『神様メール』



ゴールデン・グローブ賞外国語映画賞ノミネート作品。監督はベルギーのジャコ・ヴァン・ドルマル。
神様の娘が人間たちに余命をメールしてしまい大混乱といった内容。
以下、ネタバレです。








予告で観た感じだと、娘はポップでキュートなほんの軽はずみな行動や遊び心で余命をメールしたのかと思ったら違った。
父親を困らせてやろうという気持ちはもちろんあったにしても、反抗期などという生易しいものではない。

この神様である父親が思っていたよりも酷い人物だった。
ブリュッセルを舞台に天地創造していくのですが、人間を創り、どんどん増えてからはゲームのように扱い始める。パソコンで操作しているので余計にそう見えたのかもしれない。

“食パンはジャムを塗った面から下に落ちる”、“スーパーでは隣りの列のほうがはやく進む”などのマーフィーの法則のようなものも彼が作っていた。
その他、家を燃やすとか嵐を起こすとか、もうやり口が神様というよりは悪魔である。

神様といえども見た目は普通の男性で、普通の妻と娘と三人で暮らしている。妻のことは怒鳴りつける、娘はベルトで打つなど、好き放題。暴君である。見た目が普通なので、神様云々抜きにして、崩壊している家庭である。もっと重かった。おてんばや跳ねっ返りというような理由ではなく、誰もが家出したくなる。

娘のエアはいたずらで余命を送信したわけではなく、ちゃんと意志を持ってやったのだ。見た目は少女でも、中身は思っていたよりも断然大人だった。

ただ、その余命宣告のせいで、人間たちは大混乱に陥る。エアはそれを鎮めるために人の暮らしている世界へ行くのだが、その行き方が楽しい。家のドラム式洗濯機を特殊な操作をすると、トンネルのように移動できるようになる。チューブを辿っていき、着いた先がどこかのコインランドリーというのもまたおしゃれ。

このアドバイスをしたのがエアの兄なんですが、JCと呼ばれていて、誰かと思ったら、Jesus Christ、イエス・キリストでした。
彼の使徒が12人、人間の住む世界へ行き、エアも使徒を6人集め、合計18人にしたら、野球好きのお母さんの好きな数字になり、そこで何かが起こるとのことだった。

使徒を集めるとか、新・新約聖書を書けとか、○○(人の名前)の福音書などというのが出てくるので、もしかしてこの映画もキリスト教に明るくないとわかりにくいのかなとも思ったんですが、大丈夫でした。ちなみにフランス語タイトルは“Le Tout Nouveau Testament"、新・新約聖書って訳されていたのがたぶんこれかなと思う。

要は6人のお悩み相談オムニバスですね。一人一人について、エアがちょっとだけ魔法を使いながら問題を解決していく。そうすると、自宅の最後の晩餐の絵画の後列に人が増えていくといった感じ。

悩みといっても、やはりそれにはそれぞれの余命が関わってくる。最初に余命が出ていたので、各人のストーリーが始まる前にもう一度見せてほしかった。出る人もいましたが、各人のタイトルが出る時に余命も一緒に出るように統一したら良かったんじゃないかと思います。

大部分の人が、本当の愛を見つけるパターンだった。いままで会ったことがなかったり、幼い頃一度だけ会ったとか、そういう相手である。また、余命が設定されていて、それが短いこともあるので余計にドラマティックだった。恋に落ちる瞬間がたくさん観られて、そのどれもが素敵だった。
カトリーヌ・ドヌーヴ演じるマルティーヌはゴリラと恋に落ちる。ゴリラって、ゴリラっぽい男性というわけではなく、サーカスにいた正真正銘本物のゴリラである。ゴリラに一目惚れしていたときには笑ってしまったけれど、そのうち本当にお似合いに見えてきたし、夫よりもゴリラのほうが恰好良く見えてしまった。夫を追い払うシーン、良かったです。

エアの夢を見せてあげる魔法が、ちょっとしたものだけれど映像が綺麗でした。
特に、最後の男の子に見せてあげる夢が好きでした。魚のレントゲンみたいな、骨だけで透けたものが、口をぱくぱくさせながら『ラ・メール』を歌っている。あの、『裏切りのサーカス』で印象的な使われ方をしていた曲です。目が覚めても、男の子の頭上にその魚がいて、ぽこぽこと泡を吐き出しているような音混じりで歌っていて可愛かった。

男の子は余命わずかで、死ぬ場所を海(ラ・メール)に決めていたんですが、どうも海で死にたいという人がたくさんいるらしく、大盛況。
そこでは、「亡くなる方は黒い腕章、見送る方は白い腕章で」なんていう呼びかけが行われいて、みんな腕章を付けて、思い思いに別れを惜しんでいた。黒と白のソフトクリームまで売り出されて、ビジネスが展開されていたのも笑った。
余命がわかっていると、死に場所が決められて、そうするとみんな海を選択し、人が集まる場所では商売を考える人がいるだろうというところまでの想像力がすごい。

他にもこの独特の想像力が生かされた、“階段を転げ落ちる真珠のような笑い方”とか“30人の男がクルミを割るような声”という詩的な表現とその映像がおもしろかった。

この状況を救うのは母である。
父には「音を立てるな」と言われていたから、喋ることもあまりしない。テレビのチャンネル権もなし。「お前は何も考えてない!」と怒鳴られても言い返すこともしない。
でも、もしかしたら、本当に何も考えてなかったのかもしれない。ただ、父親が娘を追いかけて家を出て行って一人になってからは、見たくないスポーツ中継も消したし、服装がフリフリになって、うきうきしながら掃除機をかけて、ハッピーではあるようだった。

