トム・ホランドがスパイダーマンを演じるようになってからの二作目。だけれど、『アベンジャーズ』シリーズにも出てきていたから、二作目というのが意外に感じてしまった。監督は前作『ホームカミング』に引き続き、ジョン・ワッツ。
また、『アベンジャーズ/エンドゲーム』の直接的な続きになっていた。そのため、前のスパイダーマン(アンドリュー・ガーフィールド)と、前の前のスパイダーマン(トビー・マグワイア)のように、スパイダーマンだけで観ることができないのはどうかと思う。

以下、ネタバレです。










あの壮大な『エンドゲーム』のラストに続くということで、どうなるのかと思っていた。結果として、その部分がとてもうまかった。
ピーターが通っている学校の生徒が作った、今回の出来事の最中に命を落としたヒーローたちの追悼ビデオが流される。
生徒が作ったものなのでチープで、作った生徒たちもあまり事の重要性がわかっていなさそうだった。
でも、この少し笑える感じをオープニングに持ってくることによって、作品のトーンを決めていたり、湿っぽくなりすぎないような作りになっていて、よく考えられていると思った。私たちの作品に臨むスタンスも決められる。
町のそこかしこにはアイアンマンを偲んだものが残されていたようだったが、最初にアイアンマンのグラフィカルアートを見せられていたら、終始めそめそしながら観ていたと思う。
また、エンドゲームには市民が出てこないという話だったが、本作で市民の様子が描かれていた。なんとなく、私たちはヒーローたちを近くで見すぎていたのを感じた。一般の市民たちの感覚がわかりやすい。適度にヒーローとの間に距離がある。

また、指パッチンで消えていた人たちは5年間、年をとらないというルール説明があった。初耳でした。でもさして物語上は重要ではなかった。

『エンドゲーム』の直接の続編であり、青春映画であり、ヒーロー映画でもある。それぞれの要素の詰め込み方が絶妙なバランスだったのもうまかった。
でも、なぜか物足りなさが残ってしまった。よく考えてみたらその正体は、圧倒的な喪失感だった。
今までがトニー・スタークやアイアンマンでもってたというわけではなくて、彼の存在が消えたことで寂しさを感じたのだ。ここにいないのだとやっと実感した。

本作は新生アベンジャーズを作るのに模索している様子も描かれていた。
ピーターはトニーのことを尊敬してるから受け継ぎたいとは思っている。
でも、まだ16歳なのだ。彼が担うには重すぎる。アベンジャーズに声をかけられたのも最近の話ではないか。
それに、普通の生活を捨てるには早すぎる。大人は彼をせっついていたし、ピーターも葛藤していたが、そんなにはやく大人にならなくてもいいと思う。

ピーターは両親を亡くしている。このシリーズのメイおばさんは世話を焼いてくれていても、どうも親代わりとは思えない。
ニック・フューリーもだめだった。今回中身が違ったけれど、本物はどうだろう?
今回はハッピーが一番親っぽく見えた。
特に、〝レッドツェッペリン〟をバックにトニーの遺した機械をすらすら操るピーターを見て面影を感じてホロリとしているシーンは、そのハッピーを見てこちらもホロリとした。ツェッペリンとピーターは言っていたが、実際にはAC/DC。トニーだしそりゃそう。

ミステリオは、ジェイク・ジレンホールだし、最初から悪役だと思ってたのでそれほど意外さはない。
でも、バーのような場所での種明かしシーンはさすがのジェイク・ジレンホールで恐れ入りました。あんな変な格好で普通のバーにいて大丈夫なの?と思っていたらそういうことだったか。

でも、あんな風にホログラムを駆使されたら、なんでもありになっちゃうのでは…。と思ったけれど、現代の映画のVFX批判の意味もあるのではという意見も見てなるほどと思った。
原作を知らないからわからないけれど、前回のスパイダーマンもやはりトニーを逆恨みする形で敵になっていて同じタイプだった。トニーの敵の多さがうかがえるが同じパターンなのはどうかと思った。

ただ、ドローンを使った空中戦は素晴らしかった。飛ぶもの(スパイダーマン)対飛ぶもの(ドローン)なので、3Dと相性が良さそうだった。けど2Dで観てしまった。奥行きも感じられそうだった。
『スパイダーバース』のラスト付近の戦いを思い出したけど、スパイダーマンはどれもこんなものなのかもしれない。

