アカデミー賞で作品賞、監督賞、主演男優賞、助演女優賞、作曲賞にノミネート。衣装デザイン賞は受賞。その他、様々な賞にノミネートされました。
監督はポール・トーマス・アンダーソン、主演はダニエル・デイ=ルイス。このコンビでよく映画が撮られているのかと思っていたけれど、2007年の『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』以来ということで結構間が空いていた。ちなみに本作も『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』と同様、音楽はレディオヘッドのジョニー・グリーンウッド。アカデミー賞にもノミネートされたということで、映画音楽面も評価されてきている。

以下、ネタバレです。










舞台は1950年代…ですが、そこまで年代は関係ないように思った。
女性がインタビューを受けているシーンから始まり(実際にはインタビューではなかったが)、やはりインタビューで過去を振り返る形式は最近の流行りなのかなと思ってしまった。
一人なのと、それでも満足げに話しているのが気になった。

どのようなストーリーなのか、服飾業界の話という以外は情報を入れずに観たんですが、ダニエル・デイ=ルイスがデザイナー役で、ポスターに載っている女性のことを執拗に愛して、束縛するように自らのデザインした服を着せているのだと思っていた。

しかし、観始めてみれば、ダニエル・デイ=ルイス演じるレイノルズには妻のような女性がいて、しかも姉が一緒に住んでいて、家での実権は姉が握っている。ここまで見て、レイノルズはやり手だけれど、人間らしい心は失っているのだな…と思った。
しかし、レイノルズの朝の身支度シーンだけでも本当に美しかった。全く隙がなく華麗だった。その様子からも人間味は感じられなかった。完璧すぎる。

彼は姉にすすめられてリフレッシュのために田舎に出かけ、そこでウェイトレスをしているアルマに出会う。これがポスターの女性だった。ヒロイン登場。
ちょっとドジをしちゃっているところを微笑ましそうに見ているレイノルズと、注文を取りに来るアルマ。二人のやりとりから、これが恋に落ちる瞬間なのだなと思った。

アルマはレイノルズの家にいた女性とも違い、素朴な印象だったので、きっとレイノルズが彼女を蝶にするような展開があるのだろうし、レイノルズは彼女との出会いをきっかけにして、人間らしさを取り戻していくのだろうと予想した。しかし、そんな単純なラブストーリーではなかったのだ。

その日のディナーの席で、レイノルズが濡らしたナプキンでアルマの口唇を拭って、「本当の君を見せて欲しい」と言うシーンもぐっときた。
しかし、その後に家に行っても、キスもセックスも無し(描かれていないだけではないと思う)。レイノルズはアルマを採寸し始める。しかし、デザイナーの彼からしたら、もしかしたら最大限の愛情表現なのかもしれないとも思った。指などがセクシーで、採寸シーンが性的に撮られていたからかもしれない。もしかしたらこれは、普通のラブストーリーでいうセックスシーンの暗喩なのではないか。
そう思いながら観ていたが、そこに姉が来て、採寸した数字をノートに書き始めていて、これは本当に採寸でしかないのだと思った。

この後、レイノルズはアルマのサイズで次々にドレスを作り始める。レイノルズはアルマの体…というより体型に夢中なようだったし、アルマも今まで好きではなかった体型を認めてもらえて嬉しそうだった。しかも、オートクチュールのデザイナーの特別な存在になれたのだ。やはりこれはこれで、二人は恋愛関係なのかもしれない。
アルマを演じるヴィッキー・クリープスは顔は地味目なんですが、そのせいか、ドレスを着るとすごく映える。マーク・ブリッジスによるアカデミー賞衣装デザイン賞を受賞しているドレスだからかもしれない。ウェイトレス姿からは見違えてしまう。ドレスはどれも美麗だし、着ている人物に合っていた。

ドレスを丁寧に扱わなかった女性に対してアルマは行動に出るのですが、レイノルズはそれが嬉しかったらしく、彼女にキスをする。彼と彼女の間にはドレスを一枚挟んでいるのだと思うけれど、それでも関係は深まっている。しかし、そう思っていたのはアルマと、映画を観ていた私だけだった。

アルマはレイノルズの姉に、夕飯を作って待っていて、二人で食べるというサプライズをしたいから夜出かけてきてくれないかと提案をする。姉はサプライズなんてやめておけと警告をするが、アルマは押し切る。
アルマの気持ちは本当によくわかる。姉がいつも家にいて三人で一緒にご飯を食べるなんておかしいと思う。いつもとは言わなくても、たまには二人きりで、しかも腕をふるってちょっと特別なディナーにしてもいいじゃないか。きっと彼も喜んでくれる。だって、彼も私を愛しているから。

きっとサプライズで彼の氷の心も瓦解するのだろうと思っていた。しかし、結局は姉の言った通りになってしまう。姉はいつ帰ってくるのかとしきりに聞くし、料理にも文句をつける。内面は全く見てもらえてなかった。結局、ただのマネキンでしかなかった。
姉と、亡くなった母の亡霊を近くに置いて、周囲の女性はついて来られなくなったら入れ替えるということを続けていたのだろう。独身主義と言っていたけれど、ただのマザコン、シスコンである。

この人を愛しても幸せになれないと思った。私ならもう出て行くね…と思っていたらアルマは驚くべき行動に出る。なんと、毒キノコをすりつぶしてレイノルズのお茶の中に混ぜるという…。
映画を観ていて、この時点まではアルマに共感していたのに一気にできなくなったし、映画自体もこの辺りからカラーが変わっていく。

本当ならば、田舎のウェイトレスがカリスマデザイナーに見初められて…などというのは正統派ラブストーリーである。もちろん、観客が感情移入するのもウェイトレスです。人間味のないデザイナーはサプライズのあたりで元ウェイトレスを愛し始める。普通の流れならこうだ。
しかし、元ウェイトレスの行動のせいで、観客は置き去りにされて、誰にも感情移入できなくなってしまう。
しかし、ここからがこの映画の真骨頂とも言える。

前半でファッションショーの後で気を張りすぎたレイノルズが倒れて数日間使い物にならないというシーン、「そんな彼は赤ちゃんみたいで可愛いんですよ」なんてアルマがインタビュー(ではないんですが)で話している描写があった。普段とはまったく違う姿で、しかもその姿は自分だけが知っているというのは嬉しいものである。それに、自分を頼りきっている。
毒キノコでも同じような状況が作られた。しかも、寝込んでいるのとは違って、生死の境をさまよっている(とレイノルズは思っている)。仕込んだアルマは死なないことはわかっている。

