予告編を見る限りではあまりおもしろくなさそうと思っていて、観に行かないつもりだった。
生まれつきの病気で顔が他の子供と違うオギーが、学校へ行くことになる。夢は宇宙飛行士になることとか、オギーが奇跡を起こすというナレーションが入っていたのと、宇宙飛行士姿のオギーがハイタッチしていて、それがラスト付近の成功の姿なのかと思っていた。
でも、結局顔が隠れてしまっているし、これでは容姿の違いと向き合ってないし、乗り越えられていないんじゃないの?と思ってしまった。
でも、この予告の宇宙飛行士姿は序盤で出てきます。
また、予想だにしていなかったんですが群像劇でした。もちろんオギーが主人公ではあるけれど、オギーだけに焦点を当てた映画ではない。

監督はスティーヴン・チョボスキー。『ウォールフラワー』の原作者であり、自ら監督も務めた方。実写版『美女と野獣』の脚本でも知られている。

以下、ネタバレです。











予告で出てきた宇宙飛行士姿は、つらいことがあったら楽しいことを考えるという妄想だった。大団円っぽい姿にも見えたので、映画のラストなのかと思っていた。
また、最初に“Auggie”という名前が出てきて、どうしてわざわざ?と思っていたら、姉のヴィアのモノローグが始まって、“Via”という名前が出てきて、驚いた。
予告編だけだとまったくわからないけれど、群像劇だった。

“君は太陽”というのも、あざといサブタイトルだと思ってたけどそうではなかった。son(オギーのこと)とsunがかかってはいるんですが、「いつでもオギーが中心で、私たちはその周囲をまわる惑星」とヴィアが言っていてなるほどと思った。
障害で苦しむ(そして克服する)という話は数あれど、周囲の人の悩みまでとりあげられている物語は少ない。

ヴィアは幼い頃から両親をオギーにとられたような形だったから、いろいろなことを我慢し、手のかからないしっかり者になってしまった。
でも、亡くなったおばあちゃんだけは、「あなたのことが一番好きよ」って言ってくれてたんですよね。それを思い出して、思い出の場所に一人で行くシーンは泣いてしまった。
おまけに仲良くしていた友達が高校デビューして避けられたり、演劇部に入ろうとしたり…といろいろな悩みもある。でも両親には相談できない。オギーにつきっきりだから。
でも、ヴィアは決してそれでオギーを恨んでいるわけではない。両親と同じようにオギーのことが大好き。
もちろん、同じ遺伝子だし、もしかしたら自分がオギーだったかもと考えたら、一番他人事じゃないというのもあったと思う。でもそれ以上の愛情を感じた。
ハロウィンの日、やっと母を独占できたのに、オギーが学校で何かあったらしいと、独占が中断されてしまう。本当なら、オギーのことを妬んでしまいそうだ。
でも、帰ってきて大層落ち込んでいるオギーをヴィア自身も仮装をして、パレードに行こうよと誘う。そこで学校で酷い目に遭ったオギーはヴィアにあたる。
ヴィアが「酷い日もあるよ」と元気付けても「ヴィアの酷い日より僕の酷い日のほうが酷い!」と言う。でも、それはヴィアも確かにそうだろうということはわかっている。弟の苦悩を常に近くで見てきただろうから。
しっかり者である点を引いても、優しい子だった。
オギーも卑屈にならないことはないけれど、それでも明るく元気で頭も良く優しい。
この二人が本当にいい子なのって、たぶん、両親の育てかたが良かったのだと思う。育てかたというか、接し方というか。
二人が幼い頃のエピソードというのはほとんど出て来ない。だから、五年生のオギー、高校生のヴィアのことしかほぼわからない。でも、ここまでも家族四人で困難はあっても幸せに暮らしてきたのだろうというのが想像できる。あと、飼い犬のデイジーも立派な家族でした。
デイジーはクレジット名が一匹の名前しかなかったけれど、一匹だったのだろうか。演技が素晴らしかった。
両親役はジュリア・ロバーツとオーウェン・ウィルソン。オーウェン・ウィルソンのちょっと情けない父親もいいし、ジュリア・ロバーツのちゃきちゃきした母親も良かった。共通しているのは二人とも本当に娘と息子が大好きで、優しく見守ってあげていたというところ。ヴィアの演劇のシーンで、メガネを忘れた母が、父のメガネを奪い、独占していたところにも二人の関係が表れていた。

両親だけではなく、学校の校長先生やブラウン先生など、大抵の大人はオギーに優しく接していた。いじめっ子のジュリアンの両親は金にモノを言わせようとするなど、わかりやすい悪者だったけれど。

群像劇になっているわりに両親のエピソードがないのはどうしてだろうと思ったけれど、よく考えたら子供たちだけだった。

高校デビューのヴィアの友人ミランダや、些細なことからオギーとすれ違ってしまう友人のジャック・ウィルの内面もわかるのは、なんだかスクリーンに名前が出ただけで、この子達の掘り下げもやってくれるのか!と思って涙が出てしまった。
オギーだけではなく、オギー以外の人物も等しく悩んでいる。
それは、オギーが一番大変だとは思う。けれど、だからといって、オギーを特別待遇するのは、逆差別だと思うのだ。特別待遇するわけではなく、他の人と等しく接することが大事なのだ。そのために、オギー以外の人物の悩みもちゃんと描かれているのが素晴らしい。
実際に大人たちはオギーに対してもオギー以外に対しても同じように接していたし、映画の作り自体がそうなっているのがうまい。
オギーに対して優しい視線が向けられているのは当たり前なのだけれど、それ以外の人物もとても優しく撮られている。彼らがそれぞれの困難を乗り越えて克服する場面が描かれているからその都度泣いてしまうし、全員好きになってしまう。