ゼンデイヤはどのシーンでも可愛く美しく格好良かった。最後、スパイダーマンに掴まって町を移動するシーンは役ではなく本当にゼンデイヤ自身が怖がったり面白がったりしているようだった。撮影方法が気になる。

ちなみに本作はニック・フューリーと一緒にマリア・ヒルがたくさん出てきて、彼女が好きなので嬉しかった。けど、最後で思わず、あー!と言いそうになってしまった。変身されていただけだった。
ニック・フューリーの目にあからさまな猫の爪あとが付いていたけれど、『キャプテン・マーベル』後からかな。
南国っぽいところで休んでいたけれど、ついタヒチを思い出してしまいつらくなった。


一応これで過去シリーズが終わりとのことだけど、それにしては…と思ってしまった。
監督はサイモン・キンバーグ。



以下、ネタバレです。






観たいものが観られなかったことで文句を言うのもおかしいかもしれないけれど、本当ならば、原点回帰というか、人間を信じたいチャールズと過激派ミュータントのエリックの対立と、でも根本では考えが一緒だし、ミュータントとして思うことも同じだから、どこか寄り添う部分もあり…というのが観たかった。最後なのだし。

本作はジーンについての話です。チャールズとエリックは主役ではない。そもそもの部分として、これが納得できなかった。シリーズ最後でなければまだいいけれど、最後なら二人を中心にしてほしかった。
序盤はチャールズ側での話なので、エリックがなかなか出てこない。二人が映画内で揃うことがなかったらどうしようと考えてしまった。しばらく経ってから出てくる。

ジーンは謎の力を手に入れて、その力が制御できなくて、何者かにそそのかされるけれど、その何者も謎の力もなんだかわからない。なんだかわからないものと、エリックとチャールズたちは戦い続ける。これ、最後まで何と戦ってるのかわからなかったんですが、原作を知っていたらわかるのだろうか。
なんだかわからない敵は感情がないことが長所と言っていたけれど、その役にジェシカ・チャステインをあてるのはうまいと思ったし、感情が無さそうな役としてソフィー・ターナーをあてるのも良かった。二人が並んでいると同じ系統なのがよくわかる。けれどやはり、ソフィー・ターナーは、今はゲームオブスローンズのサンサの印象が強すぎた。

ジーンは力を制御できないけれど、チャールズの元も離れるし、エリックにも受け入れられない。力が制御できない中でレイヴンを殺してしまうけれど、レイヴンはチャールズにとってもエリックにとっても、またハンクにとっても大切な人なんですよね。これは対比として描いてるのかはわからなかったけれど、大切にされるレイヴンと大切にされない(どころか、目の敵にされる)ジーンの違いが浮き彫りになってしまっていて可哀想だったし、ちょっとジーンの味方になってしまった。彼女のことも受け入れてあげてよ、と思った。

謎のなんだかわからない敵も、ジーンを受け入れるほどではなかったし、とにかく目的がわからない。エネルギー云々と言っていたけれど、それで何をしたいのかもよくわからなかった。私の星が滅ぼされたとか言ってたから宇宙人で同じように地球を滅ぼすつもりだったのだろうか。

あと、個人的にはバトルにクイックシルバーが連れて行ってもらえなくて、例の周りはスローなのに彼だけがひょいひょい動くスマートなお馴染みのあれがなかったのが残念。二回やったししつこいと言われたのかもしれないけど、最後だしやってほしかった。
エリックが父親で…みたいな話もどうなったのか不明。あれは前作で終わったことなのだろうか。とにかく、エリックとチャールズ自身の話がほとんど出てこなかった。

それなのに、最後のチェスはどういうことなのだろう。二人がチェスしている空を火の鳥が飛んできれいに終わらせたつもりなのかもしれないけど、全然うまくない。ROMA気取りかと思ってしまった。
そもそも、チェスのくだりが取ってつけというか、こちらへの目配せとしか感じられなかった。こんなの付けるならもっと本編をどうにかしてほしかった。本編で二人の話が出てこないのに、打ち上げだけで仲良くされても。

本作はもうどうにもならないけど、あと一作つくって二人が中心の話が見たかった。

良かった点は、マグニートーが地下鉄を地下から引っ張り出すところと、狭い列車の中でのバトルと、列車の後ろの車両をメキメキと折り曲げるところ。


ラース・フォン・トリアー監督作。
アメリカでは修正版での公開だったけれど、日本は無修正版での公開とのこと。どのあたりが修正されているのかは不明。
体が変な形に曲げられた人のポスターも話題になっていました。あのポスターは『サスペリア』を思い出した。
連続殺人犯の告白。主人公ジャック役はマット・ディロン。ところどころ、ジム・キャリーにも見えた。

