2016年公開。イギリスでは2014年公開。
優秀で美麗な男性たち10人だけが所属できるオックスフォード大学に代々引き継がれる秘密クラブの話。
実際にはライオット・クラブという名前ではなくブリンドン・クラブという名前らしい。一応実在するとは書いてあるけれど、なんせ秘密クラブだし、詳細はたぶん不明。

美麗な男たち、女人禁制、秘密クラブ…。魅力的なキーワードが並ぶし、“華麗で腐った世界”というのも公式側にその気があって書いてるのかわからないけど目をひくフレーズだった。けれど、言葉通り腐っていたし、下劣すぎて胸糞が悪くなり、気分が悪くなるだけの作品だった。こんな気持ちになる覚悟はなかった。
もう少し、デカダンス寄りだったり、お耽美だったりするのかと思っていたけれど、“気品”(これも公式サイトより)なんてなかった。ひたすら下品だった。
確かにクラブに所属しているメンバーは全員イケメンだし、服装もビシッと決まっている。だから、スチルだけ見る分にはいい。写真集でも出したらいいと思う。

クラブから二人が抜けたことで、新入生から二人加入する。
加入の儀式で、痰、尿、虫などを混ぜたワインを一気飲みしていて、うわあと気持ち悪くなりつつも、学生が馬鹿やってるなくらいにしか思わなかった。飲む側もいじめというわけではなく、クラブに勧誘された高揚感に舞い上がっていた。

映画はほぼライオット・クラブの新人二人の歓迎会である晩餐会について描かれている。
「近所のパブは出入り禁止でさ」みたいに言っていて、暴れるのはわかっていたし、各人にゴミ袋大のゲロ袋が渡されて、ひどい飲み会になる予感はあった。
それでも最初は、これは新たな酔っ払い映画になるのかなくらいの軽い気持ちで観ていたが、どんどんエスカレートしていく。

売春婦を呼んで全員の相手をさせようとする。断られて、嫌がらせで新人の彼女を呼ぶ。彼女が階級が低いのを馬鹿にする。
なんというか、人を人とも思わないというか、自分たち以外のことはどうでもいいというか、世の中は自分たちのために存在すると思っているというか。

店でぎゃーぎゃー騒ぐくらいなら、若者だから仕方ないと思う。しかし、田舎で細々と経営している店の調度品を壊すのはどうかと思う。
しかもそれを金で解決しようとした。そして、金を受け取らなかった店主を集団で暴行し、瀕死にまで追い込み、病院送りにする。

途中で誰か止めないのかなと思いながら観ていた。元々のメンバーは、近場で出禁になるくらいだし、新入りの二人が結託して、こんなのは間違ってると正してほしかった。
放蕩の限りを尽くした末にはやはりぎゃふんと言わされてほしい。そこにカタルシスがある。

けれど、ライオット・クラブは代々続いてきているものである。それがここで急に終わるとも思えない。

結局一人が警察に捕まるが、名門大学の代々続いてきている秘密クラブということは、世に出ている政治家、弁護士などにもその秘密クラブ出身者がいるのだ。つまり守られている存在なのである。
その警察に捕まった一人も出身の弁護士に助けられることが示唆されていた。

金持ちの上流階級の人間は何をやっても罰せられることがない。イケメンが下衆なことをするのがたまらないという意見もあるようだけれど、私は例えイケメンであっても、ここまでひどいと苛立ちしか覚えなかった。
監督が『17歳の肖像』のロネ・シェルフィグであることを考えると、告発なのだろうか。怒りを覚えれば監督の目論見通りなのだろうか。

ただ、私は美しい男たちが堕落をしていても、最後には更生するところが観たかったのだと思う。あと、当たり前のことだけれど、外部の人間に迷惑をかけるのは許せなかった。秘密クラブなら、クラブ内でわちゃわちゃやってろと思う。
あと、そのクラブの過去だと一人の男に半裸の女性が四、五人ついていたが、晩餐会では10人で1人の女性をどうにかしようとしていた。どちらも男尊女卑的だとは思うけれど、せめて、人数は逆にしてほしかった。

