そこまで最近のディズニー映画に思い入れはないのですが、モアナがハートマークを作っているポスターの通りの映画ではないというので観に行ってきました。

マウイ役のドウェイン・ジョンソンが気になったので字幕で見ました。

以下、ネタバレです。








ポスターだと、海の前にモアナが一人で立ち、髪をなびかせて微笑み、ハートマークを作っている。まるで王子様を待ち焦がれている少女のようだ。
ところが、事前の口コミでは“そんな映画ではなく、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』だった”という話がまわってきた。
実際に観てみたら、確かに『マッドマックス』だった。

ポスターにはマウイが載っていない!と言われていたけれど、一応、猛禽の姿で載っていた。あと、物語のキーとなる石をハートの中に持っている。間違ってはいないのがなんだかずるい。

ただ、映画を観てからだと、海外版ポスターのような不敵な笑みのほうがモアナっぽい。髪の毛をなびかせているけれど、映画内では長い髪は顔にばさっとかかってしまうこともあって、ここぞというときにはおだんごにしていた。

ある日焼け止めクリームの宣伝にモアナが使われていたけれど、映画のモアナは日焼けなんて気にしなさそう。

モアナはポスターからイメージされるような、何かを夢見て、待っているだけの女の子じゃない。自ら行動を起こす。一人きりで乗り込んでいく。親に反対されても、大海原へ出て行くのだ。

全編ほぼ海上アクションである。
アニメの技術のことはあまりよくわからないけれど、エンドロールを見ていたら、髪の毛の担当の方と、波の担当の方が別々にクレジットされていた。モアナだけでなく、マウイも髪の毛が長い。海上を船で行くから風がある上にアクションだ。相当大変そう。

ただ、海の上とはいえ、実写のように漂流ものにはならない。
公式サイトのキャラクター紹介を見ると、“モアナ”などに混じって“海”と書いてあるけれど、確かに、海も仲間のようだった。そのため、海上でも孤独感のようなものはない。船から落ちても大丈夫だし、ピンチらしいピンチもそれほどない。ニワトリのヘイヘイより、よっぽど頼りになる存在だった。

モアナは可愛い子豚のプアを飼っていて、この子のグッズも映画館には並んでいたんですが、ほぼ出番はない。プアではなくヘイヘイが冒険についていくのが変わっていると思った。というか、ヘイヘイにしても、本当についてきているだけなのもすごい。キャラクターデザインを見てもヘイヘイは役に立つとは思えないのだが、本当にほとんど役に立たない。

マウイに「女の子が動物を連れてりゃプリンセスだろ」と言われるけれど、その動物がプアならまだ絵になるけれど、ヘイヘイではとてもプリンセスのペットっぽくはない。それに、モアナははっきりと「プリンセスじゃない。村の娘よ」と言う。
ここ最近のディズニー映画はプリンセスがいて王子様がいて…というストーリーから脱却しようとしているのは感じていたけれど、ここまであからさまに否定するとは思わなかった。

それに、冒険先で出会うマウイは男性だけれど、いわゆる恋愛関係にはならない。半分神様なせいもあるのだろうか。仲間としての絆は強めていくが、最後だってすっぱり別れる。お姫様と王子様の話ではないのだ。

モアナは村へ帰るので、行きて帰りし物語ではあると思う。しかし、行きて帰りてまた行きし物語というか、ただ冒険から戻って、成長した娘はこれからは村で長として暮らしていきますというラストではないのだ。
成長はもちろんした。けれど、村の全員を引き連れて、大きな船で新たな世界へ旅立つのだ。とても爽やかだし、何が起こるかわからないワクワク感のあるラストだった。何が起こるかはわからなくても希望に満ち溢れている。
号泣という感じではないけれど、いいラストだった。

映画で出てくる歌がすべて良くて、サントラCDが欲しくなってしまった。
アカデミー賞歌曲賞にノミネートされていた主題歌とも言える『How Far I'll Go』は、歌い上げる系で少し苦手かもしれないと思っていたけれど、物語の中に組み込まれているとしっくりきた。歌詞も物語の一部だし、読みながら映画を観ていると、モアナの海の向こうへの憧れや実際に冒険へ出かけなくてはという力強い意思を感じた。

そして、知らなかったのだが、マウイの歌もあった。マウイは大きな体にタトゥーが入っていて、キャストであるドウェイン・ジョンソンを連想させないこともない。
ちなみに、モアナを演じるハワイ出身のアウリイ・カルヴァージョもすごくモアナっぽい。ドウェイン・ジョンソンとアウリイ・カルヴァージョ二人の写真が可愛かった。吹き替えの沖縄出身の屋比久知奈さんもモアナっぽいが、マウイを演じた尾上松也さんはマウイっぽくはないです。

ドウェイン・ジョンソンの歌声というのが、とてもうまくて聞き惚れるというところまではいかないけれど、可愛くて好感が持てて、ますます好きになってしまった。
この体のタトゥーが動くのだけれど、マウイの相棒なのかと思っていたけれど、彼の自己や内面らしい。

最初、マウイが悪役なのかと思っていたけれど、モアナと序盤で会うし、最初は粗暴な面も見せるが、別に悪い奴ではない。
二人は仲間として行動を共にして、最後にボスとの対決もあるけれど、そのボスも本当は悪い人ではなかった。悪い奴がいて、それを倒しに行く正義の味方たち…という単純な話でもないのだ。