それで、あっさりレイノルズは籠絡されちゃう。年のせいもあって死のことも考えたのだろうか。心が弱った時にそばにいてくれた人を大切に思う気持ちもわかるし、それはPTA監督の実体験でもあるという。結局、献身的に看病してくれたアルマと結婚することになる。看病する原因を作ったのもアルマ自身なので、作戦成功大勝利ですよ。

ここから、レイノルズはアルマのことをどんどん愛していく。骨抜きにされてしまう。
年齢差があるから、彼女に若い恋人ができるのではないかと気にもしているようだった。前半の彼からは考えられない。
また、アルマのことを見る回数が明らかに増えている。大晦日にアルマがダンスをしに行きたいと言って、レイノルズが断り、アルマが一人で出て行ってしまったときは、信じられなさそうに何度も出て行ったドアを見ていた。え? 俺を置いて? 一人で?といった感じに何度もだ。
そんな仕草も前半にはなかったけれど、なんと、嫌だと言っていたのに会場まで迎えに行く。ダンスこそ踊らないが、楽しそうに踊るアルマを見て、涙を流す。アルマの手を引いて帰る。そんな行動もすべて、前半からは想像できない。
アルマはアルマで、このあたりだともうレイノルズの心を手に入れたことがわかっていたのだろう。だから、出て行ったのだと思う。迎えに来ることもわかっていたに違いない。

レイノルズはそんな調子なので、仕事も手につかなくなってくる。スタッフが辞めていくし、姉も心配する。前半を観ていた限りだと、姉が怪物に見えた。恋人と二人の場面にも同席しているし、いちいち口出ししてくる。
でも、本当の怪物はアルマだったのだ。

好きな人になってしまいたいタイプの恋愛が描かれた作品はいくつかあるが、本作はそれから派生した感じで、好きな人を頭から呑み込んで体を肥大させた蛇のようになってしまう恋愛だと思った。好きな人になってしまいたいわけではなく、自分は自分のままで、でも好きな人はまるごと自分の中に取り込んでしまいたい。逃げられないように動きを止めることも忘れずに。

この映画には裸などは出てこないし、直接的なエロのシーンもない。それでも、とても官能的に撮られている。
綺麗なドレス、食器や階段の柵、食事、音楽、そのすべてが上質なのに、そこに描かれている恋愛だけ歪というアンバランスさにぞくぞくするのかもしれない。

一番性的だと思ったのは、最後のオムレツを作るシーンである。例のキノコ入りのオムレツを作る様子が上から撮影されている。このキノコをまた食べさせるというだけでも不気味だけれど、更に、レイノルズが嫌いだと言っていたバターをふんだんに使う。フライパンの上で溶けるバターがあんなにいやらしく見えたのは、ただオムレツを作るシーンを映していても、そこからレイノルズとアルマの気持ちが見えるからだ。
最後のあたりだと、もう完全にアルマがレイノルズを支配していた。嫌いな材料+毒でも私が作ったんだから食べるわよね?といった具合だ。もちろんそんなセリフはなく、おいしそうなオムレツを渡すだけ。
レイノルズもなんとも言わないし聞かないけれど、毒キノコなのもわかっていたと思うし、前に具合が悪くなったときもこのキノコを食べさせられたのだろうなと察したと思う。それでも拒まないのは、彼女のことを愛しているから。レイノルズ自身が倒れることを望んでいたかはわからないけれど、アルマがそれを望むなら従おうという気持ちはあったと思う。
オムレツを口に含んで、食べている音とごくんと飲み込む音までちゃんとさせていて、もう普通のラブシーンの数倍性的に見えた。

インタビューかと思っていたけれど違うのはラスト付近でわかる。倒れたレイノルズのために医者が来たのだ。アルマが序盤に一人で話していたのは、レイノルズのことを殺したか、死んでしまったかかなと思っていたけれど違った。
また、この医者とアルマの関係は結婚後に疑われていたし、私も、レイノルズを籠絡するだけしたら、もう放っておいてアルマは新しい別の男のもとへ行ってしまうのかと思った。
しかし、彼女はレイノルズのことを愛しているし、これからも愛し続ける。愛しているから死なない程度の毒を盛ったのだ。それに、映画の最初の方で話す彼女の顔はとても満足気だった。恍惚とした顔にも見えた。現在の状況(レイノルズが倒れている)が満ち足りているのだ。だから、他の人など愛さない。

エンドロール前、アルマの前にレイノルズがきりっと立膝をついて、採寸してあげているシーンがあった。おそらく、ありえたかもしれない未来だろう。よほど健全に見えた。ベビーカーを押すアルマがそのベビーカーを姉に預けて、レイノルズと二人で出かけるというのもありえたかもしれない未来だった。
しかし、健全なのが良いのかというと決してそうとも言い切れない。少なくともアルマは満足そうだし、レイノルズだって、母の亡霊から解き放たれて、アルマに依存して生きるのは幸せなのかもしれない。

でも、亡霊に突き動かされながら、美麗なドレスを作って称賛されて、力尽きて数日間使い物にならなくなって…ということを繰り返し、魂を削りながら創作し続けるのも幸せは幸せではないかなとも思う。

もう外部からは理解できない関係になっているのだろう。嵌めたほうも嵌められたほうも狂っていて、最後にはお互いが相手無しでは生きられないような関係になっていた。後戻りもできないし、代わりもきかないのだ。
だから、上質な映像と歪な恋愛はアンバランスだと思ったけれど、むせかえるような濃厚な二人の関係と、押し寄せる美麗な映像という面では合っている。

アルマの話を聞いていた医者は若干引き気味の顔をしていた。最後まで観てわかるのは、観客が映画の中で自己投影する存在はアルマではなく彼だった。もう、見ている観客すら入り込めない関係になってしまっていた。

ダニエル・デイ=ルイスは本作で引退とのことで非常に残念。これまでも演技のうまい俳優だとは思っていたけれど、今回は特に素敵だった。前半の身なりをびしっとさせた姿も素敵でしたが、後半の御髪が乱れっぱなしの弱々しい姿もそれはそれで素敵だった。
元々靴職人でもあるらしいけれど、今作のために洋服作りを一年間学んで実際に作れるようになったらしい。それで、引退後はファッションデザイナーを目指すという記事も出ていて驚いてしまった。採寸してもらいたい。

ジョニー・グリーンウッド、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の時にはもっと不気味な音楽だったと思うけれど、今回は流麗で美しかった。両方とも映画に合っているということなのだろう。
しかし、中盤のキノコをすりつぶしているシーンと、大晦日にダンスに行きたいとアルマが切り出すシーンは、ちょっと怪しげというか、妙な音楽で、これこれ!と思ってしまった。今回はアカデミー賞を逃してしまったけれど、いつか受賞するかもしれない。




