『スイス・アーミー・マン』



ポール・ダノ演じる青年が遭難、無人島に流れ着いた死体のダニエル・ラドクリフと友達になるというキワモノっぽい内容を聞いた時から期待していました。

以下、ネタバレです。








無人島に一人きりで残されて助けも来ない。主人公のハンクが絶望し、首を吊ろうとしているシーンから始まる。
悲壮感に溢れていて、人を発見したと思ったらそれは死体で…という普通なら踏んだり蹴ったりの状況である。

けれどハンクは、死体の中に溜まった腐敗ガスがオナラとなって外に出ていて、それを動力として海へ進んで行くのを見て、死体の上に乗ってジェットスキーのようにして海へ出る。
ポスターなどでも使われていたからこれがクライマックスなのかと思っていたらオープニングだった。
ついさっきまで死のうとしていたとは思えない。笑顔で拳を突き上げる様子は生命力に満ち溢れている。音楽も力強く、希望と勇気が湧いてくる。タイトルが遠くからバシーンと出る様子を見て、まだ序盤だというのに泣いてしまった。

それで、序盤なのでここから抜け出してはい終わりというわけでは当然無い。
無人島内の話だと思っていたが、ゴミなどから人の気配のある場所へたどり着いていた。ただ、携帯電話は圏外で連絡は取れない。声を張り上げても反応はない。遭難状態は変わらずだ。

遭難して、一人きりのときに自分と向き合って内面が成長していくというのはよくある話だと思うのだ。一回り成長したところで救助されて、家族や恋人とも和解、幸せに暮らしていきましたとさ…というような。

本作は一人きりではあるけれど、自分の内面ではなく死体とコミュニケーションをとっていく。奇抜なアイディアである。どうしたらこんなこと思いつくのか。

死体はおもむろに口をききだすのだが、本当に喋り出したわけではなく、ハンクの内面と考えるのが妥当だと思う。
でもメニーという名前がつけられると(というか名乗られると)、もうそれはハンクの内面ではなく死体が自己を持ち始める。

序盤のジェットスキーからしてもそうだけど、死体の歯でヒゲを剃ったり、体を押して中にたまった水を出したり、死後硬直の始まった腕を使って丸太を折ったり、メニーがいればサバイバルもなんのそのといった感じである。
タイトルの『スイス・アーミー・マン』は“スイス・アーミー・ナイフ”から来ていると知ってなるほどと思った。確かに十徳ナイフくらい便利。
こんなことも本物の死体を使ってはできないと思うのでファンタジーである。

それらを使う様子は面白おかしく描かれるので劇場では笑いが漏れていた。死体なので不謹慎というむきもあるかもしれないけれど、やはりこの辺もファンタジーということで許してほしい。不謹慎と思う人はそもそもこの映画を観に来てはいないと思うけれど。

メニーとの対話を通じてハンクの日常生活がわかってくる。父親とはうまくいっていない、バスで偶然見かけた美しい女性サラを好きになったけれど話しかけることもできない、彼女には夫もいる…。どうして遭難したのかは明らかにはされないが、楽しかったとは言い難い日常はあらわになる。

ハンクが女装をしてサラになるシーンがある。ハンクも好きな人が好きすぎてその人になってしまいたいと考える人間だった。このタイプの人間はいろいろな物語に出てくるが、叶わない恋であることが多い。相手のことを思い焦がれるあまり、自分が対象になってしまいたいと思うようになる。
現実では背中を追うだけで話しかけられない。おそらく彼女のことをこっそり調べ、インスタグラムのアカウントも探して、彼女の私生活を覗き見し、夫がいることも知った。それでも好きだった。たぶん、夫から奪いたいとかそんな気持ちはなかったとは思う。この引っ込み思案な人物がポール・ダノにとてもよく合っていた。

バスまで作って、その時の様子を再現していた。ハンクがサラになり、メニーがハンクになっていた。メニーにだったらいくらでも恋のアドバイスができる。でも実際に行動には移せない。もしかしたら後悔もあったのかもしれない。

