17世紀のオランダでチューリップの球根が高値で売買されていたことを背景にしたメロドラマ。
監督は『ブーリン家の姉妹』のジャスティン・チャドウィック。
主演はアリシア・ヴィキャンデルとデイン・デハーン。単なる富豪の若い妻と貧乏画家の不倫の話なのかと思ったら、そうではなかった。この二人が中心でもない気もする。

以下、ネタバレです。











まず、アリシア・ヴィキャンデル演じるソフィアは元は孤児院にいて、そこから富豪に買われる形で嫁入りした。「子供が産まれたら安泰よ」と言われているのと、修道院の衣装から『侍女の物語』を思い出してしまった。
富豪役がクリストフ・ヴァルツで、出ているのを知らなかったので驚いた。どんな人物なのかわかりづらくはあるけれど、なんとなくヴァルツの印象で、悪い奴のイメージで見ていたんですが、途中から違うことに気づかされた。

この家の女中、マリアが語り手なんですが、この作品自体が彼女が主人公でもあると思った。画家と富豪の妻の不倫が中心とも言えない作りなのだ。
話の流れ自体は複雑ではないんですが、登場人物それぞれに対するエピソードがいくつか出てきて、それが絡み合い、その背後には高騰するチューリップの球根が関わってくる。
じっと見ていないとわからなくなるということはないけれど、全編にエピソードが詰め詰めになっている。

ソフィアは富豪との間に子供ができずに悩んでいたが、そんな折、肖像画を描かせるために雇った画家、ヤン(デイン・デハーン)と恋に落ちる。
人が恋に落ちる瞬間が描かれた映画が好きなんですが、これほど唐突に、両者が一気に燃え上がるのはなかなかない。
ただ、ヤンが思い出していたソフィアの姿は確かに、これは恋に落ちる…と思えるほど綺麗だった。青いドレスと手にはチューリップ。窓辺に立って、かすかな憂いを浮かべた表情は、その前のシーンでも尋常ではない美しさで、うっとりと見ていたところ、ヤンもその姿を思い出して、「I'm in love.」と言って、ソフィアのもとへ駆け出す。やはり、特別美しく撮ろうと意識されたシーンだったのだと思い、納得した。それと同時に、これは好きになっても仕方ないという説得力もあった。

女中のマリアは魚売りの男ウィレムと逢瀬を重ねるが、金のないウィレムは一攫千金を狙ってチューリップの球根の投機に手を出す。
金を得たものの、二人は些細なことですれ違い、ウィレムは金を失って海軍に一年入隊させられてしまう。マリアはそれを知らず、お腹にはウィレムの子供を宿す。

そこでソフィアが、マリアの子供は私が産んだことにすると言い出す。富豪の男は跡継ぎができて嬉しい、マリアは子供のそばで働き続けることができる、ソフィアは出産で死んだことにして屋敷を離れヤンの元へ行ける…win-winではないかという案だ。

そんなことうまくいくとは思えなかったし、ソフィアにだけ都合のいい案に思えた。
ここで私は『光をくれた人』を思い出してしまった。あのアリシア・ヴィキャンデルも自分さえ良ければいいといった感じだったし、彼女はまたこんな役なのか…と思ってしまったのだ。

ソフィアとマリアが共謀する様子は奥様と女中の秘密の共有という濃厚な関係で、それは良かったんですが、騙されて自分の子供ができたと思い込んでご機嫌な富豪の男が不憫になってしまった。クリストフ・ヴァルツが演じていても、子供二人と奥さんも亡くしている悲しい過去があるし、どうも嫌な奴ではなさそうだった。

その裏では、金のないヤンが新生活に向けての金稼ぎとして、チューリップの球根の投機にはまっていく。順調に稼いでいたけれど、前半で魚売りのウィレムが酷い目に遭うのを見たから、きっとこのままではいかないだろうと思う。
バブルは弾けるのだ。