クラブのメンバー10人の中に『パレードへようこそ』でジェフ役だったフレディ・フォックスとマーク役だったベン・シュネッツァーが出演していた。二人とも『パレードへようこそ』での印象が良かっただけに、本作で印象が悪くなるのはもったいないと思ってしまった。
特に、マークは誠実のかたまりだったし、本作でもベン・シュネッツァーはクラブに少し不満がありそうだったからなんらかの突破口になるのかと思っていた。けれど、誠実な顔をして店主の眼前にポンド札をちらつかせるという役でなんとなく裏切られたような気持ちになってしまった。俳優さんに罪はないけれど、もう二度と観たくない作品。





交通事故から復活したボクサー、ビニー・パジェンサを描く実話。

主演はマイルズ・テラー、コーチ役にアーロン・エッカート。
ではあるけれど、二人とも別人のようだった。

マイルズ・テラーは私は『ファンタスティック・フォー』以来だったが、あの時は少し太っていて彼がボクサー役?と思ってしまった。けれど、体は鍛えられていて、ボクサーらしい闘争心の強さが現れた鋭い目つきをしていて、これもボクサーらしい派手な遊びっぷりで『セッション』のぼっちゃんっぽさも消えていた。
体を絞り、体脂肪も6パーセントまで減らしたらしい。

アーロン・エッカートは『ハドソン川の奇跡』の時のヒゲですら驚いたのに、今回は頭の前側は剃り上げてお腹がぽっこり出ている。彼は逆に40ポンド(18キロ)増やしたらしい。

以下、ネタバレです。










交通事故からの復活ということで、序盤に事故が起こるのかと思ったけれど最初はボクシングシーンとビニーの人柄が描かれていた。
体重の計量の当日に遅刻するようなぎりぎりの減量。ギャンブルで派手に遊んだり、スタイルのいいおネエちゃんを連れていたりと、適当に遊びながらも試合に勝っていた。
序盤の日常シーンは意外と長かった。ただやはり最近のボクシング映画は傑作続きで、そのあたりと比べると少し地味かなと思いながら観ていた。
その時にはもう交通事故が起こることを忘れていたのだけれど、なんとなく嫌な予感がするシーンがあって、事故が起こる。

これが思ったよりも大事故で、ビニーは重傷を負う。首の骨が折れてしまい、ハロという固定する器具をつけることになる。
映画内ではハロと呼ばれていたけれど、ハローベストが正式な呼び名らしい。頭蓋骨に穴を開け、ネジで頭にリングを固定、そのリングから出る支柱をベストで固定する。見た目がサイボーグのようになってしまう。
横を向く時にも体ごとだし、車から降りる時に頭の上部の金属をぶつけてしまい、とても痛がっていた。想像するだけでも痛い。

見た目からして痛々しいので、周囲が気を遣う。気を遣われているのもわかるから、ビニー自身は人と距離を置いてしまう。

誕生日に部屋で一人テレビを見ているビニーをコーチが誘いに来るシーン、アーロン・エッカートがおちゃらけたダンスやパントマイムをするのだが、それがすごくアドリブっぽかった。ビニー役のマイルズ・テラーも本気で笑ってしまっているようで、調べてみたら本当にアドリブだった。

一人で部屋でテレビを見ていても別に本気でひねくれていたわけではないし、気を遣ってくる周囲にキレることもない。ビニーは根が優しいのかもしれないし、このあとに、再びボクシングをやりたいという決断をすることから考えても、楽観主義者なのかもしれない。

もちろん密かに闘志を燃やしていたとか、こんなところでやめられないという負けん気の強さもあったのだろうが、首の骨が折れているのである。その状態からよりによってボクシングをやろうという気持ちには普通はなれないと思う。
邦題の通り、自分を信じていたのだろうが、うじうじと悩んで落ち込んでいたら、どちらかというと俺はもうだめだというネガティブ方面に思考が向いていき、ボクシングを再開することなんてとてもじゃないけど考えなかっただろう。

ビニーはコーチであるケビンにトレーニングを再開して、再びボクシングの試合をしたいことを打ち明ける。ケビンももちろん最初は反対したけれど、熱意に負けたのか、自分もマイク・タイソンのコーチを解雇され、どん底からの復活を夢見たのか、自宅の地下で特訓を開始する。
最初は痛々しかった器具が、まるで王冠のように見えてくる。ビニーの表情もどんどん明るくなっていくのがわかる。おとなしくしているよりも、体を動かしている方がきっとビニーには向いていたのだろう。