そして、カニと言われているのでカニなのだと思うけれど、いわゆるカニというフォルムではない甲殻類のタマトアが最高。
キラキラしたものを集めるのが好きで、甲羅をギンギラにしているのだけれど、その印象から歌うのがグラムロックである。かっこいい。
エンドロール後にも出てくるので、結局、曲が最後に流れることになり、一番頭に残ってしまう。
曲がセクシーなせいもあるけれど、歌声もセクシー。演じているのはジェマイン・クレメント。肩書きは俳優・コメディアン・ミュージシャン・声優と多彩。
声優として『怪盗グルーの月泥棒』に参加してるのも目を引いたが、一番気になったのは、『シェアハウス・ウィズ・ヴァンパイア』の監督、脚本、出演をしていたところ。予告はおもしろそうだと思ったけれど、未見です。連名でタイカ・ワイティティも監督になっている。これは『ソー ラグラロク』の前に観なくては。
タマトア役の吹き替えキャストがローリーなのもいいと思う。グラムロックの人で演技もできてミュージカルにも出ているとはいえ、よくキャスティングしてくれたと思う。ローリー以外ないだろうと思う。吹き替えでも観てみたい。


2016年公開。フランスでは2015年公開。

『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』を観たときに、本作のことが頭をかすめた。予告しか見ていなかったけれど、音痴な歌姫のために夫が献身的につくすという内容かと思っていた。
本作は舞台をフランスに移し、登場人物の名前を変更しただけの同じストーリーなのだと思っていたけれど違った。

『マダム・フローレンス!』がどの程度かわからないけれど実話寄りで、『偉大なるマルグリット』はフローレンスのモチーフこそ同じだけれど、あくまでも創作のようです。

以下、『マダム・フローレンス!』との違いについて。『マダム・フローレンス!』のネタバレも含みます。

そもそも夫のキャラクターが違った。実際には、医師と17歳で結婚して34歳で離婚、41歳でシンクレアと出会い結婚したようだ。フローレンスが歌のレッスンを受けたのも43歳のときらしく、『マダム・フローレンス!』はその頃の話である。夫もシンクレアだ。

『偉大なるマルグリット』では、夫は男爵である。貴族の地位も持っている。フローレンスよりも年上に見える。シンクレアは、これは実話なのかわからないが売れない俳優だったので、どちらかというと、フローレンスのヒモのように見えた。年齢も若い。

ワルキューレ風の衣装や天使の羽の衣装などの、奇抜だけれど愛らしい衣装は両方ともに出てきた。写真がたくさん残っているようだし、それを参考にしているのだろうか。

同様に、彼女の歌を収録したレコードも実際に残っているようだが、それの扱いは違っていた。
『マダム・フローレンス!』では、嬉々として自分で録音して、ラジオ局などに配っていた。本人が聴いたのかどうかはわかりません。
マルグリットはステージ上で倒れた後で、自分を大歌手だと思い込み、行ってもいないツアーの話をしていて、正気を取り戻させるために病院で歌を録音し、ショック療法のような使い方で聴かせようとしていた。
だいぶ意味合いが違うが、これも『マダム・フローレンス!』のほうが実話なのだろうか。

また、実在のフローレンスは若い頃に元夫に梅毒をうつされていて、『マダム・フローレンス!』でもその薬の副作用で髪が抜けてしまっていて、調子が悪くなることも多かった。だから、夫人公認の愛人もいた。公認とはいえ、フローレンスは夫を愛していて、やはり寂しそうだった。

マルグリットは持病はなさそうだったけれど、慣れないレッスンのせいなのか、喉を痛めていた。ステージ上で吐血していたのは声帯が切れたのだろうか。
また、やはり夫には愛人がいたが、あくまでも内緒であり、マルグリットが偶然見かけてショックを受けるという場面もあった。

フローレンスもマルグリットも、両方とも夫の愛を求めていた。求めながら満たされない寂しさは同様に描かれていた。

フローレンスのほうは、夫のシンクレアは最初はどちらかというと執事のような描かれ方をしていた。マルグリットは夫がまったく興味をしめさない。
シンクレアはかいがいしくフローレンスの世話をしていたが、マルグリットではそのままずばり執事が世話をしていた。

マルグリットでは歌の先生が雇われるときに、実際に歌を聴いたところで断って帰るので、これはフローレンス側のピアニストの役割かと思った。
ピアニストは去ろうとするところ、シンクレアがお金で引き留めるが、歌の先生は性癖を暴露するぞと執事が脅して引き留める。

しかし、フローレンスのピアニストも、マルグリットの歌の先生も、共に歌を聴くうちに彼女のことが大好きになってくる。
だから、歌が下手という、本人だけが気づいていない事実が伝えられない。みんな彼女を傷つけたくないと思うし、応援したいと思ってしまう。

劇中では、彼女は愛で満たされていないから歌う、夫の気をひくためだと言われていたけれど、それだけではないと思う。

音楽が好きで歌が好きだから、自分でも歌いたい。好きなことを貫こうとするひたむきな姿勢と行動力、バイタリティー。
何より楽しそうな姿を見ると楽しくなってくる。

『マダム・フローレンス!』で夫のシンクレアはサクラの客を雇ったり新聞を隠したりと、フローレンスの耳に酷評が入らないようにしていた。
マルグリットの夫も最初は舞台で笑い者になるだけだと言っていたけれど、そのうち、「あなたにやめろと言われればやめるわ」とマルグリットに言われても言えなくなってしまう。
結果的に、マルグリットの歌で夫の気をひくことができたし、彼女を傷つけたくないとまで思っていたのだから、気持ちがまるまる変化している。