出産替え玉計画もうまくいって、ソフィアは棺桶で屋敷から運び出される。このまま、ソフィアとヤンの二人は楽しく暮らしていきましたとさ…というエンディングだったら、そんなうまい話があるかと怒っていたと思う。

けれど、ヤンの元へは向かうことができない。罪悪感からだろうか。それに、情熱的な愛は消えてしまった。これはチューリップの球根の高騰にもかかっている。愛のバブルも弾けた。だから、恋に落ちる時もあんなにあっという間だったのだ。ぱっと燃え上がった炎は消えるのもはやい。

マリアの元には海軍での兵役を終えたウィレムが帰ってくる。誤解は解けて、「私たちの赤ちゃんよ」と話している時に、富豪の男はそれを聞いてしまう。
ここでもまだヴァルツの印象で、この男はここで暴れ出して、赤子もろとも皆殺しにしてソフィアとヤンを探し出して殺すのではないか…と思ってしまっていた。しかし、この男はヴァルツらしからぬ物分かりの良さで、自分がソフィアを金で買ったことを反省し、屋敷と家柄をマリアにゆずり、自分は一人インドへ旅立って行った。いい人すぎる。疑ってごめんなさい。

ヤンは結局は修道院からの罰で一文無しになる。しかし、画家の腕を認められて、教会の絵を描く仕事が与えられる。
ソフィアも逃げ出したあとでどこに行くのかと思っていたら、生まれ育った修道院に戻っていた。
二人がどうなるのかは明らかにはされないけれど、アイコンタクトをとって、幸せそうに笑い合っていた。再び会うことができて、近くにいられるのだから、それだけでも幸せなのだと思う。もう燃え上がるような愛ではなく、穏やかさを感じた。

ソフィアがトンデモ計画を出してきて、それが成功した時にはちょっと強引すぎるな…とも思ったけれど、いつの間にか、最後には全員幸せになっていて驚いた。ここまで丸くおさまる話だとは思わなかった。
思っていたよりもちょっと変わった話で面白かった。

ヤン役にデインデハーン。彼目当てで観ました。
最初、なかなか出てこなかったのでやきもきしたし、出てきてもソフィアとヤン中心の話ではなかったから、そこまで出番が多いわけではなかった。
でも、暗いところもある役ということで、久しぶりにデハーンのあの暗い目が生かせる、らしい役だったかなとは思う。二人が関係を持ったあとで、すれ違いざまに手を軽く絡ませる動作も色っぽかった。

また、時代ものなのでコスチュームプレイ的な見所もありました。似合う。とはいえ、貧乏画家なので、そこまでばきばきの装飾の付いた衣装ではなかったのは少し残念。ばきばきも似合うと思います。




『イット・フォローズ』がスマッシュヒットしたデヴィッド・ロバート・ミッチェル監督作品。
失踪した美女を追いかける青年の話。ですが、散りばめられたヒントは膨大ですべて拾いきれていないし、主人公の青年自体が何者なのかもいまいちわからず、少なくとも清廉潔白という人物ではなく、妄想と現実の境も曖昧。
なのでストーリーがきっちり理解できたわけではないし、謎がすべて明かされたわけではない(私が理解できていないのでそう思うのかも)けれど、全体を貫く不気味な雰囲気と次々出てくる謎のセンスが好みで、謎が解けるとか解けないとかはどうでもよくなる。

万人におすすめできるタイプの映画ではないと思うけれど、デヴィッド・リンチというか、『ツイン・ピークス』好きの方は好きなのではないかと思う。

以下、ネタバレというより、私の考察です。
(あとで公式サイトの解説やパンフレットを読みます)