ビニーは、器具をはずすときに「麻酔をしないでくれ」と言うんですが、これも実話らしい。頭蓋骨に入っているネジを抜くのがどれだけ痛いか…。
実際に試合をした会場で撮影をし、その会場のある街並みを撮影することで雰囲気などを再現したり、残っていたパジェンサ家のビデオテープから、家族みんなで食卓を囲んでパスタを食べるとか、母親はビニーの前ではタバコを吸わないなど細かい部分がわかり、それらも取り入れて映画が作られているらしい。
実話を基にしているとは言ってもほとんどが実話のようだ。

そして、器具をはずした5日後にはすでにボクシングを始めていて、しかも世界タイトルまでとってしまう。
もうできすぎの話で、フィクションなら興ざめといったところだ。しかし、これが実話だというのが驚かされる。
勝ち負け関係なく、再起をかけてもう一度チャレンジする勇気を描いているだけではなく、実際に勝ってしまうのだ。恐れ入りました。

映画内の音楽の使い方で気になったのは、交通事故前は音楽が、シーンが転換する部分ではない場面で急にブツッと切られることが多かった。ノリのいい音楽が調子に乗るなと戒めるように、急に消える。
わかりやすく、音楽を流しながらトレーニングをしていたらラジカセが急に切られるというシーンもあったが、BGMであっても変なタイミングで消えるので、なんとなく落ち着かない感じだった。
けれど、事故後はフェイドアウトしたり、自然な場面で消えたりと違和感がなくなったのがおもしろかった。
不屈の精神で立ち上がるビニーを応援しているようだった。



怪盗グルーシリーズの三作目。単体でも楽しめるとは思うけれど、登場人物のことを考えると一作目から観たほうがよさそう。
ちなみに『ミニオンズ』はまた別です。

吹き替えで鑑賞。グルー役の笑福亭鶴瓶が相変わらず合っていた。

以下、ネタバレです。









今回の悪役はかつて子役として人気だったが今では見向きもされなくなった男、バルタザール。
過去を引きずって生きているので、肩パットなどファッションが80年代風、武器や基地がルービックキューブだったり、ショルダーキーボードを持っていたりする。
序盤から『Take My Breath Away』や『Bad』が使われていて、他にも『Take on Me』『Into The Groove』など、80年代ソングもふんだんに使われている。
また、ルーシーが『Physical』を少し口ずさむシーンがあって、あ!これバルタザールが変装してる!とわかる仕掛けもあった。

ただちょっと悪役としては弱いかなあと感じた。相棒のアンドロイドも出てくるが、あまり活躍しないのも残念。

最後にグルーと対決はするけれど、そこに重きが置かれてはいないと思った。

一作目『怪盗グルーの月泥棒』では、グルーは三姉妹と一緒に暮らすことになった。
二作目『怪盗グルーのミニオン危機一髪』ではルーシーと結婚した。
そして三作目の本作ではグルーの双子の兄弟ドルーが登場。

私はこの弟が本作の敵なのかと思っていた。というか、予告編を見た時点では、本当の兄だとは思っていなかった。ただの他人の空似なのかと思っていたけれど、グルーの母親が序盤であっさりと認めた本物の兄弟だった。

性格は似ていなかったけれど、これまたあっさりと打ち解けていた。
カツラをつけて二人が入れ替わるシーンは、吹き替えのほうが楽しいと思う。オリジナルではグルーもドルーもスティーヴ・カレルだが、吹き替えはグルーは笑福亭鶴瓶、ドルーは生瀬勝久である。生瀬勝久が今回の吹き替え陣では抜群にうまかった。また、グルーの鶴瓶が関西弁、ドルーの生瀬が標準語なのもおかしさを倍増させる。
ぎこちない関西弁のグルー(生瀬声)、ぎこちない標準語のドルー(鶴瓶声)。カツラもズレているし、映像だけでも入れ替わっているところが丸わかりだし、三姉妹やルーシーは気づいていて白けている中、楽しそうにきゃいきゃいしている二人が可愛かった。

ただ、ドルーが悪党としての仕事をグルーと一緒にしたいのに対して、グルーは悪党からは足を洗っている。
その辺の齟齬から二人の間に亀裂が入り、ヘタレっぽく見えたドルーが本物の悪党として覚醒するのかと思った。
けれど、特にしない。バルタザールはかませ犬で、より悪い存在が出てくる(ドルー?)と思って観ていたから余計に弱く感じたのだ。

