ポール・ダノ演じる青年が遭難、無人島に流れ着いた死体のダニエル・ラドクリフと友達になるというキワモノっぽい内容を聞いた時から期待していました。

以下、ネタバレです。








無人島に一人きりで残されて助けも来ない。主人公のハンクが絶望し、首を吊ろうとしているシーンから始まる。
悲壮感に溢れていて、人を発見したと思ったらそれは死体で…という普通なら踏んだり蹴ったりの状況である。

けれどハンクは、死体の中に溜まった腐敗ガスがオナラとなって外に出ていて、それを動力として海へ進んで行くのを見て、死体の上に乗ってジェットスキーのようにして海へ出る。
ポスターなどでも使われていたからこれがクライマックスなのかと思っていたらオープニングだった。
ついさっきまで死のうとしていたとは思えない。笑顔で拳を突き上げる様子は生命力に満ち溢れている。音楽も力強く、希望と勇気が湧いてくる。タイトルが遠くからバシーンと出る様子を見て、まだ序盤だというのに泣いてしまった。

それで、序盤なのでここから抜け出してはい終わりというわけでは当然無い。
無人島内の話だと思っていたが、ゴミなどから人の気配のある場所へたどり着いていた。ただ、携帯電話は圏外で連絡は取れない。声を張り上げても反応はない。遭難状態は変わらずだ。

遭難して、一人きりのときに自分と向き合って内面が成長していくというのはよくある話だと思うのだ。一回り成長したところで救助されて、家族や恋人とも和解、幸せに暮らしていきましたとさ…というような。

本作は一人きりではあるけれど、自分の内面ではなく死体とコミュニケーションをとっていく。奇抜なアイディアである。どうしたらこんなこと思いつくのか。

死体はおもむろに口をききだすのだが、本当に喋り出したわけではなく、ハンクの内面と考えるのが妥当だと思う。
でもメニーという名前がつけられると(というか名乗られると)、もうそれはハンクの内面ではなく死体が自己を持ち始める。

序盤のジェットスキーからしてもそうだけど、死体の歯でヒゲを剃ったり、体を押して中にたまった水を出したり、死後硬直の始まった腕を使って丸太を折ったり、メニーがいればサバイバルもなんのそのといった感じである。
タイトルの『スイス・アーミー・マン』は“スイス・アーミー・ナイフ”から来ていると知ってなるほどと思った。確かに十徳ナイフくらい便利。
こんなことも本物の死体を使ってはできないと思うのでファンタジーである。

それらを使う様子は面白おかしく描かれるので劇場では笑いが漏れていた。死体なので不謹慎というむきもあるかもしれないけれど、やはりこの辺もファンタジーということで許してほしい。不謹慎と思う人はそもそもこの映画を観に来てはいないと思うけれど。

メニーとの対話を通じてハンクの日常生活がわかってくる。父親とはうまくいっていない、バスで偶然見かけた美しい女性サラを好きになったけれど話しかけることもできない、彼女には夫もいる…。どうして遭難したのかは明らかにはされないが、楽しかったとは言い難い日常はあらわになる。

ハンクが女装をしてサラになるシーンがある。ハンクも好きな人が好きすぎてその人になってしまいたいと考える人間だった。このタイプの人間はいろいろな物語に出てくるが、叶わない恋であることが多い。相手のことを思い焦がれるあまり、自分が対象になってしまいたいと思うようになる。
現実では背中を追うだけで話しかけられない。おそらく彼女のことをこっそり調べ、インスタグラムのアカウントも探して、彼女の私生活を覗き見し、夫がいることも知った。それでも好きだった。たぶん、夫から奪いたいとかそんな気持ちはなかったとは思う。この引っ込み思案な人物がポール・ダノにとてもよく合っていた。

バスまで作って、その時の様子を再現していた。ハンクがサラになり、メニーがハンクになっていた。メニーにだったらいくらでも恋のアドバイスができる。でも実際に行動には移せない。もしかしたら後悔もあったのかもしれない。

メニーがサラを好きでサラもメニーのことが好き、という寸劇。ハンクがサラとしてメニーを好きになるのは、ハンクが現実世界ではサラと結ばれなかったから、こうだったらいいなという願望だったのだと思う。
ねじ曲がっている。それでも、このバスでのやりとりや、落ちていたトウモロコシからポップコーンを作って一緒に観た映画、即席パーティーでのダンス…すごく楽しかったのだろう。それは遭難する前にも味わったことがないような高揚感だったと思う。
ハンクはサラとしてマニーを愛したし、マニーはサラを愛していた…というのもハンクの脳内のことかもしれないけれど、確かに愛し愛された。

映画はところどころギャグがちりばめられていたから、この一人二役というか、冷静に見てしまえば死体と女装の絡みはいくらでも茶化すことができたと思う。それでも、パーティーやバスのシーンはきらきらしていたし、水中でのキスは過剰にロマンティックに撮られていた。
映像が綺麗だと思って観ていたら、監督のダニエルズ(何ダニエルズなの?と思ったら、ダニエル・シャイナートさんとダニエル・クワンさんのダニエル二人でダニエルズだった)はミュージックビデオを手がけているらしく納得した。
こんなに美しく撮るということは茶化すシーンではないのだ。

ハンクは無事に民家のある地域(しかもサラの家の前。ここは個人的には別の人の家のほうがよかったのでは…と思ってしまった)へ戻る。戻ることを目的にしていたはずなのに、そこには少し前までのシーンにあった高揚感はない。
警察が来る。サラとサラの夫と娘もいる。父親が来る。なんだかメニーとハンク、二人の世界を邪魔する不純物のように見えてしまった。
さっきまでの濃い二人だけの空間は夢のようだった。現実はまるで魔法がとけてしまったかのよう。撮り方も明らかに違っていた。戻ってきてからは一歩引いたような、さめたような撮影方法だったと思う。何が原因でそのような印象を受けたかはわからない。色合いかもしれない。

映画を観ながら、うーんでも死体なんだよなあとは時々思い出していたが、途中からはとても一人には見えなかった。でも、現実に戻ってしまえば、作ったバスなども異常者が作った夢の残骸にしか見えない。パーティーにたくさんいた人物(手作り)も不気味な人形にしか見えない。サラや警察はギョッとしていた。それも正しい反応だと思う。
でも、最初からそっち目線で撮っていないのがこの映画のいいところだと思う。ハンクのことを決して笑い者にしない。ハンクの側に立って撮られていた。引っ込み思案だしどこかさえない部分もありそうだったけれど、そんな人物に優しい映画はいい映画である。

