ハリー・ポッターシリーズを観たことがないので繋がりがよくわからなかったのだけれど、ハリー・ポッター内に出てくる『幻の動物とその生息地』という書物(教科書?)の作者が本作の主人公ニュート・スキャマンダーということらしい。全五部作予定。
なので、ハリー・ポッターよりは過去の話だった。

おそらく繋がりがあるのだろうなという人物についてはよくわからなかったし、きっと知っていたらもっと楽しいのだろうと思うけれど、知らなくても楽しめました。

以下、ネタバレです。








ニュート・スキャマンダーというイギリス人がトランクを持ってニューヨークに降り立つところからストーリーが始まる。
このトランクの秘密道具具合がすでにわくわくするんですが、この中には魔法動物がいて、逃げ出したそれらを捕まえるんですね。この動物たちがとても可愛い。ハリモグラの赤ちゃんに似てるニフラーはキンキラなものを集めるのが好き。宝石屋で動きを止めて、置物のフリをしていて、そうゆう知恵も働くのか!と思った。
緑の枝のようなボウトラックルは、風邪をひいていてニュートがポケットで温めてあげていた。懐いている様子だった。

他にも多数不思議な動物が出てきて楽しい。細かい設定の載っている図鑑が欲しいと思ったけれど、『幻の動物とその生息地』として発売もされていたらしい。現在は入手困難らしく残念。五部作の最後の方でニュートが完成させるのだろうか。そうしたらまた発売されるかな。
もしかしたら、リタと呼ばれていた女性が書くのかもしれないなとも思った。彼女はおそらくハリー・ポッターシリーズに出てくるのだろうと思った。写真を飾っていたようだけれど恋人だろうか? 訳ありのように見えた。過去作を見たら、関係がわかるのかもしれない。

人間と魔法使いが対立して、魔法動物も淘汰されてしまい、放っておくと絶滅してしまうところをニュートは研究をすると同時に保護をしているようだった。
おそらくレッドデータブック的なものとか、現実の世界でも問題になっているようなことに警鐘を鳴らしているのかとも思ったけど、そこまで深くは入り込んでなかった。説教臭さはないです。あくまでもエンターテイメント。

そして、逃げ出した動物たちが騒動を起こす。
銀行や宝石屋さんがめちゃくちゃになるのも、人は死んでいなくても騒動である。これは完全にニュートのせい。この責任がどうとかは描かれないのもエンターテイメント作品だなという感じ。
そうやって軽い感じだったので、中盤で騒動が原因で人が死んでしまったので、本当に死んだのかを疑ってしまった。
そして、それもニュートが逃した魔法動物のせいなのかと思ったので、『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』のような尻拭い映画なのかと思ってしまった。悪役はウルトロンではなく結局社長じゃないの?と同じく、魔法動物が悪いのではなく、逃したニュートのせいじゃない?というような。

しかし、それはまた別の問題だった。
エズラ・ミラーが出てるのを全く知らなかった。
彼は美青年ですが、影があるというか、何か闇を抱えている役が多い印象。本作でも、美青年っぷりは隠せなくても、髪型がちょっと変なのと、目つきなどもおどおどしていた。今回の悪役というか、悪役に操られてしまう役。

そして、本当の悪役はコリン・ファレルだった。最後に捕らえられるんですが、「元の姿を現せ!」みたいな魔法で変わった姿がジョニー・デップだった。
コリン・ファレルがジョニー・デップとは『Dr.パルナサスの鏡』!とも思った。あと、これほど重要なキャストが急に出てくるってことは、これも旧作関連なのかな?と思ったら、出てきていないようだった。
じゃあ、誰なのか調べてみたら、ヴォルデモート(ハリー・ポッターの悪役)の出てくる前の悪い魔法使いらしい。

本作では一般人というか魔法使いではない普通の人間が巻き込まれてしまう。
対比として、魔法使いの魔法使いっぽい映像が出てくる。杖をふりふりしながら、自分の手は使わずに家事をしたり、壊れた建物を魔法の力で修復したり。
単純に見ていて楽しい。
巻き込まれる男性コワルスキーも、それを見て、驚きながらも目を輝かせていた。

ニュートの不思議なトランクの中に連れて行ってもらったときも、「『昨日何してたの?』『トランクの中に入ってたんだ』なんてね」なんて独り言を言って、にこにこと嬉しそうにしていた。
その気持ちがとてもよくわかる。コワルスキーは観客と同じ目線に立っている。

毎日変わらぬさえない日常。けれど、特別な存在と出会って、世界は一変する。危険はあっても魅力的な冒険。

ちょっと『ドクター・フー』っぽいと思ってしまった。『ドクター・フー』も普通の暮らしをしていた一般人がドクターという未知の存在に出会って、最初は恐る恐る、けれど次第に引き込まれていき、わくわくするような冒険へ一緒に出かけていく話である。
でも、私は『トゥモローランド』ですら『ドクター・フー』だと思ってしまったので、何を見てもそう思ってしまうところがある。