ドルーは悪党に憧れてはいるけれど最後までいい奴で、結局、グルーにはまた大切なもの、守らなくてはいけない人が増えた。
ただそうすると、グルーがどんどんいい人になっていき、Despicable Me(原題)でもなんでもなくなる。
本作では、序盤に、ドルーに誘われた時に様々な機能の付いている車で危ないドライブをするシーンが良かった。あの、昔の血が騒いでいるような悪い顔のグルーがセクシーで、ああ、私はこの姿が見たいんだなと思った。
このままだと、グルー自体が中途半端な存在になってしまう。

三姉妹、ルーシー、ドルーと登場人物が増えていったわけだが、忘れちゃいけない、最初からミニオンもいる。
タイトルにもなっている“大脱走”。脱走というよりは脱獄だけれど、刑務所に入るところから脱獄まで、一切グルーは関係ない。『怪盗グルー“と”ミニオン大脱走』にしたほうが良かったのではないか。今回、ミニオンたちはミニオンたちで別行動である。序盤に、悪党をやめたグルーにブーイングしながら出て行ったのだ。気持ちはわかる。

グルーがバルタザールのアジトへ忍び込む時に「ミニオンのほうが役に立つ」みたいなことを言っていてハッとした。私が観たいのはそっちではないか。ミニオンの脱獄をグルーが手伝うことはないし、ラストバトルで合流して一緒に戦うこともない。

ミニオンとグルーの戯れは今回ほとんどない。メルがグルーとの思い出を回想するシーンがあるけれど、これが無かったら完全に別々である。怪盗グルーシリーズにミニオンシリーズが割り込んできたようだ。はっきり言って、本作はミニオンが出てこなくてもストーリーに支障はない。けれど、キャラ自体が人気があるから無理やり割り込ませたように見える。

それに、今作では三姉妹とルーシーもグルーとはほとんど別行動である。アグネスとグルーがユニコーンいる?いない?みたいにベッドルームで話すシーンも良かったから、本当はこちらの戯れも観たかった。

グルーは本作ではずっとドルーと行動をしている。それはそれでおもしろかったからいいのだけれど、三姉妹とルーシー、そしてミニオンが別の話として進行していくのが少し寂しい。
かといって、グルーは一人だから、全員と戯れるわけにはいかない。だからもう、本当は別々の作品にしてほしかった。三姉妹とルーシーとグルー、ミニオンとグルー、ドルーとグルーという、グルーさん三本立てのオムニバスにしてほしかった。

ここで終わりとも思えなかったが、続編が作りにくそうだと思った。
これ以上、登場人物というか身内が増えてしまうと、グルーは更にいい人になってしまう。もっと姑息で意地悪なグルーが見たいのに。

ボスを探す習性のあるミニオンは、最後はドルーと消えていった。悪党になりたいドルー、そして、悪党をさがしていたミニオン。これ以上ない組み合わせだとは思う。
でも、ドルーとミニオンがわちゃわちゃやってて、そこにグルーが混じらないのも寂しい。

今作も決してつまらなくはないが、話のバランスが相当危ういと思っていて、続編も方向性によってはどっちに転ぶだろうと思ってしまう。うまくまとめてほしい。
それより前に、ミニオンズシリーズが来るのかもしれないけれど。





スーパー戦隊シリーズのローカライズ版で、1993年にアメリカで放送が始まった。私はテレビ版を見ていないし、日本の特撮も特に見ているわけではないです。
けれど、この映画は問題なく楽しめました。
特撮物というよりは青春映画だと思う。
そして、子供向けでもないです。

以下、ネタバレです。『クロニクル』(2012年)のネタバレも含みます。






序盤、牛の乳搾りをしようとして、それが間違えて雄牛で違うところを搾っちゃったとか、その牛の名前がビーフケーキ(アメリカのスラングでマッチョな男性のヌード)だったりするシーンが出てきて、この時点で子供向けじゃないことを知った。
あまりに子供向けでも楽しめるか不安だったので良かった。

そして、レッド、ブルー、ピンク、イエロー、ブラックに変身するんだろうなという若者たちが出てくる。
共通項もない若者たちが偶然不思議な物質を発見し、未知のパワーを身につけるというくだりは、少し『クロニクル』を思い出した。けれど、『クロニクル』の面々が自分の利益のためにパワーを使ってきゃっきゃやって、その悪ふざけが次第にエスカレートして大変な暴走を起こした結果、ひどい結末になってしまったのに対し、彼らは大したことはしない。

