『神のゆらぎ』



2014年公開。日本では2016年公開。
グザヴィエ・ドランが出演しているが、監督はダニエル・グルー。Podzという名前でテレビシリーズの監督なども手がけているらしい。

群像劇になっているのだが、その誰もが悩みを抱えている。
白血病で輸血しないと死んでしまうが、神の教えによって血を混ぜることを禁じられている。恋人も親も、周囲すら輸血を拒んでいて、彼の本心はわからない。
この青年、エティエンヌ役がグザヴィエ・ドラン。群像劇ということもありますが、そこまで出番は多くない。

別の話、宗教とは関係ない話で、ギャンブル狂の男がホテルの老バーテンに「毎年、妻とキューバに行ってるんだ」と話す。バーテンは実は同じホテルで働く女性と不倫をしていて、その言葉に突き動かされるようにキューバ旅行へ誘う。
老バーテンはここでギャンブル狂の男に声をかけられなかったら、思い切った行動には出なかったかもしれない。

一方で、あやしげな仕事をする男が出てくる。ドラッグの売人らしい。この男についてはどうして売人をしているのか、というのが話が進むうちにわかってくる。なにやら過去にやらかしたらしいというところから、それが姪っ子に関係あるということ、はっきりとはしめされないし映像なんて出てこないけれど姪っ子と関係を持ったらしいということ…。それが本当なのかというところまでも描かれないが、姪っ子はどうやら嫌ではなかったらしい。
ただ、親(男の兄弟)からすればたまったものではない。けれど、兄弟だから、二度と現れないことを条件に、逃がしてやろうとする。兄弟は空港勤めだ。キャンセル待ちの席を男にこっそりとあてがってやろうとする。

物語の序盤で飛行機事故が起きて、エティエンヌの恋人でもある看護師は病院に向かう。生き残りは一人だが、大怪我をしていて身元もわからない。
映画を観ているうちに、実はこの飛行機事故に向かって話が進んで行っているのがわかる。

ギャンブル狂の男とその妻、バーテンの男性と不倫相手の女性、そして逃げる男と全員が乗るのかどうやら同じ飛行機のようだ。
じゃあ、生き残っているのは誰なのか。

そのようなサスペンス展開がある一方で、エティエンヌたちのストーリーも進行している。エティエンヌの恋人である看護師は、医者に白血病は輸血をしないと治らないと聞かされても頑なに拒んでいたが、飛行機事故で人の死を目の当たりにして気持ちと信仰がゆらぐ。

飛行機事故の生き残りの人と血液型が合うのが看護師だけだった。すぐに輸血をしないと間に合わない。多くの人の死を目の当たりにしたのとエティエンヌのことがあったのだろう。
それより何より、不倫の女性の家に勧誘しに行った時に、夫が「全知全能の神がいるなら、飛行機事故なんて起こらないだろ」と言われたことが一番ひっかかっていたのだと思う。
彼女は輸血を承諾する。
そのために友人からは排斥され、家も出ることになった。エティエンヌには告白していたが、きっとエティエンヌの気持ちが知りたかったのだと思う。

エティエンヌの本心はどうだったのだろう。どこかで死にたくないという気持ちもあったと思う。それでも本当に、自分が復活することを信じていたのかもしれない。周囲がそう言うし、いままでそう信じてきたから今更考えは変えられないということか。
ここでのグザヴィエ・ドランは、正しいとか正しくないとかわからないけど信じてるんだよというような『トム・アット・ザ・ファーム』で見せたようなぐるぐる目になっていた。

結局、エティエンヌは(輸血をうけないまま?)亡くなり、看護師が輸血をした男性は一命をとりとめる。
ギャンブル狂の男の妻が病院に呼ばれていた。空港で別れ話をしていたので、こんな状況で呼ばれるなんて皮肉だと思っていたが、どうやらギャンブル狂の男とは別人ということが発覚する。

その前に空港のシーンがあったのですが、飛行機が苦手なバーテンの男性に向かって、過去に罪を犯した男性が勇気付けるようなことを言うんですよね。不倫の二人はその言葉で飛行機に乗ったのだ。
この二人がキャンセルして売人の男性が乗ったのかと思っていたが、キャンセルしたのは妻に別れ話を切り出されたギャンブル狂の男性だった。

ということは、病院で大怪我をしていて一命をとりとめたのは、過去に罪を犯した男性である。ちゃんとは描かれないけれど、おそらくそうなのだと思う。

難しいところで、過去に罪を犯した男は勇気付けるために不倫カップルに声をかけたのに、そのせいで彼らが乗った飛行機は落ちた。
過去に罪を犯した男はこの場から逃げたかったのに結局戻ってくることになってしまった。
教えに背いて看護師が輸血をして命を救った男は犯罪者だった。
ギャンブル狂の男の妻は、この先この男性と何か関わりを持っていくのだろうか。夫との関係は…。

最後に「全知全能の神がいるなら飛行機が落ちることはないだろ」というセリフがもう一度流れる。不倫の女性の夫である。最初にこのセリフが流れた時は、宗教の勧誘を断るためだけの言葉かと思っていた。けれど、妻が別の男と出て行った上に彼女が乗った飛行機が落ちたという彼の状況がわかった上で聞くと、深い悲しみがうかがえる。本心から、神など信じられないという気持ちだったろう。
宗教と運命と人の幸福と。考えさせることが多い作品だった。






アカデミー賞13部門、歌曲賞は二つと全14ノミネート。これはタイタニック以来だそうです。
何部門受賞できるかどうかはわからないけれど、間違いなく今年度の中心となる作品であることは間違いない。

以下、ネタバレです。








オープニングは渋滞で止まっている車から人が降りて歌って踊るというもの。ここで歌われるのが歌曲賞にもノミネートされた『Another Day Of Sun』。これから映画が始まるというわくわくが止まらなくなる。
映画が観ていなかったのでわからなかったが、今年のゴールデングローブ賞のOPは、これのわかりやすいパロディだった。
監督曰く、実際に渋滞に巻き込まれている最中にひらめいたとのこと。渋滞は日常的なことだし、そこからミュージカルの世界に自然に引き込みたかったと言っていた。

