『サスペリア』



『君の名前で僕を呼んで』のルカ・グァダニーノ監督。どうして、あの作品の次に撮ったのがこの作品になるのかよくわからない。
1977年『サスペリア』のリメイクとのことですが、ストーリーはほぼ違っていて、再解釈の上、要素が付け足されているまったく別物になっている。上演時間自体も一時間くらい増えています。

以下、ネタバレです。オリジナル版のネタバレも含みます。(ネタバレというほどわかっていません…)








オリジナル版と同じところはダンスの学校の地下に魔女の組織があって…というところくらいかなと思う。ダンスもオリジナル版ではバレエだったけれど、本作は暗黒舞踏(麿赤兒が踊っているもの)です。
目配せ的に、数を数えながら歩いて秘密の場所を見つけるシーン(これも主人公の子ではない。主人公自体がまず変わっている…)があるのと、ラスト付近の祝祭シーンで赤いライトが使われているくらいでしょうか。

オリジナル版はバレエの学校に新人の女性が来て、人が何故か消えてしまうことに怯え、真実を突き止めて逃げ出すというシンプルなものだった。
77年ということで時代が反映されたファッションとインテリアがおしゃれだった。また、赤や緑などのライティングも特殊でした。
ただ、技術的にはまだまだであり、人に噛み付く犬はぬいぐるみなのが丸わかりだし、ゾンビ風のメイクも怖くはない。血もペンキのようで赤すぎる。でも、あの赤は狙ってのものなのかもしれない。
ただ、不気味な雰囲気と音を使っての盛り上げ方がうまくて、ぞくぞくしました。

本作の舞台も77年である。ある錯乱状態の女性がカウンセラーの元を訪れて相談をしているが、カウンセラーは妄想と決めつける。その女性は実はダンスの学校の秘密を知って抜け出して来ていたのだが、その後はとらえられてしまう。オリジナル版と同じということだと思うけれど、ゾンビにさせられていた。
彼女はテロリストで…という背景もあるのだが、本作はオリジナル版にはなかった政治的な要素が加えられている。

77年はまだドイツが東西に分断されている。そこでのベルリンの話なのでテロリストの話も出てくるのだ。
そして、終盤にかけて明らかになるのが、カウンセラーの妻の過去である。アーリア人なのに証明できなかったせいで収容所に送られ、戦時中に死亡してしまう(この妻役が、オリジナル版で主人公を演じたジェシカ・ハーパー!)。

ただ、一度観て解説を何も読まない状態だと、これら政治的な要素と、ダンスの学校の魔女(本作だと『〜の母』という言い方だった)がどう関わってくるのかがよくわからなかった。

ダンス学校にはスージーという本作の主人公(たぶん)の女性が入学してくる。しかし、決してオリジナル版の主人公のポジションではないです。
彼女は幼少期よりドイツやポーランドのことを学ぶのが好きだったようだ。そのため、彼女も政治的な題材と関わりがあるのだ。ラストでカウンセラーに妻のことを話すのも彼女である。ただ、30年以上前のことだし、それを彼女が実際に見てきたように話すのはおかしい。それも『〜の母』(魔女?)の力なのだろうと思われる。話ぶりが優しく、それはナチスを批判しているようでもあったし、カウンセラーの記憶を消すということで、妻のことで辛い目に遭ったカウンセラーをいたわっているのだと思う。では、彼女は良い人なのか? そのあたりはよくわからなかった。
(町山智浩さんの解説では、魔女狩りとナチスによるユダヤ人の迫害の繋がりについて話されていた。都合の悪いことを自分たちではない存在に押し付けるという行為についての似かより?)