2017年公開(フランスでは2016年公開)。ケン・ローチ監督。
『フロリダ・プロジェクト』を観たときに、『アイ,トーニャ』『ボストン・ストロング』と続けてホワイト・トラッシュが扱われた映画を観ていると思ったけれど、本作もまた、イングランド北部の貧困地域の問題が取り扱われている。
本作は第69回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞したが、先頃発表された第71回のパルム・ドールは是枝裕和監督の『万引き家族』で、まだ公開されていないので観ていませんが、おそらく日本の貧困家庭について描かれていそう。
これだけ立て続けに公開されていると、もう無視できないテーマなのではないかと思う。

舞台はイングランド北部のニューカッスル・アポン・タイン。
ここに住む初老の男性ダニエル・ブレイクは、心臓発作で仕事を辞めざるをえなくなる。しかし、役所の融通がきかずに支援が受けられない。
医者に働くなと言われているのに、働けるから求職活動をしろと言われたのはなぜなのだろう。見た目で元気そうだと思われたのだろうか。オンラインで申請しろと言われても、全員がパソコンを使えるわけではない。ダニエルは大工だったようだし、パソコンなど使ったこともない。かといって、役所の女性が教えてあげるのも注意されていた。前例を作るなということだろうか。

役所には役人たちの融通の利かなさに苦しめられる市民がたくさんいて、シングルマザーのケイティもその一人だった。
ダニエルとケイティは交流を持ち、互いに助け合う。ダニエルは妻を亡くしていて孤独だったので、ケイティのみならずケイティの子供達との絆が持てたのも良かったと思う。ケイティも、子供の面倒を見てもらって助かっているようだった。

ダニエルが住んでいる場所は隣の黒人の若者が偽物(おそらく)のスニーカーの売っているなど、あまりいい場所ではない。
ニューカッスル自体も、造船業が廃れ、炭鉱が閉山した余波がまだ残っているようで、失業率も高いらしい。
フードバンクに長蛇の列ができている描写も出てきた。

ここでケイティがもらった缶詰を思わず開けてその場で食べてしまい、「ごめんなさい、空腹で…」と泣くシーンがつらかった。その前に、子供達に食事を与えて、「私はさっき食べたから」と言っていて、多分食べていないんだろうとは思っていたけれど、こんな形で伏線が回収されるとは思わなかった。

また、フードバンクに生理用品がないというのも盲点であり、厳しいところだ。生活必需品である。

結局ケイティは、スーパーで生理用品を万引きしてしまうが、それがバレてしまう。そして、セキュリティの男性に紹介された仕事が売春だったというのは悪い方向へ悪い方向へどんどん転がっていってしまうのが見て取れた。
女性の貧困家庭の場合、最終手段として体を売るしかないのだろうか。『フロリダ・プロジェクト』でも出てきただけにきっと、よくある話なのだろう。『そこのみにて光輝く』も思い出した。

そもそも、ケイティが支援を受けられなかった原因が、バスを間違えて役所に着く時間が遅れたからだった。越してきたばかりで右も左もわからない。ましてや小さい子供が二人もいる。少しは考えてほしい。
きっと役所の人たちは生活に困窮している人々をどこかで馬鹿にしているのだろう。一人一人に向き合うということは一切していない。決められた規則通りにやるだけなら機械にでもやらせたらいい。人間がやっているのだから、しっかり話を聞いて、対応することができるだろう。

映画で描かれているのはわかりやすい問題提起である。どうにかしてくれ、どうにかしろよという怒り。『フロリダ・プロジェクト』もそうだったけれど、知らなかった実態を公にすること。これは映画の役割でもあると思う。
『ボブという名の猫』も貧困について描かれているけれど、あの映画は猫が現れて救われるという実話とはいえおとぎ話に近いものだった。大抵の人には救世主の猫は現れないのだ。奇跡が起きないと貧困から抜け出せないなんてことはないはずだ。

ダニエルは怒りのあまり、役所の壁にスプレーでメッセージを書いてその前に座る。けれど、市民はそれを奇行とは思わない。むしろ、歓声が上がってもっとやれ!といった具合で盛り上がる。酷い目に遭わされているのは、ダニエルやケイティだけではない。みんななのだ。
ケイティがダニエルに紹介した仲介の男性もまた車椅子だった。障害者も苦労していると思う。おそらく彼はその経験を元に仕事をしているのだと思う。

結局、うまくいきそうなところで、ダニエルは心臓発作で亡くなってしまう。最初から心臓発作だったのだから、危ういとは思っていたけれど…。
けれど、彼は壁のペイントにも、手紙にも“私はダニエル・ブレイクだ。”と書いていた。役所の人間にとっては処理するべき面倒臭い案件の一つなのだとしても、一人の人間なのである。
貧困の中でも、尊厳は守られていた。
だから、映画を見終わった後で、『わたしは、ダニエル・ブレイク』(原題も『I,Daniel Blake』)というタイトルを観るとその力強さに泣きそうになる。
『アイ,トーニャ』もそうでしたが(奇しくもタイトルも!)、そこには怒りとプライドがある。




『モーリス 4K』



“4Kデジタル修復で美しく蘇る”とのことですが、そこまで綺麗!という印象も受けなかったけど、元のものと見比べてみないとなんとも言えない。また、年齢制限があったのかどうかはわかりませんが、無修正版でした。股間にぼかしが入っていなかった。

もともとの『モーリス』は1987年公開。ジェームズ・アイヴォリー監督・脚本ということで、彼が先日のアカデミー賞で脚色賞を受賞した『君の名前で僕を呼んで』も公開したばかりなのであわせて観たい案件。

公開時には観ていないのですが、おそらく今観たほうが、同性愛関連の文脈のようなものがわかっているので理解が深まった。

イングランドでは同性間のシビルパートナーシップが認められたのが2004年、同性婚法は2013年に制定、2014年施行。
同性愛の非犯罪化は1967年とのこと。

映画の舞台は1910年代なので、まだまだ犯罪とされていた時代だし(映画のセリフで出てきますが、この時代、フランスやイタリアでは違法ではなかったらしい)、路地裏でキスしようとした子爵が捕まって、鞭打ちの刑に処されていた。そんな姿を見せられたり、新聞の一面に犯罪者として載ってしまったら、同性愛者本人たちも、自分たちが異常なのではないかと考えてしまう。
現在のように権利を求めて声を上げるということができない時代なのだ。犯罪と言われてしまったら、声をひそめているしかない。

モーリスはケンブリッジ大学でクライヴに出会って、互いに惹かれ合う。片方が同性愛者で、片方が異性愛者だとそこでも問題が起きそうだけれど、二人はちゃんと惹かれあっていたし、幸せそうにも見えた。
しかし、知人の子爵が同性愛で捕まってしまう。それを見て、怯えたクライヴはモーリスから離れていく。惹かれあっていても、時代に引き裂かれてしまう。