この映画の予告編を見る限りだとオギーのことばかりだったので、まさかこのような凝った作りになっているとは思わなかった。本当に観て良かったです。

オギーの友人のジャック・ウィルを演じたノア・ジュプ(Noah Jupe)がすごく可愛かった。癖なのか、ぺろっと舌を出すシーンが何度かあったり、いじめっ子に殴りかかった後で、わっと先生に抱きつく様子も良かった。そうか、怖かったんだよね…。
マインクラフト内のチャットでオギーと仲直りするのもいまどきの子供という感じで可愛かった。
キャンプでの7年生との殴り合いのシーンでは、頭から血が出てると言っていたので、この怪我が原因で死んでしまったりしたらどうしようと思っていたけれど、何事もなく修了式を迎えていて良かった。

2005年ロンドン生まれの13歳。父は映画監督、母は女優の映画一家。
2015年に『ペニー・ドレッドフル』と『ダウントン・アビー』に出ていたらしい。また、Amazonプライムで配信中のトム・ヒドルストン主演の『ナイト・マネージャー』の序盤にも出てくるようです。
映画だと2017年公開作では本作を含む4作品に出演。見逃してしまったけれど、『サバービコン』にも出ていたらしい。マット・デイモンとジュリアン・ムーアの息子役で、家族の話らしいので出番が多そう。
2018年も3作品に出演。Netflixで配信中のサム・ワーシントン主演の『タイタン』。日本でも9月に公開される音を出すと殺されるホラー『クワイエット・プレイス』。12月にアメリカで公開予定のウィル・フェレルがシャーロック・ホームズ、ジョン・C・ライリーがジョン・ワトソンを演じる『Holmes and Watson』。
2019年はシャイア・ラブーフの自伝映画『Honey Boy』にシャイア・ラブーフの少年時代役で出演。ちなみに青年時代はルーカス・ヘッジズが演じる。
楽しみなものがいくつかと、すでに観られる作品も何作かあるので観てみようと思います。



監督は『プリデスティネーション』『デイブレイカー』のスピエリッグ兄弟。脚本もティム・マクガハンとスピエリッグ兄弟、音楽もピーター・スピエリッグ。
ウィンチェスター銃で莫大な財を成したウィンチェスター一族の実在する屋敷。サラ・ウィンチェスターは何かに囚われたように増築し続け…という実話ベース。
現在も実在していて、観光もできるらしい。
住所もウィンチェスター通りです。

以下、ネタバレです。










事実に基づくとは最初に書かれているけれど、観ていると、どこまで?と思ってしまうくらい物語要素が強かった。
インタビューでは「歴史ドキュメンタリーではなく、ホラーなのだから」と言われていて、なるほどそのスタンスかと思った。
しかし、サラが黒衣で過ごしたとか、天井に続く階段や折り返す階段など、実際の建物にもあるらしい。おかしな建物ではある。
悪魔の数字である13にまつわるものも多いらしく(浴室の数、排水溝の数など)その辺の描写は映画ないではなかったけれど、部屋を閉じている釘の数が13個だった。
また、サラが幽霊に悩まされていたのも本当らしい。
やはり、ウィンチェスター銃が戦争や人殺しの道具として使われていたことによるものだろうか。
実際に今でも、幽霊も出る?らしく、観光スポットとして人気らしい。

映画は精神科医(ジェイソン・クラーク)が、サラ(ヘレン・ミレン)の精神鑑定をするためにウィンチェスターハウスを訪れるところから始まる。
おそらく、この精神科医は実在しなさそう。
ただ、最初はこの奇怪な建物に潜入する観客の代わりとなる一般人という役割なのかと思っていたがそうではなく、妻に撃たれ一旦死んで蘇生したり、アヘンチンキを常用していたりと、彼の目線もいまいち信用ならない。

序盤はやたらとびっくり表現(大きな音と同時に怖い映像が出る)が多かった。ただ、屋敷内を探索している精神科医が信用ならないから、彼の妄想なのか本当なのかわからない。

電話がわりの連絡用に部屋と部屋がパイプで繋がっているんですが、そこに精神科医が耳を寄せたり覗き込んだりしていて、絶対にこの穴から何か出てくる…と思うと、薄目で観てしまった。来るぞ来るぞという場面では目を閉じてしまった。

サラの姪とその息子も屋敷にいたけれど、この二人も実際にいたのかどうかはわからない。ただ、衣装がゴシック調で凝っていて見応えがあった。鳥の形のピアスも可愛かった。
サラの黒衣も素晴らしい。ヴェールを被っているあたりもいい。
屋敷家具など、美術は良かったです。

映画ではウィンチェスター銃で殺された人たちが住んでいた部屋を再現し、そこに霊を閉じ込めるために増築するという理由づけがされていたけれど、これも実話なのかどうかはわからない。ただ、サラは霊と交信はしていたらしい。霊の指示で作ったのかまでは不明。

後半の地震のシーンは、霊の力で揺れているのかと思ったら、1906年のサンフランシスコの地震だった。ただ、地震描写がちょっと安っぽいというか、カメラ揺らしてるだけなのがわかってしまうというか、もう少しなんとかならなかったのかとは思ってしまった。

屋敷に顔の良い不気味な召使いがいて、主張が強いと思ってたけど、最初からいなかったという点はおもしろかった。
兄弟をウィンチェスター銃で奪われて、ウィンチェスターの会社に乱入、15人を殺した…というエピソードがあったけれど、これも本当にあった話なのかどうか不明。
彼の霊を退治するのがクライマックスになるので、なかった話だと思う。それで、精神科医には精神を病んで自殺してしまった妻に撃たれ、一旦死んだという過去があって、そのせいで死人が見えるという設定が出てきて…。このあたりで、それはどうなのだろう?と話の雲行きがあやしくなってきたのを感じた。
また、妻に撃たれたときの銃弾をお守りのように持っていたけれど、その銃弾で霊が倒せるという…。
そこまで丁寧な理由づけが果たして必要なのだろうか。
ウィンチェスターハウスを救い、また思い出の品である銃弾を霊が見える精神科医が使うことで、ドラッグにおぼれていた医師も、妻との出来事を吹っ切って立ち直れる…というところも狙ったのだろうけれど、そんなストーリーはいらなかったと思うのだ。