映画を観ている私たちも同じだ。強烈に音がはずれていても、もう馬鹿にすることはできない。笑っていてもそれは嘲笑ではなく、幸せな気持ちになったときの笑みだ。

ラスト付近の展開は両方とも同じだった。
フローレンスが酷評された記事が載った新聞を見せるのを、マルグリットの歌が収録されたレコードを聴かせるのを、それぞれ夫が必死で止めようとしていた。

実在したフローレンスは心臓発作で亡くなったのだが、事実を知ることで心臓発作を起こしたのかどうかは不明である。

映画では、『マダム・フローレンス!』は新聞記事を読んで倒れ、『偉大なるマルグリット』では自分の歌を聴いて倒れていた。
『偉大なるマルグリット』では亡くなったということはちゃんとは描写されないけれど、両方とも、夫の腕の中で目を閉じている。両方とも、夫の愛が戻ってきたということでハッピーエンドでもあるのだろうか。

もしも心臓発作でないのだとしたら、事実を知ってからも歌を続けるのだろうか。彼女のことを、彼女の歌を愛している人もいるのだから、やはり続けてもらいたいと思うのだ。カーネギーホールのアーカイブでも一番人気になっているというらしいし、70年以上経った今でも歌が愛されていると彼女に伝えてあげたい。

『スノーデン』



オリバー・ストーン監督、ジョセフ・ゴードン=レヴィットがエドワード・スノーデンを演じる。
2004年から2013年までの実話をもとにした映画。

以下、ネタバレです。











ポスターなどのメインヴィジュアルだといつものジョセフ・ゴードン=レヴィットですが、映画内だとちゃんとスノーデンに見えるのがすごい。もそもそとした喋り方も似せているのだと思う。それだけでも彼の演技力の高さがうかがえた。

ただ、実話を“もとに”と言われると、スノーデンの一連のことを知らなかったので、一体どこまでが事実でどこまでが創作なのか、わからなくなってしまった。

Facebookを創設したマーク・ザッカーバーグを描いた『ソーシャル・ネットワーク』になんとなく似た印象を受けた。
コンピューターに強い若者が主人公だからかもしれない。まっすぐにこちらを見ている人の顔に文字を重ねたポスターのせいかも。
また、劇中で流されたデジタルっぽい曲調がトレント&アッティカスっぽかったからかもしれない(音楽は『ラブ・アクチュアリー』や『レイヤー・ケーキ』『華麗なるギャツビー』のクレイグ・アームストロング)。エンドロールでピーター・ガブリエルの名前が出てきたので何かと思ったら、エンディングテーマになっている『The Veil』を本作のために書き下ろしたらしい。



『ソーシャル・ネットワーク』と似た印象でも、あの映画のマーク・ザッカーバーグよりも人とコミュニケーションがちゃんととれている。
恋人がいて、一緒に住んでいた。「無視しないでよ」などと言われていたけれど、いわゆるコミュ障ではない。恋人から写真を撮られたり、一緒に登山をしたりというシーンは、主演がJGLだから余計にロマンティックになっている(した)のではないかと思ってしまった。
物語のスパイスとしてのラブ要素で、本当はこの女性すらいなかったのではないかと存在を疑ってしまったのだ。
けれど、最後に、彼女もモスクワに渡って暮しているというテロップが出て、実際にいる人なのを知る。

では、軍に入っていたのは事実だとして両足骨折で抜けることになったのはどうなのか、ルービックキューブの一連のエピソードとか、カメラを警戒して手話で別れを告げるのはどうなのだろうと考えてしまった。
ビデオ電話でコービンと話すとき、とても大きなスクリーンのような画面にコービンがアップになるのは、さすがに威圧感を出すための映画的な演出なのだと思う。
ただ、スノーデンの恋人の監視をしていることをさらっと言っていたのは事実かもしれない。監視がいいとか悪いとかではなく、日常になっている。

直接の話ではないけれど、『アイ・イン・ザ・スカイ』で、ドローン攻撃の際にあれだけ一つのボタンを押すのにためらっていたのに、本作ではぽんぽん押していた。おそらく、こっちが現実なのだろう。ハワイの基地は同じ場所だろうか。

2016年に公開された(アメリカでは2014年)スノーデンのドキュメンタリー『シチズンフォー スノーデンの暴露』も観たい…と思いながら観ていたら、ラストでまさかのご本人登場。

本物のスノーデンから語られる言葉の重さ、そして母国には戻れなくても幸せそうで後悔はないのだろうと思われる様子など、伝わってくるものが大きかった。
JGLの演技は申し分なかったのだが、これで、ここまでが所詮、再現VTRになってしまった。ご本人を登場させたのは、オリバー・ストーンパワーだろう。

映画を観終わってから調べてみたところ、内容はほとんど事実のようだった。
衝撃的な暴露にいたるまでの流れがよくわかったし、もしかしたらドキュメンタリーをいきなり観るよりも、噛み砕かれているであろうこちらを先に観ておいてよかったのかもしれない。

スノーデンが真実を話す場面から本作は始まる。香港のホテルの一室で、メリッサ・レオ演じるローラが撮影を始める。

まさに、ここでローラが撮影している映像の内容が『シチズンフォー』らしい。確かに、監督の名前がローラ・ポイトラスになっている。

アメリカの話でしょ…と思っていたけれど、日本も監視されていたし、完全にひとごとではない話だった。
また日本が同盟国ではなくなった場合に作動させるプログラムも仕込まれていたというのも知らなかった。
ぞっとしたし、もっとこの件を知りたいと思った。





