『ヴィジット』



シャマラニストなんて言葉があるほどファン(?)を抱えているM・ナイト・シャマラン監督ということで話題になっている作品。
姉弟が子供だけで訪問し怖い目に遭うので、構造としては『ヘンゼルとグレーテル』や『レモニー・スニケットの世にも不幸せな物語』に似ている作品。一応、ホラーだとは思いますが、怖さを求めて行くと物足りないと思う。ただ、びっくりさせる系のシーンは何度かありました。

シャマラン“なのに”おもしろい!みたいな言われて方をしている作品ではありますが、私はほとんどシャマラン映画を観ていないので、他と比べてどうということはわかりません。

以下、ネタバレです。










POVのホラーというとよくある感じですが、姉弟がそれぞれカメラを持っているので、視点が二つになっているのはおもしろい。撮っている人が二人なので、二人ともちゃんと映っている。
夜にカメラを仕掛けて観察するのは『パラノーマル・アクティビティ』を思い出したけど、プロデュースが同じジェイソン・ブラムだったらしく納得した。

カメラも子供たちが持っている(という設定)だし、ほとんど祖父母の家の中で起こることなので、こじんまりとはしている。低予算だろうけれど、アイディアはフレッシュだと思う。新人監督っぽさがあるが、シャマランというのが意外。

映画の公式ページや宣伝を見ると、どんでん返しやそこで起きることの謎について大きく書かれているけれど、その真実自体はそれほど驚くようなものではなかった。
母がいない以上、たぶん本物の祖父母ではないのだろうと思っていた。「病院が大変なことになっている」みたいな話が出てきたときにも、じゃあそうなのかなとは思った。

でも、病院から抜け出してきた患者だとすると、お年寄りなら仕方がないのではないかという気持ちにもなってしまう。そもそも、どうして殺してまで入れ替わってたのかもわからなくなってしまった。孫というか、子供たちと楽しい休日を過ごしたいだけだったのかもしれないと思うと、少し同情すらしてしまう。
また、病院に入れられているお年寄りがあんなに狡猾に動けるのだろうかということも考えてしまった。

もっと、刑務所から脱走したとかただただ悪意だけのほうが良かった。それか、途中で“暗闇さん”というキーワードめいたものが出てくるけれど、悪魔憑きとか現実味のないものにしてほしかった。同情する隙を与えないでほしい。

ラスト付近でパトカーが助けに来ますが、それに乗っているのも警察ではなく、病院から抜け出した患者とか、ぞっとするような、救いの無い終わり方でも良かったと思う。

ただ、この後の本当のラストを見て、そんなトリックとか怖さは別にどうでも良かったのだと思った。
そもそも、姉(と弟)は、離婚した母のために祖父母の家へ行ったのだ。母が少しでも救われたらと思って、ビデオを撮り、祖父母に母の話を聞こうとした。
結局はそこで酷い目に遭ったし祖父母も別人だった。一言で書いてしまったけれど、映画の大部分を占めている本筋はこのあたりです。別人だったので、当然、母の話も聞けなかった。

母は最後に、姉のまわすビデオに向けて、自分で自分のことを話す。そして、母は「怒りは忘れなさい」と言って娘を抱きしめる。ここでの怒りが何だかわからず、偽祖父母に対してかとも思ったけれど、その後流れるのが、まだ小さい姉弟が在りし日の父親と戯れている映像だった。

ホラーとかトリックとかを気にしてここまで観てきたので気づかなかった。姉は、母のために…と頑張ってビデオを撮影していたけれど、結局、自分のためでもあったのだ。その本心についてまったく考えないままに映画を観ていたので、最後ではっとした。
弟を守り、母の“万能薬”を探して、一人で立ち回っていたけれど、彼女だって

こう書いていると弟は何もしていなさそうですが、ムードメイカーです。映画全体のムードメイカーでもある。タイラーという名前なんですが、Tダイアモンドという芸名でラップを披露。子供なのに大人顔負けのちょっと下品目な内容なのが和む。

映画の最後、“弟が「どうしても…」と言うので”という注意書きの後、弟が自分の身に起こった大変なことをラップで歌う。弟がカメラに向かってやっている時、姉は後ろで化粧なのか、何か作業をしていて背中を向けているけれど、何度かちらちらと振り返って見ているのが可愛い。
姉のエピソードで泣かされた後、最後の最後にこの和みシーンが入るのがとてもいい。これがあるのとないのでは作品のトーンがまったく変わる。

