ジョン・ル・カレの小説が原作。エグゼクティブ・プロデューサーにも名を連ねていた。2010年刊行なので、最近の作品だった。

良い邦題だと思ったけれど、小説も日本ではこのタイトルだったみたいなので、良い仕事をしたのは映画の人ではなく、出版の人だったらしい。

監督はベネディクト・カンバーバッチの『パレーズ・エンド』のスザンナ・ホワイト。
ユアン・マクレガー、ステラン・スカルスガルド、ナオミ・ハリス、ダミアン・ルイス、マーク・ゲイティスとキャストも豪華。

以下、ネタバレです。







ジョン・ル・カレなので、一応スパイものだけれど、そこまでゴリゴリのスパイものではなかった。脇役というか、巻き込まれる大学教授、ロシアンマフィア、MI6の三つ巴といった感じ。
また、ダミアン・ルイスは『Homeland』と『ウルフ・ホール』からなんとなく印象が悪かったので、今回もどうせ犯人だろと思っていたけれどそうゆう話ではなかった。今までは食えない役が多かったけれど、良い役でした。ラスト付近でエプロンをしながら料理している様子は可愛かった。
そういえば、同じジョン・ル・カレ作品の映画化『裏切りのサーカス』でスマイリー役のゲイリー・オールドマンも慣れない料理をしていた(映像特典にて)。両シーンは原作にあるのだろうか。

普通の大学教授ペリー(ユアン・マクレガー)がロシアンマフィアのディマ(ステラン・スカルスガルド。ちょっと大げさだけれど、ロシア訛りの英語を話している)が偶然レストランで知り合う。ディマのMI6に情報提供する代わりにイギリスへ家族と一緒に亡命させろという希望を叶えるために、ペリーが尽力することになる。

最初、ペリーは相手がロシアンマフィアということで、恐怖心からしぶしぶ従っていたのだと思う。テニスの誘いだって、別に得意なわけではないし、接待のような形で受けていたのだろう。

ところが途中から二人の間に奇妙な友情が芽生えてくる。これはペリーがいい人すぎることもあるだろうし、ディマの家族思いで豪快な人となりのせいもあるだろう。もちろんその人柄を、ステラン・スカルスガルドとユアン・マクレガーが完璧に演じているのがいい。
一歩間違ったら、ディマが映画の中でずっと悪者になってしまう。ペリーが気が弱いだけの人物なら、悪い奴に脅されながら、嫌嫌付き従い、後半で逃げ出すかもしれないし、それが叶わなければディマを殺してしまうかも。この映画では二人の関係は殺伐としたものにはならない。

ペリーは自分から進んでディマとディマの家族を助けていた。後半では、いつか、ロンドンで一緒にテニスをやろうという約束もしていた。そこで、ディマが「ウィンブルドンで!」という冗談を言うのも二人の良い関係が表れている良いシーンだった。
また、二人で話しているシーンで一回だけペリーが顔をくしゃっとさせて笑うシーンがある。ユアン・マクレガーはだいぶ歳をとったので笑うと皺も目立つのだけれど、その顔はとても素敵だった。けれど、それと同時になぜか泣きそうになってしまった。
なんとなく、未来がないというか、約束は叶わないのがそこでわかってしまった。

この映画、序盤に人が残忍な方法で殺されるシーンとセックスシーンもある。序盤に過激な映像を見せておくことで、映画内で何が起こってもおかしくないことが示唆されていると思った。ちなみに残忍な方法で殺されるのはその最初のシーンだけであり、セックスシーンもそこだけである。

様々な妨害と困難を乗り越えて、ようやくディマの乗ったヘリコプターがロンドンへ向けて飛び立つ。そこで、ペリーが乗らなかった時にもとても嫌な予感がした。
飛び立ったヘリは爆破されたのか、砲撃を受けたのか、煙を上げてくるくるとまわりながら落ちていく。派手な爆発などしない。ヘリに乗っている人物が焦る顔も映らない。静かに、けれど確実に殺されてしまったのがわかる。