アメリカでは2014年公開。日本ではビデオスルー。
主演トム・ハーディなのにと思うけれど、今でこそ主演作がちゃんと劇場公開されるけれど、『ブロンソン』や『ウォーリアー』などの良作もこくかいされていない。

原作小説『The Drop』(原題もこれ)、デニス・ルヘインは『ミスティック・リバー』『ゴーン・ベイビー・ゴーン』『シャッター・アイランド』の作者。5月に公開予定のベン・アフレック主演『夜に生きる』もこの方です。

ブルックリンのバーが舞台になっている。バーはマフィアのマネーロンダリングに使われていた。
トム・ハーディ演じるボブはそこで働くバーテンダーである。

最初、ちょっと不器用だけど平凡な男の巻き込まれ系の話なのかと思った。
けれど、最初から「“ただの”バーテンダー」というような言い方も気になったし、序盤で警察にも平気で嘘をついていた。

バーの店主というか、マフィアに乗っ取られる前の店主も裏では悪い事をやっているようだったし、ボブは彼のいとこで小さい頃から知っていた…ということは、悪い事も容認してる、もしくは彼も悪い事をやっているのだろうと思った。

また、送りつけられた右手を慣れた手つきでラップに包む様子は、ちょっとこれは“ただの”バーテンダーではないと物語っていた。店主は悪い事といっても所詮チンピラ程度のことしかやってなかったけれど、このボブを見てひいていた。

全編通してあやしいっちゃあやしいし、まったく素の姿が出てこなかったので、一応どんでん返しというか、実はボブが殺しましたという事実が出てきてもそりゃそうだろうという感想しか抱けなかった。意外性はさほど感じられず。

おそらく、チンピラが俺が殺したと言ったときに心の中で笑っていたのだろうが、そんな部分も見えなかった。これはどんでん返しのためだとは思うけれど、真実が明らかになった後だったらそうゆう面が見えても良かったのにと思った。

このちょっとサイコなチンピラ役がマティアス・スーナールツ。『リリーのすべて』で少しプーチンに似てると言われて人気の出た俳優さん。『リリーのすべて』ではビシッとしていたけれど、『君と歩く世界』では今回の役に少し似ていたように思う。
本来、チンピラ役というか、育ちのあまり良くない男の役のほうが合っているのかも。

真実が明らかになった後で一変して欲しかったけれど、ボブというのが感情を殺した男だということだし、原作があるものだからそうゆうキャラで間違いないのだろう。
でも、できることならば感情を出した演技も見たかった。

ラストも含みをもたせたものになっていた。
ノオミ・ラパス演じるナディアはおそらくボブに裏切られたと思ったと思うので、銃でも持ち出すのではないか。
けれど、ボブとエリック(チンピラ)の違いは犬を可愛がるかそうでないかという部分である。犬を可愛がる=根はいい奴ということならば、犬をナディアに預けて自首ということか。

ナディアが家から出てくるところで終わりなので、ラストは自分で考えろということのようだけれど、彼女に向かってだけでも本心や感情をさらけ出すところが見たかった。おそらく切られたラストの先ではそのようなやりとりがあったはずなのだ。

唯一少し感情が見られるのが、子犬と接する場面である。
犬好きで知られるトム・ハーディが序盤で犬を拾う。子犬相手に少しだけ苦戦するけれど、結局、犬可愛いという感情が溢れているのがよくわかる。
一応、犬が捨てられてるのを見つけただけで、飼うなんてごめんだし、飼ったこともないという役だけれど、抱き上げ方も可愛がり方もめちゃくちゃ慣れていた。

これ、子犬によって人間らしい感情を取り戻し…という役でもないと思うのだけれど、どうなのだろう…。子犬がボブを変えるきっかけになっていたのだろうか。







アカデミー賞作品賞ではアクシデントがあって残念でした…。『ムーンライト』も楽しみです。

以下、ネタバレです。






映画の結末を知った上で最初の『Another Day Of Sun』を聴くと、彼を田舎の町に置いて、女優になるために都会に出てきた女の子のことを描いた歌詞が暗示的なのがわかる。同時に、ミアは実家のある田舎町から、女優になるためにロサンゼルスへ出てきたわけですが、もしかしたらこの歌詞そのまんまに付き合ってた彼氏を置いてきているのかもしれないとも思った。映画では描かれない前日譚。

この映画はミアとセブの恋がかなうまでとそれ以降で前半、後半に分かれると思う。もちろん後半あってこそだとは思うけれど、前半のお互いが意識しあって、少しずつ惹かれ合っていく様子がたまらない。
前回観た時に、天文台のプラネタリウムのシーンで恋に落ちたのだなと思っていたけど違った。
たぶん、セブはパーティーバンドで演奏していて、ミアが『I RUN』をリクエストしてきてすごくキュートに踊ってたあたりだ。
ミアはもしかしたらセブがピアノを演奏してるのを見た時なのかもしれない。本当に嫌だったら、パーティーバンドで演奏しているのを見かけても声をかけなかっただろう。

