予告を観ていて大猿が大暴れするだけの映画ではないとは思ってたけれど、想像していたよりも面白かった。

また、IMAXの一部の劇場限定のクリストファー・ノーラン監督の『ダンケルク』の映像も観てきました。

以下、『ダンケルク』についてもネタバレがあります。










まず、『ダンケルク』について。
実は、『キングコング』半分、『ダンケルク』半分くらいの気持ちで観に行ったのに、なぜか映画の開始時間を間違えていて途中からになってしまいました。
たぶん、オープニングの1分くらいを見逃しているのでわからないのですが、映画の冒頭5分間なのかもしれない。それか、5分間に編集された予告なのか。
『ダンケルク』は1940年のダンケルクの戦いを描く実話とのこと。
あまり情報を入れたくないので詳しくは調べていないのですが、映像は撤退シーンだったのかもしれない。

トム・ハーディが戦闘機のパイロット役で、顔に近いというか、自分も戦闘機に乗っているかのようなカメラワークだった。
飛行機のエンジン音や爆撃音はおなかにびりびりくるくらいで、間違いなくIMAX案件だと思う。
戦闘機に乗っているパイロット目線のシーンもあり、IMAXの巨大なスクリーン一面に青空が映し出されるシーンもあった。一面の青は、デレク・ジャーマンの『BLUE』を思い出す。ただ、パイロット目線なので、空がぐるぐるまわっていて、酔う人は酔いそう。

またその戦闘機と同時に地上でのシーンも流れる。新米兵士(ハリー・エドワード・スタイルズ?主役?)なのか、一般人なのか、板一本のところを渡れ渡れと周りから囃し立てられて、勇気を出して渡ると周囲から大喝采が起こる。
そして、大きな船に多数の人が乗り込んでいく。船を見上げているのはマーク・ライランス。

上空で戦闘機を撃墜したトム・ハーディがやっちまったみたいな顔をしてからすぐにまあいっかみたいな顔をする。地上で(船に乗ろうと?)並んでいる人々に撃墜された戦闘機が落ちてくる。

そこまででした。タイトルが出て終了。ほんの5分(全部は見られてないから4分くらい)でも釘付けになる映像だった。バリバリの戦争映画っぽい。9月の公開が本当に楽しみ。



あらためて『キングコング』について。

1973年、ベトナム戦争が終わったあたりの話。
研究者チームやカメラマンが、元SATやベトナム帰りの兵士たちを護衛につけて、不気味な島へ潜入する。
さあ探検するぞ、何がいるのかな?と思いながら見ていたけれど、ワクワクする間もなく、あっという間にコングが出てくる。
いや、何がいるのかなと思いつつわかってはいたし、あまりにも焦らされたら早く大きい猿が見たい!となっていたと思うのでいいのだけれど。それにしても、真打登場が早かった。

その最初の攻撃で、部隊は三方向に分かれてしまう。民間人中心のチームと兵士中心のチームと一人だけのチーム。
この一人チームがトビー・ケベル。出るのを知らなかったので最初にキャスト名が出たときに、『猿の惑星:新世紀』の印象が強くて今回ももしかしてコング役なのかと思ったら違った。兵士でした。追記:ちゃんと調べてみたら、コングのフェイスモーションキャプチャーもトビー・ケベルだった。やはり、猿といえばトビー・ケベル。

民間人チームは島に暮らす現地の人々のテリトリーに迷い込む。そこで、第二次世界大戦時からそこにいて戻れなくなっていたアメリカ人に会う。
このマーロウを演じるのがジョン・C・ライリー。アバンでちらっと出てきたのも彼だった。
アバンでは、男二人が争っている。一人は日本人で演じているのはMIYAVIだった。『アンブロークン』も良かったですが、ここでも、日本兵役。ねちっこい目つき(褒めている)が合っていた。
マーロウがえらく恰好いい。結局、争ってはいたけれど、日本兵とも仲が良くなったらしいが、彼は島に住む怪物に殺されたようだ。彼の魂を胸に、形見である日本刀で戦う。
最後にも、マーロウの帰国後の様子が流れるし、実質本作の主役だと思う。
次作からは出ないとは思うけれど。

この村で民間人チームはマーロウから、現地の人はコングを神として崇めてるという話を聞く。
そもそも、コングだけではなく、大きな怪物がたくさん出てくるというのは予告を観て知っていた。けれど、そいつらが人間に対して総攻撃を仕掛けてくるのかと思ったけれど、どうやら違って、いい猿タイプだったらしい。
ゴジラにしても、人間の味方のいいゴジラと人間に対して攻撃を仕掛けてくる悪いゴジラがいるらしいがそれと似ている。
コングは、最初にヘリから攻撃されたのを避けるときもかわいそうに見えた。だって、最初に轟音を鳴らしながら島に爆弾を撃ち込んでいったのは人間の方だ。コングに同情してしまう。