ハンクは最後の抵抗として、メニーを死体袋から出してやる。メニーはまたオナラの力で海上を走っていく…。この時、父親は力強く頷いていて、なんとか父親とは和解できたのだなと思った。
ハンクはまたメニーのジェットスキーでどこか遠くへ行ってしまうのかなとも思った。無人島からやっと戻れたことは変わりないし、いつまでもメニーと戯れてもいられないことも自分でもわかっていたのだろう。

メニーが海上をオナラを動力として飛ぶように遠ざかっていく様子はまるで魚雷のようで、コミカルにも見えた。劇場内では笑っている人もいた。
でも私は本当の決別とか、それでも手元に残った強さを思わずにはいられなくて少し切ない気持ちになっていた。
メニーと一緒のサバイバル生活で心から楽しいと思う気持ちなど、得たものもたくさんあったと思うのだ。そして、サラへの想いも完全に断ち切って、新たにスタートするのだろう。
夢の終わりと青春の終わり。恋も終わった。でもこれで、ハンクは一からやり直せる。
じめじめはしない。別れを惜しむ暇もなかった。爽快な別れから感じるのは、たぶんハンクは大丈夫だという予感である。
だから、きっと笑うのが正しいシーンだった。

死体と友達になるということでもっとキワモノコメディーなのかと思った。もちろんその面もあって、他では見られない不謹慎ギャグも多い。でも描かれているのはとても真っ当なことであり、勇気がわいてきたり切なくなったり、登場人物の成長が見られたりと青春映画そのものだった。いや、そのものは言い過ぎかも。




せっかくなので評判のT・ジョイPRINCE品川のIMAXへ行ってきた。2007年までフィルムIMAXの劇場だったらしいが行ったことはありませんでした。今でも残っていたら…と悔やまれる。
2016年7月に同じ場所に再オープンしたが今までも行ったことがなかった。

品川という場所柄なのか、新宿の映画館とは比べものにならないくらい空いている。ただ、いつもの癖で上映ぎりぎりの時間に行ったら、IMAXシアターだけ別の場所なので焦ってしまった。普通のシネコンの隣のビルの6階なのでかなり離れている。

離れているからそのスクリーンだけがIMAX専用に作られていて、スクリーンがかなり大きい。そのスクリーンにほとんど平行するような感じで座席にも急な段差がついていた。どれだけ背の高い人が来てもスクリーンにかぶらなさそう。
ユナイテッド・シネマとしまえんでは通路のすぐ後ろの席(M列)だと前のバーがスクリーンにかぶってしまう(私が背が低いせいかも)が、品川はバー自体が低く、その心配もない。

また、スクリーンが迫ってきているというか、かなり近く感じたが、それはスクリーンが大きいせいだったのかもしれない。

音はとしまえんのほうがばりばりと言っていた感じがするが、それがいいのかどうなのかわからない。

段差がついているので自分とスクリーンが一対一のようになれるのと、IMAXスクリーンだけ別の場所なので特別感があるのと、やはりプリンスホテルだからか、トイレなども綺麗で格調高かった。
ただちょっと品川は遠いかな…とは思う。
それでも、IMAXシアターもありふれてきて、普通の鑑賞料金より高いのに、シネコンの中にまぎれているとなんだか普通のスクリーンと大差無いように感じてしまいがちなので、わざわざ観ている感覚は味わえた。特別な作品を観るにはいいかもしれない。

以下、『ダンケルク』四回目で気づいたことや思ったこと。









最初はただただ目の前で繰り広げられる出来事を追いかけて没頭して圧倒されるばかりだったけれど、もう大体登場人物目当てです。見れば見るほど細かい部分に気づいて、登場人物の性格などがわかってきて一人一人に愛着がわいてくる。

まず、先を知っているせいで、ジョージがドーソンの船に乗り込むシーンでもう泣いてしまった。
ひょいっと、本当に軽い感じで乗ってしまう。もしかしたら戦争がどんなものなのか、軽くとらえていたのかもしれない。“学校では落ちこぼれ”と言っていたから深くは考えていなかったのかもしれない。でも兵士を救うと聞いて、正義感が芽生えたのだとも思う。何ができるかはわからないけれど、役に立ちたかったのだ。勇気がある。

ジョージは重傷を負って息もたえだえの中でも、ピーターに「君とドーソンさんの役に立てた?」と聞いていた。
ジョージが飛び込んでいかなければ英国兵士(キリアン・マーフィー)が大暴れは止まらず、ドーソンから操縦する権利を奪ったかもしれない。その時、ドーソンがどうなったかわからないし(老ぼれだなんだと言っていたので年寄りとバカにしていたのだと思う)、船はイギリスに帰っていただろう。そうなれば、もちろんコリンズやトミーやアレックスも救われない。
そう考えると、ジョージは本当にたくさんの人の役に立ったことになる。

アレックスについてですが、序盤の掃海艇(ギブソンが甲板に出たままの掃海艇)の船室でジャムパンと紅茶を振舞われた時、もうハムスターみたいに口いっぱいにほおばっていて、ほっぺたがぷっくりしてる。トミーは表情こそ緩めているものの、おとなしい食べ方である。こんな小さな仕草にも彼らの性格が出ているのがおもしろい。やはり細かく考えられている。

また、この掃海艇が魚雷に攻撃されたあと、陸へ帰る小舟に乗ろうとしているところをトミーとアレックスは英国兵士(キリアン・マーフィー。この人に本当に名前がないのか…)に断られるが、甲板にいたギブソンは避難が早かったのか、小舟にすでに乗っている。これに四回目の観賞でやっと気づいた。
それでギブソンは戦場からこっそりと二人にロープを投げてあげるんですね。二人はそのロープにつかまって陸まで戻る。