シャマラニストの方々だときっとまたまったく違う感想になるのではないかと思う。トリックの甘さは感じたけれど、この主人公姉弟がとても良かったので好きな映画です。





2012年の『マジック・マイク』の続編ではあるけれど、監督はスティーヴン・ソダーバーグから、グレゴリー・ジェイコブズに変更。グレゴリー・ジェイコブズは、ソダーバーグ監督の製作を主につとめている方で、ソダーバーグ・ファミリーだったようです。
けれど、作品の雰囲気は前作とはがらりと変わった。前作は男性ストリッパーの映画と聞いて想像したものとは違ったんですが、今回はそうそうこれこれといった風にしっくりくる内容となっている。
映画としての完成度は前作のほうが高いかもしれないけれど、楽しさや観た後での元気が出る感じはこちらのほうが上だし、なかなかこのような映画はないと思う。

以下、ネタバレです。








前作は主人公のマイク(チャニング・テイタム)がつらそうだった。そりゃあ、男性ストリッパーは楽な仕事ではないと思う。夢もあって、似合わないスーツを着て営業をしている様子も見ていられなかった。踊っているときにも、眉間に皺を寄せて、悲壮感が漂っていて、もうそんなことならやめたらいいんじゃないかとすら思った。

今作も、序盤で一人きりの従業員から、「保険に入らせてほしい」と言われたマイクが、そんな金もなく悩むシーンがあり、今回もこんな路線なのかなと思った。しかし、その従業員を帰らせたあと、一人で作業をしていたところで、ラジオから懐かしのナンバーが流れ出し、ドリルなどを使いながら踊り出してしまう。そこからは、踊ることが好きでしかたがないという感情が溢れ出ているし、その姿を見ているとこちらもわくわくしてくる。
本当に観たかったのはこれなのだと思った。

結局、マイクは前に働いた店の仲間と久しぶりに会って、大会に出るべく旅に出る。
今回、マシュー・マコノヒーが演じていたダラスは出ないんですが、それも良い方向に働いていたような気がする。彼らを抑圧していたのはダラスで、上司的な存在であるダラスがいないからこそ、彼らが思う存分好きなことができ、はっちゃけられたのではないかとすら思えてしまう。
それくらい、マイクはもちろん、他の仲間たちも楽しそうだし、今回のほうがキャラクターがたっているし、何より、全員のことが好きになった。

今回、要はロードムービーなんですね。あまりそりの合わない仲間たちがわいわいやりながら、時には失敗をして、途中で会った人たちに助けられ、旅を通じて結束が強まる。よくあると言えばよくある話だ。最後に大会に出ることからも、『リトル・ミス・サンシャイン』っぽさもある。ただ、こちらは題材が男性ストリッパーです。

旅で辿り着いた先々でステージに上がり、観客を魅了する。もちろん、ステージシーンは大迫力だ。私も会場にいるお客さんと一緒の気分になっていたらしく、きゃーきゃー言ったり、1ドル札をまけない代わりに、拳をぎゅっと握りしめていた。

常に踊っているわけではなく、旅の途中の車の中やお世話になる豪邸の中などで、お喋りのシーンも長い。動きなく、ただただ喋っているというシーンがかなりある。人によっては退屈とも思うかもしれないけれど、私は、彼らの性格が少しずつわかってくるのがおもしろかったし、このような日常パートは大好物なので満足した。
筋骨隆々の男性たちが、カメラのワンショットに入りきれるくらいの狭い場所でわいわいと雑談しているさまから、なんとなく『エクスペンダブルズ』シリーズを思い出した。『エクスペンダブルズ』のアクション以外のシーンですね。筋肉仲間たちの愉快な珍道中といった感じ。
日常パートにしても、ただ仲がいいだけではなく、ちょっともめたりすると本当に楽しい。『アベンジャーズ』などでも見られたあの感じです。

みんなで盛り上がるためにドラッグをやり、“54分後”という表示が出たあと、過剰に落ち込んだ症状が出ていたのもおもしろかった。チャニング・テイタムだけに『21ジャンプストリート』を思い出した。

コンビニの無愛想な店員を笑顔にしろというミッションを受けたリッチーのシーンも最高。バックストリート・ボーイズの『I Want It That Way』に合わせて踊る。スナック菓子をばらまき、冷蔵コーナーの水を勝手に開封して浴びる。これ、ただの迷惑な客では…と思ったし、店員さんもしらけ顔でひやひやした。そして、一曲思いっきり踊り終わると、こう聞く。「チートスと水でいくら?」。
それで店員さんもにっこり。私もにっこり。店外の仲間たちも大盛り上がり。
こんなシーンは前作にはなく、入る余地もなかった。踊る喜びと、観客の喜びを感じると、観ている私だって楽しい。