映画中、何度も、亡命なんてうまくいかないのだろうと思っていた。ペリーだけでなく、MI6のヘクターも尽力していたけれど、結局上司(マーク・ゲイティス)には許しがもらえてなかった。
けれど、ああ、それでもハッピーエンドなのだなと思った時に、それが打ち砕かれる。やっぱりという思いもあり、絶望感もあった。

そして、マネーロンダリングに使われる銀行も何事もなかったようにロンドンにオープンし、イギリスの議員でもある裏切り者ものうのうとのさばったまま…。日常は変わらない。無力感だけが残る。
そんな虚しい終わり方なのかと思ったら、ディマが文書を残してくれていたという…。

その発見方法も粋だった。ディマの形見とも言える銃をペリーがヘクターに渡しに来る。ヘクターは「これで自殺しろってことか?」と笑って冗談のように言っていたけれど、一人残った時に銃と向き合っていて、本当に自殺してしまうのかと思った。けれど、ヘクターはなにか、逆らえない大きなものに向かってなのか、銃を構える。そこで、中に入っていた丸めた紙に気づいたのだ。
そこにはマネーロンダリングに使われる銀行口座と名前が書かれていた。これで一網打尽にできる。

本当だったら、ディマも生きてイギリスに亡命できたらよかっただろう。ディマは居なくなってしまった。ほろ苦さは残るけれど、それと同時に爽快さも感じられるラストだった。
ジョン・ル・カレ原作ものは『裏切りのサーカス』と『誰よりも狙われた男』しか観ていないけれど、ほろ苦さは共通している。

今回、主演の二人はもちろん良かったんですが、ダミアン・ルイスが役柄もあってとても良かった。スマイリー三部作みたいな感じに、ヘクターシリーズ出てほしい。

あと、ディマの妻、タマラ役のサスキア・リーヴスもとても良かった。マフィアの妻らしく、最初はツンとしていたんですが、ディマにネクタイを結ぶシーンでは少し叩いたりとディマよりも強い気丈な面の見えた。ディマが一人ロンドンへ飛び立つ前には長いキスをして、ちゃんと愛情のあるところも見えたし、ヘリ爆破の一報を聞いた後には、みんなから離れた場所まで駆け出して声をあげて泣いていた。劇中ではほとんど喋らないし、出番もそんなに多くないのですが、どんな人物か完璧にわかったし、印象深いキャラクターだった。


リブート版(クリス・パインがカーク艦長役)三作目。
『スター・トレック』と冠してあると、過去作を見直さなきゃいけないのではないか…と考えてしまい、ハードルが上がってしまうかもしれないけれど、過去のスター・トレックシリーズはもちろん、リブート版の過去二作を観ていなくても楽しめる。
単体で、構えず軽い気持ちで観ても大丈夫だと思う。
もちろん、知っていると楽しいという隠し要素もあったのだと思います。

以下、ネタバレです。








狛犬のようなエイリアンを見上げながら、カーク艦長が何やら交渉をしているシーンから始まる。声も低いし、勝手に大きいサイズを想像していたら、交渉が決裂して襲いかかってきたのは子犬サイズのエイリアンだった。命の危険は大量に襲いかかってくるため鬱陶しい。結局、二、三匹連れたまま転送されて事なきを得る。
このコメディ風味のオープニングで本作のカラーが大体わかった。

軽快なやりとりや軽口のたたき合いが今まで以上に多い。これは、脚本にサイモン・ペグが関わっているからではないかと思う。しかも、だいぶ彼の色が多く出ていると思った。

別の星に墜落し、機体ばらばら、クルーは一部捕虜になってしまい、それ以外の無事だった人たちもばらばらになってしまう。
しかし、クルーをばらけることで、キャラが見えやすくなるし、少人数の方が会話も楽しめる。

また、捕虜の奪還作戦においては、少人数が役割分担をし、エンジニア、医者などその人が自分の仕事をこなすということで、現在よくある形の個人がそれぞれ精一杯のことをするお仕事映画でもあると思った。