この状況をなんとかしなきゃ!とか、救わなきゃ!みたいな使命感や気負いはまったくない。兄も何も助言していなかったけれど、置物でなくなるのは妹の前だけなのかな。家出した娘をさがすことも嘆くこともしていなかった。ぽやぽやしながら家の掃除をしている。

でも、本当に何も考えてなかったからこそ、掃除機をかけるときにパソコンのコンセントをブチッと引っこ抜いちゃったんだと思うんですよね…。
そして、パソコンの再起動をする。父が神様なら、母は女神様である。

そこで余命が消えて、カウントダウンが0になった男の子も死ななかった。
これ、新たに余命が設定されて、それが人々には知らされないということだと思うけれど、もしかしたら、不死になったのかもしれない。
空が母の好きな花柄になったり、重力が無視されたり、男が妊娠したりと、好き放題な世界に変わっていた。母、やっぱり何も考えてなさそう…。なので、寿命を無くすこともしそうだと思った。

余命がわからなくなったことで、不便に感じる人もいたのではないだろうか。死ぬ覚悟を決めた人とか、スケジュールを立てた人とか…。
でも、余命表示なんて現実世界にはありえないものだし、元の状態に戻っただけと考えればいいのだろう。
どちらにしても、こんな風に深く考えるのは無粋なのだと思う。海は祝福ムードに包まれていた。

父親はエアを追いかけて人間の暮らす世界に来た。ドラム式洗濯機を使うのはエアと一緒なのだが、まず、大人で体が大きいから上手く通れない、たどり着いたコインランドリーでも不審者扱いされ、催涙スプレーをまかれる。
その他、自分の考えたマーフィーの法則にことごとくひっかかり、「俺は神だぞ!」と叫んでももちろん周囲からはおかしな人だと思われる。
なんとかエアを追いつめても、エアは水の上を歩いていき、父親は水に沈む。父親だけ神の力が消えてしまったようだった。
挙げ句の果てに、ウズベキスタンで強制労働である。というか、この映画の中のウズベキスタンはまるで地獄のようだった。北極の空も花柄になっていたし、世界中がハッピーになったのかと思ったけれど、ウズベキスタンだけは状況が違っていて、この区別はなんなのだろうと思った。

父親は神様とはいえ、完全に悪役の扱いである。家では横暴に振るまい、人間の世界では悪い目ばかりに遭う。最後まで改心もしない。神様の威厳も父親の威厳もなかった。
普通ならば、追いかけてきた父親が改心して、娘との仲も回復、一緒に家に帰って、母親と三人(JCも入れて四人でも)幸せに暮らしましたとさという、家族愛も描かれそうなものだけれど、その辺はまったく無視されていた。エアの家族はバラバラのままである。

映画の終わり方だと、エアはホームレスの男性と男の子と一緒に暮らしていくのが一番良さそうだけれど、この先どうなるのかがまったくわからなかった。
人のお悩みは解決しても、自分の悩みはちゃんと解消されたのだろうか。それとも、父と離れ、家を出て、使徒との出会いがあったことでもうオールオッケーなのか。使徒6人の気持ちはよくわかっても、エアの気持ちは察し難かった。オムニバス6本のあとにエアが主人公のエピローグが付いたら良かったのに。

エアが出会った6人の使徒に「一人一人、音楽を持っていて、私はそれが聞こえるのよ」って言いながら、心臓のあたりにぴたっと耳をくっつけるのがキュートだった。出会ったばかりの女の子が、警戒心もなく急に接触してくる様子が可愛い。カトリーヌ・ドヌーヴが肩を抱いちゃっていたのも、思わずといった感じなのではないだろうか。
あと、「私は泣けないの」と言いながら、小ビンに涙を集めていたのも可愛かった。小さな魔法で、ハムサンドを二つにするのもささやかでおもしろかった。「失敗して片方にハムが入っていない場合もある…」って言っていたのも笑った。

エンドロールが母の趣味の刺繍だった。
作中にも出てきたんですが、エンドロールの曲がAn Pierléの『Jours Peinards』。歌詞が日本語字幕で出ていましたが、父に反抗する娘の曲だった。パンキッシュでかっこいい、ベルギーの女性ボーカル曲です。


是枝裕和監督作品といえば、自然な会話と演技から、観ながら、あーそういうことってあるよね…と自分に重ねてしまうこともしばしば。特に本作は、かつて団地に住んでいて、今でも母親が一人団地に住んでいるということで、私も境遇がまったく同じなので余計に共感する部分やわかる部分が多かった。

初日舞台挨拶付きで観ました。登壇ゲストは阿部寛さん、樹木希林さん、真木よう子さん。是枝監督はまだカンヌ国際映画祭出席中だったため欠席(パネルやメッセージはありました)。

以下、ネタバレです。









最初が小林聡美と樹木希林の会話のシーンだった。小林聡美といえば、『やっぱり猫が好き』でも自然な会話がお手の物だったので、是枝監督作品にしっくりきた。是枝監督作品は同じ俳優が繰り返し使われていることが多いが、小林聡美は初めてだったそう。そんな感じはまったくしなかった。

セリフに「アレだよ」とか「ほら、アレしないと」とか、アレが頻発するのも是枝監督らしい。
セリフでないセリフみたいなのも相変わらず多くて、思ったよりも暑い日だった場合の「半袖で正解だったな」なんていうのは、普通の会話ではよく交わされるものだけれど、映画のセリフとしてはまず出てこないだろう。

