『ブリグズビー・ベア』



マーク・ハミルが出ているということ以外、ストーリーもまったく知らずに観たのですが大傑作でした。

主演はサタデー・ナイト・ライブに出演しているカイル・ムーニー。脚本も共同執筆しているとのこと。監督は彼の親友でもあるというデイヴ・マッカリー。



以下、ネタバレです。








変なクマの着ぐるみがブリグズビー・ベアなのだろうとは思っていたけれど、いきなりそれが出ている番組からスタート。
画角が4:3に変わり、音声も映像も途中で乱れるため、昔の番組だということがわかる。確かにキャラも昔っぽい。
ブリグズビーは正義のクマのようだけれど、それだけではなく、教育番組でもあるようだ。しかし、子供向けにしては、かなり難しい数学の公式について解説していて妙ではあった。

それを観ていたのは巻き毛で大きいメガネの、見た目ナードな男性。大人です。子供番組を真剣に見ている大人。
部屋の中はブリグズビーグッズで溢れかえっていて、Tシャツも着ているし、番組のビデオもたくさんある。かなりのマニアのようだ。そして、昔の回を研究して、ブログをネットにアップしていて、フォーラムで同じくマニアと話し合っている。

家には両親と一緒に暮らしていて、番組のことも興奮気味に話していた。
ここまで観たら、引きこもりの子供番組マニアによるボンクラ映画なのかなと思っていた。

でも、何かおかしいのは、父親が見せる外の景色は動物や虫が偽物、外にはガスマスクをして出かけていく…ということで、引きこもりではなく、核戦争か何かがあった後の生き残り家族なのかなと思った。しかし、それも違っていた。

予想が次々と裏切られ、両親は逮捕されてしまう。どうやら、主人公のジェームスは赤ん坊の頃に彼らに誘拐されたらしいのだ…。と、ここまで15分くらいである。
いったいどんな映画なのか想像もつかなくなってしまう。

もしかしたら暗い話になってしまったら嫌だなと思っていたけれど、そうはならないのがよかった。
ジェームスの性格のせいかもしれないけれど、たぶん脚本が優しい。誘拐されて、偽両親と暮らしていたというのはテレビにも出ていたし知られていても、それで差別やいじめを受けることはない。

これも序盤で明らかになることだけれど、『ブリグズビー・ベア』という番組は存在せず、偽父親が作ったものだったのだ。全部で700何話と言っていたけれど、それを全部作ったと考えるだけでも愛を感じる。

内容が教育番組だったのにも納得した。ジェームスにとって、ブリグズビーは先生であり、唯一の友達だったのだ。そして、作ったのは父親(偽)だ。

新しいというか、本物の両親は、監禁されていたジェームスを想い、家族で一緒にやることリストを作るが、その全部が野外でのアクティビティである。
想ってくれているのはわかっても、野外でのアクティビティなどに興味はない。興味があるのはブリグズビー・ベアのことなのだ。急に生活が変わっても、心はブリグズビーに囚われたままなのだ。
両親やセラピストは、ブリグズビー=誘拐犯の偽の両親だと考え、ブリグズビーとジェームスを引き離そうとする。大人になりなさいと。

そこで気づいたが、これはそのまま、くだらない(と周りから見えるであろう)趣味に没頭したまま、大人になりきれない、所謂オタクの姿と重なる。
誘拐されてはいなくても、ジェームスの気持ちが痛いほどわかる。これは、私の映画だった。

偽の父親は逮捕されてしまったので、番組の続編は作られない。でも、ブリグズビーのことが大好きである。それでどうするか。続編の映画を自分で作ってしまおうという発想になる! 力強いし、ジェームスのことを応援したくなる。この映画はインディー映画愛にも溢れている。

ジェームスは、高校生の妹と一緒に、両親が留守の子の家で行われるパーティ(これ、アメリカ映画によく出てくるけど憧れている)に参加する。
ここで話しかけてきたのが、スタートレックのTシャツを着た男の子で、それだけで、きっとこの子はジェームスの味方になるんだろうなというのがわかった。
ジェームスを保護した刑事も、前は芝居をしていたということで、役者として出演する。ここで、ジェームスは純粋な疑問として、「なんで好きなことを(大人になったからといって)やめちゃうの?」と問う。大人になっても、別に仕事を持っても、好きなことはやめる必要はないと心から思っている。
ジェームスがブリグズビー・ベアにのめり込む姿勢は愛おしいし、楽しそうなので、周囲がどんどん巻き込まれていく。

