『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』(二回目)


ドルビーアトモスで観たんですが、席が前方だったせいもあるかもしれないけれど、あまり音の良さはよくわからなかった。前回がIMAXだったからかもしれない。
IMAXと同じく、最初のプロモーション映像みたいなのはすごかった。葉っぱが右から左へ。

以下、二回目で思ったことをちょこちょこと。ネタバレです。







二回目でも、最初に10ccが流れてきた時に泣いてしまった。二回目のほうが、この先に起こることがわかっていたから余計に泣けた。

最初の廃墟でオーブを盗むシーンで、さあ行くかねとヘッドフォンを耳に装着し、『Come and get your love』を聴くシーン。タイトルがバーンと大写しになったときに、下の方でひょこひょこ踊っているのが最高。
大事そうな任務途中なのにこんなノリの良い音楽が流れることで、この作品のスタンスがわかって、観客側もこれから始まるのがどんな映画なのかがなんとなく知ることができるシーン。
楽しくはあるけれど、母親の形見を大人になるまで大事に持ち歩いてる、そして一人きりというところにほろ苦さもある。
そして、この先に合う仲間たちの存在の大きさとの対比もできる。

一人きりといっても、ヨンドゥはずっとピーターの近くにいたんですよね。序盤でピーターがオーブを一人で売り飛ばそうとしたときも、ヨンドゥは「生け捕りでつかまえろ!俺が殺す!」って言うんですが、大抵この場合って殺さないですよね…。
また、仲間がピーターを食おうとしたところを何度も救ったと言っていた。何度もとは、本当に親代わりとして大事に思っていたのだと思う。
だから、最後にオーブを受け取った時も、おそらくピーターが渡して来たのが偽物だと気づいていたのではないかと思う。そうでなきゃ、あんなところで、すぐに、無防備にあけたりしないだろう。
開けたときに、中のトロール人形の髪の毛が馬鹿にしたようにぴょこんってなるのが可笑しいし、ヨンドゥも怒りではなく、わかっていたことだというように苦笑していた。ピーターはがちゃがちゃのカプセルにおもちゃをつめこむように、髪の毛を慎重に折り込んで、オーブのケースの外にはみ出ないようにしたんだろう。
ヨンドゥの船は墜落して、操縦席に置いてあったおもちゃも一部を残して無くなってしまったようだったので、新たなラインナップに加わるのではないかと思う。

ピーターの正統派ヒーローとは違う飄々としたキャラクターがこの映画の魅力だと思うんですが、コレクターにオーブを渡す時に一回落としそうになるのはクリス・プラットのアドリブではないんだろうか。真剣味の無さなのか、緊張してなのか。どちらにしても落としたら一大事だというのがわかってなさそうな適当さがいい。

ガモーラの「この船不潔よ」に対してピーターが「ブラックライトをつけるとアートが浮かび上がるんだけどな」のシーンは“精子はブラックライトで光るから”だという説があった。確かに、「Great picture.」と言うクリス・プラットが大層いやらしいにやにや笑いをしていたので、その説で間違いなさそう。

ジョン・C・ライリー演じるノバの兵士あてに、ピーターから着信があったときに出て来るピーターの写真が、すごく中途半端な表情というか、そんな写真で登録されてしまうところからも、彼のキャラクターが周囲からどうとらえられているかわかっておもしろい。

ドラックスは、最初に観た時には乱暴者だし怖いキャラだと思っていたけれど、今回は彼についてわかっていたので最初から怖さは無かった。家族を失っている孤独さはピーターと同じだけれど、素直で優しい。
人の言うことをそのまま受け取るということは、嘘をつく人などいないと思っていることだし、自分も嘘がつけない。嘘という概念自体を持っていないのかもしれない。思ったことは照れくささなど感じずに口にしてしまう。
敵の船に乗り込むときに、ドラックスは笑いっぱなしで、たぶん大興奮しているんですが、その勢いで、他のメンバーに会えていかに嬉しいか、いかに大切な友達かを語り出す。それは本心だとわかるから、観ている側は泣ける。けれども、その場にいる人たち、特にガモーラなんかは照れくささから、そこに賛同しないところがこの映画のいいところ。
普通だったら、ドラックスが切々と語っていたら、全員、僕らも嬉しい!私も!みたいになって円陣でも組みそうなシーンである。最終決戦前だし、涙の一つも浮かべるかもしれない。でも、ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーの面々は、冷めているというか、そうゆうのやめてよみたいな雰囲気になっているのがたまらない。それでこそ、この映画なのだ。

敵を前にして、ピーターが急に踊り出すシーンもなんですが、ガモーラが首を傾げちゃうんですよね。それは映画を観ている側もそうなんですが、仲間ですら、彼の行動が理解出来ない。それで、「次!君も踊って!」みたいな感じでガモーラをダンスに誘うんですが、ガモーラは無言で首を横に振って断る。
ここも、普通の映画だったら断らないですよね。ましてや、少し前に、『フットルース』のダンスバトルの話をしているんですよ。その伏線を回収する場所でしょう。でも、断る。
これ、踊ってしまったらガモーラじゃないと思う。良い雰囲気になっても、キスをしない彼女である。あの場所でキスをするようなキャラなら、一緒に踊っていたかもしれない。
この少し前のシーンで、メンバーが最終決戦へ向かう前に横並びで歩くシーンがあるんですが、ここも普通の映画なら決めてるはずですが、ガモーラは欠伸をしちゃっている。
こんな感じで、普通の映画だったら、話の流れ的にこうするよなということからことごとくズラしてくるのが面白いし、そのズラし方もこの映画の魅力だと思う。
まず、敵を前にして踊り始める主人公がいなかったと思う。小さい驚きの連続なのだ。

音楽の使い方も使われている曲がそれぞれ良い曲なのはもちろんなんですが、それらが入って来るタイミングが独特なのだ。それは、それらの曲が収録されているのが、お母さんの遺した“最強ミックス”のカセットテープだという理由もあるのだけれど。

お母さんの関連ですが、最初に手を伸ばしたときにピーターはお母さんの手をとらないんですよね。そのまま亡くなってしまう。ピーターは多分それをずっと後悔し続けてきたと思う。
映画の最後のほうのオーブのシーンで仲間と手を繋ぐことで、初めて26年越しの後悔が消える。
タイトルが出るシーンでもわかる通り、ピーターは(ヨンドゥは居たけれど)基本的にいままでずっと一人だった。その彼が仲間を得て、手を繋ぐことではっきりと繋がった。手を繋ぐという行為は結束力の証でもあるし、後悔を昇華させる行為でもある。

この盛り上がるシーンでもぼろぼろ泣いてしまうんですが、この映画はもう一度この後に泣き所があって、一度観ているのに不意打ちを食らう。
お母さんの手紙のシーンですね。ピーターに託したのはAwesome MixのVol.2でここに入っているのがMarvin GayとTammi Terrell『Ain't no mountain high enough』。“私が必要ならば例えあなたがどこにいてもかけつける”と歌われるこの曲は、そのまま母からのメッセージでもある。
いつでもあなたのそばにいる、音楽を流せば。さびしさよりもこの力強さに、最後もう一度泣いてしまう。

完璧なのが、泣いたまま終わらせずに、このあとに、ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーの面々が新しい冒険に旅立つシーン、そして続編への予感を漂わせているところ。
すぐにでも続編が観たくなるし、キュートなベイビーグルート(とドラックス)の動きでにこにこしてしまうので、気持ち良く映画館を出られるのだ。

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