まず、主人公のサムですが、最初は何者だかまったくわからないんですが、LAに住んでいる、映画・ゲーム・音楽・アメコミ(スパイダーマンのコミックを放り投げるシーンは笑った)などのポップカルチャーが好き、現彼女が売れない女優、元彼女は売れた女優などから映画関係者なのかなと思った。
でも、家賃を滞納していたり、働いていると言っていたけれど無職っぽかったので、成功したけれど転落した映画関係者なのかと途中で思った。
しかし、彼が住んでいる場所、タイトルにもなっているシルバーレイクは映画業界を目指す若者が住む場所らしく、転落ではなく売れようとしているところだったようだ。
ただ、車が高級車だったり、派手な友人(ジミ・シンプソンが演じていた)がいたりと、一度は成功しかけたのではないかと思う。
この辺、映画内ではまったく明らかにされません。

サムは隣人のサラのことが好きになる。家でいい雰囲気になっていたところにルームメイトが帰ってきて、解散。明日また来てということになる。
このルームメイトが怪しい男とサラを含めて二人の女性。この先もこの映画に出てくる女性は大体三人組で出てきて、いよいよ何か意味がありそうだなと思った時に、その謎はラスト付近で明らかにされる。
翌日、彼女の家に行ってみるともぬけの殻。不動産屋に聞いてみたところ、引っ越したとのこと。この不動産屋はサムの家も担当していて、延滞している家賃を催促する。この不動産屋は何回か出てきますが、全体的に悪夢っぽく夢か現かわからない映画の中でこの人が出ているシーンだけは現実なのだなと思えた。家賃の催促という行為が現実としか思えないからだろうか。

サムは彼女の行方を探し始めるが、その途中途中で出てくるモチーフがどれもぐっときた。怪しいゴスバンドは〝イエスとドラキュラの花嫁〟という名前も大概ですが、イエスという男性とゴスウェディングドレスの女性が三人という四人組。ここも女性が三人。曲も好みでした。
何度か出てくる芸能関係者(たぶん)が集う怪しいパーティもおもしろい。風船を体に沢山つけた女性が踊り、終わったところで観客が入り口で渡された針で風船を割っていく。この女性はこの先も風船を手にくくりつけていた。
シークレットライブのチケットがクッキーで、当日ライブ会場の入り口で齧れと言われていた。しかも、ドラッグ入りのクッキーで、ハイになりながらライブを楽しめるという仕組み。
このライブ会場の地下のクラブはテーブルが墓石になっていた。

バンドの曲の歌詞から暗号を読み解いたり、腕輪の暗号から地図に隠された謎を探り当てたりと、どれもこれも見ていて面白かったが、一つ謎を解いても何も解決しないどころかむしろ謎は深まっていくのも不気味だった。深みにはまっていくばかりで、謎が解けてもすっきりはしない。

ただ、ストーリーがわかりにくい中で、金持ちのみの特権としてのカルト宗教めいたものが彼女の失踪の原因だったということで、ぼんやりと金持ちに対する憎悪が見えた。サムは序盤から家賃を滞納していることが示される。ホームレスに対する行き過ぎた嫌悪からも、絶対にホームレスにはなりたくないという思いが感じられるが、それは彼が限りなく近い場所にいるからだ。仕事も金もなく、成功もしていない。金持ちに対する気持ちは憎悪であり、憧れなのだ。

また、もう一つのテーマとして、ポップカルチャーは偽モノというのもあると思う。謎の老人がいろんな時代のヒット曲をピアノで弾いて、これは私が作った売れるために作ったというシーンがある。演奏されるのは実際の楽曲である。
特に、ニルヴァーナの『Smells like teen spirits』をピアノで弾きながら、「ギターの歪みなんてない、ピアノで片手間に作った、これでティーンが反抗心を掻き立てられるとか馬鹿」みたいなことを言うシーンは、サムもショックと怒りをおぼえていたが、私も同じ気持ちだった。
ポップカルチャー好きのサムは私だった。ニルヴァーナで衝撃を受けて、影響された過去を持つ。それが全部嘘だったら? 観た映画、読んだ漫画、すべてがメッセージを隠すためだけの偽モノだったら? そんなのは悲しすぎるし、好きなもの、影響されたものを否定されたら、私を形づくるものすべてが無くなってしまう。私自体が無くなる。まるで私という存在を否定されたようだ。
ただ、この老人も金持ちだったから、結局金持ち憎悪の話とも繋がってくるのかも。

