アカデミー賞で編集賞と録音賞を受賞。作品賞、監督賞、主演男優賞などノミネート。
監督はメル・ギブソン。主演はアンドリュー・ガーフィールド。

公開前には戦争描写がだいぶゴア要素が強いらしいという話しか入ってこなかったけれど、沖縄戦が舞台だった。浦添市が公開一週間くらい前に情報を出していて初めて知りました。
あくまでも主人公の生き様を描く映画であり、舞台になったのがたまたま沖縄だっただけとか、日本兵が殺されるシーンがあるからなど、沖縄戦ということが伏せられた理由は考えられるけれど、沖縄が舞台ということで逆に興味を持つ人もいただろうし、宣伝の前面に押し出しても良かったのではないかとすら思う。
アメリカ軍側から描いているから日本は敵ではあるけれど、『アンブロークン』のような感じには悪者ではない。けれど、『アンブロークン』など公開までだいぶ遅かったし小さいスクリーンでほんの短い期間しかやらなかったことを考えると、伏せないと大きなスクリーンで流せなかったのかもしれない。

軍隊入りを志願したが、キリスト教徒のため人が殺せないから武器を持たずに戦争へ行った男の実話。

以下、ネタバレです。









戦争シーンの話ばかりが入ってきたのでほぼ全部のシーンが戦っているシーンなのかと思っていたけれど、前半は主人公デズモンドが入隊を志願するまでと入隊し訓練を受けるシーン、後半はハクソー・リッジでの戦争シーンをがっつりという感じだった。

アンドリュー・ガーフィールドについて、そこまで演技の上手い俳優という印象はなかったけれど、前半と後半で全く表情が変わり、まるで別人のようになっていて驚いた。
前半はややぽやぽやしたおぼっちゃんのようで、にこにこしていて人柄の良さがよく出ていた。一目惚れから急速に恋に落ちて結婚するまでの思い込んだら一直線の様子は、後半で出てくる彼の信念の強さを示唆していたのかもしれない。映画では病院で会うけれど、実際は教会だったらしい。

後半というか入隊してからは表情がきりっと引き締まっていた。実際に痩せたのかもしれない。
信念を曲げないというと厳しい人かとも思われるけれど、前半で見せた優しさはちゃんと残っていて、アンドリュー・ガーフィールドの甘めのルックスとよく合った役だと思った。

デズモンドはキリスト教の『汝、殺す勿れ』という教えに基づき、訓練でも銃を持つのを拒否する。
アメリカでは宗教上の信念を理由に戦争に参加しない者を良心的兵役拒否者と呼び、認められていたらしい。
けれど、デズモンドは殺したくはないが、戦場へは行きたかった。衛生兵として、戦場で仲間を助けたかった。だから、銃は持ちたくないけれど、除隊はしたくない。もちろん、刑務所にも入りたくない。

この映画のポスターには、『世界一の臆病者が、英雄になった理由とは』と書いてある。
しかし、映画内で、デズモンドは仲間や上官などから散々臆病者と言われていたが否定していた。それを、観ている側(宣伝もこちら側だと思っている)くらいは信用してあげようよと思った。味方になってあげようよ。宣伝までもが彼のことを臆病とか言っちゃったらだめでしょ。
それに、本作は臆病者が勇気を出すとかなんとかして英雄になるなんて話ではない。そもそも臆病者ではなく、もともと彼は強い。それは、後半の戦場シーンを観ればわかることだ。観ていたら絶対に彼のことを臆病者なんて書けないはずだ。

日常、軍隊での訓練と一応順を追うが、急に戦争シーンが始まる。
入隊してから、デズモンドは銃を持つことを拒否し、観ている私も認めてやってくれと思っていて、無事に認めてもらえた時は良かったね…と穏やかな気持ちになっていた。
けれど、戦争の中にいざ放り込まれると、本当に武器なしで大丈夫なの?と焦ってしまった。

どんなものを想像していたのかと言われそうだけれど、思っていたよりも戦場は厳しい場所だった。
耳をつんざくような銃声は止まない。足元には遺体がごろごろ転がっている。その遺体は内臓が内臓が飛び出しているものもあれば、人体の一部が欠損しているものもある。ハエがたかっているものやねずみが食っているものもある。
ハクソー・リッジを登る前に、地図と実際の地形の違いを説明する先行部隊が嘔吐していたけれど、あの様子を思い出してのことだったのだろうし、観る私たちへの覚悟しろという警告とか予告のようなものだったのだろう。

ライフルだけでは間に合わず、重火器で焼き払っても、日本兵はわらわらと飛び込んでくる。あまりの厳しさに夜間に一度撤退することになるが、デズモンドは助けてくれという声を聞いて、一人残って救助をする。あと一人あと一人と言っていたがキリがない。
もやい結びで一人一人、崖の下に下ろしていったのも実話らしい。手は当然ロープで擦り切れている。

撮り方もあるのかもしれないけれど、戦地の只中に置かれたようで怖い。主人公というか、共感する相手が、武器を持っていないほうが、まるでそこに自分もいるようなリアリティがある。

夜だから、どこから敵が攻めてくるかわかりにくい。ジャン!という大きな音とにゅっと人が出てくるようなびっくり演出が二回ほどあって、びくっとしてしまった。やめてほしい…。

