイツに行こうとしてあきらめてるという話がでてきた。それは、やろうと思えばできたことだったのか、それとも長男だから無理だったのか。
コナーとラフィナを海へ連れて行ったお兄さんは「やった!」って言ってたし嬉しいのだろう。夢を託したということか。
それとも、兄も、弟の突然の行動に感化されて、これからでもなんでもできると思い、動くのだろうか。
お前だけ逃げやがって、みたいな気持ちにはなっていないことは確かだ。

あと、どれくらいの確率でイギリスへたどり着けるのだろうか。小さく立ち乗りで屋根もない釣り船である。波でも転覆しそうだった。入国はできるのだろうか。
私はそんな細かいことを考えてしまっていたが、そんなこと考えずに、好きな女の子と二人で向かうという行為自体が大切ということなのだろう。

この時に流れていた曲では、振り返るな、前を向いていけ、なりふり構うなというようなことが歌われていて、コナーを応援しているようだった。
曲調は80年代ではないなと思ったら、歌っているのが、アダム・レヴィーンでそりゃそうだと思った。『はじまりのうた』に続いての楽曲提供になる。出演はありません。

後半に出てくる曲はニューロマっぽくないものが多くて、好きだったバンドと私の音楽性の違いにより、好きじゃなくなるパターンに似ていて、少し寂しかった。
でも、前半に出てくるものは、歌詞も素晴らしいし曲も好きだった。音楽映画なのだから、曲が素晴らしいということが一番重要である。

どの曲にもラフィナを好きという気持ち、その時にコナーが考えていること、そして何より音楽が好きという気持ちがぎゅっとつまっている。瑞々しい。
聴いていて、字幕で出る歌詞を読んで、涙が出た。サントラが欲しい。



『ブルックリン』



アカデミー賞作品賞、脚色賞ノミネート。また、主演のシアーシャ・ローナンが主演女優賞にノミネートされた。シアーシャ・ローナンはゴールデン・グローブ賞でもノミネートされていて、他、様々な賞を受賞したりノミネートされたりしている。
シアーシャ・ローナン、観た後で『つぐない』(2007年)の女の子だって知って驚いた。大人になってる!

以下、ネタバレです。








エイリッシュ(シアーシャ・ローナン)は、仕事を求めてアイルランドからアメリカのブルックリンに移り住む。経済移民ですね。
慣れない船旅、慣れない生活、慣れない仕事で当然ホームシックになるが、ある男性と知り合ってからは徐々に生活や気持ちが上向いて行く。職場の仲間とも仲良くなり、仕事も順調。もちろん、男性のおかげだけではなく、慣れてきたこともあるのだろう。
順調に見えた矢先、突然の姉の訃報が入り、帰郷することになる。だけれど、一度アイルランドに帰って来ると、なかなかアメリカには帰してもらえない…という話。

最初に出てくるエイリッシュはとにかく田舎くさい。ほぼノーメイクのせいかもしれないし、服装のせいかもしれない。アメリカに向かう船の中で同室の垢抜けた女性に化粧をしてもらい、多少はマシになる。
その後も、一緒にデパートで働く仲間にも振る舞いなどを教わったり、ビーチに行くにはサングラスがあったほうがいいとか、下に水着を着ていくとか、そこでの常識を身につけて行く。

シアーシャ・ローナンが異常に化粧映えするせいもあると思うけれど、エイリッシュが劇的に洗練されて行く様子には目をみはる。

それは、彼女がアイルランドに帰郷したときに一番よくわかる。
町は変わらない。そこにずっと住んでいる人も変わらない。でも彼女だけが変わったのだ。

エイリッシュの友達は、最初のシーンで二人並んでいても、確かにエイリッシュよりも綺麗に見えた。けれど、帰郷後は田舎の美人というように見えた。主人公のほうがよっぽど綺麗だし、見映えがいいし、垢抜けている。
けれど、アイルランドの町には似合わない。

友達の結婚式がアメリカに帰る予定の日の後だったり、友達に会おうとしたら男の人がついてきたり、地元の職場を手伝わなくてはならなくなったり、なんだかあれよあれよという間に町にとりこまれてしまう。
これは、そのまま東京と地方にも置き換えられるようで、わかりやすかった。多分、地方から東京へ出てきて一人暮らしをしていて、何かあって実家に帰ったときなどに同じようなことになりそう。

もしかしたらすべては母の陰謀なのかなと思ってしまった。陰謀というのはおかしいか。姉も亡くなり、一人きりになってしまったのだから、娘なのだしそばにいてほしかったのだろう。

けれど、少しいるとエイリッシュにとってもアイルランドでの生活が順調に進み始める。
仕事も元々希望していた簿記を生かせる事務職につけた。周囲の人も優しくしてくれる。友達もいる。自分に好意を持ってくれている男性も現れた(ちなみにこれが、出ているのを知らなかったドーナル・グリーソン。最近の出演作の多さに驚く)。