ライアン・ゴズリングとエマ・ストーンのコンビだと『ラブ・アゲイン』を思い出してしまう。『ラブ・アゲイン』ではライアン・ゴズリングが男前を演じていて、男前が男前役をやるとかなり迫力があるなと思ったけれど、今回は男前役ではないです。

ライアン・ゴズリング演じるセブは、売れないジャズピアニストで、冴えない、鬱陶しい、面倒臭い。頑固で考えを曲げない。ジャズ語り出すと熱くなってしまい、その情熱は少し『セッション』を思い出すほどだった。

序盤、エマ・ストーン演じるミアは、オーディションに落ちて落ち込んでいるところ、友人たちに誘われてパーティーへ出かける。ここでドレスアップした女子たちがきゃいきゃい言いながら踊るのも可愛かった。けれど、運命の相手に会えるかも?とわくわくしながら参加したのに、結局収穫はなく、車もレッカー移動されて、とぼとぼ歩きながら帰ることになってしまう。
そこで、店の中からピアノの音色が聴こえてくる。映画を観ている私は中にセブがいることがわかっているし、二人が恋に落ちることもわかっている。ミアはふらふらと引き寄せられるように店内へ入っていく。

元々、今夜は運命の相手を探しに出たんだし、ここで運命の相手に会ったのだ。ミアは釘付けになっていたし、ああ、恋に落ちたなと思った。
しかし、話しかけようとしたのに、店を解雇されたセブはミアに肩をぶつけ、不機嫌そうにしながら店を出て行く。
ここではなかった。

その次に二人は偶然再会をする。セブはa-haの『Take On Me』を演奏する余興向けのバンドの雇われキーボーディストをしていて、もちろんやる気がなさそう。それをおもしろがったミアはA Flock Of Seagullsの『I Ran』をリクエストして、挑発するようなダンスをする。このシーンがとても可愛い。セブが眉間にシワを寄せて鬱陶しそうな顔をしているのもいい。

その後、夜の公園で二人きりになる。雰囲気はロマンティックだけど、二人ともロマンティックにならないように自制しているのがなんとも可愛い。
ここでミアは黄色いワンピースを着ているんですが、ポスターでよく見るあの服なので、二人で踊るシーンが来るぞ来るぞと構えてしまう。
二人のタップダンスが始まる。子供が拗ねた時に足を地面にトンとやるような仕草からのタップダンスでその入り方も素敵。あのポスターになっている場面もあります。

背景もロマンティックだし、ポスターにもなっていたし、ここで二人は恋に落ちるのだろうと思っていた。だいぶ意識をする関係にはなっていたけれど、ここでもなかった。ここではおそらくセブの方がミアのことを好きになっていたようだったが、ミアには彼氏がいたのだ。しかし、このすれ違い具合はもどかしくてドキドキして楽しい。

このあと、映画の約束などをするんですが、その日はミアが彼氏とのデートの日だったんですね。でも、ミアは彼氏と食事をしていても全然楽しくないし気が気じゃない。
このミアの彼氏、ちらっと見えた顔がフィン・ウィットロックに見えて、動揺してしまう。その後に結構はっきり顔が映って、フィン・ウィットロックなのを確信して、出ているのを知らなかったからびっくりして、大切なシーンなのに一部、ストーリーが頭に入ってこなくなってしまった。

ミアはレストランを抜け出して映画館へ駆けつける。映写機に照らされた姿が綺麗ですごくいいシーンなのに、私だけフィン・ウィットロックでまだ動揺していた。
ここで、お互いにじりじりと手を握るのがいい。そのあと、キスをしようとして映写機のトラブルでまたお預けをくらっていたけれど、二人で手をとって、映画に出てきたグリフィス天文台へ向かう。

ここで、二人は完全に恋に落ちる。ここも本当に素敵なシーンだし、ああ、良かったと思った。
でも、ここまでじりじりと焦らされて、でも結局おつきあいすることになったということはこの先どうなるの?といきなり不安な気持ちになってしまった。

最初から、“冬”とか“春”というように季節のテロップが入るんですよね。これは、季節の移り変わりと共に二人の関係も変わって別れるパターンなのでは…。

この先を観ながら、これはロマンティックなラブストーリーとはちょっと違うのだなと思う。女優を目指すミアと自分の店を持って自分の好きなジャズを弾きたいセブという、夢を追いかける二人の話なのだ。二人はたまたま出会って恋に落ちたが、それが中心ではない。おそらく、ミアにとっては。

恋愛と夢とどっちが大事ということもないのだと思うけれど、敢えて考えるなら、ミアは夢をとり、セブは恋愛をとったのだと思う。

お金を稼がなきゃいけないとやりたくないバンドに入ったセブ。結局、プールで演奏していた時と変わらないが、バンド本体の能力差で今回は売れて、アメリカツアーに出る。
このバンドのボーカルを演じているのがジョン・レジェンド。さすがに歌が上手いし、ジャズではないけれど曲も恰好良かった。

やりたくもないことをやって金を稼ぐセブと、あくまでも夢を追い続けるミアの間ですれ違いが起こる。

夢にいつまでしがみつくのか、夢をあきらめることが大人になることなのか。なんとなく、『フランシス・ハ』を思い出してしまった。

ミアの一人芝居の日。お客さんは身内だけだったけれど、そこに彼はいない。
何をしていたかというと、バンドのバカみたいな撮影で、あまりのバカバカしい撮影に苦笑してしまったけれど、多分、本当に行われていそう。

ミアは自分の舞台が失敗し、おまけに悪口まで聞いてしまいどん底だけれど、その時に近くにはいてくれなかった。

その後、一回仲直りしたかに見えたけれど、オーディションに行ってこいと背中を押して、そこでたぶん、セブの役目は終わったのだと思う。
一人芝居の夜もそうだし、すれ違い初めてからもそうかもしれない。いつ終わったのかはわからないけれど、背中を押して、完全に終わったのだ。

ミアがパリに撮影に行くことになったらどうするか?という話をしたときに、セブが様子を見ようと言うんですが、おそらくこれも良くなかったのだと思う。
恋愛シュミレーションゲームの選択肢を間違えて、バッドエンドになってしまった。