しかし、兵士中心のチームはそんな話も知らないし、仲間を殺された復讐心に燃えている。こちらのリーダーは大佐なので、部下に対する責任感や正義感が余計に強い。
頑固で、いくら説得してもコング憎しの感情は消えない。例えば、こちらのチームが現地の人の村にたどり着いていたらどうなっていただろう。それでも気持ちを変えなかったのではないかと思うくらい頑固だった。
演じているのがサミュエル・L・ジャクソン。コングと睨み合うシーンがあるのだが、二人の顔がアップで交互に映し出されると、明らかにサミュエルのほうが悪い顔に見えてくる。

大きいタコとか大きいトカゲのようなスカルクローラーなどとコングが対決する。タコは足を引きちぎって、つるつると食べていた。
スカルクローラーとの対決では木を刀のように使ったり、鎖で締め付けたりしていた。道具を使えるというのは知能が高い。
最初こそ、スカルクローラーの大きな口を両手でつかんで開こうとするなど、本能のままに戦っていたけれど、終盤にはちゃんと作戦があるような戦い方をしていた。プロレスのようにも見えた。自分に危険がないのならば、大きい者たちの戦いを間近で見てみたいと思ってしまった。大迫力である。

また、ブリー・ラーソン演じるカメラマンの女性を救っていた。そこまで心の触れ合いはなかったけれど、自分に危害を加えてこない人間と攻撃してくる人間の区別もつくらしい。人間の敵ではないのだ。なんとなく、感情があるようにも見えた。

最後にドラミングと咆哮シーンがあり、監督に君たちが観たいのはこれだろう?と言われているようだった。大サービスである。

また、現地の人の村からの出港シーンやコングの大きなしゃれこうべが転がる墓場もゾクゾクする恰好良さだった。
マーロウのボートもハンドルに野球ボールが付いているなど凝っていた。

音楽に70年代の曲が使われているのも良かった。BGMではなくて、登場人物が映画内でかける感じで使われる。ブラック・サバスの『パラノイド』は1970年、デヴィッド・ボウイの『ジギー・スターダスト』は1972年。1973年の話なので、最新の曲っぽく『ジギー・スターダスト』が使われているのがおもしろい。
また、音楽を聴くというのは、登場人物たちにとっての平穏な日常である。だから、それが急に消された時が非日常で、この映画ではその切り分け的な意味もこめて音楽が使われていたのも印象的だった。
後半では、70年代ヒット曲は一切使われない。音楽を聴いている場合ではなくなるからだ。

エンドロール後にゴジラを思わせるシルエットとあの独特な咆哮が登場。
いずれ出てくるという話かと思っていたけれど、もう、すぐに出てきてしまいそうだった。
今回でコングの恰好良さがよくわかったので、コングとゴジラの対決はやめてほしい。できることなら、共闘してほしい。けれど、共闘したら強すぎて敵なしになってしまいそうだし無理かもしれない。

『SING/シング』



監督は『銀河ヒッチハイク・ガイド』や『リトル・ランボーズ』のガース・ジェニングス。
けれど、監督の紹介よりも『ミニオンズ』のイルミネーション・エンターテインメントという紹介のされ方をされていることが多いようです。

キャストにマシュー・マコノヒーやスカーレット・ヨハンソンがいることは知っていたので、誰がどのキャラを演じているのか調べてから行こうとしたら、吹き替えのキャストも豪華で気になった。けれど、ゴリラのジョニーをタロン・エガートンが演じているというので字幕で観ました。

以下、ネタバレです。









タイトル通り、歌がテーマではあるし、歌うシーンも多いけれど、急に心情を歌い出したり踊りだしたりするわけではないのでミュージカルとは違うと思う。
ステージ上で、さあ歌いますよという形の他には、日常の中で退屈しのぎの鼻歌とか家事をしながら口ずさむとか、生活に寄り添う形で歌うシーンがでてくる。

恐ろしくポジティブな劇場長コアラのバスター・ムーンが主人公。
性格はずうずうしいくらいに前向きポジティブで、へこむことはなさそうだし、精神も図太そう。彼が古びた劇場を復活させるためにオーディションをひらくのだが、そこに来るのは普段の生活に不満があったり、自分の歌を披露したいと思っていたりする人たちで、人生に疲れた彼らを輝かせるお手伝いをするストーリーなのかと思った。

途中までは確かにそんな感じなのだけれど、中盤で不運や無理が重なって、劇場が壊れてしまう。ただ壊れただけではなく、木っ端微塵である。これから後半の舞台になると思っていた場所なのに、無くなってしまった。
また、恐ろしいまでに前向きだったバスター・ムーンが、すっかり落ち込んでしまう。劇場こそが彼の心の支えだったのだ。劇場が崩れたことで彼の心もぽっきり折れてしまった。