これはこれでおもしろいのですが、陸上戦でもあるため、少しこぢんまりしてしまっているかなとは思った。

この後、宇宙に出て行って、混乱させて敵の連携を崩すために大音量で音楽を流すという作戦を立てる。かなり盛り上がるシーンである。ここで何を流すんだろうと興味津々だった。そこで、「ビートと叫びよ」と言って、プレイボタンを押して流れ出したのは、ビースティ・ボーイズの『Sabotage』! 他のどの曲にも間違えようがない、あのめちゃくちゃかっこいいイントロ! 思わず映画館のイスに座り直してしまった。
これ、予告編で使われなくて本当に良かったと思う。サプライズでこの曲がくるからこそ効果がある。
ここまで、おもしろいけれどちょっとスケールが小さいかな…と思いながら観ていたけれど、最高の場面で最高の曲が流れ、本作の私的評価が一気に上がった。

戦闘は宇宙からコロニー内に入っていく。ここで出てくる都市がリングの内側に住居があるというか、重力が無視された上も下もない空間なので、そこを飛ぶのは狭いせいもあるけれどスリリングだった。

敵の正体は結局、かつての宇宙探査船の艦長だった。カークと同じ立場である。カークは本作で冒頭から悩んでいて、艦長の座を退こうとしていた。けれど、悩んだ末に悪の道へ進んでしまった元艦長を諭しながら、自分をも諭していたのだと思う。

この元艦長役がイドリス・エルバでびっくりした。謎の物体に包まれながら宇宙空間へ消えていき、あの胸に付けていたバッジがぽつんと残るという最期だったけれど、より凶悪な姿となっての再登場もあるのだろうか。

カークは今回の旅と戦闘を終えて、悩みを克服し成長した。最後には「次の旅に出るのが楽しみだな!」というようなことも言っていた。
それと同時にスポックも序盤はもうやめるというつもりでいたようだった。彼は亡くなった父に想いを馳せていた。
元祖スポックを演じていたレナード・ニモイが去年亡くなったが、亡くなった父の写真というのもレナード・ニモイであり、作品内で発せられた追悼のメッセージでもあったのだと思う。

そして、本作の公開直前にはアントン・イェルチンが亡くなっている。
最後のカークの誕生日パーティーでカークが乾杯の前に、「そして亡き友に」と言っていて、一瞬、アントンのことかと思ってしまったけれど、映画内で亡くなったクルーたちのことである。アントンは元気そうに、グラスを傾けていた。パーティーでもロシアジョークで女性を口説こうとしていた。

亡くなったなんて信じられないと思っていたが、最後に、“レナード・ニモイへ”という言葉が流れ、その後に“そして、アントンへ”と流れた。本当に残念でならない。



タイトルではわかりにくいけれど、リブートではなく、ボーン三部作の続編。
主演はマット・デイモン、監督は『ボーン・スプレマシー』、『ボーン・アルティメイタム』のポール・グリーングラス。

最初の『ボーン・アイデンティー』が2002年、『ボーン・アルティメイタム』ですら2007年公開であり、鑑賞したのはもっと後だったとも思うけれど内容はほぼ忘れてしまっていた。
本作を鑑賞した後、三部作を見直してみました。

結果、内容を忘れたまま、ボーンと一緒に記憶を辿る旅に出ながら観るのも楽しかった。けれど、ボーンの大体の素性とCIAとの関係くらいはわかっていた方が混乱しないかもしれない。

以下、ネタバレです。三部作についてのネタバレもあります。









一緒に記憶をさぐっていくとは言っても、『ボーン・アイデンティティー』で出てきた時にはまるまる何の記憶も無かったボーンですが、本作では色々と思い出してきている。私よりも事情がわかっているようだった。

CIAに作られた殺人マシーンというのも観ているうちに思い出したので、最初は、ボーンはCIAに属しているのかいないのか、そもそも、ボーンが主人公で善だとすると、CIAは本作では悪になるのかなどがよくわからなかった。
けれど、善悪というよりは、ボーンは元はCIAに属していたけれど、記憶を失ってからは過去を捨てたいと思っていて、もう戻りたくないと逃げ、CIAがそれを追いかけるという構図でした。

また、今旬の女優、アリシア・ヴィキャンデルがCIAの新人職員として出てきて、ボーンを影で手助けしていたので、きっと二人は恋仲になるんだろうなと思っていたらそうではなかった。

