3までがこれ以上ないというくらい綺麗にまとまっていたために、続編が、しかも9年ぶりに公開されるというのは心配でもあった。あの続きが観たいかというと微妙なところでもあった。

監督はジョシュ・クーリー。ピクサーでストーリーボードアーティストや声優などをしていた方らしい。長編は本作が初。

以下、ネタバレです。








ウッディは新しい持ち主、ボニーからあまり好かれていない。ボニーは他のおもちゃに夢中だった。
それでもウッディはボニーに対して献身的で、ボニーが手作りしたおもちゃフォーキーとボニーが仲良くやれるように手助けをする。四苦八苦しながらも関係は良好になるけれど、ボニーはその影にいるウッディのことなど見向きもしない。あまりにもつらい。観ながら、それで、あなたはどうするの?と思っていた。
中盤、ウッディの「ボニーのためだ」というセリフがある。前半のモヤモヤしていたことに対する答えが、きちんとセリフで示される。ここまでも少しごたごたがあるが、フォーキーとボニーの仲をとり持つところからここまでとんでもよかったくらいだと思った。
さらに、ボニーのためにボイスボックスも失う。
ウッディは聖人なのだろうか。おもちゃだからそんなものなの? 正しいことしかしていない。ここまでまともなことしかしないキャラだったろうか。

声も失った。しかし、持ち主に愛されていない。きっとボニーはウッディがいなくても探すことはないだろう。現に旅行の際も、ウッディは終始姿を見せていないのに探されていなかった。それくらい、どうでもいいおもちゃになってしまっている。
外の世界へ飛び出していくのもわかるし、当然、そのような結果になるだろう。

しかし、ウッディはフォーキーのためには自己犠牲も厭わない。それはフォーキーはボニーに好かれているからで、ひいてはボニーの幸せにも繋がるからだ。
しかし、その行動は独りよがりでもある。「僕たちとはいかないのか」というバズの寂しそうな顔が忘れられない。

ここにきてウッディをバズたちと引き離すとか、「俺のブーツにゃガラガラヘビ〜」のセリフが聞けなくなるとは思わなかった。
♪俺がついてるぜ〜の歌も悲しい。ついていない。ウッディは飛び出して行ってしまった。

3の続きをやるなら、ナンバリングタイトルではなくスピンオフでやってほしかった。そして、もっと軽い内容にしてほしかった。声を失うとか、みんなと離れるとか、重大なつらい決断を見たくなかったのだ。
ボニーの元へ行ったその後、どうなるか考えてみるとこうなるのは容易に予想ができる。だから、作られるならこの内容にはなるのだろうけれど、それなら作らなくてよかった。

じゃあどうなれば納得なのかと考えてしまうと、私はウッディにボニーではなくアンディの元にいてほしかったのだ。ウッディもまだアンディを恋しがっていた。できることなら、アンディがおもちゃを買い戻すか何かしてほしかった。
でも、それは私がおもちゃを買う大人だから思うことで、トイ・ストーリー自体は子供の友達としてのおもちゃが描かれているのだから趣旨が違ってしまう。大人になったらおもちゃは卒業するものとして描かれている。別に物持ちを良くしようとか、大人がおもちゃで遊んでもいいんだなんてことは描かれていない。
だから、こんなことになるなら、アンディがおもちゃを卒業した時点で、その先は別に見たくなかったと思ってしまうのだ。

何かしら決着をつけるならこの形になってしまうのだろうし、子供の幸せと自分(おもちゃである前に自分自身)(おもちゃではない自分自身という感情が存在するの?)の幸せを天秤にかけて選んだ結果として、勇気の出る決断というのもわかる。でも別にここまでやってほしくなかったという気もしてしまうのだ。
そもそもウッディやおもちゃたちは人間とまったく同じ感情を持つ存在なのかどうかも私はここまでわかっていなかった。子供のためにいろいろするおもちゃの行動は服従だったのか。では、1から3まで観てきたものはなんだったのだろう。悲しすぎる。
それとも、アンディのことは好きだから友達で、ボニーのことはそんなでもないから服従と思ってしまったということだろうか。そうすると、おもちゃの側にも人間の選択肢があるということなのだろうか。おもちゃに嫌われるという可能性もあることを考えると本当に怖い。おもちゃは人間の子供がすべて好きというわけではなく、この子は好き、この子は嫌いみたいな感情も持つということだろうか。おもちゃに嫌われたくなかったらおもちゃを大切にしましょうということだろうか。
トイ・ストーリーの基本である、おもちゃが感情を持つということについてのルールがよくわからなくなってしまった。ここまで掘り下げる必要があったのかどうか疑問。