前作は退廃的な雰囲気が漂っていた。男性ストリッパーを見に来るなんて、隠れていなくてはいけないこと、いけないこと、悪ですらあるようだった。
今回も、ローマの館は会員制クラブだし、薄暗いし、退廃的ではある。でも、そこにいる女性たちは心底楽しそうだった。あっけらかんとしている。主であるローマも女性なので、女性の気持ちがよくわかっているようだった。
ローマを演じたのがジェイダ・ピンケット=スミス。私は『ゴッサム』のフィッシュ・ムーニーだ!と思ってしまったんですが、ウィル・スミスの妻なのを知らなかった。ジェイデン・スミスの母です。
彼女はフィッシュ・ムーニーのときもそうでしたが、周囲を鼓舞するのがうまい。「夫や彼氏に隠れてきている人も多いかもしれない。普段は抑圧している気持ちをここで解放しなさい!男性たちにかしずいてもらう準備はできてる?」と言っていた。その言葉に、会場の女性たちから大歓声があがる。
ローマの言葉にはフェミニズムメッセージも含まれているようだった。男性ストリッパーという特殊な職業を題材とする以上、本当だったら当然描かれなくてはならないことだ。別に話の中心に持ってくることはない。けれど、見に来ている女たちにも光がちゃんと当たっているのが嬉しい。

喜ばせて(悦ばせて)ほしい女性と、女性を楽しませたいと思う男たち。これが主題になっている。
そして、それだけではなくて、男たちも踊ることが、女たちを楽しませることに喜びを感じている。これは、途中の雑談からも察することができるし、最後の大会の準備風景から見ても明らかだった。序盤では「1ドル札の波に埋もれようぜ!」と言っていて、金のためというのもあっただろうけれど、準備の風景を見ていると、様々なアイディアを小道具に仕込んでいたし、ちゃんと練習だってしていたし、好きでなくてはできないことだと思う。本当に、ただのストリッパーではなくエンターテイナーである。

最後の大会のシーンでは最初にジーンズに上半身裸という前作でお馴染みの恰好で出てきて、それから各キャラごとのそのキャラを生かした出し物があるのが素晴らしい。全員に見せ場があって、全員のことが好きになってしまう。
これも雑談からわかることだけれど、彼らだって、人生に迷っているのだ。順調というわけではない。それでも、踊ることが好きだし、楽しませたいと思っているし、実際に会場が盛り上がっているのがなんだか泣けてしまった。

今回、マイクの相手役ではないけれど、親しくなる女性としてゾーイという子が出てくる。本当か嘘かわからないけれど、「男性には興味が無いのよ」と言っていて、それをアンバー・ハードが演じているのがいい。他の映画で観た時よりもメイクが薄く、これくらいのほうが若く見えるし好感が持てた。
最後の大会も見に来るんですが、最初に、マイクが“お?来たね”みたいな感じに素の表情で笑うのがいい。チャニング・テイタムいいです。
それで、いざマイクが踊るときにゾーイをステージに上げるんですが、もう彼女もキャラを忘れているような顔でキャー!ってなってニコニコしているのが本当に可愛い。そこまですかしている感じで、わりと無表情でつんとしていたのに。

最後に、マイクが「笑顔が戻ったね」というのもぐっときた。マイクなりにゾーイを元気づけていたのだ。そして、映画を観ている私も笑顔になっていたことから、一作目で首を傾げながら映画館を出たことに対しての答えでもあると思った。これは元気の無いときにも観たい作品になった。

細かいところで、大会にマトリックスの恰好してる人がいたけど、ジェイダ・ピンケット=スミスが出てるのと関係あるのとか、『トワイライト』をバカにしてたけどジョー・マンガニエロは『トゥルーブラッド』の主要キャラじゃんとかも気になった。

あと、ターザン(ケビン・ナッシュ)の切なさとか、ケン(マット・ボマー)のレベル3のヒーラーで爆笑したとか、キャラそれぞれの細かい部分も全部愛おしいです。
そして、またチャニング・テイタムのことが一層好きになってしまいました。


原題『What We did on our Holiday』。原題とはだいぶ違うけれど、そのまま訳して“僕らが休日にしたこと”では地味だし、そのまま英語のタイトルにもしにくい。ただ、“贈りもの”なんていう言葉からイメージされるような、優しいものとは少し印象が違った。
あと、海賊というとパイレーツかと思ったけれど、ヴァイキングのほうでした。

以下、ネタバレです。








離婚寸前の仲の悪い夫婦がなんらかの理由で里帰りし、そこにいる“じいちゃん”から助言をもらうか、もしくは亡くなるかして、こんな小さなことで言い争っててもね…というように仲直りし、めでたしめでたしというようなストーリーを想像していた。けれども、そんな甘い話ではなかった。