もちろん、もともと住んでいた場所、ふるさとなのだし、馴染むのもブルックリンに行った時よりも早いだろう。
ブルックリンで出会ったトニーからの手紙も、最初は母が隠しているのかと思ったら、そんなことはなく、エイリッシュ自身が読まずに机の引き出しへ入れていた。自主的だった。
結婚までしたのに、そんなに簡単に忘れてしまい、目先の幸せをとるのか。

ブルックリンでの幸せとアイルランドでの幸せ。不幸な部分もどちらにもあるだろうし、だったら知っている人の多いアイルランドを選ぼうとしているのだろうか。
ぬるま湯にずぶずぶと浸かり、もうブルックリンへは戻らないのかと思った。
でもそうしたら、トニーはどうするんだろう。乗り込んできて修羅場になったりするのかななどと考えながら見ていた。

けれど、エイリッシュが以前働いていて、国を出るきっかけとなった店の店主の意地悪なばあさんにより目をさましたようだ。
人づてに聞いた話だと言って、トニーの話を持ち出す。エイリッシュもばあさんに対して「何がしたいか、自分でもわからなくなってるのね」と言っていたけれど、おそらくばあさんは良い悪いではなく、おとしいれるつもりもなく、ご近所の噂話が大好きなのだろう。噂話によって形成される狭い世界の中で、上の人には頭を下げ、下の人をこきつかい生きてきたのだ。ばあさんにとっては狭い世界の上下関係だけがすべてなのだ。
エイリッシュはおそらく、この狭い世界が嫌で、国を出たんですね。それを“思い出した”と言ったのだろう。
そして、この瞬間、誰よりもトニーに会いたくなったようだった。まるで魔法が解けたようにも見えた。

戻る船の中、甲板で初めてアメリカに向かうという女の子に会ったエイリッシュが、かつての自分の姿を女の子に重ねるのが印象的だった。最初に船で向かうときに教わったのと同じように、今度は教えてあげる。
なるほど、こうやって受け継いで行くんだ。
入国管理局で女の子は少し化粧をしていたけれど、それもエイリッシュが教えたのだろう。映像はないけれど、船の中ではかつての逆と同じことが起こったのだろうと推測されて感慨深い。
もう、アイルランドを最初に出た頃のエイリッシュではない。成長している。そして、今になると、最初に船に乗ったときに教えてくれた垢抜けたお姉さんの気持ちもよくわかる。もう立場が違うのだ。

ブルックリンに戻り、エイリッシュが壁に寄りかかってトニーを待つシーン。これが、ポスターなどのメインビジュアルになっている。ラストシーンでした。

ここの服装も本当に可愛いけれど、全体的に色づかいや服の形がレトロで可愛い。古着のワンピースが欲しくなる。
1950年代ということで、『キャロル』と同じ時代ですね。働くデパートの感じも似ていた。この頃のファッションのお洒落さも堪能できる。



『セトウツミ』



原作は漫画とのこと。漫画の一話が読める秋田書店のサイトへ映画の公式サイトからリンクがはられているので読んでみたが、雰囲気はまったく一緒だった。景色などは実際の漫画の舞台に撮ったのだろうか。

また、堺市のロケ地MAP、原作のLINEスタンプ、映画本編には入っていない短編が三つ(個人的には二つ目の『タイミング』が好きです)と公式サイトがかなり充実している。(http://www.setoutsumi.com/)

主演の二人が放課後に喋るのが主な内容である。学生なのに、学校での風景が一切無い。だらだらと喋る。
それはまるでコントのようなやりとりなのだが、そのコントっぽさは関西弁なせいかもしれない。
主演は池松壮亮(福岡出身)と菅田将暉(大阪出身)ということで、二人ともネイティブな関西弁使いである。

私はそれぞれ『海よりもまだ深く』と『そこのみにて光輝く』でしか見たことが無かったのですが、どうやら旬の俳優らしい。
もちろん、この二人のだらだら喋りだけを目当てに行ってもいいと思う。独特なテンポだし笑える。
けれど、映画の内容が喋るだけではない。コピーが“「喋る」だけの青春。”となっているけれど、彼らの青春が喋るだけなのと、映画の内容が喋るだけなのとは違うのだ。ほぼそれだけだけど。
でも、会話の内容や二人の制服の着崩し方や靴の履き方から徐々に見えてくるものを察するのがおもしろい。彼らの家族構成や二人の関係性がわかってくる。
それに、二人以外のサブキャラも抜群にいい。

監督は(私の中で)ブロマンス描写に定評のある大森立嗣監督。

以下、ネタバレです。









舞台はほぼ同じである。川辺の階段のあたりに二人並んで座っている。
一話、二話といった感じのオムニバスになっている。けれど、オムニバスと言えるほどの違いは無く、制服が夏服だったり冬服だったりと、季節が変わって行くくらいです。

最初の一話は、神妙な顔つきというのが一つのテーマになっていて、ああ、顔で笑わすようなコントを何話かやるだけなのかなと思った。

けれど、伏線的に川を見ていたおじさんに学校の怖い先輩が近寄って行って、おや?と思った。瀬戸と内海が話しているシーンはほとんど長回しというか、正面から撮っているだけだけれど、このシーンは急に映画的になる。
どうやら二人は親子で、でも両親は離婚していて、先輩はお父さんから養育費を受け取って、でも18歳の誕生日の今日が最後で…というやたらと重めの設定が急に盛り込まれる。
二人の演技が素晴らしく、泣かされてしまった。

