マーク・ギル監督。ジャック・ロウデン主演。
モリッシーになる前の何者でもなかったスティーヴンについて描かれている。監督のティーチイン付きの先行上映に行ってきた。

以下、ネタバレです。






まず、スミスやモリッシーの映画と思って観に行くと思っていたのと違う…と思われそう。ただスミスやモリッシーの映画と宣伝もされているし、そう言うしかないからその面だけを期待して観に行く人が多いだろうなとも思う。
私はスミスやモリッシーは数曲知ってるくらいでそこまで思い入れはなく、ジャック・ロウデン目当てでした。

音楽はたくさん使われているけれど、いわゆる音楽映画ではない。心配しすぎかもしれないけれど、『ボヘミアン・ラプソディー』のヒットがあったので、あの辺りを想像すると全く違う。
まず、モリッシーの曲は使われていない。スティーヴンと音楽の繋がりというシーンもそれほどない。モリッシーなんだから音楽が好きなんだろうなという脳内補完で観ていたけれど、彼が音楽好きなのかも不明。どちらかというと、楽器や歌よりも文章を書いているシーンが多かった。それもポエム的なもので、のちのちの作詞に関わってくるのかもしれないけれど。
しかし、この辺はもともとのモリッシーの気質なのかもしれないし、実際にこの時期のスティーヴン自体が音楽をやりたいのかわかっていないのかもしれない。

ジョニー・マーが出てくるのは本当に最後のほうなので、そこでやっと物語が動き出す。音楽映画ならここをスタートにすると思うが、本作はここまでの話である。なので、モリッシーにはまだまだ遠い、普通の青年の話なのだ。

それまでのスティーヴンはあまりにも内向的。芸術少年特有の、自分は特別なんだ理解しない周りが馬鹿という思想を抱えている。だからあまりにも自分勝手。周囲を敬うことをしないから、コミュニケーションがうまくとれない。
職も見つからない。でもこれは、あまり説明はされないけれど、失業者が列を作っていたので、景気の悪さがうかがえ、当時の社会情勢批判なのかもしれない。

双方向のコミュニケーションはとれなくても、なぜか周囲に女性は絶えず、彼をサポートしようとする。全員が恋愛感情があるのかどうかわからないけど、映画の中にキスシーンなどはないのと、接し方も恋人のそれというよりは、母親のようなお節介が多い。

それもそのはずで、ジャック・ロウデン演じるスティーヴンがとんでもなく可愛い。駄目な人間だけど憎めない。ぐずぐずしていてイラッともするけど許しちゃう。
これは、女性特有のものなのか、好きな俳優だからなのかわからない。

眼鏡をかけたり外したりする落ち着かなさ。ペンをくわえて打つタイプライター。瞬きをバチバチバチっとするところ。いつも不安そうな瞳。伏せた時の睫毛。ちょっと嬉しいことがあると現金なほど浮かれてカバンをぐるぐるまわしてしまう部分など本当に可愛かった。周囲が面倒を見たくなってしまうのもわかる。
だが、一挙手一投足、表情含めてすべてかわいいが、もしも、ジャック・ロウデンではない俳優が演じていたら、ただ苛々していただけかもしれないとも思ってしまう。また、ジャック・ロウデンの演技というより(演技の面もあるとは思うけれど)、私がジャック好きであるという部分がとても大きいような気がする。冷静な判断ができていないと思うけれど、少なくともジャック・ロウデンファンには大満足の内容です。ほぼ全てのシーンに出ている上、その全てが見どころなので。

モリッシー自身がインタビューで過去のことなどをほとんど明かさないらしい。そのため、本作は自伝映画というよりは、モリッシー好きの監督のこうだったらいいなが詰め込まれているということで、どちらかというと二次創作に近いのかなと思う。
監督の言葉としては、「スミスの映画というよりは、スミスのアルバムを聴いた時の気持ちになってほしいと思って作った」とのこと。
モリッシーはベジタリアンらしいが、「彼が豆のスープを作ってる映画なんて観たくないでしょ?」とのこと。事実を描くとしたらそうなってしまうとのことだ。
モリッシーもマーク・ギル監督もマンチェスター出身ということで家も近所だったらしい。本作はそんな愛着のあるマンチェスターで撮影されている。