また、実家の母が携帯ラジオを買っていて、それが妙に角張った大きなもので、「ロボットみたいだな」と言うのも良かった。ちなみに私も実家に帰ったときに母が携帯ラジオを買っていて、「これ防水?」というまったく同じ会話を交わしました。団地の部屋で。
本当にちょっとしたことだし、そんな会話をしたことを別に誰に話したわけでもないんだけれど、そんなとりたててどうといったことのないエピソードを映画内に出してくるあたりもすごい。
おそらく、震災関連でもあると思う。実家に帰ったら母親が携帯ラジオを買っているという確率も高いのだろう。その辺まで調査してのことなのだろうか?
それとも、実際に是枝監督の経験談なのだろうか。

今回撮影が行われたのは清瀬の団地なのだが、この団地は昭和42年に完成したらしい。私の住んでいた団地は昭和39年とほぼ同じ頃のものだ。古びた様子、特に風呂の汚さが同じだった。また、孤独死が多いという話や高齢化が進んでいる話も同じだ。東京までの距離も同じくらいだろう。状況が似通っている。

ちなみにこの清瀬の団地は、実際に是枝監督が9歳〜28歳まで住んでいたらしい。あの適当な鍵の隠し方、襖に鍵を無理矢理つける…などは住んでいた人じゃないとなかなか描写できない細かいところだと思う。それが話にどう影響するでもない部分だけれど、住んでいた人ならわかるわかると大きく頷く部分である。

本作で良多(阿部寛)は過去に小説で賞をとっているが、それは姉(小林聡美)など自分の身の回りのことを赤裸々に書いていたものだった。姉には「生活を切り売りするのはやめて」と怒られていたが、是枝監督も自分が実際に住んでいた団地を描くというのは同じような感じなのかもしれない。また、舞台挨拶で、是枝監督の父はアウトローだったという話も聞けた。

本作は父親がすでに亡くなっていて、話の内容でしか出てこない。姉や近所の人に金を貸してくれと言ってまわっていた様子、良多からのあんな風にはなりたくないという恨みの感情、淑子(良多の母。樹木希林)からの気にしていないようでいて残っている愛情、でも良多の本を配り歩くような息子を自慢に思っていた部分もあること…。回想シーンはないが、たびたび会話に出てくる内容から、姿がありありと浮かんでくる。亡くなってそこにはいなくても、心には残っていて存在し続けるのだ。

良多の母は飄々としていてあまり気にしていないようでいて、実際は夫を亡くして寂しいはずだ。団地に独り住まい。日々の楽しみはおそらく団地内でのサークルのような、クラシック音楽を聴く会に参加すること。でも別にそこで友達を作るわけでもない。もう毎日が幸せで幸せで仕方ないというわけはもちろんないだろう。それでも生きていく。

台風の夜のラジオで流れてきたテレサ・テンの『別れの予感』。この歌詞、“海よりもまだ深く”がタイトルだったので、なるほどこれか、と思った。タイトルの由来がわかるまで、“海より深く”とか“海より蒼く”とかタイトルがまったくおぼえられなかったけど、もう忘れない。
ちなみにカンヌでも流れていたので海外でのタイトルはどうなっているのだろうと思った。“Deeper than the sea”などで、歌詞に英訳が流れたりするのかな、でも日本語で歌詞が直接聞こえてきたほうがダイレクトに伝わるよなとか思っていたが、『After the Storm』とあまり情緒のないものだった。

“海よりもまだ深く/空よりもまだ青く/あなたをこれ以上愛するなんて/私にはできない”という歌詞を聴いて、淑子は「私はここまで人を好きになったことがない」と言っていた。
この曲はとても美しい。でも、歌は歌。こんな感情は所詮フィクションである。過去にしがみつかず、未来を求めすぎず、日々を愛しなさい、と淑子は良多に話した(その後、「私、良いこと言ったんじゃない?」って言っちゃうところもまたいい)。
これは是枝監督が映画を作る姿勢にも似ているのではないかと思う。綺麗ごとではなく、日常に近い部分を切り取って細かく描く。だから、心に刺さるシーンや共感するシーンが多い。

良多は小説を書いて賞をとったが、それ以降は鳴かず飛ばず、ギャンブルもやめられず、妻は子供を連れて彼の元を去った。もちろん金はない。なりたくなかった自分の父親にも似てきている。
なりたい大人になれなかったことを後悔していたが、この映画に出てくる人物で順風満帆な人生を歩んでいる人などいなかった。まわりをよく見回してみてほしい。

別れた妻だって、子供と二人、住んでいるのは古いアパートだった。母子家庭の貧困が問題になっているがこの二人も例に漏れない。良多がちゃんと働けばこんなことにはならなかったはずだ。だから、新しい彼氏が年収1500万とのことだったが、好き嫌いは別として、好意を持たれたら頼らざるを得ないだろう。彼ともどこで出会ったのだろう。不動産屋で働いているようだったからそこかもしれないし、出てこなかったけれど、もしかしたら夜の仕事もかけもちしているかもしれない。年収1500万だし、出会うところが限られそう。

団地でクラシック音楽を聴かせて講釈をする会を開いていた先生(橋爪功)だって、妻を亡くし、娘は引きこもりである。女性もの服をクリーニングに出していたことから、洗濯すらしていないことがわかる。楽器もやめてしまったらしい。もちろんその娘さんだって、家でおばさん、おばあさん相手に偉そうにしている父親が嫌だから反抗しているのかもしれない。