本作の若者たちもはぐれもので悩みを抱えているのだ。怪我をしてスポーツが続けられなくなってしまう、友達を裏切ってしまう、自閉症で孤立している、型にはめようとする両親に従えず悩む、母親を病気で失うことを恐れている…。混乱もあったのかもしれない。でも、自分の悩みの解決には力を使わない。
ビリーは殴られそうなところを避けたりはしたが、自分からは攻撃しない。勝手に頭突きしてきた相手が倒れただけだ。
そう考えると、『クロニクル』の面々よりも本作の五人のほうが優しいのかなと思う。
ただ、放っておいたら五人も好き放題に自分のためにパワーを使って仲違いしたかもしれないけれど、彼らは途中から旧レンジャーのゾードンとお手伝いロボットのアルファ5に目的を与えられる。使命感を与えられたことも悲劇にならなかった要因だろう。
ちなみにエンドロールで知ったのですが、ゾードン役がブライアン・クランストン、アルファ5役がビル・ヘイダーでびっくりした。ゾードンは壁から不明瞭な顔が出ていて、言われると確かにブライアン・クランストンの顔である。

五人は白人、黒人、アジア系、ラティーノ…と様々な人種なのは、現代特有の配慮なのかなと思った。また、自閉症スペクトラムやにおわせる程度だったけれど同性愛者もいる(そのせいでロシアでは18禁になってしまったらしい)。
何もかもが違う五人だけれど、そのデコボコ感がかわいい。それぞれに違った出来事があって一人きりになってしまってはいるけれど、一人一人がなんとか他の四人と気持ちを通じさせようと頑張る。

もちろんそれは、世界を救うためでもある。世界というか、映画内では彼らが暮している小さい町を救うだけですが。変身できることはわかっても、気持ちが通じ合わないと変身できない。

あまりにも変身しないので、もしかしたらこの映画では変身はしないのかと思った。一応、自分のカラーを一部に使った服を着ていて、おしゃれだなとは思っていたけれど、途中からもしかしてここまでだったりしてとも思った。

学校の教室で(パワーがあるから)高速で手紙のやり取りをする、焚き火を囲んで自分の生い立ちを話す…。こそばゆくて、でも熱くて、青春そのものである。『スタンド・バイ・ミー』が流れ、青春映画感が高まる。

そして、彼らに変身の瞬間が訪れる。これは五人の友情が最高に深まったことの証である。だから、はっきり言って、この後の戦闘シーンは私にとってはオマケのようなものだった。特撮ファンからはどうとらえられているかわかりません。もしかしたら、変身するまでがオマケなのかも。
ちなみに、時間を確認していないのでわかりませんが、変身して戦うのは後半2、30分くらいとのこと。

特撮としてどうかは他の特撮と比べられないのでわかりませんが、他のアクション映画やアメコミ映画に比べると少し雑に感じてしまった。
まず、せっかくヒーロースーツ姿に変身したのに、その姿でのバトルはあまり無い。すぐに個人の乗り物に乗ってしまう。変身しないと乗り物を操れないとのことだったが、乗り物に乗るために変身したみたいに感じてしまう。
しかしこれも、元々の『パワーレンジャー』を知らないので、すぐに乗り物に乗るタイプのヒーローなのかもしれない。
また乗り物に乗ると、顔の前面を開いて生身の顔が出ている姿だったので、ポスターなどで見るようなヒーロースーツ姿の場面はほとんど無かった。次作に向けて、登場人物の顔だけでも覚えて帰ってくださいねということだろうか。

また個々の乗り物が合体して巨大なロボットになるが、この合体はさらに友情が深まった証として次作以降にとっておけば良かったのにと思う。
ちなみに特撮ファンからすると、合体シーンを見せないこととか、変身した時に名乗らないのが気になるらしい。

バトル後に町の人がスマホでパワーレンジャーたちの写真を撮っていたけれど、バトル中はどちらが悪者かわからないくらい建物を壊していた。人が逃げ惑っていたがあの調子だとつぶしていそう。「ごめん、バンブルビー」というセリフは面白かったけれど、要するに市民の車を壊しちゃったのである。彼らも右も左もわからないままいきなり戦うことになって必死だから、市民のことを考えられないのはリアルだと思った。身内だけ贔屓して救うのも、わざわざ逃げ惑う市民を映すのも、あとで批判される伏線かと思ったけれど、賞賛しかされてなかった。