私は、商船の中でアレックスがギブソンにつめよるシーンで、ギブソンに助けられたのはトミーだけで、だからトミーはギブソンをかばっていたのかなと思っていたんですが、アレックスも救われている。陸でも一週間たぶん一緒に過ごした。それでもアレックスはずっとギブソンのことを疑っていたのかと思うと悲しい。でも、最後の電車のシーンの、実は歓迎されているとわかるやいなや態度をころっと変える姿を見ると単純なのだろうし、ずっと疑っていたわけではなく普通に接していて、あの急を要する場面で誰か生贄にするとしたら…と考えたのかも。どちらにしても、トミーだってアレックスがギブソンと会う少し前に会っただけだけど友情のような気持ちを芽生えさせていたのに、アレックスは薄情である。

でもアレックスが所属していたハイランダーズ(高地連隊)とは、スコットランド北部の住民たちで組織された精鋭部隊らしい。場所柄、昔からローマやイングランド、ノルウェーのバイキングなどからの侵略にさらされ、戦いに明け暮れていたそうだ。
おそらく、ハイランダーズ同士の結束力がとても強く、トミーとギブソンと友達だからどうとかそうゆう次元の話ではなさそう。
もしかしたら、様々な事象もアレックスの性格ではなく、ハイランダーズゆえのものだったのかもしれない。
それを考えてみると、最後にアレックスがギブソンに逃げろと声をかけていたのは、あれでも彼なりに心を許していたのかもしれない。

コリンズがピーターに棒でガラスを割って助けてもらった時、「Afternoon.」ときっちりめの挨拶をするのも性格だと思う。普通は言葉が出なかったり、出ても「死ぬかと思った!」とか必死な言葉だと思う。けれどこの余裕。お馴染みアンゼたかしさんの翻訳が「やあ、どうも」になっているのもうまいと思う。死にかけていた人間とは思えない余裕。

飛行服というかジャケットの下にしっかりと軍服を着ていたのも性格だろうか。ファリアなんかは下に白いタートルネックのセーターを着ていたからわりと適当っぽい。

コリンズが水面に不時着するとき、近くにドーソンの船が来ているのをカメラが映す。あれがファリアの目線なのだとすると、ファリアはあの船がコリンズを救ってくれるというのはなんとなくわかっていたと思う。けれど、逆にコリンズはドーソンの船から高度を上げていくファリアを見て、燃料の残量も大体分かっていただろうし、ファリアが戻らないのを決めたこともわかったのだと思うと切ない。

きっとこの先も見るたびに細かい発見があると思う。登場人物の多い映画なので、それが散りばめられていて発見は宝探しのようだ。やっぱりまさしくノーラン監督の映画という感じがする。もう何回か観たいです。


『三度目の殺人』



是枝裕和監督。『歩いても 歩いても』『奇跡』『そして父になる』『海よりもまだ深く』やドラマ『ゴーイング マイ ホーム』のような、少しちくっとするけれど最後には優しい気持ちになるような家族ものとは少し違った毛色。

以下、ネタバレです。









殺人事件の容疑者として起訴され服役している三隅(役所広司)と、その弁護をする重盛(福山雅治)を中心に話が進んでいく。
三隅は殺人を自供しているので、重盛はマニュアル通りにちゃっちゃと片付けて無期懲役を勝ち取ろうとする。それに自信もあるようだったので、今までもかなり成功してきているし、やり手の弁護士なのだと思う。
しかし、三隅の言うことは二転三転して、一体何が真実なのかわからない。そのため裁判で勝つための対策もとれない…。

最初はただの犯人探し、または真実探しサスペンスなのかと思った。身辺調査をすると人物の関係性や過去などが少しずつ明らかになる。その過程はスリリングだし、こいつが怪しいとなどと考えるのは楽しかった。
三隅が前に人を殺した時の裁判官が重盛の父親だった。わざわざその息子に弁護を頼むというのは何か関連性がないのかなとも思った。なにかしらの復讐とか…。

しかし、謎だけが深まり続け、しかも後半には三隅が殺してないと言い出す。役所広司の演技がうまいので、ここでも私は三隅の言うことをすっかり信じてしまった。
重盛も混乱して、裁判のやり直しを要求するが、やり直されることはなく、決められたシナリオ通りに進み、もうここまで決まっていたのだろうと思うが、死刑になる。
冤罪だったらどうするのだろうと思った。食品偽装のことは調べなくていいのかとも思った。
司法制度のあり方、死刑の是非なども考えさせられた。

ただ、それも果たしてこの映画の主題なのかなとも思う。
それは、あとで落ち着いて考えてみると、やはり殺したのは三隅ではないかなと思うからだ。でも、明らかにはされないのであくまでも私の考えです。

この映画ではほとんどのことが明らかにされない。
ただ、中盤で殺された山中の家での山中の妻美津江(斉藤由貴)と娘咲江(広瀬すず)のやり取りがあって、これは誰が聞いているわけではないし真実である。ふんわりしたことしか話されないけれど。
美津江は「余計なこと言わないでよ。会社のこととか、お父さんのこととか」と言う。このことから、二人はなんらかの秘密を抱えているし、殺された原因もなんとなくわかっていそうだった。

会社のことというのは、会社が食品偽装をしているというものである。これはこの時に明らかになるし、後半で三隅が殺人を否認するときにそのことを言っていてだから殺したというのも嘘だったのかと思ってしまった。

お父さんのことというのは、この時にははっきりとはしめされないが、咲江が父親から性的虐待を受けていたことかもしれない。
ただ、このことについても、重盛たちに詳しく聞かれた時に口ごもる。それは羞恥からなのかもしれないし、そこまで考えてなくて動揺したのかもしれない。
あと、三隅は「あの子、よく嘘をつきますよ」と言っていた。足が悪いのも、生まれつきなのか工場の屋根から飛び降りたのかわからない。

性的虐待が嘘だとすると、なんでそんな嘘をついたのかというと、母である美津江になにかしら言われたのかもしれない。
美津江は相当怪しくて、三隅に死刑が言い渡された時に深く安堵の息を吐いていた。それは、夫を殺した犯人が死刑になったことでの安堵とは違ったように見えた。どちらかというと、何かがばれなくてよかったというような安堵に思えた。

また、家でのやりとりで、美津江が料理をしている(美津江は料理すらしない)咲江の後頭部の匂いを嗅いでいた。ちょっと親子のやりとりというには濃厚すぎる。愛情が過剰すぎる。もちろん娘の愛し方なんて人それぞれだと思うけれど、少し異常に見えた。
もしかしたら、父親から性的虐待を受けているというのは嘘ではないにしても、それだけでなく、母親からも性的虐待を受けているのではないかと思ってしまった。