良多の探偵業での部下(池松壮亮)は何か良多に恩があるらしかったけれど、良多はまったくおぼえていなかったし、映画内にも出てこない。わからないが、どんな場所にもついていくし、お金も貸してあげていたから、相当救われたのだと思う。相当救われたということは、相当何か悪いことや困ったことがあったのである。良いことばかりでは恩を感じることもない。また、これも詳しくは出てこないが両親が離婚しているようだった。

探偵の仕事で会った夫から不倫の調査をされた女性も、実際に不倫をしていたし、服装も派手で水商売なのかなと思う。セリフも名言というか自然な会話ではなく普通の映画っぽいセリフだったのも水商売っぽい。結局、夫も不倫していたようだった。
家庭教師とつきあっている高校生だって、親が警察ということでおそらく隠れてつきあっているのだろう。

良多の勤める興信所の所長(リリー・フランキー)も元警察らしかった。どうして辞めたのか、経緯や理由も気になるが、順調な人生を歩んでいたら警察を続けただろう。何かしら転機となる悪い出来事があったのだ。
良多の強請りまがいの行為を咎める場面、休日出勤してきた時点で、あ、バレたんだなと思ったけれど、あんなにまわりくどく、直前までニコニコしていて本心を出さないあたりが、ただ者とは思えない怖さ。リリー・フランキーらしくもありましたが。

一人一人について細かくは描かれていないが、少しずつ出てくるエピソードで察することができる。誰もがうまくいっているわけではない。良多は自分だけがなんでこんな目に遭わなくてはならないのだというように一人だけ不幸ぶっていたが、そうではないのだ。みんな何かしらの問題を抱えながら生きている。

細かくは描かれないけれどちょっとした映像でわかる部分として、息子と二人でいるときの良多の見栄っ張り具合がある。
スパイクを買ってあげるのに、息子が気を遣って特価品を選んだが、ミズノを買ってやる。ファーストフードを食べるがマクドナルドではなくモスバーガーに入る。自分は何も注文しない。少し後で、家で母親に作ったカレーうどんをたらふく食べていて、ああ、さっき何も食べていなかったからだ…と切ない気分になった。

是枝監督といえば毎回子役の使い方がとてもうまいんですが、今回は子役成分は少なめに感じた。うまいのはうまいですが、出番がそれほど多くなかったかもしれない。
舞台挨拶には息子役の子は来なかったのですが、樹木希林が「撮影したのが二年前で、もう今は成長して青年のようになっているからではないか」と言っていた。

それよりも良多(阿部寛)が目立つ内容だったと思う。
子供に対しても母親に対しても見栄っ張り、金がないくせに宝くじを含めた競輪、パチンコなどのギャンブルにはまるのも良くない。
個人的に一番うわっというかあちゃーというか、頭を抱えそうになったのは、台風のために帰れなくなった元妻と子供が実家に泊まることになった夜、迫ろうとしていたことである。自分がどうして元妻から距離をおかれたのかわかっていないのだろうか。

舞台挨拶によると、こだわって撮られたシーンらしく、テイク数を重ねたらしい。また、最初は足首を掴むことになっていたが、そうすると、足首を掴んで引きずりそうだったので、膝を触ることにしたとか。膝を触るというか、スカートの中に手を入れそうになっていた。これはこれで充分怖かったけれど、足首を掴んでいても何か必死さというか、しばらくご無沙汰の慣れてなさ感が出て怖かったかもしれない。

舞台挨拶は映画内容についてもそうですが、三人ともカンヌから帰ってきたばかりということで、映画祭の様子も聞くことができた。“ある視点”部門に選出され、上映後には7分間スタンディングオベーションがあったらしい。
阿部寛は初めてのカンヌでレッドカーペットを歩いたことは一生忘れられないだろうと言っていた。もし、作品がブーイングを受けても、それはそれで思い出になるからいいのではないかと言っていた。
また、選出はされなかったが、カンヌ常連の是枝監督作品の中では阿部寛と樹木希林が共演した『歩いても 歩いても』が人気らしい。

是枝監督作品は日常が描かれているだけに、過剰にドラマティックなことが起こらず起伏がないと言われてしまうことも多いが、今回は台風が中心になっていると思う。わかりやすい起承転結があったのではないかとも思う。
起が良多がどんな人物か、母親が団地に住んでいるということも含めた説明。承が良多の探偵業やギャンブルなどうだつの上がらない日々。転が台風の夜。そして、結が良多のけじめだと思う。

台風の夜に息子と二人で公園へ行き、遊具の中でお菓子を食べた。風に飛ばしてしまった宝くじ券を妻と息子と三人で探した。かつての家族の絆が少しは深まったかもしれない。でも、別にそれがきっかけでよりが戻るわけではない。
妻は「先に進ませてよ」と言っていた。彼女だって良多が嫌いなわけではない。でも、子供もいるし、愛情だけでは生活していけないのだ。
良多は夜に迫ったのもそうだし、まだやり直せると思っていたのだろう。また、今の元妻の彼氏の身辺調査をして、それでも自分のほうがいいと思っているようだった。未練である。それを、台風の夜に母と話した“過去にしがみつかず、日々を愛しなさい”という言葉を聞いて、ちゃんと断ち切れたのだと思う。
いや、まだ断ち切れてはいないかもしれない。でも、断ち切る決心はしたのだ。



コーエン兄弟監督作品。キャストはジョシュ・ブローリン、ジョージ・クルーニー、スカーレット・ヨハンソン、レイフ・ファインズ、レイフ・ファインズ、チャニング・テイタム、ティルダ・スウィントンなど超豪華。
ちょっと思っていたよりは内容が難解だったんですが、私の想像よりもコーエン兄弟っぽかった。
以下、ネタバレです。