ポール・ダノ初監督作。パートナーであるゾーイ・カザン共同脚本。4年かかっているらしい。

壊れそうな家族の話。父親役にジェイク・ジレンホール、母親役にキャリー・マリガン。14歳の息子役にエド・オクセンボールド。
ポール・ダノは出ません。

以下、ネタバレです。








いつものことながら何の話かわからないまま観ていたので、両親は仲がいいし、慎ましくも幸せに暮らしていて、一体何の問題があるのだろう?と思いながら観ていた。
しかし、景気が悪いようで、母ジャネットのパートは決まらない。また、モンタナ州は山火事がしょっちゅう起こっているらしく、学校の授業で避難の注意を受けているのも嫌な予感がした。

そして、父ジェリーはゴルフ場の仕事を解雇される。翌日に解雇は取り消されるが、プライドが高いのか戻ろうともしないし、スーパーのレジの仕事などを馬鹿にし始める。最初はいい父親だと思っていたけれど、いつもの、目が死んでいるジェイク・ジレンホールになっていた。
そして、仕事を探さずについには山火事を消す仕事に従事したいと言い出す。危険なのはもちろん、雪が降るまで帰れないらしい。出稼ぎのようだし、さぞかし高給なのだろうと思ったが、時給1ドルだった。1960年代の1ドルが今のどれくらいなのかはわからないが低賃金であることは間違いない。おそらく、人助けのような気持ちもあったのだろうが、14歳の子供を残して、しかも金を稼げるわけでもない仕事をしに行くのは自分勝手すぎる。
序盤で本当に腹が立ってしまった。

残されたジャネットも女手一つで14歳を育てることができずに途方にくれる。ジョーも写真スタジオでバイトを始めるが、仕事が見つからない。
ジャネットについて、公式サイトにも雑誌の記事でも浮気と書いてあったけれど、売春的なものなのかと思って観ていた。
華美な服装と派手な化粧で金持ちのカーディーラーの気を引いていた。キャリー・マリガンはメイクをしないと顔が幼いが、濃いメイクをすると綺麗というよりはアンバランスに見えた。痛々しく感じたのは役柄のせいもあるし、メイクも綺麗に見せる類のものではなかったのだろう。
カーディーラーはでっぷり太っていたし、頭も禿げ上がり、太い葉巻をくわえていた。葉巻をくわえる口元を唾液が映るくらいアップで撮るのは嫌悪感を煽る方法としてよかったと思う。これは14歳のジョー目線なのかもしれない。

華美な化粧とドレスを着た母が、カーディーラーの家で彼の気を引いているのはジョーには耐えられなかっただろう。ここまでずっとジョー目線なこともあり、私もはやく帰らせてくれ…という気持ちになってしまった。
また踊りたいと言われても、そんな気にはなれないし、踊っている母を見るのも嫌だ。
ここで、何してるんだろうかとジャネットは一回正気に戻ったように見えた。けれど、上着を返しに行った時に、カーディーラーとキスしてした。ここのひっそり覗く描写がうまかった。
なかなか帰ってこない母を心配してジョーは窓からそっと覗く。カメラはジョーをとらえていて、ジョーははっとした顔をしてその場を立ち去る。
何を見たのだろう、あまり良くないものなのはわかるが興味もある…と思っていたら、ジョーが去った後も、カメラだけが窓辺に残って、横に少し振ると部屋の中の様子が見えるのだ。キスしているのを見てしまったジョーと同じ目線で部屋の中を覗き、頭を抱えた。
他にもこのように、ジョーがひっそりと事の成り行きを調べる描写が出てきて、それは少しホラー映画を思わせる撮り方でおもしろかった。独特。

家にもカーディーラーを呼んで寝ているようだったけれど、それを見たジョーに、ジャネットは「他に何かいい方法があったら教えてほしい。今よりはマシだろうから」と言っていた。
その惨めさが出ている表情から、金持ちと寝て、お金をもらっているのかと思っていた。気に入られるために華美な服装をしているのかと。
それとも、金があって安定した仕事をしているところに惹かれて好きになっていたのだろうか。わからない。

初雪がなかなか降らないというニュースが流れているシーンもあったが、ジョーがベンチに座ってバスを待っている時に、雪がはらはらと降り始める。このシーンが本当に美しかった。
セリフでの説明はないけれど、映像だけで説明されることが多いが、このシーンは特に好きだった。
雪が降る=父が帰ってくるというのが観てる人にはわかる。バスが来て、ジョーの姿はなくなるんだけど、乗ってはいないよね?と思うと少し間が空いてカメラが横に動いて、家に向かって走るジョーの後ろ姿を映す。一連の流れがうまい。
ジョーはもちろん父の帰りを待っていたとは思うけど、父が帰ってくることで最悪の状態がなんとか回復しないだろうか?という希望を託してもいたと思う。一刻もはやく事態を脱したいという気持ちが、あの必死の走りに表れてるようで泣けた。