咲江を演じている広瀬すずはほとんど無表情で、そこから感情を読み取ることはあまりできない。それでも、一緒に写った写真を見る限り、三隅とは心を通わせているようだったし、北海道大学を受けようとしていたのも、家から離れたい思いもあっただろうが、三隅の故郷へ行ってみたいという思いがあったのだと思う。
映画で明らかになっていることというのは本当に少ないけれど、咲江と三隅がお互いに想い合っていた(恋愛感情ではなく親子のような感情)のも明らかになっていることだと思う。

三隅は殺したのだろうと思うのは、十字架である。犯行現場に残された焦げた十字架の形は偶然ではないと思う。死んだカナリアの墓も石で十字架が作られていた。弔いの気持ちがあったのかはわからないが、同じ人物だと思う。少なくとも、映画の中では同じ人物ですよと間接的に示されているのだと思う。

十字架と言えば、重盛が留萌に向かう電車で見た夢でも三隅と咲江と重盛が三人で雪に仰向けに倒れこんで、十字架のようになっていた。普通は大の字になりそうなものである。また、雪に倒れこんだ場合、普通は両手足を動かしてスノーエンジェルを作るものである。予告でこのシーンを見た時もスノーエンジェルかと思っていた。けれど、動かずに十字架の形になっていたのはわざわざ感があり、意味があるように思える。

この夢も、三隅は咲江を娘だと思い、咲江は三隅を父親だと思うのはわかるけれど、重盛まで加わってしまっているのが気になる。
重盛は娘との関係がうまくいってないようだし、父親とはこじれてはいないにしても、本当は裁判官になりたかったみたいな想いがあったみたいだし、何か複雑な気持ちを抱えていたのかもしれない。
幸せな家族(三隅と咲江)を夢見て、自分もその仲間入りをするという…。重盛も結構悩んでいたようだ。

あと、もう役所広司…というか、三隅の一挙手一投足は信用してはいけないのはわかっているし、全部信じてもはぐらかされるだけなのもわかるのだが、留萌に行った話をした後である。
勝手に行ったことにひどく腹を立てているようだった。手のやけどのあとを搔きむしり、うつむいた表情は影になり、目だけがぎらりと輝いていた。
最初のほうでは和やかな表情で「はい、殺しました」と言っていて、なんとなく信用ならないと思っていたけれど、ここでは、ああ、これは殺しているんだろうなとすんなりと思えた。

ちなみに冤罪だとしたら、序盤に出てくる工場にいる「俺も前科持ち」って言ってた男性かなと思ってしまった。けれど、真犯人は(三隅かもしれないけれど)明らかにはされない。

『三度目の殺人』というタイトルだが、最初は30年前には二人殺しているらしいから今回で三度目ということなのかなと思ったが、それでは三人目の殺人である。冤罪ならば、死刑のことかなとも思ったが、自分が殺されることを殺人というのも三度目とは言わないのではないかと思う。
是枝監督による小説版だと、映画には描かれなかった事件として、三隅の父親が焼死というものがあるらしい。30年前の事件も今回の事件も最後には燃やしているので、もしかしたら、父親も殺してる?とも考えられるけれど、別に小説が原作でという映画でもないし、だったらそれも映画で描かれていないとおかしいと思う。
観客にタイトルについていろいろと考えさせるために、一回目の事件は映画版からは抜いたのだろうか。

殺人事件の犯人探しでもなく、司法や死刑制度についてでもないなら、主題は一体なんなのだろうと思うが、結局は重盛の成長物語なのだと思う。
あくまでも主人公は重盛なのだ。W主人公ではない。

最初こそ、マニュアル通りいつも通りで、被害者宅に持って行く羊羹までいつもと同じもの(とらやだろうな…と思ってしまった)で、そうすればスムーズにカタがつくと思っていたのだろう。
しかし、三隅にはそれが通用しない。調べれば調べるほど深みにはまる。

面会に行った時に、三隅に「ガラスに手を当ててください」と言われ、重盛と三隅はガラス越しに手を合わせる。「もう少しすると熱が伝わる」と言っていた。「こうしたほうが相手のことがわかるんですよ」とも。
重盛にとっては、ガラスの向こうに存在しているのは事件は違うにしても頭の中で分類できる案件で、今までは一人一人の人間としては見ていなかったのだと思う。
それが体温を感じることで、人間なのだというのを意識したのだと思う。
ちなみにここで「娘さんはいくつになりました?」と聞かれて、誰も何も言っていないのに娘のことを知っているのが不気味なのだが、おそらく、重盛の父が三隅と手紙のやり取りをした際に知らせたのではないかと思う。これも明らかにされないのでわかりません。

重盛は面会を重ねながら三隅に引っ張られていく。
後半では、真横からのショットになり、二人を隔てるガラスが無いように見える。これは心の距離が縮まっているのだと思う。
けれど、あまり引っ張られるのも危険で、後半では殺された山中のことを「あんな奴、死んで当然だよ!」と声を荒げていた。序盤の一歩引いた姿勢からは考えられない。
事務所にいる若手弁護士も驚くと同時に不安そうな顔をしていた。

若手弁護士役に満島真之介。若いから言うことは圧倒的に正しいのだが、それではいろいろと乗り切れないことがあるのもわかった。一言で言うと青臭い。きっとこの若者もこの先壁にぶちあたって、変わっていくのだと思う。

真横からのショットの他に、ガラスのこちら側の重盛と、向こう側にいるがガラスに映る三隅というショットもあった。
重盛は「あなたは器なんですか?」と尋ねる。ガラスに映る三隅の顔が重盛の顔に重なり、三隅の器の中に重盛が入ったのか、重盛の器の中に三隅が入ったのかわからなくなる。
でも、二人の感情が同化したのを感じる。
いや、二人のというより、重盛が三隅の気持ちに寄り添ったのを感じた。

成長物語というと普通は若者が適用される。本作なら、若手弁護士を主人公にしそうなものだ。けれど、本作の主人公は重盛である。
今までは順風満帆にやっていたが、挫折してしまう。映画が終わった時点で、イマココである。しかし、重盛はそこから成長するのだと思う。
なぜなら、これは是枝監督作品だからだ。