周囲が明るくなって、彼自身も撤退した時には心底ほっとした。自分も戦場から逃れられたようだった。

けれど、すぐにまたあの地獄のような場所に戻ることになって愕然とする。当たり前だけど、陥落してないから、生きている者はまた戻っていくのだ。厳しすぎてげんなりする。

それでもそんな中で、デズモンドが夜間にせっせと運んで救われた人が多数いる。もちろん放って置かれたら死んでいたことが濃厚な兵士たちだ。だから、最初は銃を持たないなんて臆病だと罵っていた兵士たちも、銃を持たずに人を助けたいとかバカ言うな戦場だぞと信じていなかった上官たちもデズモンドのことを認める。
実際に救われた人々を見れば認めざるを得ない。
だから、他の兵士たちが信心深くなくても、戦場に行く前のデズモンドの祈りが終わるのを待っている。あの極限状態で人をあれだけ救ったのだから、天使か神様のように思えただろうし、再び戦場に行く際には守護神のような存在として連れて行きたかっただろう。

キリスト教的な話だし、立派な人の半生を描いているということから、なんとなくクリント・イーストウッド風味を感じた。
しかし、過酷な戦場をぎりぎりまで過酷に描くのはメル・ギブソンだなという感じもする。
前半のデズモンドのかたくなさと優しさを描くことも必要だし、そんな彼があんな状況の中で武器を持たず人を救ったという説得力を持たせるために後半を厳しく描かれなければならなかったのだろう。ゴア描写が過剰なのは仕方ないと思う。

デズモンドのような少し変わっているが立派な人の話が今まで映画化されなかったのは、デズモンド自身が映画化を拒んでいたかららしい。1945年、終戦の年に名誉勲章を大統領から授かったらしいが、その後何年も静かに暮らしたというのはなんとなく穏やかな彼の人柄が見えるようだ。承認を与えたのは2006年に亡くなる数年前だったらしい。


ガイ・リッチー監督。
一応、アーサー王やエクスカリバー、キャメロット城などはでてくるけれどワードだけ借りたという感じ。円卓の騎士を知らなくても大丈夫だと思う。ただ後述しますが、知っているにこしたことはない。

最初のロゴが出るところから3D演出っぽいのだが、全国でも数えられるくらいの劇場でしか3Dでの公開はない。

また、最初はサブタイトルに“聖剣無双”と付いていたが、いつの間にか取られてしまった。内容がまさに聖剣無双だったので付いていて欲しかったけれど、権利関係だったのだろうか。

以下、ネタバレです。








最初に装飾を付けた巨大な象が大暴れしていて、なんとなく『300<スリーハンドレッド>』を思い出していたのだけれど、戦う人数が多い様子からも思い起こさせた。また、バトルシーンで急にスローモーションになる様子もザック・スナイダー監督のようだと思った。
大迫力のバトルで期待していたのだけれど、ドラマパートで退屈になってしまった。

ガイ・リッチー監督によくあるようなカット多めでちゃかちゃか進んでいくあの手法が何度か出てくる。最初、アーサーが幼児から少年を経て大人役を演じるチャーリー・ハナムになるまでが早かったのはテンポがいいなと思った。

過去の回想を現在の会話に織り交ぜながらやる手法や、これから起こる未来のこと例えば作戦などを話しながらその映像を入れていくのもとてもガイ・リッチーらしい。
しかし、本作では最初のアーサーの成長シーン以外は逆に動きが止まってしまったり、テンポが悪く感じてしまった。いつものガイ・リッチー映画なら好きな演出である。

理由はよくわからないのですが、作品のテイストと合わないのだと思う。両親を殺され、売春宿で育った男が復讐を果たす話だ。多少重めである。
ちゃかちゃかしたカット割りをするには粋さが足りない。軽いセリフまわしも少なかった。

だから、Sam Lee & Daniel Pembertonの『The Devil and The Huntsman』の地を這うようなメロディーと重々しい歌声は映画によく合っていた。
また、ラストで、父の背中に刺さるはずだった聖剣を寸前でがっと受け止めるシーンは感動的だった。
もっと重い作りにしてしまっても良かったと思う。

あと、いくらピンチに陥っていても、聖剣の力周囲の敵が一掃されたり、魔術師が巨大な蛇を出したりと、それがオッケーならなんだってできてしまうというのが後出しされて萎えてしまう場面もちらほら。
ただ、これもガイ・リッチーにはよくある力技かなとも思う。

思い切って、監督のいつものカラーは決して欲しかった。けれど、そうすると、ガイ・リッチーが監督をする意味がなくなってしまう。いつものガイ・リッチーは好きだけれど、その作風を持ち込んでほしくない内容だった。

アーサー役のチャーリー・ハナムですが、結構マッチョでもあるので、聖剣を引き抜くのも選ばれし者というより力ずくに見えてしまう。またそれほど細かい機転がききそうには見えないのだけれど、罠なのを察したりしていた。真っ先に突っ込んで行きそうなところを他の人に「罠だ!」と止められる側のキャラだと思う。

また、日本のキャッチコピーが“スラムのガキから王になれ!”だし、貧しい育ちという設定だから衣装が簡素なのは仕方ないが、アーサーが終始、寝間着みたいな格好なのはどうにかならなかったのだろうか。
チャーリー・ハナムの好きなのだが、華がなさすぎた。敵側のほうが恰好良く見えた。

部下の鎧も恰好良かったが、なにしろアーサーの父親ユーサーを殺した弟のヴォーティガン役のジュード・ロウが恰好いい。
『ピウス13世』のことを思い出すと、コスプレが似合うのかもしれないし、暴君役が似合うのかもしれない。王冠を退屈そうに手で弄んでいる様子なども良かった。

序盤で鼻血を出すシーンや泣くシーン、後半では返り血を浴びて血まみれになるシーンもあり、ある特定のフェチの人(私もそうです)向けのサービス映像だと思った。これは、ガイ・リッチーだからこそ入れたものかもしれない。