でも、ラスト付近で、コワルスキーの記憶が消されるシーンを見ながら、ああやっぱりこれは『ドクター・フー』っぽいと思った。魔法使いとのことは、人間は覚えていてはいけないのだ。クイニーが魔法の杖を傘の柄の部分のように持って、雨の中で向き合うシーンが美しくも悲しかった。

そのあと、何もなかったかのように、妙にさっぱりした顔をして、雨の中を駆けていくコワルスキーの姿を見るのが切ない。

この後に、ティナとニュートの別れのシーンもあるけれど、別になんとも思えないというか、君たちはお互いがお互いのことを覚えているし、また会う約束をしているからまあいいじゃないかと思ってしまった。

別れのシーンの描きかたの濃さ薄さといい、なんとなく、ニュートよりもコワルスキーの方が主役に思えてしまった。キャラクターとしてもコワルスキーのほうが親しみやすい。

ラストで、コワルスキーが夢であるパン屋をオープンさせ、そこへクイニーが客として訪れると、コワルスキーはにっこり笑うんですよね。
もちろん、彼女のことはおぼえていないのだ。それでも、ああ、良かったと思った。
このパターンに弱いのだ。記憶が消されるとか、記憶喪失とか、なんでもいいんですが、知らないはずなのに、なんかこの人のこと知ってるなあと心の奥底で覚えているパターン。
『時をかける少女』あたりが好きなのもこれです。

『ドクター・フー』にしてはドクター役が三人でコンパニオン役が一人なんですが、これがもし、コンパニオン役が女性だった場合はニュート一人だったかもしれない。最後にパン屋に行くのも、雨の中で別れるのもニュートだったのではないだろうか。

綺麗な終わりかただったけれど、五部作で、次作はコワルスキー出ないのだろうというのが残念。記憶を消した意味がなくなってしまう。
次は違う人間が巻き込まれるのだろうか。
でも、そうしたら本当に『ドクター・フー』になってしまう。

考えすぎかと思ったけれど、2011年に本作の監督のデヴィッド・イエーツが、『ドクター・フー』の映画を計画していて脚本家を探していたらしい。でも、ドラマ版の制作者であり脚本家であるスティーブン・モファットが断って中止になったらしい。

また、主役のニュート・スキャマンダー役に、ニコラス・ホルトとマット・スミスが候補として上がっていたらしい。
本当に『ドクター・フー』になってしまうが、マット・スミスが合いそうな役だった。

ニュート・スキャマンダー役がエディ・レッドメインだと聞いた時、エディがハリー・ポッターシリーズに出たら人気が出てしまう…と思ったけれど、特にイケメン役じゃなかったのでそんな心配もなさそう。
ちょっと変わり者役というか、本作を見た限りだと謎が多く、あまりよくわからない役柄だった。世間一般的なイケメンのイメージとは違うマット・スミスのほうが合いそう。

でも、そうしたら本当に『ドクター・フー』になってしまうし、ドクターを演じた俳優がドクターっぽい役を演じることもないのだろう。

『SPY/スパイ』



『ゴーストバスターズ』のリブート版や見た目がおしゃれなことでも話題になったポール・フェイグ監督作。
世界各地でスマッシュヒットを記録したにも関わらず、日本での公開はなく、DVDスルーになった。

主演がジュード・ロウとジェイソン・ステイサムなのにどうして!?と憤っていたのですが、観てみたら主演はメリッサ・マッカーシーだった…。メリッサ・マッカーシーは日本での知名度はいまいちだし、あのポスターだと二人、もしくは三人が主演だと勘違いしてしまう。
そして、『ゴーストバスターズ』もそうですが、のれない人は多分とことんのれないであろうコメディ映画です。日本では外国のコメディ映画の上映が減っているので、これは公開されなくて仕方がないのかもしれないと納得してしまった。下ネタ、グロネタも多いです。

以下、ネタバレです。










私はジュード・ロウ、ジェイソン・ステイサム、メリッサ・マッカーシーの三人が銃をかまえているポスターを見て、これは三人が主演なのだろうと思っていた。どちらかというと、ジュード・ロウ、ジェイソン・ステイサムの二人がネームバリュー的にも主演寄りなのだろうと推測していた。けれど、そのネームバリューも日本でのことで、アメリカではメリッサ・マッカーシーは超有名人らしい。なので、多分、そこからして私の印象が間違っていた。

そして、最初にキャストの名前が出るんですが、一番手がメリッサ・マッカーシーなので、あれ?と思った。ジュード・ロウは最後に“and Jude Law”と名前が出る。もしかしてカメオ扱いなのだろうか…。
最初、CIAの現場担当のブラッドリー・ファイン(ジュード・ロウ)が潜入捜査をし、それを事務方のスーザン・クーパー(メリッサ・マッカーシー)が音声でサポートをするというシーンがある。これが二人の日常のようだったので、本編でもこの図式のままいくのだろうと思った。ジェイソン・ステイサムはライバルで、二人のサポートを同時にやるのかもしれない。それか、もしかしたら敵なのかもしれない。
そんなことを考えながら観ていたら、ほぼ序盤といってもいいくらいの場所で、ブラッドリーが死んでしまう。なるほど、“and Jude Law”表記に偽りなしである。