もしかしたら、私はその次の『A Lovey Night』を踊るシーンが映画内で一番好きかもしれない。この背景になっている綺麗な色をした空はCGではなくて本当に夕暮れ時を狙って撮ったというからすごい。
ミアがおめかしのためのヒールの靴を普通の靴に履き替えるのも、あなたのためには別にめかしこまなくてもいいわよねと言っているようで、すでに親しさを感じているのがいい。
セブが好きな子にいじわるするみたいに、ミアの足に砂をかけちゃうのもかわいい。

『A Lovey Night』自体が、“別にあなたのこと全然好きじゃないし、ロマンティックな夜でもないし”という歌詞である。もちろんこれは本心ではない。そんなのは二人の様子を見ているだけでわかる。その様子がとてもいい。

その次のシーンでセブがミアを映画に誘うんですが、何回も『For research.』とわざわざ理由をつけるのがまたいい。ミアも『For research?』と聞き返していた。「(デートじゃないよ)映画の研究のためだよ」「そうね、研究のためなんだったら行ってもいいわ(デートだったら行かないけどね)」と、カッコ内の部分は声には出してないけれど、出すならそんな感じだろう。でも、デートという言葉は出してなくても、お互いにこれはデートだ!と思っていたはず。敢えて言わないところが本当に可愛い。
ミアは一人で車を運転している時に映画館の横を通りかかって嬉しそうに微笑んでいた。

プラネタリウムのシーンは一回目に観たときにはロマンティックなだけだったけれど、二回目の今回はこの先は現実に戻っていくんだよなと考えてしまい、さみしさも感じた。

パーティーバンドでセブが演奏しているシーンは彼の嫌々やっている感が見えて大好きなんですけど、特に『Take on Me』のコーラス部分をふられて、はいはいというように仏頂面で頷いて受け流すのが最高。知り合い(ミア)に見つかってバツが悪そうな顔をするのもいい。
ただ、こんなことすら嫌がっていたセブが、キースのバンドに加入してステージ上で変なキーボードを弾くまでになったのだ。ミアは責めたけど、彼がどれだけ妥協したか。

夢に向かってがむしゃらに突き進んでついに叶えたエマの物語として観られることが多いのかもしれないけれど、エマが母と電話をしているのを聞いて、彼女のことを思って、生計も立てなくてはいけないとキースのバンドに加入したセブの物語として見るとやりきれない気分になる。

後半では、二人で行った思い出の映画館も閉館してしまう。それだけで映画の衰退と二人の関係の悪さを示しているようで胸が締め付けられる。
実際にあった映画館らしい。パンフレットを観ると、ミアが後半で一人芝居をした劇場もここらしいけれど、ロケとして同じ劇場を使ったということなのか、劇中でも閉館した映画館が劇場になってそこをミアが借りたのかがわからない。

しかし、仮に思い出の映画館跡地の劇場をミアが一人芝居の舞台に選んだのなら、セブが観に来てくれなかったのは本当にショックだったろう。
セブに言われなかったら、自分で脚本を書き、自分で演じるということもしなかっただろう。きっかけを作ってくれたことに感謝もしていたと思う。なおさら、観て欲しかった。

セブはあの撮影にどうしても参加しなくてはならなかったのだろうか。翻訳の具合かもしれないけれど、断ることはできそうだった。でも契約してるし、あのカメラマンも芸術家肌の有名人っぽかったし一人だけ別の日ということはできないか。
でも、本当だったらなんとしてもかけつけなくてはいけない場面だったんですよね。行かなかった時点で二人の関係はもう終わりだと思う。

エンドロールの曲のところに『Japanese Fork Song』と書いてあって、なんのことかと思っていたけれど、『荒城の月』らしい。
『荒城の月』なんて流れたかなと思ったんですが、アメリカのジャズピアニスト、Thelonious Monkがアレンジしたものとのこと。
聴いてみたら確かに『荒城の月』である。セブが家でレコードをかけながらピアノを練習しているシーンの曲です。


『神のゆらぎ』



2014年公開。日本では2016年公開。
グザヴィエ・ドランが出演しているが、監督はダニエル・グルー。Podzという名前でテレビシリーズの監督なども手がけているらしい。

群像劇になっているのだが、その誰もが悩みを抱えている。
白血病で輸血しないと死んでしまうが、神の教えによって血を混ぜることを禁じられている。恋人も親も、周囲すら輸血を拒んでいて、彼の本心はわからない。
この青年、エティエンヌ役がグザヴィエ・ドラン。群像劇ということもありますが、そこまで出番は多くない。

別の話、宗教とは関係ない話で、ギャンブル狂の男がホテルの老バーテンに「毎年、妻とキューバに行ってるんだ」と話す。バーテンは実は同じホテルで働く女性と不倫をしていて、その言葉に突き動かされるようにキューバ旅行へ誘う。
老バーテンはここでギャンブル狂の男に声をかけられなかったら、思い切った行動には出なかったかもしれない。

一方で、あやしげな仕事をする男が出てくる。ドラッグの売人らしい。この男についてはどうして売人をしているのか、というのが話が進むうちにわかってくる。なにやら過去にやらかしたらしいというところから、それが姪っ子に関係あるということ、はっきりとはしめされないし映像なんて出てこないけれど姪っ子と関係を持ったらしいということ…。それが本当なのかというところまでも描かれないが、姪っ子はどうやら嫌ではなかったらしい。
ただ、親(男の兄弟)からすればたまったものではない。けれど、兄弟だから、二度と現れないことを条件に、逃がしてやろうとする。兄弟は空港勤めだ。キャンセル待ちの席を男にこっそりとあてがってやろうとする。