メニーがサラを好きでサラもメニーのことが好き、という寸劇。ハンクがサラとしてメニーを好きになるのは、ハンクが現実世界ではサラと結ばれなかったから、こうだったらいいなという願望だったのだと思う。
ねじ曲がっている。それでも、このバスでのやりとりや、落ちていたトウモロコシからポップコーンを作って一緒に観た映画、即席パーティーでのダンス…すごく楽しかったのだろう。それは遭難する前にも味わったことがないような高揚感だったと思う。
ハンクはサラとしてマニーを愛したし、マニーはサラを愛していた…というのもハンクの脳内のことかもしれないけれど、確かに愛し愛された。

映画はところどころギャグがちりばめられていたから、この一人二役というか、冷静に見てしまえば死体と女装の絡みはいくらでも茶化すことができたと思う。それでも、パーティーやバスのシーンはきらきらしていたし、水中でのキスは過剰にロマンティックに撮られていた。
映像が綺麗だと思って観ていたら、監督のダニエルズ(何ダニエルズなの?と思ったら、ダニエル・シャイナートさんとダニエル・クワンさんのダニエル二人でダニエルズだった)はミュージックビデオを手がけているらしく納得した。
こんなに美しく撮るということは茶化すシーンではないのだ。

ハンクは無事に民家のある地域(しかもサラの家の前。ここは個人的には別の人の家のほうがよかったのでは…と思ってしまった)へ戻る。戻ることを目的にしていたはずなのに、そこには少し前までのシーンにあった高揚感はない。
警察が来る。サラとサラの夫と娘もいる。父親が来る。なんだかメニーとハンク、二人の世界を邪魔する不純物のように見えてしまった。
さっきまでの濃い二人だけの空間は夢のようだった。現実はまるで魔法がとけてしまったかのよう。撮り方も明らかに違っていた。戻ってきてからは一歩引いたような、さめたような撮影方法だったと思う。何が原因でそのような印象を受けたかはわからない。色合いかもしれない。

映画を観ながら、うーんでも死体なんだよなあとは時々思い出していたが、途中からはとても一人には見えなかった。でも、現実に戻ってしまえば、作ったバスなども異常者が作った夢の残骸にしか見えない。パーティーにたくさんいた人物(手作り)も不気味な人形にしか見えない。サラや警察はギョッとしていた。それも正しい反応だと思う。
でも、最初からそっち目線で撮っていないのがこの映画のいいところだと思う。ハンクのことを決して笑い者にしない。ハンクの側に立って撮られていた。引っ込み思案だしどこかさえない部分もありそうだったけれど、そんな人物に優しい映画はいい映画である。

ハンクは最後の抵抗として、メニーを死体袋から出してやる。メニーはまたオナラの力で海上を走っていく…。この時、父親は力強く頷いていて、なんとか父親とは和解できたのだなと思った。
ハンクはまたメニーのジェットスキーでどこか遠くへ行ってしまうのかなとも思った。無人島からやっと戻れたことは変わりないし、いつまでもメニーと戯れてもいられないことも自分でもわかっていたのだろう。

メニーが海上をオナラを動力として飛ぶように遠ざかっていく様子はまるで魚雷のようで、コミカルにも見えた。劇場内では笑っている人もいた。
でも私は本当の決別とか、それでも手元に残った強さを思わずにはいられなくて少し切ない気持ちになっていた。
メニーと一緒のサバイバル生活で心から楽しいと思う気持ちなど、得たものもたくさんあったと思うのだ。そして、サラへの想いも完全に断ち切って、新たにスタートするのだろう。
夢の終わりと青春の終わり。恋も終わった。でもこれで、ハンクは一からやり直せる。
じめじめはしない。別れを惜しむ暇もなかった。爽快な別れから感じるのは、たぶんハンクは大丈夫だという予感である。
だから、きっと笑うのが正しいシーンだった。

死体と友達になるということでもっとキワモノコメディーなのかと思った。もちろんその面もあって、他では見られない不謹慎ギャグも多い。でも描かれているのはとても真っ当なことであり、勇気がわいてきたり切なくなったり、登場人物の成長が見られたりと青春映画そのものだった。いや、そのものは言い過ぎかも。


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