けれど、ジェイソン・ステイサムもジェイソン・ステイサムで、こちらもand表記にしたほうがいいのではないかと思うくらい、ほとんど出番がなかった。出番がなかったし、活躍もしない。
ただ、それでもキャラクターとしてとても愛おしい。
平たく言ってしまえばバカである。CIAに所属しているのだし、おそらくやり手ではあるのだろう。けれど、本作ではバカゆえに活躍の機会を逃している。やり手なのかやり手でないのかわからない。けれど、本人は大真面目で一直線。いいキャラクターだし、これをジェイソン・ステイサムが演じているのがいい。

ジュード・ロウも出番こそ少ないものの、すごくかっこ良かった。最初のアクションに、後半のしれっとした感じがイカす。彼もおそらくやり手である。
それに立ち居振る舞いがいい。細身のスーツで背筋がピンと伸び、びしっとしている。
こんな色男を絵に描いたようなキャラクターだから、スーザンも彼のことが好きなんですね。でも、彼は彼女の気持ちにまったく気づいていない。親しくはしているけれど、女性としては見ていない。
でもそんな関係がいい。後半では直接ではないけれど気持ちを打ち明けざるをえない場面があり、その気持ちを知った上で、ファインはスーザンを食事に誘ったりして。でも、スーザンは、ナンシーとの女子会をとったりして。
王子様は振り向いてくれるんだけど、結局気の置けない仲間と過ごしちゃうっていう、胸キュンラブコメの典型みたいな感じですが、良かったです。
結局、酔った勢いでなぜかフォード(ジェイソン・ステイサム)と一晩を共にしてしまうというオチもついていた。フォードとスーザンのわーわーとケンカばっかりする関係も楽しかった。

最初はメリッサ・マッカーシーの体型的に事務方に徹するのだろうと思っていたが、現場に出ていく。とてもアクション向きの体型ではないけれど、走ったり、格闘をしたりと奮闘していた。
二人の男性は出てくるけれど、あくまでも脇役で、これはメリッサ・マッカーシー映画である。
次に活躍するのが同僚のナンシー(ミランダ・ハート)かな。DVDに収録されていたデリートシーンを見ると、パリで気に入ったジャケットがあって、それを着ると人生が変わる、だから絶対に欲しいみたいな一連の話がごっそり削られてた。スーザンとナンシーのだらだらしたおしゃべりもだいぶ削られているようで、本当はもっと出番が多かったっぽい。

そういえば、敵も女性が大ボスになっている。
男性は全部脇役と考えると、なるほど、男女逆転『ゴーストバスターズ』の監督さんだなという感じがする。

本作はタイトルは『SPY』だし、CIAが主役である。スパイガジェットもたくさん出てくる。けれど、ガジェットを実際に使ったりはしない。スパイというよりはアクション要素が強いと思う。
だいたい、主演のメリッサ・マッカーシーの外見が目立ちすぎる。かつらかぶって変装をして、名前を変えても、どうしたって目立ってしまう。まあ、本気で身を隠そうというよりは、監督がメリッサ・マッカーシー大好きで、彼女にいろんな格好させて遊ぼうという愛情たっぷりないたずらだと思うけれど。
序盤、ファインが活躍する場面はスパイ映画っぽかった。あと、オープニングは007シリーズのあからさまなパロディだった。

ただ、007はナイスバディな女性がくねくねと踊っているが本作は違う。もちろん、ボンドガールも出て来ない。
そう考えたけれど、ああ、もしかしてファインとフォードの二人は男性だけど、本作のボンドガールなのでは…。セクシーイケメンと憎めないバカという二つのタイプをご用意。
これは、ある意味男女逆転007なのかもしれない。

でも、ボンドガールは作品ごとに変わるけれど、この二人は変わらないでほしい。もし続編が作られるなら、全員同じキャラでお願いしたいです。監督もポール・フェイグじゃないと駄目だと思う。

ストーリーの根幹には関わらないようなちょっとしたギャグセリフのいくつかは、俳優さんたちのアドリブなのかなと思っていたら、監督のアドリブだった。撮影している途中で、「ここでこのセリフ言って」と割り込んでくる。そのどれもが下品なものだったりすっとんきょうなものだったりで、でも俳優さんたちは仕事だから律儀に言われた通りのセリフを言うんですが、言い終わってから笑っちゃったりしている。
撮影も、アクション!カット!といちいち止めずにカメラをまわしっぱなしでやってるみたいだった。
だからDVDには、メイキングやNG集など特典映像がたっぷり収録されていた。

監督はまるで出演者のようだった。ここまで寄り添うものなのだろうか。
スタントもやってたし、カメオ出演もしている。CIAの事務所に出現したコウモリを動かす役割も担っていた。
他のスタッフが「コウモリを動かす加減がわからないから監督がやってくれると助かる」と言っていた。