クライヴはその後、何もなかったように女性と結婚していたけれど、本当に異性愛者になったのだろうか。モーリスとの関係はただの若気の至りとして片付けられるものだったのだろうか。モーリスに対して、女性と結婚するんだろ?みたいに聞いていたのも本心で、それを祝福する気持ちも本心だったのだろうか。
クライヴは妻にキスするシーンはあるけれど、セックスシーンはなかった。ちゃんと妻と関係を持てていたのか気になる。子供ができる描写もなかった。

クライヴがそんな風になってしまったから、モーリスは混乱するわ辛いわで、同性愛を治すための治療を受けることにする。やはり彼も、世間の流れと、クライヴがそうなったことで、間違っているのは自分だと思ってしまうのが悲しい。今ではあり得ないことである…とは言いきれないことなのかもしれないけど、今はその時代よりは生きやすくなっているのではないかと思う。思いたい。
治療というのが催眠療法なのがまたすごい。けれど、アラン・チューリングが性欲を減退させるホルモン治療をやらされていたのが1953年なので、1910年からまったく進歩していない。現在から考えると、信じられない。けれど、これも国によってはまだ違法のところもあるみたいだし、なんとも言えない。

また、モーリスはクライヴの家の使用人のアレックと関係を持つが、それでもアレックのことが信じられない。恐喝されるのではないかと怯える。時代がそうだと、自分のことはもちろん、他人の愛情すらわからなくなってしまうというのも悲しかった。
ボートハウスで待っていますという手紙を貰っても、罠ではないかと疑って出向かない。

そこでアレックも時代に流されるようにして、モーリスを想う気持ちを捨ててしまったらもう誰一人幸せになれなかったと思う。アレックは身分が低いせいもあるのか、世間体をまったく気にしない猪突猛進型で、これくらいの人物がいないと時代だけが勝ってしまう。
アレックはモーリスの仕事場にも押しかける。でも、これくらい強引にしないと、時代や周囲の言葉を信じて自分が間違ってると思い込んでいるモーリスには伝わらない。それに、やはり最愛のクライヴがああなってしまったことが一番ダメージが大きかったと思う。クライヴが好きだったのだし、彼の生き方が正しいと信じるしかない。だから治療も受けて、同性愛を治そうとした。治るものだとも思っていたのだろうし、治らないから、自分はひっそり暮らしていきたいみたいな気持ちもあっただろう。

だから、観ている側としては、アレックを応援してしまっていた。
仕事をすっぽかしてアレックと一夜を共にしたモーリスが、地位も名誉も捨てると言ったときには、やっと時代に愛が勝ったのを感じたし、ブエノスアイレスに移民としてわたる船にアレックが乗っていなかったのでハッピーエンドを信じた。

モーリスがアレックと一緒になるとクライヴに告白しに行ったときに、クライヴはどう思ったのだろう。さみしそうではあった。でも、未練というよりは、過ぎた日を懐かしむような顔をしていたので、彼の中での決着はおそらくついているのだろうと思った。彼は議員になるようだったし、地位も名誉も世間体も捨てられなかったのだ。その生き方を選んだことも、後悔はしていないのだと思う。

アレックは猪突猛進型だけど、何をしでかすかわからない危うさもあったので、中盤で銃を持ってうろうろしているときにもモーリスを殺すんじゃないかと思ったし、最後のボートハウスでも、もしかしたらモーリスが辿り着いたら時すでに遅しみたいに自殺してたらどうしようと思ってしまった。
でも、寝ていただけだったし、ちゃんとモーリスもボートハウスへ行って二人が会えたので良かった。

映画は二人がボートハウスで抱き合うシーンで終わるので、この先どうなってしまうのかはわからない。
良かったとは思うけれど、アレックはモーリスの家に電報を送ったみたいだし、それが家族に見られていたら、どうなってしまうのだろう。家族も理解があるのだろうか。
アレックの家族も探すだろうし、地位も名誉も捨てたモーリスはどうやって生きていくのかと考えると、やはり中々明るい未来とも言えないのかなとも思ってしまう。
一概に良かった良かったと思えるラストではないけれど、時代に阻まれても、それに抵抗しつつ、好きな相手と結ばれるというのはハッピーエンドはハッピーエンドだと思う。

クライヴを演じたヒュー・グラントが美しかった。特に、大学時代のクライヴは飄々としながらも、色気があった。
アレックはなんだかハリー・スタイルズを野暮ったくした感じというか、昔風ハリー・スタイルズにも見える可愛い系の顔で、演じている俳優さんの名前を見たことがある…と思っていたら、『SHERLOCK』のレストレードでおなじみ、ルパート・グレイヴスでした。それをふまえた上でもう一回観たい…。




ウィレム・デフォーがゴールデングローブ賞、アカデミー賞にて、助演男優賞にノミネートされました。
監督はショーン・ベイカー。以前、全編iPhoneで撮影した作品もあったらしいですが、本作は35ミリフィルムらしい。一辺倒ではない撮影方法にこだわりが感じられる。

『アイ,トーニャ』『ボストン・ストロング』(は違うかも?)と、ホワイト・トラッシュものの映画を続けて観てしまった。
モーテル暮らしの貧困層の親子を中心にして、そのモーテルの住民たちと管理人の生活が子供の目線で描かれている。

以下、ネタバレです。











撮影方法にもこだわりが感じられたけれど、色彩の鮮やかさにもこだわりがありそうだった。舞台となるモーテル自体も薄い紫色でかなり目立つ。もともとこの色の建物というのもすごい。
子供目線だからなのか、貧困でもさほどつらいとか苦しい面が全面に出てこない。色彩の鮮やかさも、もしかしたら子供たちにはこう見えるという表現なのかもしれない。
建物も可愛い形のものが多かった。動かないカメラが可愛い形の店を映し、その前を子供たちが悠々歩くのは、貧困であえいでいるとは思えない。楽しく暮らしているように見えたし、実際、楽しかったと思う。
子供たちは、彼らの世界の中で毎日冒険をしている。車に唾を飛ばすとか、レストランの余り食材を貰うとか、アイス屋さんの前で家族に小銭を恵んでもらってただで食べるとか、やっていることはロクでもないけれど。中盤では空き家の暖炉にクッションをつめて火をつけ、結果的に家を焼いてしまった。それを含めて、毎日が楽しくて仕方ないという様子だった。

それでも、大人たちはそうはいかない。
モーテルは月1000ドル、一日38ドルだったようだが、これも払えない。主人公ムーニーの母のヘイリーは失職してしまい、金がないのだ。おそらく職がないから賃貸住宅も借りられない。
偽物の香水を売りつけたりと、タフでもあると思ったが、結局どうしようもなくなって、部屋で客を取り体を売り始める。