そもそも、ヘザー(アリシア)が接触を図ってきて、ボーンがヘザーのことを調べた時に、ヘザーの顔はそっちのけで経歴に注目していた。美人ですが、顔写真はパソコン画面でスクロールされてしまっていたのだ。
ボーンが顔なんて見ていないというのがわかる良い演出だと思う。

ヘザー自体も色仕掛けなど使わないけれど、ボーンも全くなびかないし、事態が収まってもキスなんてしない。
ヒロインとも違って、男でも女でもどっちでもいい役だったと思う。

結局、ヘザーも良心というよりは野心で行動していたのがラスト付近でわかって、これは小さなどんでん返しだと思うんですが、しかし、ボーンはそれすらも見破っていた!という大きなどんでん返しが控えているのが素晴らしい。
どこへともなく、一人去っていく背中が小さくなり、“お馴染みの”テーマ曲のイントロが流れてきて私は全てを思い出しました。

そうだった、共通のテーマ曲があるのだ。それがキメのシーン、思わずニヤリとさせられるシーンの後でイントロがかぶるように流れ出して、エンドロールが始まる。まるで連続ドラマのようだ。
同じ歌が始まって、そうだ、こうだったこうだったと思い出したので、音楽の力の強さを痛感した。

気になって見直した過去三部作ですが、ボーンの父親のことが過去作にも出てきているのかなと思ったけれど、今回初めてだったっぽい。あと、ヴァンサン・カッセルとかトミー・リー・ジョーンズとか豪華だけれど、今回初めて出てきていた。
ヴァンサン・カッセルは字幕では“作戦員”となっていたけれど、過去作でいう工作員なのだと思う。工作員という言葉が何らかの事情で使えなかったのか、はたまた誤訳なのかは不明です。そもそも、作戦員という言葉があるのかどうかもわからないけれど。

本作ではヴァンサン・カッセルが作戦員(工作員)、トミー・リー・ジョーンズがCIA長官だったけれど、過去三部作でも、工作員をクライヴ・オーウェンやカール・アーバン、CIA長官をクリス・クーパーやブライアン・コックスが演じていたりとそれぞれ豪華。

改めて過去作を観てみると、CIAがボーンを追い、ボーンは逃げるが仕向けられた工作員と戦うことになる。ラストはまた一人、影の中へ消えていくという流れが同じであり、それは、本作にも引き継がれていた。
あと、カーチェイスがある。

本作のカーチェイスは工作員がSWATの装甲車を盗んでゴリゴリ走っていく。公道で普通の乗用車が蹴散らされていてパワーがものすごかった。しかも、そのままカジノに突っ込んでいく。そんなだから、車はどんどん壊れていく。

このシーンだけではないのだけれど、ポール・グリーングラス監督の特徴でもある手持ちカメラが多用されている。特にカーチェイスから殴り合いのシーンは、酔いはしないものの、ひと段落して画面が暗転した時に、目がほっとしていた。ちょっと疲れました。

一作目の『ボーン・アイデンティティー』の別パターンのエンディングがDVDに収録されていたので観たのですが、マリーの元にボーンが戻ってきて、長い長いキスをして、その周りをカメラがぐるぐる回って、感動的な音楽が流れているというロマンティックすぎるものだった。
採用されたのは、マリーの経営するレンタルバイク店にボーンがふらっと現れる。マリーは驚きながらも、レンタルの会員証を作りますか?みたいにわざと客に接するような態度をとると、ボーンが「身分証?持ってないんだ」と言うという、記憶をなくした男という面もちゃんと出しているし、ベタベタしすぎないし、完璧な終わり方だった。
ここでボーンのキャラが決定づけられたのではないだろうか。

マリーは次作の冒頭で殺されてしまうけれど、その先、ボーンは誰も信じない、ほぼ笑わない。硬派な一匹狼である。それは、9年ぶりに公開された本作でも同じだった。
つまり、ボーンを演じるマット・デイモンが、変わらず恰好良いのである。