是枝監督は別の作品でもおっさんの成長物語を作ってきた。愛嬌のある駄目男を演じるのが阿部寛で、本作と『そして父になる』を考えると嫌味な駄目男を演じるのが福山雅治なのだろう。二人が監督のミューズだと思う。
本作は今までの是枝監督作と少し違うようにも感じたが、まさに是枝監督映画だったと思う。

考える余地がたくさんあって、もやもやもするし真実も知りたいけれど、結局、真犯人が誰というのはそれほど重要ではないのだろう。重盛は作中で変わったのだから。

ちなみに、重盛が父親(橋爪功。出番は少ないが演技のうまさに驚く。いまさらだけど、ベテランなのだなあと思った)と話すシーンで敬語になっていたり、三隅のアパートの管理人さんの「窓あけようか?風強いからやめる?」みたいなどうでもいいセリフはまさに是枝監督だと思った。
三隅が最初に出てきた時に「ああ、大勢でどうもどうも。雨降らなくてよかった」みたいに言うのも、“雨降らなくてよかった”は多分他の監督なら付けないだろうなと思う。このちょっとしたセリフがうまいのだ。




丸の内ピカデリーにて期間限定で行われている35mmフィルム上映で鑑賞。
昔の映像のようなタイトルの揺れと汚れ。舞台が第二次世界大戦中だし、ドキュメンタリーのように見えないことはない。ただ曇り空が多く出演者も軍服のため、元々の色のトーンが全体的に低いせいもあって、さらに暗く見えた。また、前回観たのがIMAXだったので余計にそう思ったのかもしれないけれど、線がぼんやりふんわりしてしまってそれも見にくく感じてしまった。味と言えば味なのかもしれない。ただ、これは、技師の方がピントを合わせられていなかったせいではないかという話もある。
クリストファー・ノーラン監督の前作、『インターステラー』も同じく丸の内ピカデリーでフィルム上映があったらしいが、その時にも同じような意見が出ていたらしい。

通常、IMAX、フィルムと見比べてみたが、一回しか観ないならIMAXがいいと思います。音も重要な役割を担っている映画だと思うが、それもやはりIMAXが一番いい。

以下、ネタバレです。











まず時間軸についてですが、陸組(桟橋組も含む)、海組、空組が交互に出てくるが、時間が前後しているのが『インセプション』っぽいと思ったが、『インセプション』が階層が下に行くほど時間が長くなるピラミッド型の三角形であるのに対して、『ダンケルク』は着地点が同じため、直角三角形になっている。空が一番短く、海が中間、陸が一番長い。

そのことを踏まえてキリアン・マーフィー演じる謎の英国兵(名前は付いていないみたい)の動きを考えた。
トミーやアレックスが船室でジャムパンと紅茶を振舞われ、ギブソンは甲板にいた船は魚雷に襲われる。三人は船から逃げ出し、近くの小舟に捕まって陸に戻る。

この小舟に乗っていたのがキリアン兵士(謎の英国兵)だ。大人数が乗っていて、何度か転覆したから陸に戻る、これだけ乗っていては海峡は渡れないと言っていた。まともなことを言っているし、ダンケルクに戻ると言っているので、まだ錯乱する前である。
たまたま近くにいた小舟なのか、トミーたちが魚雷に襲われた船に一緒に乗っていて小舟で避難したのかはわからない。

トミーたち三人はその小舟に捕まって陸に戻る。おそらくキリアン兵士は小舟に乗ったまま陸に戻ってきている。
そのあと、トミーたちは商船を見つけ、その中に入り6時間潮が満ちるのを待つ。潮が満ち、商船も浮いたが水が入り込んできて、船から脱出し、重油に塗れる。そのあと、ドーソンの船に救われるが、そこにはすでにキリアン兵士がいる。
となると、キリアン兵士はトミーたちが商船を見つけるのよりも先、潮が満ちる前に出ている。
小舟で波に押し返されている兵士がいたけどそのあたりだろうか。

そう思っていたけれど、よく考えたら陸の兵士たちは陸で一週間過ごしているのである。だから、描かれていない部分があるのだ。
トミーとギブソンとアレックスは陸へ戻ってきたあと、絶望の中、砂浜で寝っ転がっていたけれど、きっとあの時間が相当長かったのだ。
あの三人がなすすべもなく寝っ転がってたあたりで、キリアン兵士は出て行ったのかもしれない。

このキリアン兵士についてもそうですが、何度か観るうちに流れそのものではなく登場人物に重きをおいてしまう。

ドーソンは基本的に穏やかだけれど、一箇所だけ取り乱し、声を荒げる場面がある。それが水面に不時着したコリンズを救いに行くシーンである。
「落下傘も出なかったから死んでいるんじゃ…」と言うピーターに「死んでいない!」と大きな声で返す。船の運転も荒くなっている。
あとで明らかになるが、息子(ピーターの兄)は空軍パイロットとして亡くなっている。

息子が戦場で亡くなったときにも近くにいなかったことを後悔したに違いない。おそらく、この名も知らない兵士に息子を重ねたのだろう。
今回、民間船で救うために出かけたのだって、息子を救えなかった分、他の兵士はできるだけ救いたいと思ったのだと思う。救うことで、自分のような思いをする人間が少なくなる。

それで結局、ピンチに陥っていたコリンズが救われたので、ドーソンの判断は正しかったということになる。

もしかしたらその様子を見てということなのかもしれない。ピーターはキリアン兵士を船室に閉じ込めたり、ジョージの様子を聞かれて「大丈夫じゃない」と答えていたが、最後には「大丈夫だ」と答えていた。これを答える少し前にジョージが亡くなったことを聞かされたのだ。少し前までのピーターだったら、キリアン兵士に殴りかかっていたかもしれない。キリアン兵士を糾弾しても何もかわらないし、彼もつらい思いをしたことを悟ったのか、自分の気持ちはぐっと抑える。
「それでいいんだ」と静かに頷くドーソンの表情も良い。マーク・ライランスの演技がどれも良かったです。