ムーニーが一人で風呂に入るシーンが何度も出てきた。不自然なくらい何度も出てくるので、何か意味はあるんだろうと思いながら観ていた。そういえば、ヘイリーは何してるの? 子供と一緒に入らないの?と思ったら、その時間に部屋で客を取っていたという…。
それも、管理人のボビーが部屋に入っていくのをちょこっと目撃したりと、少しずつ事実が明らかになっていくのが作りとしてうまい。
また、それが完全にわかるシーンも、男の人が風呂というか、ユニットバスなのでトイレに入ってきたときに、「げ、子供がいる」という声がするだけで、そこでもちろんムーニーはぎょっとした顔をしてたけど、直接行為を目撃するわけでもないし、男性を直接映さないのもうまいと思った。

貧困ものだと事件に巻き込まれたり、誰かが亡くなったりするかと思ったけれど、そのようなショッキングシーンはない。
カメラも必要以上に動かないし、音楽もほとんどない(登場人物はギャングスタ・ラップのようなものを聴いてるけれど)。
過剰な説明もない中で、カメラはつぶさにムーニーの日常を描写する。子供が主人公ということもあり、ドキュメンタリーにも見えてしまった。天真爛漫に暮らしているようで、ほのぼのしたり、汚い言葉に笑ったり(わざと嫌味っぽく丁寧語になったりする日本語訳がうまいと思った。字幕は石田泰子氏)していた。しかし、観ていると少しずつ状況がわかってくる。

最初から破綻しそうなぎりぎりのところにあった生活が、結局、最後には破綻してしまう。
ヘイリーは逮捕され、ムーニーは児童家庭局の役人に連れていかれる。
もう完全なバッドエンドでまあそうなるよな…とも思う、予想できたラストなんですが、映画ではここで驚くべきことが起こる。

友達のジェンシーの家の前でムーニーは泣きじゃくる。ここまで一回も泣かないのに、ここですべてを把握して大号泣する。
ムーニーはジェンシーに別れを告げに来たのだが、ここでジェンシーがムーニーの手を取って走り出すんですね。で、初めて音楽が流れ出す。なるほど!このためにここまで音楽を使わなかったのか!と思った。ドラマティックでめちゃくちゃ効果的だった。それに、カメラも二人が走っていく後ろを追いかけていく。ここまで静かに動かず、ほとんど傍観するように映していたカメラが、だ。

二人が辿り着いたのはディズニーランドというのもまたいい。チケットなど持っていないだろうし、入場で止められることもなかったので、これはファンタジー描写である。おそらく、音楽が流れ始めたあたりから、すべてファンタジーなのだと思う。
それでも、最後に魔法を観せてくれるのはとても映画的だと思うし、現実逃避だとしても、ラストで急に大人視点になって暗く終わらなくてよかったと思う。

決して明るい話ではない。でも、もう問題自体はわかったのだし、最後に急に現実に戻されてもがっかりしてしまう。映画の素晴らしさがわかる、最高のラストだと思う。邦題のサブタイトルも納得である。

ちなみに、モーテルにディズニーランドのホテルだと思ったらハネムーンの観光客が紛れ込んでしまう描写はあるけれど、このモーテル、マジック・キャッスルが実際にディズニーランドの近くにあるというのは映画後に知った。
また、ディズニーランドが近いから、周辺に可愛らしい形のお店も多いのだという。

そういえば、近くのホテルのオーナーが変わって値上がりしたというエピソードがあったが、インド人女性がオーナーで流れている音楽もインド音楽だったことから、本当に内部が入れ替わってるのがわかった。彼女が牛耳っているのが、説明は無くとも伝わってくる。(が、モーテルがディズニーランドの近くというのはわかりませんでした…)

ウィレム・デフォーは助演男優賞にノミネートされていたけれど、納得の演技だった。今まで怖かったり、駄目男だったりが多かったイメージだけれど。
貧困層の親子が中心なら親子だけでも良さそうだけれど、このモーテルの管理人ボビー役として出演。ダメ住民やその子供たちに迷惑をかけられ、悪態をつきながらも、結局いつも慈愛に満ちた行動をとっていた。管理人は地味ではあるけれど、映画内に絶対にいなくてはならない役だった。
「敷地内で人を轢くのは禁止にしないか?」って言葉で笑ってしまった。禁止に決まってる…。

子供たちに不審者が近寄って行ったときに、そちらに気をとられるあまり、ペンキを落としてしまうのも好きだった。厳しいこと言ってるけど、別にあの子供たちが憎いわけではない。ちゃんと守ってあげている。
住民たちもそうだ。仕方ないで許せることは最大限許していたと思う。住民たちがダメすぎて、許容範囲をこえていたので追い出したりするが、憎いわけではない。
それがわかる演技でした。私の中でウィレム・デフォーの印象が変わったし、付かず離れず、でもちゃんと見守っているこのキャラがとても好きになった。
多分あの住民たちを束ねるのはものすごく大変な仕事だと思うけれど。

また、ウィレム・デフォーは、煽るように撮られていることが多かったのも気になった。

これも説明はないが、離婚していて、元妻とも疎遠のようだった。息子が手伝いに来ていたので息子とは疎遠ではないようだったが、結局喧嘩をしてしまっていた。
でも多分、あの息子が管理人を引き継ぐんじゃないかな…。
ちなみに息子を演じているのがケイレブ・ランドリー・ジョーンズ。いつも少し癖のある役が多い俳優さんですが、今回はそこまでアクが強くない。でも、おそらく、この先、父親に影響されて癖のある人物になるのだろうというのが、彼が演じることで想像できて面白かった。ひ弱で根性のなさそうなところも彼に合っていました。



ボストンマラソン爆弾テロ事件で両足を失った被害者、ジェフ・ボウマンの実話。
『パトリオット・デイ』は同事件を捜査する側の話でしたが、そこにも彼はちらっと出てきました(と思ったけれど、もしかしたら勘違いだったのかも)。

以下、ネタバレです。









『パトリオット・デイ』のラストで、足を失った男性が数年後にボストンマラソンを完走したというシーンがあったので、私はこの人がジェフなのかと思っていて、この映画は、彼が足を失ってから、リハビリをしてマラソンに再び挑戦するまでのスポーツ映画の色が強いものなのかと思っていた。だから、『アイ,トーニャ』と同じく、毒親とスポーツの話なのかと思っていたのだ。

しかし、自分の感想を読み返してみたところ、『パトリオット・デイ』でボストンマラソンを完走するのは片足を失った男性だったため、どうやらジェフではないようである。でも映画内ではこの男性の彼女(妻?)も看護師だったようだけれど…。でも二人は同棲していたし、やはり別人なのかもしれない。それか、『パトリオット・デイ』は実話とはいえ、数人を一人にしたキャラクターもいたようなので、この男性についても創作なのかも。