物語の序盤で飛行機事故が起きて、エティエンヌの恋人でもある看護師は病院に向かう。生き残りは一人だが、大怪我をしていて身元もわからない。
映画を観ているうちに、実はこの飛行機事故に向かって話が進んで行っているのがわかる。

ギャンブル狂の男とその妻、バーテンの男性と不倫相手の女性、そして逃げる男と全員が乗るのかどうやら同じ飛行機のようだ。
じゃあ、生き残っているのは誰なのか。

そのようなサスペンス展開がある一方で、エティエンヌたちのストーリーも進行している。エティエンヌの恋人である看護師は、医者に白血病は輸血をしないと治らないと聞かされても頑なに拒んでいたが、飛行機事故で人の死を目の当たりにして気持ちと信仰がゆらぐ。

飛行機事故の生き残りの人と血液型が合うのが看護師だけだった。すぐに輸血をしないと間に合わない。多くの人の死を目の当たりにしたのとエティエンヌのことがあったのだろう。
それより何より、不倫の女性の家に勧誘しに行った時に、夫が「全知全能の神がいるなら、飛行機事故なんて起こらないだろ」と言われたことが一番ひっかかっていたのだと思う。
彼女は輸血を承諾する。
そのために友人からは排斥され、家も出ることになった。エティエンヌには告白していたが、きっとエティエンヌの気持ちが知りたかったのだと思う。

エティエンヌの本心はどうだったのだろう。どこかで死にたくないという気持ちもあったと思う。それでも本当に、自分が復活することを信じていたのかもしれない。周囲がそう言うし、いままでそう信じてきたから今更考えは変えられないということか。
ここでのグザヴィエ・ドランは、正しいとか正しくないとかわからないけど信じてるんだよというような『トム・アット・ザ・ファーム』で見せたようなぐるぐる目になっていた。

結局、エティエンヌは(輸血をうけないまま?)亡くなり、看護師が輸血をした男性は一命をとりとめる。
ギャンブル狂の男の妻が病院に呼ばれていた。空港で別れ話をしていたので、こんな状況で呼ばれるなんて皮肉だと思っていたが、どうやらギャンブル狂の男とは別人ということが発覚する。

その前に空港のシーンがあったのですが、飛行機が苦手なバーテンの男性に向かって、過去に罪を犯した男性が勇気付けるようなことを言うんですよね。不倫の二人はその言葉で飛行機に乗ったのだ。
この二人がキャンセルして売人の男性が乗ったのかと思っていたが、キャンセルしたのは妻に別れ話を切り出されたギャンブル狂の男性だった。

ということは、病院で大怪我をしていて一命をとりとめたのは、過去に罪を犯した男性である。ちゃんとは描かれないけれど、おそらくそうなのだと思う。

難しいところで、過去に罪を犯した男は勇気付けるために不倫カップルに声をかけたのに、そのせいで彼らが乗った飛行機は落ちた。
過去に罪を犯した男はこの場から逃げたかったのに結局戻ってくることになってしまった。
教えに背いて看護師が輸血をして命を救った男は犯罪者だった。
ギャンブル狂の男の妻は、この先この男性と何か関わりを持っていくのだろうか。夫との関係は…。

最後に「全知全能の神がいるなら飛行機が落ちることはないだろ」というセリフがもう一度流れる。不倫の女性の夫である。最初にこのセリフが流れた時は、宗教の勧誘を断るためだけの言葉かと思っていた。けれど、妻が別の男と出て行った上に彼女が乗った飛行機が落ちたという彼の状況がわかった上で聞くと、深い悲しみがうかがえる。本心から、神など信じられないという気持ちだったろう。
宗教と運命と人の幸福と。考えさせることが多い作品だった。






アカデミー賞13部門、歌曲賞は二つと全14ノミネート。これはタイタニック以来だそうです。
何部門受賞できるかどうかはわからないけれど、間違いなく今年度の中心となる作品であることは間違いない。

以下、ネタバレです。








オープニングは渋滞で止まっている車から人が降りて歌って踊るというもの。ここで歌われるのが歌曲賞にもノミネートされた『Another Day Of Sun』。これから映画が始まるというわくわくが止まらなくなる。
映画が観ていなかったのでわからなかったが、今年のゴールデングローブ賞のOPは、これのわかりやすいパロディだった。
監督曰く、実際に渋滞に巻き込まれている最中にひらめいたとのこと。渋滞は日常的なことだし、そこからミュージカルの世界に自然に引き込みたかったと言っていた。

ライアン・ゴズリングとエマ・ストーンのコンビだと『ラブ・アゲイン』を思い出してしまう。『ラブ・アゲイン』ではライアン・ゴズリングが男前を演じていて、男前が男前役をやるとかなり迫力があるなと思ったけれど、今回は男前役ではないです。

ライアン・ゴズリング演じるセブは、売れないジャズピアニストで、冴えない、鬱陶しい、面倒臭い。頑固で考えを曲げない。ジャズ語り出すと熱くなってしまい、その情熱は少し『セッション』を思い出すほどだった。

序盤、エマ・ストーン演じるミアは、オーディションに落ちて落ち込んでいるところ、友人たちに誘われてパーティーへ出かける。ここでドレスアップした女子たちがきゃいきゃい言いながら踊るのも可愛かった。けれど、運命の相手に会えるかも?とわくわくしながら参加したのに、結局収穫はなく、車もレッカー移動されて、とぼとぼ歩きながら帰ることになってしまう。
そこで、店の中からピアノの音色が聴こえてくる。映画を観ている私は中にセブがいることがわかっているし、二人が恋に落ちることもわかっている。ミアはふらふらと引き寄せられるように店内へ入っていく。