バトル前までの人物描写が丁寧で好感が持てたので、バトルももう少し丁寧だったら良かったと思う。
でも、バトル中のメンバーのやりとりは面白かった。ロボットになったときに慣れてないから連携が取れなくて倒れちゃうとか、リタをビンタでぶっ飛ばしたときに、ビリーが「ジェイソンがまたビンタだ!あ、あれ知ってるの僕だけか!」って嬉しそうに言うのとか。最初にいじめっ子をぶっ飛ばした時のことを思い出してて可愛い。

五人は学生なので、打ち上げも学校である。同じ補習クラスに勢ぞろいしているが、ヒーローであることは隠していて、でも仲はよくなっているから秘密の共有をしている感じ、目を合わせてクスッと笑うような感じがたまらない。乾杯をしたりはしないが、あれも打ち上げの一種だと思う。
そして、次作に繋がる要素も出てきたが…。なかなか興行収入的に厳しいらしいので、次作が作られるかどうかはわからない。是非観たいし、同じテイストで作ってくれてもまったく問題ないです。でも、特撮シーン多くしろって苦情はたくさん出ただろうしどうなるだろう。


原題『Going in style』。
こんな邦題なので観に行かないつもりだったけれど、評判が良かったので観てみたらおもしろかった。それに観終わるとこの邦題で良かったとも思える。
主演はマイケル・ケイン、モーガン・フリーマン、アラン・アーキンというジーサン方。
1979年の『お達者コメディ/シルバー・ギャング』(この邦題もなかなか)(原題は同じ)のリメイクだが、だいぶ変わっているとのこと。

以下、ネタバレです。









“はじめての強盗”とは、まるではじめてのおつかいのようなニュアンスである。
ほのぼのしたジーサンコメディかと思っていたけれど、銀行強盗をするきっかけとなるのが怒りなのが意外だった。あてにしていた年金は会社から支払われなくなる、銀行で契約した住宅ローンで詐欺まがいの目に遭う…。
もちろん作品全体だとコメディ要素が多いが、それだけではないのがまずおもしろかった。それに、ジーサンたちが一念発起して銀行強盗をやろうと思うのも仕方がないと思った。まずここで主人公たちを応援できないとこの先見るのはつらいので、うまい作りだと思った。

銀行強盗の予行演習として、スーパーで万引きをする。商品がシャツからはみ出していたり、ズボンがパンパンに膨れ上がっていたりとぐだぐだである。
それでもおもしろいシーンだったし、コメディならもしかしてこれで成功しちゃうのかな…と少し考えたがさすがに失敗。
スーパーだって、警備員を置いてたし、監視カメラもあるだろうし、そんな状況でぐだぐだのジーサンたちの万引きが成功してしまったらどうしようかと思っていた。

銀行強盗決行日を決め、それに向けてプロの手ほどきを受けながらシミュレーションを繰り返す。この一連のシーンの画面構成や音楽がおしゃれだった。

けれど、さっきの万引きであんなにぐだぐだだったし、ジーサンだし、本当に銀行強盗などできるのだろうか。三人のうちの一人、ウィリー(モーガン・フリーマン)は体調がすぐれないようだったし、本格的に倒れるとかして中止になるのではないだろうか。そのほうがお爺さんを主人公としたコメディっぽい。
ウィリーは友達なのにジョー(マイケル・ケイン)にもアル(アラン・アーキン)にも言っていないようだったし、強盗前に明るみに出て、決行はあきらめて真っ当に暮らしていくのかと思った。
でも、それじゃつまらないなとも思っていた。

そうしたら、銀行強盗は多少ゴタゴタはあったものの、あっさり成功。しかし、これまたあっさり、マスクをしていても正体が疑われ、三人は連行されてしまう。
ここからの一人一人の取り調べシーンがおもしろかった。
いわば、あっさりうまくいった銀行強盗の裏舞台である。

三人それぞれがアリバイを説明するが、映像では実はこう動いてました!というのが示される。あんなグダグダだったのに大丈夫なの?と疑ってしまってすみませんでしたと思うくらいちゃんとしている。
そして、映画自体もただのヒューマンドラマではなく、ケイパーものとしてもちゃんとしていておもしろかった。ここが映画の本番かと思ってしまった。

ただ、強盗中に小さい女の子がウィリーの腕時計を見てるんですよね。そしてその女の子が参考人として連れてこられる。
ああ、アリバイを完璧にしていてもだめだった…と思ったけれど、その子もバカではない。銀行強盗中に言葉を交わしたウィリーの言葉から根は善人だとわかったのか、口裏を合わせてくれた。