じいちゃんの誕生日会のために帰省したはいいけれど、そこで自分の兄弟に久々に会ってもめている様子は、なんとなく『8月の家族たち』を思い出した。ただ、あそこまでは殺伐としていない。それに、じいちゃん自身は自分で死が近いことを知っているから、なんとなくその言い争いすら愛おしく見守っていて、自分が争いの中に積極的に関わったりはしない。
ただ、頑固ではある。自分はもう長くないことが自分でわかっている。おそらく調子も悪い。けれど、そのことで弱気になって、息子に相談したりはしない。

そんな中で孫たち三人を連れて海へ遊びに行き、事件が起こる。

海へ行く途中で会ったおばあちゃんが素敵だった。多分、じいちゃんは息子たちよりもこのおばあちゃんに心を許している。じいちゃんは子供たちに「この人はガールフレンドとね…」と口を滑らす。当然、「れずびあんってなーにー?」みたいなことになり、おばあちゃんは「私はレズビア国の〜」みたいなことを言って誤魔化す。
こういう話題をさらっと混ぜてくるあたりが、さすがイギリス(スコットランド)というかBBC Filmというか。

子供たちにとってはそんな話を聞くのも新鮮で、車を運転させてもらうのも新鮮。普段、両親が言い争うさまを聞いていることを考えると、何倍も楽しいだろう。海辺というシチュエーションも開放的である。
そこで、具合の悪かったじいちゃんが亡くなってしまう。

最初はもちろん、大人を呼びに行こうということになるが、結局戻っても、いつものように喧嘩をしていて、そうしたら当然、頼りにできないと思う。
結局は、今までもこの繰り返しだったのだと思う。信用されていない親というのはどうなのだろう。

そこで、じいちゃんはヴァイキングだったようだし、ヴァイキング方式で、自分たち(子供たち)だけで弔おうとする。
姉弟妹の三兄弟の真ん中の男の子は元々ヴァイキング好きなので、アイディアを出し、三人は流木を使って舟ならぬいかだを作り、じいちゃんを乗せ、海に放って火をつける。舟葬と水葬が一緒になったようなもので、男の子はあとになって、あの方法が正しかったのかわからないと言っていたけれど、調べてみると、ゲルマン人のヴァイキングがその方法で間違いないようです。

子供たちがせっせと筏を作って弔う準備をしていて、同じ時間に何も知らない大人たちはすでに亡くなってるじいちゃんの誕生日会の準備をしているという、その対比が皮肉だけれどおもしろかった。そして、じいちゃん自身も、呼んで欲しくない人もいたみたいだし、誕生会は望んでなかったのかもしれないと思うと、大人たちが滑稽に見えた。
対する子供たちは、夏特有の冒険というか、きらきらしていた。自作した筏も、漁師が使うロープを拾って作ったのでカラフル。

カラフルな筏に乗せられたじいちゃんが海の果てへ流れて消えて、めでたしめでたし…。というストーリーだったら、でも死体は誰にも見つからないの?とか、死体遺棄とかにならない?とか、舟の燃えた残骸はどうなるの?とか疑問ともやもやがが残ってしまうところだった。

この、瑞々しさすらあるファンタジーやおとぎ話のままでは終わらせない。
ちゃんと警察やマスコミが来て、子供の視点から一気に現実的な大人の視点に変化する。海岸は捜査されるし、マスコミは家の前に群がって家庭内の不和も嗅ぎ付ける。

ラストだって和やかではあるけれど、夫婦は完全には仲直りせずに、別居は解消されない。それでも、事態は少しは良くなって、未来は明るいのかもしれないという希望も持てる。このように、示唆するくらいがちょうどいい。
視点の切り替えと、話が急に動き出す様子が特殊だと思った。

ずっと喧嘩をしている夫婦を演じているのがロザムンド・パイクとデヴィッド・テナント。おそらく、ロザムンド・パイクが『ゴーン・ガール』でアカデミー賞主演女優賞にノミネートされたことで日本公開が決まったのではないかと思われる。
私の中ではデヴィッド・テナントといえば代表作はどう考えても『ドクター・フー』だけれど、この映画のポスターのテナント名前の上には『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』と書いてあり、日本での知名度の低さに驚いた。
実際、映画館にもテナント好きと思われる若い女性はあまりいなかったのもショックだった。もう少し人気があるものだと思っていた。

デヴィッド・テナントはドクター以外だと、精神疾患を抱えていたり、過去に何か悪いことが起こっていたりと、どこか影のある役が多い。
けれど今回は、普通のお父さん役である。少しだめな父親ではあるけれど、完璧ではないあたりが人間臭く、こんな役もできるのだと感心した。