元々、今夜は運命の相手を探しに出たんだし、ここで運命の相手に会ったのだ。ミアは釘付けになっていたし、ああ、恋に落ちたなと思った。
しかし、話しかけようとしたのに、店を解雇されたセブはミアに肩をぶつけ、不機嫌そうにしながら店を出て行く。
ここではなかった。

その次に二人は偶然再会をする。セブはa-haの『Take On Me』を演奏する余興向けのバンドの雇われキーボーディストをしていて、もちろんやる気がなさそう。それをおもしろがったミアはA Flock Of Seagullsの『I Ran』をリクエストして、挑発するようなダンスをする。このシーンがとても可愛い。セブが眉間にシワを寄せて鬱陶しそうな顔をしているのもいい。

その後、夜の公園で二人きりになる。雰囲気はロマンティックだけど、二人ともロマンティックにならないように自制しているのがなんとも可愛い。
ここでミアは黄色いワンピースを着ているんですが、ポスターでよく見るあの服なので、二人で踊るシーンが来るぞ来るぞと構えてしまう。
二人のタップダンスが始まる。子供が拗ねた時に足を地面にトンとやるような仕草からのタップダンスでその入り方も素敵。あのポスターになっている場面もあります。

背景もロマンティックだし、ポスターにもなっていたし、ここで二人は恋に落ちるのだろうと思っていた。だいぶ意識をする関係にはなっていたけれど、ここでもなかった。ここではおそらくセブの方がミアのことを好きになっていたようだったが、ミアには彼氏がいたのだ。しかし、このすれ違い具合はもどかしくてドキドキして楽しい。

このあと、映画の約束などをするんですが、その日はミアが彼氏とのデートの日だったんですね。でも、ミアは彼氏と食事をしていても全然楽しくないし気が気じゃない。
このミアの彼氏、ちらっと見えた顔がフィン・ウィットロックに見えて、動揺してしまう。その後に結構はっきり顔が映って、フィン・ウィットロックなのを確信して、出ているのを知らなかったからびっくりして、大切なシーンなのに一部、ストーリーが頭に入ってこなくなってしまった。

ミアはレストランを抜け出して映画館へ駆けつける。映写機に照らされた姿が綺麗ですごくいいシーンなのに、私だけフィン・ウィットロックでまだ動揺していた。
ここで、お互いにじりじりと手を握るのがいい。そのあと、キスをしようとして映写機のトラブルでまたお預けをくらっていたけれど、二人で手をとって、映画に出てきたグリフィス天文台へ向かう。

ここで、二人は完全に恋に落ちる。ここも本当に素敵なシーンだし、ああ、良かったと思った。
でも、ここまでじりじりと焦らされて、でも結局おつきあいすることになったということはこの先どうなるの?といきなり不安な気持ちになってしまった。

最初から、“冬”とか“春”というように季節のテロップが入るんですよね。これは、季節の移り変わりと共に二人の関係も変わって別れるパターンなのでは…。

この先を観ながら、これはロマンティックなラブストーリーとはちょっと違うのだなと思う。女優を目指すミアと自分の店を持って自分の好きなジャズを弾きたいセブという、夢を追いかける二人の話なのだ。二人はたまたま出会って恋に落ちたが、それが中心ではない。おそらく、ミアにとっては。

恋愛と夢とどっちが大事ということもないのだと思うけれど、敢えて考えるなら、ミアは夢をとり、セブは恋愛をとったのだと思う。

お金を稼がなきゃいけないとやりたくないバンドに入ったセブ。結局、プールで演奏していた時と変わらないが、バンド本体の能力差で今回は売れて、アメリカツアーに出る。
このバンドのボーカルを演じているのがジョン・レジェンド。さすがに歌が上手いし、ジャズではないけれど曲も恰好良かった。

やりたくもないことをやって金を稼ぐセブと、あくまでも夢を追い続けるミアの間ですれ違いが起こる。

夢にいつまでしがみつくのか、夢をあきらめることが大人になることなのか。なんとなく、『フランシス・ハ』を思い出してしまった。

ミアの一人芝居の日。お客さんは身内だけだったけれど、そこに彼はいない。
何をしていたかというと、バンドのバカみたいな撮影で、あまりのバカバカしい撮影に苦笑してしまったけれど、多分、本当に行われていそう。

ミアは自分の舞台が失敗し、おまけに悪口まで聞いてしまいどん底だけれど、その時に近くにはいてくれなかった。

その後、一回仲直りしたかに見えたけれど、オーディションに行ってこいと背中を押して、そこでたぶん、セブの役目は終わったのだと思う。
一人芝居の夜もそうだし、すれ違い初めてからもそうかもしれない。いつ終わったのかはわからないけれど、背中を押して、完全に終わったのだ。

ミアがパリに撮影に行くことになったらどうするか?という話をしたときに、セブが様子を見ようと言うんですが、おそらくこれも良くなかったのだと思う。
恋愛シュミレーションゲームの選択肢を間違えて、バッドエンドになってしまった。

いきなり5年後に時間が飛ぶ。
ミアは歩き方が女優然としていて、かつて働いていたカフェでコーヒーを買う。特に説明はないけれど、映像から、どうやら女優として成功をして、豪華な家に住んで、セブではない男性と結婚をし、子供もいる。ああ、別れてしまったのだなと思う。

