『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』



1973年の女子テニス世界チャンピオンのビリー・ジーン・キングと元男子チャンピオンのボビー・リッグスの戦いを描いた実話。
タイトルはカタカナだとセクシー部分が強調されてしまうけれど、SEXの複数形で、男女の戦いという意味。本当ならもう少し気の利いた邦題をつけてほしかった。
監督は『リトル・ミス・サンシャイン』のヴァレリー・ファリス&ジョナサン・デイトン夫妻。

ちなみに、私はビリー・ジーン・キングという人物を知らなかったんですが、マイケル・ジャクソンの『Billie Jean』とは関係がなかった(関係あるように思われるから別のタイトルにしたら?とは言われていたらしい)。

以下、ネタバレです。









まず全米テニス協会の上部が男性至上主義者なんですが、女子の賞金が1500ドルで、男子がなんとその8倍の金額に設定をされていて、女子チャンピオンのビリー・ジーンは怒り、女性テニスプレイヤーだけでトーナメントを始める。
ここでまず、王者が動くというのがいいなあと思った。やはり、弱い選手が怒っても、容易に人は集められないと思うからだ。

女子だけなこともあるのか、記者会見用にサロンで髪をセットしたり、デザイナーを呼んでユニフォームをデザインしたりときゃいきゃいしていて楽しそうだしみんな可愛い。
ビリー・ジーンのユニフォームも、襟にテニスプレイヤーのワンポイントが入っていて可愛かった。

ただ、本作はテニス映画というわけではないのと、ボビー・リッグスの口が達者なせいか、練習や試合よりは口喧嘩をしたり啖呵を切るシーンが多い。

最後の試合の前も、ボビー・リッグスが練習もせずにふざけていて、女性を馬鹿にしている様子は繰り返し流れるものの、ビリー・ジーンの様子はよくわからない。ただ、ボビー・リッグスの様子から、その反対でストイックに練習していたのだろうというのは想像はできる。
ビリー・ジーンは一人で非公開で練習をしていたらしいので、非公開ということは映像でそれをわざわざ出さなくてもいいだろうということだったのかもしれない。
また、最後の試合を引き立たせるためなのかなとも思ったけれど、その試合も、テニスシーンがそこまでちゃんと描かれているわけでもなかったから違いそう。

スポーツものというよりはウーマン・リブ映画なのだ。

最後の試合も、テニスシーンよりは、見ている外野の表情、特に男性至上主義者たちがどんどん悔しそうに顔を歪ませていく様子が胸がすくし、後ろでウェイトレスのような女性が得意げに笑っているのも気分がいい。
また外野だけではなく、ボビー・リッグス自身も真顔になって、髪も乱れて、この試合の前までは憎たらしかったのにただの中年にしか見えなくなっていく。スティーヴ・カレルの演技もうまい。
エンドロールにご本人が映りますが、外見も似ていた。腹が立つ部分ばかりでしたが、その真骨頂、ラケット持ったヌード写真も実際に撮っていたようなのでひっくり返った。この分だと、他のフライパンでのテニスやフリフリを着てのパフォーマンスっぽいのも本当にやってたのかもしれない。

ただ、私はこの話を知らなかったけれど、映画になるくらいだし、
は練習をほぼやらずに栄養剤をガブガブ飲むなど、もう負けるフラグがバンバン立っていたので、ビリー・ジーンが勝つのだろうとは思っていた(だからわざわざ試合シーンに力を入れなかったのかも)。実際、勝っていたし、嬉しかったけれど、この映画はこの先がすごかった。

“クソな世の中に立ち向かえ! ひっくり返せ! 革命だ!”というのは『アイ,トーニャ』ともテーマが似ていると思う。しかし、トーニャほどはふてぶてしくなかった。
ビリー・ジーンは試合で勝利した後、一人で控え室で泣いていた。
「彼女は重圧には強いから」と、他の女子プレイヤーがインタビューに答えていた。これは、全米テニス協会の上部の男性が「女子プレイヤーは重圧に弱く……」と言っていたことへの答えでもある。
周囲にもそう見られてたのだろうし、私もそう思っていた。
彼女にかかっていたのは重圧なんてもんじゃない。
試合はマーガレット・コートの敵討ちであり、全女性の地位向上がかかっていた。
プロレスのような記者会見とこれまたプロレスのような神輿に乗せられての入場と、お祭り騒ぎだったが、ここで負けたら男性至上主義者に負けたことになる。

しかし、もちろん、やっぱり女性は重圧に弱かったという話ではない。重圧云々は性別に関わる話ではない。男性だって、ここぞというときには重圧に耐えられなくなることもあるはずだ。重圧に強い/弱いは性別ではなく個人の性格だろう。

ただ、私はここでビリー・ジーンが泣いていたのは、勝ったことにほっとしてとか、重圧から解放されてというだけかと思っていたけれど、もう一つの思いがあったのだ。

ユニフォームのデザイナーのテッド役にアラン・カミングが配役されていて、ここまでそれほど活躍する役でもなかったのになぜだろうと思っていたのだ。
そうしたら、テッドは控え室から出て来たビリー・ジーンの肩を抱いて言う。
「いつか人を自由に愛せる時代が来る」
試合に勝った後も、ビリー・ジーンの複雑な視線の行方が気になっていたが、そういうことだったか。
いずれにしても、1973年のアラン・カミングにこのセリフを言わせるのずるすぎる。
現在はきっと、1973年よりは、だいぶ自由になっているのだろう。

エンドロールで、ビリー・ジーンが夫と離婚をしたことが文章で示されていた。
これはウーマン・リブ映画というだけではなく、LGBTQ映画だったのだ。

美容師のマリリンとはサロンで出会って、ビリー・ジーンはその時から違うものを感じていたようだった。恋に落ちる瞬間が描かれていた。そして、クラブで踊るマリリンを見ている様子と、一緒の部屋に帰ってきて、戸惑いながらキスをするシーン。夫がいるからと一度は断ったものの、やはり抑えきれずにセックスをするという一連がとても丁寧に描かれていた。

夫がいるし、夫のことも尊敬しているからストレートだと自分自身でも信じていた。でも、女性を好きになってしまって、それだけではなく、キスやセックスをしたくなる。自らのセクシャリティーが揺らいでいる様子が切なかった。
夫がいるから一夜の過ちとか、愛人とか、女性相手なら浮気のうちに入らないとかではないのだ。あれだけ丁寧に描かれていたのに、そんな結末になってしまったら嫌だなと思っていた。
ビリー・ジーンが自覚したのはいつかわからないけれど、マリリンのことをちゃんと愛していたというのが、最後にわかる。

しかも、それに気づいていたテッドが優しい言葉をかけてあげていて泣いてしまった。それで、アラン・カミング…ずるい…と思いながら。

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