監督が一番偉いのではなく、スタッフや俳優の目線まで下りてきて、みんなで一丸となって作り上げていく感じ。その雰囲気の良さがやいい意味でのユルさが作品のカラーとしてもよく表れていると思った。

ストーリーのアイディアを俳優さんから募ったりもしたらしい。
ジュード・ロウは「寝返ったファインは、続編では敵になって出てくるとか」と言っていたけれど、却下されていた。私も却下です。
もし続編があるなら、今度こそ三人平等に活躍してほしいなあ…。

そういえば、エンドロールにヴィジュアル・エフェクト・プロデューサーとしてトム・フォードの名前があった。『ウォーム・ボディーズ』の時にはニコラス・ホルトだしな…と思ったけれど、別の映画でもちょくちょく名前を見かけるし、あのトム・フォードではないのではないか…と思って調べたら、違った。別人です。Thomas F.Ford IVという方らしい。『ウォーム・ボディーズ』もあのトム・フォードではなく同じ方。1996年から活躍しているベテラン。






作家トマス・ウルフと編集者マックス・パーキンズをめぐる実話。

原作は『名編集者パーキンズ』という小説で、A・スコット・バーグというのちにピューリッツァー賞を受賞する方の処女作。1978年に出版された。
ここでは、マックス・パーキンズの生い立ちから描かれていて、映画にも出てくるフィッツジェラルドやヘミングウェイのことも多く書かれているようだが、本作はその中でトマス・ウルフにのみスポットが当てられている。

トマス・ウルフ役をジュード・ロウ、マックス・パーキンズ役をコリン・ファースと人気の俳優がそろっているわりに公開館数が少ないのは、トマス・ウルフ自体が日本であまり有名ではないからかもしれない。

脚本は『ランゴ』『007 スカイフォール』のジョン・ローガン。もともとは彼とA・スコット・バーグが17年前に会い、映画化を申し出たことがきっかけらしい。

監督はマイケル・グランデージ。聞いたことがないなと思ったら、舞台のプロデュースで有名な方で、映画監督は今回が初だそう。
イギリスを中心に1996年から多数の舞台を手がけている。ローレンス・オリヴィエ賞最優秀監督賞やトニー賞も受賞しています。
ロンドンのノエル・カワード劇場でのジュード・ロウ主演の『Henry V』、ジュディ・デンチとベン・ウィショー主演の『Peter and Alice』(脚本はこちらもジョン・ローガン)、ダニエル・ラドクリフ主演の『The Cripple of Inishmaan』などのキャストも豪華な6公演のシリーズも大成功だったらしい。

観ていてなんとなく舞台っぽいなと思ったんですが、それはジュード・ロウがわりと大げさな演技をしているせいかと思ったけれど、監督が舞台の方なら納得。

以下、ネタバレです。







序盤、混んでいる電車の中で、トマスの原稿を読んでいるパーキンズに、スポットライトのように一人だけ柔らかな陽光が当たるシーンがある。それは、パーキンズを他の乗客に紛れさせないための演出でもあると思うけれど、原稿を読みながら心の中に光が広がっていくのを示しているようでもあった。一目で大事な出会いだったのだとわかる。
これも舞台っぽい演出だと思った。

作家というのはそうゆうものなのかもしれないけれど、トマス・ウルフはやや破天荒な人物として描かれていた。書いていないと死んでしまうような印象。または、作家でなければ本当にダメ人間のようだった。周囲の人間も振り回すだけ振り回す。だからこそ魅力的という面もあるのかもしれない。
しかし、書くことは生きることという感じなので、とにかく原稿が長い。パーキンズは編集者としてそれを削る仕事をしていた。かなり勢い良く削っていたが、結局、30万語から6万語削ったらしい。
削られてベストセラーになった『天使よ故郷を見よ』はネット書店でも高騰しているし、図書館にもないようなので、翻訳版は絶版になっているのだろうか。ちなみに、削る前、編集なし版の『失われしもの』も2000年に出版されたようだけれど、この分だと翻訳版は出ていないのだろうと思われる。『天使よ故郷を見よ』だけでも読めるようになるといいのだけれど。

ごりごり削るシーンで、「他のシーンでは形容的な描写が多いけれど、恋に落ちるシーンは短い、シンプルな言葉でいい。そのほうが際立つ。実際に恋に落ちる時にそんなにつらつら考えないだろう?」というようなアドバイスをするシーンがあり、勉強になった。

トマスとパーキンズはかたや奔放、かたや堅物といった感じで、性格が正反対のようだった。けれど、お互いに周りにはいないタイプの人間だったという事でうまくいっていたのではないだろうか。
トマスは「今まで友達がいなかった」と言っていたが、自分の書いた原稿を読み、親身になってアドバイスをくれたことで友情を感じていたと思う。
パーキンズにとってはそれが仕事でも、トマスにとっては書くことが生きることなのだろうから、そこに寄り添ってくれるというのは多分特別な意味を与えていたと思う。

ジャズクラブに連れて行かれ、最初は乗り気じゃなかったパーキンズも、トマスに曲をリクエストしてもらい、その曲のダンスアレンジをバンドが演奏すると足が自然とリズムを刻んでいた。

