『さよなら、ぼくのモンスター』



新宿シネマカリテにて、毎年行われているちょっと変わった作品を集めた映画祭カリコレにて上映。

ステファン・ダン監督初長編作品。カナダ出身なのと、同性愛もの、家族もの、音楽がふんだんに取り入れられたスタイリッシュな映像…ということこで、第二のグザヴィエ・ドランというふれこみのよう。
確かに雰囲気は似てるといえば似てるけれど、もっと初々しく爽やかで、丁寧に作ってある。ドランが適当というわけではなく、だいぶこなれてきたので肩の力も抜けている印象。

また、宣伝スチルはだいぶセクシーな場面が使われているがそのような映画だとは思わないほうがいいかもしれない。本当はもっと青春映画寄りです。

以下、ネタバレです。その他のドランとの違いなどについても。










幼い頃に目撃してしまった殺人事件。幼い頃の両親の喧嘩、そして離婚。主人公のオスカーは二つのトラウマを抱えて育ってきた。
高校卒業後の進路の話が出てくるので18歳くらいなのだろう。映画などの特殊メイクアーティストになりたいと思っている。
特殊メイクのモデルになってくれるガールフレンドがいて、彼女はオスカーのことが好きみたいだったけれど、オスカーはバイト先のワイルダーのことを好きになってしまったようで…。

いつからゲイなのかは映画内でも聞かれていたけれどわからないようだ。幼い頃のトラウマが何かしら影響したのかもしれないがわからない。そもそも、ゲイなのかすらわからない。ただ、一緒に暮らす父親はホモフォビアのようだった。あと、男性全般についてというよりはワイルダーのことが好きだったようだ。

自分に向けられた言葉の幻聴を聞いてしまう、思い切りの良い無茶な決断をしそうになる、自分のことを好きと勘違いをしてしまう…。もうこれらは恋する若者になら誰でもあることで、それは性別は関係ない。

ワイルダーとのキスシーンがとてもロマンティックだった。
ゆっくりと重なろうとする唇の合間にごうごうと流れる水の映像が流れ、静かながらも気持ちが溢れてきているのがわかった。

その前にパーティーで行きずりの男とセックスをしてしまったときには、それとはまったく違うとてもおぞましい映像だった。
嘔吐したネジは幻覚だろう。幻覚じゃなかったら家には帰って来ず、病院行きである。イメージなのかもしれないし、ドラッグが見せたものかもしれない。お腹が奇妙に動いていたのも幻覚だろう。おそらく吐き気をおぼえ嘔吐したということだと思う。

それはそのあとのシーンでもっと象徴的に出てくる。
ラスト付近、奇妙に動くお腹から鉄の棒を取り出して、父親に殴りかかる。
それは、幼い頃に見てしまった殺された男性に刺さっていた鉄の棒だ。きっと、その時からずっと腹の中に抱えてきた。刺さって抜けない記憶。トラウマの正体でもあると思う。
ずしっと重い、鬱屈した想いを、同じくトラウマになってしまった父親にぶつけたのだ。
これできっと、ある程度両方解消されたのだと思う。

おもしろい映像表現だと思う。けれど、ただのイメージ映像というだけではない。もちろん本当にあったことではないのだが、あとでお腹を触っていたしオスカー自身にとっては事実とも思える出来事だったようだ。

では、タイトルの“モンスター”とは何なのだろうか。

原題が“CLOSET MONSTER”だが、父親をクローゼットへ蹴飛ばす描写があったので、父親に対する想いのことかもしれない。
それか、トラウマの象徴である腹の中の鉄の棒のことなのかもしれない。
または、それらすべてをひっくるめているのかも。この映画自体が主人公が恋を知ってやぶれ、受験に失敗し、幼い頃のトラウマを克服し、両親とも決別し、思春期を終えて大人になる過程を描いていると思うので、思春期そのものなのかもしれない。

終盤で家を出た母親がオスカーに「あなたは首にへその緒が三重に絡み付いていたのよ。だから、この先の人生も大変だと思うから強く生きなさい」と言う。
突き放すようでいて、きっと母親にはそう言うことしかできなかったのだろう。
家を出て、一応、血は繋がっていても新しい家族が彼女の人生だ。だから、そこまでオスカーに近づくこともできない。逆に残酷だ。
だけど、適度に距離を保ちつつ、近くには寄り添ってあげている。
それに、オスカーはもう18歳である。「この家に一緒に住まない?」というようにいつまでも母親としてサポートするよりは、「家を出たらどう?」というアドバイスをしていた。

この、親子だけれど離婚して別々に住んでいる関係のさばさばした感じはグザヴィエ・ドラン映画では描かれない。
ドランの場合、母と息子の関係にいたってはもうほとんど恋愛関係のようになっている。愛憎が入り混じったドロドロした関係である。ドラン映画なら、母親が新しい家族を捨てていたかもしれない。

父親がオスカーの可愛がっていたハムスターを殺してしまうが、ラスト付近でそのハムスターは10年間ずっと可愛がってきたハムスターではなく四代目であることが明かされる。
ハムスターはオスカーの心の友達というか、他の人には聞こえない形で会話をしていた。それはもちろん本当にハムスターが話しているわけではない。イマジナリーフレンドのようなものだろう。

「四代目だよ」というのもハムスター自らが言うので、オスカーも本当は気づいていたのではないだろうか。10年は生きないのはわかっていただろうし、最初に飼ってもらったのはメスだったからずっとメスだと信じていたらふいにオスだと指摘された時に疑ったのかもしれない。
イマジナリーフレンドとの別れも描かれていて、オスカーが確実に成長したのがわかる。

また、四代目だというのを最後に明かすのは父親擁護の意味も含まれているのではないかとも思う。
殺してしまうのはひどいことには変わりないけれど、少しはやわらぐ。

オスカーが幼い頃、ベッドに入って寝る前に、父親が風船を膨らませてそこにこれから見る夢の内容をふきこんでオスカーのおでこに当てて空気を抜くという行為をしていた。素敵な夢の見せ方である。
ここからも、根っからの悪人ではないので許してあげてほしい、という監督からのメッセージを感じる。この優しさもグザヴィエ・ドラン映画では考えられない。不器用な人は不器用なまま放置である。

だから、グザヴィエ・ドランの場合、ラストはぶつっと切れて、あとは自分で考えてねと言われたような気持ちになる。
後味が悪い。決して嫌な気持ちになるというわけではなく、その後味の悪さも心地よくはあるけれど。その辺がたぶん、グザヴィエ・ドランのうまいところだと思う。

グザヴィエ・ドランの場合はどちらかというと家族に焦点があてられていると思うが、この映画では家族のことや好きな人のことが描かれてはいても、大筋はオスカー個人の青春映画だと思う。青春映画というか青春の終わり映画だろうか。

結局、オスカーは家を出て、芸術家が暮らす島(ソルトスプリング島)で一人暮らしを始めた。様々な出来事が一応解決した。もちろんその先のことはわからないけれど、そこまで描いてくれることで、明るい未来が見える。イライラが最高潮に募って父親に鉄の棒で殴りかかろうとしたところで暗転して終わったらどうしようかと思った。

音楽が多用されていたり、イメージ映像なども使われているともっとアート寄りになってしまいがちだ。すると、様々な出来事が投げっぱなしで、そこで終わり?とぽかーんとしてしまう映画も多いと思うけれど、この映画はとてもきれいにまとまっている印象。途中までからは想像できない穏やかなラストだった。丁寧に作られているのが感じられた。


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