ただ、ジュード・ロウがこれだけ恰好良いのだから、ラストバトルはジュード・ロウの姿で戦って欲しかった。生贄をささげて悪魔の力を得るのはいいけど、姿まで悪魔になることないだろう。アーサーとの一騎打ちは美しいジュード・ロウで行って欲しかった。一番の見せ場を消してどうする。

父を殺した異形の者と同じ姿にしたかったのかもしれないけれど、なら、父を殺すのもジュード・ロウの姿で良かったと思う。どうせ後ろから狙っているんだし。何度か目を光らせていたし、姿を変えなくてもそれで悪魔に魂を売ったことはわかる。

剣と剣を交えさせたかったから筋肉質の大男的なものに変えたのかもしれないけれど、ジュード・ロウの姿で魔術か何かを使って剣術をさせることもできたはずだ。ここまで何でもありで来てるんだし。そもそも、大男との戦いも大した剣術じゃなかった。

なんでジュード・ロウ姿じゃないんだ…と思いながら観ていて、バトル後、ジュード・ロウの姿に戻ったときにアーサーが手の甲にキスをするシーンがあって、やっぱりジュード・ロウで観たかったと再確認した。残念だ。

ラストで一緒に戦った仲間をパーシヴァルなどと名付けていて、最後の最後で円卓が出てきてにやりとさせられた。
私は映画は終わり良ければ…派なので、途中が退屈でもこのラストで許したんですが、これはアーサー王関連の話を知っているからである。
だから、本作を観るにあたっては知らなくても大丈夫だと思うけれど、知っているにこしたことがないというのは最後でにやりとできるかできないかというところなのだ。

ところで、私はラストバトル中にピンチになったところにマーリンが参戦するんだと思ってたんですね。他にも、グィネヴィアやランスロットなど、『アーサー王の伝説』での有名どころが出てきていない。

円卓が出てきたのもラスト、名付けられたのもラスト、そして主要人物が不在…これってもしかして続編が作られたりするのだろうかと思って調べてみたら、続編どころか、全6部作構想らしい。

本作で一番良かったジュード・ロウは出てこない。けれど、アーサーも王になったし、もう少し華があるようになるかもしれない。一応復讐は終わったしストーリーのテーマもそれほど重くもならないかも…。そうすれば、ガイ・リッチーの作風と合うかも…。そもそもガイ・リッチーが続編も撮るのだろうか。
なんとなくの不安は残るけれど、おそらく次作からは円卓の騎士まわりの知識はあったほうが良さそうだとは思う。



『ローン・サバイバー』、『バーニング・オーシャン』に続くピーター・バーグ監督&マーク・ウォールバーグ主演の実話もの。今回はボストンマラソンの爆弾テロ事件を扱っている。

この二作の実話ものは観ていないので評判はいいけれど出来自体を確かめていないのと、マーク・ウォールバーグが険しい顔で銃を持って警戒しているポスターから、アクション映画なのかと思っていた。
音楽がトレント・レズナー&アッティカス・ロスだったからでなければ観ないつもりの作品だった。
これが大傑作であり、本当に観て良かったと思う。逃すところだった。

アクション映画ではなくほぼドキュメンタリーだった。実際の映像も多く使われている。私はBS世界のドキュメンタリーっぽいと思ったけれど、他にもまる見えとかアンビリバボーなどとも言われているようだ。
最近公開された中だと『ハドソン川の奇跡』にもテイストが似ていると思う。

映画を観たあとで事件のあらましを確認したところ、かなり忠実なようである。

事件は2013年と最近だし、センセーショナルだったので記憶も新しい。犯人も背負ったリュックを置いたとか圧力鍋とかくらいは知っている。だから、犯人探しの映画だったら退屈だと思った。
けれど、犯人は最初に出てくるし、企んでいる場面も少し出てくるから誰なのかはわかる作りになっている。
警察やFBIが追いつめる過程も描かれているが、もちろんそれらも緊迫感があるのだが、それだけではない。

警察やFBIの中の人々にもスポットが当てられているが、それ以外にも被害者、ボストンの町の人々、MITの学生など、個人個人がつぶさに、丁寧に描かれる。
登場人物が多い、群像劇とも言える形がとられている。

以下、ネタバレです。
ネタバレといっても、事件を知っているならばその通りです。









まず最初にテロ事件の起こる前夜が描かれる。
それぞれの普通の夜だ。仕事から遅い時間に帰ってきてワインとピザを食べる。「明日はパトリオット・デイ(愛国者の日)だからマラソンを見に行くか野球を見に行くかしよう」と話している。
普通の人々の普通の生活である。
場面が変わっても静かで穏やかな音楽が流れ続け、人々の平和な生活がすべてひとまとめに繋がっているのがわかった。まだ事件は起こっていない、平和な日常。

そのまま静かに夜があける。
マラソン大会で爆発が起こることはわかっているからひやひやして観ていた。ただ、映画内の人たちは爆発が起こるなんて知らないし、マラソン大会を楽しんでいる。いつの間にか私もそちら側に感情移入していたようで、完全に油断するタイミングで爆発が起こったので、かまえてたはずなのに驚いてしまった。なぜ気を抜いていたのだろう。もしかしたらここでも日常の穏やかな音楽が流れていたのかもしれない。

爆発で人々の日常が一気に崩れる。
事件を知らないでマラソンを続けてる人が走って突進してきたり、ちぎれた肉片を見てあれなに?とパニックに陥る人がいたり。
前夜の様子やマラソンを楽しむ親子の様子が描写されていたため、被害者の顔がちゃんと見えてくる。
本当に普通の人々が巻きこまれたのがわかる。