以下、ネタバレです。











連続殺人犯で誰かと話しているモノローグがついて話が過去に遡っているようだったので、刑事と犯人が話している、取り調べの場面なのかと思った。犯人が罪を告白して、それが映像になって出てきて、ラストは二人が対峙するのかなと思っていた。
しかし話はそう単純ではなかった。相手の正体は一向にわからない。もう一人の自分なのかとも考えてしまったが違った。

私たちは、ジャックが殺人犯なのを知って観ている。
だから、最初、ジャックが車を運転していて、車が壊れた女性が絡んでくるシーンはひやひやした。でも、女性の言ってることが、ジャックを馬鹿にしたり、イライラさせられることばかりだったので、これは殺されても仕方がないのではないか?と思ってしまった。

ジャックは連続殺人犯なのでこの先もどんどん人を殺しますが、最初の殺人(映画の中での最初というだけで、ジャックにとっての最初かどうかかはわからない)が共感まではいかずとも仕方ないなと思わされるもので、殺人犯が主人公でも最初から拒絶感はわかなかった。

最初はシンプルに顔を殴打するものだったけれど、絞殺の上、胸を刺すとか、銃を使って倒れたところに二、三発撃ち込んだり、逃げる親子を子供たちだけ先にスナイパーよろしく狩りのように撃って子供(死体)と母親(生きてる)と疑似家族的にピクニックをしたりと殺し方が多彩。
殺した死体は持ち帰って冷凍保存するのでばらばらにはしない。怨恨などもない。むしろ、死体にポーズをとらせたりと遊び始めていて、愛すら感じた。

ジャックは強迫性障害で潔癖症のため、人の家で殺すと綺麗にしたつもりでも、あの場所に血が残っているのではないかと気になってしまって、何度も現場に戻っていた。鍵の締め忘れとか火の付けっ放しとかを心配して何度も家に戻っちゃうあれ。この場面、笑いが起こっていて笑っていいものか悩んだけれど、結局一緒になって笑ってしまった。滑稽さもある。

別に殺人を悪いことだと思っていないから堂々としているせいか、犯行が杜撰で大胆でもばれない。警察が馬鹿なだけかもしれない。運がいいのかもしれない。

殺した死体の使い方もおしゃれだったけれど、映画の作り自体もおしゃれだった。いくつかの繰り返されるパターンがジャックを知るヒントになるのだろうか。

グレン・グールドのピアノ演奏。彼も強迫性障害だったらしい。
デヴィッド・ボウイの『Fame』が繰り返し流れるのは何かしら評価されたかったのだろうか。家も建てていたし、死体の使い方もだけれど、芸術家気質でもある。建築も、実用的とは思えなかったのでアートである。
また、紙に書かれた単語を次々と投げ捨てるのは、ボブ・ディランのPVからなのだろうか。(映画だそうです)
マット・ディロンが恰好良く、どんなシーンもはまる。
街灯の下を歩く人のアニメ映像も何度も出てくる。歩いていて、街灯の真下に立った時が影が一番短く濃いのが殺人の衝動に似ているとのこと。

虎と羊の映像もよく出てきた。
虎と羊はわからないが、ところどころでポツポツ出てきたものが後半になると宗教色が一気に濃くなる。ジャックは本当に地獄へ行く。
地獄への使者が、最初から声が聞こえているジャックの対話の人物ヴァージだった。ヴァージというのはダンテの『神曲』の中でダンテを導く存在のウェルギリウスのことらしい。
終盤でジャックは友人(なのかも不明)のS.P.を殺して彼の着ていた赤いフード付きの上着を奪う。ここから後半はジャックはずっとその格好だけれど、まさにダンテのそれだった。
また、ドラクロワの『ダンテの小舟』を模したシーンもある(一発撮りとのこと)。別名、『地獄のダンテとウェルギリウス』ということで映画はそのまま。『神曲』の中の一場面らしい。

大鎌を振るって草を刈る男たちも出てくる。ジャックが幼い頃に見た風景であり、そこは地獄ではなく楽園と言われていたが、大鎌=死神のイメージがあるけれどどうなのだろう。
でも、ジャックはそこへ戻りたいと思っているのか、郷愁にかられているようだった。