ベテラン勢だと、ケネス・ブラナー演じる海軍中佐が序盤、故郷が遠いという場面での「Home.」と、後半に民間船が来てくれたのを発見したときの「Home.」のニュアンスがまったく違うのも良かった。序盤は悲痛に満ちていて、後半は希望や敬意や謝意などに満ちていた。近くて遠い故郷が向こうから来てくれた。
同じセリフが序盤と後半に二回、違う意味合いで出てくるのも粋だと思った。
海軍中佐とジェームズ・ダーシー演じる陸軍大佐の桟橋組にもじわじわと人気が集まってきているのも嬉しい。ダーシーさん、とても背が高く見えるので調べてみたら191センチらしい。

ラスト付近、海に流れ出した重油に火が付き、ドーソンが最後の一人の兵士を救って船を遠ざける。
途中まで重油にまみれた海水に隠れて顔はわからないが、最後でトミーだとわかる。
ドーソンの船に空のコリンズと陸のアレックスとトミーが揃うという群像劇らしい演出にもぐっとくるが、トミーは助かるの?助からないの?というハラハラも最後まで残しているのがうまい(アレックスは少し前に助け出され、ドーソンの船の中にいた)。
実話ではなるが、偉人ものではないから、登場人物にモデルはいない(と思う)。だから、最終的に撤退作戦は成功するということはわかっていても、個人個人がどうなるか、誰がどこで死んでしまうかはわからないままだから、ドキドキしながら観ることができる。

セリフがほんの少しでも、例えばアレックスは生意気で意地悪な部分もあるけど根っからの悪人というわけではなくて、単純で子供っぽいだけという性格がわかる。トミーだって、真面目で平凡で地味目だけど優しい子というのがわかる。
海のピーターとジョージも身の上は最小限しか語られないのにわかる。空のコリンズとファリアに関しては身の上は全く語られないのにわかってしまう(そういえば、姿が全く出てこない隊長ですが、マイケル・ケインが声でカメオ出演ということで。そう言われて観てみるとそうとしか聞こえない。なんで最初から気づかなかったんだと思うくらい)。
最初は映像や音の凄さに圧倒されて、没頭し、引っ張られてしまったけれど、余裕が出てくると登場人物たちの性格がくっきりとわかってきて、キャラクターがそれぞれ似通っていないのがわかるあたりがすごくクリストファー・ノーランっぽいなと思ってしまった。

ラスト、燃えるスピットファイアが映し出され音楽が盛り上がって、ぱっと音楽が消えて終わりかと思いきや、ダンケルク作戦について書かれた新聞を読んでいたトミーが、顔を上げて新聞を閉じる音で映画が終わる。
その表情から気持ちを読み取るのは難しい。正面に座るアレックスは、電車の外の市民から目をそらし、歓迎されているのがわかると一気に窓から体を乗り出すなどもう単純極まりないからすぐわかる。しかし、はたしてトミーは。
“ダンケルク作戦に振り回された方々にささぐ”という文言が最後に出るので、勝手なこと書きやがってという怒りなのかもしれない。また、命からがら故郷に帰ることができても、撤退できただけで戦争そのものは終わっていないというのをあらためて思い出したからかもしれない。
撤退作戦を描いていても、撤退できた兵士が最後に浮かべる表情が喜びではないのだ。

複雑でわかりにくく、議論を呼びそうなラストは少し『インセプション』のラストにも似ているかなと思った。










日本ではあまり馴染みがないけれど、イギリスでは誰でも知っている(らしい)ダンケルクの戦いを描く。国民が団結して困難を克服するときにダンケルクスピリットという言葉も使われるらしい。

以下、ネタバレです。







一回目に観た時には、クリストファー・ノーランが好きなせいもあるが、没頭しすぎて見終わったあとですごく疲れてしまった。頭痛も止まらなかった。ひたすら怖かった。
カメラが登場人物に近く、自分も戦場に連れて行かれたような気持ちになるため、無事に脱出できて、主人公ポジションの若い兵士がイギリスで電車に乗り、追い詰められるような秒針音が止まった時に、心底ほっとした。若い兵士がもらった毛布を枕にして電車の座席で眠るのだが、その様子がとても気持ち良さそうに見えた。私にも毛布をくれ、寝たいと思ってしまった。それくらい映画の登場人物と同じ気持ちになってしまった。

クリストファー・ノーランの映画は毎回複数回観ていたけれど、これは無理だと思った。1時間46分とノーランにしては短いけれど、これ以上長かったら観ていられないと思った。

戦争物でエンターテイメントではないから感想が出てこなくて、ただただ口をあんぐり開けてなりゆきを見守ることしかできなった。

しかし、観てから少し時間が経つと、これほどのエンターテイメント作品ってないのではないかと思った。
戦争物だけれど、説教くさいメッセージは存在しない。あからさまなメッセージが掲示されないというだけで、それぞれ受け取るものはもちろんある。
また、戦争物だけれど、体の一部がふっとんだり、血だらけになったりという描写はない。
ドイツ軍と直接対峙しての撃ち合いもない。ドイツ軍の姿は最後、空軍兵士を捕らえる場面でしか出てこない。
それなのにめちゃくちゃ怖い。対峙してなくても、空から爆弾を落とされるのが本当に怖い。どこからか魚雷が飛んでくるのも怖い。見えないからこその怖さもある。

戦争物でも戦いというよりは脱出がメインである。
ダンケルクに追い詰められ、そこからイギリス本土へ脱出する。逃すまいと各方面からドイツ軍は攻撃してくる。

陸にいる若い兵士たち、指揮をとる大佐や中佐、イギリスから民間船で助け出そうとする親子、空からドイツの爆撃機を狙う空軍と主に四つのストーリーが時間を前後しつつ描かれる。群像劇である。
場面が変わって別のシーンになってもそこでもピンチだったりと、休む暇はない。どのシーンでも皆が攻撃にさらされ、でも必死で逃げ出そうとしている。
二度目の観賞だと少し心の余裕が出てきて、海に浮く爆撃機の上で助けを待っていたキリアン・マーフィーが別のシーンで出ていて描かれないこの人の動きが想像できたり、ここでファリアがロウデンの墜落したスピットファイアを見下ろして横にドーソンの船が助けに来てて…というのも見えてくる。すると、時間が前後していて、あ、さっき出てきた話だという前後関係も見えて、当たり前だけれど、群像劇でもダンケルクを舞台としてすべてが繋がっているのがわかる。