結局、サラは、生きている限り、ウィンチェスターハウスを増築し続ける(これは実話)から、解決したわけでもない。この辺は、不気味な召使いを倒したところで霊がおさまりませんよという知らせとして、ラストで釘が抜けるシーンを入れてある。

「歴史ドキュメンタリーではなく、ホラー」という言葉が一番よく示していると思うけれど、ウィンチェスターハウスからインスパイアされた二次創作といった感じだった。
ただ、飛躍しすぎな上に、事実のほうが怖いかもしれない。

怪奇現象なんてわけがわからないから怪奇なんであって、そこに理由はいらないと思うけど、映画という形にする以上オチというか、まとまりをもたらすためには仕方がないのだろうか。
真実の話を元にしている以上、普通に霊が見えてしまってはいけない。霊が見えることにも理由づけが必要だったのだろうとは思う。ただ、そこまで丁寧にやらなくても良かったと思う。

ゴシックっぽい屋敷の中で、異形のものとすったもんだするというのは『ジュラシック・ワールド』と同じ枠だなとは思いました。



2015年公開『ジュラシック・ワールド』の続編。
監督は『インポッシブル』、『怪物はささやく』のJ・A・バヨナ。抜擢は意外だったんですが、監督の色が濃く出ていて、個人的にはとても好きでした。

以下、ネタバレです。








最序盤、人がいなくなったイスラ・ヌブラル島から帰る際に、恐竜に追われ、逃げられた!と思ったら海から現れたモサ・サウルスにパクッとやられるシーンがあった。前作で印象的なシーンだったのでパロディーなのではないかと思う。
この後も、ピンチのシーンで、ピンチなのに深刻にならずに顔がにやにやしてしまうというシーンが続く。

島に行くまでの、事態の説明部分は話が多くて少し退屈でもあったけれど、オーウェンとブルーとの邂逅のあたりから俄然盛り上がる。良いシーンなのかと思われたところ、オーウェンは仲間だと思っていた奴に麻酔銃で撃たれてしまうという乱暴すぎる仕打ちに遭う。しかも、動けない状態なのに、火山が噴火してるから、溶岩がすぐそこまで流れてくるという絶体絶命のピンチ。でもなぜかにこにこしてしまう。ここで死なないのはわかっているから、どうやってピンチを脱するのだろう?というワクワク感かもしれない。

その一方で、クレアと同僚のコンピューターオタクのようなフランクリンという若者は部屋に閉じ込められてしまう。こちらにも溶岩は来るし、おまけに逃げ場のない中で恐竜も現れる。
フランクリンはピンチなのに軽口を叩いているし、必要以上に怯えてきゃーきゃー言っているのがいい。

そして、前作にも出てきた球体の乗り物ジャイロスフィアが出て来ますが、二人乗りだからそこにクレアとフランクリン、オーウェンがぎゅうぎゅうに乗るのかと思ったら、オーウェンは乗らずに走っていた。崖から落ちて、ジャイロスフィアのまま水の中に落ちても、オーウェンが泳いで助ける。無敵である。
ここの一連もピンチの連続だし、笑ってる場合ではないのだけれど、なぜかニコニコしてしまう。

イスラ・ヌブラル島は火山の噴火で、もう捨てるしかなくなる。取り残された草食獣が燃える様はかわいそうだった。人間の身勝手な遺伝子操作で復活させられた恐竜たちが結局滅びていくのがつらい。

しかし、この先がもっとつらい。舞台は本土へ移るんですが、保護という名目で集められた恐竜たちは結局は金儲けのために集められたものだったという事実が発覚する。ロックウッドの屋敷でオークションが開かれるんですが、そのオークションマスター役がトビー・ジョーンズ。こんな役ばっかりですが、今回も合う。

ロックウッド邸の主人、ベンジャミン・ロックウッドは雇っていたミルズに金や悪事がばれるのの口封じのために殺される。
ベンジャミンの孫娘のメイシーはミルズの悪事を調査していたが、結局、ベンジャミンが殺され、お手伝いさんも追い出され、一人きりになってしまう。
ここで、お手伝いさんが「メイシーの母親もお世話したのに」と言っていて、長い間屋敷にいたんだなと思ったけれど、ベンジャミンが持っていた写真には、現在のメイシーと若いお手伝いさんが写っていて少し妙。しかも、ベンジャミンはこの写真を隠そうとしていた。そして、少し後に、メイシーは孫娘ではなく亡くなった娘のクローンということが発覚する。

まさか、『ジュラシック・ワールド』のシリーズでそんな設定が出てくるとは思わずにびっくりした。作品の印象がここからガラリと変化する。
狭い屋敷の中での恐竜との攻防はホラーのようだし、怪しい屋敷とクローンの少女、金持ち相手の違法なオークションなどというものが出てきたら、そりゃ、オークションマスター役はトビー・ジョーンズしかないよと納得してしまった。
この屋敷が舞台になってからは、ゴシックホラーのようになるのだ。ゴシックホラーとトビー・ジョーンズの相性の良さがよくわかる。

今回、掛け合わせで誕生したインドラプトルという最強の恐竜が出てくる。最初は全貌が見えず、それほど大きくはなさそう?とか、爪が長く、凶暴さだけが目立つとか、断片的な情報でしか察することができない。
出てきて、やはり檻からも出てしまうんですが、悪者(ここではオークションに参加していた金持ちや、オークションマスターなど)たちがバンバン殺される。他にも、“悪者は残酷に殺されてもいい”という法則が過剰に適用されていた。