本当は、銀行強盗はいけないことである。犯罪だ。でも、映画を観ている側としては三人を応援してるし、女の子もこちら側についてくれて嬉しかった。痛快である。
特に、銀行員やFBIを悪役っぽくすることにより、犯罪者(とは書きたくないけれど)側に感情移入しやすい作りになっていた。

ここで終わりかというとそうではない。義賊のように、仲間や行きつけのダイナーのウェイトレスにこっそりお金を配る。
ジョーは犬が欲しいと言っていた孫娘のために犬をゆずりうけるが、ゆずってくれるのが三人に強盗の手ほどきをした男で、それが序盤でジョーとあった銀行強盗だった。この辺のちょっとした伏線回収も粋。

そして、具合の悪かったウィリーは二人に打ち明けて、アルから腎臓を譲り受ける。
ここで、アルが万一のことを考えて…と言って、麻酔の前に最期っぽい言葉を残す。

その後のシーンで、改まった席でジョーがアルについてスピーチをしていたら、ああ…って思うでしょ。お葬式だ…って。実際に思わせる作りだった。けれど、カメラがひいていくと、これがアルの結婚式でした! しんみりしそうになったところ、一気にめでたい!

ジーサン三人が主人公だと、爺さんである意味を考えて、誰か死んでしまうのではないかという不安とか嫌な予感がつきまとっていた。

それ以外にも、銀行強盗を決行することはできないのではないか…、逮捕されて刑務所生活になってしまうのではないか…、手術が失敗してしまうのではないか…などというすべての悪い予感は、バッタバッタと斬り捨てられる。
見終わってにっこりである。

ただ、リメイク元の『お達者コメディ/シルバー・ギャング』だと、銀行強盗のあとウィリーが心臓発作で死亡、ジョーとアルは二人で余ったお金でラスベガスのカジノで大儲け、その疲れからかアルも急死、ジョーはアルの葬儀に行く途中で逮捕されて刑務所へ…ということで、私の悪い予感が結構達成されている。
おそらく、監督もこんなのいやだと良い方向へ変更したのだろう。多少強引でもにっこり終われるほうがいい。

それに、主人公たちを演じるマイケル・ケイン、モーガン・フリーマン、アラン・アーキンがとにかくいい。本当に仲が良さそうで観ていて和む。演じている彼らも肩の力が抜けているようだった。
三人の役者さんあってのものだと思うし、三人とも映画の中と同じようにいつまでも元気で笑っていてねと思う。これに尽きます。

『セールスマン』



アカデミー賞外国語映画賞受賞。他にもカンヌ国際映画祭脚本賞、男優賞など多数受賞。
アカデミー賞ではイランのアスガー・ファルハディ監督と主演のタラネ・アリドゥスティがトランプ大統領の入国制限政策へ抗議するため、授賞式をボイコットしたことでも話題になった。

以下、ネタバレです。







欧米以外の映画は、年に一度のショートショートフィルムフェスティバルで短編映画を観るくらいであまり触れる機会がない。
それぞれのお国柄や文化などがわかっておもしろいけれど、作風が独特な場合が多く、観づらいこともあった。終わり方などがふんわりしていてわかりにくいことも。

本作もイランの映画ということで少しかまえていたのだけれど、普通の欧米サスペンスのように観ることができた。もともとフランスの配給会社も絡んでいるようだったし、海外展開が考えられていたものなのだと思うから、他のイラン映画とは違うのかもしれない。

ある夫婦を不幸な事件が襲う。妻が謎の侵入者によって襲われてしまう。
夫は許せないので犯人探しをしたいが、妻は警察には届け出ずに引っ越してもう忘れてしまいたいと言うことで、気持ちがすれ違う。
最初、夫婦の住むアパートの隣りで解体工事が行われ、住むアパートから避難することになるが、近所の体が不自由な男性が避難するのも夫は手伝っていていた。教師をしているが、学校でも生徒に対して穏やかだった。
けれど、夫婦の気持ちがすれ違った後は、夫自身もギスギスして、生徒にも厳しく当たっていた。