後半、かつてトマスが住んでいた家に不法侵入するシーンではパーキンズが窓を壊して鍵を開けていた。前半の彼の様子からは考えられなかった行動だ。
パーキンズもまた違う世界を見せてもらったのだ。

そんなだから、アリーン(奥さんか恋人だと思っていたけれど、既婚者だったので愛人?)も二人の仲に嫉妬する。
拳銃を持って編集部を訪れたときに、パーキンズが編集者っぽいある意味理屈っぽくもある冷静な説得の仕方をしていたのが印象的だった。
アリーンを演じたのがニコール・キッドマン。彼女もノエル・カワード劇場でのシリーズに出演していたようだ(『Photograph 51』)。
恐ろしく顔が整っているけれど、少し怖い感じだったり神経質そうだったり不安定だったりする演技がうまかった。涙を両指で拭う仕草も優雅だった。

また、フィッツジェラルド役でガイ・ピアースもうまかった。誠実そうでそれゆえスランプに陥った作家というのが伝わってきた。出番はそれほど多くないけれど残す印象は強い。

トマスは周囲を巻き込むだけ巻き込んで、アリーンの元も去ったけれど、パーキンズとも結局別れることになる。売れたのは編集者の力だったのではないかと言われたのが気に食わず、自分だけでもできると考えたらしい。
けれど、最期には病院のベッドでパーキンズあてに手紙を残していた。
意識が戻るかどうかと言われていたので、あんな長文の手紙は実話とはいえ映画の中だけの創作だろうと思っていたけれど、ここも実話だったらしい。

感情の起伏の激しさと、周囲を自分勝手に巻き込むエネルギッシュさは作家っぽいなと思いながら観ていたけれど、同じ作家でもフィッツジェラルドのようなタイプもいる。
実際の作家がどんな人物だかはわからないけれど、少し調べてみると映画の通りだったようだ。だから、ガイ・ピアースもジュード・ロウも演技が素晴らしかったのだと思う。
ジュード・ロウは今回、年齢不詳というか、子供のようにも見えるような、大げさで落ち着きのない演技だった。最近では珍しいと思う。

また、本作を観ながら『キル・ユア・ダーリン』のことも少し思い出していて、トマス・ウルフの所業がビートニクっぽいなと思っていたら、ジャッック・ケルアックに影響を与えているらしくて、それも映画だけでわかってしまうのもすごいことだと思った。
ちなみに、トマス・ウルフが『天使よ故郷を見よ』を出版したのが1929年、ジャック・ケルアックが『路上』を出版したのが1957年である。なんとなく時代背景が把握できた。

マックス・パーキンズを演じるコリン・ファースは本作も冷静沈着な役柄だからダーシーと似ている感じ。でもダーシーのほうが不機嫌っぽい。
1900年代アメリカで流行った中折れ帽をずっとかぶっていて、家の中でも取らない。これも頑なだったので実話なのだろうか。それとも、トマスの最期の手紙を読む時に初めて帽子を取っていたので、それを効果的に見せるための手段なのだろうか。

本作では編集者の役なので、原稿をチェックするシーンが多いんですね。そうすると、伏し目がちになって、それがとても良かった。また、片手に赤鉛筆、片手に煙草という組み合わせもたまらなかったです。


セス・ローゲンとかエヴァン・ゴールドバーグとか、例のあの一派がCGアニメを作るというので珍しいと思ったら、ソーセージが主役で恋人がホットドッグのパン、しかもR指定という…。話だけは聞いていたけれど、話題になった『ザ・インタビュー』の公開すらしない国では本作も公開しないと思っていた。しかし、数ヶ月遅れという異例のはやさで公開が決まってびっくりした。

あの一派が監督もつとめているのだと思っていたけれど違って、『マダガスカル3』のコンラッド・ヴァーノン、『きかんしゃトーマス』のグレッグ・ティアナン。
序盤に出てくる曲は素敵だったけどパロディなのかなと思っていたら、リトル・マーメイド、美女と野獣、アラジンと誰でも知っている曲を作曲したアラン・メンケンだった。なんで!?

以下、ネタバレです。







ソーセージに顔が付いている分にはまあぎりぎりセーフかなとも思うけれど、ホットドッグのバンズが縦になって歩いていて、しかもソーセージは全員男、バンズは女というのはアウトである。しかも、二人は合体することを夢見ている。

ただ、いつものようにというかよくあるパターンというか、ソーセージ同士のブロマンスっぽいものとか、憧れのバンズをモノにするために四苦八苦みたいなものはない。ソーセージとバンズは最初から恋人同士である。
ではなぜ結ばれないかというと、各々はパッケージに入ってスーパーマーケットで売られているんですね。人間に買われることで自由になり、楽園に行けると思っている。
しかし、それは間違いで、人間に買われた後は自分たちは食べられることに気づいてしまう。

それでどうするかというと、先に食べられた仲間たちの復讐も兼ねて、人間を倒そうと画策するんですね。
ただ、これがいまいち共感できないせいか、話に入っていけなかった。