その前の継承シーンでは悪魔的に見えた。あの後であんなに優しくなるとは思わなかった。絶対的な神のような存在に善悪などないということだろうか。

そもそもオリジナル版でも、死ぬことができないままゾンビとして生きながらえていた女性たちの役割がよくわからなかった。魔女の生贄みたいなものだろうか。
本作では内部抗争のようなものも起こっていた。継承前の『〜の母』役がティルダ・スウィントン。彼女の永遠に歳を取らなさそうな雰囲気がよく合っていた。

内容についてはもう少し解説などを読むか、調べてみないとよくわからない。それなのに、作品を貫いている美意識が一定で、この世界観が好きだった。

スージーは暗黒舞踏を踊っているだけなのに体全体を使っているからなのか、セクシーだった。セックスシーンなどはないのに、サラともマダムとも、セクシャルな関係に見えた。
逆に祝祭感漂う継承シーンは、みんな全裸で踊っているのにまったくセクシーに見えない。ただの儀式だった。撮り方なのだろうと思う。

怖いか怖くないかというところですが、最初の関節が変な方向に曲がって瀕死になるあたりはそのむごさに目を背けたくなった。血も景気良く出るけれど、祝祭シーンの血はむしろ美しく見えた。
同じ継承ものとしては、『ヘレディタリー/継承』のほうが怖いです。また、旧作のほうがホラー的だと思う。

こちらは最後にスージーが優しさといたわりを見せてきたため、怖いのとは違う印象が残った。また、エンドロールで流れるトム・ヨークの歌声も優しいです。ホラーとは違うと思った。


2017年イギリス・フランス・ベルギー製作。監督は『フレンチ・コネクション』のセドリック・ヒメネス。
ラインハルト・ハイドリヒとその襲撃事件について描かれている。
『HHhH プラハ、1942年』を原作にしている。ただ、原作の『HHhH』には作者が、ドキュメンタリー小説を書くにあたっての苦労みたいなものが間に挟まれていて、それが面白かったが、本作は作者のパートは無し。あくまでも、書きあがった部分の映像化といった感じ。
そうすると、2016年公開(日本は2017年)の『ハイドリヒを撃て!』と何が違うのかとも思うんですが、『ハイドリヒ』が襲撃する側の話だけだったのに対して、本作は前半にハイドリヒ自身の話が描かれていた。後半が襲撃側の話なので、二本の映画を一辺に観たような印象。

以下、ネタバレです。









ハイドリヒを描く前半も子供時代からというわけではなく、ナチスに傾倒する要因となる妻リナ(映画ではそう描かれていたけれど本当なのかは不明)との出会いと、女性問題で海軍をクビになるあたりから。
リナ役にロザムンド・パイク。最初は白っぽい服で清楚なイメージだったけれど、段々と真っ赤な服を着だして感情の強さが表れているようだった。
わりと淡白にパッパッと進んでいくんですが、ハイドリヒのことを詳しく描いてしまうと彼を賞賛する内容になりそうだし、このテイストでいいのかもしれない。冷酷で非情に行動し、のし上がっていく。ヒトラーは後ろ姿しか出てこないけど、ヒムラーは出てくる。

ハイドリヒ役にジェイソン・クラーク。やっぱりドイツ人はハイドリヒ役はやりたくないのかな…とも思う。ジェイソン・クラークが案外ドイツ人っぽい顔なのに初めて気づいた。

後半はエンスラポイド作戦。『ハイドリヒを撃て!』もまだ記憶に新しいので大体の流れはわかった中で観た。ただ、パラシュート降下でチェコ領内に入るシーンなどは『ハイドリヒ』では描かれていない。
ただこちらも時間的には映画の半分の時間といったところなので、描かれ方がわりとあっさりしていた。『ハイドリヒ』だと準備の様子が入念に描かれているが、本作は作戦実行までが早い。
それでも、内容や流れを知っているのでこのくらいでも良かったと思う。