結局、夫は独自で犯人を見つけ、執念で追いつめるが、被害者である妻は、家族には言わないであげてほしいと言っていた。
イスラム教の教えについてはよくわからないし、イスラム教を扱った映画もあまり観ないけれど、キリスト教のメタファーなどが出てくる映画ではよく赦しについて描かれる。
妻のこの行為もキリスト教的な赦しを彷彿とさせた。けれどおそらくイスラム教徒だと思う。宗教の種類は関係なく、人柄なのかもしれない。
また、被害に遭った直後だったらどうだろうとか、犯人が高齢の病人でなかったらどうだろうとも考えてしまう。

妻は、もしも犯人を家族に突き出したら夫婦関係が終わると脅すようなことを言っていた。しかし、怒りの収まらなかった夫は突き出さないまでも、犯人を殴ってしまう。結局、心臓が悪かった犯人の男性は、それが原因でおそらく亡くなってしまう。

誰が悪いのかなんていうのは、人違いだとわかって襲った犯人の男性に決まっている。けれど、前の住民(娼婦)がいい加減な退居をした、前の住民について仲介した男性が教えなかった、前のアパート(の隣り?)が急に取り壊されそうになった、夫と確かめず扉を開けてしまったなど、不運が重なった面もある。
また、自分が登場人物の誰それの立場ならどうするだろうと、全員について考えさせられる。

他のレビューなどを読むと、イランらしさについても描かれていると書いてあったりもするが、いまいちどの辺なのかわからなかった。
イランの子供もスポンジボブが好きだったのは意外だった。
また、料理を作るときにパスタを作っていたのも意外。黄色かったが、サフランだろうか。いわゆるイタリアっぽいものとは違うのだろうか。味付けはどうなのだろう。パスタと日本語に訳されていても、実は似たようで別のペルシャ料理なのだろうか。けれど、その後にピザは好きかと聞いていた。これは普通のピザなのだろうか。
また、女性が疲弊した状態で倒れこむように寝るときに、スカーフをとりなさいと言われていた。なるほど、外出時に付けていても、家では外すのだ。寝るときに付けているのは行儀が悪いというかマナー違反なのだ。

劇中劇の中の娼婦役の女性が裸じゃないのもお国柄と書かれていたけれど、あれはリハだからかと思っていた。本番も着たままなのか。
また、主人公夫婦は中流階級と書いてあって、それも少し意外な感じがした。

アート系の作品だとちょっと理解をするのに頭を使わなければならないというか、細かいところにヒントを求めて深読みする必要がある。本作は、その必要がなく、純粋にストーリーに没頭できる。それだけで登場人物の心の動きもわかるし、それぞれが悩んでいる様子を見て悶えることができる。
だから細かい部分に目がいかず、お国柄のようなものを見逃したのかもしれない。

映画内で夫婦が所属する劇団が演じるのは、アーサー・ミラーによる戯曲『セールスマンの死』。アメリカのものである。
主人公は年老いたセールスマンですべてがうまくいかなくなり、自ら死を選ぶ。その保険金で家のローンが支払われたことを知り、妻は夫がいないことを悲しむ。
双方が相手を思いやるけれど結局噛み合わないということで、なんとなく『賢者の送り物』を思い出した。妻が夫に送る懐中時計の鎖を買うために髪を切って売り、夫は妻に髪飾りを贈るために懐中時計を売る。こちらは両方が生きているから、思いやる気持ちが大事ということで終わるからハッピーエンドではあるけれど、噛み合わなさは似ていると思った。ちなみに、『賢者の贈り物』もキリスト教の話である。

そして、演じている現実の二人も同じで、互いを思い合っていても噛み合わない。
夫が、結局犯人を殺したような形になってしまった後、二人とも無表情で演じる芝居用の老いたメイクをしてもらっている。
現実の二人は老いた姿になるまで一緒にいるのだろうか。一度、信頼関係は崩れてしまったからいないのではないだろうか。
『セールスマンの死』は劇中劇として映画内に少しずつ出てきて、それがまたいろいろと考えさせられる。この多重構造は少し『バードマン』を思い出した。『バードマン』はもっと演じられる舞台に重きが置かれているけれど。

あともう一つ、昔のイラン映画の『牛』というのが出てくる。おそらく、これにも意味がありそうなのだけれど、いまいちわからなかった。
人間からゆっくり牛になるという内容らしいが、夫婦の関係がゆっくりと変わっていくといったことだろうか。あと、映画全体が欧米っぽい雰囲気だし『セールスマンの死』はアメリカのものだけれど、これはイランの古い映画というのも気になるところだ。