けれど、帰ってきたところで、亀裂が決定的なものになるだけだった。
父親ジェリーはジェリーで、また引越しを提案してくる。当然ついていけないし、わかってないジェリーに対して、ジャネットはついに別居を提案する。
その後に外でジェリーとジョーが食事をしているんですが、もうジェイクジレンホールの顔が怖い。威圧的に、ジャネットとカーディーラーの関係を聞き出そうとして、嘘をつけなくなったジョーが告白するとキレて家に火をつけに行くという…。本当に自分勝手だし手に負えない。

カメラが家の様子を外から映しているシーン、リビングのテーブルには夫婦がいて、ジョーは一人で部屋に戻り、電気を消して明日の学校に備えて先に寝ていた。
両親などあてになるかという拒絶が感じられた。いままで、親なのだからと期待していたのが悪い、もう一人でやっていくのだという意志が感じられたが14歳で大人にならざるをえなかったジョーのことを考えると胸が痛いし、大人たちしっかりしろよ…と思ってしまった。ジャネットはジェリーに何か飲み物を出しているようだったし、軽く仲直りはしたのかもしれない。それでも。
『荒野にて』の一歩手前に見えた。

その後は、ジェリーは嫌がっていた販売員の仕事を始め(働いている店もガラス張りで、ここも外からカメラが長回しのように映していた)、ジョーと一緒に元の家に住んでいた。ジャネットは家を出て、ポートランドに住んでいるようだった。
離婚はしていないけれど、帰ってきても週末が終わればポートランドへ帰るとのことで、復縁はなさそうだった。

ジョーはバイトする写真スタジオで、三人が並んだ写真を撮る。
このジョーがいない版がこの映画のポスターで使われている瞬間なんですね。最近観た『イングランド・イズ・マイン』もそうでしたが、ポスターにある意味重要なシーンが使われていて、映画本編を観て、あーこれかー!と発見するのに弱い。
写真スタジオの方がジョーに、「人は写真に善き瞬間をおさめたがる」と言っていた。両側で泣きそうな顔をしている両親と真ん中でいやにしっかりした顔のジョーという並びがとても良かった。
余韻がたまらない。

ポール・ダノ監督、とてもこれが初めてだとは思えない。演出がうまかった。これからも様々な作品を撮ってもらいたい。もっと観たいです。


アカデミー賞、監督賞、撮影賞、外国語映画賞の三部門ノミネート。
監督は『イーダ』のパヴェウ・パヴリコフスキ。
以下、ネタバレです。







モノクロ、スタンダードサイズ。1949年から15年間の話ということでスクリーンサイズからも雰囲気が出ていた。

説明が最低限なので、セリフなどからいろいろ考えながら観ていたのですが、映画館ロビーのレビューを読んでやっと理解できました。集中して観ていても、少しわかりにくかった。

タイトルが『COLD  WAR』なので、もっと冷戦について前面に出ているのかと思っていた。東西ドイツの壁を隔てていて、会いたくても会えない二人のメロドラマを想像していた。
そうではなくて、思ったよりも会えているのと、会えない間にも互いに恋人を作っていたりして、あまりあなただけという感じではなかった。
映画のラストに“両親へ”といった言葉が出るが、監督のご両親がまさにこの感じのくっついて離れてだったらしい。モデルにもしているとのこと。

ヴィクトルがピアノを弾いているせいだけではないと思うけれど、『ラ・ラ・ランド』を思い出した。西側に憧れるヴィクトルはチャラい音楽に身を落としたセブに見えた。バーでピアノを弾いている様子も似ていた。でも、セブは嫌々やっていたけれど、ヴィクトルはやはりそちらの音楽が好きでもあると思う。

何度か出てきた『2つの心』という曲は元々は民謡のようで、使われている言語もですが、歌の合間に入るオヨヨイと聴こえるスキャットのようなフレーズが物悲しさを感じさせてたまらなかった。しかし、フランス語に訳されたジャズバージョンではこのフレーズがない。ズーラは訳詞が気に食わないと言っていたけれど、それ以上に私は曲の良さはこのスキャットだと思ったので、それがないとなると一気に良さがなくなってしまうのではないかと思った。ズーラもレコードを投げ捨てていたし、気に食わなかったのだと思う。訳したのがヴィクトルの元恋人だからかもしれないが。

二人とも音楽をやっていて、音楽の趣味が合わなかったらうまくいかないのではないか。そこからすれ違いが始まりそうな気もするが…。
それとも、ヴィクトルは亡命先からポーランドに送還されて、強制労働をしたことで手を負傷し、音楽ができなくなったからすれ違う要因がなくなったのだろうか。