ジャックがああなった原因については描かれない。よく両親が原因だったりというのも出てくるが、幼い頃からアヒルの足を切っていたし、感情は普通ではないようだった。
しかし、ヴァージに何度か問われている通り、愛を求めてはいたのかなとは思う。それで冷凍庫にあれだけ人間(死んでますが)を集めていたのではないか。コレクションに囲まれている時の安心感はよくわかる。その対象がジャックは自分が殺した死体だったというだけだ。

地獄で、上に行きたいと願うジャックは危険をおかすが、結局失敗をして戻れない部分へ落ちていってしまった。落ちた絵がポジからネガに変わるのもおそらく理由があるのだと思うけどわからなかった。
すぐにエンドロールへ入るのですが、流れるのが『Hit The Road Jack』。出て行ってジャック、二度と戻ってこないで、もう二度と、二度と、二度と という歌詞が軽快なリズムにのって歌われる。ギャグなのだろうと思う。

この曲も軽快だが、本作はトリアー監督にしては、軽快でそのせいで薄口に感じた。強烈なシーンが少ない。
死体で家を作るシーンもあったけれど、どうもドラマ版『ハンニバル』を思い出してしまった。あちらのほうが強烈さでいったら上。威張れることではないとは思うけれど。





邦題は『アナ雪』からかと思ったけれど、原題がAnna and the Apocalypseなのでそのまんまだった。
青春ミュージカル+ゾンビ映画という食い合わせが悪いとしか思えない、でもおもしろそうな組み合わせで気になっていたけれど、バランスがとても良かった。また季節柄だとは思うが、宣伝ではまったく触れられてないけど、わかりやすくクリスマスムービーでもある。
本当はクリスマス時期に観たかったけど、青春ものもミュージカルも当たらないと言われている中、有名俳優が出てるでもない本作は日本で上映してくれただけでもありがたいので、シーズンの希望までは呑まれなくても仕方ない。

もともとは『Zombie Musical』というタイトルの短編でこれを作ったのが、ライアン・ゴズリングにシリアルを食べさせる動画で話題になった彼。若くして亡くなってしまい、それを本作の監督、ジョン・マクフェールが引き継いだ。

以下、ネタバレです。







まずミュージカル映画の重要なところですが、歌がどれもいい。
若者たちは鬱屈していて、ここは私の居場所じゃないと思っている。退屈な町から逃げ出したい。
『アメリカン・アニマルズ』『イングランドイズマイン』でも見られた、自分にふさわしい居場所を求める若者というのは、青春特有のものでもある。
主人公だけではなく、他のキャラや、モブのようなキャラもみんなが〝ハリウッド映画のようなエンディングは訪れない〟と歌っていた。

その中でアナの友人のリサは、現状に満足しているようだった。能天気で明るい。彼氏のクリスはゾンビ映画オタクと言われていたけれど、ゾンビ以外にも映画を観ていそう。ジャンル映画好きなのか。
二人は学内でもちゅっちゅしてるし、バカップルに見えたので、ホラー映画の法則に従うと早々にいなくなるパターンだなと思った。

アナの友人のジョンはアナのことが好き。鈍臭いながらも、きっと最後にはアナの気も変わるのかなと思ったけれど、本当に友達だった。でも、男女間であっても、別に恋人に昇格する必要はない、それでも大切な人であることには変わりないというのは今風だと思う。

アナとジョン、リサとクリス、そしてステフが主要人物になっている。

また、いじめっ子グループのニックもアナのことを狙ってるだけなのかなと思ったけれど、元彼だった。中盤にちゃんと明かされるまでわからなかったのは最初に話を聞いてなかったせいかもしれない。

キャラが様々出てくると青春学園ものっぽいけれど、ゾンビがちらちら映ったり、謎のウイルスが云々と不穏なニュースが流れていたり、びっくり描写があったりとゾンビ要素を混ぜ込もうとしてるのは感じた。
この時点では、ゾンビ要素はいらないんでは…と思ってしまった。

一晩寝たら、町にゾンビが大発生していた。でも、アナは気付かず、イヤホンをして歌って踊る。しかも、それがハッピーな曲で、映画を観ている側に聞こえるのもその音楽だから、ハッピーなBGMの後ろでゾンビが人を食って、パニックが起こっている描写が妙だった。ミュージカルにゾンビ要素を入れたらこのちぐはぐさが生まれるよな…と思う描写だった。でも、もちろんこの描写がずっと続くわけではない。