予告で得た情報は、“ジョージ・クルーニー演じる人気俳優が誘拐される”、“チャニング・テイタムやスカーレット・ヨハンソンが同じく俳優を演じている”という二点だった。それで、その俳優たちが結集して、ジョージ・クルーニー救出作戦をたてる…という映画かと思った。
あと、俳優たちが集まって何ができるかといったら、限られてくると思うんですよね。役者にできるのは役者だけである。つまり、偽の映画を作るのではないかと。
ただ、事態を解決するために映画を作るのだとすると、『アルゴ』と同じになってしまう…。

それで、実際に映画を観てみたら、ジョージ・クルーニー演じる人気スターは確かに誘拐される。けれど、目覚めたときに犯人に拘束されているわけでもないし、何かがおかしい。
誘拐した人らも所謂犯人然とはしておらず、インテリのような集団だった。話している内容はちょっと複雑なんですけど、要は共産主義者たちなんですね。だから、人気俳優を誘拐し、資本主義代表である映画業界から身代金をせしめる。

人気スター自体も共産主義者たちとの議論に参加して、ちょっと影響もされていた。シーザーの衣装を着てなかったら、誘拐犯と俳優ではなく、一つのサークルのように見えただろう。別に食事も普通に与えられていたし、外へ出るのも自由、和やかな雰囲気だった。

身代金も、予告編を改めて見返してみたら、スカーレット・ヨハンソンがあたかも色じかけでジョナ・ヒルを騙し、金を集めているような作りになっていたけれど、別にジョシュ・ブローリン演じる映画業界の何でも屋のような役割の人が電話一本で用意させていた。むしろ、身代金要求の電話を待っているようだった。金で解決できるならするからはやく俳優を戻せというように。
更に、一人の俳優がなんとなく知って隠れ家をつきとめ、そのまま車に乗せて戻ってくるというあっさりしたものだった。

力を合わせるどころか、スカーレット・ヨハンソン演じる女優は誘拐されたことすら知らなかったんじゃないかなと思う。そして、誘拐事件はこの映画の中の一つのエピソードにすぎない。主題ではないです。

思っていたよりもいろいろなものがつめこまれた映画だった。
まず、ジョージ・クルーニー演じる人気俳優が撮っていた映画は、シーザーとキリスト教の物語だった。暴君だったシーザーが、キリストとの邂逅により、行動を改める。
これを撮るにあたって、キリスト教の中での宗派や有識者に意見を聞こうとするが、イエス=神?などの意見がてんでばらばらなところが面白かった。皮肉っぽい。
また、映画内でキリストの顔が一切映らないのは、何か意図的なものを感じた。

この映画(映画内映画ではなく)の舞台は1950年代なんですが、誘拐される人気俳優が出ていた映画は『十戒』(1956年)っぽい雰囲気だった。他の俳優たちについても、映画の撮影シーンや映画そのものが映るシーンがあるのだが、たぶん、それぞれについて元ネタみたいなものがあるのだと思う。

スカーレット・ヨハンソン演じる女優が出ていたのは、アクア・ミュージカルというジャンルらしい。やはり1950〜60年代くらいに流行ったもの。シンクロナイズドスイミングの原点で、エスター・ウィリアムズという女優さんが有名らしい。彼女はもともと、競泳選手でオリンピックへの出場も見こまれていたらしい。
スカーレット・ヨハンソン演じる女優が真ん中にいて、その周りを同じ水着の女性たちが囲むようにして泳いでいた。ミシェル・ゴンドリー監督のケミカル・ブラザーズの『Let Forever Be』のPVっぽい感じだ。
上から撮っているので万華鏡のようにも見える。スクリーンが真四角に近いスタンダードサイズなのも合っていた。

上から撮っているので、下からあがってきたスカーレット・ヨハンソンがどんどん近づいて来るのだが、表情がはっきりするにつれ、笑顔を作ろうとしているが引き攣っているのがわかる。
美人なのに、なんとなく品がないのが良かった。ハスキーな声も役に合っていた。

予告ではジョナ・ヒルを騙しているように見えてしまうシーンも、本編ではとても素敵なシーンだった。
ジョナ・ヒルは金次第で何者にもなるという裏稼業の男だった。何を聞かれても無表情で「仕事ですので」なんて言って返していた。
この時の依頼は、スカーレット・ヨハンソンが映画監督と不倫の末に出来た子供を、そのまま産むわけにはいかないので、産んで、養子としてジョナ・ヒルに預け、また養子として受け取るというものだった。
ジョナ・ヒルは慣れた感じで書類に判を押しながらストイックに依頼を受けようとしたんですが、たぶんこの時にすでにスカーレット・ヨハンソンはジョナ・ヒルのこと好きになってしまってたんですよね。ジョナ・ヒルも少しだけ、あれ?という顔をしていた。恋に落ちかけている表情です。あのあと、あっさり籠絡されたのだろうなと思うととてもいい。
結局、二人が結婚することになって、養子云々の話もなくなったという。いいエピソードでした。

チャニング・テイタム演じるミュージカル俳優の映画の元ネタは、ミュージカル『オン・ザ・タウン』(1944年)とその映画化の『踊る大紐育』(1949年)でしょう。水兵ルックで、バーで歌い踊る。
一曲まるまるやるんですが、このチャニング・テイタムが本当に素晴らしい。『マジック・マイク』でダンスのうまさはよくわかってはいたけれど、こんなジャンルのものもできるのかと驚いた。セクシーでドキドキしてしまうダンスもできれば、楽しくて笑顔になってしまうようなうきうきしたダンスもできる。途中でタップダンスが入ったり、少しわざとらしかったりと、まさにあの時代のものです。これだけでも一見の価値ありである。