ヤンを演じたのがジャック・オコンネル、ヨゼフがジャック・レイナー。目立ってはいけないせいもあるが、二人とも似たような地味な服装と髪型のせいで、顔も似て見えて、区別がつかない部分があった。ただ、普通の若者たちが巨大な悪と対峙するという構図がより際立っていたかなとも思う。
名もなき若者たちが悪人の一人を倒したものの、立てこもった教会でナチスと銃撃戦になり、最後は水責めにされ、自ら死を選ぶ…というのは、やり切れなさも残るが、画としては美しい。これは『ハイドリヒ』でも本作でも同じです。『暁の七人』も観てみたい。

さらに本作は、ラストにヤンとヨゼフの出会いのシーンが流れる。ハイドリヒがのし上がる話より、もっとこの二人の話が観たかったと思ってしまった。

ヨゼフをかくまうモラヴェッツ家の息子、アタ役のノア・ジュプ目当てでもあった。そこまで出番は多くはないけれど、サイコロを転がして遊んだり、スープを飲んだり、泣き叫ぶ姿が見られた。
『ハイドリヒ』のアタは壮絶な拷問にかけられるんですが、本作のアタはだいぶ幼いので彼自身は拷問にはかけられません。これは安心した。でも、アタが教会にヤンとヨゼフたちがいることを吐いてしまうのは同じなんですね…。




M.ナイト・シャマラン監督作。
『アンブレイカブル』、『スプリット』を観てからにしたほうがいい作品。『アンブレイカブル』の続編が『スプリット』ではありませんが、本作は『アンブレイカブル』の続編であり、『スプリット』の続編です。いわば、シャマラン版『アベンジャーズ』といった感じ。
以下、ネタバレです。『アンブレイカブル』、『スプリット』のネタバレも含みます。







『アンブレイカブル』鑑賞時に、「デヴィッドにはイライジャがいたけれど、イライジャが悪役側にまわることでサポート役がいなくなってしまった」と書いたが、今回サポート役としてなんとデヴィッドの息子が!しかも、同じ俳優さんで!『アンブレイカブル』が2000年公開なので、18年経っていて大人になってる。映画の中の時の流れとリアルな時の流れが同じで、実はこれも本作の重要なポイントになっていた。
私は『スプリット』公開時に『アンブレイカブル』を観たので、リアルタイムで観ていたらより感慨深かったろうなと思う。もう戻れないのでどうしようもないですが。

『アンブレイカブル』がヒーロー誕生の映画で、『スプリット』が悪役誕生の映画で、今回はその二つをぶつけるのかなと思っていた。
しかし、デヴィッドとビースト(ケヴィンの一人格)はかなり序盤で衝突する。クライマックスじゃないんだ?と思っていたら、二人は警察にマークされていて、精神病院に入れられてしまう。

『スプリット』では多重人格のうち、主に3つ4つくらいの人格しか出てこなかったかと思ったが、本作ではフルで出てくる。話し始めに名前を言ってくれるのでわかりやすいし、デニスやパトリシアなど主要人格はおぼえていた。特に9歳のおませな少年ヘドウィグは今回も可愛い。『スプリット』時にはカニエ・ウエストが好きだと言ってたけれど、今作ではドレイクに好みが移ってた。どちらにしてもヒップホップが好きなようです。
前作でも思ったけれど、演じ分けがものすごい。ジェームズ・マカヴォイの演技が堪能できる。エンドロールに名前がバーッと出て、すべてジェームズ・マカヴォイと書いてあるのは圧巻。

シャマランがカメオというよりは、『アンブレイカブル』でシャマランが演じた役で出ているのがおもしろかった。デヴィッドに向かって、「君、前はスタジアムで働いてなかった?」と聞いていた。監視カメラを買っていて、それを精神病院に取り付けていた。この監視カメラが後々…というのでそこそこ重要な役割なのも笑ってしまった。