また、『インセプション』で階層ごとに交互に描かれてそれが相互に影響し合っているのと同じ手法なのだなとも思った。

二回目だと、ドーソンの気持ちもよくわかった。自分たちの世代が始めた戦争でこれ以上犠牲者を出したくないと贖罪のようにして民間船でダンケルクへ向かったのだと思う。
一緒に乗っていた息子の友達が、トラウマを負った英国兵に突き飛ばされ、頭を打って死んでしまうが、それでも救える命を優先して、兵士を何人も海から引き上げた。
息子の一人を空軍で亡くしているから、トラウマを負った英国兵のことも赦した。これはもう一人も息子もである。最初は英国兵を船室に閉じ込めていたけれど、おそらく何か嫌な予感がしたのだろう。怖かったのかもしれない。結果として友人が死んでしまったから嫌な予感は当たっていたのだ。
それでも、戦争のトラウマを負った兵士のしたことだから仕方ないのだということを父親であるドーソンから学んだのだと思う。
だいぶ正気を取り戻してきた英国兵が「あの子は大丈夫か?」と聞いた時に、死んでしまったにも関わらず「ああ」と返事をしていた。事実を告げてもどうしようもないことだ。ドーソンもそれでいいというように優しく頷いていた。英国兵が殺したのではない。戦争の犠牲者なのだ。

ドーソン役にマーク・ライランス。この善き人役がとてもうまいし合っている。

ベテランだと海軍中佐役のケネス・ブラナーも良かった。双眼鏡で遠くから現れる多数の民間船を見た時の表情がとても良かった。目は双眼鏡で隠れているので口元だけの演技だ。
また陸軍大佐のジェームズ・ダーシーが最近とても好きな俳優なので恰好良かった。本作でますます好きになった。
イケメンを観賞する余裕が出てきたのも二回目からです。

ノーラン作品常連のキリアン・マーフィーはトラウマを負った英国兵役。酷い錯乱っぷりだったけれど、それも仕方がないと思う。
もう一人、常連のトム・ハーディは空軍パイロットのファリア役。燃料が無くなるまで空から援護し、プロペラが止まってしまい、ゆっくりと海岸へ着陸する。
もうイギリスへ戻る燃料はないのに、このゆっくりと着陸するシーンがとても美しい。
そして、スピットファイアに火を放って、一人ドイツ軍に捕まる。

次々に爆撃機を落とす姿も恰好いいが、この、他の兵士は知らないが一人犠牲になる様が恰好良すぎる。ノーランのトム・ハーディ愛が感じられる。

若い兵士たちも良かった。群像劇なので誰が主役というのもないのだが、映画の最初に出てくるのと、ポスターなどにも使われているのがフィン(フィオン?)・ホワイトヘッド演じるトミーなので、一応主役なのかなとは思う。
フィン・ホワイトヘッドはiTVのドラマには出ていたようだが、映画は本作が初出演らしいが、ほとんどセリフのない中、不安にかられた表情や一旦ホッとした表情などうまかった。

ほぼ序盤から行動を共にするギブソンにアナイリン・バーナード。少しダニエル・ラドクリフに似てると思った。
途中から行動を共にするアレックスにハリー・スタイルズ。ワン・ダイレクションのメンバーが出演するとのことだったけれど、ワン・ダイレクション自体を全く知らなかったので、最初はどれがハリー・スタイルズなのかわからなかった。この若い兵士の三人のうちのどれかだろうと思っていて、主役の子ではないし、ギブソンはなんとなく雰囲気がワン・ダイレクションという感じではなかったからもう一人なのだろうと思った。それくらい普通に役者のようだった。
生意気そうで意地悪そうな感じがアレックスに合っていたけれど、それも演技なのかもしれない。
最後、電車に乗っているシーンで、逃げてきたことを恥じて新聞が読めないあたりも若い兵士っぽさが出てて良かった。

この前観た『ハイドリヒを撃て!』もそうだったが、イケメンが多いと戦争物でも青春映画の度合いが高まる。『ダンケルク』はセリフがほとんどない(おしゃべりをする余裕がない)のに、だんだんキャラクターがわかってきて、青春映画にも見えた(二度目の余裕)。

二度目にIMAXで観たが、音の良さが際立った。スピットファイアのエンジン音、土嚢を貫く銃声と木を貫く銃声と金属を貫く銃声の違い、すぐそばに落とされる爆弾など…。
戦争の真ん中に連れて行かれる作りになっているから、音もリアルな方がいい。また、画面も大きい方が没頭できる(109シネマズ大阪エキスポシティのIMAX次世代レーザーだと本来の大きさで観ることができるらしい)。

ただ、二度目だとできるだけ前で観たほうが良かったと思ってしまったが、一度目だと私は体調が悪くなったので、少し後ろ目の方がいいのではないかと思う。あと、前の方だと酔いそうな気もする。スピットファイアにも実際に乗っているような映像もあるし、若い兵士が走っているのについていくような手持ちカメラのシーンもあるからだ。

商船の狭い船室のシーンやコックピットなど、どうやって撮っているのかわからないシーンもたくさんある。『キャプテン・フィリップス』で、後半の救命ボートのシーンは実際にあの中で撮影をしたというのを思い出した。

最初から最後まで、登場人物たちととても近い位置にカメラがあって、観客もその中に放り込まれる。これはもう体験である。脱出がテーマになっている点から、『ゼロ・グラビティ』にも似ていると思った。あの映画も問答無用で宇宙に連れて行かれる。
テレビで観る『ゼロ・グラビティ』は面白さが半減したが、『ダンケルク』もその可能性があるので、映画館で観たほうがいい。

墜落させるように飛行機を作ったとか、駆逐艦を博物館から借りてきたとか、撮影秘話のようなものももっといろいろ知りたい。書割の兵士がどこだかまったくわからなかった(わからないようにしているのだと思いますが)ので、あと何回でも観たいです(二度目の余裕)。

『エル ELLE』



『ベティー・ブルー』の原作者フィリップ・ディジャンの小説『Oh…』(原題。翻訳版は映画と同じく『エル ELLE』)が原作。
フィリップ・ディジャンは、モデルではないけれど思い浮かべたのはイザベル・ユペールだと言っているらしく、それも納得である。とても彼女に合っていた。さすがアカデミー主演女優賞ノミネート、ゴールデングローブ賞では主演女優賞を受賞しただけあって、いろんな表情が見られるし、そのどれもが魅力的だった。
監督はポール・バーホーベン。