彼は、そして物語として、こんなことになってしまって復活できるのか、ハラハラしてしまった。

結局、建物の残ったところを使って野外劇場を作るのだけれど、そのときに流れるのが。Queen&David Bowie『Under Pressure』。力を合わせる場面でのデヴィッド・ボウイがいかに効果的かは『オデッセイ』でもわかったことだが、今回も良かった。
この曲は誰が歌うというわけではなくBGMになっているのだけれど、同じようにビートルズの『You Never Give Me Your Money』も使われる。
本編では使われず、予告のみだったけれど、エアロスミスの『Dream On』をサンプリングしたエミネムの『Sing For the Moment』にしてもそうだけれど、それぞれ、曲だけではなく歌詞が内容に合っている。

登場人物が歌う曲も、ミュージカル的に感極まって歌い始めるわけではなくても、彼らの心情をよく表しているものが使われていたようだ。ほぼ既存の曲だけれど、合っていた。ストーリー上ではバスターがそれぞれに曲を割り当てていたので、みんなのことがよくわかってるなと思った。

バスターは歌わないのでマシュー・マコノヒーの歌声は聞くことができないが、セス・マクファーレンのムードたっぷりの歌声、リース・ウィザースプーンの可愛い歌声とみんなうまかった。特に、タロン・エガートンが良かった。
ゴリラのジョニー役だけれど、外見に似合わぬ綺麗な歌声だった。ジョニーは父親がギャングでその下っ端として強盗に見張りとして参加したりしていて、実写でもタロン・エガートンがやりそうな役だと思った。ゴリラではないけれど、なんとなくチンピラのイメージなのだ。
けれど、悪くはなりきれない、根の優しさが歌声に出ていて、その辺もとてもタロン・エガートンっぽい。こんなに歌がうまいとは思わず、彼のことがもっと好きになった。

吹き替えだとスキマスイッチの大橋さんらしい。大橋さんのことはよく知らないけれど、チンピラっぽいイメージはないのと、歌声もスキマスイッチだと特徴的なので意外性はない。歌はうまくてもイメージとは違うのかなとは思うけれど、吹き替えで観た方のコメントだとiTunesのシャッフルでスキマスイッチが流れたときに、ジョニーが活躍しているかのような印象を受けるらしい。現実の印象が変わるという逆の現象が起きている。

ネズミのマイクは後半で『マイウェイ』を歌う。セス・マクファーレンの歌が本当に素敵なんですが、字幕が中島潤版(布施明が歌った版)なのがとても良かった。この歌詞が好きなので。
特に、“私には愛する歌があるから/信じたこの道を私は行くだけ”の歌詞はこの映画のテーマでもあると思う。
また、吹き替えが山寺宏一さんである。いいに決まってる。山寺さんが歌うのもおそらく中島潤版だと思うので、聞いてみたい。

野外ステージは大成功し、かつて劇場で歌った往年の歌姫が資金を提供することになり、問題も解決する。確かにバスターの問題は解決した。けれど、他の登場人物についてはどうだろうか。

マイクはカードを作って高級車を買っていたが、結局賞金は入らないけれどどうなったのだろうか。
ジョニーは父親に認めてはもらったけれど、刑務所に入ってしまった。余罪がいくつもあるだろうし、出てくることはあるのだろうか。
ブタのロジータはからくりが暴走して子供と夫が大変なことになっていたけれど、どうやってステージに出ることを許してもらったのだろうか。この先はどうするのだろう。ステージでの姿を見てキスしていたからこれは解決なのだろうか。
グンターはロジータに都合がいいだけのキャラに見えてしまった。別に見返りを求めてやっていることではないのだろうし、グンターが好きに動いていたら結果的にロジータに影響したというだけなのかもしれないからいいけれど、なにかしら報酬やご褒美があればよかったなと思う。ステージに出られたことだろうか。背景が全く謎なのも気になる。

その辺はすでに続編が決まっているようだし、そこで描かれるのかもしれない。でも、もしかしたら、バスター以外は別のキャラが出てきてステージに立つのかもしれない。

予告でも出てきたバスターの「どん底までいったらあとは上がるだけだ!」という力強いセリフが印象的だし、心の支えである劇場が木っ端微塵になるというのはまさにどん底である。そこから駆け上がるようにラストへ向かっていく様子が感動的だった。
最後のステージは、映画館で観ている私たちも映画の中に入ったような感覚を覚えた。バスターが主宰するショーの観客の一人だった。楽しかったです。


そこまで最近のディズニー映画に思い入れはないのですが、モアナがハートマークを作っているポスターの通りの映画ではないというので観に行ってきました。

マウイ役のドウェイン・ジョンソンが気になったので字幕で見ました。

以下、ネタバレです。








ポスターだと、海の前にモアナが一人で立ち、髪をなびかせて微笑み、ハートマークを作っている。まるで王子様を待ち焦がれている少女のようだ。
ところが、事前の口コミでは“そんな映画ではなく、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』だった”という話がまわってきた。
実際に観てみたら、確かに『マッドマックス』だった。

ポスターにはマウイが載っていない!と言われていたけれど、一応、猛禽の姿で載っていた。あと、物語のキーとなる石をハートの中に持っている。間違ってはいないのがなんだかずるい。