特別な自分には特別な出来事が起こるべきという青春時代特有のくすぶりは『アメリカン・アニマルズ』で描かれていたテーマとも似ている。
監督も「普遍的なものをテーマにした」と言っていた。特別な人の特別な話ではないのだ。まだ片鱗すら見えていない。

でも、ラストでジョニー・マーが部屋に来てレコード見ながら「趣味いいね」なんて話しているシーンでは、スティーヴンは、やっと見つけた!という顔をしていた。やはり、運命の出会いというのはきっとわかるのだ。これから新しい世界が開けるのを確かに感じているわくわくした表情がとても良かった。
そして、イギリス版のDVDのジャケットやポスターなどでも使われているメインビジュアルの一つ、何か越しにスティーヴンの姿が見えるという写真は、ラスト、ジョニー・マーの家を訪ねてきた姿で、扉のガラス越しだった。ここだったのか!という驚きがあった。やっとスティーヴンが自分で動いて世界を変えようとするシーンだ。ラストシーンをメインビジュアルに使うとは…。

モリッシーの音楽は使われていなくても、音楽自体はたくさん使われている。70年代から80年代の音楽が多かった印象で、描かれている時代に合わせていたと思う。スティーヴンが影響を受けた曲というよりは、単に監督の好みの曲なのかもしれない。正確な年齢はわからないんですが、監督、幼少期にテレビでスパンダー・バレエやデュラン・デュランが流れていたということは、40代だろうか。
100曲くらいピックアップした中から曲を選んだとのこと。中でも重要な曲は母とスティーヴンが語るシーンで流れる曲。母の「この曲であなたはテーブルの上で踊っていたわね」というセリフがあったけれど、母が初めてスティーヴンに買ってあげたレコードとのこと。
あと、ジョニーがスティーヴンの部屋で選ぶアルバムも重要とのこと。両方とも、実際にあったエピソードというよりは創作なのかなとは思う。
他には、定石の逆を行くような音楽の使い方をしたとのこと。
クスリを初めて飲むときには普通なら悲しい曲が流れそうだけど、アッパーな曲にしたとのこと。ちなみにこのレコードは母のコレクションらしい。
クリスティーンの家のドアを閉める時に、モット・ザ・フープルの『シー・ダイバー』をかけるのもこだわりとのこと。
ちなみに、「サントラはSpotifyにありますよ」とのことでした。

監督の過去作でジョイ・ディヴィジョンについてあつかった映画があるとのことだけど、また音楽映画撮りたいですか?という質問には「never!」と答えていた。

次作は日本の写真家の話らしい。リサーチに3年かけていて、愛と芸術はどのように生まれ滅びるかというラブストーリーらしい。それで、今回の監督の滞在も長くなっているのだろうか。

監督はInstagramに東京の、主に渋谷の風景を写真や動画であげてくれていたけれど、そのすべてが、当たり前だけどプロの映画監督ってすごいなと思ううまさ。見慣れた風景が映画や写真集のよう。
監督はそれをジャック・ロウデンに送っていたらしく、そのお返しのように今回、来日は叶わなかった彼からのビデオメッセージが届いていた。2分ほどの長さの中に、彼のなんとかおもしろくしてやろうみたいのおちゃらけと、茶目っ気を感じるスペシャルな動画だった。何より彼が日本にファンがいることを認識し、日本のファン向けにこんな風なメッセージをくれたことが嬉しい。
監督が日本びいきでよかったし、監督とジャック・ロウデンが友達で良かった。嬉しいサプライズをありがとうございました。



図書館から稀少本を盗み出そうとする若者たちの話。実話。普通、実話を元に…というクレジットが出ますが、本作は元にではなく実話というクレジットになっている(This is Not Based On a True Story.のNot Based Onの部分の文字が消される)。

本を四人で盗み出すのかと思っていたし、実際そうではあるけれど、メインは二人である。ウォーレン役にエヴァン・ピーターズ、スペンサー役にバリー・コーガン。

監督のバート・レイトンは本作が初の長編ドラマ作品とのこと。

以下、ネタバレです。









実話で実際の犯人たちが出てくるという話は聞いていた。ただ、どんな出演の仕方なのかはわからなかったのだが、少し変わった作りになっていた。
役者さんが演じる普通のドラマのようにして始まるのだけれど、急に、その部分を回想するリアルなご本人と俳優が入れ替わる。いわば、当時の話の振り返りと、再現VTRの中では本物の役者さんが演じていて…という形式である。
バート・レイトン監督はドキュメンタリー作品を多く作っている方らしいので納得だ。
最初にご両親がこんなはずでは…という感じに泣いたり、絶望したりしていたから、計画は失敗するのだろうということはわかっていた。