何をしたわけでもないのに急に巻きこまれる様子は、なんとなく事件というより自然災害のような印象を受けた。
また、一緒にいた家族が混乱の中で離れ離れになってしまう様子からも『インポッシブル』を思い出した。
ひとごとではない、自分と重ね合わせられて、自分がその場にいるのが容易に想像できるので、怖くて涙が出てくる。

ただ、いくら急に降りかかってくる悪夢というのは同じでも、今回は自然災害ではない。人が起こしたことだ。防ぐことはできる。

序盤に出てきて、マラソン大会の現場にいない人物については、どのように事件に関係があるのだろうと思いながら観ていた。
登場人物の多い群像劇だが、それだけ多くの人が一つの事件で影響を受けたのだ。

MIT POLICEとパトカーに書いてあったので、MITにもなると専用の警察が常駐してるのかとも思ったけれども、どうやら警備員的な役割らしい若者。彼は、MITの学生をデートに誘い、寮のような場所で仲間とはしゃいでいた。
彼も普通の男の子である。しかし、テロの犯人に銃を奪われ、殺されてしまった。なんと理不尽なのだろう。
このようなマラソン大会の爆発以外の事件にまつわる犠牲者が出ていたのは知らなかったが実話だった。

犯人の友達のMITの学生も出てくる。犯人が防犯カメラに映った画像を見た彼らが犯人に「お前か?」とメールを送る。はっきりとは肯定されなくても確信し、けれど、特に通報などはせずにいつも通りに暮らしていたけれど、警察にメールのやりとりをしたことが見つかり、ゲームで遊んでいたところに突入される。
彼らも実在したらしいのだが、捜査妨害で刑務所行きになっていてはっとした。
なんとなく、そんなに重大なことだと思わなかったけどよく考えればそりゃそうだ。たぶん、実際の彼らも重大なことだと思ってなかったのだと思う。隠蔽という自覚もなかったのではないか。

中国人のビジネスマンのような男性は国に両親を残しながら、アメリカで成功しようとしていた。お金ももっているらしく、女の子にモテるという理由でベンツに乗っていた。この人もマラソン大会の現場にはいなかったのだが、犯人に車ごと拉致されてしまう。
間一髪逃げ出して通報するが、これが犯人を追い詰める決め手になったようだ。
逃げ出す前に音がぐわっと大きくなり、逃げ出すシーンで緊迫した曲に変わるのは、少しベタな気もしたので、もしかしたら映画だけの演出なのかと思ったがこれも実話。知らなかった。

またこの後で、かなり大規模な町中での銃撃戦があるが、これも実話とのこと。アメリカ、危険すぎる。家にはこんな時用なのか、シェルターもあるようです。住民がハンマーを投げて「これを投げて!」というのはおもしろかった。

ここまでほとんどずっと音楽が流れていたけれど、銃撃戦のシーンでは無音になり、銃声だけが響いていた。
音がずっと流れているのも緊迫感が持続するのに役立っていたと思うが、流れていた音楽が急に止まって無音になるのもそれはそれで緊迫する。
音の作り方もうまいけれど、緩急のつけ方というか、ここぞというときに音楽を止めることで効果を最大限に発揮できるのもうまい。
そこまで主張するわけではなく、意識して聴いていないとずっと流れていることに気づかないような、ふわーっとした音楽なのだ。私はトレント&アッティカスということで、意識して音楽を聴いていました。

もう一つ、緊迫感のあるシーンは犯人の妻を尋問するシーンである。何者だか、作中での言及はないけれどFBIからも一目置かれていた。急に声が低くなるなど、凄みをきかせていた。しかし、妻はイスラム教徒であり女性だから夫を裏切れないということでかたくなな姿勢を崩さない。結局尋問官が根負けしたのか、気持ちを察したのか折れることになる。
犯人の妻役にメリッサ・ブノワ。スーパーガールのイメージが強かったのですが、だいぶ違っていて驚いた。

他にもJ・K・シモンズやケヴィン・ベーコン、ジョン・グッドマンなど有名な役者さんが出ているが、どの人も個を殺しているというか、全体の一部になっているように感じた。
あとで確認してみたところ、実在の人物にかなり似せているのがわかった。

途中ではさまれるオバマ元大統領の演説がはさまれた。これは役者さんではなく、実際の映像だったが、訴えかけてくるものが大きく、その力強さに涙が出た。

最後にも実際の映像が流れる。地元の野球チーム、レッドソックスがユニフォームにチーム名ではなくBOSTONとつけて試合をし、オルティーズが挨拶をしていた。
そして、警察を呼び、球場からは拍手が起こっていた。

現場にいて、命は助かったものの足を失った男性は、再開したボストンマラソンに参加し、完走していた。爆発した時に現場にいたのだから、怖さもあっただろう。何より、片足がない中で、走る練習をするのも辛かったと思う。
それでも、決して負けないという姿を見せた。

パトリオット・デイに起きたテロだから映画はこのタイトルだけれど、それだけではなく、愛国者の日というそのままの意味も含まれていたのだと思う。
もちろんテロなど起きない方がいいし、許せないけれど、それをきっかけに結束が強まった。

ひどい事件をひどく描くサスペンスではなく、それをきっかけに、人々の決して負けないという強さや、なんとしても犯人をつかまえるという正義が描かれていた。
青臭くてもなんでも、それ以上正しいことなんてないだろう。

日本のポスターだとアクションサスペンス調だったけれど、海外版のポスターは靴紐の色合いでアメリカ国旗が作られているというものだった。一人の靴紐なら二本だけだけれど、このポスターからは複数の人の気持ちが見えてくる。素晴らしいデザインと思う。