一応、彼は誘拐犯=共産主義者たちの代表的存在だった。チャニング・テイタムが黒幕ということで某映画を思い出しました。タイトルはネタバレになるので書きませんが。
別に悪い奴ではないけれど、これから悪い奴になっていくのかもしれない。ソ連へ亡命していた。

ちなみに、チャニング・テイタムとジョナ・ヒルということで、『21ジャンプストリート』関連ですが、残念ながら、二人が共演するシーンはなかった。

もう一人は、元ネタというか、1950年代に黄金期を迎えていた西部劇専門のカウボーイ俳優である。
アルデン・エーレンライクという、少しデイン・デハーンに似た俳優が演じていた。彼は、2018年公開予定のスター・ウォーズのスピンオフでハン・ソロの若い頃を演じるとの噂がある(ちなみに監督は『21ジャンプストリート』のフィル・ロード&クリストファー・ミラー)。

カウボーイなので西部劇のアクションはできても、演技力が要求されるラブストーリーには向かない。テキサス訛りも酷い。ラブストーリーの監督はレイフ・ファインズが演じていて、この二人の訛りを直すためのやりとりで爆笑してしまった。最初は穏やかだった監督が徐々に苛ついてくる。
このシーンのあとに、誘拐されたジョージ・クルーニーが出てきて、そういえば誘拐されたんだっけ?とすっかり忘れてしまっていた。それくらい楽しかった。
結局、訛りが抜けなかったセリフは削られ、複雑な表情ができなかったので「複雑なんだ」とセリフで言わせることで切り抜けたのは監督の手腕だと思う。

ただ、出る映画が悪かったというか、合わなかっただけだと思う。彼はただただカウボーイと西部劇が好きな実直な男なのだと思う。
ウエスタン映画でのアクションはすごかったし、誰にも負けないという感じだった。時間が余ったら、一人、縄で遊んでいたし、デート中もパスタで投げ縄を作って、正面に座っている彼女の指を捕まえていた。
たぶん、純粋でいい奴だと思う。

個性の強い俳優たちをまとめ、身代金を調達し、マスコミ対応もするなど、映画スタジオの何でも屋的なポジションの男にジョシュ・ブローリン。『インヒアレント・ヴァイス』『ボーダーライン』『エベレスト 3D』と、最近、一風変わった役が多い印象。

彼は常に何かしらの問題対処のために奔走していて、家にもなかなか帰れないようだった。ただ、やり手のため、飛行機業界からヘッドハンティングの声がかかる。

「テレビの台頭により映画は終わりだ」とか「家族といる時間が増えるぞ」と誘惑され、賄賂まがいのものとして子供たちへのおもちゃも貰ってしまう。

それでも彼は、映画業界に残る。それは、彼の映画愛であり、コーエン兄弟の映画愛でもあるのだと思う。本作に細かく詰め込まれた要素を見ればわかる。また、1950年代に映画を見捨てなかった彼のような人物がいたから、今まだ映画が無くなっていないのだろうとも思う。映画愛であり、映画業界人愛でもあるのだ。





『グレート・ビューティー/追憶のローマ』でアカデミー賞外国語映画賞を受賞したパオロ・ソレンティーノ監督作品。イタリア人監督ですが、登場人物にハリウッド映画監督がいるため、本作は英語作品。
出演は、マイケル・ケイン、ハーヴェイ・カイテル、ポール・ダノ、レイチェル・ワイズと豪華。
本作で『シンプルソング #3』が主題歌賞にノミネートされています。

以下、ネタバレです。







老いて引退した元指揮者フレッドのもとに、もう一度振ってくれと依頼が来て、なんやかんやあって最終的には振る話なのだろうと思っていた。それはその通りなのだけれど、元指揮者のみの話ではなかったのだ。

フレッドはスイスの山奥の施設に滞在していて、そこが何なのか、途中までわからなかった。お年寄りが多いみたいだし、体のケアもしてくれるみたいだし、老人ホームみたいなものなのかとも思った。けれど、若者も滞在している。
山奥で下界とは切り離された世界のため、もしかしたら天国とか、SF的なもの(全員改造されたサイボーグとか)なのかとか、ここにいる人間以外は絶滅した世界なのかとか、これ自体がすべてフレッドの夢なのかとか、いろいろ考えてしまった。
建物内にいる人物たちに共通の目的がある『ロブスター』タイプかなとも思ったけれど、それぞれに繋がりはないようだった。それに、別に閉じ込められているわけではなく、外へは出られるようだった。ただ、異世界っぽくはある。

結局は滞在型の超高級リゾートホテルだったのだと途中で判明する。そういえば、最初のほうで毎年スイスに来ていると言っていたし、別に隠されていた事案ではなく、私の観る力が足りないだけだったのかもしれない。

映画はほとんどこのホテルでの出来事で綴られるため、世間とは隔絶された蠱惑的な世界が描かれている。
マッサージ、泥パック、健康を害してないか医師の診断も受けられ、広いスパやプールもある。食事は毎日、ドレスアップして食べにいく。娼婦も常備。毎晩、歌やパントマイムなどの出し物も見学できる。日中はアルプス山脈を見ながらの散歩。本当にこんな場所があるのだろうか。
泊まっているのも、女王陛下から依頼のくる元指揮者、ハリウッド監督、俳優、“彼”と呼ばれていたけれどマラドーナを彷彿とさせる有名人、ミス・ユニバースと格が違うので、こんな場所が実際にあったとしても、私は泊まることはできないけれど。

