『ペーパー・ムーン』のピーター・ボグダノヴィッチ監督の13年ぶりの新作とのこと。76歳です。ちょっとタイトルというか、邦題がわかりにくい。どうしたって『マイ・フェア・レディ』と混乱するし、あっちはもう何年も残っている名作だし、この映画に関して何年か後まで残そうという気がないのではないかと思ってしまう。もちろん、『マイ・フェア・レディ』にかけたのだろうし、そんな面もなくはないけれど、原題の『SHE'S FUNNY THAT WAY』でも良かったと思う。

以下、ネタバレです。






オーウェン・ウィルソンと女性が三人並んでるポスターに“ロマンティック・コメディ”と書いてあったけれど、別にロマンティックなことにはならない。
最初だけかな…。アーノルドがコールガールであるイジーとの間に流れる空気感は確かにロマンティックだったかもしれない。二人の恋が始まりそうだった。しかし、アーノルドはコールガールを呼ぶ前に家族と電話していたし、当たり前だけれど、家族には隠していた。二人を中心としたラブストーリーにするには無理がある。

そう思っていたら、特に二人の間は進展もなく、アーノルドが発したロマンティックを匂わせるキメセリフは他のコールガールにも囁かれていたことが発覚。そこからはアーノルドの妻デルタはもちろん、イジーのセラピストのジェーンやらセラピストの恋人で脚本家ジョシュ、舞台の役者セスなどが入り乱れる。

これが本当に入り乱れるという感じで、アーノルドはデルタのことを愛してるっぽくはあるけれど多数のコールガールと関係を持っていたからデルタは愛想をつかす、セスはデルタに言い寄るが振られる、ジョシュはジェーンと付き合っていたがイジーに魅かれてしまう。なんやかんやで最終的にはセスとジェーンが恋に落ちたりする。
映画自体が93分とコンパクトな中で、目まぐるしく状況が変わり、登場人物たちも早口で、時に下品な言葉を交えながら話す。会話によって話が進んで行く様子は舞台っぽくもあるし、恋愛群像劇はウディ・アレンっぽくもある。

偶然が引き寄せた人物たちが関係を変えながらわちゃわちゃやるのは年末とかお正月っぽいお祭り感がある。でも、この季節とはいえ、クリスマスデートムービーとは少し違う。恋に落ちる瞬間は描かれていても、一貫してしっかりした気持ちを持って誰かを好きだ!という人はいないので、ロマンティックとは違うのではないかと思う。登場人物、わりと全員ロクでもないです。

ただ、ロクでもないし、とっかえひっかえだと下品なコメディになってしまいそうだけれど、こじゃれていて、キュートで、観終わった後に何か多幸感のようなものが残る。これは監督の手腕なのかもしれない。
またプロデューサーとして、ウェス・アンダーソンとノア・バームバックが名を連ねているのもいい。オーエン・ウィルソンを監督に紹介したのもウェス・アンダーソンらしい。

アーノルドはいろんなコールガールを同じセリフで口説くというロクでもなさですが、オーエン・ウィルソンだからなのか、あまりいやらしくない。
ジェーン役にジェニファー・アニストン。最近、『モンスター上司』や『なんちゃって家族』などコメディで見かけることが多いけれど、早口下品が良かった。電話の相手が自分のことしか話していないとき、電話を切った後に「me,me,me,me,me!」とうんざりしたように言うのがとても好きでした。
デルタ役のキャスリン・ハーン、最近見たな…と思ったら『ヴィジット』のお母さん役だったし、ジョシュ役の人も何か見たことあると思ったら『ネブラスカ』のウィル・フォーテだった。
このように演技のうまいしっかりした俳優さんたちを揃えているのもいい。