なるほど、こうゆうスタンスかと思った。ただ、コントを撮っているだけではない。

他にも出てくる人がそれぞれいい。
中条あゆみ演じる寺の娘、樫村さんは、瀬戸が言っていたけれど、確かにわびさびも感じる美人だった。
ものすごい美人だけれど嫌味ではない。けれど、美人ゆえに浮世離れしている。他の女子高生とは違っていて、描写はないけれど、たぶん校内でも一人きりっぽかった。
本当に綺麗に撮られていた。

二人の会話の端々には家族構成が出てくる。瀬戸に関しては母親が通りかかる。まさに大阪のおばちゃんといったヒョウ柄を着ていた。母親特有の謎の文面でメールを送ってくるが、愛情を受けているのもよくわかる。
父親は失業中。だから貧乏なのに、飼い猫(三毛猫)に高いエサをあげて離婚危機。喧嘩もしているけれど、母親は父親にも愛情がありそうだった。
認知症で徘徊癖のある祖父(この祖父も通りかかる)。祖母は亡くなっている。

内海の家庭環境は瀬戸の真逆のようで、金持ちの家だけれど家族の愛情は受けてなさそう。一切姿も出てこないし、謎。内海としても親について話す内容がないからなのか、瀬戸との会話にも出てこない。

家族構成など、二人の背景がわかると、ただ話しているだけでも会話に深みが増す。どうやら二人とも、能天気に見えて、幸せな生活を送っているわけでもない風だった。

何話かやったあとにプロローグ的な0話が入る。これは、内海と瀬戸が出会う前の話なので、喋る二人ではないし、一番映画的とも言える。
内海は一人きりで、それを気にするでもなく、周囲を馬鹿にしている。話しかけてくれる同級生もほぼ無視している。

塾までの時間のひまつぶしとして、川辺に座り、本を読みながらイヤホンで音楽を聴く。目も耳も、外界の情報をシャットアウトして、完全に一人きりになり殻に閉じこもっていた。

そこにある日、瀬戸が座ってるんですね。
(「サッカー部だったんちゃうん」)という内海のモノローグが入ることから、同級生の話を聞いてないようでちゃんと聞いてるし、瀬戸の存在も認識していたことがわかる。
その後、部活をやめた原因も、同級生は噂話として話していたが、内海は聞いてないようで、ちゃんと聞いていた。

結局、瀬戸は才能がありながら、他の人のために部活をやめた。いい奴なのも内海は知っている。

内海は塾までの時間が空いていた、瀬戸は部活をやめて暇、需要と供給だと言っていたけれど、それだけじゃないだろ。
後ろからわーわー話しかけてきていた同級生だって、おそらく内海と友達になりたかったのだと思う。それは無視したじゃないか。彼では駄目だったのだ。

瀬戸なら良かった理由は、おそらく、明るく見えても影で挫折を経験しているところと、本当は優しくていい奴なところだろう。
瀬戸は、内海がサッカー部時代のエピソード知ってるって知らないんだろうな。映画では出てこなかったけれど、原作でサッカー部在籍時の話をする回ってあるんだろうか。話の核になりそうなところだし、出てこないかな。

エピローグは樫村さん目線だった。二人のだらだら会話がだいぶ楽しくなってきたので、それで終わらせてほしかった…とも思ったけれど、これはこれでいい。
外部から見る瀬戸と内海二人の様子が描かれる。

樫村さんは瀬戸に好意を持たれているけれど、内海のことが好きなのだ。もしかしたら、内海も樫村さんのことが好きなのかもしれない。けれど、気持ちに応えられないのは、たぶん瀬戸のことを考えてのことだろう。

0話は内海のモノローグもあるし、内海の考えていることはわりとわかる。でも、瀬戸に関しては本心がよくわからない。でも、たぶんそれほど深く考えていなくて、話していることがすべてなのではないかなとも思う。

もしかして、映画でよくある、実は存在しないパターンだったらどうしようかと思った。孤独な内海の作り出したまぼろしだったら…。そして、樫村さんはそれを優しく見守る女子だったら…。

でも、瀬戸は瀬戸でただの馬鹿明るい奴ではなく、家庭に問題はあるし、可愛がっていた猫が死んで号泣する優しい部分もあるし、その前に変な形で部活をやめたりもしている。これらがなかったら、まぼろしを疑ったところだ。でも、瀬戸にも悩みもあるし、人間味はちゃんと感じる。

瀬戸の悩み、内海の悩み。だらだら喋ることで二人が同時に救われている。ちょうどいい存在に思えた。やっぱり需要と供給なのか?

喋りのコントだけ見て笑うだけでもいいけれど、喋るだけの映画とは言わないでほしい。大森監督のブロマンス手腕も堪能しましょう。くだらない馬鹿話とその裏側まで見たほうが絶対におもしろい。

上映時間が75分しかない。いくらでも観ていられる。三時間くらいやってほしい。どうにでもなると思うので、是非続編制作に期待したい。