二人が収容された精神病院にはイライジャもいた。何もわからなそうな顔をしながらも、部屋をするっと抜け出したりと不気味。

精神病院にいるカウンセラーか医者役にサラ・ポールソン。『オーシャンズ8』のタミー役であり、最近も『バード・ボックス』に主人公の妹役で出ていました。
このカウンセラーが現実主義者で、三人に対して、思い込みによってヒーローだったり悪役になろうとしているのではないか、アメコミは非現実という趣旨のことを話す。つまり、自警団をしていたデヴィッドも、ビーストになったケヴィンも、すべて妄想なのではないか、目を覚ませということで精神病院に入れたというのだ。
それは、『スプリット』を観たときにまさに私が思ったことだった。なんかビーストなんていうのが実在しちゃうなんて一気にファンタジーになっちゃって嫌だなあと思ったのだ。今なら言えるが、違う、実在するのだ。

少し『ブリグズビー・ベア』も思い出してしまった。大人は、いい年になったら妄想などやめて目を覚ませと言って、おもちゃを取り上げてしまう。違うのだ。夢は見続けられる。信じるものを信じていけというメッセージにも思えた。

ミスター・ガラス(イライジャ)はビーストを登場させて、病院からの脱出を謀る。もちろん、デヴィッドも解放する。彼はヴィランだけでなく、ヒーローの姿も見たいからだ。

対して、カウンセラー(医者)はただのカウンセラー(医者)ではなく、ヒーローもヴィランもいらない、平穏に暮らすためには両方滅ぼすという組織の人間だった。マーベルやDCに対する強烈なアンチテーゼだと思った。
結局三人とも倒れてしまうが、ミスター・ガラスは「これはオリジン(序章)だ」と言い残していた。もしかしたら、ケヴィンの理解者であるケイシー、デヴィッドの息子、イライジャの母がヒーロー業務を受け継いだりして…と思ったがそうではなかった。
監視カメラの映像がひっそりダウンロードされ、全世界に配信されたのだ。人々が善であれ悪であれ、スーパーパワーの存在を信じることになる。ここからすべてが誕生するのだ。

列車事故はイライジャの陰謀で、そこにデヴィッドが乗っていて、ケヴィンの父親も乗っていた。ビーストとデヴィッドの力を同時に誕生させ、20年間見守り、同じ病棟に介させたのもイライジャである。しかも、スクリーンのこちら側、リアルな時間と同じ流れ方をしている。シャマランは『アンブレイカブル』の時からここまで考えていたんだろうか。

飽和状態になっているヒーロー映画に対するまったく新しいアプローチだし、びしっと完結するのがいい。しかも、今後に対するわくわくと静かな興奮が残る。最高でした。おもしろかった! 




2015年公開、『クリード チャンプを継ぐ男』の続編。
監督はライアン・クーグラーからスティーヴン・ケープル・Jr.に変わった。長編映画監督は本作が初。
本作の主人公アドニス・クリードの父、アポロの命を奪ったイワン・ドラゴとその息子と戦うことになる。
その話が1985年『ロッキー4/炎の友情』なので、本作のサブタイトルから考えても観ておいた方が良かったのかもしれない。未見でした。

以下、ネタバレです。








父の命を奪った相手との対戦ということで、普通ならば復讐が主題になりそうなものであるが、本作で描かれているのはまったく別のものだった。
アドニス・クリードとロッキーとドラゴ親子の四人の成長である。

アドニス・クリードは最初は復讐にかられていたと思う。ロッキーが止めるのも聞かずに、違うトレーナーをつけてドラゴとの試合に臨む。しかし、そんな状態で勝てるはずもなく、まったく歯が立たずに敗北。
負けたことで、自分の人生自体も見直す。
試合の少し前にはビアンカとも結婚していて、娘も生まれようとしている。負けるのは怖い。絶対に負けられない。プレッシャーの中でロッキーとトレーニングをし、ドラゴとの再戦で勝利し、チャンピオンの防衛に成功する。