15年間という長期間の物語でその中で、愛し合って、別れて、また愛し合って…というのも好みだし、救って救われる話も好きです。
何より、ズーラ役のヨアンナクーリグがとても魅力的だった。少しレアセドゥを思わせる風貌と、歌とダンスが素敵。
最初の歌のテストのシーンから、民族衣装を着ての舞踊団のステージのシーンもどれも惹きつけられるし、酔ったバーでBill HaleyのRock Around The Clockが流れた時に、店の男性を次々変えながら踊るのが奔放で素敵だった。
でもやはり多少西の音楽に対する恨みを感じた。

ラスト付近でも商業的なメキシコの音楽を無理やりやらされていて、吐きそうだと言っていた。小さい子供もいて、明らかにヴィクトルが拘束中に生まれている。拘束期間を短くするためにズーラは何かしらをしたようで、あの副大臣と親しいと言っていた男性と結婚して子供が生まれたのかもしれないし、商業的な音楽だって、無理にやらされていたのだと思う。ズーラは才能はあるし、きっとなんでもソツなくこなすはずだ。それに、ヴィクトルのことを思えばこそだと思う。

映像は綺麗だったし、ズーラは魅力的だった。民族的な音楽や衣装などが見られたのもおもしろい。最後の結婚式のやり方も変わっていた。
けれど、肝心なところですが、ズーラがなぜヴィクトルに惹かれたのかがいまいちわからなかった…。


トム・ホランドがスパイダーマンを演じるようになってからの二作目。だけれど、『アベンジャーズ』シリーズにも出てきていたから、二作目というのが意外に感じてしまった。監督は前作『ホームカミング』に引き続き、ジョン・ワッツ。
また、『アベンジャーズ/エンドゲーム』の直接的な続きになっていた。そのため、前のスパイダーマン(アンドリュー・ガーフィールド)と、前の前のスパイダーマン(トビー・マグワイア)のように、スパイダーマンだけで観ることができないのはどうかと思う。

以下、ネタバレです。










あの壮大な『エンドゲーム』のラストに続くということで、どうなるのかと思っていた。結果として、その部分がとてもうまかった。
ピーターが通っている学校の生徒が作った、今回の出来事の最中に命を落としたヒーローたちの追悼ビデオが流される。
生徒が作ったものなのでチープで、作った生徒たちもあまり事の重要性がわかっていなさそうだった。
でも、この少し笑える感じをオープニングに持ってくることによって、作品のトーンを決めていたり、湿っぽくなりすぎないような作りになっていて、よく考えられていると思った。私たちの作品に臨むスタンスも決められる。
町のそこかしこにはアイアンマンを偲んだものが残されていたようだったが、最初にアイアンマンのグラフィカルアートを見せられていたら、終始めそめそしながら観ていたと思う。
また、エンドゲームには市民が出てこないという話だったが、本作で市民の様子が描かれていた。なんとなく、私たちはヒーローたちを近くで見すぎていたのを感じた。一般の市民たちの感覚がわかりやすい。適度にヒーローとの間に距離がある。

また、指パッチンで消えていた人たちは5年間、年をとらないというルール説明があった。初耳でした。でもさして物語上は重要ではなかった。

『エンドゲーム』の直接の続編であり、青春映画であり、ヒーロー映画でもある。それぞれの要素の詰め込み方が絶妙なバランスだったのもうまかった。
でも、なぜか物足りなさが残ってしまった。よく考えてみたらその正体は、圧倒的な喪失感だった。
今までがトニー・スタークやアイアンマンでもってたというわけではなくて、彼の存在が消えたことで寂しさを感じたのだ。ここにいないのだとやっと実感した。

本作は新生アベンジャーズを作るのに模索している様子も描かれていた。
ピーターはトニーのことを尊敬してるから受け継ぎたいとは思っている。
でも、まだ16歳なのだ。彼が担うには重すぎる。アベンジャーズに声をかけられたのも最近の話ではないか。
それに、普通の生活を捨てるには早すぎる。大人は彼をせっついていたし、ピーターも葛藤していたが、そんなにはやく大人にならなくてもいいと思う。

ピーターは両親を亡くしている。このシリーズのメイおばさんは世話を焼いてくれていても、どうも親代わりとは思えない。
ニック・フューリーもだめだった。今回中身が違ったけれど、本物はどうだろう?
今回はハッピーが一番親っぽく見えた。
特に、〝レッドツェッペリン〟をバックにトニーの遺した機械をすらすら操るピーターを見て面影を感じてホロリとしているシーンは、そのハッピーを見てこちらもホロリとした。ツェッペリンとピーターは言っていたが、実際にはAC/DC。トニーだしそりゃそう。