ただ、映画を観てからだと、海外版ポスターのような不敵な笑みのほうがモアナっぽい。髪の毛をなびかせているけれど、映画内では長い髪は顔にばさっとかかってしまうこともあって、ここぞというときにはおだんごにしていた。

ある日焼け止めクリームの宣伝にモアナが使われていたけれど、映画のモアナは日焼けなんて気にしなさそう。

モアナはポスターからイメージされるような、何かを夢見て、待っているだけの女の子じゃない。自ら行動を起こす。一人きりで乗り込んでいく。親に反対されても、大海原へ出て行くのだ。

全編ほぼ海上アクションである。
アニメの技術のことはあまりよくわからないけれど、エンドロールを見ていたら、髪の毛の担当の方と、波の担当の方が別々にクレジットされていた。モアナだけでなく、マウイも髪の毛が長い。海上を船で行くから風がある上にアクションだ。相当大変そう。

ただ、海の上とはいえ、実写のように漂流ものにはならない。
公式サイトのキャラクター紹介を見ると、“モアナ”などに混じって“海”と書いてあるけれど、確かに、海も仲間のようだった。そのため、海上でも孤独感のようなものはない。船から落ちても大丈夫だし、ピンチらしいピンチもそれほどない。ニワトリのヘイヘイより、よっぽど頼りになる存在だった。

モアナは可愛い子豚のプアを飼っていて、この子のグッズも映画館には並んでいたんですが、ほぼ出番はない。プアではなくヘイヘイが冒険についていくのが変わっていると思った。というか、ヘイヘイにしても、本当についてきているだけなのもすごい。キャラクターデザインを見てもヘイヘイは役に立つとは思えないのだが、本当にほとんど役に立たない。

マウイに「女の子が動物を連れてりゃプリンセスだろ」と言われるけれど、その動物がプアならまだ絵になるけれど、ヘイヘイではとてもプリンセスのペットっぽくはない。それに、モアナははっきりと「プリンセスじゃない。村の娘よ」と言う。
ここ最近のディズニー映画はプリンセスがいて王子様がいて…というストーリーから脱却しようとしているのは感じていたけれど、ここまであからさまに否定するとは思わなかった。

それに、冒険先で出会うマウイは男性だけれど、いわゆる恋愛関係にはならない。半分神様なせいもあるのだろうか。仲間としての絆は強めていくが、最後だってすっぱり別れる。お姫様と王子様の話ではないのだ。

モアナは村へ帰るので、行きて帰りし物語ではあると思う。しかし、行きて帰りてまた行きし物語というか、ただ冒険から戻って、成長した娘はこれからは村で長として暮らしていきますというラストではないのだ。
成長はもちろんした。けれど、村の全員を引き連れて、大きな船で新たな世界へ旅立つのだ。とても爽やかだし、何が起こるかわからないワクワク感のあるラストだった。何が起こるかはわからなくても希望に満ち溢れている。
号泣という感じではないけれど、いいラストだった。

映画で出てくる歌がすべて良くて、サントラCDが欲しくなってしまった。
アカデミー賞歌曲賞にノミネートされていた主題歌とも言える『How Far I'll Go』は、歌い上げる系で少し苦手かもしれないと思っていたけれど、物語の中に組み込まれているとしっくりきた。歌詞も物語の一部だし、読みながら映画を観ていると、モアナの海の向こうへの憧れや実際に冒険へ出かけなくてはという力強い意思を感じた。

そして、知らなかったのだが、マウイの歌もあった。マウイは大きな体にタトゥーが入っていて、キャストであるドウェイン・ジョンソンを連想させないこともない。
ちなみに、モアナを演じるハワイ出身のアウリイ・カルヴァージョもすごくモアナっぽい。ドウェイン・ジョンソンとアウリイ・カルヴァージョ二人の写真が可愛かった。吹き替えの沖縄出身の屋比久知奈さんもモアナっぽいが、マウイを演じた尾上松也さんはマウイっぽくはないです。

ドウェイン・ジョンソンの歌声というのが、とてもうまくて聞き惚れるというところまではいかないけれど、可愛くて好感が持てて、ますます好きになってしまった。
この体のタトゥーが動くのだけれど、マウイの相棒なのかと思っていたけれど、彼の自己や内面らしい。

最初、マウイが悪役なのかと思っていたけれど、モアナと序盤で会うし、最初は粗暴な面も見せるが、別に悪い奴ではない。
二人は仲間として行動を共にして、最後にボスとの対決もあるけれど、そのボスも本当は悪い人ではなかった。悪い奴がいて、それを倒しに行く正義の味方たち…という単純な話でもないのだ。