映画では、このホテル内での出来事を奇妙に、そして圧倒的な映像美で描写する。
元指揮者フレッドの話が中心ではあるけれど、宿泊客だけでなくマッサージ師の女性も加え、登場人物それぞれについて語られるので、まさにグランドホテル方式の群像劇になっている。

映像美と言われるとアート系とかわかり難いかと思われるし、実際、最初は場所も主旨も本題もわからなかったしわかり難い作品かも…と思ったけれど、観ていくうちに、描かれているのは変に俗っぽいというか、キャラクターがそれぞれ人間味溢れているのがわかる。

細かいエピソードがぱらぱらと出てきてまとまりはないけれど、そのまとまりの無さも夢のように思える。一人について一つのエピソードではなく、二つ三つ出てきたりもする。でも、その一つ一つが意味がないようでいて、今思い出すと、どれもキラキラ輝いている。

元指揮者のフレッドとハリウッド監督のミックという、長年の友人二人が一緒のエピソードだけでもかなりたくさんの話が出てきた。

おしっこが数滴しか出ない話はお年寄り特有の病気話だけれど、昔二人で同じ女性を好きになった話や、喋らない夫婦の宿泊客についての賭けのあたりは年齢は関係なく、ただの友人同士だった。

特に、二人が風呂でゆっくりしているところに、全裸のミス・ユニバースが入ってくるあたりは本当に若返っていた。ミス・ユニバースも最初、一瞬だけ躊躇したものの、お年寄り二人だとわかると堂々とした感じで入ってくる。
お年寄り二人だから、というわけではなく、二人は完璧な裸体の前に動くことができない。女神に魅入るように、ただただ見つめている。
この時、マイケル・ケインが困ったような表情になっているんですが、あれ、切ない顔なんですね。恋に落ちた顔です。この映画のどこかの国版のポスターにもなっているくらい、傑作の表情。
このシーン以外にも裸が何回か出てくるせいで年齢制限がかかっているのではないかと思うけれど、まったくいやらしくない。

二人はそれぞれ、相手に「いい話しかしないから」と言っていた。これが友情が長続きする秘訣なのかもしれない。
二人が一緒の時は一気に悪ガキに戻っているように見えた。友達ってそういうものなのかもしれない。

この他に、一人一人、別々のエピソードもあるけれど、そこでは老いと向き合うシーンが多い。
他の登場人物も、いろいろな話をしていても、結局は過去と未来について話しているようだった。
だから、タイトルは原題の『Youth』で良かったのにと思う。“若さ”とか“青春”とかそんな意味。ユースホステルのユースですね。

全体的に夢のような映像だけど、登場人物が夢を見るシーンも多い。フレッドとその娘レナは父娘そろって悪夢を見ていた。

レナはポップスターに夫を寝取られてしまうんですが、そのあとの夢で、歌手名と曲タイトルが最初に左下に出て、曲が始まるというMVのようになっているシーンがあった。ちなみに、そのMVに出てくる悪魔が自分です。
映像美に特化した映画を撮っている方はよくMVを撮ったりしていることが多い。実際に撮っているいるのかはわからないけれど、作品中に出てくるとは思わなかった。
ちなみに、そのポップスター、パロマ・フェイスはご本人だそうなので、曲もご本人のものなのだろう。こんな遊び心もまじえている。

父娘、二人並んで泥パックをするシーンも良かった。レナは小さい頃から、仕事に没頭して家族を顧みなかった父を恨んでいて、まるで呪詛のような言葉を吐き続ける。長い長いセリフだけれど、カメラはずっとレナを撮り続けている。フレッドがどんな表情をしているかはわからないけれど、泥パックをしているから隣りで動けないのは映像に映っていなくてもわかる。逃げたいだろうに逃げられないのだ。

映像は綺麗でも、そこで描かれているのはただの人間だ。娘の気持ちの吐露を見ていてもそう思えた。

フレッドが指揮をするのを断った理由も、その曲を歌った妻と恋に落ちたから、別の人が歌うのは耐えられないというものだった。
芸術家だから、何か小難しい理由があるのではないかと思ったけれど、ひどく人間味があり映画を観ている側にも理解が出来る。

最後にコンサートのシーンがあるが、BBCオーケストラとソプラノ歌手スミ・ジョーもご本人とのこと。豪華である。

映像とともに一番好きだったのは、ホテルの土産物屋さんのような場所でのシーンである。視線上部には風鈴だかびいどろだか、ガラス細工の何かが下がっている。鳩時計など多くの仕掛け時計が並んでいて、一斉に鳴り出す。
ポール・ダノ演じる映画俳優は一つの出演作が大ヒットしたが他の作品は…という役柄だった。本人はそのヒットした映画はあまり好きではない様子。
「ミス・ユニバースにも、あの映画観ました!(あの映画しか観てません)」というようなことを言われていたし、傷ついていそうだったから、そのガラス細工をめちゃくちゃに壊したりしそうだった。何を考えているかわからなそうな、危うさのある役だったので。
でも、そこへ少女が表れて、その映画ではない映画を観たと告げる。セリフまできちんとおぼえているくらい、ちゃんと観てくれているようだった。少女だし、まるで天使のようにも見えた。
自信を失いかけて、おそらく、こんなことならもうやめちゃおうかなくらいのことは考えていたはずだ。けれど、しっかりと観ていてくれる人もいることがわかった。一人でもいれば、気持ちがまったく違うだろう。人が救われた瞬間が見られた。ほっとしたような、傷の癒えた表情がとても良かった。
また、このシーンはフレッドが左利きの子供にバイオリンを教えるシーンとも繋がってくるのかなとも思った。両方とも、自分が悲観してるほど酷い状況じゃないよというのが示される。