そして、群像劇の中でも主演と言っていいと思うけれど、イジー役のイモージェン・プーツがチャーミングでキュート。元コールガールだから肌色多めの服を着ていたり、歩き方もひょこひょこしていたり、なんとなく育ちが悪そうだったり、ブロンドだったりするけれど可愛かった。
コールガールから女優になった人物としてインタビューを受けていて、彼女が話す内容として映画が進行していくのだけれど、最後に「ジョシュと別れたんですって?」という質問に「新しく付き合ってる彼がいて、このインタビューも彼の勧めで受けることにしたの。過去のある女優はネタになるって」と答える。彼はカンフー映画好きで…というようなことを話しつつも、きっと出てはこないのだろうと思っていたら、急に登場した彼がクエンティン・タランティーノだったので、お前か!と立ち上がってつっこみを入れそうになってしまった。あれはずるい。お得意の早口セリフがあったけれど、呆気にとられていたので何を言ったのかまったくおぼえていない。でも、イジーは新しい彼と連れ立って、インタビューを受けていたバーの階段をのぼり、光の射す外へと消えて行く。彼女自体が夢だったのではないかと思われるほどの鮮やかな退場。それは、もしかしたらすべて彼女の作り話で、それもタランティーノ(エンドロールでタランティーノは役名がhimselfになっていた)の入れ知恵だったのではないかと思うほど。
でも、登場人物のその後みたいな映像が本編後に入るのでそれは無さそう。

この映画の幕の引き方が素敵で、多幸感の原因はこのあたりなのかもしれない。あと、主役が最終的には幸せになっているのだから、やはりロマコメでもいいのかもしれないし、クリスマスデートムービーとしてもいいのかもしれない。

ちなみに、タランティーノは監督の友人らしいです。



ジェームズ・ディーンと彼が大スターになる前夜に彼を撮影したカメラマン、デニス・ストックを描いた実話。あの、黒いコートを着て、タバコをくわえ、背中を丸め寒そうに歩いている有名な写真を撮った方。
ジェームズ・ディーン役にデイン・デハーン。似ても似つかないのではないかと思ったけれど、映画を観ると、不思議とジェームズ・ディーンに見えてきた。髪型はもちろんだけれど、三ヶ月で11キロ体重を増やしたらしい。横を向いたときに顎の肉が気になったが、体型を変えるために二時間ごとに食べていたとのこと。

以下、ネタバレです。実話なのでネタバレも何もないですが一応。









この映画でとらえられているのは、とてもゆったりとした時間なので、長期間の話なのかと錯覚しそうだけれど、1955年初頭のほんの少しの期間である。しかも、数ヶ月後にはこの世にはいない人物との話。実在の人物が描かれているから伝記映画ではあると思うけれど、ディーンが亡くなるシーンなどはない。同じ年の9月に亡くなっているから入れようと思えば入れられたとも思うけれど、あくまでも、ディーンの人気が爆発する直前から、カメラマンのデニスがディーンの写真を撮るまでの話。

監督のアントン・コービンがもともとフォトグラファーだからか、静謐で写真っぽい映画に感じた。これは前作の『誰よりも狙われた男』の時も思ったことだったが、その時には終盤にエモーショナルな瞬間があるからそれを生かすための作りなのかと思っていたが、作風なのかもしれない。
さすがに人物の配置などの構図が凝っていて、それがどんどん出てくるものだから、まるで写真展を見に行ったような気持ちで映画を観ていた。

あと、陰影の付け方もうまい。ディーンがこちらを向いた時、片目が影になって隠れていて、何を考えているのかわからなくなるシーンもあった。得体の知れなさやディーンの可能性の底知れなさが強調されていた。

影もそうだけれど、主演二人に関しては黒いスーツやコートという服装が多かったように思う。ジェームズ・ディーンのもともとの写真がモノクロだったせいもあるかもしれないけれど、なんとなく思い出してみても、モノクロ映画を観たのではないかという印象が残っている。故郷のインディアナの農場は雪が積もっており、その中に黒い服でたたずんでいるシーンもあった。ポスターも黒い服の二人が乗る車の色は黒である。

フォトグラファーの映画をフォトグラファーが撮っているということで、きっと監督はデニスの気持ちがよりわかったのではないかと思う。デニスはディーンの人生の瞬間を切り取った。監督もその方法を知っているから、だらだらと自動車事故のシーンなどは入れなかったのだろうと思う。

デニス・ストック役にロバート・パティンソン。デイン・デハーンも彼も、1986年うまれである。実際は、デニス・ストックが1928年、ジェームズ・ディーンが1931年と少しだけデニスのほうが年上だったようだ。いずれにしても同世代である。
それでも、二人の間に友情があったのかどうかが映画を観た限りではいまいちよくわからなかった。

デニスはいち早くディーンの才能に気づいて、写真を撮らせてくれ撮らせてくれと口説き落とすけれど、撮ってそれがLIFE誌に載ったあとは、次はジャズミュージシャンを撮るなどと言っていて、別に、ジェームズ・ディーン専属のカメラマンの話ではないのだということを改めて思い知らされた。