こちら(人間)としては、スーパーで買い物をして料理をして食べることは日常のことだし、悪いことをしている意識はない。また、咎められるべきことでもないと思っている。

まだ食べられる食品を廃棄したり、スーパーで買いすぎて腐らせたりという所謂MOTTAINAI問題を主題にしたほうが良かったのではないかと思った。スーパーの店員に捨てられた食材の逆襲とか。
でもそうすると説教くさくなってしまうからやらないか…。
それか、ソーセージなどの加工食品ではなく、牛や豚などが加工され食べられる未来を知って逆襲すれば…とも思ったけれど、それもベジタリアンとか微妙な問題に足を突っ込みそう。

しかも、その人間への逆襲が、事故もあったとは言え、首を切り落とすなどエグい殺し方だった。
後半のスーパーを舞台にした大バトルでは、普通だったら主人公(ソーセージ)たちの応援をしなきゃいけないのだと思うけれど、どうしても悪者(人間)が悪いと思えなかったので、気持ちが入らない。ただスーパーで買い物をしているだけなのに酷い目に遭う。
また、ここで勝ったところでまた明日別の客が買いに来るだろうし、そのうちそれこそ腐って廃棄処分になるかもしれないし、戦いに終わりが見えない。映画を観ながら、どうやって話をたたむのだろうというのが気になってしまった。

ソーセージが男でバンズが女ということで、見た目はアレだけれど合体するにしてもホットドッグとして挟まるだけだろうと思っていたから、これでR15(日本では)だと厳しいと思った。
しかし、中盤、人間がドラッグでトリップするシーンが出てきてなるほどと思った。その後の生首もそうかもしれない。

けれど、後半はもっととんでもないことになる。
ソーセージは序盤からビデ(あのビデ)に因縁をつけられているのだけれど、後半、いろんな液体を飲み込んで悪い方へパワーアップしたビデが、店員の尻に刺さって人間を自在に操り始める。ここの時点でかなりアレですが、そのビデがソーセージを捕まえることにより、店員の股間のチャックからソーセージが飛び出しているという見た目になる。もしかして、この画が欲しかったからビデを出したんじゃないかな…。

そして、人間たちが片付いた後、ソーセージとバンズが合体するんですが、ただ挟まるだけではなく、普通のセックスシーンでした。その雰囲気にのまれたのか、いがみあっていたベーグルとピラピラした中東のパン(ナンの薄いやつみたいなの)も男性同士ですが事に及び始める。そのうち周囲も巻き込んでフリーセックス状態になっていく。これはR15でもぎりぎりです。

このベーグルとピラピラしたパンなんですが、何故いがみあっていたのかよくわからなかった。でも、ベーグルはもともとユダヤ人のパンが起源だったらしく、ピラピラしたパンは見た目がいかにも中東っぽかったのでアラブ人で、その人種間の問題なのかもしれない。
また、フムス(中東の豆料理。ひよこ豆とオリーブオイル、ゴマなどをペースト状にしたもの)を共通項として話していて、少し打ち解けていた。

この辺で人種や性別に関わらず人は愛し合えるみたいなことを描いているのかなとも思ったけれど、そこまで考えていないかもしれない。

それで、「これは実はフィクションなのだよ」というメタ的な説明で話を締めていた。主人公の声を担当しているセス・ローゲンの顔もちょっと出てきたり。続きは映画の外の世界で…みたいなことを言っていたけれど、現実と繋ぐならやっぱり食品廃棄とか積極くさくしたほうが良かったのかなとは思った。

エンドロールでは出てきたキャラクターの絵の下に声を担当した俳優の名前が出てきていたのが親切だった。セス・ローゲン以外は調べないで行ったので、ジェームズ・フランコは出てくるとは思ってたけどアイツかー!とか、ジョナ・ヒル、マイケル・セラ、ダニー・マクブライド、クレイグ・ロビンソンとお馴染みの名前が次々出てきて面白かった。
ビル・ヘイダー、ポール・ラッド、クリステン・ウィグはいてもおかしくない面子だけれど、エドワード・ノートンがいるとは思わなかったのでびっくりした。ベーグル役だった。
ある意味、エンドロールで一番笑ったかもしれない。

あと、好きだったのは、Meat Loafの『I'd Do Anything For Love(But I Won't Do That)』が流れ出したところでミートローフのMeat Loafが出てきたところです。

いろいろと言いたいことがないわけじゃないけれども、この映画が日本で公開してくれたというのが嬉しい。劇場は少ないけれどもヒットはしているようです。

あと、こんな映画だし人間は殺されるけれど、各国の食材や調味料のレイアウトが凝っている大型スーパーマーケットは楽しそうで行ってみたくなった。
あと、悪意なくホットドッグが食べたくなる。


一作目が2001年公開、二作目が2004年、それから12年経っての続編である。劇中も二作目から10年後という設定。

監督は一作目のシャロン・マグワイア、主演は同じレニー・ゼルウィガー。お相手役はコリン・ファースは変わらずだが、ヒュー・グラントではなくパトリック・デンプシーになっている。