サムはもちろんサラを探していたのだけれど、曲に隠された暗号や昔のゲーム雑誌に隠された地図を探っている時には楽しそうだった。謎解きを楽しんでいた。これは、本作に散りばめられた謎を探して考察する私と同じ姿である。ちょっとしたことから意味をさがすのはなんで楽しいのだろう。
US版のポスターには様々なモチーフが隠されていて、それはWEBではわからなかったけれど映画館に実物か貼ってあって、なるほどこれか…と思いながら写真を撮ってた私もサムと同じなのだ。

ホラーの皮をかぶった青春映画『イット・フォローズ』の監督だけあって、青春映画の一面もある。一作目、『アメリカン・スリープオーバー』も未見ですが青春映画らしい(上映か配信して欲しい)。
ラスト付近、どこかの地下室にいるサラとサムはテレビ電話で会話をする。
サラからの「ここに来なければ良かったと思う?」という質問にアンドリューが同意をすると、「そっか」と少し残念そうにしていた。もう自力で逃げようとかそんなことは考えない。あきらめてるから。でも、もっとはやくに二人が会ってたら、事態は違ったのかもしれないとも思ってしまう。

この電話の時に、サラは「犬を飼ったら?あなたには無償の愛が必要」というようなことを言っていた。
サラの失踪事件と並行して、連続犬殺し事件が町で起こっていることが示される。この事件については犯人はわからないし、解決もされない(私が見落としているだけかもしれない…)。けれど、もしかしたら、犬=無償の愛の象徴なのかもしれないと思った。それはささくれ立ったサムの心の中を示しているのではないだろうか。

サムがこの先どうなるのかわからない。隣人の老婆の家でセックスをしていた(この時、カーテンを閉めた時に映るベランダの鳥かごと鳥がきれいだった)のもなんのためかわからない。これはただ単にセックスがしたかっただけかもしれないし、不動産屋と警察からの退去命令を避けるために家から出たかったのかもしれないし、オウムが何を話しているのか知りたかったのかもしれない。理由はわからないけれど、最後の何かを睨むような、決心するようなサムの顔が不気味でもあり、恰好良くもあった。この映画内で、ここまで見せていなかった表情である。
今年はNTライブ『エンジェルス・イン・アメリカ』でアンドリュー・ガーフィールドのことを好きになったんですが、本作でますます好きになってしまった。

母親が好きな女優やサムのTシャツ、部屋のポスターなどにも意味があったのかもしれないけど、拾いきれていません。

パンフや公式サイトの解説を読んでみます。











2007年公開。J・A・バヨナ監督初長編作。製作総指揮にギレルモ・デル・トロ。
原題は『El Orfanato』で、スペイン語でそのまま“孤児院”の意味らしいので、良い邦題だと思う。

まず海辺の元孤児院というのが、ロケーション的にぐっとくる。窓からはかつて動いていたけれど、今は使われていない灯台が見える。
これは、2016年の『怪物はささやく』で子供の部屋から古い大木が見えるのにも似ていると思った。
また、孤児院といってもお屋敷のようで、これは今年公開された『ジュラシック・ワールド/炎の王国』に出て来たお屋敷にもよく似ていて、監督の趣味はまったくぶれていないのがよくわかる。何かが潜む不気味な館という構図も同じですね。
『インポッシブル』もですが、バヨナ監督作はどれも子供がキーになっているようだ。

前半は、実は館にはおぞましい秘密があった!ということで、思ったよりもホラー映画のようだった。
特に、息子は見えないお友達と海辺の洞窟で会い家に連れて来てしまうとか、そのお友達に息子が連れ去られたのか神隠しに遭うなどのエピソードはよくある感じだと思ってしまった。
また、謎の老婆が車に轢かれてしまい、そのぐちゃぐちゃになった顔を映すなど、怖がらせようという意図も見えた。