故郷へ同行したのだから友情は芽生えていたのかもしれないけれど、そのあと、ディーンが『エデンの東』のプレミアを欠席し、「一緒にLAへ行かないか?」と誘ったときも、「仕事があって…」と断っていた。
デニスにとってのディーンはなんだったのだろう? それこそ、彼にとっても人生の中で一瞬通過しただけの人物だったのだろうか。

写真を撮るまではストーカーのようにディーンにつきまとっていて、逆にディーンの気持ちがよくわからなかった。
実際のジェームズ・ディーンがどんな人物だったのかは知らないけれど、ぽやぽやした喋り方で、あまり人の話は聞いていない。常にマイペースといった感じで、自分のことしか考えていないように見えた。

二人の心が通い合ったのもほんの一瞬、故郷に一緒に行った時だけだったのかもしれない。その瞬間が写真として今も残っているというのが感動する。デニス・ストックも2010年に亡くなっている。

ただ、退廃的なムードはなかった。デイン・デハーンとロバート・パティンソンというなんとなく病的な印象の二人が共演となったら、もう少しなにか、ドラマティックなことがあるかなとも思ったけれど、案外淡々としていた。先行のスチルで観て受けた印象よりは何も起こらないというか。二人の距離があまり近づかなかったというか。
もちろん、『キル・ユア・ダーリン』のようなことにはならないにしても、同系列のイケメン二人を共演させているのだから、もう少し何か、少女漫画的な要素を入れてほしかった気もする。



待ちに待った新作ですが、『エピソード1/ファントム・メナス』を待ちに待ってずっこけた身としては、期待しすぎるのもあまりよくないのかなとも思っていた。それでも、一体誰のフォースが覚醒するの?などと言いながら、期待しすぎのまま観賞しました。

以下、ネタバレです。









今作を観るにあたってあらためてエピソード4〜6を見直してみて、スター・ウォーズのこうゆうところが好きなんだよなあと思う場面がいくつかあり、それがしっかりと今作にも受け継がれていた。

例えば、最初に宙に浮いた四角っぽいバイクのようなものにレイが乗っていた時、見たことのない変わった形をしていて、それだけで嬉しくなった。
喉がカラカラのフィンが象と豚を掛け合わせたようなおかしなエイリアンと水を飲んでいるシーンにしてもそう。
もう序盤からして、このテイストを求めていたと思った。

変わったエイリアンがたくさん集まる酒場が出てきたのも良かった。バンド演奏も少しですがあって、これこれ!と思いました。

今回監督を引き継いだJ・J・エイブラムスは49歳なんですが、たぶん、彼自身がスター・ウォーズの大ファンなのだろう。簡単に言ってしまえば彼のスター・ウォーズ愛がしっかりと感じられ、受け取ることができた。

エピソード1〜3だか特別編だかが不評で、ファンメイドのものが好評だったなんて話もあったけれど、その感じに似ているとも思う。同じ志を持った方が作ってくれているのだから、好きにならないわけはない。

ドロイドに重要なデータを託して放つとか、敵要塞の破壊なども旧作のオマージュなのかなとも思う。

また、予告でも号泣しましたが、ハン・ソロやレイア姫が出てくる。しかも、ハリソン・フォードとキャリー・フィッシャーなのである。エピソード6が1983年、今年が2015年。32年の時が経っている。当たり前だけれど、その分年もとっているが、その時の経過は私たちの時の経過でもあるので、ノスタルジックな気持ちになり泣けてしまう。特に、ハン・ソロがレイアを抱きしめ、愛のテーマが流れたときにはもうグッとくるなんてもんじゃない。
まあそれに、ファンメイドでありファン向けであることを考えると、違う役者さんを使うという選択肢はないですよね…。

今作の悪役というか、ダースベイダーワナビーの若者、カイロ・レンがハン・ソロの息子だとわかったとき、そして、ハン・ソロとカイロ・レンの一対一での対決が始まった時に予感はしていたけれど、やはり、ハン・ソロは息子に殺されてしまう。
一瞬、殺すなら最初から出さないでほしいとすら思ってしまったけれど、今作でハン・ソロの出番は思ったよりも多いし、ノリがそのままなので見られて良かった。もっとゲスト的な役割なのかと思っていたけれど、準主役です。