(画像はサントラCD)






原作はイギリスのベストセラー小説『A Monster Calls』。一応ジュブナイルもののようです。
原案シヴォーン・ダウド、原作パトリック・ネスとなっているのは、シヴォーン・ダウドが乳がんで執筆途中に亡くなっており、パトリック・ネスがそれを引き継いだとのこと。
監督は『永遠のこどもたち』『インポッシブル』のJ・A・バヨナ。

以下、ネタバレです。








最初にフェリシティ・ジョーンズとシガニー・ウィーバーの名前が出て、フェリシティが姉かな?と思ったら、母親役だった。でも。若い母親という役どころだったのでいいらしい。

家にいる母親は病気で、学校ではいじめられて…ということで、主人公コナーには心を落ち着ける場所がない。彼は空想するのが好きなようだった。だから、怪物が出てくるということを聞いても、彼の空想上のものなのだろうと思っていた。白昼夢か実際の夢なのかはわからないけれど、実在しない、彼の心の中だけにいるその怪物の力を借りて、いじめっこに復讐をしたり、つらい現実を乗り切るのだろうと思っていた。

怪物というと悪い奴のイメージだけれど、映画に出てくる怪物は直接被害は加えない。姿形は恐ろしいし、威圧的ではあるけれど。大きな木が動き出したものである。
彼は三つの話をするから、最後にお前が物語を話せという。この望みもなかなか特殊だと思う。

怪物の話す物語は、アニメというかCGというか、実写ではなくなっておもしろい。もしかしたら、本作はほぼ怪物の話すストーリーでできていて、半分はアニメだったりするのかなとも思ったけれど、そうではなかった。

怪物のボイスのキャストがリーアム・ニーソンなんですが、彼の声がとてもいい。物語を話す口調が落ち着いていて、包み込むようで。コナーも怪物の話に「なぜ?」などと相槌を打っていて、夢中で聞いているようだった。もしかしたら、唯一落ち着ける場所を見つけたのかもしれない。
母親も病気だったし、誰かから読み聞かせてもらうことも初めてだったのかもしれない。

怪物の話す物語は、そのアニメイラストも相まって幻想的だったが、内容は考えさせられるものだった。誰が悪いかは一概に言えないもの、矛盾しているようでも世界はそうゆうものだと思わされるもの。
一般的なジュブナイル文学がそうであるように、少年は物語を聞いて、その上体感して、ひとまわり成長したようだった。

そして四つ目のコナーが話す物語である。心の奥底は悪夢となって現れていたようだ。コナーは悪夢の内容を話す。自分と向き合って、本当に思っていたことを認める。
本当は母親が長くは生きられないことがわかっていて、その日を待つのがつらいから、夢の中では母の手を離してしまった。殺したのは自分だと。
実際に殺したわけではもちろんないけれど、夢の中での行為が現実に影響を与えると思っていたようだし、手を離したいと一瞬でも考えてしまったことをずっと後悔しているようだった。

だから、父親にも祖母にも友達にも先生にも罰せられるのが当然だと思っていたし、罰してほしかったのだろう。罰せられることで、何か赦されると思っていたのかもしれない。

けれど、ずっとそんなことを考えてしまったことで悩んで、心の奥底にしまっておくよりも、逃げずにいっそ吐き出して、認めてしまった方が楽にはなるし、死を受け止める覚悟もできる。

結局、怪物ってなんだったの?というのは明らかにはされない。少年を成長させるために、少年が作り出した空想の産物? つらい現実を乗り切るためのシェルター? もちろんその一面もあるのだとは思うが、エピローグを見ていると、もっと不思議な事実がありそうだった。

はっきりとは示されないし、ここからは私の想像でしかない。ちょっと気になったのは、コナーの祖父は写真でしか出てこないけれど、これがリーアム・ニーソンなんですよね。写真はちらっとしか出ないし、ただ単に、怪物の声がリーアム・ニーソンだから姿もちょっとだけ見せちゃうよ、というファン向けサービス精神なのかもしれない。けれど、考えすぎなのかもしれないけれど、祖父がリーアム・ニーソンというのがヒントであるとしたら。

祖父…、病気のコナーの母親の父ですが、彼もはやくに亡くなっているようだった。コナーが幼い頃のビデオには、祖母向けのメッセージしかなかったので、もしかしたらコナーが生まれる前に亡くなっているのかもしれない。

コナーの母親は美大に行くのを諦めてコナーを産んだらしいので、その前に亡くなっているとなると、もしかしたら十代で父親を亡くしたのかも。
コナーが母親を亡くすのが13歳。母親も同じ年齢のあたりで父親を亡くしていて、コナーとまったく同じ気持ちになったことが考えられる。

コナーの母親は美大には行けなかったけれど、水彩画が好きで、コナーにも教えていた。ラスト付近では、彼女の昔のスケッチブックが出てくるが、そこには怪物が話してくれた物語に出てきた王妃や、調合師が描かれている。
ここで、コナーが最初に怪物に目を覆われた時に、水彩画が見えると言ったことや、怪物の話す物語が実写ではなくアニメ調だった理由もわかった。

ということは、怪物はコナーの空想の産物ではなく、もっと不思議な力が働いていたのだろう。それか、小さい頃に母親から読み聞かせてもらった物語をコナーがすっかり忘れてしまっていたのかもしれない。

コナーの母親は父(コナーの祖父)と仲が良さそうだった。写真でも、まだ小さい母親が父親に抱きついていたし、父から譲り受けた『キングコング』をコナーと一緒に観ていた。『キングコング』はイラストもスケッチブックに描いてあった。