イギリスの古典文学、ジェーン・オースティンによる『高慢と偏見』(1813年)の世界にゾンビをミックスした作品。この原作も小説です(2010年)。

両方とも原作は読んでいません。1940年のローレンス・オリヴィエ版も未見。
1995年のドラマ版は観たのですが(過去の感想『高慢と偏見』)、2005年の映画版『プライドと偏見』は観ていなかったので、今回予習として観ました。

以下、ネタバレありです。
『プライドと偏見』についてのネタバレも含みます。









ダーシーがどこかの家(ベネット家ではない?)で、普通の人間に紛れていたゾンビをあぶり出して退治するというシーンから始まった。こんなシーンはもちろん、本家にはありません。なので、名前だけ本家と同じにして、ダーシーというゾンビハンターが活躍するストーリーなのかなと思った。

しかし、このアバンが終わり、オープニングが入って本編が始まると、「ビングリー邸に若い殿方が越してきたわよ」と母親が本編と同じセリフを色めき立って言う。ただ違うのは、それを聞いている5人姉妹がみんな銃を磨いているということです。この子たちも、ゾンビを倒すための訓練を積んでいる。

続いて、ビングリー邸の舞踏会へ参加するのも同じなのですが、ドレスの下にナイフを忍ばせている。

舞踏会でビングリーがジェーンを見初めるのも一緒、エリザベスがダーシーと会うのも同じである。
しかし、舞踏会にはゾンビが乱入してくる。それを5姉妹が中国で習った少林寺拳法を駆使して倒すのだ。クラシックな衣装のままやるのが面白い。
この、5姉妹がばったばったとゾンビを倒していくシーンが痛快だったし見応えがあったので、後半にもう一回くらいあると良かった。前半のここのみです。

話の流れは大体同じだし、名セリフはちゃんと残されている。コリンズ氏のプロポーズを断ったエリザベスに母親が激怒し、父親に「あなたからもなんとか言ってやってくださいよ」のシーンの「プロポーズを断ったら母さんと絶縁、受けたら父さんと絶縁だ」というセリフ。また、ダーシーとエリザベスの甘い言葉のやり取りの長いシーンが、二人で手合わせしながらになっているのも面白かった。

また、ドラマ版の『高慢と偏見』で話題になった水濡れダーシーのシーン。『プライドと偏見』にはなかったんですが、本作ではわざわざ加えられている。ちゃんと白いシャツに着替えていたけれど、飛び込んだ池が苔だらけですごく汚くて笑った。押さえるべきところをちゃんと押さえられていて、本家へのリスペクトを感じる。

基本的には『高慢と偏見』なんですね。でも、途中途中でゾンビが乱入してくる。だから、タイトル通り、まさに『高慢と偏見とゾンビ』だった。

キャサリン夫人は、ドラマ版でも映画版でもキーキー言ってて怖かったんですが、本作ではとてもかっこいい。伝説のゾンビハンターみたくなっていた。黒い眼帯姿です。

いとこのコリンズ牧師はベネット家の遺産相続人なんですが、ベラベラ喋るわ空気を読めないわで、憎めないところはあるけれど、結婚するとなるとちょっと…というキャラクター。ただ、場が和むというか、作品中で一番愉快なキャラクターでもある。
本作にも出てくるのかなと思っていたら、なんとこれがマット・スミスで驚いた。でも、マット・スミスは出てくるの知っていたし、途中まで出てこないからもしかして牧師なのかな…と思っていたら、本当に牧師で笑ってしまった。

『プライドと偏見』ではコリンズ牧師をトム・ホランダーが演じている。ダーシーと並んだ時にちんちくりん(165センチ)で、これはとてもかなわないなというのが見て取れる。
ただ、マット・スミスは182センチである。ダーシーを演じるサム・ライリーは185センチとそれほど変わらない。
元々マット・スミスが好きなこともあるけれど、ペラペラと喋る様子もキュートに見えるし、このコリンズ牧師なら全く問題なく結婚できると思ってしまった。