きっかけはもちろん金というところもあるけれど、それよりは退屈な日常が変わるのではないかという期待をこめてのことだったようだ。全員犯罪初心者だし、計画を聞いていても首を傾げてしまう部分が多かった。
でも計画を立てている様子は楽しそうだった。ウォーレンが出してくる計画はほぼ夢物語で、でもウォーレンはそれが叶うと思っているようだった。まるで、将来の夢について熱く語る若者のようだった。
またスペンサーは芸術家だからイラスト(地図)を書いたり図書館の見取り図の模型を作っていた。ウォーレンが模型に触ると、「触らないで」と怒るなど、自分の作品だと思っている節もありそうだった。

『アイ,トーニャ』も、過去の出来事を現在から振り返る形式だった。もちろん、両方とも役者さんが演じているのだが、記憶が曖昧な部分で思い出す人によって回想の映像が変わるというシーンがあって、本作でもその手法が使われていて、楽しかった。記憶は曖昧になるものである。

計画を立てているときに、オーシャンズシリーズのように、スマートに華麗に本を盗み出す妄想が流れた。本の管理をしている司書の女性に「よろしくお願いします」と握手がてらスタンガンをびりびり。もう、本当に流れるようだった。女性はばったりと倒れ、そのうちに本を盗み出す。
私はオーシャンズシリーズは『オーシャンズ8』が初で、観たときに、こんなにうまくいくわけないのに!と腹を立てたんですが、うまくいく様子を観るシリーズだと言われてしまった。細かいことはいいんだよ方式である。しかし、あれは映画、本作は実話なのだ。当然、オーシャンズシリーズのようにはいかない。

お互いをMr,ピンクなどと呼ぼうという提案をウォーレンが出していたが、これは『レザボア・ドッグス』である。大真面目に映画のように、盗み出せると思っている。でも、映画ではなく実話なのだ。

決行日、四人がそれぞれ老人の変装をするシーンは、普通のケイパーもののようにも見えた。かなり本格的で、成功のヴィジョンが見えた。しかし、普段は一人だけという司書が4人いたということで、計画は延期になる。

実在の4人、特にリアルウォーレンは、最初はにやにやしたり、犯罪を犯したとは思えないほど軽い調子だった。しかし、次第にみんなの表情が曇って、言葉少なになっていく。
特にウォーレンとエリックが思い出していたのは司書の方の悲鳴だろう。スタンガンを当てても気絶をしないから、暴れるところを無理やり縛る。空想と現実との違いについていけなくて、おそらくこの時点で二人とも心が折れていたのではないかと思うが、もう後戻りもできない。地下まで降りても出られないから一階を駆け抜けるとか、階段で本を落とし滑らせるとか、ウォーレンを乗せずに車が出発するとか、場あたり的。当然うまくいくわけがなく、つかまる。

特にウォーレンとエリックは、計画が失敗したことよりも、人を傷つけてしまったことを悔やんでいるようだった。根は優しい子なのだ。犯罪をおかしても、別に悪人ではない。普通の大学生四人である。
映画序盤ではあんなに調子の良かったウォーレン(リアルな方)が自分の行動を振り返って涙を流している様子が印象的だった。
実在の人を交えていくという手法は後半になってより効果的に働いていたと思う。あの時に何を考えてた?を実在の人に聞けるのはなかなかないパターン。序盤は楽しいが、後半は刑務所に入っていることだし、思い出すのもつらいだろう。

この映画で描かれているのは青春の終わりだと思う。けれど、最後に7年の刑期を終えた彼ら(実在のほう)の今何してる?というのを流すことで、青春が終わっても人生は続いていくのだというのがわかりやすい。これも、実在の人を出した効果の一つだと思う。
『天国で、また会おう』では戦争が終わってもそれは人生の一部であり、戦争は通過点でしかないというのがわかった。それと同じように、本作では青春は人生の通過点でしかないのがよくわかった。戦争が終わったらめでたしめでたしと終わる映画とは違う。本作も俳優さんたちしか出てこなくて、捕まった時点で終わったら、ただのボンクラたちの青春映画になってしまう。しかし、彼らはまだ生きている。