そして、スケッチブックには、小さい女の子とあの怪物が一緒に描かれている。女の子は怪物の肩に座っていて、仲が良さそうだった。女の子はコナーの母親だろう。祖父役がリーアム・ニーソン、怪物の声がリーアム・ニーソンということは、怪物は祖父なのではないだろうか。

だから、もしかしたら、コナーが忘れてしまった、かつて母親に聞いた物語は、母親が父親(コナーの祖父)から聞いた物語だったのかもしれない。それを聞いて、スケッチブックにイラストを描いたのかもしれない。
祖父役なのは本当にカメオで、リーアム・ニーソンが一致しているのは関係なく、イラストもストーリーも母親作の可能性もある。
原案のシヴォーン・ダウドが作家であることを考えると、彼女の自伝的な意味合いもこめられた作品でもあるなら母親作だろうか。

母親は亡くなる前にコナーに「100年一緒にいられたらいいのに」と言っていた。病気でなくてもそれは無理な話だ。でも、物語を受け継いでいくことで、もしかしたらそれは可能になるのかもしれない。





マイク・ミルズ監督。脚本もマイク・ミルズで、アカデミー賞脚本賞にノミネートされた。
1979年のサンタバーバラが舞台。
実際に観ないとわからないような、不思議な雰囲気のある作品だった。

以下、ネタバレです。








ルームシェアと言ってしまえば簡単なんだけれど、もっと複雑で、でも実在しそうなキャラクターたちが描かれている。

夫と別れたドロシア。息子のジェイミーは15歳で反抗期気味。父親がいないせいもあるのか、おませさんだ。幼なじみのジュリーに思いを寄せている。
ジュリーはジェイミーより少し年上で、母親がセラピストでセラピーの会に強制参加することでおそらく逆に病んでしまい、いろいろな男性と関係を持っている。けれど、ジェイミーとは親友だから肉体関係は持たないようにしている。頻繁に遊びに来ては、夜添い寝して帰っているようだった。
ドロシーの家を修理しているウィリアムは修理に便利だからなのか、なぜか一緒に住んでいる。元ヒッピーで大地がどうの、瞑想がどうのと少し胡散臭い。女性にはもてるらしい。
もう一人の居候アビーは赤い髪の毛が特徴。パンクとアートが好きなカメラマン。ニューヨークへ行っていたけれど、子宮頸がんの疑いで地元サンタバーバラへ帰ってきた。

ドロシア、ジェイミー、ジュリー、ウィリアム、アビーの五人全員が主人公とも言える内容だった。

夫と別れたドロシアはパワフルで仕事もこなすし、ジェイミーが学校に行きたくなければ自由にさせていたし、理解のあるサバサバした母親なのかと思っていた。きっと、同居のウィリアムと結婚し、新しい家族になるのだろうと思っていたが、実際の人生がそうであるように、映画内でもそううまくはいかない。
ドロシアだってサバサバしているように見えて、息子が好むような最近の音楽がわからずに知ろうとして苦労するし、一緒に住んでいるからといって、それだけの理由でウィリアムと結婚することはない。ウィリアムと話が合わないからだ。ジェイミーも同じことを思っている。

1979年の夏の短い期間だけが描かれるが、それぞれの生い立ちが軽く説明されることで、どんな人間なのかわかってくる。
それぞれが悩んでいて、その悩みは唐突に現れたものではなく、すべての流れからそりゃそうなるよね…と納得させられるものばかりだった。
だから、登場人物が本当にいる人物のように見えた。

それもそのはず、ドロシアはマイク・ミルズの母を、アビーは姉をモデルにしているそうだ。また、マイク・ミルズがそだったのもサンタバーバラらしい。ドロシアを演じたアネット・ベニングは母親が好きだった映画を鑑賞したり、アビーを演じたグレタ・ガーウィグは姉の読みそうな本を読み、聴きそうなレコードをかけ、実際に話もしたらしい。

ドロシアは1999年に亡くなる。亡くなるシーンは流さずに、ドロシアのナレーションで、“私は1999年に死ぬ”とひとごとみたいに入るのがおもしろい。死は本作ではそれほど重要ではない。
20世紀が舞台だから、ドロシアは大恐慌時代を生きた女とか言われているし、カーター大統領の演説をみんなで見ているシーンも出てくる。
その当時に流行った音楽、クラッシュやトーキング・ヘッズ、バズコックスなどが豊富に使われいるだけではなく、パンク対ニューウェイブといったような文化的な背景も使われている。ジェイミーがトーキングヘッズのTシャツを着ていると、パンク少年にバカにされたりなど、性格だけではなくて好みからも人物が立体的に浮かび上がる。おそらく、マイク・ミルズ(51歳)の好みがパンクからニューウェイブに移り変わっていった時期を参考にしているのだろう。
アビーもルー・リードとかDEVOのTシャツを着ていたが、これもマイク・ミルズの姉の好みだろうか。

個々のキャラクターが悩みを抱えながら、ドロシアの家で奇妙な関係を築いている。すごく近い関係だけれど恋愛ではない。セックスもしない。いや、する人もいるし、淡い恋心を抱いている人もいる。けれど、誰と誰がくっついてめでたしめでたしという単純な話ではなく、歯車は微妙に噛み合わない。
でも、終盤のみんなでダンスをするシーンでは一瞬だけ噛み合ったのかもしれない。
ここだけではなく、悲しくても楽しくても、踊るシーンの多い映画だった。これもパンクのクラブなどのことを考えると、時代背景もあるのかもしれない。