ドクターは温厚というか、物事を達観していて、比較的冷静に対処する場合が多かった。けれど、今回は「浮気相手の名前はウォレスよ!」「グルミットもいるのか!?」などという、くだらなすぎて、他人事なら笑いすらもれる言い争いをする場面も見られる。

ちなみに、劇中でのじいちゃんの誕生日会で、お兄さんはスコットランドの正装であるキルトスカートだったけれど、テナントは普通のスーツでした。ロンドンで長く暮らしているという役柄だったからだろうか。この映画のプレミアにはキルトスカート着用で出席したようです。




2005年公開。旧作ですが、以下には2015年版のネタバレも含みますのでご注意ください。











まず、リードがマイルズ・テラーと違ってだいぶ年を取っていたので驚いた。けれど、これは単純に見た目の問題でした。二人とも30歳前後だった。主演のヨアン・グリフィズは『アメイジング・グレイス』の主演の方。その時にも思ったけれど、V6の岡田君に似ている。科学オタクっぽくはない。スーザンとも元々付き合っていたらしい。

それで、リードの隣りにいてベンと呼ばれている人も、ジェイミー・ベルと似つかない。印象がまるで違って、体格ががっちりしていてスキンヘッド、変化する前から少し岩っぽい印象。「俺は力仕事専門だ」とも言っていて、役割もそれほど変わらない。こうなると、ますます、なんであの役をジェイミー・ベルにしたんだろうという疑問がわいてくる。

ヴィクターも元々、金持ちで女好きな嫌味な奴。いかにも悪役になりそうだなという印象で、トビー・ケベルが演じたようなかわいそうな感じとか、なんで彼があんな悪い奴に…という意外性もない。だからこそ、すんなり受け入れられる。

スーザンの弟ジョニーも、血が繋がっているようだった。2015年版ではおそらくマイケル・B・ジョーダンを使いたかったのではないかと思うけれど、スーザンが養女と言う設定だった。あの設定は今後に生かされてくるのだろうか。本作ではジョニーを演じているのがクリス・エヴァンス。キャプテン・アメリカとは違う、おちゃらけた役だった。
でも、彼のおちゃらけ無邪気なキャラがこの作品を軽く観られる愉快なものにしていて良かったと思う。

序盤に宇宙に出るんですが、急に出たので施設のシミュレーション機械のようなもので訓練をしているのかと思ったら、本当に宇宙に出ていた。そして、宇宙嵐を浴びて体に変化をきたす。

ただ、これも、2015年版がひたすら悩んでいたのに対し、こちらは呑気なものである。
スーザンとリードが見つめ合うシーンでは「私を見て」「見えないよ(透明だから)」というロマンティックが台無しになっていた。スーザンの着替えにリードが遭遇してしまったが、スーザンは悲鳴を上げながら姿を消した。ラッキースケベになりそこねている。
リードはトイレに入っているときに紙がなくなってしまったが、伸びる手を使ってトイレットペーパーを取ることができた。顎の皮膚を伸ばしてひげ剃りをしていた。
ベンは岩のために指が太くなってしまい、プッシュホンで電話がかけられない。フォークが持てない。でも、力持ちになったので、生絞りオレンジジュースを簡単に作っていた。
ジョニーにいたっては力を手に入れたことが嬉しそうである。その体を生かして、モトクロス大会に出て目立ち、モテる。

この明るさがいい。2015年版ももっとコミカルにすれば良かったのに。ジョニーが岩の姿になったベンに「耳はどこ?」なんて聞いていたが、2015年版はそんな雰囲気ではななかった。

ベンも岩の姿になって落ち込んではいたけれど、人の自殺を止めたり、玉突き事故のきっかけは起こしても、橋の上から人を救ったりと活躍していた。2015年のベンは軍に利用されただけだったが、こちらは自発的に動き、結果、四人ともが民衆を救った。拍手と大歓声が起きる。これがヒーローである。
マスコミだって飛びつく。ファンタスティック・フォーというネーミングもマスコミがつけた。

こちらのヴィクターは、宇宙に出ての実験が失敗し自社の株が下がった、スーザンもとられたということで、完全に逆恨みしてリードを攻撃する。でも、元々嫌な奴だったし、その行動の意味もわかる。顔の傷を隠すために鉄仮面を被るというのも恰好良い。