ミステリオは、ジェイク・ジレンホールだし、最初から悪役だと思ってたのでそれほど意外さはない。
でも、バーのような場所での種明かしシーンはさすがのジェイク・ジレンホールで恐れ入りました。あんな変な格好で普通のバーにいて大丈夫なの?と思っていたらそういうことだったか。

でも、あんな風にホログラムを駆使されたら、なんでもありになっちゃうのでは…。と思ったけれど、現代の映画のVFX批判の意味もあるのではという意見も見てなるほどと思った。
原作を知らないからわからないけれど、前回のスパイダーマンもやはりトニーを逆恨みする形で敵になっていて同じタイプだった。トニーの敵の多さがうかがえるが同じパターンなのはどうかと思った。

ただ、ドローンを使った空中戦は素晴らしかった。飛ぶもの(スパイダーマン)対飛ぶもの(ドローン)なので、3Dと相性が良さそうだった。けど2Dで観てしまった。奥行きも感じられそうだった。
『スパイダーバース』のラスト付近の戦いを思い出したけど、スパイダーマンはどれもこんなものなのかもしれない。

ゼンデイヤはどのシーンでも可愛く美しく格好良かった。最後、スパイダーマンに掴まって町を移動するシーンは役ではなく本当にゼンデイヤ自身が怖がったり面白がったりしているようだった。撮影方法が気になる。

ちなみに本作はニック・フューリーと一緒にマリア・ヒルがたくさん出てきて、彼女が好きなので嬉しかった。けど、最後で思わず、あー!と言いそうになってしまった。変身されていただけだった。
ニック・フューリーの目にあからさまな猫の爪あとが付いていたけれど、『キャプテン・マーベル』後からかな。
南国っぽいところで休んでいたけれど、ついタヒチを思い出してしまいつらくなった。


一応これで過去シリーズが終わりとのことだけど、それにしては…と思ってしまった。
監督はサイモン・キンバーグ。



以下、ネタバレです。






観たいものが観られなかったことで文句を言うのもおかしいかもしれないけれど、本当ならば、原点回帰というか、人間を信じたいチャールズと過激派ミュータントのエリックの対立と、でも根本では考えが一緒だし、ミュータントとして思うことも同じだから、どこか寄り添う部分もあり…というのが観たかった。最後なのだし。

本作はジーンについての話です。チャールズとエリックは主役ではない。そもそもの部分として、これが納得できなかった。シリーズ最後でなければまだいいけれど、最後なら二人を中心にしてほしかった。
序盤はチャールズ側での話なので、エリックがなかなか出てこない。二人が映画内で揃うことがなかったらどうしようと考えてしまった。しばらく経ってから出てくる。

ジーンは謎の力を手に入れて、その力が制御できなくて、何者かにそそのかされるけれど、その何者も謎の力もなんだかわからない。なんだかわからないものと、エリックとチャールズたちは戦い続ける。これ、最後まで何と戦ってるのかわからなかったんですが、原作を知っていたらわかるのだろうか。
なんだかわからない敵は感情がないことが長所と言っていたけれど、その役にジェシカ・チャステインをあてるのはうまいと思ったし、感情が無さそうな役としてソフィー・ターナーをあてるのも良かった。二人が並んでいると同じ系統なのがよくわかる。けれどやはり、ソフィー・ターナーは、今はゲームオブスローンズのサンサの印象が強すぎた。

ジーンは力を制御できないけれど、チャールズの元も離れるし、エリックにも受け入れられない。力が制御できない中でレイヴンを殺してしまうけれど、レイヴンはチャールズにとってもエリックにとっても、またハンクにとっても大切な人なんですよね。これは対比として描いてるのかはわからなかったけれど、大切にされるレイヴンと大切にされない(どころか、目の敵にされる)ジーンの違いが浮き彫りになってしまっていて可哀想だったし、ちょっとジーンの味方になってしまった。彼女のことも受け入れてあげてよ、と思った。

謎のなんだかわからない敵も、ジーンを受け入れるほどではなかったし、とにかく目的がわからない。エネルギー云々と言っていたけれど、それで何をしたいのかもよくわからなかった。私の星が滅ぼされたとか言ってたから宇宙人で同じように地球を滅ぼすつもりだったのだろうか。

あと、個人的にはバトルにクイックシルバーが連れて行ってもらえなくて、例の周りはスローなのに彼だけがひょいひょい動くスマートなお馴染みのあれがなかったのが残念。二回やったししつこいと言われたのかもしれないけど、最後だしやってほしかった。
エリックが父親で…みたいな話もどうなったのか不明。あれは前作で終わったことなのだろうか。とにかく、エリックとチャールズ自身の話がほとんど出てこなかった。