そして、カニと言われているのでカニなのだと思うけれど、いわゆるカニというフォルムではない甲殻類のタマトアが最高。
キラキラしたものを集めるのが好きで、甲羅をギンギラにしているのだけれど、その印象から歌うのがグラムロックである。かっこいい。
エンドロール後にも出てくるので、結局、曲が最後に流れることになり、一番頭に残ってしまう。
曲がセクシーなせいもあるけれど、歌声もセクシー。演じているのはジェマイン・クレメント。肩書きは俳優・コメディアン・ミュージシャン・声優と多彩。
声優として『怪盗グルーの月泥棒』に参加してるのも目を引いたが、一番気になったのは、『シェアハウス・ウィズ・ヴァンパイア』の監督、脚本、出演をしていたところ。予告はおもしろそうだと思ったけれど、未見です。連名でタイカ・ワイティティも監督になっている。これは『ソー ラグラロク』の前に観なくては。
タマトア役の吹き替えキャストがローリーなのもいいと思う。グラムロックの人で演技もできてミュージカルにも出ているとはいえ、よくキャスティングしてくれたと思う。ローリー以外ないだろうと思う。吹き替えでも観てみたい。


2016年公開。フランスでは2015年公開。

『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』を観たときに、本作のことが頭をかすめた。予告しか見ていなかったけれど、音痴な歌姫のために夫が献身的につくすという内容かと思っていた。
本作は舞台をフランスに移し、登場人物の名前を変更しただけの同じストーリーなのだと思っていたけれど違った。

『マダム・フローレンス!』がどの程度かわからないけれど実話寄りで、『偉大なるマルグリット』はフローレンスのモチーフこそ同じだけれど、あくまでも創作のようです。

以下、『マダム・フローレンス!』との違いについて。『マダム・フローレンス!』のネタバレも含みます。

そもそも夫のキャラクターが違った。実際には、医師と17歳で結婚して34歳で離婚、41歳でシンクレアと出会い結婚したようだ。フローレンスが歌のレッスンを受けたのも43歳のときらしく、『マダム・フローレンス!』はその頃の話である。夫もシンクレアだ。

『偉大なるマルグリット』では、夫は男爵である。貴族の地位も持っている。フローレンスよりも年上に見える。シンクレアは、これは実話なのかわからないが売れない俳優だったので、どちらかというと、フローレンスのヒモのように見えた。年齢も若い。

ワルキューレ風の衣装や天使の羽の衣装などの、奇抜だけれど愛らしい衣装は両方ともに出てきた。写真がたくさん残っているようだし、それを参考にしているのだろうか。

同様に、彼女の歌を収録したレコードも実際に残っているようだが、それの扱いは違っていた。
『マダム・フローレンス!』では、嬉々として自分で録音して、ラジオ局などに配っていた。本人が聴いたのかどうかはわかりません。
マルグリットはステージ上で倒れた後で、自分を大歌手だと思い込み、行ってもいないツアーの話をしていて、正気を取り戻させるために病院で歌を録音し、ショック療法のような使い方で聴かせようとしていた。
だいぶ意味合いが違うが、これも『マダム・フローレンス!』のほうが実話なのだろうか。

また、実在のフローレンスは若い頃に元夫に梅毒をうつされていて、『マダム・フローレンス!』でもその薬の副作用で髪が抜けてしまっていて、調子が悪くなることも多かった。だから、夫人公認の愛人もいた。公認とはいえ、フローレンスは夫を愛していて、やはり寂しそうだった。

マルグリットは持病はなさそうだったけれど、慣れないレッスンのせいなのか、喉を痛めていた。ステージ上で吐血していたのは声帯が切れたのだろうか。
また、やはり夫には愛人がいたが、あくまでも内緒であり、マルグリットが偶然見かけてショックを受けるという場面もあった。

フローレンスもマルグリットも、両方とも夫の愛を求めていた。求めながら満たされない寂しさは同様に描かれていた。

フローレンスのほうは、夫のシンクレアは最初はどちらかというと執事のような描かれ方をしていた。マルグリットは夫がまったく興味をしめさない。
シンクレアはかいがいしくフローレンスの世話をしていたが、マルグリットではそのままずばり執事が世話をしていた。

マルグリットでは歌の先生が雇われるときに、実際に歌を聴いたところで断って帰るので、これはフローレンス側のピアニストの役割かと思った。
ピアニストは去ろうとするところ、シンクレアがお金で引き留めるが、歌の先生は性癖を暴露するぞと執事が脅して引き留める。

しかし、フローレンスのピアニストも、マルグリットの歌の先生も、共に歌を聴くうちに彼女のことが大好きになってくる。
だから、歌が下手という、本人だけが気づいていない事実が伝えられない。みんな彼女を傷つけたくないと思うし、応援したいと思ってしまう。

劇中では、彼女は愛で満たされていないから歌う、夫の気をひくためだと言われていたけれど、それだけではないと思う。

音楽が好きで歌が好きだから、自分でも歌いたい。好きなことを貫こうとするひたむきな姿勢と行動力、バイタリティー。
何より楽しそうな姿を見ると楽しくなってくる。

『マダム・フローレンス!』で夫のシンクレアはサクラの客を雇ったり新聞を隠したりと、フローレンスの耳に酷評が入らないようにしていた。
マルグリットの夫も最初は舞台で笑い者になるだけだと言っていたけれど、そのうち、「あなたにやめろと言われればやめるわ」とマルグリットに言われても言えなくなってしまう。
結果的に、マルグリットの歌で夫の気をひくことができたし、彼女を傷つけたくないとまで思っていたのだから、気持ちがまるまる変化している。