哲学的にも思える名言の数々と、ポストカードや写真集にしたいような名場面の数々。そのすべてについて語りたくなってしまう。あのシーンも良かった…というのがいくつも出てきて(僧侶は本当に浮いてたなとか、“彼”の左利きの話とか、歴代の撮ってきた女優が勢揃いするシーンとか、牛に向かって指揮の真似事をするシーンとか、ポール・ダノのコスプレ風メイクとか)、きりがない。
思い出すと、大切な宝箱をそっと開けたような気持ちになる。
登場人物が全員愛しくて、胸がいっぱいになってしまう映画だった。





ホロコーストのユダヤ人列車移送の最高責任者、アドルフ・アイヒマンの裁判をテレビで放映すべく、奮闘したジャーナリストと映画監督の実話。
テレビのプロデューサー役にマーティン・フリーマン、彼が連れてきた番組を作る映画監督役にアンソニー・ラパリア。  
日本ではマーティンが主演というような扱いだけれど、二人が主演です。

監督は『アンコール!!』のポール・アンドリュー・ウィリアムズ。

以下、ネタバレです。







裁判をテレビで放送するまでのすったもんだかと思っていたが、その部分は少なく抑えられ、裁判自体のシーンが多い。
裁判中にカメラを意識しないように壁の中に隠すとか、判事の何人かの賛成を得ないといけないとか、困難はある。
プロデューサーもナチスから脅迫を受け、それって最大の困難じゃないの?こんなに序盤に出てきてしまっていいの?と思っていたら、裁判が本編で、流すまでの困難は前段階だった。

困難を乗り越えて、最後、裁判シーンが10分間くらいあって、ちゃんと流せました、めでたしめでたしな作品ではない。というのも、実際の裁判が4ヶ月と期間が長かったからだ。
そして、序盤は繋ぎ方とかがうまくないのかなとかテンポが悪いとか思いながら観ていたけれど、裁判に入ってから映画自体のおもしろさも加速する。

監督としては、アイヒマンの人間らしさをとらえたいようだった。そうすることで、悪魔ではなく普通の人間が残酷になる場合があるというのを示したかったのだ。これは、6/17公開の『帰ってきたヒトラー』でも警告のように描かれていることだ。
ただ、プロデューサーとしてはテレビのショーとしておもしろいものを撮りたいから、意見が対立する。
アイヒマンの表情を追うあまり、証言した人が倒れるシーンは撮れていなかったことで言い合いになる。

この二人がまったく正反対なのがおもしろい。
映画監督は寡黙だが頑固。つれてこられた身であっても、こだわりがある。対するプロデューサーはぺらぺらと喋りまくり、軽薄そうだがこちらも頑固。この一見冷たいようでいて実は頑固、飄々としているが家族想いの優しい面もあるという役柄がマーティンによく合っていた。

番組づくりでの意見は対立しても、目の前にいるアイヒマンという大きな存在に対する思いは同じなために、徐々にスタッフを含めて結束していく。

裁判が始まったのが1961年4月11日なのだが、ガガーリンの有人宇宙飛行成功が翌日4月12日、更には1961年1月にケネディ大統領が就任し、4月15日にピッグス湾事件が起こったり、キューバ危機のまっただ中だったりと、視聴者は序盤は別のニュースに夢中だったらしい。
わくわくするような出来事と今現在進行しているニュースのほうが重要で、過去に起こった出来事がもう終わったこととして軽視されるのもわかる。

ただ、ホロコーストを生き残ったユダヤ人の方が証言台に立って語り、そこで何が起こっていたのかが明らかになるにつれ、視聴者は裁判にも目を向け始める。
今では常識だし、教科書にも載っているおぞましい実態や非道な行為が、ここで初めて知らされたらしい。衝撃的で信じられなかっただろうし、それは釘付けになるだろう。

彼らが証言する様子と、それを聞いても口を歪めるくらいしかしないアイヒマンは本物の映像が使われている。

ちなみに、本物のドキュメンタリー映像だけを使った『スペシャリスト/自覚なき殺戮者』という映画もあるらしい。また、関連作として、裁判の傍聴席にいた女性が主人公の『ハンナ・アーレント』もあげられている。
ジャーナリストができること、世間に知らしめるための裏での奮闘という意味では、『スポットライト』とも通じるところがあると思う。正しいと思ったことは反対されても続けることと、意志を通すことは重要だということがわかる。

また、序盤は、写真や証言のみだったけれど、収容所の様子がありありと頭に思い浮かんできたのは『サウルの息子』を観ていたせいもあると思う。ゾンダーコマンダーとして働いていいて生き残った男性も証言していた。字幕には出ていなかったけれど、ソンダーコマンダーというセリフは出てきた。

実際の映像を見せたら、アイヒマンの表情に変化が現れるのではないかと流された映像では、大量の死体がまるで物のように扱われていた。こちらが目を背けたくなるようなものだったが、アイヒマンはやはり少し歪めたものの基本的には涼しい顔。涙の一つも流さない。もちろん謝罪も出ない。

映画監督は映像の力を信じてアイヒマンの表情をとらえ続けたが、変化はなく、何故だとカメラ越しに問い続けていた。けれど、それで収穫がなかったわけではなく、それを観ていた視聴者の気持ちはつかんだのだから、やはり映像の力はちゃんと示されたのだと思う。