それなのに、最後のチェスはどういうことなのだろう。二人がチェスしている空を火の鳥が飛んできれいに終わらせたつもりなのかもしれないけど、全然うまくない。ROMA気取りかと思ってしまった。
そもそも、チェスのくだりが取ってつけというか、こちらへの目配せとしか感じられなかった。こんなの付けるならもっと本編をどうにかしてほしかった。本編で二人の話が出てこないのに、打ち上げだけで仲良くされても。

本作はもうどうにもならないけど、あと一作つくって二人が中心の話が見たかった。

良かった点は、マグニートーが地下鉄を地下から引っ張り出すところと、狭い列車の中でのバトルと、列車の後ろの車両をメキメキと折り曲げるところ。


ラース・フォン・トリアー監督作。
アメリカでは修正版での公開だったけれど、日本は無修正版での公開とのこと。どのあたりが修正されているのかは不明。
体が変な形に曲げられた人のポスターも話題になっていました。あのポスターは『サスペリア』を思い出した。
連続殺人犯の告白。主人公ジャック役はマット・ディロン。ところどころ、ジム・キャリーにも見えた。

以下、ネタバレです。











連続殺人犯で誰かと話しているモノローグがついて話が過去に遡っているようだったので、刑事と犯人が話している、取り調べの場面なのかと思った。犯人が罪を告白して、それが映像になって出てきて、ラストは二人が対峙するのかなと思っていた。
しかし話はそう単純ではなかった。相手の正体は一向にわからない。もう一人の自分なのかとも考えてしまったが違った。

私たちは、ジャックが殺人犯なのを知って観ている。
だから、最初、ジャックが車を運転していて、車が壊れた女性が絡んでくるシーンはひやひやした。でも、女性の言ってることが、ジャックを馬鹿にしたり、イライラさせられることばかりだったので、これは殺されても仕方がないのではないか?と思ってしまった。

ジャックは連続殺人犯なのでこの先もどんどん人を殺しますが、最初の殺人(映画の中での最初というだけで、ジャックにとっての最初かどうかかはわからない)が共感まではいかずとも仕方ないなと思わされるもので、殺人犯が主人公でも最初から拒絶感はわかなかった。

最初はシンプルに顔を殴打するものだったけれど、絞殺の上、胸を刺すとか、銃を使って倒れたところに二、三発撃ち込んだり、逃げる親子を子供たちだけ先にスナイパーよろしく狩りのように撃って子供(死体)と母親(生きてる)と疑似家族的にピクニックをしたりと殺し方が多彩。
殺した死体は持ち帰って冷凍保存するのでばらばらにはしない。怨恨などもない。むしろ、死体にポーズをとらせたりと遊び始めていて、愛すら感じた。

ジャックは強迫性障害で潔癖症のため、人の家で殺すと綺麗にしたつもりでも、あの場所に血が残っているのではないかと気になってしまって、何度も現場に戻っていた。鍵の締め忘れとか火の付けっ放しとかを心配して何度も家に戻っちゃうあれ。この場面、笑いが起こっていて笑っていいものか悩んだけれど、結局一緒になって笑ってしまった。滑稽さもある。

別に殺人を悪いことだと思っていないから堂々としているせいか、犯行が杜撰で大胆でもばれない。警察が馬鹿なだけかもしれない。運がいいのかもしれない。

殺した死体の使い方もおしゃれだったけれど、映画の作り自体もおしゃれだった。いくつかの繰り返されるパターンがジャックを知るヒントになるのだろうか。

グレン・グールドのピアノ演奏。彼も強迫性障害だったらしい。
デヴィッド・ボウイの『Fame』が繰り返し流れるのは何かしら評価されたかったのだろうか。家も建てていたし、死体の使い方もだけれど、芸術家気質でもある。建築も、実用的とは思えなかったのでアートである。
また、紙に書かれた単語を次々と投げ捨てるのは、ボブ・ディランのPVからなのだろうか。(映画だそうです)
マット・ディロンが恰好良く、どんなシーンもはまる。
街灯の下を歩く人のアニメ映像も何度も出てくる。歩いていて、街灯の真下に立った時が影が一番短く濃いのが殺人の衝動に似ているとのこと。

虎と羊の映像もよく出てきた。
虎と羊はわからないが、ところどころでポツポツ出てきたものが後半になると宗教色が一気に濃くなる。ジャックは本当に地獄へ行く。
地獄への使者が、最初から声が聞こえているジャックの対話の人物ヴァージだった。ヴァージというのはダンテの『神曲』の中でダンテを導く存在のウェルギリウスのことらしい。
終盤でジャックは友人(なのかも不明)のS.P.を殺して彼の着ていた赤いフード付きの上着を奪う。ここから後半はジャックはずっとその格好だけれど、まさにダンテのそれだった。
また、ドラクロワの『ダンテの小舟』を模したシーンもある(一発撮りとのこと)。別名、『地獄のダンテとウェルギリウス』ということで映画はそのまま。『神曲』の中の一場面らしい。