あとミレニアム・ファルコンですよね。エピソード4の時点でもオンボロとか言われていた宇宙船ですが、今作でもまた古いなどと言われている。確かに、初登場以来40年近く経っているし、古いのは仕方ないんですが、砂漠の地表にガッコンガッコンぶつかりながら宇宙に飛び立ったときには感慨深かった。

しかし、旧作からのキャラや宇宙船、オマージュなどに歓喜しつつも、新要素やキャラ、演じた役者さんとどれもとても良かったのだ。昔から好きなバンドがあって、でも最新のアルバムは好きではないので、ライブでは昔の曲をやってほしい…なんてことがよくあるけれど、最新のアルバムも好きになれるこの感じはとても幸せなことだと思うし、嬉しい。

まず、ドロイドの新キャラであるBB-8が本当に可愛かった。コロコロ動き回る様子はもちろん、影からちょこっと覗いたり、サムズアップをしてみたり、感情の表現が豊かだった。映画を観る前には新キャラが好きになれるかわからなかったのでグッズは買わないようにしていたけれど、おもちゃが欲しくなった。

レジスタンスのポー・ダメロン役にオスカー・アイザック。常々、オスカー・アイザックは目が暗いので真っ当なヒーローにはなれないのではないか…、どこかで帝国軍に寝返るのではないか…と思っていたけれど、どうもそんなことは無さそう。今作のだいぶ序盤ですでに帝国軍にとらえられていたけれど、拷問されても吐いていなかった(拷問されている姿が少しセクシーに見えてしまったのは、私がオスカー・アイザックが好きだからだと思う)。

それに、最後の要塞へ侵入するシーンでは、フィンやレイやハン・ソロが地上戦をしているのに対して、ポー・ダメロンはうまいパイロットなので宇宙でドッグファイトをしていて、うまいこと部隊を二つに分かれるという役割を担っていたと思う。たぶん裏切りません。

カイロ・レン弱すぎという意見もありますが、一番の悪役はスノークだし、カイロ・レンは父を殺したところで次作でもっと邪悪になるだろうし、今回はこの程度でいいと思う。未熟な弱い悪役として良かったと思う。演じたのはアダム・ドライバー。この人もひ弱そうというか暗そうでいい雰囲気。オスカー・アイザックとは『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』でも共演している。

ちなみにスノークがアンディ・サーキスだった。あと、エンドロールでルピタ・ニョンゴの名前が出てきてどの役かまったくわからなかったんですが、マズ・カナタ役でした。

ドーナル・グリーソンも出てるって聞いたけど出てこなかったな…と思ったら、ハックス将軍役だった。思いっきり顔も出ていたし、このイケメンは誰だと思いながら見ていた人だった。ドーナル・グリーソンは『Frank』や『アバウト・タイム』の印象が強くて、ナヨナヨっとした少し縮れた赤毛の情けない男の印象だったので、今回のようなオールバックで悪そうな役だとわからなかった。なんとなくレジスタンス側かなとも思っていた。

あと、カメオというか、言われないと気づかない関連では、レイが廃材を買い取ってもらう回収屋のウンカ・プルート役にサイモン・ペグ。CGではなく、ちゃんと中に入って演技をしていたらしい。

ダニエル・クレイグもストーム・トルーパー役で出ているとか。捕まったレイがフォースの力で「拘束を解いて、扉を開けて、離れろ」と命令するストーム・トルーパーだそう。最初、「は?何言ってんの?」みたいな感じでいきがりつつも、結局命令されてしまう役ですね。セリフもある。エンドロールのスペシャルサンクスのところに007で使われる“パインウッド・スタジオ”の名前があったのでなんでだろうと思っていたけれどそういうことだった。

また、帝国軍の中にトーマス・B・サングスターがいるらしい。もう一度観たら探してみよう。今のところ聞いたのはそのあたりなんですが、他にも誰か出ていたりするのかもしれない。

今作は主役とも言えるレイとフィンがとにかくいい。新しい主役が好きになれなかったり、旧作キャストのほうがいいと思ってしまったらどうしようと思ったけれど、二人とも大好きになってしまった。二人とも、どの場面でも一生懸命だし、好感が持てるし、なんとなく可愛い。フレッシュな魅力にあふれている。