本作の最後では、数年後にボストンマラソンに出たのは彼女のエリンでした。ジェフは応援に行っただけのようだけれど、テロの現場であるゴール付近に行くだけでも、相当勇気がいったと思う。

『パトリオット・デイ』は群像劇っぽくはありながらも、テロ捜査が中心で犯人が捕まるまでの話なので、被害者の人となりについてはさほど触れられない。だから、このジェフという人物(『パトリオット・デイ』はジェフじゃなかったのかも…)は、被害に遭ったにも関わらず、勇気があるし、立派で真っ当な人物かと思っていた。

それは、本作内で、外側の人たちがジェフに抱くイメージそのままである。
本作はジェフが主人公で、彼の側から描いている。サブタイトルにもある通り、ダメな僕の面を出している。
でも、ダメな僕などという一言で済ますのは酷な話である。
両足を失っているのに、生き残ったために、“ボストンストロング(ボストンよ、強くあれ)”(がんばろう、○○(地名)みたいなもの)という標語のアイコンのようにしてまつりあげられる。それは、ジェフにとってはまるで呪いの言葉のようにのしかかってくる。

母親やおばさんなども同じようにジェフをまつりあげる。息子や親戚が彼を誇らしく思うのはわかるけれど、当事者の気持ちを全く考えていない。取材もどんどん受けてしまう。
本人はまだ事件のことがフラッシュバックしているし、なにしろ、両足を失った姿で人前に出るのが嫌だろう。

人前に立ったり、有名人の取材を受けたり、アイコンとして振る舞えないからといって、ダメな僕とは一概には言えないと思うのだ。仕方ないと思う。

その上、ダメな僕“だから”英雄になれたわけでもないと思うから、ダサいだけではなく、おかしなサブタイトルだと思う。
また、『ボストン ストロング』というのも、ジェフにかかる重圧としてあまり良い意味ではなく映画内で出てきた言葉だし、後半以降には多分意図的に出てこなかったので、タイトルには適さないと思う。最後のレッドソックス戦でこの言葉が出てきて、それごと克服したという描写があったのならまだわかるけど。
だからわざわざ原題は『Stronger』だったのだろう。かといって、邦題が『ストロンガー』ではわかりにくいし難しいところだとは思うけれど。

母親や親戚がジェフの気持ちを無視して、もう半分浮かれたみたいにして好き勝手に振る舞う中、ジェフに寄り添っていたのが彼女のエリンだった。
そもそもジェフは、エリンの応援をしに行って事件に巻き込まれたのだから、彼女はいたたまれない気持ちだったと思う。それでも、看護師だったせいもあるのか、献身的にジェフの世話を焼いていた。

中盤に結構直接的に描かれるセックスシーンがあるけれど、いやらしくはなくて、足のあるなしは関係なく寄り添うという、愛の力強さみたいなものが見えた。セックスシーンが始まったときには必要なのか?とも思ったけれど、必要なシーンでした。
ただ、私はジェフがここでトラウマを克服するのかと思ったけれど、違った。

被害者なのはわかるし、エリンに甘えるのもわかるけれど、ジェフはエリンにつらくあたりすぎだし、「足を失ったのは君のせいだ!」と言ってしまうシーンもあった。そんなのは仕方ないとわかってるのかと思ったけれど、結局、それ、言っちゃうんだ…とがっかりした気持ちになった。

それで、ジェフが克服するのか、事故の時に助けてくれたカルロスの言葉を聞いてというのが…。実話なのだろうからジェフがそういう人物なのだろうけれど、今までエレンがあれだけ献身的につくしてくれたのに、それは無視無視無視の上、酷い仕打ちまでしたのに、あっさりと改心してしまったのが驚いたし、エレンがかわいそうだった。カルロスも命の恩人なのだからわからなくもないけれど。

ラストでは子供の親になる決心をしていたし、エレンに「愛してる」とも言っていた。エレンもジェフのことをわかっているから、酷い仕打ちを受けたのも仕方ないと許したのかもしれないけど善人すぎると思ってしまった。
ジェフはもっと前に、その態度は取れなかったのだろうか。

カルロスと話した後のレッドソックス戦では、他の人が話しかけてきて、ジェフに好意的な言葉を投げかけてくるのも素直に受け止めていた。以前までなら重圧になっていたような言葉を、だ。それだけ、カルロスがジェフにとって重要な人物だったのはわかる。でも、エレンのことももっと考えてあげてほしかった。

リハビリのシーンはほとんどなく、心のリハビリという感じの映画でした。でも、それにしては徐々に回復していくわけではなく、急に克服したように見えてしまった。もっとも、印象的な言葉を聞いて一気に改心するということもあるのかもしれないし、ジェフの回顧録を元にしているようだから、実話なのかもしれないけれど。

悪い映画ではないけれど、ちょっともやもやしたところが残った。
主演のジェイク・ギレンホールとエレン役のタチアナ・マスラニーの演技も良かったです。というか、私がエレンのことを好きすぎただけかもしれない。



アカデミー賞主演女優賞(マーゴット・ロビー)、編集賞ノミネート、助演女優賞をアリソン・ジャネイが受賞。他にもいろいろな賞にノミネートされています。
監督は『ラースと、その彼女』のクレイグ・ガレスピー。

トーニャ・ハーディングの半生が、ナンシー・ケリガン襲撃事件を中心に描かれている。

以下、ネタバレです。











映画は当事者たちへのインタビューという形式がとられている。また、元夫のDVの話も出てきて、『ビッグ・リトル・ライズ』を思い出した。最近、観る映画観る映画で『ビッグ・リトル・ライズ』を思い出していて、おそらく、最近の映画に使われている要素がふんだんに取り込まれているのだと思う。
インタビューも別々に受けているのでそれぞれが言っていることが食い違っていて、それも映像化されているのがおもしろい。

幼少期から氷上でもタバコを吸っているような母親に殴られて育てられ、夫にも殴られるけれど謝られたら許してしまい…という典型的なDVにはまり、挙げ句の果てには唯一の生きる糧であるスケートまで奪われるという、人生なんてもう何の救いもないというストーリーである。
特に、ラスト付近に母親が家に訪ねてきて、「頑張ったね」とか「誇りに思うよ」とか言い出して、今までとんでもない扱いをしてきたのに、そんな姿見せられたら泣いてしまう、やっぱり母親は母親なんだな…とほろりと来ていたら、「それで、襲撃のことは知っていたのかい?」って急に聞き出して、テレコ持っていたっていうシーンがあってびっくりした。
最後まで母親との和解はないです。インタビューでもトーニャとは会ってないと言っていた。
普通なら、離婚をして、スケートも奪われたけれど、いままで酷い扱いを受けてきた母親と最後には和解して、すべて失ったけど2人で生きていく…となりそうなものだ。けれど、実話だからそうはならない。救われない。