またインドラプトルの入っていた檻は床がライトになっているのですが、そこに横たわるインドラプトルを上から撮って、シルエットのみでも怖いというのを見せたり、屋敷の屋根の上に登って吠えるバックに月があったりと、ここも過剰に恰好良く撮られていた。
このシーンについて監督が「お姫様とモンスターがお城にいたら、モンスターが屋根に登って吠えた後ろに月を輝かせるしかない」というようなことを言っていて、ゴシックの何たるかがわかってるし、ちゃんと狙っての演出だったのがわかって嬉しかった。
そして、ここでわかったのは、今回のヒロインはクレアではないということです。クローンの少女であるメイシーだった。

だから、屋敷の地下にガスが充満して、恐竜たちはここで死ぬというのが本来だったらありがちなラストなのだと思う。逃がそうとしたクレアがオーウェンの言葉で思い止まる。本土で恐竜を逃したら大変なことになる。そんなことはクレアもわかっている。だから、言われた通り、ボタンを押さない。恐竜たちはここで滅びるしかない。一応の一件落着だと思う。面白みはないけれど。

しかし、この映画が普通ではないのは、ここで、メイシーが「クローンにも私と同じように命がある」と言って、恐竜を逃す。最高だし、さすがヒロインだった。

ジェフ・ゴールドブラム演じるイアン・マルコム博士の「ジュラシック・ワールドへようこそ」の演説にも痺れた。テーマパークではない、私たちの生きているこの場所がジュラシック・ワールドになってしまった。
「もしかしたら恐竜の方が人間より長生きするかもしれない」とも語っていたが、たぶん敵わないだろうし、そうなりそう。
人間が勝手に作って、エンターテイメントとして消費されていたクローンによる反撃である。しかも、闇オークションや違法売買などで人間の汚い部分をここまでたくさん観せてきたから、もう人間なんて滅びてしまえばいいという気持ちにもなってしまった。

日常風景に恐竜が溶け込んでいる。ここを境に世界ががらっとかわる。もうほとんど神話である。

邦題のサブタイトルは“炎の王国”で、最初に出てきた火山の島のことなのだろうけれど、序盤で終わりだし、原題の“Fallen Kingdom”のほうが良さそう。堕ちた王国とかそんな感じで。
でも夏休み映画だし、明るい雰囲気のタイトルのほうがよかったということなのかもしれない。実際にとても混雑していた。また、もしかしたら、ネタバレを避けたのかもしれない。
ただ、この映画は、“炎の王国”から連想されるような陽のノリではない。完全に陰のノリである。
だから、私は好きだったけれど、もしかしたら賛否が分かれるのかもしれない。

オーウェンとクレアは、今回は結果的に脇役のようにもなってしまっていたけれど、一応恋人なのかな。そうなのかどうかわからない程度の関係がとても良かった。一箇所、クレアがオーウェンの胸元に手を差し入れた状態で寝てしまっていて、オーウェンが先に目覚めてそれに気づき、愛おしそうにクレアの額に口付けてから寝たふりをするという本当にささやかなラブシーンがあって、可愛かった。
でも、そこはオーウェンを演じているのがクリス・プラットなので、どこかセクシーになってしまっているのも良かった。恐竜に対しての態度もなぜかセクシーでした…。




1973年の女子テニス世界チャンピオンのビリー・ジーン・キングと元男子チャンピオンのボビー・リッグスの戦いを描いた実話。
タイトルはカタカナだとセクシー部分が強調されてしまうけれど、SEXの複数形で、男女の戦いという意味。本当ならもう少し気の利いた邦題をつけてほしかった。
監督は『リトル・ミス・サンシャイン』のヴァレリー・ファリス&ジョナサン・デイトン夫妻。

ちなみに、私はビリー・ジーン・キングという人物を知らなかったんですが、マイケル・ジャクソンの『Billie Jean』とは関係がなかった(関係あるように思われるから別のタイトルにしたら?とは言われていたらしい)。

以下、ネタバレです。









まず全米テニス協会の上部が男性至上主義者なんですが、女子の賞金が1500ドルで、男子がなんとその8倍の金額に設定をされていて、女子チャンピオンのビリー・ジーンは怒り、女性テニスプレイヤーだけでトーナメントを始める。
ここでまず、王者が動くというのがいいなあと思った。やはり、弱い選手が怒っても、容易に人は集められないと思うからだ。

女子だけなこともあるのか、記者会見用にサロンで髪をセットしたり、デザイナーを呼んでユニフォームをデザインしたりときゃいきゃいしていて楽しそうだしみんな可愛い。
ビリー・ジーンのユニフォームも、襟にテニスプレイヤーのワンポイントが入っていて可愛かった。

ただ、本作はテニス映画というわけではないのと、ボビー・リッグスの口が達者なせいか、練習や試合よりは口喧嘩をしたり啖呵を切るシーンが多い。

最後の試合の前も、ボビー・リッグスが練習もせずにふざけていて、女性を馬鹿にしている様子は繰り返し流れるものの、ビリー・ジーンの様子はよくわからない。ただ、ボビー・リッグスの様子から、その反対でストイックに練習していたのだろうというのは想像はできる。
ビリー・ジーンは一人で非公開で練習をしていたらしいので、非公開ということは映像でそれをわざわざ出さなくてもいいだろうということだったのかもしれない。
また、最後の試合を引き立たせるためなのかなとも思ったけれど、その試合も、テニスシーンがそこまでちゃんと描かれているわけでもなかったから違いそう。