フィンを演じたのが『アタック・ザ・ブロック』のジョン・ボイエガ。今作でも演技のうまさに感心した。特にマズ・カナタのいる酒場から自分だけが逃がしてもらうシーン。自分の弱さを認めるのが良かった。葛藤がありつつも、それでも仕方ない、自分は逃げるのだという決意。それは、幼い頃に攫われてストーム・トルーパーにされ、そこでの過酷な生活には戻りたく無いという気持ちの強さなのだと思う。一旦逃げられたんだから、もう二度と。フィンがこれまでどんな目に遭ってきたのかが、そのシーンだけでしっかりとわかるのだ。

レイを演じたのはたぶん新人さんなのかな。でも、彼女もとてもいい。
砂漠の星、ジャクーで誰かを待っている少女。でも、突然フィンが現れて、手を引いて逃げる。レイはたくましく生きているけれど、そのままでは何も動かない。無理矢理に手を引っ張られて、新しい世界へ冒険へ出る。物語が動き出す。
もうこのシーンだけで、物語の、スター・ウォーズ新作の導入部分として完璧だった。ワクワクしてしまう。

後半、カイロ・レンとのチャンバラシーンがある。雪に突き刺さったルークのライトセイバー。それを自らの元にたぐり寄せようとするカイロ・レン。ライトセイバーが浮き上がり、ああ取られてしまう…と思うと、その後ろにいるレイがそれをがっちりと掴む。アツすぎる。まるで、ライトセイバーが後継者を選んだかのようだった。

そして、サブタイトルにもなっている、フォースが覚醒する時に、レイが着ている服が、今までただの砂漠の民のような衣装にしか見えなかったのに、しっかりとジェダイの胴衣に見えるのだ。素晴らしい。

最後も、レイは眠っているフィンにしばしの別れの挨拶をしていたので、ジャクーに帰るのかと思っていた。けれども、もう物語は動き始めている。彼女がチューバッカと向かったのはルークの元だった。
今作は行方知れずになっている伝説のジェダイの騎士、ルークを探す物語である。新スター・ウォーズは三部作なのはわかっていたし、レイがとらえられていて、フィンたちが助けに行くぞ!みたいになっている場面で終わってしまったら、中途半端すぎてどうしようかと思っていた。
けれど、一応一段落し、レイがルークにライトセイバーを渡そうとするところで終わり。もうこのタイミング以外ないだろうというシーンで“続く”になる。
振り返ったマーク・ハミルがルークにしか見えなかったのがすごかった。風格があった。『キングスマン』の教授はただのくたびれた爺さんみたいな感じだったのに。さすがである。
ルークはライトセイバーを受け取るのだろうか。それともレイに託すのだろうか。続編が本当に気になるし、わくわくした状態のまま待てる。

ルークは、自分の弟子であるカイロ・レンが父であるハン・ソロを殺したことをフォースの力で多分知っている。カイロ・レンは自分の師匠であるルークと祖父であるダースベイダーが戦ったことも知っているのだろうか。ダースベイダーが祖父であることは知っているみたいだったし、そのことも知っているのかもしれない。
どちらにしても、ルークは責任をとりたがったりけじめをつけたがったりするのだろうと思う。
父と息子、師匠と弟子、エピソード4〜6から連なる因縁。同じことが繰り返されていて、ストーリー的にもグッとくる。そして、やっぱり、ハン・ソロは死なないと話が進まないので仕方なかったのだ…。でも、ハン・ソロとルークの再会も見たかった。残念。

そこで問題になるのが、レイは誰の子供なのかというところだと思う。たぶん、彼女がジャクーで待っていたのは両親だと思う。一瞬だけ子供時代の映像が出ていたので、もう一度じっくりと見たい。
フォースが強いので、おそらく、ルークかレイアのどちらかが親なのではないかと思う。最初、ハン・ソロとレイアの子供は双子という噂も出ていたが、そんなそぶりはなかった。レイはハン・ソロを父親のように思っているというセリフがあったけれど、本当に子供だったらそんなセリフもないように思う。

残された謎は今後明らかになっていくのだろう。妄想しつつ、続編を待ちます。


2014年公開。インドでは2012年公開。
邦題の雰囲気からインドのご婦人がニューヨークに行っててんやわんやするカルチャーギャップコメディなのかと思っていたら違った。
確かにニューヨークへ行っててんやわんやはするけれども、そこまで単純に笑い飛ばせる話ではない。