いきなり5年後に時間が飛ぶ。
ミアは歩き方が女優然としていて、かつて働いていたカフェでコーヒーを買う。特に説明はないけれど、映像から、どうやら女優として成功をして、豪華な家に住んで、セブではない男性と結婚をし、子供もいる。ああ、別れてしまったのだなと思う。

じゃあ、セブはどうしたのだろう。
ミアと夫が子供をベビーシッターに預けて出かけ、帰りに偶然寄ったのが彼の店だった。
二人はお互いに認識をするが、話さない。ここで映画が終わりだったら、とても切なかった。それに、序盤は楽しかったのにこんな終わり方でいいのかと怒ってしまっていたかもしれない。
しかし、ここで走馬灯のように二人の出会いからがミュージカル仕立てで流れる。

最初のピアノの店で出会うシーンから、話しかけたミアにセブがキスをする。ほら! やっぱりあのシーンで恋に落ちなきゃいけなかったんだよ!と思う。ここでそうしていたら、この先の未来もバラ色になっていたのかもしれない。

このミュージカルシーンはドタバタしながらもハッピーなことしか起こらない。セブはバンドの誘いを断る。ミアの一人芝居は成功。セブはミアと一緒にパリに行く。二人は結婚し、子供が生まれる。

確かに、見たかった未来はこれなのかもしれない。けれど、こんなにうまくいかないのも人生だ。選択肢だって間違える。目の前の金に目がくらむ。ぽっと出の女優の一人芝居が満席になるわけはない。

けれど、ミアは女優になったし、セブは店が持てた。夢は叶ったのだ。さっきバッドエンドと書いたが、バッドエンドではなく、多くある終わり方の一つだろう。

ミアは久しぶりに会ったセブが自分の店でピアノを弾くのを見つめ、いろいろと思い出したとは思うけれど、今更家族を捨てることはないだろう。
歩き方もそうだけれど、表情も5年前とはまったく違う。チワワっぽいというか、可愛いけれど愛嬌のある可愛さだったけれどそれが無くなった。実際には5年も経ってないわけで、エマ・ストーンの演じ分けが素晴らしい。

確実に捨てているものもあるし、逆に言えば、何かを捨てないと大女優にはなっていないと思う。
夢見る私が恋したあなた、夢見る私とサヨナラしたときにあなたとも一緒に別れるといったところか。
彼女は決して自分を曲げない。一貫して夢を追い続けてきた。

セブのほうがふらふらはしていたけれど、結局自分の店を持って、しかも繁盛しているのだから、夢は叶っている。
でも、おそらく、セブはミアのことを想っていたのだろう。
それでなければ、彼女が考えた店名とロゴの店は作らない。彼女に見つけて欲しかったのだ。すぐわかるように、そのロゴを使った。

けれど、結局、ミアの夫が店を見つけるというのも皮肉なものだ。

走馬灯のようなミュージカルパートは、こういう未来もあった可能性というよりは、この映画か完全にミュージカルだったらこうなっていたというのが示されていたのかもしれない。この映画は、それほどコテコテのミュージカルではない。ドラマ部分も多い。
ミュージカル部分が夢の世界、または夢のようなうきうきした世界、ミュージカル以外の部分が現実ということでもあるのかも。
オープニングも、渋滞という苦行からの現実逃避でもあるのかもしれない。

ほろ苦い再会ではあったけれど、店を出る時に振り返ったミアとピアノの前に座るセブは笑顔を交わしていた。吹っ切れていなかったら、振り返ることもなかっただろうし、後日一人で訪れると思う。ここで振り返って微笑めるというのは完全に吹っ切れた証拠だろう。

これで二人の関係は本当に終了したけれど、セブも違う未来に向かって歩き出せる。きっとこれはこれで幸せな未来なのだ。

もっと幸せいっぱいなキラキラした気持ちで映画館を離れるのかと思ったけれど、ちくちくする小さなトゲを残すような映画だった。
でも、ビシッと背筋が伸びるような、爽やかさが残った。



1月26日にTOHOシネマズ六本木ヒルズで行われたジャパンプレミアへ行ったのですが、そのことも少し。
主演のライアン・ゴズリングと監督のデイミアン・チャゼルの舞台挨拶が一時間くらいとかなり長く設けられていた。

多数の部門でノミネートされた感想
デイミアン・チャゼル「スタッフたちも本当に頑張った映画なのでみんなにスポットライトが当たったのが嬉しい」

エマ・ストーンとの共演について
ライアン・ゴズリング「今回で3度目の共演だけれど、前回2回は短かったので今回は長くて嬉しい。過去の作品でも撮影の合間に彼女が歌ったり踊ったりしていたので、ミュージカルができることはわかっていた」

日本は監督は初めて、ライアン・ゴズリングは『きみに読む物語』以来12年ぶり。だけれど、今回の日本滞在時間は短かったらしい。前日まで北京にいたようなので、その次の日くらいには別の場所に移動か帰ってしまったと思われる。
もっと長く滞在できたら?という質問にライアン・ゴズリングは「映画を撮ってみたい」と言っていたが、おそらくサービスではないかと思われる…。

ライアン・ゴズリングは歌だけでなく、ピアノやタップダンスなども三ヶ月間練習をしてすべて自分でやっているらしい。
長回しシーンについて、「綱渡りのような緊張感がある。けれど、その緊張感がマジックを生み出していい映像になる」と言っていた。

ミアは作中でオーディションに落ち続けるが、オーディションに受かるコツについて、ライアン・ゴズリングは「わからない(笑)」とのこと。逆に監督にどうしたら合格かという質問をぶつけると「こんな冷たい本読みはせずに、もっと遊びをもたせたオーディションにしてその部分を見る」と言っていた。


ジェイク・ギレンホール主演。監督は、『ダラス・バイヤーズ・クラブ』のジャン=マルク・ヴァレ。
あんまりな邦題だと思ったけれど、原題は『Demolition』で、デモリションではなんとなくシルヴェスター・スタローンを思い出してしまうから避けたのかなというのは考えすぎだろうか。そのまま“破壊”ではイメージが違うし。また、この邦題も勝手に考えられたものではなく、映画内に出てくるフレーズである。