バトルシーンでは、リードの体が思ったよりも伸びていてびっくりした。タイヤとかマントとか、思ったよりも自在に変化していた。でも体が伸びるだけなので、直接攻撃というよりは補助的な役割です。でも、四人の特性の生かし方も本作のほうが派手だった。「正義の鉄拳タイムだ!」というキメ台詞も漫画っぽくて良かった。
戦う前に、一人一人が別々に現れて、四人ざっと並ぶのも漫画っぽい絵面でした。

またこれは、町中で行われていて、ギャラリーがたくさんいます。逃げなくていいの?とも思うけれど、誰もいない次元で戦うよりはよっぽどいい。エキストラも呼べなかったのだろうかと思ってしまう。

結局、科学知識によりドゥームを熱して冷やしてかためる。オープニングが、ヴィクターの会社のロビーに彼の銅像を建てていて、リードたちが悪趣味だなどと笑っているシーンだったので、そことかけてあるのも粋。

本作が更に良かったのは打ち上げがあったことです。2015年版は彼らの戦いを誰も知らないし、四人で新しい研究所に並んで話すというひっそりとしたものだった。でも、戦いのあとにはやっぱり大人数の打ち上げがあってほしい。しかも今回は船上パーティである。

最後の戦い前に、ベンは人間の姿に戻るんですが、そのあとで、自分も戦えたらいいのにという意識が芽生える。生身の姿では友が救えないと考え、再び岩の姿へ戻る。すっかりヒーローになっていたのだ。
打ち上げでは横に女性を抱き寄せ、別に元の姿に戻らなくてもいいとも言っていた。そもそも婚約者だか妻だかに嫌われたから戻りたかったのだろうか? 新しい彼女ができればそれでオッケーだったのか。
2015年版のジェイミー・ベルは元に戻りたいと思っていると思うし、私も戻って欲しいです。女のために、みたいな豪快さはあのキャラクターからは感じられなかった。

最後には、ヒューマン・トーチが船からびゅーんと飛んで行って、夜空にファンタスティック・フォーのマークを描く。自由の女神がどーんと映る。
なんか画のつくり方からしてバカっぽいが、派手でいい。パーティーの参加者も喜んでいた。粗は多い作品だと思うけど、軽さとコミカルさと漫画っぽさで深く言及するのが馬鹿馬鹿しくなる感じ。細かいギャグを笑って楽しむものなのだろう。

2015年版もこっちのノリのほうが良かったです。



2015年版。ストーリーや雰囲気など、2005年のものとはだいぶ違うようですが、そもそも、原作が違うとのこと。

以下、ネタバレです。









普通に生活をしていた人たちがある原因で体に異変をきたし、特殊能力を手に入れるという大筋と、登場人物の名前は同じだけれども、他は全く違います。
前作だと宇宙船で宇宙嵐を浴びて、という原因だったけれど、今作では異次元に瞬間移動していた。
その瞬間移動も、装置完成記念というか、前打ち上げというか、酔っぱらった勢いでのものである。
天才科学者のリードと、同じく天才のヴィクターも一緒に酒を飲んで意気投合しかけていた。ジョニーと幼馴染みのベンとともに、酔った勢いで、完全に調子に乗って楽しくなった状態で、おふざけ半分で異次元へ飛ぶ。
見事飛べたものの、向こうで事故に遭い、ヴィクターだけを残して三人で帰ってくる。
その事故が原因で、三人の体に異変が起こる。もちろん、大変な異変だし、自分のことで手一杯になってしまうのもわかる。リードにとってはベンが幼馴染みで親友だし、体を元に戻してあげたいと必死に研究をするのもわかる。

でも、置いてきたヴィクターのことを誰も気にしていない。異次元に行く前の飲み会では友情すら芽生えかけていたのに。
崖に落ちていたし死んだのかと思ったのかもしれないけれど、自分たちがこうなってしまったということは、ヴィクターにもなにかしら異変があるだろうし、なにより異次元に一人残してしまうのは危険すぎる。まず異次元へ戻り、ヴィクターの状態を確かめに行くのが最優先だろう。
それなのに、誰も気にしていない。生きている死んでいるの話にも言及しない。
『火星の人』を最近読んだせいかもしれないけれど、責任を持って迎えに行ってあげてほしい。

ヴィクターはのちにドゥームになるので、仲直りなどしようもないのはわかっている。
でも、それならば、ヴィクターは前半でリードに嫉妬したり、それ以外にも負の感情を抱いていそうだったので、それが原因で敵になったら良かったと思う。それが単なる事故。置いていかれたことを恨んでいたようでもなかった。