後半のリディアとウィカムの駆け落ちの後は、ゾンビ問題を片付けねばならないのでオリジナル展開だった。まあそうなるかなとは思うけれど、ウィカムが原作よりもかなり悪者です。
映画版『プライドと偏見』ではジェーンとエリザベス以外の姉妹にはほとんど触れられていなかったが、本作もほとんど出てこないし、見せ場(?)である駆け落ちもなんとなく問題が片付く感じでちょっとかわいそう。舞踏会でピアノを弾いて怒られるシーンも本作には出てこなかった。
だからこそ、ますます五人で戦うシーンがもっとあったら良かったのになあと思う。

悪役ウィカムを演じているのがジャック・ヒューストン。『キル・ユア・ダーリン』でジャック・ケアルックを演じていた(ちなみにウィリアム・バロウズを演じたベン・フォスターの出演する『インフェルノ』の公開ももうすぐ)。

ラストというかエンドロールのあたりのあれは、続編があるということなのでしょうか? それともあれはあれで終わりなのかな。原作だとどうなっているのだろう。

『高慢と偏見』にうまくゾンビが混じっているし、アイディアはとても面白いけれど、ゾンビ映画としてはどうなのだろう。別に怖くはないです。グロさもない。ゾンビ自体もゾンビというより大怪我をした人みたいに見えるし、コミュニケーションを取れたりもする。 知恵も使っていた。走ってくる。一応、脳は食べていたけれどゾンビっぽくはなかった。

パロディ元の『高慢と偏見』を知らずにこの作品をいきなり見た場合はどう思うのかわかりませんが、元の作品がよくできたラブストーリーだし、ラブストーリー部分はわりと忠実だと思うので、この作品だけ観ても伝わるのではないかと思う。けれど、ドラマ版か映画版、どちらかを観ていた方が楽しめる部分も多くあった。

個人的にはドラマ版が好きです。原作があるものだし、時間の関係もあるのだと思うけれど、映画版はドラマ版の総集編のように見えてしまった。
あとやはり、ドラマ版のダーシー、コリン・ファースがとても素敵です。








ポーランドの巨匠、イエジー・スコリモフスキ監督の新作。
『エッセンシャル・キリング』の監督であり、ロマン・ポランスキーの『水の中のナイフ』のセリフも書いている。
最近では『アベンジャーズ』にも出演し、俳優としても活躍している(冒頭のナターシャを尋問しているロシア人役)。

5時から5時11分の間に登場人物たちの間に起こる出来事を視点を変えながら描く群像劇。

以下、ネタバレです。









登場人物が多い作品であり、時間とカットがかなり細かく刻まれているので、観ている途中で図を描きたくなる。また、ホットドック屋の主人が「世界で一番長いホットドックは何センチでしょうか?」みたいなクイズを出すシーンがあり、その後ろを別の登場人物が通りかかったりしていて、なるほど、これとこれが同じ時間なのねというのがわかったりもする。わかったりもするが、やはり混乱もするので、図を描きたくなる。

登場人物全員がちょっと不穏な雰囲気になっているので、殺人でも起こるのかなと思ったけれど起こらない。最初に出てくる登場人物の、妻がホテルの個室でのオーディションに出かけてしまい嫉妬する夫も、ホテルの部屋の前で死にそうな顔をしてウロウロしていたけれど、別に妻が殺される危機ではない。せいぜい貞操の危機である。妻の貞操の危機というのも大変だとは思うけれど、そこまで必死になることかなとも思ってしまった。

ただ、部屋の中では監督が駆け引きをしながら妻を誘っているし、ホットドック屋の主人はどうやら学校で何かやらかして捕まっていたようだし、バイク便の男は家で留守番をしていた人妻と何かしていたところを夫に見られそうになるし、ゴンドラに乗って建物の修復をしていた男はその建物の一室の女性とポルノ映画を見ているし、少年は質屋に盗みに入って主人の首吊りを見てしまうし、パンクファッションの女性は元彼の部屋を燃やすし、救急隊員は部屋になかなかたどり着けないし、外で絵を描いていたおじいさんの絵には黒いシミが付いてしまうし、全体的に不穏なのだ。

おじいさんの絵もそうだけれど、登場人物の何人かは空に黒いシミを見ていた。監視カメラには謎の黒い点が付いていて拭いても消えない。不穏さと相まって、何か悪いことが起きそうな予感だけは漂っている。