以下、ネタバレです。









ある日突然、妻が自動車事故で他界してしまう。
近くにいすぎて、仕事が忙しすぎてというのは言い訳っぽいと思うけれど、主人公のデイヴィスは、あらゆることに興味がなくて、そのあらゆることの中には妻も含まれているようだった。
毎朝同じ時間に起きて、ヒゲと胸毛を剃って、同じ電車に乗って、働いて、帰ってきてディナーを食べて、寝る。デイヴィスは機械的に毎日のルーチンをひたすらこなして生活しているようだった。そこには何の感情もなさそうだった。

救急病棟で妻の死を聞かされた直後、病院に設置してあるお菓子の自動販売機でM&M'Sを買おうとするけれど、よりによってひっかかって出てこない。普段でもいらいらするけれど、妻を失ったばかりという状況でこの仕打ちはひどい。多分、普通この状況だったらナースステーションで怒鳴り散らして怒りをぶつけ、別にそれほど欲しい訳でもないM&M'Sをなんとか入手しようとすると思うけれど、デイヴィスの場合は、「苦情はベンダーの業者に」と言われたら素直に聞いて、冷静に連絡先を携帯で写真に撮っていた。
この時点でおかしいといえばおかしい。

さらに、その業者にあてた手紙に苦情だけでなく、丁寧に事故のことを書いていた。事故のことだけではない。今までの暮らしについて、仕事のこと、妻についてのことも事細かに。心の内を一気にさらしているように見えた。デイヴィスには友達がいなそうだったけれど、いたらその人に向かって話すかのような内容だった。でも、相手の顔が見えないからこそできることなのかもしれない。誰でもいいから聞いてもらいたかったのか、書くことで吐き出して満足だったのか。

まるで日記のようだった。取り繕ってもしょうがないのでおそらく彼の本心なのだと思うが、妻が死んでも悲しくないと書いていた。鏡の前で泣き顔を作ってみて真顔に戻るみたいなこともしていたし、本当に悲しくなかったのかもしれない。でもそれは、悲しいという感情がわからなくなっていたのではないかと思う。

それは行動にも表れていて、さっそく朝のルーチンがこなせなくなっていた。鏡に向かってみてもヒゲが剃れない。電車内でいつも会う顔見知りの乗客に急に話しかける。電車の非常停止ボタンを押す…。
本人はいたって普通のつもりだし、冷静なつもりだけれど、周囲からは、あの人は最近奥さんを亡くしたから…と同情の目を向けられる。

また、感情の動きがあまりよくわからないデイヴィスに対して、義父が「心を分解して、悪いところを見つけ出して、もう一度組み立て直せ」と言う。それがデイヴィスの心のどこかに引っかかっていたのかどうかはわからない。ただの、映画内でのメタファーなだけかもしれないけれど、事故に遭う直前に妻に言われた水漏れしている冷蔵庫、義実家の点滅する電気、会社のトイレの軋む扉など、次々に分解してしまう。けれど、組み立てられないのは、技術的な問題なのか、それとも、バラバラにすることはできても元へは戻せない心の状態を指しているのか。
そんなだから、会社からは休職を命じられる。デイヴィスの分解行動はエスカレートして、金を払って解体業を手伝ったりしていた。タイトルにもなっている“破壊”行動である。
それでも、解体作業中はいきいきとしていても、それがどんな結果をもたらしているのかは不明だった。まるで、玉ねぎの皮のように、むいてもむいても、本心にはたどり着けない。

そんな中で、ベンダーのお客様係のカレンから電話がかかっている。あんな長いお手紙を何通も書かれたら気になるのもわかる。そして、彼女と彼女の息子と交流を持つことになる。おそらく、デイヴィスにとって、いつ以来かわからないけれど、久しぶりにできた友達なのではないだろうか。

仕事上のしがらみもないし、前までの自分も知らないから気楽に付き合えたというのもあるだろう。彼女たちの自由さに触れて、自宅すら破壊しながらデイヴィスは少しずつ感情を取り戻していく。

まるで、痺れた足をバシバシ叩いて感覚を取り戻すかのようだ。また、歯の治療時に麻酔をかけ、唇まで感覚が無くて噛んでいる時の感じ。麻酔が切れた時、本当の感覚が戻ってきた時にとても痛い。

妻の不倫が発覚しても、自分のやってきたことに気づいたから怒りなどはない。ああ、そうだろうなというあきらめと後悔とが混じったような気持ちになったのだと思う。
思い出す彼女は自分に対して愛を向けていてくれたのに、それにまったく応えていない自分に気づいた。遅すぎる。もう亡くなっているのだ。謝ることも、許してもらうこともできない。

ラストシーンで、デイヴィスは関係がこじれた義父と一緒に、壊れたメリーゴーランドを直す。実家も割れたガラスは直らないけれど、暮らせる程度までは修繕したようだ。やっと、分解したものを組み立て直すことができた。完璧な形では無くても、元には戻せた。

破壊と再生の話だが、妻が亡くなる前の状態に戻った訳ではない。感情は妻が亡くなる前よりもっと昔に死んでいた。それ以前に戻ったのだ。
だから、妻との関係がどうこうというラブストーリーというよりは、デイヴィス個人の話だったと思う。

予告編を見た時にはボロボロに泣くのではないかと思っていたが、そういうタイプの話ではなく、エンドロールの音楽を聴いている時に余韻で泣けてしまった。
妻を亡くした悲しさもある。生きている間に接し方を見直さなかった後悔もあるだろう。けれど、それよりはもう一度、立ち上がって笑って走れるところまで戻ってきたデイヴィスの姿が良かった。

デイヴィスを演じたのがジェイク・ギレンホール。この人のどんよりした底無し沼のような瞳が、何を考えているかわからなくてはまっていた。本心がわからない役を演じさせたら右に出るものはいないと思う。

カレンの息子クリスは、映画内で「15歳、見た目は12歳、やることは22歳」と言われていた。確かに幼い顔のわりに、タバコを吸ったり、化粧をしてクラブで踊ったり、大音量でロックを流したりと大人顔負けだった。演じたのはジュダ・ルイス。プロデューサーにもディカプリオの再来と言われていたらしい。ドラムも即興演奏だったとは。
トム・ホランドが演じる『スパイダーマン:ホームカミング』のピーター・パーカー役の最終候補6人のうちの1人にもなっていた。2001年生まれなので実際にも15歳。