『ファンタスティック・フォー』を冠している以上、異次元で事故にあった三人と研究所にいながらにして事故にあった一人の四人と、ドゥームが戦うのはわかっていた。でも、まったくその気配がない。
90分しかないのにこんなことやっていていいのかなと思っていたら、ほとんど唐突ともいっていい感じで異次元で戦いが始まる。異次元空間は薄暗いし、周りには人の住む建造物などもないし、誰にも迷惑がかからずに思いきりバトルができるからスリルがない。何を守って戦っているのかも明確になっていない。そもそもヒーローっぽくは見えない。

ヒーローというのは、やはり民衆から頼られてこそなり得るものだと思う。周囲が囃し立てて、ヒーローが作られるのだ。
彼らの存在は、民衆の前には出ていなかったし、具体的に民衆を何かから救うということもしていない。一部のお偉いさん方には存在が知られていて、軍で利用したいなどという提案が出されていたが、そういうことではない。
挙げ句、“ファンタスティック・フォー”という呼び名も自分たちで考えていた。誰もファンタスティックとは言ってくれないから自分たちで名乗るなんて悲しすぎる。

リード(Mr.ファンタスティック)役にはマイルズ・テラー、その幼馴染みベン(ザ・シング)役にジェイミー・ベル。この二人の少年時代の話も良かったし、大学生になってからもぼんくら科学オタクっぷりが良かった。変身してからが良くなかった。
特にジェイミー・ベルは元々アクションができる俳優なのに、彼の身軽さというかすばしっこさがまったく生かされていなかった。なんせ岩である。見た目にもジェイミー・ベルの名残がまったくない。
名残がないといえば、ヴィクター役のトビー・ケベルそうだ。同じ悪役でも『猿の惑星;新世紀』のコバとは大違いだ。今作だと、トビー・ケベルもジェイミー・ベルも、彼らで会う必要が無い。

元も子もないことを言わせてもらうと、『ファンタスティック・フォー』ではなく、同じ俳優さんたちを使った学園ものが観たかった。

そんなことを考えてしまったのだが、監督が『クロニクル』のジョシュ・トランクで納得した。結局私はこの監督さんの作る『クロニクル』と同じ系譜のものが観たかったのだ。

主人公リードは科学に関しては天才だけれど、人付き合いは下手。幼馴染みのベンだけは、彼に付き合っている。科学の才能も認めていて、コンビのような形で研究を続けている。
ある日、美人で科学の才能もあるスーザンに出会い、恋をする。彼女の弟、ジョニーは学園の人気者で生徒会候補(演じているのがマイケル・B・ジョーダンなので『クロニクル』から設定をいただきました)という点でもリードは萎縮してしまう。
更に、スーザンは幼馴染みのヴィクターと何か関係がある様子。ヴィクターは影のある不良タイプで、同じ学校だけれど、来てはいないようだ。見た目腕っ節ともにリードはかないそうにない。けれど、ヴィクターも科学に精通している。ヴィクターからも、科学やスーザンの件両方で、リードはライバル視される。
リードとヴィクターは、スーザンを賭けた科学バトルをすることになるが…といった内容のほうが観たい。科学バトルは学園で行われる科学コンテストとかでもいい。二人の賭けの対象にされたスーザンが、怒って自分もコンテストに参加してもいい。
それで、全員の発明品がとんでもないもので、事態が大きくなってしまい、結局なんやかんやで地球の平和を守るまでに発展してもいい。

マイルズ・テラーはアーロン・テイラー=ジョンソン、ジェシー・アイゼンバーグが失った童貞俳優臭があるのでそこを生かしてもらいたいのだ。特に前半のメガネが良かったので、本当ならずっとメガネでいってほしかったくらいだ。学園ものならずっとメガネでもいけるはず。

『クロニクル』系のこじらせ男子ものなら、ヴィクターが主人公でもいい。ベンのような相棒もいないし、何せ、トビー・ケベルが何かひどいことを企んでいそうな顔をして、コンピューターに一人で向かっている姿は良かった。

俳優、監督、題材のすべてがかみ合っていない印象を受けた。次作はもう少し話が動くのだろうか。



主演はオスカー・アイザック、その妻役にジェシカ・チャステイン。この二人が好きなので観ました。
『オール・イズ・ロスト 〜最後の手紙〜』のJ・C・チャンダー監督。原題は『A MOST VIOLENT YEAR』なので、このままにするか、『理想の代償』だけでも良かったのではないかと思う。『アメリカン・ドリーマー』というタイトルがありがちというか何か他のタイトルにありがちっぽくておぼえにくい。おそらく、何年後かには「オスカー・アイザックの…、石油の…」という説明になりそう。