スポーツものというよりはウーマン・リブ映画なのだ。

最後の試合も、テニスシーンよりは、見ている外野の表情、特に男性至上主義者たちがどんどん悔しそうに顔を歪ませていく様子が胸がすくし、後ろでウェイトレスのような女性が得意げに笑っているのも気分がいい。
また外野だけではなく、ボビー・リッグス自身も真顔になって、髪も乱れて、この試合の前までは憎たらしかったのにただの中年にしか見えなくなっていく。スティーヴ・カレルの演技もうまい。
エンドロールにご本人が映りますが、外見も似ていた。腹が立つ部分ばかりでしたが、その真骨頂、ラケット持ったヌード写真も実際に撮っていたようなのでひっくり返った。この分だと、他のフライパンでのテニスやフリフリを着てのパフォーマンスっぽいのも本当にやってたのかもしれない。

ただ、私はこの話を知らなかったけれど、映画になるくらいだし、
は練習をほぼやらずに栄養剤をガブガブ飲むなど、もう負けるフラグがバンバン立っていたので、ビリー・ジーンが勝つのだろうとは思っていた(だからわざわざ試合シーンに力を入れなかったのかも)。実際、勝っていたし、嬉しかったけれど、この映画はこの先がすごかった。

“クソな世の中に立ち向かえ! ひっくり返せ! 革命だ!”というのは『アイ,トーニャ』ともテーマが似ていると思う。しかし、トーニャほどはふてぶてしくなかった。
ビリー・ジーンは試合で勝利した後、一人で控え室で泣いていた。
「彼女は重圧には強いから」と、他の女子プレイヤーがインタビューに答えていた。これは、全米テニス協会の上部の男性が「女子プレイヤーは重圧に弱く……」と言っていたことへの答えでもある。
周囲にもそう見られてたのだろうし、私もそう思っていた。
彼女にかかっていたのは重圧なんてもんじゃない。
試合はマーガレット・コートの敵討ちであり、全女性の地位向上がかかっていた。
プロレスのような記者会見とこれまたプロレスのような神輿に乗せられての入場と、お祭り騒ぎだったが、ここで負けたら男性至上主義者に負けたことになる。

しかし、もちろん、やっぱり女性は重圧に弱かったという話ではない。重圧云々は性別に関わる話ではない。男性だって、ここぞというときには重圧に耐えられなくなることもあるはずだ。重圧に強い/弱いは性別ではなく個人の性格だろう。

ただ、私はここでビリー・ジーンが泣いていたのは、勝ったことにほっとしてとか、重圧から解放されてというだけかと思っていたけれど、もう一つの思いがあったのだ。

ユニフォームのデザイナーのテッド役にアラン・カミングが配役されていて、ここまでそれほど活躍する役でもなかったのになぜだろうと思っていたのだ。
そうしたら、テッドは控え室から出て来たビリー・ジーンの肩を抱いて言う。
「いつか人を自由に愛せる時代が来る」
試合に勝った後も、ビリー・ジーンの複雑な視線の行方が気になっていたが、そういうことだったか。
いずれにしても、1973年のアラン・カミングにこのセリフを言わせるのずるすぎる。
現在はきっと、1973年よりは、だいぶ自由になっているのだろう。

エンドロールで、ビリー・ジーンが夫と離婚をしたことが文章で示されていた。
これはウーマン・リブ映画というだけではなく、LGBTQ映画だったのだ。

美容師のマリリンとはサロンで出会って、ビリー・ジーンはその時から違うものを感じていたようだった。恋に落ちる瞬間が描かれていた。そして、クラブで踊るマリリンを見ている様子と、一緒の部屋に帰ってきて、戸惑いながらキスをするシーン。夫がいるからと一度は断ったものの、やはり抑えきれずにセックスをするという一連がとても丁寧に描かれていた。

夫がいるし、夫のことも尊敬しているからストレートだと自分自身でも信じていた。でも、女性を好きになってしまって、それだけではなく、キスやセックスをしたくなる。自らのセクシャリティーが揺らいでいる様子が切なかった。
夫がいるから一夜の過ちとか、愛人とか、女性相手なら浮気のうちに入らないとかではないのだ。あれだけ丁寧に描かれていたのに、そんな結末になってしまったら嫌だなと思っていた。
ビリー・ジーンが自覚したのはいつかわからないけれど、マリリンのことをちゃんと愛していたというのが、最後にわかる。

しかも、それに気づいていたテッドが優しい言葉をかけてあげていて泣いてしまった。それで、アラン・カミング…ずるい…と思いながら。



マーク・ハミルが出ているということ以外、ストーリーもまったく知らずに観たのですが大傑作でした。

主演はサタデー・ナイト・ライブに出演しているカイル・ムーニー。脚本も共同執筆しているとのこと。監督は彼の親友でもあるというデイヴ・マッカリー。



以下、ネタバレです。








変なクマの着ぐるみがブリグズビー・ベアなのだろうとは思っていたけれど、いきなりそれが出ている番組からスタート。
画角が4:3に変わり、音声も映像も途中で乱れるため、昔の番組だということがわかる。確かにキャラも昔っぽい。
ブリグズビーは正義のクマのようだけれど、それだけではなく、教育番組でもあるようだ。しかし、子供向けにしては、かなり難しい数学の公式について解説していて妙ではあった。

それを観ていたのは巻き毛で大きいメガネの、見た目ナードな男性。大人です。子供番組を真剣に見ている大人。
部屋の中はブリグズビーグッズで溢れかえっていて、Tシャツも着ているし、番組のビデオもたくさんある。かなりのマニアのようだ。そして、昔の回を研究して、ブログをネットにアップしていて、フォーラムで同じくマニアと話し合っている。

家には両親と一緒に暮らしていて、番組のことも興奮気味に話していた。
ここまで観たら、引きこもりの子供番組マニアによるボンクラ映画なのかなと思っていた。

でも、何かおかしいのは、父親が見せる外の景色は動物や虫が偽物、外にはガスマスクをして出かけていく…ということで、引きこもりではなく、核戦争か何かがあった後の生き残り家族なのかなと思った。しかし、それも違っていた。

予想が次々と裏切られ、両親は逮捕されてしまう。どうやら、主人公のジェームスは赤ん坊の頃に彼らに誘拐されたらしいのだ…。と、ここまで15分くらいである。
いったいどんな映画なのか想像もつかなくなってしまう。