以下、ネタバレです。





イザベル・ユペール演じるミシェルが覆面の男にレイプされているシーンから始まるのでかなり衝撃的である。
起き上がって部屋を片付けたり、普通に会社に向かっていた。心中を察することは難しかった。撃退グッズみたいなのを買っていたから自衛をしようとしているのはわかったし、怒りも感じているようだったが泣いたりはしない。それは、49歳という年齢(劇中の年齢。イザベル・ユペールご本人は64歳)のせいかもしれない。けれど、一人暮らしのようだし、ゲーム会社の社長のようだし、性格なのかもしれない。

ミシェルの周囲の人物がどんどん出てくるが、人間関係も見ているうちに徐々に明らかになるのがおもしろい。
最初、青年に家賃を払ってあげると言っていたが、どんな関係かと思ったら息子のようだとか、親しげな男性は元旦那だとか。

元旦那と友人とその夫に、かなり序盤でレイプされたことを打ち明けているのも驚いた。その時も毅然とした様子で、逆に周囲が驚いていた。

カフェに入れば見知らぬ人から水をひっかけられる。その理由も徐々に明らかになるのだが、父親が服役中で、しかも子供を含め20数人を殺したらしい。ミシェルも関わっているという噂もあった。

ゲーム会社でも部下を叱りつけている。友人であるアンナの旦那とも関係をもっている。元旦那とも切れていないようだった。恨みによるものだとしても心当たりがありすぎるみたいだったし、周囲の人物なのかもしれないし。
でも、単純にレイプ犯は誰なの?という話ではなかった。

ミシェルは毅然と振舞ってはいたが、彼女の家でのパーティのシーンは少し痛々しさすら感じた。
母親とその若い恋人、元旦那と大学院生の恋人、アンナとミシェルが関係を持っている旦那、息子と肌の色が違う赤ちゃんを産んだ妻、隣人夫婦の旦那のほうにはミシェルがちょっかいをかけている。
みんなカップルなのに、主催であるミシェルは誕生日席で一人である。でもさみしくめそめそしているわけではない。
彼女の感情としては母親がプチ整形をして若いツバメを囲っているのが許せない、元旦那が学生と付き合っていることに嫉妬している、息子がビッチにつかまったことが気にくわない、隣人夫婦の旦那を誘ってアンナの旦那を嫉妬させる…ともう複雑である。こんなものが渦巻いているパーティ、絶対に行きたくない。関係がこじれすぎている。その中心でミシェルはしたたかに振る舞う。

しかし、パーティ中に母親が脳梗塞で倒れ死亡、遺言で絶対に会いたくなかった父親に面会しに行こうとすると、父親も刑務所で自殺してしまう。
両親のことがそれぞれ許せなかったようだったが、死んでしまったのは複雑だったと思う。悲しいというより、恨みをぶつける相手がふっと消えてしまい、宙ぶらりんになってしまったようだった。浮かぶ表情は虚無感のようだった。

レイプ犯からはメッセージなどが頻繁に来ていたが、途中からもしかして全部ミシェルの妄想だったりしてとか、本当はミシェルがレイプ犯を殺していたりしてなどと考えてしまった。

しかし、二度目に現れたとき、マスクをとって明らかになった正体は隣人の男性だった。それはそれほど衝撃的ではなく、映画を観ていれば予想通りでもあると思う。

普通なら、正体がわかったんだし警察に突き出して終わりだろうと思うが、ちょっかいをかけていたせいもあるのか、ミシェルは関係を続けてしまう。隣人の男性は暴力を振るわないと、そして抵抗されないとセックスできないタイプのようだったが、ミシェルは演技ではないのだと思うがそれにも応じてしまう。

ミシェルの家でのパーティはいたたまれなかったが、ゲーム会社で行われた完成披露パーティはそれと対比するかのようなものだった。
元旦那は大学院生の彼女と別れている、息子はビッチ妻に追い出されている、ミシェルはアンナにアンナの旦那との関係を正直に打ち明ける、隣人の男性は奥さんを伴わずに現れる、部下との関係も修復している…。ここでもミシェルが中心だが、離れて行ったみんながミシェルの元へ帰ってきたようだった。糸は絡まらずに、ミシェルから全員に向かって伸びているようだった。

ミシェルの家にレイプ犯の覆面男(隣人)が忍びこんでいるところを息子に目撃される。ミシェルも本当に拒んでいるのか、拒むことで相手を取り込もうとしているのかわかりにくいのだが、このシーンの前に警察に言うと言っていたので、ここでは本気で抵抗をしていたのではないかと思う。どちらにせよ、そんなことを知らない息子は木材で頭を殴り、殺してしまう。
父親だけでなく、息子も人を殺してしまった。殺させてしまったというか。でも正当防衛が認められたのか、肌の色の違う赤ちゃんを妻と一緒に育てるシーンが最後にあったのでよかった。

両親が亡くなり、隣人は死に、息子は新しい家族の元へ。元旦那は結局都合のいい時だけミシェルの元へ帰ってくるようで、そのことをわかっているのか、ミシェルは興味がないようだった。そもそもミシェルが元旦那のことを大事に思っているなら、序盤に出てきた乱暴な縦列駐車はしないだろう。元旦那の車のバンパーがはずれていた。
どんなときでもキリッとしていたし、ミシェルは一人で生きていけそうと思っていたら、両親の墓標に立つミシェルの元へアンナが現れる。アンナも旦那を追い出したようだ。

ミシェルが息子を産む時に隣りのベッドだったことから友人になったと言っていた。死産だったため、息子の乳母になったという不思議な縁だ。また、同性愛者というわけではないが、二人でためしたこともあると言っていた。
結局、ミシェルの隣りにアンナが寄り添って歩いていくシーンで映画が終わる。
絡まった糸がほぐれ、一番シンブルな形は周囲がとっぱらわれ、一人になることだと思う。けれど、おそらく、ミシェルのことを映画を観ている私よりも知っているのはアンナなのだと思う。ミシェルにはきっと案外脆い部分もあって、そこをアンナは知っていて、助けてくれる。

これ以上のラストがあるだろうか。ミシェルのここまではだいぶ激動の人生だったと思うが、この先は支え合って穏やかに暮らして行くのではないかなと思った。ほっとしてしまった。