じゃあ、セブはどうしたのだろう。
ミアと夫が子供をベビーシッターに預けて出かけ、帰りに偶然寄ったのが彼の店だった。
二人はお互いに認識をするが、話さない。ここで映画が終わりだったら、とても切なかった。それに、序盤は楽しかったのにこんな終わり方でいいのかと怒ってしまっていたかもしれない。
しかし、ここで走馬灯のように二人の出会いからがミュージカル仕立てで流れる。

最初のピアノの店で出会うシーンから、話しかけたミアにセブがキスをする。ほら! やっぱりあのシーンで恋に落ちなきゃいけなかったんだよ!と思う。ここでそうしていたら、この先の未来もバラ色になっていたのかもしれない。

このミュージカルシーンはドタバタしながらもハッピーなことしか起こらない。セブはバンドの誘いを断る。ミアの一人芝居は成功。セブはミアと一緒にパリに行く。二人は結婚し、子供が生まれる。

確かに、見たかった未来はこれなのかもしれない。けれど、こんなにうまくいかないのも人生だ。選択肢だって間違える。目の前の金に目がくらむ。ぽっと出の女優の一人芝居が満席になるわけはない。

けれど、ミアは女優になったし、セブは店が持てた。夢は叶ったのだ。さっきバッドエンドと書いたが、バッドエンドではなく、多くある終わり方の一つだろう。

ミアは久しぶりに会ったセブが自分の店でピアノを弾くのを見つめ、いろいろと思い出したとは思うけれど、今更家族を捨てることはないだろう。
歩き方もそうだけれど、表情も5年前とはまったく違う。チワワっぽいというか、可愛いけれど愛嬌のある可愛さだったけれどそれが無くなった。実際には5年も経ってないわけで、エマ・ストーンの演じ分けが素晴らしい。

確実に捨てているものもあるし、逆に言えば、何かを捨てないと大女優にはなっていないと思う。
夢見る私が恋したあなた、夢見る私とサヨナラしたときにあなたとも一緒に別れるといったところか。
彼女は決して自分を曲げない。一貫して夢を追い続けてきた。

セブのほうがふらふらはしていたけれど、結局自分の店を持って、しかも繁盛しているのだから、夢は叶っている。
でも、おそらく、セブはミアのことを想っていたのだろう。
それでなければ、彼女が考えた店名とロゴの店は作らない。彼女に見つけて欲しかったのだ。すぐわかるように、そのロゴを使った。

けれど、結局、ミアの夫が店を見つけるというのも皮肉なものだ。

走馬灯のようなミュージカルパートは、こういう未来もあった可能性というよりは、この映画か完全にミュージカルだったらこうなっていたというのが示されていたのかもしれない。この映画は、それほどコテコテのミュージカルではない。ドラマ部分も多い。
ミュージカル部分が夢の世界、または夢のようなうきうきした世界、ミュージカル以外の部分が現実ということでもあるのかも。
オープニングも、渋滞という苦行からの現実逃避でもあるのかもしれない。

ほろ苦い再会ではあったけれど、店を出る時に振り返ったミアとピアノの前に座るセブは笑顔を交わしていた。吹っ切れていなかったら、振り返ることもなかっただろうし、後日一人で訪れると思う。ここで振り返って微笑めるというのは完全に吹っ切れた証拠だろう。

これで二人の関係は本当に終了したけれど、セブも違う未来に向かって歩き出せる。きっとこれはこれで幸せな未来なのだ。

もっと幸せいっぱいなキラキラした気持ちで映画館を離れるのかと思ったけれど、ちくちくする小さなトゲを残すような映画だった。
でも、ビシッと背筋が伸びるような、爽やかさが残った。



1月26日にTOHOシネマズ六本木ヒルズで行われたジャパンプレミアへ行ったのですが、そのことも少し。
主演のライアン・ゴズリングと監督のデイミアン・チャゼルの舞台挨拶が一時間くらいとかなり長く設けられていた。

多数の部門でノミネートされた感想
デイミアン・チャゼル「スタッフたちも本当に頑張った映画なのでみんなにスポットライトが当たったのが嬉しい」

エマ・ストーンとの共演について
ライアン・ゴズリング「今回で3度目の共演だけれど、前回2回は短かったので今回は長くて嬉しい。過去の作品でも撮影の合間に彼女が歌ったり踊ったりしていたので、ミュージカルができることはわかっていた」

日本は監督は初めて、ライアン・ゴズリングは『きみに読む物語』以来12年ぶり。だけれど、今回の日本滞在時間は短かったらしい。前日まで北京にいたようなので、その次の日くらいには別の場所に移動か帰ってしまったと思われる。
もっと長く滞在できたら?という質問にライアン・ゴズリングは「映画を撮ってみたい」と言っていたが、おそらくサービスではないかと思われる…。

ライアン・ゴズリングは歌だけでなく、ピアノやタップダンスなども三ヶ月間練習をしてすべて自分でやっているらしい。
長回しシーンについて、「綱渡りのような緊張感がある。けれど、その緊張感がマジックを生み出していい映像になる」と言っていた。

ミアは作中でオーディションに落ち続けるが、オーディションに受かるコツについて、ライアン・ゴズリングは「わからない(笑)」とのこと。逆に監督にどうしたら合格かという質問をぶつけると「こんな冷たい本読みはせずに、もっと遊びをもたせたオーディションにしてその部分を見る」と言っていた。