そして、実在の司書の方も出てくる。当たり前だが、彼女はウォーレンとエリック以上に怖い思いをしたのだ。彼女の人生の一部分をずたずたにした。傷つけられた人が出てしまった以上、本を盗むという行為はしてはいけなかった。

彼らはそれがわかったようだった。だから、4人別々に、真っ当な人生を送れるように努力している。青春の終わりが人生の終わりではないのだ。
4人はそれがわかっている。4人の今後が明るいものだといいと思う。

リアルスペンサーがガレージのようなものから外に出ると、劇中の4人が乗った車が一瞬見える。それは劇中でも、スペンサーが車窓からリアルスペンサーを見ていて、その時はカメオ的なお遊びかと思っていたが、ラストにちゃんと繋がっていた。うまい。
そして、ガレージを開いたときに受けた光は、結構1日目の決行日に何も盗まずに外に出てきたときと同じだったのではないかと思う。悪いことは何もしなかったという清々しさと、何かを変えたいここから逃げたいと思っていたが、ここも別に悪い場所ではないのではないかと気づき始めた光と同じだと思うのだ。
現に、スペンサーはまだケンタッキー州にいて、そこで鳥の絵を描いているとのこと。彼は、逃げずに同じ場所で、自分の力で何かをつかみ取ろうとしていた。



ジョン・キャラハンという実在の風刺漫画家の自伝を基にした実話。レッドブルのCMっぽい絵柄なんですが、検索をしても出ないのでおそらく別人。
原題は『Don't Worry, He Won't Get Far on Foot』。自伝のタイトルもこれ。追っ手のカウボーイたちが人の乗っていない車椅子を見つけ、「大丈夫だ、彼は遠くには行けない」と言っているという自虐ギャグ。
本作は自伝を読んだロビン・ウィリアムズが映画化を熱望したらしく、20年前には話が出ていたらしい。ジョン・キャラハンと同じく、ロビン・ウィリアムズも同じくアルコール依存症だったそうなので、その面で共感をしたのかもしれない。
しかし、2014年にロビン・ウィリアムズが亡くなってしまい、ガス・ヴァン・サントはそのまま監督をひきついで、2016年に新たにホアキン・フェニックスを主役として作る製作発表が行われたとのこと。

他の出演者はジョナ・ヒル、ルーニー・マーラ、ジャック・ブラック、あとキム・ゴードンも出てきて驚いた。

Netflixで配信中のリッキー・ジャーヴェイス主演の『After Life/アフターライフ』と似ていると思った。

以下、ネタバレです。『After Life/アフターライフ』のネタバレも含みます。







まったく前情報を入れずに観たので、実話なことも知らなかった。
車椅子なのも先天的な病気なのかと思っていた。車椅子の方がくじけそうになりながらも周囲の人の優しさに触れる映画なのかと思っていた。周囲の人たちは無条件で優しいと思っていた。

けれど本作はジョンは交通事故により体が麻痺してしまう。しかも、交通事故の原因が飲酒運転だ。車椅子生活になってからもアルコール摂取がやめられない。アルコール依存症なのだ。酒を飲んでいたことを思い出す描写があるけれど、本当においしそうにお酒を飲んでいた。観ていても飲みたくなってしまうほどだ。車椅子での生活はもちろん描かれているけれど、それよりもアルコール依存症との戦いが主になっているようだった。

車椅子が必要になっても性格は変わらない。むしろ、さらにひねくれる。しかし卑下というよりは、もともとの皮肉っぽい性格が増幅しているようだった。
しかし、ジョンの目から見たら幸福そうに見える周囲の人たちも、様々な悩み……悩みというには生ぬるいものを抱えていた。彼らと交流したり優しくされるうちに、自分の今までのひどい態度を反省して、過去に関わりのあった人に謝罪し、許していく。

ジョンに関しては自動車事故が一つの転機なったけれど、『After Life/アフター・ライフ』のトニーは妻の死をきっかけにする。トニーは意地悪でひねくれている。最愛の妻が亡くなったものだから、止める人もいないし、別にいつ死んでもいいと自暴自棄になっている。
ジョンは自殺願望はないようだった。自暴自棄とも違う。けれど、ジョンにしても、トニー にしても、周囲に優しい人たちがいて、寄り添っている。本人たちは気づくのが遅れるが、後からちゃんとそれに気づき、自らの行動を振り返ろうと、優しい人々の元に訪ねていくあたりが似ていた。ジョンにしても、トニー にしても、嫌な奴でもあるとは思うが、根はいい人なのだ。