『アイアンマン3』『キスキス,バンバン』のシェーン・ブラック監督。
だからというか、やはりというか、ロバート・ダウニーJr.がカメオ出演しているらしい。後から聞いたけれど、本人かどうかなんてわからない役でした。
主演はライアン・ゴズリングとラッセル・クロウ。

以下、ネタバレです。










70年代風のサイケなフォントでタイトルとキャスト名が出る。おしゃれな車とレトロな服装で雰囲気もいい。

本作の主人公コンビの私立探偵マーチ(ライアン・ゴズリング)と示談屋ヒーリー(ラッセル・クロウ)は、同じ案件に関わったことで会う。ただ、マーチが探偵として追っていた女性に、ヒーリーは近づくなという件で現れたので、マーチがヒーリーに殴られる。ここで、痛めつけられて「キャー!」という悲鳴をあげるライアン・ゴズリングに笑った。本当に「キャー!」だった。

結局は同じ敵(?)と対峙していることがわかったので、二人は協力することになる。ポルノ女優が集まるあやしげなパーティーに潜入するが、裸などはでてきても、どぎつさや見ていて引いてしまうような下品さはなかった。
人魚が泳ぐプールも、上半身裸ではあるがおしゃれ。金持ちの集まる場みたいだったので、どうしてもおしゃれで洗練されたものになってしまうのだろうか。それとも、美術の人がちゃんとしているのかも。

このパーティーだけではなく、映画全体がどぎつい印象にならない理由として、二人とも妻はそれぞれの理由で今はいないけれど、そこまで落ちぶれていないことが挙げられると思う。

マーチは情けなく見えるし、すぐに酒に逃げるアル中気味の男だ。しかも職業が探偵である。
それでも、愛娘のホリーには愛想をつかされていない。むしろ、パパ大好きである。それだけで、情けないように見えても、この人は本当にダメな人間ではないのだなというのがわかる。

ヒーリーも酒を断っていたから、昔、酒で何かやってしまったのかと思っていた。レストランでの食事中、妻から「あなたの父親と寝たわ」と言われるシーンを思い出した時に、心を静めようとしていたので、その場で何か殴る、暴れるなどをしたのかと思った。腕っ節が強そうだったから、もともとはカッとなりやすいタイプなのかと。
途中で警察が、レストランの事件の件と話していたのも、「銃を持った男がレストランに来て、後先考えずにそれを止めた」ということだったが、もしかしたら、その銃を持った男がヒーリーだったのかなと思ってしまった。でも、別にそんなことはなかったので、本当にただの正義感の強い、腕っ節の強い男なのだ。酒も仕事中だから断っていただけなのだろう。

ということで、二人とも基本的に良い奴なのだ。まさに、タイトル通りのナイスガイズである。

しかし、ガイズと言っても、バディものでもないのかなとも思う。マーチの娘、ホリーはキュート要員以上の活躍を見せていた。
この子を主人公にして、ダメなおっさん二人をひっぱっていくというストーリーでも良かったのではないかと思う。そういう一面もあったとは思うけれど、もっと全体的に強くしてもよさそう。ポスターにも出して欲しいくらいだ。

演技もうまいこの子はアンガーリー・ライス。『スパイダーマン:ホームカミング』でピーター・パーカーの恋人、ベティ・ブラント役を演じることも決まっている。

下品だったりつきぬけたギャグは薄めでも、ストーリーがしっかりしていて、ミステリーとしても二転三転する展開がおもしろかった。

また、ただのおしゃれ70年代“風”ではないこともわかる。多分、最初には時代は出ていなかったと思うのだけれど、最後の方の自動車ショーのシーンで初めて、これが何年の話なのかが出てくる。おそらく、本物のその時代、70年代と思われる映像も使われていた。

二人は事件に巻き込まれる形で政府を敵にまわすことになってしまう。一応は“勝った”ものの、私立探偵などでは、大きな力にはかなわない。
しかし、「自動車産業は死なないわ」と力強く言っていたが、映画を観ている側の私たちはその時代よりも未来にいるので、そこからどうなるかを知っている。
自動車産業は徐々に衰退し、リーマンショックでGMは破綻し、なんとか持ち直したものの、デトロイトは2013年には財政破綻してしまう。
悪態をついていたマーチとヒーリーは知らないけれど、こんな未来が待っているのだ。

ラストに出てくる私立探偵のチラシにはヒーリーも描かれていた。メキシコ人っぽいと言って嫌がるそぶりを見せていたけれど、嬉しそうだった。このコンビの続編も見たいけれど、今回、70年代と時代を明確にしてしまったのでどうだろう。あと、アンガーリー・ライスが成長してしまうから難しいかな。



2014年公開。日本では2015年公開。フランソワ・オゾン監督。

タイトルからもわかるが、“彼”なのに“女ともだち”である。予告編を見たところ、平凡な女性が女装をした男性と出会い、意識を変えていく話なのかと思っていた。けれど、それよりずっと複雑だった。

いきなり棺桶の中の女性が映り、お葬式のシーンから始まって驚く。若い綺麗な女性で、ウェディングドレスを着ている。
亡くなったローラの幼馴染であり親友のクレールのスピーチ内容なのか回想なのか、二人がどれだけ仲が良かったかというのが、子供の頃から遡って映像で流れる。セリフはほとんどないけれど、唯一無二の親友といった感じだった。それぞれに恋人ができた様子を見ていると、少し、もしかしたら親友以上だったのかもしれないとも思った。

そこまで仲の良かった親友を失ったのだから、クレールは傷ついている。しかし、傷ついているのは彼女だけではなかった。
ローラの家に行ったところ、ローラの夫のダヴィッドがローラの服を着て、ウィッグをかぶり、赤ちゃんをあやしていた。

予告やタイトルに出てくる“女ともだち”が親友の夫だとは思わなかった。
しかし、同時に納得してしまったのは、彼が「彼女の服を着ると落ち着く」と言っていたからだ。
相手を失った悲しみからとか、相手を恋い焦がれるあまりとか理由はいろいろあるが、相手を愛するあまり、自分がその対象になってしまいたくなる。この現象は他の映画や小説やアニメでもよく出てくるのでポヒュラーなのかもしれない。