ニューヨークへ行くけれども、ニューヨークの人との関わりはほとんどない。人はたくさんいても、その中で一人ぽつんと孤独になってしまう感じ。それは、私自身も英語が出来ないまま単身ロンドンへ行ったことがあるのでそこでも感じたことだ。映画の序盤で出てくるカフェでの出来事ほど酷い目には遭わなかったけれど、気持ちはよくわかる。

人種のるつぼと言われるアメリカ、その中心であるニューヨーク。そこで、よそ者たちを集めたサークルとして、短期の英会話スクールが使われていたのがうまい作りだと思う。
ベビーシッター、美容師、タクシー運転手、料理人…みんな外国からアメリカに来た人たちで、英語ができないことで疎外感をおぼえながら暮らしている。英会話の先生自体はアメリカ人でも、ゲイなので、同じような疎外感はおぼえているのだろう。

主人公のシャシは、インドで“保守的”に暮らしていたから、最初、単身でニューヨークへ行かなければならなくなったときにも、息子を連れて行こうかしらなどと言って不安そうだった。
けれど、英会話スクールに申し込んで、仲間と出会って友情が芽生えて…。
インドでは女性差別が問題になっている。おそらく、日本以上に地位が低いのだろう。そこで専業主婦をしていたシャシが、外国で誰に言われたわけでもなく、新たな扉を自分の手で開いた。だからこそ得られたものも大きかったし、変われたのだろう。

結婚式でたどたどしいながらも英語でしっかりとスピーチをするシャシ。四週間で変わった妻を見て、弱気になった夫が「まだ俺を愛しているか?」と聞いたり、英語ができないことを馬鹿にしていた長女が泣きじゃくっていたり。その姿を見て、彼らはやっぱりシャシのことを馬鹿にしていたのだろうなと思った。ちゃんと謝りもしないのはどうかと思う。許すシャシは大人である。
自分を尊重してくれるフランス人シェフのローランのほうへ行っても良さそうなものだけれど、やはり家族は大事なのだろうなとも思った。
ローランに礼を言って別れ、インドのお菓子ラドゥを一個多く夫に渡したシャシの姿が神々しくも見えた。

シャシ役の女優さんがとても綺麗だったのだけれど、“70年代から90年代にインド映画に出演”とプロフィールに書いてあって、一体いくつなのかと思ったら、なんと50歳で驚いた。30代後半から40代前半にしか見えない。
彼女は結婚をして俳優業を休んでいて、今作が15年ぶりの復帰作らしく、何かこの映画自体のテーマと繋がる部分があると思った。
また、監督が女性なのもとても納得がいった。本作が長編デビューとは思えない。ウディ・アレンが好きらしい。

実は、インド映画特有の突然踊り出す感じが苦手だったんですが、この映画にはその要素はなかった。
結婚式で踊るシーンはあるけれど、あくまでも自然。
エンドロールでは踊っていたけれど、どちらかというとNG集のような感じで、わいわいと賑やか。愉快な気持ちなる。

登場人物が歌うこともない。けれど、挿入歌のようなものはよく流れ、しかも歌詞がシャシの内面を表したものになっていた。いままでのインド映画だと、シャシが歌いながら踊るところである。

テーマ曲ともいうべき、『English Vinglish』は、そのまま映画の原題と同じタイトルが付いている。
“Vinglish”は辞書にも載っていない造語らしいけれど、崩れた英語とかEnglishのなり損ないという風にとらえてました。VinglishでもこうしてEnglishと肩を並べられるよ、みたいな感じ。



『ラストべガス』



2014年公開。アメリカでは2013年公開。
バチェラー・パーティーでラスベガスへ行くというと、どうしても『ハングオーバー!』シリーズを思い出す。けれど、この映画が『ハングオーバー!』と違うのは、バチェラー・パーティーをするのが中年を過ぎた、もうおじいさんともいえる年齢の人たちだ。
普通なら、おじいさんがバチェラー・パーティー?結婚するの?というところで引っかかってしまうと思うけれど、そこはハリウッド俳優なのでそれほど違和感はない。
パーティーをする幼馴染み四人を演じるのがマイケル・ダグラス(現在71歳)、ロバート・デ・ニーロ(72歳)、モーガン・フリーマン(78歳)、ケヴィン・クライン(68歳)と超豪華。結婚をするのはマイケル・ダグラス、初婚、相手は30代という、現実離れしているがなんとなく納得してしまう。