もしかしたら暗い話になってしまったら嫌だなと思っていたけれど、そうはならないのがよかった。
ジェームスの性格のせいかもしれないけれど、たぶん脚本が優しい。誘拐されて、偽両親と暮らしていたというのはテレビにも出ていたし知られていても、それで差別やいじめを受けることはない。

これも序盤で明らかになることだけれど、『ブリグズビー・ベア』という番組は存在せず、偽父親が作ったものだったのだ。全部で700何話と言っていたけれど、それを全部作ったと考えるだけでも愛を感じる。

内容が教育番組だったのにも納得した。ジェームスにとって、ブリグズビーは先生であり、唯一の友達だったのだ。そして、作ったのは父親(偽)だ。

新しいというか、本物の両親は、監禁されていたジェームスを想い、家族で一緒にやることリストを作るが、その全部が野外でのアクティビティである。
想ってくれているのはわかっても、野外でのアクティビティなどに興味はない。興味があるのはブリグズビー・ベアのことなのだ。急に生活が変わっても、心はブリグズビーに囚われたままなのだ。
両親やセラピストは、ブリグズビー=誘拐犯の偽の両親だと考え、ブリグズビーとジェームスを引き離そうとする。大人になりなさいと。

そこで気づいたが、これはそのまま、くだらない(と周りから見えるであろう)趣味に没頭したまま、大人になりきれない、所謂オタクの姿と重なる。
誘拐されてはいなくても、ジェームスの気持ちが痛いほどわかる。これは、私の映画だった。

偽の父親は逮捕されてしまったので、番組の続編は作られない。でも、ブリグズビーのことが大好きである。それでどうするか。続編の映画を自分で作ってしまおうという発想になる! 力強いし、ジェームスのことを応援したくなる。この映画はインディー映画愛にも溢れている。

ジェームスは、高校生の妹と一緒に、両親が留守の子の家で行われるパーティ(これ、アメリカ映画によく出てくるけど憧れている)に参加する。
ここで話しかけてきたのが、スタートレックのTシャツを着た男の子で、それだけで、きっとこの子はジェームスの味方になるんだろうなというのがわかった。
ジェームスを保護した刑事も、前は芝居をしていたということで、役者として出演する。ここで、ジェームスは純粋な疑問として、「なんで好きなことを(大人になったからといって)やめちゃうの?」と問う。大人になっても、別に仕事を持っても、好きなことはやめる必要はないと心から思っている。
ジェームスがブリグズビー・ベアにのめり込む姿勢は愛おしいし、楽しそうなので、周囲がどんどん巻き込まれていく。

ブリグズビー=偽父だとするならば、別の映画ならブリグズビーは呪いになるだろうし、悪の存在として描かれると思うのだ。
けれど、この映画では、ブリグズビーは友達のままだし、夢中になれる存在のままだ。決して悪ではない。
だから、この映画では、偽の父親も悪としては描かれていないのだと思う。

少し、『万引き家族』と通じる部分もあると思った。偽だからといって家族に愛がなかったわけではないし、そこでの生活もかけがえのないものだった。でも、偽のほうの生活はいずれは破綻するし、犯罪なのは間違いない。

それでも、この映画はシリアスな様子はあまり見せないので、偽の両親は必要以上には罰せられない。それに、偽父を演じるのがマーク・ハミルである意味もちゃんとあった。ところどころでスター・ウォーズネタも絡ませてあったし(でも、妹の友達の着ていたTシャツはスタートレックという皮肉…)、彼は声優としても活躍しているだけあって、七色の声が堪能できる。

また、ジェームスの脚本では、宇宙刑務所から両親を解放するらしく、現実世界では許されないことだけれど、映画の中だけでも…といった願いが感じられた。ここで、三宅隆太さんに脚本療法も思い出した。脚本を書くことで、心が動きだす。
刑務所の面接に脚本を持っていって、偽の父親に読んでもらっていたけれど、続編を作ってくれたことも嬉しいだろうし、そんな内容だったらさらに嬉しいと思う。

映画づくりの中で、ジェームスの真剣さと彼の幸せそうな様子に心をうたれた家族も次第に彼に協力する。だって、本物の両親だって、結局はジェームスの幸せを願っていたのだ。彼の幸せな姿が見られるならそれが一番嬉しい。無理やり矯正させられるようなつらさはこの映画にはない。精神病院に少し入れられていたけれど、そこまで深刻にはなっていない。脚本だけでなく、映画の撮り方が優しいのだと思う。
ジェームスが偽両親から“救出”されて、本物の両親に引き渡された序盤は抱き合う姿もぎこちなく、妹も呼ばれて渋々加わるといった感じだったけれど、映画づくりに協力することになった時には、四人は進んで抱き合っていて、本当に家族になったのを感じた。

実際に出来上がった映画を観るシーンでは、映画館のスクリーンに映画が流れていて、客席の役者としても出ていた刑事がセリフを一緒に口に出す様子などが撮られていたが、映画のラストは、そのままスクリーンに、ジェームスの撮った映画が映っていた。映画内映画ではなく、私たちも映画館でジェームスの撮った『ブリグズビー・ベア』を一緒に観ている演出が憎い。
また、初恋の人である、偽の父親が作っていたブリグズビー・ベアオリジナルキャストの女性も、乗り気がしないと言っていたのに、しっかり出演していた。

ラストは、敵であるサン・スナッチャーにブリグズビーが決死の覚悟で飲み込まれて、やっつける。サン・スナッチャーは、映画内では触れられないけれど、おそらく偽の父親が演じているんですよね。それと共に、ブリグズビーも消える。
上映は大成功、劇場にはブリグズビーの着ぐるみのまぼろしが現れて、ジェームスに別れを告げる。
映画を作ったことで、ジェームスはちゃんと大人になっている。過去を乗り越えている。