ただ、ダヴィッドの場合は、ローラが亡くなってから女装をしたくなったわけではなくて、その前かららしい。ローラもそれは知っていたし、恋愛の対象は女性だという。このあたりがこの作品を複雑にさせる部分である。

ダヴィッドがローラの服だけではないにせよ、女性の格好がしたくて、さらに男性が好きというならシンプルだったと思うのだ。
クレールと女性の格好をしたダヴィッド(ヴィルジニアという名前)は、一緒に出かける。服を選んだり、クラブで一緒に踊ったり。
クレールとしても、最愛の親友を失ったさみしさを、ヴィルジニアと一緒に遊びに出かけることで癒しているように思えた。

話が進んでいくうちに、ダヴィッドは女装をしたいだけではなく、自分を女性であると思っているらしいというのがわかる。けれども、恋愛の対象は女性。

ダヴィッドはダヴィッドとしてなのか、ヴィルジニアとしてなのか、クレールにひかれていく。クレールもダヴィッドとしてなのか、ヴィルジニアとしてなのか、好きになっていってしまう。

ホテルで二人で会った時に、二人の思惑がわからなくなってしまった。
ダヴィッドは女性の格好をしていたので、おそらくヴィルジニアとしてクレールを誘う。クレールもその誘いにのっていく。ということは、クレールもレズビアンなのだろうか。でも、夫とも普通にセックスをしているようだった。それとも、ヴィルジニアの中のダヴィッドを見ていたのだろうか。
けれど、体は男だから、当然勃起してしまう。そこに触れたクレールは夢がさめたように、行為を中断してホテルの部屋を出る。一気に親友の夫と不倫という感じになってしまう。それは自分としても許せなかったのだろう。

セクシャリティは個人的なものだし、全員違う。だから、体が男性で、自分を女性であると認識して、女性を好きになっているダヴィッド/ヴィルジニアは結局何をしたかったのかがわからなくなってしまった。
そのまま男性の機能を使ってセックスができるのだろうか。ローラとの間に子供もいたからできるのか。
でも、クレールとしては、ヴィルジニアとは関係を持ってもいいけれど、ダヴィッドととなると話は別のようだった。けれど、もしかしたら、親友に悪いと思いつつもダヴィッドにもひかれていたのかもしれない。

この後、ダヴィッド/ヴィルジニアが交通事故に遭ってしまう。そこで、クレールは本当の気持ちに気づいたのだと思う。けれど、それは明かされない。

話は7年後に飛ぶ。ローラとダヴィッドとの子供も大きくなり、ダヴィッドはヴィルジニアの姿で迎えに行っている。その隣にはお腹の大きいクレールがいる。クレールにも子供ができて、ヴィルジニアとも仲良くやっているみたいで良かったと思ったけれど、よく考えてみたら、夫が出てきていない。
クレールのお腹にいるのは当然夫との間の子供だと思っていたけれど、もしかしたらヴィルジニアとの子供なのかもしれない。意図的に明かさない、遊びを残した形で終わっている。

でもこれ、もしも夫との子供ではないとしたら、クレールの夫の立場がなくないか…とも思った。ストーリー上、ラストシーンのどっちの子なの?と考えさせるためだけに出てきたとしか思えない。
この可哀想な夫を演じているのがラファエル・ペルソナ。アラン・ドロンの再来と言われている美形の彼です。






グザヴィエ・ドラン監督作。すっかりカンヌの常連ですが、こちらもグランプリ受賞作。
カンヌだとアート系の作品が多くて、ふんわりとしか意味がわからない作品も多いけれど、グザヴィエ・ドランの作品はどれもわかりやすい。
本作はレア・セドゥ、マリオン・コティヤールなど旬の有名フランス俳優が揃えられているせいもあって、とっつきやすくもある。主人公はギャスパー・ウリエルです。

戯曲が原作になっている会話劇とこじれた家族の話というところから、『8月の家族たち』を思い出した。

以下、ネタバレです。








会話が多く、その喋っている人をクローズアップするショットが多い。また、舞台はほぼ家の中である。
対話劇なんて言葉があるのかわからないけれど、会話というよりは二人が面と向かった形の対話が多かった。

『8月の家族たち』は中心となる濃い人物とその周囲といった感じだったが、本作は主人公とその母、妹、兄と兄の嫁という5名と人数が少ない。けれど、少ない分、全員が濃いというか濃厚なやりとりが繰り広げられる。

主人公のルイは、自分が死ぬことを伝えるために12年ぶりに家に帰る。
すぐ伝えるのかと思ったけれど、12年ぶりの帰宅に家族も歓迎ムードでなかなか切り出せない。それでも、空元気っぽくも見える。
そんな中、兄だけはずっとイライラしている。でもそれも、母や妹の隠しているイライラを一心に受けてのことなのかもしれない。

二人だって、イライラしていないわけはない。おめかしをして綺麗にしていたし、料理を作っていたし、歓迎ももちろんしている。久しぶりに会えたのも嬉しい。
でもきっと、ルイのことがわからないのが怖くもあったと思う。
家族といえども同じ人間じゃないから考えていることなどわからない。しかも12年も離れて暮らしていたら、ほとんど他人だ。

ルイは都会(?)で劇作家として成功しているようだった。
時々送ってくれる絵葉書も二、三語しか書いていない。この日だって、みんなが話すのを聞いて、ほとんど喋らず、曖昧に笑うだけだ。

これは最後までわからないんですが、ルイが家を出て行った原因が謎のままだ。
34歳になったというセリフがあったので、22歳で家を出たということになる。単純に、仕事のためなのかもしれない。
でも、もしかしたら、ゲイであることが原因だったのかもしれないとも思う。

ルイの母はルイが来る前にマニキュアを塗りながら「ゲイっていうのは綺麗なものが好きなのよ」と言っていたけれど、かなり偏見が混じっている。
「ルイは綺麗なものが好きなのよ」と言うならわかる。個人ではなく、何かよくわからないぼんやりとしたものとして息子をとらえている。
もしかしたら、ゲイであることを告白した時か知られた時に、何か距離を置かれたのかもしれない。そして家にいづらくなったのかも。