以下、ネタバレです。





『アメリカン・ドリーマー』というタイトルも、そのものなので間違いではない。舞台は1981年のニューヨーク。オイルビジネスで成り上がった男の話だ。
成り上がる過程は描かれず、すでに主人公アベル(オスカー・アイザック)の会社は大きくなっている。ピンチに巻き込まれているけれど、それがどんなピンチなのか、その原因は?というのを追及していく流れになっている。
石油業界やビジネスの話なので少しかたく、渋い話ではあるけれど、実話ではないので創作ならではの見せ場もあるし、もやもやした終わり方もしない。

石油を盗んだトラックとアベル自身が偶然出くわすというのも実話だったらあり得なかっただろう。本人が犯人を追跡するシーンはこの映画で一番ハラハラするシーンだった。地味目と思いきや、ちゃんとこのような派手なシーンも入っているのがいい。

部下のジュリアンがオイル輸送中に襲われ、怯えてアベルらに内緒で銃を携帯していたときには、部下ひとりの行動で大きな会社が駄目になる恐ろしさを感じた。しかし、ジュリアンの気持ちもわかる。会社よりも自分の命が大事なのは当たり前のことだ。
ただ、ここまで慎重に慎重にことを運んできて、クリーンな会社経営をしてきたアベルの気持ちもわかる。
妻のアナ(ジェシカ・チャステイン)だって、アベルと会社のことを思って裏金を作っていたのだ。
誰もの気持ちがわかる。けれど、すべてが悪い方向へ動き出していく。アベルはまるで罠だらけの綱渡りをしているようで、とてもゴールへは辿り着けそうに見えない。これはもしかしたら誰もが幸せになれない映画なのではないかと思った。

けれど、ぼろぼろになりながらもなんとか事態は収拾する。本当になんとかという感じだったけれど、後味の悪さはない。

ただ、アベルはあれだけ部下のことを思っているようなことを言っていたのに、ラスト付近では倒れたジュリアンではなく、石油の漏れるタンクを気にしていた。結局は冷酷な男なのか、それとも部下に話していたことも広い意味で考えれば会社のためを思ってのことだしやはり石油のほうが大切なのか。倒れたジュリアンは救えないけれど、石油がタンクから漏れ出すのは止めることができるということだろうか。
映画内で描かれてはいなくても、おそらく、会社を大きくするまでにアベルは大変な苦労をしたのだろう。それが窺えるシーンでもあったとも思う。

このシーンは雪が積もっているんですが、雪の白と、血の赤と、オイルの黒がという色のコントラストが美しかった。映像美にもこだわる監督なのだというのがわかった。

また、このシーンの少し前か後かに、斜め上空から俯瞰でとらえていて、スクリーン左上から車がゆっくりと入ってくるショットがあり、少し変わった構図というか、印象に残っている。雪が積もっている地面が車の走行音を吸収し、妙に静かに思えた。『ダークナイト ライジング』後半の、装甲車が街を巡回するシーンを思い出した。

会社の社長ということで、衣装からもそれがよくわかった。オスカー・アイザックの衣装はオバマ大統領も顧客だという仕立て屋のスーツらしい。舞台が冬ということでキャメルのロングコートも気品が漂っていた。この衣装で犯人と思われる人物を追跡して行くのが迫力があった。
ジェシカ・チャステインの衣装はアルマーニらしく、エンドロールにも大きく名前が出ていた。もともと、彼女自身がジョルジオ・アルマーニと親しいらしい。

ジェシカ・チャステイン演じるアナは途中でギャングの娘だということが観客に明かされるのだけれど、すごく納得してしまった。上品ではあるけれどキモが座っているというか根性がありそうというか。単なるお嬢様とは違う雰囲気がいい。
けれど、「今まであなたの魅力だけで勝ち上がって来たと思ってるの? 私が汚れ仕事をやってきたのよ!」と激昂するシーンがあるが、私はジェシカ・チャステインの怒鳴り演技があまり好きではないのかもしれないと思ってしまった。基本的には好きな女優さんなのですが。びっくりするというか、怖いというか。それは演技がうまいからなのかもしれないけれど。

オスカー・アイザックはやはり今作でも目が暗いので、もしかしたら悪者なのではないかと思ってしまった。けれど、強い野心を持っている男で、結局は彼だけが純粋だった。その純粋さも会社一筋ゆえのことだったのかもしれない。金が足りなくても、妻の親(ギャング)に金を借りることだけは絶対にしなかった。嫌な奴にも頭を下げていた。

髪型が昔風なせいなのか、きっちりした服装だからなのか、40代後半くらいに見えたけれど、何歳という設定だったのだろうか。ご本人は35歳らしい。会社を築き上げて一大勢力になり…という話なので、30代ということはなさそうな気がする。
あと、どうでもいい話ですが、胸毛が無いのが意外だった。剃っていたのかもしれないけれど。