満を持してのテーマ曲
たぶんこれ、ロッキー4を観ていたら余計に

ちなみに、ロシアでのドラゴとの対戦、何度倒れても立ち上がるというところも『ロッキー4』を踏襲してるようです。
アドニス・クリードの話は、最初は意気がって突進して行ったものの、すごすごと帰ってきて大事なものを見つけてそれに向かって頑張り、何度倒されても立ち上がって勝利する、というもので、ありがちではあるけれど、これはこれで正統派だし、これが物語の芯としてあるのはいい。一人で赤ちゃんの世話をするのに奮闘しているシーンなどは『インクレディブル・ファミリー2』を思い出した。
もしかしたら、時代にも寄り添っているのかなとも思ったけれど、ビアンカ側のことがあまり描かれなかったのは少し残念。不自由な耳は悪化しているようで、補聴器を付けないと聞き取れないようだった。そのせいでプロポーズも聞けていない。また、そこまでしっかりとは描かれていないけれど、もしかしたら娘も耳が聞こえないかもしれない=遺伝かもしれないという話も出てきていた。その辺りのことがぼんやりとしたままだったけれど、そこまで描いたらばらばらになっちゃうかも。
再戦時にビアンカが歌う曲で“ファイトマネーはいらない”というようなことが歌われていたのも、『ロッキー4』だったのかもしれない。

ロッキー側の話も本当にいい。シルベスター・スタローンがあんなに深みのある演技のできる俳優だとは思わなかった。息子と連絡がとれない状態(行方不明とかではなく、勇気がない)の中、序盤でアドニスとも意思の疎通がうまくいかなくなる。けれど、無理には反対はしない。あくまでもアドニスのやりたいことを尊重して、静かに身を引く。
ロッキーが最初に試合を止めたのは、もちろんアポロのことを思い出してだと思う。嫌な予感がしたのだろう。俳優が一緒だから当たり前といえば当たり前だけれど、ロッキーのこれまでの人生がしっかり沁み込んでいる演技だった。
トレーナーを離れても、ひねくれたりせずに、影で試合をしっかり見ているのも良かった。遠く離れた場所でアドバイスもしていた。まさに見守るという感じだった。
そんななので、アドニスもいつまでも反発せずにすぐに折れ、仲直りをする。
アドニスは生まれてくる子供についてロッキーに話すが、名前についてのやりとりが良かった。「もっとわかりやすい、ケイトとかベッキーがいいんじゃないか?」「黒人だぞ?」「忘れてた」ロッキーの出して来る名前が古そうなのもわかるし、差別意識の無さもよくわかる。
子供が生まれた際に、ロッキーがそれに勇気をもらって息子に電話をかけようとするシーンがあったが、かけられない。じゃあ俺も!と勢いづかせることはできないようだった。勢いだけで行動できるような年齢ではないのだ。
けれど、最後には、電話をかけずに直接息子の家を訪れていた。そのような思い切りのある行動もとれる。
ちなみに、ロッキーの家の前の街灯の明かりがつかず、「電気のつかない街灯はただの棒だ」というセリフがあって、何かの暗喩なのかと思った。ラストには明かりがつくのかと思ったが途中で街灯についての描写はなくなっていた。意味はなかったらしい。

アドニスの正統派の話と、それを見守りながら息子との絆を修復するロッキーの話と、もう一つはライバルのドラゴ親子の話である。
ドラゴは『ロッキー4』でアポロの命を奪ってしまった後、ロシアでの試合でロッキーに負ける。それ以降、ロシアでの立場もなかったろうし、奥さんにも出て行かれたらしい。
彼らには彼らなりのロッキー陣営と戦わなければいけない理由がある。どんな気持ちでロッキーの銅像を見ていたのか、ロッキーの真似をする子供を見ていたのかと考えると心が痛い。
だから、最後のロシアでのアドニスとの再戦の時に、リングに登場した時に、ロシアの観客たちに大歓声を浴びて信じられなさそうな顔をしているドラゴ(子)を見て、涙が出そうになってしまった。やっと許されたと思っただろう。だからこそ、試合中、負けそうになった時に、観客席の母が会場を出て行くのが辛かった。ここで一番泣きました。
勝負事の話だから勝敗はつくし、『クリード』というタイトルだし、主人公なのだし、このラストでドラゴが勝つのはおかしいと思う。でも、ドラゴ側も応援してしまった。
ラストでは父子二人でトレーニングを続けていた。これでボクシングをやめてしまったわけではなかったのが救い。