ドロシアは息子について悩み、別れた夫以外に誰かを好きになることができるのかと悩む。ジェイミーのジュリーに対する恋は成就されない。ジュリーも親しすぎてセックスできないというのはどうなのかと思う。アビーもがんではなかったにしても子供に希望は持て無さそうだし、アーティストとしても成功できなさそう。ウィリアムは何を考えているかわかりにくかったけれど、人と濃い関係が築けないことに悩んでいるようだった。
全員、具体的には違うけれど、漠然とした将来への不安は抱えていたし、もう全員のことが愛しくなっていたから、幸せになってほしいと思っていた。

1979年の夏のことだけ描かれているが、彼らにはこれまでの人生やこれからの人生もある。これまでのことはざっと説明されたが、終盤でちゃんとこれからの人生についても教えてくれる。
全員があっけなくバラバラになっていた。映画内で描かれた濃密に思えた時間も、人生の中では一部だというのがわかっておもしろい。

ただ、全員が幸せになったみたいで観ている私も幸せな気持ちになった。映画を見終わった後だと、サンタバーバラの海をバックに五人が並んでいるポスターが一層素敵に見える。

キャラクターがいきいきしているのは描き方のせいもあるけれど、命を吹き込んだ役者さんたちの力もある。

ドロシアを演じたアニット・ベニングはタバコをふかしながら気丈に振舞っているパワするな女性だし、笑顔も素敵だけれど悩んでいるのもわかる演技が素晴らしかった。笑った時の顔のシワも美しい。ちょっとデヴィッド・ボウイにも見えた。
ジュリー役のエル・ファニングは透明感があって、いろんな男性と関係を持っているという役柄だったがいやらしく見えない。妖精のようだった。
アビー役のグレタ・ガーウィグは『フランシス・ハ』のフランシス役だの女性だと知って驚いた。と同時になるほどと思った。どこか、心に傷を抱えているような演技が良かった。
ウィリアム役のビリー・クラダップは、内面があまり見えなくて年齢も不詳で悟りをひらいたような役で、これはこれでうまい。
ジェイミー役のルーカス・ジェイド・ズマンは撮影期間2ヶ月とは思えない、どんどん大人になっていく演技が素晴らしかった。ドラマ出演が多いらしいけれど、映画でも観る機会が増えそう。


『LOGAN/ローガン』



『X-MEN』のキャラクター、ウルヴァリンのスピンオフ作品。また、ヒュー・ジャックマンが演じるウルヴァリンの最後の作品となる。最初の『X-MEN』が2000年なので実に17年である。

監督は『ウルヴァリン:SAMURAI』のジェームズ・マンゴールド。『ウルヴァリン:SAMURAI』はあまり好きではなかったけれど、本作は素晴らしかったです。
以下、ネタバレです。



原作は『Old Man Logan』。映画を観る前に売店でこのコミックスが売っていて、表紙のローガンがタイトル通り老いて見えたが、実際の映画でも初老だった。

2029年が舞台だが、ローガンはリムジンの運転手をしているが、どうやら寝泊りもその車の中で家もないようだった。瓶から直接酒を飲み、そのまま運転をするなどかなり荒れている。
また、刺青の入った医者から薬を受け取っていた。体調も悪そうだし、荒廃しきっている。

その薬もドラッグなのではないか、ローガンはアルコール中毒でドラッグ中毒なのか?と思いながら観ていたら、それはチャールズあての薬だった。
けれど、ホッともしてられないのは、チャールズのほうこそ年老いていて、痴呆気味で力を操れない。危険だから光の射さない巨大なタンクの中に閉じ込められている。

予習のつもりで前日に『X-MEN:フューチャー&パスト』を観ていたのだが、だいぶ雰囲気が違う。二人から精気が感じられない。衰退が感じられる。それに、『フューチャー&パスト』ではほかのミュータントも多数出てきてワイワイしていた。危機を迎えていても死ぬときは一緒だというか、戦うのにも協力していた。
『X-MEN』といえば、シリーズ通してそのイメージだ。互いの得意な能力で補いながら敵をやっつける。
しかし、『ローガン』の世界ではミュータントは絶滅寸前。しかも二人とも衰退している。お手伝いとしてキャリバンもいるが、彼も早々に離脱してしまう。

キャリバンを演じたのがスティーブン・マーチャントで驚いた。ローガンは金を貯めて船を買い、海上でチャールズと暮らそうとしていたようだ。おそらく、それで静かに死んでいこうとしたのだろう。キャリバンは太陽の光に弱いため、そこにもついていけない。
また序盤で敵側に捕まってしまう。自爆でローガンたちの危機を救うけれど、ローガンたちはそれを知らない。
死んだ後も遺伝子を採取されていたようだった。もしかしたら最後にヴィランとして出てくるのかと思ったけれどそれはなかった。
スティーブン・マーチャントだし、出番としてもう一声欲しかったけれど、もう一声あったところで結局かわいそうな役どころだったと思う。

それに、かつての仲間がヴィランとして大復活というような派手なシーンは本作にはない。もちろん、キャリバンがひっそり自爆しても、仰々しくローガンを助けに来る展開もない(途中で離脱した仲間は後半で助けにくる法則)。チャールズの危機にエリックが助けに来ることもない。エリックなんて話にも出てこない。
もっと、渋くて重くて、じっくりと腰を据えて観る作品なのだ。

だから、『X-MEN』シリーズ恒例だけれど、最初のロゴマークでFOXのXだけが印象的に残る効果も今回はなかった。そうゆう映画ではないのだ。

一番派手だったのは、チャールズの能力が暴走したシーンかもしれない。画面の揺れのせいか、音のせいか、4DXでは観ていないのに、鑑賞しているだけでもダメージが与えられて、静まると心底ホッとした。