本作では周囲の人物の中でもキーマンになっているのがジョナ・ヒル演じるドニー だった。アルコール依存症を克服する団体を作っている。自らもアルコール依存症で、HIVを患っている。祖父母の代から金持ちで、団体の中で何人かに小さなグループを作らせて、特別なプログラムで依存症から立ち直らせようと援助金を出しているようだった。

老子を読んでいる影響なのか、ジョンにも教えを説いていて、師匠のようだった。華美な家に住んでいて、髪も長いので人間離れして見えたが、後半で個人的な出来事も語っていて、普通の人間なのだとわかる。個人的なエピソードを語るシーンはジョナ・ヒルが付け加えたアドリブらしいのが素晴らしい。

もう一人のキーマンがジャック・ブラック演じるデクスターで、自動車事故は彼とジョンが泥酔して起こしたものだった。しかも、彼自身はかすり傷だという。
運転していたのはデクスター だし、元々、遊びに行こうと声をかけたのも デクスターだった。しかも、軽傷ということで、それは恨んでしまうだろうし、妬みも感じると思う。しかし、ジョンだって、その前から酒を飲みながら車を運転していた。女性二人を乗せていたが、あの場で事故に遭ってもおかしくなかったのだ。それを思ったのか、ジョンは デクスターを許す。見舞いに来はしなかったが、自ら会いに行く。
当たり前だけれど、怪我を負わせた側もずっとそのことを考えていたのだ。人生は最悪だったと言っていた。体に障害は残らずとも、ずっと負い目を感じて生きていたのだ。ジョンのほうが開き直ってすっきりしていたようだった。
ジャック・ブラックは事故までの泥酔シーンも悪友としてうまかったが、この再会シーンも本当にうまかった。

自分を捨てた母など周囲の人々を許し、それから、自分も許してやることが大切だとドニーは言った。周囲を許しても、結局すべては自分のせい、となってしまっては元も子もない。起こったことは起こったことで、誰のせいでもないのだ。

ジョンは街を電動車椅子で爆走していて、その様子は清々しいほどだった。ガス・ヴァン・サントは実際にジョンが爆走しているのを見かけたという。本当にあの調子で駆け抜けていたらしい。

映画内で電動車椅子を最初にあてがわれるシーンも良かった。ジョンの表情は未来を手に入れたといった感じにきらきらと輝いていた。
麻痺をしていても、家に閉じこもるわけではなく、フットワークが軽いのだ。

爆走しているから横に倒れてしまうが、スケボー少年たちに起こしてもらっていた。ちょっと悪そうな子たちだからいじめられたりしたらどうしようとも思ったが優しい。何度転んでも周囲に助けてもらえるのだから、周囲に感謝の気持ちは忘れずに、でも好きにやろうという彼の人生が集約されているようだった。


ピカチュウの声がライアン・レイノルズで実写の動きが予告など観てもとても可愛かった。
監督は『モンスターVSエイリアン』、『シャーク・テイル』のロブ・レターマン。
ビル・ナイ、渡辺謙も出ています。

以下、ネタバレです。













私はポケモンシリーズをまったく触っておらず、唯一やったのがポケモンGOなので、ポケモン知識がそれのみです。またポケモンGOについても、レイドが始まる前にやめてしまったため、バトルはほとんどしたことがなく、収集のみでした。アニメも見てません。なので、ほぼポケモンのことを知らないのと、原作といわれている『名探偵ピカチュウ』についてもまったく知りません。なので、まず、探偵要素がない…と思ってしまった。元のゲームで探偵要素があるのかないのかわからない。

あと、ポケモンをやっている人はポケモンと一緒の生活に憧れて、映像化されていることに感動をしたり、ライムシティに住みたいと思うみたいだけどその感情もわかなかったのは、ポケモンに特に愛着を持っていない私が悪いのだと思う。