ここからゾンビが本登場。
ここまで20分くらいらしいんですが、上映時間98分のうちここまで本格的なゾンビなしとは。これ、ゾンビ出なくても良作では……と思ってたけど、出てきたら出てきたでこれがいい。

首吹っ飛ばすとかトイレの蓋とか残虐描写もあるけど腸は出てこないし、そこまでではないかと思う。今作のゾンビルールは、走らないタイプ、噛まれるとゾンビになる、頭を潰せばいい、音に反応といったところ。

ゾンビは敵ですが、序盤は笑えるシーンも多かった。ギャグは長編になる際に足された要素らしい。

クリスとジョンは、ロバートダウニーJr.はどうなったと思う?とかライアン・ゴズリングはゾンビになってもかっこいいに違いないとか、ボンクラトークを繰り広げてるんですが、その裏で女子二人が勇敢にゾンビを倒していた。男だから強い、女は守られているみたいなのはない。元彼はマチズモキャラかもしれないけれど。
アナの制服もパンツスタイルだった。ステフは男装しているだけかと思ったけれど、恋人が女性のようだった。このようなキャラの混ぜ方もとてもいい。よくある性別のくくりがないのが気分いい。

アナの元彼たちいじめっ子軍団は、スーパーで強奪をしていてろくでもないの典型みたいな感じ。彼らの歌がここで初めて出てくるけど、ちょっとR&B風でセクシーな曲だった。情け容赦なくゾンビを殺していくけど血も涙もないし、絶対にすぐに食い殺されるだろうなと思っていたけど、元彼だけは生き残るし、彼の行動に一貫性が見えてきて、頼り甲斐があって恰好良く見えてきてしまって困った。
また、彼はゾンビになった父親を嫌々殺している。父に正しいことをしろと言われてバットを渡されたらしい。父殺しというつらいイベントを乗り越えて大人になっているのだ。
この人に関しても違う面を見せられると好きになってしまう。

最初気にくわないと思っていても、違った一面を見せられるだけで多角的に知ることができるしキャラも立体的に見える。
カップルに関しても再会以降は、おばあちゃんのことを気遣ってる優しい子なのがわかるし、ステフを救おうと必死になっている様子が可愛かった。

『セックスエデュケーション』もそうでしたが、キャラの違った一面を見せられてキャラ全員を好きになってしまうのは青春群像劇ではよくあること。全員幸せになって!と思うけれど、そこはゾンビものなのだ。

噛まれたジョンや父はアナをかばって犠牲になる。カップルもステフをかばう。記憶が薄れゆく中で、すれ違いざまに手を合わせるシーンに泣かされた。こんな形でゾンビセンチメンタルを持ってくるとは。

監督のインタビューでは、「後半が生きるように最初のパートをちゃんと見せたんだ!」と言っていて、そんな残酷な…と思ったけれど、それこそがゾンビものの醍醐味ですよね。ゾンビ映画にあるのは怖さとかはらはらしたスリルだけではない。

どのキャラも好きになったけど校長だけは別。後半に行くにしたがって、悪い部分が増えていって、彼がゾンビの元凶なのでは?と思ってしまった。そんなことはなかったけど、ほとんど悪役です。
彼の曲がパンクっぽいのも合っていておもしろかった。妙に高い声も憎らしい。
また、悪いことをしたキャラは残酷に死んでもいいの法則が発動してたんですが、それ伏線だったのか!という伏線の張り方だった。1回目の時に不自然な気はしていたので、うまい!とは思わないけど、なるほどと思った。

アナは特効薬ができると言っていたので、最後に降ってきているのが雪に見せかけた薬で、みんな人間に戻ってめでたしめでたしと終わるのかと思った。
そんな甘いラストではない。普通の雪だった。

途中、アナが、「暴動や革命は別の国のことだと思ってた」と言っていたけれど、確かに、ゾンビはありえなくても、戦争や内戦によって、昨日までの世界が変わってしまうことはある。
今まで考えていた明るい未来が突然消えてしまうこともありうるのだ。
アナのこのセリフがあることにより、ゾンビ映画なのに想像できる未来になっていたのがおもしろかった。
今のところはまだ生き残ってるからこそ、希望は失わないのだという力強さを感じた。ゾンビ映画とはいえ、メッセージは青春映画が発するものと同じだった。