この映画の公式ツイッターが“#好きすぎて君になりたい”というハッシュタグを使っていて、確かに新しい『ブリグズビー・ベア』を演じたのはジェームス自身だし、サン・スナッチャーが偽父だとするならば、もしかしたら、通過儀礼としての父殺しが描かれているのかなとも思った。
けれど、脚本などが優しいことを考えると、もっと優しい別れなのかもしれないと思う。本物の父親でもないんだし、殺して乗り越えていくような存在ではない。

映画づくり愛と、周囲の優しい人々、なにより好きなことをすきなだけやる姿勢が否定されないというのに感動した。
監督デイヴ・マッカリーと脚本&主演のカイル・ムーニーが友達ということは、まさにジェームスのようでもあるのだろう。それも嬉しい。

それに、自由な創作によって得られるものの大切さが描かれているのは、『LEGOムービー』を思い出したけれど、製作にロード&ミラーが名を連ねていてなるほど!と思いました。

あと、何より、ブリグズビー・ベアのレトロでありながらかわいいというよりは気持ち悪いキャラデザが最高なんです。テレタビーズ系。キャラグッズが欲しいけれど売り切れていた。Tシャツも懸賞のみです。売って欲しい!




スター・ウォーズの正史以外のスピンオフシリーズの『ローグ・ワン』に続く第二弾。
ハン・ソロの過去の話。

以下、ネタバレです。









過去のハン・ソロといってもいつ頃のハン・ソロなのかよくわかってなかったんですが、『新たなる希望』(スター・ウォーズ4)の10年前くらいらしい。
チューイとの出会い、ランドとの出会い、ミレニアム・ファルコンの入手などが描かれるのはなんとなく知っていたので、序盤にモンスターがいると言われた地下に落とされるシーンでは、そのモンスターがチューバッカなんでしょ?とわくわくしてたら泥々のチューバッカが出てきて盛り上がった。泥々のチューバッカとはハン・ソロがウーキー語を操ることにより、わりとすぐに仲良くなっていた。
途中、ゴーグルを着けたチューイが出てきて、このミニフィグが売店にあってずるいと思った。あんなの欲しくなってしまう。

その他にも、ほのかに話に出てきた時点で来るぞ来るぞとドキドキして待ち、実際に出てきてすごく盛り上がるという展開の連続だったので、ファンにはたまらない内容だった。
他にも、ファン向けの要素としてイースターエッグがたくさん隠されていたらしいけど、ほとんど気づきませんでした。お楽しみがたくさん隠されているのが嬉しい。
また、ミレニアム・ファルコンの操縦士席にハン・ソロが座り、副操縦士席にチューイが座る見慣れた図が初めて出た時に、スター・ウォーズのテーマが少しだけ流れるのも感動した。
『クリード』でも、ロッキーのテーマはここぞというときにバーン!と出てきたのが効果的だったのを思い出した。

逃げて、最初の任務を失敗するまでが1幕だったかなと思う。もともと、暗くて何をしているのかが観にくいという話があったけれど、最初の電車アクションは別に悪くはないと思うけれど、暗いというよりは色が少なく感じて地味に見えてしまった。
ただ、最初のほうで細い路地を宇宙船を縦にして運転して乗り切るシーンは、ミレニアム・ファルコンの操縦を思わせるもので、そこで、ハン・ソロはすでにこの操縦してるのか!と感動したし、これも隠し要素だと思う。中盤では、ちゃんとミレニアム・ファルコンを縦にするシーンもあります。

続いて連れて行かれたドライデン・ヴォス(ポール・ベタニー)の宇宙船は縦型で、ビルがそのまま動いているようなおもしろさがあった。
スター・ウォーズシリーズには、エイリアンの集まる場末のバーでバンドが演奏しているシーンがよく出てきますが、今回は高級クラブ。ディーヴァのような人間型の女性と、顔だけがホルマリン漬けになっているようなエイリアンのめちゃくちゃ歌が上手い二人のデュエット。なぜか、ドクター・フーを思い出した。
パンフレットには彼らの設定も書いてあって、エイリアンのほうは“クローンウォーズ以前にヒットチャートを席巻し、映画にも出たことがある”とのこと。パンフレットには他のエイリアンの設定も書いてあっておもしろい。

1幕で仲間を失ったベケットとハン・ソロは、ドレスデン・ヴォスからの依頼を受けて、惑星ケッセルでコアクシウムの奪還作戦に挑む。
ここからの2幕が、まさにアドベンチャー映画という感じでわくわくした。
まずランドを紹介されて、ハン・ソロとランドはギャンブル勝負を繰り広げる。ミレニアム・ファルコンも登場する。問題の、ケッセル・ランを12パーセクのシーンも出てきます!
L3という女性ドロイドも出てくるが、そういえば主要ドロイドで、女性がいままで出てこなかったのが少し意外な気がする。
彼女は正しさのかたまりで奴隷解放を扇動したり、ドロイドと人間の平等を訴える。まるでジャンヌ・ダルクのようだった。「好かれて困る」と言っていたけれど、結局ランドが好きなのも可愛い。
コアクシウムを盗んだあと、人間の奴隷、ウーキー族の奴隷をドロイドが解放するという、種族民族問わない姿勢に愛を感じた。
結局、L3はここで壊れてしまうけれど、システムがミレニアム・ファルコンに組み込まれるというのはなるほど!と思った。そうすれば永遠に生き続けるし、別の作品でも、ミレニアム・ファルコンのシステムについて言及されているシーンもあるらしい。

また、ミレニアム・ファルコンの中のホログラムチェスみたいなやつは、この頃からあったのにも感動した。ベケットとチューイが対戦してるけれど、チューイは自分が弱くてイライラしていた。
ここで机の上のチェスを退かすようにチューイが机の上を乱暴にさらうんですが、この時に壊れて映らなくなってしまったキャラは、4で登場させようとしてお蔵入りになったキャラだというのも…。もう…知らないよ、そんな話…といった感じで、そのマニア向けの心遣いも嬉しい。