ドラゴ側のスピンオフを観たいくらいだった。映画中には彼らのエピソードがそれほど描かれていないけれど、これ以上描かれてしまったら、彼らに感情移入しすぎてしまい、どちらが主人公かわからなくなる。

アドニスにとって、最初はドラゴ父子は敵だったし、弔い合戦のような意味合いの試合だったのだと思う。要は復讐である。でも、再戦時は決して復讐ではなかった。

『ロッキー4』でも最初は冷戦真っ只中という時代的にもロシア対アメリカのような構図だったらしいが、そのうち、国ではなく個々の戦いになるあたりに政治的なメッセージが含まれていたらしい。本作はそこまで国を背負ってという意味合いは強くないかもしれないが、父のことは置いておいての個々の戦いであるという点については同じだと思う、

それぞれが違った方向へ成長していく。ロッキーシリーズ全般に言えることかもしれないけれど、スポーツものというよりは人間ドラマだった。

『心と体と』



アップリンク吉祥寺の『見逃した映画特集』にて。
スクリーン5は29席と一番席数は少ないが、席数に対してスクリーンが小さくなるわけではない(元々そんなに大きいわけではないですが)ので見やすかった。段差もしっかりあってどの席からでも良さそう。
スクリーンの隣りが出入り口だったので、これは途中入退場があった場合、すごく迷惑がかかるな…と思っていたのですが、その場合は後方の非常口が開くらしい。退場もそこからでした。
スピーカーも左右と真ん中にあり、音がいい。三列しかないのが落ち着くし、壁紙もかわいい。
何より、映画をちゃんと観ようという気持ちを持った方が集まっているせいか、喋り声やスマホ関連の音、光以外にもビニールがガサガサいう音もなく、最高の環境で観ることができた。

『心と体と』は去年のアカデミー賞で外国語映画賞にノミネートされたハンガリーの映画。ベルリン国際映画祭で金熊賞を獲得している。
ハンガリーでの公開は2017年3月、日本では2018年4月に公開されたのですが、文字どおり見逃していたために今回観ました。
同じ夢を見る男女の話というあらすじを聞いて、ほんわかしたラブストーリーかなと思ったら全く違った。

以下、ネタバレです。








雪の中で佇む雄鹿と雌鹿の映像から始まる。寒々しく、周囲に何の動物もいないまま、二頭は寄り添っている。きっとこの二頭がその夢なのかなと思うが、序盤にはそれは明かされない。

主人公は片腕が麻痺している中年の男性エンドレ。食肉解体場で財務の仕事をしている。そこに肉の品質を見定める職員の代理としてマーリアという若い女性がやってくる。
マーリアは透明感があって美人でもあるのだが、人事担当に言わせれば“堅物”とのことだったが、堅物や人付き合いが苦手という域をこえている。外見にもあまり気を配っていないようだった。アスペルガーや発達障害なのかもしれないけれど、正式な病名は出てこないためわからない。でも、カウンセリングも受けているようだったし、自覚はありそうだった。

一人で食事をとっているマーリアに気を使ってエンドレは話しかけるが、失礼な言葉で返されてしまう。その時には、観ている私も失礼なやつだなと思ったけれど、マーリアは帰宅後に塩と胡椒の瓶を使って二人のやりとりを再現していて、本当はうまく話したかったけれどそれができなかったのだなというのがわかった。不器用なのである。