11分間というのは中途半端なようだけれど、監督としては「単純さとシンメトリの美しさに魅かれた」とのことだった。
10分ではなく11分というのが実はミソで、人は10分を境というか合図にして行動を起こす。キリがいいから。
そして、その結果、全てが破滅する。

群像劇というのは、最後に奇跡が起こる場合が多い。その奇跡で、最後は丸く、平和に収まるじゃないですか。全員とは言わないまでも、ほとんどの登場人物に平穏が訪れる。一人一人ではどうにもならないことでも、袖振り合うも多生の縁ではないけれど、出会わないはずの人と偶然出会って、事態が解決する。

けれど、この映画の場合は、奇跡が全て悪い方向に作用する。
夫がホテルの部屋に突撃する。消火器を持っていて、それから泡が出て、見事に転ぶ。監督は具合の悪くなった妻を介抱しようとベランダでお姫様だっこをしていて、それに向かってすっ転んだから、監督も妻も落ちていく。落ちる途中で、ホテルの建物の修復をしていた男性のゴンドラを巻き込んで一緒に落ちていく。男性の手にはバーナー。下に落ちて、大爆発。下を走っていたのは、盗みの少年とパンクの女性、シスターと絵描きの老人が乗ったバスと、バイク便の青年の後ろにホットドック屋の主人が乗ったバイクと、妊婦と救急隊員を乗せた救急車。
登場人物が奇跡的に一同に会し、その全員が巻き込まれた。

呆然としてしまった。群像劇でこんなラストってあるのだろうか。

この事故現場が無数の監視カメラの映像に紛れる。無数のありふれた風景の中、最後にはドット抜けのように、黒いシミになっていた。何も特別なことはない、よくあることだとでも言うように。

黒いシミと合わせて、何か、登場人物の罪と罰みたいな話だろうか。私が知らないだけで、キリスト教の何かなのかもしれない。
登場人物が7人で七つの大罪だったかなと思ったけど、嫉妬が一人と、色欲が多数みたくなってしまったので違いそう。それに、シスターや救急隊員たちは別に罰せられるようなことはやっていない。

監督のインタビューでは、「悪夢の積み重ね」とか「いつ事故に巻き込まれるか、我々は少し先のこともわからない」という話をしていて、キリスト教は関係なさそう。

アバンは、携帯カメラとかパソコンのカメラ、刑務所の監視カメラを使ってのファウンドフッテージで、スクリーンサイズよりも小さく、黒い枠ができてしまっていた。これもなんだか不穏だったのだけれど、監督の話によると登場人物の墓地なのだそうだ。死んでしまっても、これらの映像は残り続ける。映像の中では彼らは生き続ける。文字通りの後から見つかった映像ということだった。墓地なら不穏なのもわかる。

また、犬(監督の飼い犬だそう)目線のPOVがあったり、登場人物の正面にべったり張り付くカメラ(アクションカムの自分撮り?)など、流行りの映像手法が取り入れられていて、とても78歳とは思えない感覚に驚く。
最後のシーンも落ちていく人物を上からという撮り方が面白かった。恨みとかではなく、驚いたような表情で落ちていくんですね…。表情と、空中でおかしな形に曲がった足などをとらえる。
クライマックスのようなシーンだったので、ここを映画の最初に持ってきて、ここに至るまでの過程を描く映画にするパターンはよくあると思うんですが、そうしなかったのは正解だと思う。最後の衝撃が全く違う。

また、音も不穏だった。低い位置を飛ぶ飛行機の轟音がなんども出てきて、落ちるんじゃないかなと不安になる。
街の様子をぐるりと一周見渡す映像では、車の音や人の声など街のノイズが鳴って、無音になり、またノイズが鳴って…と交互にやられ、これも不安になった。と同時に、なぜか『ハイ・ライズ』を思い出した。あれも、何かわからないけどモヤっとした気持ちになるのは同じだった。
ただ、どちらも嫌なんだけれどクセになるというか。スカッとして明るい気持ちになる映画ばっかりではありきたりで楽しくない。このタイプはこのタイプで好きです。