何をしに家に来たのかをルイが言えないまま、気まずい時間だけがどんどん過ぎていく。
そんな中で兄の嫁が真っ先に察する。演じているのがマルオン・コティヤールなのですが、これがとても上手かった。いつもはゴージャスな印象が強いけれど、まさに庶民の嫁という感じだった。顎の肉の付き方と常に夫の機嫌を伺っているようなおどおどした表情がリアル。
でも、このどん臭そうで空気の読めなさそうな感じなのに、真っ先に気づくということは人を観察する能力には長けている。
夫に対しても、ひどいことを言われているようだったけれど、それだけではない面も見えているのだろう。暴力をふるわれているわけではなさそうだった。
それに、家族ではなく外部の人間だから気付けたのかもしれない。

妹は、兄は恰好いいし、会えて嬉しいと純粋に思っていそうだった。
でも、どこか得体が知れないとも思っている。
子供の頃しか知らないと言っていたけれど、ルイが22歳で家を出た時に子供なのだとしたら、子供がいくつを指すのかはよくわからないけれど、10代前半かそれくらいだろうか。結構、年が離れた兄妹なのかもしれない。
演じているレア・セドゥは31歳だけれど、19歳の時に22歳のルイを見ていたとは思えない。
レア・セドゥはメイクをほとんどしてないとだいぶ幼く見えるし、もっと若い設定なのだろう。
兄のことが好きで、知らないことが多いからもっと知りたい。私のことも知ってほしいけれど、よく知らないしそんな恥ずかしい部分は見せられない。そんな遠慮があるように思えた。家族としてはよそよそしい。

母もルイのことがよくわからないと言っていた。でも愛していると。
本当は父親がいない家を長兄だけでなく、あなたにも守ってほしいと言っていた。仕事で成功しているのかもしれないけれど、戻ってきてほしいのだろう。
それを聞いても、ルイは何も言わず、というか言えずに、曖昧に笑っていた。
また、「シュザンヌ(妹)に家に遊びに来いって言ってあげて」と言っていた。次の約束などできない人物にそれは厳しい言葉だ。
でも、ルイのそんな事情を知っているのはルイ自身と映画を観ている私たちだけなのだ。

ルイは家族一人一人と順番に話しているのですが、一番言わなきゃいけないことは言えない。兄とも二人で話す機会があった。
「朝早く空港に着いちゃったから喫茶店へ行って時間をつぶしてた。あの二人に言うと気を使わずに家に来たら?って言われるから兄さんにしか言えないんだよ」と、妹と母相手にはほとんど聞き役だったルイがやけに話す。もちろん、兄が言うように沈黙が怖かっただけかもしれないけれど、本当に兄にだけ話せることというのもあるのかもしれない。
兄はずっとイライラしていて、ここでもやっぱりイライラしてるから、こんな話聞かせてほしいと思ったのか!と言ってくるが、この先のシーンを考えると、謎のルイが多分自分にだけ打ち明けてくれた話があるというのは、特別に思ってくれたようで嬉しかったのだろうと思う。

序盤でルイは、おそらく恋人と電話をしていて、「デザートを食べ終わったら言おうと思ってる。それで今日中に帰る」と話していた。
映画を観ている人たち(と兄嫁?)だけは彼の秘密を知っているから、デザートのシーンでああ、ついに言うんだな…とひやひやする。
しかし、ルイは「実は…」と真実を言いかけて、母に言われた通り、妹に向かって「家に遊びにおいで」だとか、ありもしない次の約束だとかを展開し始める。
そこで、兄は「約束があるから帰るんだろ?送ってく」とルイの腕をとるのだ。

兄から見たら、さっきの話を聞いた後だと、ああ、こいつ無理してるな、母と妹に向けていい感じで振る舞おうとしているだけで、本心で話しているわけではないなというのがわかってしまう。何か事情があってこの場には居づらいのだろうから、助け舟を出してやろうと思ったわけだ。

けれど、母と妹からしたら、やっと心を開いてくれたルイともっと一緒にいたい、会話をしたい、できれば泊まっていってと思っているから、長兄はそれをぶち壊す悪魔に見えていたのだと思う。

実際、映画を観ていた私も兄は嫌なやつだなと思ってたけれど、途中から、たぶんそこまで悪いやつじゃない、不器用なだけだと思えてきた。

「遊びに来なよ」とか「もっと頻繁に帰ってくるよ」なんていうルイの言葉は、結局、否定も肯定もしない、何も言わないお得意の曖昧な笑みと一緒。その場だけの誤魔化し。
けれど、それは、母や妹を悲しませたくなくて出た嘘なのだ。

母と妹だって、困らせたくてルイに泊まっていってと言ったわけではない。本当に、良かれと思っての言葉だ。兄も、ルイのためを思って助け舟を出した。

全員が相手のことを大切に思っている。けれど、かみ合わないからギズギスする。

ルイは結局、自分が死ぬことを家族に伝えられなかった。
兄はあの場面で助け舟を出したが、気づいていたのだろうか?
妹と母はどうだろう? 頑なに帰ろうとする様子に、結局、12年ぶりに帰ってきた目的を言わなかった様子に、さすがにおかしいと思っただろうか。妹は気づかず、母は気づいたとしても信じたくないという感じかもしれない。

それで、ルイのお葬式のときに、この日の会合を思い出すのだろう。あの時のルイの目的を思うのだろう。
おそらく勘づいたと思われる兄嫁は、あとで知っていたのになんで教えてくれなかったのと攻められるかもしれない。
けれど、彼女だって、秘密を抱えて生きていくのはつらいのだ。本心では、ルイと秘密の共有をしたくなかっただろう。

なんでもいい。ルイが12年ぶりに帰ってきたことで、変わったことはあったのだろうか。
不毛ではないか? ルイは家族に会うのが怖いと言っていたが、こんな風にギスギスすることがわかっていたのだろうか。だから帰ってきたくなかったんだよと思っただろうか。