元夫役にセバスチャン・スタン。
彼が暴力夫役なんて意外だったけれど、こんな役もできるとは演技が上手いのかもしれない。ただこれも証言が食い違っていて、殴ってないとは言っていた。映画内ではトーニャの証言を優先して殴られているけれど、彼が演じることで、いかにも暴力夫という雰囲気でなくなっているのがキャスティングがうまいと思った。

襲撃事件の元凶はこの元夫の友人なんですけど、家にレーガン大統領のポスターが貼ってあることからも、保守的な思想を持っていることがわかって、こいつはただの陽気なおデブキャラではないんだなということがわかった。『エンジェルス・イン・アメリカ』にも、共和党支持者の話が出てきたけれど、あの時代の保守派はロクでもないと思ってしまった。
誇大妄想症と言われていたから精神疾患なのかもしれないけれど、脅迫の手紙を出すだけのつもりが勝手に襲撃を命じていたこともムカムカしたけれど、トーニャに脅迫の手紙を彼の仕業だとわかったときには、劇場のみんながため息をつくのがわかった。一体感がありました。

そのせいで、結局、トーニャはスケート協会からも追放されてしまう。
法廷で、「これでは終身刑と同じ。服役させて」と涙ながらに訴えていたシーンが印象的だった。
母親からも暴力を振るわれ、貧困からも抜け出せず、学校も母によって退学させられたから学もなく、夫ともうまくいかない。でも、スケートはできる。
トリプルアクセルが跳べたということが彼女のプライドであり、それすらも奪われてしまったら本当に何も残らない。

スケートをやっていたときも、彼女の点が伸び悩むという描写があった(この辺は、実際には不当に低いということはなかったのでは…とのこと)。
オリンピックなどを見ていても、スケートを始めとして、採点競技はよくわからないと思っていた。芸術点なんて、審査員の好みじゃないの?と。映画内では、品とか人物の背景とかも見ていると言われていた。いくら頑張っても、技術だけでは駄目なのだ。
贔屓というか、逆贔屓みたいなものはあるのではないかと思う。
でも、そうしたら右にならえというか、同じような選手ばかりになってしまいそう。それでいいのかもしれないけど。
スケートができても、それだけではだめ。個性は認められない。これは、スケートだけの話でもないように思えた。出る杭は打たれる。

母親と夫からのDVや、スケートをする権利も剥奪されるなど、普通に考えたら映画自体が暗くなってしまいそうである。
けれど、登場人物が過去について話しているからなのか、語り口が軽妙で、ウェットすぎないのがいい。
また、使われている70年代80年代の音楽もいい。『レディ・プレイヤー1』のようにポップなものだけではなく、暗めのものやロックも使われている。でも、キャッチーです。

また、カメラワークも凝っていた。
スケートシーンはもちろん迫力があって見惚れてしまう。マーゴット・ロビーもスケートの練習をしたらしいけれど、演技のシーンは顔を3Dで貼り付けているらしい。

それ以外にも、元夫の家から出ていくシーンでは、入り口にべったり座り込む夫を映して、カメラがそのまま玄関から出て車を運転する目線になっていた。インタビューの証言が一致してる部分は縦に二分割されて同じことを言うのもおもしろかった。最後の演技に臨む前、楽屋の鏡の前でメイクをして、必死に笑顔を作るシーンは、ずっと真正面からトーニャをとらえていた。

また、インタビューに答えた内容を映像化しているという形式だから、時々登場人物がこちらを向いて話しかけてくるのもおもしろかった。
それと別に、トーニャがインタビューを受けている映像で、「あんたたちがめちゃくちゃにしたのよ」と言ってこちらをじっと見てくるシーンはどきっとした。これは映画内でのマスコミに対してのトーニャの言葉だけれど、それを通して観ている私たちに向けての言葉でもある。真実が知りたくてあんたたちは映画を観に来たんでしょ?とでも言われているようだった。

カメラワークで一番痺れたのはラストシーンです。スケートをできなくなったトーニャはボクシングを始める。アメリカはヒールを求めているから、自分にはこの役が似合っていると言っていた(その少し前のシーンで、元夫の家の前からマスコミがいなくなったと思ったら、テレビでO・J・シンプソン事件が流れているというシーンがあった。ターゲットが新たに見つかったという説明がうまい)。
彼女は殴られてリングに倒れこむ。カメラはリング上に置いてあって、殴られて片目も腫れてしまって血だらけの彼女の顔をアップで映す。しかし、彼女はそこから立ち上がって、試合を続けるのだ。カメラはリング上に固定されたままだから、闘う足しか見えない。それでも彼女の強さが見えた。

人生なんてクソで、何の救いもない。誰も助けてくれないんだから甘えるなとでも言われたようだった。
この映画が暗くならないのは、トーニャ自体がめげずにごりごり進んでいく様子に勇気をもらえるからなのだ。

衣装に問題があると思えば、ピンクのふりふりのものを手縫いで作る。はっきり言ってセンスは無いし、既製品にも到底及ばないし、点数も伸びない。それでも、振り返ってなんていられないという、崖っぷちのなりふり構わなさが痛快で、彼女を愛さずにはいられなかった。
マスコミに嫌われたって、私は好きです。




アカデミー賞で作品賞、主演男優賞、歌曲賞ノミネート、脚色賞受賞。その他の様々な賞にノミネートされていました。

以下、ネタバレです。










北イタリアの別荘に夏の間訪れている家族の元に、一人の青年が訪れる。家族の父親が教授で、その青年は教え子である。
まず舞台の北イタリアの夏の風景が素晴らしい。強い日差し、果樹園、暑そうなので家の窓も開け放たれているし、家族での食事も外でとることが多そうだった。エリオは、序盤から上半身裸で開放的に過ごしている。それでも、父親は教授だし、母親もドイツ語を即時に翻訳して本を読んでいるし、第一、別荘があったり、お手伝いさんがいるということで、かなり裕福そうで、生活が荒れているわけではない。
エリオはピアノもギターも弾けるし、楽譜も書ける。英語、イタリア語、フランス語を巧みにあやつる。

実はいち早く本作を観たくて、イギリス盤のDVDを英語字幕で観ていたのですが、その時には、エリオが一方的にオリヴァーに憧れて、オリヴァーは付き合ってあげているだけの大人なのかと思っていた。17歳の若者の成長物語だと思っていたのだ。
もちろんその面もあるのだが、前述の通り、エリオは、奔放でとても魅力的である。人を惹きつけてやまない。その中にオリヴァーも入っていた。英語字幕で観たときよりもずっと、オリヴァーはエリオに魅了されていた。それこそ、オリヴァーもエリオに憧れていたのだと思う。