大鎌を振るって草を刈る男たちも出てくる。ジャックが幼い頃に見た風景であり、そこは地獄ではなく楽園と言われていたが、大鎌=死神のイメージがあるけれどどうなのだろう。
でも、ジャックはそこへ戻りたいと思っているのか、郷愁にかられているようだった。

ジャックがああなった原因については描かれない。よく両親が原因だったりというのも出てくるが、幼い頃からアヒルの足を切っていたし、感情は普通ではないようだった。
しかし、ヴァージに何度か問われている通り、愛を求めてはいたのかなとは思う。それで冷凍庫にあれだけ人間(死んでますが)を集めていたのではないか。コレクションに囲まれている時の安心感はよくわかる。その対象がジャックは自分が殺した死体だったというだけだ。

地獄で、上に行きたいと願うジャックは危険をおかすが、結局失敗をして戻れない部分へ落ちていってしまった。落ちた絵がポジからネガに変わるのもおそらく理由があるのだと思うけどわからなかった。
すぐにエンドロールへ入るのですが、流れるのが『Hit The Road Jack』。出て行ってジャック、二度と戻ってこないで、もう二度と、二度と、二度と という歌詞が軽快なリズムにのって歌われる。ギャグなのだろうと思う。

この曲も軽快だが、本作はトリアー監督にしては、軽快でそのせいで薄口に感じた。強烈なシーンが少ない。
死体で家を作るシーンもあったけれど、どうもドラマ版『ハンニバル』を思い出してしまった。あちらのほうが強烈さでいったら上。威張れることではないとは思うけれど。





邦題は『アナ雪』からかと思ったけれど、原題がAnna and the Apocalypseなのでそのまんまだった。
青春ミュージカル+ゾンビ映画という食い合わせが悪いとしか思えない、でもおもしろそうな組み合わせで気になっていたけれど、バランスがとても良かった。また季節柄だとは思うが、宣伝ではまったく触れられてないけど、わかりやすくクリスマスムービーでもある。
本当はクリスマス時期に観たかったけど、青春ものもミュージカルも当たらないと言われている中、有名俳優が出てるでもない本作は日本で上映してくれただけでもありがたいので、シーズンの希望までは呑まれなくても仕方ない。

もともとは『Zombie Musical』というタイトルの短編でこれを作ったのが、ライアン・ゴズリングにシリアルを食べさせる動画で話題になった彼。若くして亡くなってしまい、それを本作の監督、ジョン・マクフェールが引き継いだ。

以下、ネタバレです。







まずミュージカル映画の重要なところですが、歌がどれもいい。
若者たちは鬱屈していて、ここは私の居場所じゃないと思っている。退屈な町から逃げ出したい。
『アメリカン・アニマルズ』『イングランドイズマイン』でも見られた、自分にふさわしい居場所を求める若者というのは、青春特有のものでもある。
主人公だけではなく、他のキャラや、モブのようなキャラもみんなが〝ハリウッド映画のようなエンディングは訪れない〟と歌っていた。

その中でアナの友人のリサは、現状に満足しているようだった。能天気で明るい。彼氏のクリスはゾンビ映画オタクと言われていたけれど、ゾンビ以外にも映画を観ていそう。ジャンル映画好きなのか。
二人は学内でもちゅっちゅしてるし、バカップルに見えたので、ホラー映画の法則に従うと早々にいなくなるパターンだなと思った。

アナの友人のジョンはアナのことが好き。鈍臭いながらも、きっと最後にはアナの気も変わるのかなと思ったけれど、本当に友達だった。でも、男女間であっても、別に恋人に昇格する必要はない、それでも大切な人であることには変わりないというのは今風だと思う。

アナとジョン、リサとクリス、そしてステフが主要人物になっている。

また、いじめっ子グループのニックもアナのことを狙ってるだけなのかなと思ったけれど、元彼だった。中盤にちゃんと明かされるまでわからなかったのは最初に話を聞いてなかったせいかもしれない。

キャラが様々出てくると青春学園ものっぽいけれど、ゾンビがちらちら映ったり、謎のウイルスが云々と不穏なニュースが流れていたり、びっくり描写があったりとゾンビ要素を混ぜ込もうとしてるのは感じた。
この時点では、ゾンビ要素はいらないんでは…と思ってしまった。