ピカチュウの愛らしさは予告などの通りで、動きはどれも可愛く、でもライアン・レイノルズなので喋りまくり、字幕を読んでると動きが見られないのでもどかしい思いをした。特に顔にシワが寄りがちなところが可愛かった。ポケモンの歌(こるも実際にある歌なのかは私にはわからず)を歌って、無理やり自分を鼓舞するシーンが可愛かった。元気の出る歌詞なのに顔は苦しそうという。ガッツポーズも出ていたけれど、鼓舞しきれていない様子が可愛かった。
水に濡れると質感が濡れた毛布みたいになるのも可愛い。
でも、これ、テッド的なこの黒ピカチュウと少年がバディになるまでの話ではないんですね。
この若干口の悪いピカチュウの中身はお父さんだったという…。
思っていたのと違うから納得ができないというのは、作り手と意見が合わなかったということで、私が悪い。でも、この、ピカチュウの中身がおっさんだったら面白くない?というところが、本当におっさんである=ライアン・レイノルズがピカチュウの中の人だったというのは本末転倒というか、どうなんだろうと思ってしまった。それとは別に、ライアン・レイノルズご本人の姿が見られたのは嬉しかったです。

あと、エンドロールでポケモンアニメ絵(原作絵?)の渡辺謙とビル・ナイが見られたのは嬉しかった。


ジェラルド・バトラーの潜水艦映画。ゲイリー・オールドマンにはエンドロールを見るまで気づきませんでした。
ノーマークだったけれど、流行っているので観に行ったところ、『バトルシップ』枠だった。

以下、ネタバレです。








潜水艦映画とだけ聞いていた時には時代が第二次世界大戦あたりかと思っていたのですが、はっきりはしないけれど、どうやら現代らしかった。
アメリカが敵をロシアに設定していて、冷戦時代っぽくもあるが、ソ連ではなかった。現代で敵を大丈夫なのかなと思いながら観ていた。
ロシアから攻撃を受けて撃沈された潜水艦についての調査をしに、別の潜水艦が出かけていく。また、特殊部隊4人もヘリでロシアに忍び込むので、二面作戦になっている。

ロシアの大統領命令ではなく、国防相のクーデターだということがわかる。ロシアが敵ではなく、一部が暴走しているだけだったのでほっとした。それでも、アメリカとロシアは敵対はしているし、ロシアの大統領を救うのは気にくわないとは言っていた。

ただ、ロシアの潜水艦に残されていた艦長を救って、最初は捕虜にしていたけれど、そのうちに信頼関係が芽生えてくるのは良かった。呉越同舟が好きなので、こいつは本当に信用できるのか、騙されてはいないかといったあたりから、最初は嫌々協力していたものの、関係が対等になって、絆が芽生える様子が良かった。
狭い潜水艦だし緊張感も増す。誰か一人でも裏切ったら大変なことになるという状況である。その中で、アメリカの艦長はロシアの艦長を信用し、部下たちは艦長を信用する。
ロシアという国全体ではなく、悪い人が絶対的な悪として置いてあり、そいつの暴走を止める(殺す)という目標に向かって、その他がいかに信頼関係を築きつつ、一丸となれるかというのが主題になっているのかなと思った。
ただ、あまり裏切るかも?とは思わなかった。機雷原をロシアの艦長の言葉を頼りに行くシーンは、機雷原や音を出してはいけないゾーン(潜水艦の中の会話も音として漏れるらしく、全員が息をひそめる。レンチを落として拾うシーンなどもある。『クワイエット・プレイス』っぽい)などにひやひやはしたが、ロシアの艦長が嘘をついているというひやひやはなかった。

ちょっと万能すぎるとも思ったけれど、艦長にしても大統領にしても、国ではなく個々人を見ればいい人もいるのだから対話をしていきましょうということなのかもしれない。

特殊部隊も四人きりなのに万能だった。もちろんロシアに潜入するくらいだしやり手の人らが選ばれたということだとは思いますが、それにしても万能。
殺されかけたロシアの要人を案内役にしたり、負傷した若造が遠くからスナイパーよろしく確実に狙ってピンチを救ったり、最後にはその若造をリーダーが助けに行ったりと、彼らの間でも信頼関係が肝になっているようだった。

潜水艦映画というと狭い空間だけのことかと思うけれど、特殊部隊の活躍もあるから外でのドンパチもあるし、駆逐艦が上から潜水艦を狙ったりと、派手なシーンも多いので映画館向け。