若者ではないから、バチェラー・パーティーとは言っても、お酒飲んでクスリやってドンチャン騒ぎ、翌朝、何もおぼえてない!みたいなハメを外しすぎることはない。お酒のたしなみ方も心得ている。悪酔いはしない。
逆に、モーガン・フリーマン演じるアーチーは、飲み過ぎると命に関わるという理由で息子(マイケル・イーリー。『オールモスト・ヒューマン』のドリアン役)から逆にお酒を禁じられていた。けれど、気にせずにバンバン飲んでいるため、もしかしたらパーティー中に発作が起こってしまうのではないかと少しひやひやした。
ケヴィン・クライン演じるサムにしても、奥さんからバイアグラとコンドームを渡されて、浮気を許されていたので、もしかしてクスリをあおった途端…みたいなことがあったら嫌だなと思った。
この年代の人たちが主人公では、この四人のうちの誰かが亡くなったりするのかもしれないとも思いながら観ていたけれど、それはなかったので良かった。サムなんかは、クスリに頼らずともばっちりな様子だったので、まだまだお元気。

そんな誰かを死なせることでよりも、人生の悲哀ともいうべきもので、彼らの年代らしさを出したのは素晴らしい。
途中まではコメディらしいコメディ。軽い気持ちで観られる。パディ(ロバート・デ・ニーロ)は自分の妻の葬式に来なかったビリー(マイケル・ダグラス)に腹を立てていたものの、長年のよしみなのか、次第に仲が修復されていく過程も良かった。

けれど、妻を失ったショックで恋のできなかったパディが久しぶりに好きになった歌姫はビリーといい仲になっていて、しかも、パディが愛していた妻も実はビリーのことが好きだったと知ってしまう。
ビリーはパディから何もかもを奪っていて、その事実を知った時のパディのショックを受けしょんぼりした様子はさすが名優ロバート・デ・ニーロといった風だった。
ビリーとパディの関係が危うくなる後半はシリアスで、ただのコメディでは終わらなかった。

ただ、これも主人公が若者ではないからこその展開ですが、パディとその妻の間には一緒に暮らした何十年という時間が流れているんですね。それを思って、パディはビリーを許す。もちろん、ビリーとパディの間にも60年という時間が流れている。もう今更、ちょっとやそっとのことでは崩壊しない絆ができている。60年来の友達関係がうらやましかった。私にもできるだろうか。

四人がマフィアのふりをして生意気な若造をコキ使うシーンがあるんですが、少し前までしょぼくれていたロバート・デ・ニーロがマフィアの演技をした途端に凄みが増すのはさすがだと思った。四人(マイケル・ダグラスは違うかな。三人かもしれない)の少しとぼけたおじいさん演技もくすっとさせられるけれど、それだけではない熟練演技も存分に堪能できる。

ちなみに、『ラストべガス』ってあんまりいい邦題じゃないな…と思ったら、原題のままでした。




実話ですが、事実を知らなかったので、主演がヘレン・ミレンだしBBCフィルムだし、イギリスが舞台なのかと思っていた。イギリスは出てきません。アメリカとオーストリア、そしてドイツの話だった。

以下、ネタバレです。







高齢の女性と若い男性二人の冒険という点で、『あなたを抱きしめる日まで』に雰囲気が似ていると思った。若い男性側はお手伝いのため、目的が違っていた(『あなたを抱きしめる日まで』では名声、本作では金)が、次第に絆が深まっていき、自分とも無関係ではないと思い親身になっていく点も似ている。
また、『あなたを抱きしめる日まで』で「ゲイだからかしら?」みたいな差別発言がさらっと出ていたけれど、本作でも「裁判官が女性で良かったわ」と少し馬鹿にしたような発言が出てきた。これはおばあちゃんらしさというか、ならではのギャグなのかもしれない。

主人公マリアを演じたヘレン・ミレンはそんなとぼけた発言をしつつも、凛としていて気品があった。お供する新米弁護士ランドル役に、『デッドプール』もひかえているライアン・レイノルズ。
『あなたを抱きしめる日まで』のジュディ・デンチとスティーブ・クーガンも合っていたけれど、この二人もいい。ただ、題材が違うから当たり前ですが、本作では二人の関係が疑似家族のようにはならない。二人の関係は近づきはしない。それは、マリアが常にしゃんとしていたからかもしれないし、最初は頼りなかったランドルがどんどんしっかりしてきたからかもしれない。ランドルは、それでも驕ることなく、どこか飄々としたような、呑気な表情は変わらなかった。これはライアン・レイノルズならではなのかもしれない。