一晩寝たら、町にゾンビが大発生していた。でも、アナは気付かず、イヤホンをして歌って踊る。しかも、それがハッピーな曲で、映画を観ている側に聞こえるのもその音楽だから、ハッピーなBGMの後ろでゾンビが人を食って、パニックが起こっている描写が妙だった。ミュージカルにゾンビ要素を入れたらこのちぐはぐさが生まれるよな…と思う描写だった。でも、もちろんこの描写がずっと続くわけではない。

ここからゾンビが本登場。
ここまで20分くらいらしいんですが、上映時間98分のうちここまで本格的なゾンビなしとは。これ、ゾンビ出なくても良作では……と思ってたけど、出てきたら出てきたでこれがいい。

首吹っ飛ばすとかトイレの蓋とか残虐描写もあるけど腸は出てこないし、そこまでではないかと思う。今作のゾンビルールは、走らないタイプ、噛まれるとゾンビになる、頭を潰せばいい、音に反応といったところ。

ゾンビは敵ですが、序盤は笑えるシーンも多かった。ギャグは長編になる際に足された要素らしい。

クリスとジョンは、ロバートダウニーJr.はどうなったと思う?とかライアン・ゴズリングはゾンビになってもかっこいいに違いないとか、ボンクラトークを繰り広げてるんですが、その裏で女子二人が勇敢にゾンビを倒していた。男だから強い、女は守られているみたいなのはない。元彼はマチズモキャラかもしれないけれど。
アナの制服もパンツスタイルだった。ステフは男装しているだけかと思ったけれど、恋人が女性のようだった。このようなキャラの混ぜ方もとてもいい。よくある性別のくくりがないのが気分いい。

アナの元彼たちいじめっ子軍団は、スーパーで強奪をしていてろくでもないの典型みたいな感じ。彼らの歌がここで初めて出てくるけど、ちょっとR&B風でセクシーな曲だった。情け容赦なくゾンビを殺していくけど血も涙もないし、絶対にすぐに食い殺されるだろうなと思っていたけど、元彼だけは生き残るし、彼の行動に一貫性が見えてきて、頼り甲斐があって恰好良く見えてきてしまって困った。
また、彼はゾンビになった父親を嫌々殺している。父に正しいことをしろと言われてバットを渡されたらしい。父殺しというつらいイベントを乗り越えて大人になっているのだ。
この人に関しても違う面を見せられると好きになってしまう。

最初気にくわないと思っていても、違った一面を見せられるだけで多角的に知ることができるしキャラも立体的に見える。
カップルに関しても再会以降は、おばあちゃんのことを気遣ってる優しい子なのがわかるし、ステフを救おうと必死になっている様子が可愛かった。

『セックスエデュケーション』もそうでしたが、キャラの違った一面を見せられてキャラ全員を好きになってしまうのは青春群像劇ではよくあること。全員幸せになって!と思うけれど、そこはゾンビものなのだ。

噛まれたジョンや父はアナをかばって犠牲になる。カップルもステフをかばう。記憶が薄れゆく中で、すれ違いざまに手を合わせるシーンに泣かされた。こんな形でゾンビセンチメンタルを持ってくるとは。

監督のインタビューでは、「後半が生きるように最初のパートをちゃんと見せたんだ!」と言っていて、そんな残酷な…と思ったけれど、それこそがゾンビものの醍醐味ですよね。ゾンビ映画にあるのは怖さとかはらはらしたスリルだけではない。

どのキャラも好きになったけど校長だけは別。後半に行くにしたがって、悪い部分が増えていって、彼がゾンビの元凶なのでは?と思ってしまった。そんなことはなかったけど、ほとんど悪役です。
彼の曲がパンクっぽいのも合っていておもしろかった。妙に高い声も憎らしい。
また、悪いことをしたキャラは残酷に死んでもいいの法則が発動してたんですが、それ伏線だったのか!という伏線の張り方だった。1回目の時に不自然な気はしていたので、うまい!とは思わないけど、なるほどと思った。

アナは特効薬ができると言っていたので、最後に降ってきているのが雪に見せかけた薬で、みんな人間に戻ってめでたしめでたしと終わるのかと思った。
そんな甘いラストではない。普通の雪だった。

途中、アナが、「暴動や革命は別の国のことだと思ってた」と言っていたけれど、確かに、ゾンビはありえなくても、戦争や内戦によって、昨日までの世界が変わってしまうことはある。
今まで考えていた明るい未来が突然消えてしまうこともありうるのだ。
アナのこのセリフがあることにより、ゾンビ映画なのに想像できる未来になっていたのがおもしろかった。
今のところはまだ生き残ってるからこそ、希望は失わないのだという力強さを感じた。ゾンビ映画とはいえ、メッセージは青春映画が発するものと同じだった。