『トイ・ストーリー4』



3までがこれ以上ないというくらい綺麗にまとまっていたために、続編が、しかも9年ぶりに公開されるというのは心配でもあった。あの続きが観たいかというと微妙なところでもあった。

監督はジョシュ・クーリー。ピクサーでストーリーボードアーティストや声優などをしていた方らしい。長編は本作が初。

以下、ネタバレです。








ウッディは新しい持ち主、ボニーからあまり好かれていない。ボニーは他のおもちゃに夢中だった。
それでもウッディはボニーに対して献身的で、ボニーが手作りしたおもちゃフォーキーとボニーが仲良くやれるように手助けをする。四苦八苦しながらも関係は良好になるけれど、ボニーはその影にいるウッディのことなど見向きもしない。あまりにもつらい。観ながら、それで、あなたはどうするの?と思っていた。
中盤、ウッディの「ボニーのためだ」というセリフがある。前半のモヤモヤしていたことに対する答えが、きちんとセリフで示される。ここまでも少しごたごたがあるが、フォーキーとボニーの仲をとり持つところからここまでとんでもよかったくらいだと思った。
さらに、ボニーのためにボイスボックスも失う。
ウッディは聖人なのだろうか。おもちゃだからそんなものなの? 正しいことしかしていない。ここまでまともなことしかしないキャラだったろうか。

声も失った。しかし、持ち主に愛されていない。きっとボニーはウッディがいなくても探すことはないだろう。現に旅行の際も、ウッディは終始姿を見せていないのに探されていなかった。それくらい、どうでもいいおもちゃになってしまっている。
外の世界へ飛び出していくのもわかるし、当然、そのような結果になるだろう。

しかし、ウッディはフォーキーのためには自己犠牲も厭わない。それはフォーキーはボニーに好かれているからで、ひいてはボニーの幸せにも繋がるからだ。
しかし、その行動は独りよがりでもある。「僕たちとはいかないのか」というバズの寂しそうな顔が忘れられない。

ここにきてウッディをバズたちと引き離すとか、「俺のブーツにゃガラガラヘビ〜」のセリフが聞けなくなるとは思わなかった。
♪俺がついてるぜ〜の歌も悲しい。ついていない。ウッディは飛び出して行ってしまった。

3の続きをやるなら、ナンバリングタイトルではなくスピンオフでやってほしかった。そして、もっと軽い内容にしてほしかった。声を失うとか、みんなと離れるとか、重大なつらい決断を見たくなかったのだ。
ボニーの元へ行ったその後、どうなるか考えてみるとこうなるのは容易に予想ができる。だから、作られるならこの内容にはなるのだろうけれど、それなら作らなくてよかった。

じゃあどうなれば納得なのかと考えてしまうと、私はウッディにボニーではなくアンディの元にいてほしかったのだ。ウッディもまだアンディを恋しがっていた。できることなら、アンディがおもちゃを買い戻すか何かしてほしかった。
でも、それは私がおもちゃを買う大人だから思うことで、トイ・ストーリー自体は子供の友達としてのおもちゃが描かれているのだから趣旨が違ってしまう。大人になったらおもちゃは卒業するものとして描かれている。別に物持ちを良くしようとか、大人がおもちゃで遊んでもいいんだなんてことは描かれていない。
だから、こんなことになるなら、アンディがおもちゃを卒業した時点で、その先は別に見たくなかったと思ってしまうのだ。

何かしら決着をつけるならこの形になってしまうのだろうし、子供の幸せと自分(おもちゃである前に自分自身)(おもちゃではない自分自身という感情が存在するの?)の幸せを天秤にかけて選んだ結果として、勇気の出る決断というのもわかる。でも別にここまでやってほしくなかったという気もしてしまうのだ。
そもそもウッディやおもちゃたちは人間とまったく同じ感情を持つ存在なのかどうかも私はここまでわかっていなかった。子供のためにいろいろするおもちゃの行動は服従だったのか。では、1から3まで観てきたものはなんだったのだろう。悲しすぎる。
それとも、アンディのことは好きだから友達で、ボニーのことはそんなでもないから服従と思ってしまったということだろうか。そうすると、おもちゃの側にも人間の選択肢があるということなのだろうか。おもちゃに嫌われるという可能性もあることを考えると本当に怖い。おもちゃは人間の子供がすべて好きというわけではなく、この子は好き、この子は嫌いみたいな感情も持つということだろうか。おもちゃに嫌われたくなかったらおもちゃを大切にしましょうということだろうか。
トイ・ストーリーの基本である、おもちゃが感情を持つということについてのルールがよくわからなくなってしまった。ここまで掘り下げる必要があったのかどうか疑問。

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