ブリグズビー=偽父だとするならば、別の映画ならブリグズビーは呪いになるだろうし、悪の存在として描かれると思うのだ。
けれど、この映画では、ブリグズビーは友達のままだし、夢中になれる存在のままだ。決して悪ではない。
だから、この映画では、偽の父親も悪としては描かれていないのだと思う。

少し、『万引き家族』と通じる部分もあると思った。偽だからといって家族に愛がなかったわけではないし、そこでの生活もかけがえのないものだった。でも、偽のほうの生活はいずれは破綻するし、犯罪なのは間違いない。

それでも、この映画はシリアスな様子はあまり見せないので、偽の両親は必要以上には罰せられない。それに、偽父を演じるのがマーク・ハミルである意味もちゃんとあった。ところどころでスター・ウォーズネタも絡ませてあったし(でも、妹の友達の着ていたTシャツはスタートレックという皮肉…)、彼は声優としても活躍しているだけあって、七色の声が堪能できる。

また、ジェームスの脚本では、宇宙刑務所から両親を解放するらしく、現実世界では許されないことだけれど、映画の中だけでも…といった願いが感じられた。ここで、三宅隆太さんに脚本療法も思い出した。脚本を書くことで、心が動きだす。
刑務所の面接に脚本を持っていって、偽の父親に読んでもらっていたけれど、続編を作ってくれたことも嬉しいだろうし、そんな内容だったらさらに嬉しいと思う。

映画づくりの中で、ジェームスの真剣さと彼の幸せそうな様子に心をうたれた家族も次第に彼に協力する。だって、本物の両親だって、結局はジェームスの幸せを願っていたのだ。彼の幸せな姿が見られるならそれが一番嬉しい。無理やり矯正させられるようなつらさはこの映画にはない。精神病院に少し入れられていたけれど、そこまで深刻にはなっていない。脚本だけでなく、映画の撮り方が優しいのだと思う。
ジェームスが偽両親から“救出”されて、本物の両親に引き渡された序盤は抱き合う姿もぎこちなく、妹も呼ばれて渋々加わるといった感じだったけれど、映画づくりに協力することになった時には、四人は進んで抱き合っていて、本当に家族になったのを感じた。

実際に出来上がった映画を観るシーンでは、映画館のスクリーンに映画が流れていて、客席の役者としても出ていた刑事がセリフを一緒に口に出す様子などが撮られていたが、映画のラストは、そのままスクリーンに、ジェームスの撮った映画が映っていた。映画内映画ではなく、私たちも映画館でジェームスの撮った『ブリグズビー・ベア』を一緒に観ている演出が憎い。
また、初恋の人である、偽の父親が作っていたブリグズビー・ベアオリジナルキャストの女性も、乗り気がしないと言っていたのに、しっかり出演していた。

ラストは、敵であるサン・スナッチャーにブリグズビーが決死の覚悟で飲み込まれて、やっつける。サン・スナッチャーは、映画内では触れられないけれど、おそらく偽の父親が演じているんですよね。それと共に、ブリグズビーも消える。
上映は大成功、劇場にはブリグズビーの着ぐるみのまぼろしが現れて、ジェームスに別れを告げる。
映画を作ったことで、ジェームスはちゃんと大人になっている。過去を乗り越えている。

この映画の公式ツイッターが“#好きすぎて君になりたい”というハッシュタグを使っていて、確かに新しい『ブリグズビー・ベア』を演じたのはジェームス自身だし、サン・スナッチャーが偽父だとするならば、もしかしたら、通過儀礼としての父殺しが描かれているのかなとも思った。
けれど、脚本などが優しいことを考えると、もっと優しい別れなのかもしれないと思う。本物の父親でもないんだし、殺して乗り越えていくような存在ではない。

映画づくり愛と、周囲の優しい人々、なにより好きなことをすきなだけやる姿勢が否定されないというのに感動した。
監督デイヴ・マッカリーと脚本&主演のカイル・ムーニーが友達ということは、まさにジェームスのようでもあるのだろう。それも嬉しい。

それに、自由な創作によって得られるものの大切さが描かれているのは、『LEGOムービー』を思い出したけれど、製作にロード&ミラーが名を連ねていてなるほど!と思いました。

あと、何より、ブリグズビー・ベアのレトロでありながらかわいいというよりは気持ち悪いキャラデザが最高なんです。テレタビーズ系。キャラグッズが欲しいけれど売り切れていた。Tシャツも懸賞のみです。売って欲しい!


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