映画を観ている私たちも同じだ。強烈に音がはずれていても、もう馬鹿にすることはできない。笑っていてもそれは嘲笑ではなく、幸せな気持ちになったときの笑みだ。

ラスト付近の展開は両方とも同じだった。
フローレンスが酷評された記事が載った新聞を見せるのを、マルグリットの歌が収録されたレコードを聴かせるのを、それぞれ夫が必死で止めようとしていた。

実在したフローレンスは心臓発作で亡くなったのだが、事実を知ることで心臓発作を起こしたのかどうかは不明である。

映画では、『マダム・フローレンス!』は新聞記事を読んで倒れ、『偉大なるマルグリット』では自分の歌を聴いて倒れていた。
『偉大なるマルグリット』では亡くなったということはちゃんとは描写されないけれど、両方とも、夫の腕の中で目を閉じている。両方とも、夫の愛が戻ってきたということでハッピーエンドでもあるのだろうか。

もしも心臓発作でないのだとしたら、事実を知ってからも歌を続けるのだろうか。彼女のことを、彼女の歌を愛している人もいるのだから、やはり続けてもらいたいと思うのだ。カーネギーホールのアーカイブでも一番人気になっているというらしいし、70年以上経った今でも歌が愛されていると彼女に伝えてあげたい。

『スノーデン』



オリバー・ストーン監督、ジョセフ・ゴードン=レヴィットがエドワード・スノーデンを演じる。
2004年から2013年までの実話をもとにした映画。

以下、ネタバレです。











ポスターなどのメインヴィジュアルだといつものジョセフ・ゴードン=レヴィットですが、映画内だとちゃんとスノーデンに見えるのがすごい。もそもそとした喋り方も似せているのだと思う。それだけでも彼の演技力の高さがうかがえた。

ただ、実話を“もとに”と言われると、スノーデンの一連のことを知らなかったので、一体どこまでが事実でどこまでが創作なのか、わからなくなってしまった。

Facebookを創設したマーク・ザッカーバーグを描いた『ソーシャル・ネットワーク』になんとなく似た印象を受けた。
コンピューターに強い若者が主人公だからかもしれない。まっすぐにこちらを見ている人の顔に文字を重ねたポスターのせいかも。
また、劇中で流されたデジタルっぽい曲調がトレント&アッティカスっぽかったからかもしれない(音楽は『ラブ・アクチュアリー』や『レイヤー・ケーキ』『華麗なるギャツビー』のクレイグ・アームストロング)。エンドロールでピーター・ガブリエルの名前が出てきたので何かと思ったら、エンディングテーマになっている『The Veil』を本作のために書き下ろしたらしい。



『ソーシャル・ネットワーク』と似た印象でも、あの映画のマーク・ザッカーバーグよりも人とコミュニケーションがちゃんととれている。
恋人がいて、一緒に住んでいた。「無視しないでよ」などと言われていたけれど、いわゆるコミュ障ではない。恋人から写真を撮られたり、一緒に登山をしたりというシーンは、主演がJGLだから余計にロマンティックになっている(した)のではないかと思ってしまった。
物語のスパイスとしてのラブ要素で、本当はこの女性すらいなかったのではないかと存在を疑ってしまったのだ。
けれど、最後に、彼女もモスクワに渡って暮しているというテロップが出て、実際にいる人なのを知る。

では、軍に入っていたのは事実だとして両足骨折で抜けることになったのはどうなのか、ルービックキューブの一連のエピソードとか、カメラを警戒して手話で別れを告げるのはどうなのだろうと考えてしまった。
ビデオ電話でコービンと話すとき、とても大きなスクリーンのような画面にコービンがアップになるのは、さすがに威圧感を出すための映画的な演出なのだと思う。
ただ、スノーデンの恋人の監視をしていることをさらっと言っていたのは事実かもしれない。監視がいいとか悪いとかではなく、日常になっている。

直接の話ではないけれど、『アイ・イン・ザ・スカイ』で、ドローン攻撃の際にあれだけ一つのボタンを押すのにためらっていたのに、本作ではぽんぽん押していた。おそらく、こっちが現実なのだろう。ハワイの基地は同じ場所だろうか。

2016年に公開された(アメリカでは2014年)スノーデンのドキュメンタリー『シチズンフォー スノーデンの暴露』も観たい…と思いながら観ていたら、ラストでまさかのご本人登場。

本物のスノーデンから語られる言葉の重さ、そして母国には戻れなくても幸せそうで後悔はないのだろうと思われる様子など、伝わってくるものが大きかった。
JGLの演技は申し分なかったのだが、これで、ここまでが所詮、再現VTRになってしまった。ご本人を登場させたのは、オリバー・ストーンパワーだろう。