しかし、話が進んで行き、主人公ラウラがいた孤児院でラウラが出たあとにあった事故など、事実が明らかになっていく。
霊媒師などが家の様子を見にきて、霊と対話をするが、ラウラは事情がわかっているし、実際に被害に遭ったから霊を信じるけれど、夫はまったく信じていない。でもこのままここにいたら、妻がおかしくなってしまうと思い、家を出ることにする。
ここでラウラは、家を出るのは反対をして、2日間だけお別れの期間をくれと申し出るんですね。ここまでは、怪奇現象が起こっても、夫がいるしまあ大丈夫だろうと思っていたけれど、ここでラウラ一人になってしまったら、おそらくすごく怖い目に遭うだろうというのは想像できた。でも彼女も同じ孤児院だったということで関わっている以上、彼女が子供の霊たちと戦うしかないのだ。戦って、自分の息子を取り戻すしかないのだ…と思った。

だが、ここから話が変わっていく。屋敷内を掃除して、全員分の食事を作り、孤児院の服を着たラウラは、人形を置いてみんなでテーブルを囲む。
「1回2回3回、壁を叩け」という、だるまさんがころんだのようなことをする。これはラウラが小さいころ、死んでしまった孤児院の子供達と遊んだ遊びだ。
ここのカメラワークも面白い。壁側に顔を伏せているラウラを映して、ラウラが振り返るのと一緒にカメラもラウラの後ろを映す。まるで、映画を観ている側が、ラウラのすぐ横に立たされたようだった。何度めかのだるまさんがころんだで後ろに子供達が現れる。次第に近づいて来る様子には多少の不気味さはあるけれど、もうホラーという感じではない。
それよりは、殺されてまさに“永遠のこどもたち”になってしまった彼らとの心の交流が哀しい。姿も普通の子供だし、先ほどまでの怖がらせようとする意図が消える。

普通のホラー映画なら、ラウラが一人屋敷の中に残されての霊との戦いをクライマックスにして、ここからどんどん怖くしようとするはずだけれど、まったくそうはならない。
結局、地下室の階段の柵が壊れて転落したであろう息子の遺体が見つかる。それも、誰のせいというよりは事故であり、ただ哀しい。

ラウラが「息子を生き返らせて」と願うと、灯台が光るのも美しい。生き返るというよりは、ラウラが彼ら側へ行ったのだ。かつての友達らがラウラの元に集まってきて、その中には醜い顔と言われていた子もいたけれど、前半でその顔を怖く映していたのに、ラストでは全く怖くない。むしろ優しい。
向こう側に行ってしまったというのに、音楽も感動的なもので、ああ、これホラー映画じゃなかったんだな…と確信した。ホラー映画なら、向こう側へ行ったラウラはあんなに優しげな顔をしないし、恐怖の中で震え、夫が助けに来る展開である。

ラスト、夫が妻や子供たちが一緒に埋葬された墓に花を手向けていた。その表情も、怒りや悲しみや恐怖ではなく、穏やかだった。屋敷内で妻のロケットを見つけた彼は、おそらくもう、霊が存在するなんてとバカにしてなさそうだったし、ちゃんと信じていそうだった。

幽霊怖い!というところから、彼らだって生きていたのだし、どんな形でも時を超えて会えるのは素晴らしいでしょ、怖くないよというロマンティックですらある結論が出る。

生きている者と死んでいる者の境界が曖昧になる。想いはそんなものを超えていくという感じは、デル・トロっぽくもあるし、バヨナっぽくもあるなと思った。暗黒童話感が似ている。

前半はこんなに怖いなんて聞いていない…と思ったけれど、結局、ホラーではなく、映像美に彩られているゴシックファンタジーでした。バヨナ監督の原点であり、まだまだ今も失われていない監督色の出所が見えておもしろかった。