コアクシウムを無事に奪還してめでたしめでたしと思ったら、ハンソロたちは盗賊団に囲まれてしまう。最初からミレニアム・ファルコンに追跡装置をつけていたし、不穏な感じはしていた。このあたりからが3幕です。
ピンチ!と思ったけど、そうではない。
冒険映画のようになっていたし、盗むのが成功してやったー!と思っていたけれど、悪人(ドレスデン)からの依頼だったのを忘れていた。
盗賊団は帝国に苦しめられてきた反乱同盟軍で、ハン・ソロはここで初めて同盟に会う。
はっとさせられた。これは、単体の話ではなく、他のスター・ウォーズに繋がるし、ハン・ソロの人生は繋がっている。私は彼のこの先の人生、なんなら最期まで知っているのだ。

ハン・ソロは同盟側につくべく、ドライデンを騙そうとするけれど、ここでベケットの裏切りにあう。でも、これはさして意外でもない、知ってたという案件だった。
最初からいかにもあやしかったし、一緒に行動をしていても、心を開いている感じはなかったから。

実は私はチューイとランド以外は疑っていたので、キーラのこともずっと裏切ると思っていた。
ハン・ソロを一人逃したときに、この子は本当にハン・ソロと冒険がしたかったんだな…というのがわかって泣いてしまった。たぶん最初で最後だけれど、一緒に冒険できてよかった。
彼女は何があったのかは明らかにはされないけど、とんでもない契約をさせられたようだ。
最終盤にはダースモールと話をしていてすごく驚いた。と、同時に、これは『ファントム・メナス』(スターウォーズ1)の前の話だったのか!とこの時に思ったのだけれど、そうすると、ハン・ソロとレイアの年齢差はどうなってしまうんだ…と考えていたら、この映画は『新たなる希望』の10年前だとあとでわかった。
つまり、ダースモールは生きていたらしい。この辺はクローンウォーズ参照とのことだけれど、クローンウォーズがシーズン6まであるらしく、なかなか観るのが困難だと思っている。

ドライデンが所属している組織の名前がクリムゾーン・ドーンだったが、ドライデンも怒りを覚えると目が充血し、武器は三日月型で赤い光を放っていた。赤色がキーになっている。ここで、ダースモールとの関係に気づけたかもしれない。
私はプリクエル(スター・ウォーズ123)はなくてよかったと思っているくらいで、特に見直すこともなかったんですが、今回、本作を機に、もう一度ちゃんと向き合ってみようかなと思った。
私は本作の様々な部分でわくわくしたし、おもしろかったし、好きな作品にもなったけれど、一番心を動かされたのは、プリクエルともう一度ちゃんと向き合ってみようかなと思わされた部分のような気がする。

ハン・ソロは同盟には入らないけど、資源は無事に同盟側にわたる。
ハン・ソロはランドの元へいき、今度はギャンブルで勝って、ミレニアムファルコンをゲット(これも、言われていたエピソードが映像で見られた!とわくわくしたところ)。

前半には多少不安になる部分もあったけれど、抑えるべきところは抑えられてるし、この若いハン・ソロをシリーズで観たい気もしてしまう。
常にお喋りで乗り越えようとしているあたりに、今のハン・ソロの片鱗が見られる。調子のいい適当なことを言って、口八丁手八丁で乗り切ろうとする。多少いらっとする面も含めて、やはりハン・ソロ自体が好きだし、ちゃんとハン・ソロが描かれてた。

主演のアルデン・エーレンライク(今はオールデン・エアレンライク表記なのかもしれない)は、『ヘイル、シーザー!』のときに、陽のデイン・デハーンとか、デイン・デハーンにゴリラを混ぜた感じとか呼んでたけれど(悪口ではなく好きです…)、今回も同じく、健康的になったデイン・デハーンという感じがした。あの銃の構え方はかなり物真似を研究したな?と思った。
やはりいい俳優さんだと思うので、ハン・ソロはもちろん、他の作品も観てみたい。

ランド役のドナルド・グローヴァーもうまい。『オデッセイ』や『スパイダーマン:ホームカミング』など、いろいろ出ているけれど、演技もうまいのに本業はミュージシャンというのが驚く。強烈な批判満載の『This Is America』のPVも話題になった。多才である。

ヒロイン、キーラ役のエミリア・クラークは、どうしても私の中で、『ゲーム・オブ・スローンズ』のデナーリスの印象になってしまっているので、上に立ったり、命令したりという演技が板についているように見えてしまった。でも、黒髪なので、言われなければ気づかなかったかも。

ドライデンを演じたポール・ベタニーは悪役らしい悪役でかっこよかったし、スター・ウォーズシリーズに出たくてロン・ハワードに「冬の長い夜に、なぜ自分がスターウォーズシリーズに出ていないのかと考えたことがありますか? 僕はあります」とメールを送ったらしい。妙に詩的なのは友達だからふざけているようです。その甲斐あって見事出演が決まったとあって生き生きしていた。胸元が広く開いていてセクシー。自ら出向くことなく、配下にすべてやらせていそう。でも、最後はアクションもやっていたのもよかった。
冷酷でありながらセクシーになっているのは声のせいかもしれない。

ウディ・ハレルソンは出ていることも知らなかったんですが、かなり主要キャラだった。『True Detective』、『スリー・ビルボード』と良い役が続いている印象。今回も良かったです。

ポール・ベタニーとウディ・ハレルソン、『ヘイル、シーザー!』で気になったアルデン・エーレンライクと『ゲーム・オブ・スローンズ』のデナーリス(エミリア・クラーク)とチューバッカが並んでいるという図が、個人的にはとても豪華に思えました。