一作目二作目は原作小説があったが、今回は原作ではなく原案扱いなので小説ではないのかもしれない。

以下、ネタバレです。







予告で見た通りというか、それ以上のことは起こらなかった印象。
まだ結婚していないブリジットが妊娠し、二人の男の人の父親がどっちかわからないというすったもんだが起こるというそれだけの話。

私はどっちが父親なんだろう?三人で生活するのもいいのかもしれないみたいなことを考えていたけれど、夢物語というか、THE ヒロインのブリジットにすべてが都合よく動き、ダーシーと結婚するという。
既婚者のダーシーはちょうど離婚するところだったし、グラストンベリーで一晩を共にした男性は大金持ちの有名人でしかもいい人、高齢出産で危険なことも何も起こらない。

ただ、多分ブリジット・ジョーンズシリーズとはそうゆうものなのだろう。人間ドラマというよりはコメディなのだ。深刻になっても仕方がない。
そして、私はこのシリーズ自体に特に愛着がなかったのでわからなかったけれど、好きな人は多分最後はダーシーと結婚するということを知っていたのだ。一応三角関係という体をとっていても、所詮当て馬なのだ。
ドジな女の子と気持ちがうまく表せない男性の話であり、もう一人はその二人を盛り上げるためのかませ犬でしかない。

本作でも、ダーシーに比べてジャック(パトリック・デンプシー)の扱いの雑さが気になったけれど、所詮ダーシーの引き立て役なのでそれでいいのだと思う。
キャラの作りが雑すぎて、これ別にジャックじゃなくて旧作のダニエル(ヒュー・グラント)でもよかったじゃないか…と思ったけれど、ダニエルだと本気っぽくなってしまい、勢いでも一晩を過ごすのはダーシーにとってシャレにならない。だったら、まったく知らない人間のほうがまだダーシーが傷つかない。出番がちょっと多いだけでモブとそれほど変わりない。

映画館のキャンペーンで、二人のどっちとくっつくかを予想するクイズのキャンペーンが行われていたけれど、これも、答えが丸わかりの穴あきクイズと同じようなものなのだろう。

多分プロレスというかお約束のようなもので、ブリジット・ジョーンズファンは、用意されたハッピーエンドは知っているけれど、ブリジットとダーシーの恋模様をひやひやした面持ちを作りつつ見守っていたのだ。きっと、ファンにはこの予定調和というか、このシリーズの変わらないところがたまらないのだと思う。
現実味がないと言って首を横に振るのは、ブリジット・ジョーンズシリーズのルールがよくわかっていなかったのだ。

そういえば、元々が『高慢と偏見』の二次小説的なものなのだ。ダーシーに花を持たせるに決まっている。

それで、私が特にブリジット・ジョーンズファンではないけれどなぜ観に行ったかというと、ダーシー役のコリン・ファースが好きだからです。

生真面目役のコリン・ファースは恰好よかった。
江南スタイルを楽しそうに踊っているブリジットを見るダーシーは、なんとなく『高慢と偏見』の舞踏会のシーンを彷彿とさせた。
妊娠を告げられた時に、一回席を外していたけれど、きっと廊下でにっこりしていたに違いない。叫びたい気持ちを押し殺したかもしれない。少し経って戻って来たダーシーは無表情だった。一瞬冷静さを欠いた様子が可愛かった。

また、最後の結婚式のシーンで、バージンロードを歩いていたブリジットの手をとって小さく「Hello.」と言うシーンの優しい声色が本当に素敵でした。

『ザ・ギフト』



ジョエル・エガートン監督作品。アメリカでもスマッシュヒットしたというので期待してました。監督だけでなく脚本も書いていて驚いた。もちろん出演もしています。

気味の悪い人が贈り物をしてくるというので、サイコスリラーものかなとも思ったけれど、ちょっと違う。ひねりがきいている。

ただ、ビクッとさせる演出はあった。私は椅子からちょっと体が浮いてしまったし、近くの席の人は「わっ!」と声が出てしまっていた。苦手な人は注意したほうが良さそう。

以下、ネタバレです。






贈り物というのは、基本的には善意に基づいているため、いただくと嬉しいものである。ただ、一度ならともかく、何度も何度も、しかもそんなに親しくない相手からとなると、何か見返りを求められているのかなとか、裏があるのかななどと勘ぐってしまう。
また、教えたわけでもないのに家を知られているとなると、次第に不気味にもなってくる。

引っ越してきたサイモンとロビン夫婦と隣人とまではいかないけれど近所に住む知り合いのゴード。ただ、知り合いとは言っても、ゴードはこちらのことをよく知っているようだったけれど、サイモンはよく覚えていないようだった。学生時代の知り合いとのことだった。

そんな相手から過剰に贈り物が送られてくる。しかも、見計らっているのかいないのか、日中、サイモンが仕事でいないときに家にやってくる。
悪意はなさそうだけれど、夕飯に混じってこようとしたり、なんとなく家に招き入れないといけないような空気を作ってくる。こちらが少し迷惑に思っているのはわからないのか、単に人付き合いが下手なのか距離感がわかっていなように見えた。
そのような常識の通じない相手は何を考えているかわからない部分もあって、付き合わないで済むならばあまり付き合いたくない。