食肉加工場では交尾薬が盗まれるという事件が発生する。牛を発情させるためのもののようだけれど、それが人間にも効果があるのかどうかはわからなかったし明かされなかった。その捜査方法というのが、心理学者のような女性が来て、一人一人に話を聞くというものだった。捜査ともいえないかもしれない。その時の質問が、「精通はいつだったか」「生理が来たのはいつか」「見た夢は?」という抽象的というか、交尾薬だから性的なことを聞いているのかもしれないが、あまり重要とは思えないものばかりだった。
しかし、ここで、エンドレとマーリアが同じ夢を見ていたことがわかる。そもそも、これをわからせるために映画内で事件を起こしたのかもしれない。
また、面接時に「屠殺の際に何も思わない」と言っていた粗野な若者をエンドレは疑っていたけれど、結局彼でないことがわかって謝罪し、仲直りするシーンはちょっとした場面だったがぐっときた。

この面接時の質問で、エンドレは動物にもちゃんと敬意を払えということを言う。屠殺シーンがかなり細かく映されていて、刺激的ではあるけれど、こうやって牛が牛肉になるのだから、決して残酷な映像というわけではないのだ。首を落として吊り下げられた牛からは血が止めどなく落ちていて、今まで生きていたことが否応無くわかる。
またこの牛と、夢の中の鹿と、獣たちに何らかのつながりがあるようなないようなという感じだった。この辺はもう少し考えてみないとわからない。

二人は同じ夢を見ていることがわかって、関係が進むのかなと思ったけれど、「それでは今夜、夢で会いましょう」などと言うだけで、一向に進展はない。むしろ、夢の中でのほうが自由に動き回れているかのようだった。
結局、互いに惹かれてはいても、二人ともどう動いていいかわからない。エンドレはもう中年で恋などしなくても一人で生きていくつもりになっていた。年齢差もあるし、この歳になってまたつらい思いをすることに怯えて踏み出せない。
マーリアも人と付き合えないからどうしたらいいかわからない。彼女の方が厄介である。プレイモービル2体を使って対話の練習をしていた。CD屋に行って、山盛りのCDを視聴させてもらっていた。音楽を聴けば情緒が安定すると思ったからだ。一枚目がデスメタルみたいなのだったのは笑った。必死なのはわかっても、その様子が可笑しみを生む。結局、店員さんに「恋をしている時に聴く曲は?」と聞いておすすめを買っていた。

エンドレは意を決してランチに誘うが、昔(おそらくエンドレがまだ若く、女性と交際をしていた頃)は繁盛していた店がガラガラ、店員も暇そうにスマホをいじっている。いやですよね、こういう失敗…。
エンドレが「横に並んで寝て夢を見ませんか」と誘ったのも、かなり意を決してだと思うし、下心もあったと思う。マーリアがエンドレのベッドで寝て、エンドレはその隣りの床で寝ていたが、二人とも寝付けない。寝付けない様子を上から撮るのが最高だった。二人とも違うタイミングで落ち着かなさそうに目を開くのだ。そこで二人とも寝付けないからといってセックスをするわけではなく、トランプをし始める。やがてそのまま夜が明ける。
もう、不器用すぎて最高です。

それでもエンドレは少し急いでしまって、マーリアの手をとろうとして拒まれる。マーリアは人に触れられること自体に慣れていない。それがエンドレにはわからない。
しかし、マーリアは裏で必死に克服しようとする。ポルノを見る、マッシュポテトを握る、牛を触る、ぬいぐるみを買う、公園で寝ているカップルを見る…といずれも的外れである。でも、一生懸命な様子が可愛い。エンドレに見せてあげたいが、見ていないから拒まれたのは嫌われているからだと思って落ち込んでいる。

だから、マーリアがセルフセラピーを終えて、「今夜は家に行けます。パジャマも持って来ました」と言ったのは、苦労の末のことだったのだ。それなのに、エンドレはそれを拒んだ。
この人たちは不器用なのですれ違う。