イギリスが舞台だと思っていたくらいなので話をまったく知らないまま観たんですが、裁判ものというだけでなく、戦争ものともいえる作品だった。マリアはオーストリアで暮らしていて、そこにドイツ軍が侵攻してきてアメリカに亡命したのだ。
映画の中に現代パートと過去パートがあったけれど、現代は後半までわりと事実をなぞっているだけというか、乾いた印象だった。仕方ないことだけれど、判決が出るまでとかの○○ヶ月後みたいな感じにすぐに時間が飛んでしまい、ぶつ切りの印象も受けた。
それに比べて過去パートは、マリアと姉、父母、叔父叔母と一緒に暮らしていた家も豪華で見ごたえがあった。問題の絵のモデルであるアデーレ役の女優さんが綺麗で、衣装やきらびやかな宝石がよく似合っていた。そこから、ドイツ軍が侵攻してきて、暮らしがめちゃくちゃになり、命からがら亡命をし…というドラマティックな展開だった。

現代パートも、マリアが最後の裁判に臨む決心をするあたりからは俄然盛り上がりを見せた。ドイツ人記者役のダニエル・ブリュールは何か腹に一物抱えていそうな雰囲気だったけれど、終盤まで味方で、何もないのかなと思ったら、父親がナチスだったという告白があった。それが許せないという話だったので衝突はしない。
ドイツ人記者役だし、現代のオーストリアでのシーンがそれほどないから仕方ないけれど、もっとダニエル・ブリュールが見たかった。ヘレン・ミレンの従者のようにライアン・レイノルズとダニエル・ブリュールが並んでいる姿は結構良かった。

俳優関連だと、トム・シリングがどこで出てくるのかと思ったら、過去パートのドイツ軍役だった。マリアの家を監視する。
もちろん、ナチスのやったことは許せないし、今回、この映画を観て怒りもわいたけれど、それとは別に、トム・シリングの軍服姿は恰好良かったです…。体が小さいため、細身で黒だときゅっと締まった感じになるし、頭が小さいので上に広がる形の大きい帽子も似合っていた。
トム・シリングはドイツ俳優だからなのか、映画で軍服姿を見ることが多いように思う。来年一月に公開される『フランス組曲』でも軍服です。それにしても、こんなにトム・シリング出演作の公開が続々決まっていていいのか…。

ラスト、現在のマリアがかつて住んでいた家を訪れる。今はオフィスになっていて中を見学させてもらうのだが、映像は一気に過去パートとなる。その過去パートの中に、現代のマリアが入っていくという演出が良かった。
タイムトラベルものや、片方が長く生きるドクター・フーのようなものでもいいんですけれど、かつて、同じ時を過ごした人物たちの時間がずれてしまうのが好きです。片方が若いままで片方が老いているというような。その他にも、SFでなくてもこのような演出も好きなのだなというのが、今作とこの前観た『あしたのパスタはアルデンテ』でよくわかった。
マリアは自分の結婚式のダンスのシーンで楽しげに手拍子をしていたんですが、あのダンスはユダヤ人の伝統のダンスだったらしいんですね。まだドイツ軍が侵攻して来る前の、幸せな時代の象徴でもある。ここにあるのは、単なる郷愁だけではないのだ。

マリアご本人は2011年に亡くなったらしい。けれど、最近の話であり、クリムトなどというともうだいぶ昔の、歴史上の画家かと思っていたけれど、ちゃんと現在に繋がっているのだと驚いた。
そんな、案外最近の話なのに、映画の撮影時には実際にウィーンの街に鍵十字の旗を掲げたらしい。なかなか大胆なロケである。

この出来事自体が2006年と最近のことだし、きっと有名な話なのだろうから仕方ないのかもしれないけれど、タイトルに“名画の帰還”というのを付けてしまうのはどうなのだろう。返ってこなかったら映画化されていないのもわかるけれど…。
どうなるかわからないドキドキはなくても楽しめる作品ではあります。
ただ、権利は返ってくるとしても、ウィーンの美術館に残るの?ニューヨークに行くの?というのは少し考えて、ああ、でもタイトルが…となった。この、“アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 Ⅰ(黄金のアデーレ)”自体は有名な絵画だし、それがどの美術館にあるというのももしかしたら有名なのかもしれないけれど。