ヒュー・ジャックマンとパトリック・スチュワートがうまいのはもちろんだけれど、少女、ローラ役のダフネ・キーンの演技も素晴らしかった。
研究所でウルヴァリンの遺伝子から作られた少女で、同じように爪を出せる。喋らないが、凶暴で、瞳はつねに周囲を威嚇しているようだった。

ストーリーはほとんどロードムービーである。コミックスに描いてある、本当に存在するのかわからないEDENというローラが研究所で一緒だった子供たちがいる場所を目指す。
目的地は存在するのかわからないし、研究所の人間は追いかけてくるし、幸せなロードムービーではない。

中盤、逃亡ロードムービーでは定番の一般家庭を巻き込んでしまうシーンがある。荒んだ心の三人が困っている農家の三人を助け、家に招待してもらう。けれど、そこに追っ手が来てしまう。

チャールズはこんな楽しい夜は久しぶりだと言っていた。そりゃそうだ。外も見えない、陽も射さないタンクの中に一人きりで、一体どれくらい長い間か閉じ込められていたのだろう。
けれどその直後、チャールズはウルヴァリンのクローンに殺されてしまう。

ローガンも束の間だけれど普通の家庭を味わえたのだろうか。娘(ローラ)と父親(チャールズ)と一緒にいる気持ちになって、少しでも安らぎを得ただろうか。
しかし、最後には農家の父親に銃を向けられる。彼らのせいで息子と妻が殺されたのだ。また一つ恨みを向けられる。

チャールズが死に、見ず知らずの優しい家族が殺され、恨まれる。
ローガンが、これもローラのせいだと思っても仕方がないだろう。ローラもローラで子供らしい面もないから、二人はベタベタした関係にはならない。笑顔もない。
そもそもローガンは、一人で(それかチャールズを看取ってから?)静かに死んでいこうと思っていたはずだ。それなのに巻き込まれたような形である。

でも、ローラが悪くないこともわかっているし、自分の遺伝子が使われているから娘のようなものである。それに、自分と似たところがあることもよくわかっていたはずだ。だから、ベタベタしていなくても、確実に絆は生まれていた。

終盤でローガンが「愛した人は全員傷つく」と言うと、それにローラは「じゃあ、私は安心ね!」と怒ったように返していた。
間接的に私のことは愛してくれないんでしょ?と伝えたような形で、ここでこの子がさみしかったのだと気づいた。

EDENとして示されていた場所に、子供たちは集団で暮らしていた。ローガンの髭をハサミで切ってくすくす笑うなど、子供らしい面もあった。それがウルヴァリンカットなのが泣ける。ローラだけではない。子供たちにとって憧れのヒーローだ。

ミュータントとしての特殊能力も望んではいないものだと思う。けれど、子供たちはそれを使って追っ手を殺していた。劇中に『シェーン』の一部が出てきて、「いいことであっても、人を殺せば一生つきまとう」というようなセリフが印象的に使われている。
ローガンはそれでずっと苦しんだのだろうし、子供たちもこの先それで傷付くのだろう。

ローガンとローラの悪夢についてのやりとりもあった。ローラは傷つけられる夢を見ると言い、ローガンは傷つける夢を見ると言う。どちらも同じく胸が痛むのだろうし、ローラや他の子供達が見る悪夢も、次第に傷つける側に変わるのかもしれない。

この映画の予告編でナイン・インチ・ネイルズの『Hurt』のカヴァー版が使われていた。予告編を見たときにはなぜカヴァーのほうなのだろうと思ったけれど、映画を観ると、なるほど、ジョニー・キャッシュが70歳で歌ったカヴァー版のほうが合っている。

ナイン・インチ・ネイルズが1994年にリリースしたアルバム『The Downward Spiral』に収録されている曲である。この時、歌ったトレント・レズナーは29歳。ドラッグやアルコールに溺れていて、自傷行為などについて歌われた曲とも言われていた。

それはそれで恰好いいけれど、70歳のジョニー・キャッシュが歌うと、人生を振り返るような内容とも聞こえてくる。痛みは鋭利なものではなく、体に染みていく。
ジョニー・キャッシュは『Hurt』を歌った翌年に亡くなったらしい。
痛みを抱えて死ぬというのは映画の内容やイメージと合っている。
ジョニー・キャッシュはエンディングにも『The Man Comes Around』が使われている。

ラストで、ローラが墓標の十字架を斜めに傾ける。エックスだ!
ここで初めてエックスの文字が出てくる。最初のロゴが光らないのは、ここで初めて出すという意味もあったと思う。

ローラは墓を離れがたそうに見ながらも、他の子供たちについていく。
ここでずっと泣いているわけにもいかない。親を弔うことも許されない過酷な状況。未来は明るいとは思えない。でも、完全に希望がなくなってしまったわけではない。

映画が終わった後、椅子から立つのも一苦労だった。ずしんと重い。それを感じていたのは私だけではないようで、明かりがついて映画館を出る時の雰囲気がいつも映画を見終わった後のものとは違っていた。
一人で観に来ている人が多かったせいもあるかもしれないが、ほとんど喋り声は聞こえてこない。それぞれがそれぞれの想いを胸にしっかりと焼き付けているかのようだった。
これを感じるために映画館へ観に行ってるのだと思えるような雰囲気だった。

観終わったあと、本作のポスターを観ても、キャッチコピーを観ても思い出し泣きしそうになった。観ている間は号泣はしなかったが、少し時間が経つとじわじわと押し寄せてくる感情がある。しばらくローガンのことを考えてしまう。