でも、自己満足だとしても、死ぬ前に家族の顔が見られて良かったとは思っているはずだ。そして、愛されていることにも気づけたはずなのだ。
序盤では「言っても、あの人たちは泣かないかも」なんて電話で冗談っぽく話していたけれど、家族と話をして、確実に泣くのはわかったし、悲しむだろうというのもわかったのだと思う。だから言えなかった。だから、叶えられない次の約束をした。すべては悲しませないためなのだ。

『イコライザー』



2014年公開。『マグニフィセント・セブン』がおもしろかったので、同じアントワーン・フークア監督の別の作品も観てみました。
80年代にアメリカで放映されたテレビドラマの劇場版とのこと。

以前、映画館で予告を見た時には、16秒でコロスとか娼婦の少女を救うためみたいな印象だったので、『レオン』っぽいのかと思った。

けれど、観てみるとそのイメージとは違っていた。昼はホームセンター勤務、夜は殺し屋(?)ということで、『ザ・コンサルタント』っぽいのかと思った。実際には殺し屋ではなかったけれど、確実な仕事っぷりと日常生活を普通に送っているけれど世を忍ぶ仮の姿があるというのは同じなのかもしれない。
でも、別に誰かから依頼があってやっているわけではない。

主人公のロバート(デンゼル・ワシントン)は娼婦テリーを痛めつけた悪の組織に乗り込んでいく。目をギロッとさせて、周囲を観察して頭の中でシミュレーションして、その通りに動く。流れるような動きが恰好いい。あっという間に死体の山の出来上がり。

しかし、ダイナーで本を読んでいるときも、ホームセンターで日中働いているときも、穏やかこの上ない感じの人物がこんな只者ではない動きをするとは。一体何者なのだろう。

ホームセンターの同僚の実家が悪徳警官にひどい目に遭わされた時にも、赴いてやっつけていた。この事件は最初に出てきた娼婦と関係がないし、テリー役はクロエ・グレース・モリッツだったが、決して主役級ではないのだということがわかった。

その次はホームセンターのレジに強盗が来て、レジの金とレジ係の女性の指輪を盗んでいく。このシーンでは、ロバートがこらしめるシーンはもうわかったでしょ?とでも言うように省略されていた。ただ、ホームセンターの売り物のハンマーに付いた血を拭いていて、ああ、それを使っただなということがわかる。けど、売り物…。

こんな感じで、何者かわからないけどとても強いロバートがどんどん悪を倒していく世直しアクションなのだろうか?と思っていたら、こてんぱんにした娼婦宿の元締めであるロシアンマフィアが暗躍している様子が映される。自分の店をめちゃくちゃにされて黙ってはいられないだろう。

全身刺青の様子をなめるように撮り、「フハハハハ…」といかにも邪悪そうな笑い方をしていた。
また、残虐な手段で殺している様子から、相当怖い連中だということもわかる。

なんだかよくわからない謎の男が正義の味方よろしく悪を倒していき、最終的にロバートの正体が何者なのか発覚するという作りなのかと思っていた。しかし、中盤くらいで元CIAということがわかる。『RED』と同じような感じだ。

あと、奥さんを亡くしているのは、ダイナーでテリーも言っていたけれど、ここでも話に出てくる。おそらく、自動車事故でロバートだけが生き残ったのだろう。
けれど、一人で生き残った後の日常はつまらなそう。
時間をきっちり管理して行動し、生活しているようだった。どことなく寂しそうで、生きる目的を見失っている。毎日が楽しいとは言えなさそうだ。

ロバートはロシアン・マフィアに目をつけられるけれど、きっちりと影で対応していた。自分の方が強いことをそれとなく見せて、穏便に事を済ませようとする。

石油タンカーを爆破するシーンは迫力があった。後ろで大爆発が起こっているのに、振り返らずにこっちに歩いてくるロバートというかデンゼル・ワシントンが笑っちゃうくらいかっこいい。

ロバートはあなたたちが仕掛けてこなければこちらから乗り込むことはないよと示していたが、ロシアン・マフィアは、ロバートが働くホームセンターの職員たちを人質にとる。
観ながら、あーあ、怒らせた、知ーらないと思った。他の人、特に親しい人たちを巻き込むのはロバートが一番嫌いな事だと思う。

そこで『エージェント・ウルトラ』を思い出すようなホームセンターバトルが開幕する。ホームセンターにあるものを使って戦うのだ。ここはロバートの職場、つまりホームかアウェイでいったら完全にホームなわけである。負けるはずはない。

『マグニフィセント・セブン』でもデンゼル・ワシントンが砂埃や返り血で汚れることはないという指摘があった。
本作では、血が滴るナイフを持った男にのしかかられても、その血液は落ちることはない。

スプリンクラーが作動するのですが、それが土砂降りみたいに見える中、棚の向こうからデンゼル・ワシントンが現れる。恰好良すぎて、思わず変な声が出ました。
スローで、顔を伝う水滴がぽたりと落ちる。まさに水も滴るいい男である。
監督は本当にデンゼル・ワシントンが好きなんだ…というのを再確認した。
これは、映画館で見ても変な声が出てしまったかも。

それで、ロバートというかもうデンゼル・ワシントンなんですけど、話のバランスがおかしくなるくらい強い。ホームセンターにいるボスもあっさり倒す。
更に、その大ボスの自宅に忍び込んで感電死させていた。

まったくピンチらしいピンチがない。最強としか言いようがない。しかも、冷静にちゃっちゃと短時間で仕事を終える姿勢も恰好良い。

本作の最大の敵はロシアン・マフィアであり、ロバートが目をつけられた原因がテリーなのだから、テリーは一応ヒロインなのかもしれない。
最後にも出てきて、ロバートにお礼を言いに来る。でも予告ほどはまったく活躍していない。恋愛もない。
ロバートの妻に関しても、映像や声も出てこないし、ラストでも言及は無し。
ロバートは悲しみの中で戦っているのだと思うが、妻の名前を叫んだり、許しを乞うたりと、湿っぽくならない。

ただただ、ひたすらロバートが強い。そして、それを演じているデンゼル・ワシントンが恰好良く撮られている。
完全に監督の趣味映画だった。

なるほど、この過剰なまでの魅せ方は、『マグニフィセント・セブン』に受け継がれると思う。繋がっていくのがよくわかる映画だった。