多数の贈り物と訪問からは執着心のようなものも感じて、その理由がわからないだけに気味が悪かった。
招待された家も豪邸で、人物と家が合ってないだけにいかにもあやしく見えた。二階には子供部屋があったり女性ものの服があったりで、この人はもしかしたらこの豪邸の住民を殺しているのではないか?と思ってしまった。

結局、運転手をやっている家の主人が留守のときにそこを家を偽ったようだが、なぜ見栄を張る必要があるのか。しかも、この訪問時の出来事がきっかけで亀裂が入り、夫婦の家が盗まれるなど、やはりと言っていいのか、不気味なことが起こり始める。

この辺まではよくあるサイコスリラーだと思う。ゴードは『過去のことは水に流そう』という手紙が届く。ここで、ロビンはゴードとの過去についてサイモンに聞くが、教えてはもらえない。

当然ロビンとしては気になるからそのことについて調べ始めるが、そこでサイモンの過去が明るみに出る。過去だけではない、明るみに出たのはサイモンの本性だ。

サイモンはロビンに内緒でゴードのことを独自に調査していた。ロビンはその書類をサイモンに叩きつける。部屋に帰っていくロビンの背中と、叩きつけられて頭を抱えるサイモン。別々の場所にいる二人を一緒に映すカメラワークがおもしろかった。撮影は『フランス組曲』『シングルマン』のエドゥアルド・グラウ。
思えば、ロビンは最初から威圧的な態度をとるサイモンに何か違和感があったようだったけれど、これで決定的に悪い印象になったのだと思う。
そして、それは映画を観ている人の目線も同じである。

サイモンはゴードの元へ謝りに行く。ゴードは誰も聞いていないような飲み屋で催されているクイズ大会の司会をしていた。少しおどけた格好をしているのも悲しい。これは今まで隠していたゴードの真の姿であり、それを見たサイモンにも道場が生まれるのだと思っていた。そして、過去を謝罪し、和解…という流れになるのだと思っていた。

けれど、サイモンには謝る気は全く無く、ここへもロビンに行けと言われたから来ただけだなどと言う。しかも、逆ギレをして、ゴードのことを蹴っ飛ばしていた。
結局、この人は何も変わっていないのだ。過去のゴードに対しての態度も、若気の至りなどではない。
仕事でも汚い手を使う、妻に対しても常に上に立とうとする。サイモンについて知れば知るほど、悪い印象が強くなる。性根が腐っている。

映画を観ている側は最初は主人公だと思っていたサイモンに怒りをつのらせ、ゴードの味方をしたくなってくる。視点の転換の誘導が鮮やかである。

終盤、サイモンにとって念願の子供を授かる。途中でゴードが出てくるかとも思ったが、何もないまま出産をする。そこでサイモンが改心するのかと思った。
しかし、ここでサイモンにとって一番残酷な手法がとられる。中途半端な場所から落とすよりも、一度天に昇らせてから落としたほうが落差でダメージが大きくなる。

まず、子供が生まれて幸福の絶頂のときに電話がかかってきて、汚い手がバレて会社から解雇を告げられる。加えて、妻からも離婚を言い渡される。

そして、家に帰るとゴードからの贈り物が久しぶりに届いている。出産祝いである。ただのベビーベッドかと思いきや、中には1、2、3と書かれた個別の包みが入っていて、そこには写真、音声、映像が。盗撮、盗聴…、すべて監視されていた。

また、妻が倒れた際に、家にあがりこんでいた。
まさかこれは、生まれた子供が実は…のパターンかなと思ったらもっとひどい。レイプをするのかと思っていたが、そんなショッキングシーンはない。わざと映像を切るのである。
いっそ自分の子ではないとわかったほうがまだいい。どちらだかわからないのが一番タチが悪い。

結局、サイモンがなすすべなく病院で一人きりで座り込んで頭を抱えているシーンで映画は終わる。バッドエンド…ではないのだ、これが。映画を観始めたときには考えられなかったことだけれど。

ゴードを演じたのが、本作の監督、脚本のジョエル・エガートン。ハの字眉が気弱っぽく、いい感じに気持ちが悪い。最近は俳優さんで監督をやることも多くなってきているけれど、うまさを感じた。次回作も期待。

サイモンを演じたのがジェイソン・ベイトマン。コメディで見慣れてるから意外な気がしたけれど、裏表がなく正義感の強い男に見えた。最初は。けれど途中から、表情が威圧的に見えたり、口をへの字にして煽るような表情に腹が立ったり…。印象がガラッと変わった。

サイモンの妻ロビンはレベッカ・ホール。長身でショートカット。サバサバしているだけかと思っていたが、途中からは意志の強さも見せる。

言い方がおかしいかもしれないが、ただベストキャスティングというだけではなく、全員、役によく合った顔をしていると思った。