マーリアとしては彼のために克服したのに、拒まれてしまってはもうすべてのことに意味がなくなってしまう。そこで、キッチンの引き出しを開く。ナイフが入っていて、嫌な予感がしたらミートハンマーを手に取る。一体何をするんだ…と思っていたら、風呂場のガラスを割る。恋愛の曲を流し、湯をためた風呂の中、ガラス片で手首のちょっと上あたりを切る。
綺麗で悲しい曲と、湯船に広がる血。ああ、こんな美しいラストがあるのだろうか…と勝手に思っていたら、CDラジカセの調子が悪くなる。コントのようだなと思っていたら、携帯が鳴って、マーリアは急いで風呂から上がる。
たぶんエンドレにしか番号を教えていない。もちろんエンドレからで、話しながらも手からは血がぴゅーぴゅー出ている。「私も愛してます」と言いながらも、足元に血だまりができている。電話の向こうのエンドレはまさかマーリアがそんなことになってるのは知らないから、「今から会えませんか?」と言う。もうマーリアは嬉しいから、「少し準備してから行きます」と言って、止血のための紙か何かを丸めたものを紐でぐるぐると腕に巻きつけ、その上からビニールをかぶせる。雑すぎる。
ここも必死さが可笑しさを生んでるんですけど、それ以上に、さっきまで消えようとしていた命が再び輝き出すさまが見事に描かれていて、泣き笑いになってしまった。
屠殺のシーンでもそうでしたが、このシーンもかなり景気良く血は出ますが、グロい、痛い、怖いなどではなく、どちらも生命力を感じるシーンだった。生きている(いた)から、血が溢れる。
あなたに必要とされなかったら死ぬしかないけれど、あなたに必要とされたら手首から血を流してでも会いに行く。マーリアのこの極端さが不器用だけれど、可愛らしくて力強い。

ここからのテンポがちょっと変わっていて、ぱっと画面が変わって病院に移る。おそらくエンドレが強制的に連れて行ったんでしょう。しっかり包帯を巻いてもらっていた。
そして、画面が変わると、二人がエンドレの部屋でセックスをしているシーンになる。キスをして服を脱がせて…みたいな無駄シーンはすべて省かれている。でも、腰を動かしているシーンは長い。そして、マーリアは目も閉じず、声も上げず、エンドレの顔をじっと見ていた。
エンドレの麻痺している片手はベッドからだらりと落ちてしまっていたのですが、終わった後、マーリアがその手を優しくとってベッドに戻してあげていた。マーリアが人に気を使っている姿が最後に見られるとは。

そして翌朝、にこにこと笑いながら朝食を食べながら、「夢を見た?」という話をしていた。二人とも見なかったとのことだった。映像でも、鹿のいない森が映っていた。きっともう、鹿は役目を終えたのだ。この二人を結びつけるために存在したのだろう。
最後まで観てみて、エンドレも最初からマーリアを気にしていたし、マーリアもエンドレと上手く話せなかったことを悔やんでいたし、結局お互いに一目惚れじゃないか…と思ってしまった。だから、恋に落ちる瞬間はわかりやすくは描かれていない。しいていえば、「今夜、夢で会いましょう」と言うあたりか。
それでも、最初が運命の出会いだったのだろうし、二人とも不器用なりに一生懸命になって、それが空回りもするけれど、うまく噛み合って本当に良かったと思った。

ハンガリー映画のせいもあるのか、ちょっと変わっていて、単なるラブストーリーとも違うけれど、愛と命の輝きについての話だと思う。それでも、暑苦しさはなく、ふわっとしたタッチなのがおもしろい。力強いのに、描き方は軽い。どんな映画かというのが一言では説明しづらい。でも、去年観ていたら年間ベスト10に入れていたかもしれない。
一生懸命が空回りするあたりは『勝手にふるえてろ』にも少し似ていると思った。
また、観終わると、マーリアとエンドレはもちろん、太った人事の同僚とその妻、いけ好かない若い新入社員、セラピストの先生、刑事さん、レコード屋の店員など、登場人物が全員愛しくなってしまう。
ちなみに、公式サイトによると、エンドレ役の方は役者ではなく編集者らしいことに驚いた。