『X-MEN2』の脚本などのマイケル・ドハティ監督。
単体の作品だと思っていましたが、レジェンダリー・ピクチャーズのモンスターバースシリーズ3作目とのこと。

以下、ネタバレです。







モンスターバース1作目の『GODZILLA ゴジラ』に出ていた芹沢博士(渡辺謙)とグレアム博士(サリー・ホーキンス)が出てきて、繋がっているのを知った。また、2作目の『キングコング:髑髏島の巨神』もエンドロールの最後にゴジラの話がちらりと出てきたので、その繋がりとのこと。
ただ、本作は髑髏島の話は出てくるけれど、キングコングは出てきません。巨大生物がたくさん出てきて主要なもの以外はわからないものもあったので、髑髏島にいた何かは出てきていたかもしれない。

本作は巨大モンスター同士のぶつかり合いが見せ場であることは間違いないし、その面で話題になっていた。人間ドラマが薄いと言われていたけれどそんなことはなかった。
最初にマディソンという少女が別居しているのか遠くにいる父に『母さんが心配』とメールを送っていたけれど、母は見た感じ心配されるほど変なところはなかった。仕事も普通にできているようだった。
しかし、この母の目的が、地球を汚染しているのは人間だから、モンスターに浄化してもらおうという、所謂サノス的なもの。それで、巨大モンスターを次々に蘇らせていく。

蘇らせることはできても人間にできることは限られている。放射能の力で瀕死のゴジラにパワーを与えたことで彼が味方になりはしたけれど、基本的に言うことを聞くタイプではない。また、モンスターというよりは巨大なだけで動物なのだから共存しないととも言われていた。

本作の主要なモンスターはゴジラ、モスラ、ラドン、キングギドラである。そのどれもが登場シーン、バトルシーンどれをとってもいちいち恰好いい。
『パシフィック・リム』でも見得を切るようなポージングが凝っていて、デルトロは本当に巨大ロボが好きなんだな…と思ったりしたのですが、本作も監督の巨大モンスター愛が存分に感じられる。
キングギドラは三つの首それぞれに違うモーションアクターがついていたというのもいい話。密かに名前がついてるとのことですが、性格の違いもわかった。もっと見たかった。
ラドンはスネ夫とかロキとか、おかしなあだ名がついていて観る前から気になっていたけれど、ラストでこれかー!というシーンがあった。お前死んだはずでは…というところからの、ゴジラ様にへこへこする感じは笑ってしまった。
モスラについてはどのシーンも神々しく描かれていた。羽ばたくと光の粉が舞う。チェン博士が双子であることも示唆されて、モスラのことはぼんやりとしか知らなくても、設定から愛を感じた。また、あのテーマ曲も使われます。
ゴジラはシンゴジラのような筋肉質ではなくずんぐりむっくり体型ですが、重量感があっていい。背びれが順番に青く輝いたり、形が変わるわけではないけれど赤く輝くのも恰好良かった。キングギドラの首を丸呑みしているのも、強い!怖い!といった感じで良かった。もちろんテーマ曲は良い場面で使われる。

また、『パシフィック・リム』っぽいと思ったもう一つの要因が人間側から巨大モンスターたちの戦いを見ているようなカメラワークです。もちろん、ゴジラとキングギドラがプロレス的に戦っている様子も恰好いいけれど、人間の主要キャラが逃げてる後ろですごいでかいのがやりあってて砂埃が飛んできたりというのは臨場感や迫力があった。
あと、予告でも使われていた、マディソンが不敵に笑うシーンは、キングギドラにやられそうになっているマディソンを助けるような形でゴジラが現れたシーンでゴジラを見ての笑みだった。恐怖を感じながらも、虚勢を張りながら、よく来たわねと歓迎するように強がる笑み。いろんな感情が内包されていてうまい。マディソンを演じたのがミリー・ボビー・ブラウン。映画は今回初だけれど、『ストレンジャー・シングス』に出ています。
ここのゴジラはもちろんマディソンを助けようと思ったわけではなく(キングコングとは違う)、王気取りのキングギドラを倒そうとしただけだとは思うけれど、さながらピンチに駆けつけるヒーローでした。

単純に人間対モンスターというよりは、モンスターたちの戦いは人間など気にしてないし、人間同士の意見は対立していても、モンスターの前ではなすすべがない。
中でも何度も言われていたけれど、モンスターたちは神であり、人間たちがどうにかできるような存在ではないのだ… というモンスター至上主義は監督の意見でもあるのだろう。おもしろかったです。