映画を観終わってから調べてみたところ、内容はほとんど事実のようだった。
衝撃的な暴露にいたるまでの流れがよくわかったし、もしかしたらドキュメンタリーをいきなり観るよりも、噛み砕かれているであろうこちらを先に観ておいてよかったのかもしれない。

スノーデンが真実を話す場面から本作は始まる。香港のホテルの一室で、メリッサ・レオ演じるローラが撮影を始める。

まさに、ここでローラが撮影している映像の内容が『シチズンフォー』らしい。確かに、監督の名前がローラ・ポイトラスになっている。

アメリカの話でしょ…と思っていたけれど、日本も監視されていたし、完全にひとごとではない話だった。
また日本が同盟国ではなくなった場合に作動させるプログラムも仕込まれていたというのも知らなかった。
ぞっとしたし、もっとこの件を知りたいと思った。





アメリカでは2014年公開。日本ではビデオスルー。
主演トム・ハーディなのにと思うけれど、今でこそ主演作がちゃんと劇場公開されるけれど、『ブロンソン』や『ウォーリアー』などの良作もこくかいされていない。

原作小説『The Drop』(原題もこれ)、デニス・ルヘインは『ミスティック・リバー』『ゴーン・ベイビー・ゴーン』『シャッター・アイランド』の作者。5月に公開予定のベン・アフレック主演『夜に生きる』もこの方です。

ブルックリンのバーが舞台になっている。バーはマフィアのマネーロンダリングに使われていた。
トム・ハーディ演じるボブはそこで働くバーテンダーである。

最初、ちょっと不器用だけど平凡な男の巻き込まれ系の話なのかと思った。
けれど、最初から「“ただの”バーテンダー」というような言い方も気になったし、序盤で警察にも平気で嘘をついていた。

バーの店主というか、マフィアに乗っ取られる前の店主も裏では悪い事をやっているようだったし、ボブは彼のいとこで小さい頃から知っていた…ということは、悪い事も容認してる、もしくは彼も悪い事をやっているのだろうと思った。

また、送りつけられた右手を慣れた手つきでラップに包む様子は、ちょっとこれは“ただの”バーテンダーではないと物語っていた。店主は悪い事といっても所詮チンピラ程度のことしかやってなかったけれど、このボブを見てひいていた。

全編通してあやしいっちゃあやしいし、まったく素の姿が出てこなかったので、一応どんでん返しというか、実はボブが殺しましたという事実が出てきてもそりゃそうだろうという感想しか抱けなかった。意外性はさほど感じられず。

おそらく、チンピラが俺が殺したと言ったときに心の中で笑っていたのだろうが、そんな部分も見えなかった。これはどんでん返しのためだとは思うけれど、真実が明らかになった後だったらそうゆう面が見えても良かったのにと思った。

このちょっとサイコなチンピラ役がマティアス・スーナールツ。『リリーのすべて』で少しプーチンに似てると言われて人気の出た俳優さん。『リリーのすべて』ではビシッとしていたけれど、『君と歩く世界』では今回の役に少し似ていたように思う。
本来、チンピラ役というか、育ちのあまり良くない男の役のほうが合っているのかも。

真実が明らかになった後で一変して欲しかったけれど、ボブというのが感情を殺した男だということだし、原作があるものだからそうゆうキャラで間違いないのだろう。
でも、できることならば感情を出した演技も見たかった。

ラストも含みをもたせたものになっていた。
ノオミ・ラパス演じるナディアはおそらくボブに裏切られたと思ったと思うので、銃でも持ち出すのではないか。
けれど、ボブとエリック(チンピラ)の違いは犬を可愛がるかそうでないかという部分である。犬を可愛がる=根はいい奴ということならば、犬をナディアに預けて自首ということか。

ナディアが家から出てくるところで終わりなので、ラストは自分で考えろということのようだけれど、彼女に向かってだけでも本心や感情をさらけ出すところが見たかった。おそらく切られたラストの先ではそのようなやりとりがあったはずなのだ。

唯一少し感情が見られるのが、子犬と接する場面である。
犬好きで知られるトム・ハーディが序盤で犬を拾う。子犬相手に少しだけ苦戦するけれど、結局、犬可愛いという感情が溢れているのがよくわかる。
一応、犬が捨てられてるのを見つけただけで、飼うなんてごめんだし、飼ったこともないという役だけれど、抱き上げ方も可愛がり方もめちゃくちゃ慣れていた。

これ、子犬によって人間らしい感情を取り戻し…という役でもないと思うのだけれど、どうなのだろう…。子犬がボブを変えるきっかけになっていたのだろうか。







アカデミー賞作品賞ではアクシデントがあって残念でした…。『ムーンライト』も楽しみです。

以下、ネタバレです。






映画の結末を知った上で最初の『Another Day Of Sun』を聴くと、彼を田舎の町に置いて、女優になるために都会に出てきた女の子のことを描いた歌詞が暗示的なのがわかる。同時に、ミアは実家のある田舎町から、女優になるためにロサンゼルスへ出てきたわけですが、もしかしたらこの歌詞そのまんまに付き合ってた彼氏を置いてきているのかもしれないとも思った。映画では描かれない前日譚。