また、17歳という年齢がいい。演じたティモシー・シャラメは公開時には22歳と17歳よりは上だけれど、そこまで大人ではない。かといって少年でもない。
フランス人の彼女とのセックスも好きだし、ダンスシーンは子供のような無邪気さだ。本を読むときには大人の顔をしていても、両親の前では素直になる。また、オリヴァーに対しても、好きなんだか嫌いなんだかわからないけど嫌われたくないみたいな複雑な感情を抱いていて、その様子もまさに少年と大人の中間といった感じだった。

また、暑いせいで、上半身裸だったり短パンに裸足だったり、わりと体が見えやすいんですが、その体つきも中間なのだ。まだ大人の男にはなりきっていない。

その点、オリヴァーの体は大人の男そのもので、エリオの体と一緒に映しているシーンも多いことから、対比がわかりやすかったし、意図的に対比させていたのだと思う。
オリヴァーはしっかりと筋肉が付いていて、胸毛もすね毛もびっしりだが、エリオは色白で腕も足も細い。胸筋もない。手や足も、オリヴァーはごつごつと骨ばっていたが、エリオは滑らかで、まるで少女のそれのようだった。

フィジカル面での対比はオリヴァーはアーミー・ハマーでなくてはいけなかったと思うし、何より、エリオはティモシー・シャラメでなくてはいけなかったと思う。特にティモシー・シャラメである。ここまでブレイクしてしまうと、この先、ヒーロー映画などに呼ばれて、筋肉が付いてしまうかもしれない。今、この瞬間をしっかりとフィルムに焼き付けてくれて良かった。今後、顔つきも変わってしまうのだろうか。本作は巻き毛でまつ毛ばさばさで眠そうな目元が本当に少女漫画の登場人物のようである。
ちなみに、『インターステラー』当時のティモシー・シャラメは、本当にただの少年といった感じでした。本作のような色気はなかった。

エリオがベッドに寝っ転がって脇毛を吹いているシーンがあったが、何かしらコンプレックスを抱いていそうに見えた。
そして、そのコンプレックスはオリヴァーみたいになりたいという憧れに変わったのではないかと思う。六芒星のネックレスを真似してつけ始めたのも、少しでも近づきたかったのだろう。

オリヴァーが夜中に帰ってくるのを見越したように扉を開けておいて寝たふりをし、その扉がオリヴァーによって閉められてしまうと、「Traitor.(裏切り者)」(卑怯な奴、とかの意味なので、英語字幕のときは、いくじなしと意訳してました)と呟くシーンも良かったんですが、他にも勇気を出して手紙を書くシーン、自分からキスするシーンなど、エリオが積極的にのめり込んで、どんどん好きになっていく様子は観ているこちらがドキドキしてしまう。きらきらしていて瑞々しい。

演じているティモシー・シャラメも素晴らしいけれど、エリオのことを好きにならずにいられない。その恋を応援したくなる。

英語字幕で観ていた時には、エリオがんばれ!とか、悩んでる姿を観て、そっかー、相談に乗るよーみたいな気持ちで観てたんですが、日本語字幕で観てみると、これが、エリオのみのストーリーではなかった。
むしろ、「バレーボールで体に触った時にサインを出した」ってことは、もう家に来た時から、オリヴァーはエリオに恋していたのではないか。

エリオがオリヴァーに憧れたように、オリヴァーもエリオに憧れたのだと思う。オリヴァーの日常生活については詳しく描かれることはないが、エリオとの関係を両親が知ったら矯正施設に入れられるだろうと言っていた。エリオの両親は容認派である。
また、エリオがなんでも知っていることに感心していた。その知性にも憧れていたのだろう。

お互いがお互いになってしまいたいような恋愛だったのだと思う。
タイトルは『君の名前で僕を呼んで』だけれど、劇中のセリフは「君の名前で僕を呼んで。僕は君のことを僕の名前で呼ぶから」と続く(“Call me by your name and I'll call you by mine.”)。
相手になってしまいたい類いの好きという気持ちは、他の作品でもたびたび描かれている。『太陽がいっぱい』や『桃尻娘』シリーズなどもそうだし、好きな相手が異性の場合だと、『フィルス』や『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』のように、女装という形で表れたりする。
それでも、いくら願っても相手になることはできない。別の人間なのだ。だから、切ない。作品として好きなパターンです。

17歳と24歳だと、私の年齢からしたら同じ若者の括りですが、24歳から見たら、17歳はもう過ぎた時間だし、怖いもの知らずのようなエリオが眩しかったろうと思う。オリヴァーはオリヴァーで、エリオにコンプレックスを抱いたのだろう。
だから、エリオにまっすぐな想いをぶつけられても、オリヴァーは自分の両親や年齢、世間体などのしがらみを捨てることはできずに、想いに答えられなかったと思うのだ。

期間限定と思えば、関係に没頭できる。それでも、夏が終わり、故郷に帰れば、お付き合いしている女性もいるし、その女性とはおそらく年齢的にも両親公認だったのだろう。婚約をするのも自然な流れだ。

電話でその報告を聞いたエリオが暖炉の前で座り込んで、堪え切れない涙を流しながらじっと火を見ている。映画のラストは、動かないカメラがそのエリオの表情をじっととらえていて、それは慰めるというよりも、悲しみを受け止めて大人になる様子を見守っているようだった。

このラストが完璧なので、この映画の続編構想があると聞いた時には、ここで終わりでいいのに!と思ってしまった。
原作小説を読んでいないんですが、原作はまだ続くのだろうか。続くとしたら、オリヴァーが戻ってくるのだろうか。結婚を決めたなら、もうそれはそれで、17歳の初恋は終わりというほうが美しいのではないか。

ただ、英語字幕で観た時よりも日本語字幕のほうが、結婚する話が少しふんわりした表現に感じられた。これは、きっとオリヴァーが戻ってくるのだろう。二人の恋の続きを観たくないわけではないけれど、必要かどうか考えると蛇足になりかねないかなとも思う。
何より、ティモシー・シャラメの体つきはどうなってしまうんだろう。24歳役という案もあるようだけれど、24歳だと、もう少しちゃんとした体だと思うんですよね…。

また、最初に映画を観た時には、『エンジェルス・イン・アメリカ』や『BPM』を観たあたりだったし、『パレードへようこそ』などのことも考えると、80年代が舞台の同性愛ものなのに、HIVの話がまったく出てこないってどうなのかとも思ってしまった。けれど、これは続編で触れられるらしいです。それを思うと、続編はなくてはならないのかとも思うけれど…。