この映画はミアとセブの恋がかなうまでとそれ以降で前半、後半に分かれると思う。もちろん後半あってこそだとは思うけれど、前半のお互いが意識しあって、少しずつ惹かれ合っていく様子がたまらない。
前回観た時に、天文台のプラネタリウムのシーンで恋に落ちたのだなと思っていたけど違った。
たぶん、セブはパーティーバンドで演奏していて、ミアが『I RUN』をリクエストしてきてすごくキュートに踊ってたあたりだ。
ミアはもしかしたらセブがピアノを演奏してるのを見た時なのかもしれない。本当に嫌だったら、パーティーバンドで演奏しているのを見かけても声をかけなかっただろう。

もしかしたら、私はその次の『A Lovey Night』を踊るシーンが映画内で一番好きかもしれない。この背景になっている綺麗な色をした空はCGではなくて本当に夕暮れ時を狙って撮ったというからすごい。
ミアがおめかしのためのヒールの靴を普通の靴に履き替えるのも、あなたのためには別にめかしこまなくてもいいわよねと言っているようで、すでに親しさを感じているのがいい。
セブが好きな子にいじわるするみたいに、ミアの足に砂をかけちゃうのもかわいい。

『A Lovey Night』自体が、“別にあなたのこと全然好きじゃないし、ロマンティックな夜でもないし”という歌詞である。もちろんこれは本心ではない。そんなのは二人の様子を見ているだけでわかる。その様子がとてもいい。

その次のシーンでセブがミアを映画に誘うんですが、何回も『For research.』とわざわざ理由をつけるのがまたいい。ミアも『For research?』と聞き返していた。「(デートじゃないよ)映画の研究のためだよ」「そうね、研究のためなんだったら行ってもいいわ(デートだったら行かないけどね)」と、カッコ内の部分は声には出してないけれど、出すならそんな感じだろう。でも、デートという言葉は出してなくても、お互いにこれはデートだ!と思っていたはず。敢えて言わないところが本当に可愛い。
ミアは一人で車を運転している時に映画館の横を通りかかって嬉しそうに微笑んでいた。

プラネタリウムのシーンは一回目に観たときにはロマンティックなだけだったけれど、二回目の今回はこの先は現実に戻っていくんだよなと考えてしまい、さみしさも感じた。

パーティーバンドでセブが演奏しているシーンは彼の嫌々やっている感が見えて大好きなんですけど、特に『Take on Me』のコーラス部分をふられて、はいはいというように仏頂面で頷いて受け流すのが最高。知り合い(ミア)に見つかってバツが悪そうな顔をするのもいい。
ただ、こんなことすら嫌がっていたセブが、キースのバンドに加入してステージ上で変なキーボードを弾くまでになったのだ。ミアは責めたけど、彼がどれだけ妥協したか。

夢に向かってがむしゃらに突き進んでついに叶えたエマの物語として観られることが多いのかもしれないけれど、エマが母と電話をしているのを聞いて、彼女のことを思って、生計も立てなくてはいけないとキースのバンドに加入したセブの物語として見るとやりきれない気分になる。

後半では、二人で行った思い出の映画館も閉館してしまう。それだけで映画の衰退と二人の関係の悪さを示しているようで胸が締め付けられる。
実際にあった映画館らしい。パンフレットを観ると、ミアが後半で一人芝居をした劇場もここらしいけれど、ロケとして同じ劇場を使ったということなのか、劇中でも閉館した映画館が劇場になってそこをミアが借りたのかがわからない。

しかし、仮に思い出の映画館跡地の劇場をミアが一人芝居の舞台に選んだのなら、セブが観に来てくれなかったのは本当にショックだったろう。
セブに言われなかったら、自分で脚本を書き、自分で演じるということもしなかっただろう。きっかけを作ってくれたことに感謝もしていたと思う。なおさら、観て欲しかった。

セブはあの撮影にどうしても参加しなくてはならなかったのだろうか。翻訳の具合かもしれないけれど、断ることはできそうだった。でも契約してるし、あのカメラマンも芸術家肌の有名人っぽかったし一人だけ別の日ということはできないか。
でも、本当だったらなんとしてもかけつけなくてはいけない場面だったんですよね。行かなかった時点で二人の関係はもう終わりだと思う。

エンドロールの曲のところに『Japanese Fork Song』と書いてあって、なんのことかと思っていたけれど、『荒城の月』らしい。
『荒城の月』なんて流れたかなと思ったんですが、アメリカのジャズピアニスト、Thelonious Monkがアレンジしたものとのこと。
聴いてみたら確かに『荒城の月』である。セブが家でレコードをかけながらピアノを練習しているシーンの曲です。