2006年公開。『スカイフォール』の予習として観ました。

ダニエル・クレイグがジェームズ・ボンドを演じた一作目。 007はほとんど観たことがないのですが、なんとなくイメージしていたボンドとは違い、007というよりはダニクレ主演の普通のアクション映画という感じでした。

 私がジェームズ・ボンドに対して持っていたのは、常に余裕をもって仕事をこなし、スマートに敵を欺き、Mには結局忠実で、ボンドガールとの駆け引きなども粋…というイメージだった。しかし、この映画のボンドはすぐにカッとなっている。
カジノでの勝負の休憩中にナイフを持って出て行ったときには、CIAの人にも止められていたけど、私もおいおい落ち着けと思った。すすめられたお酒を簡単に飲んでしまうのにも違和感があった。結果、ボンドは盛られた毒を服用し、一度死んでしまっていた。そこを助けるのはボンドガールである。え? 逆じゃないの? ボンドガールを助けることはあっても助けられちゃうの?
 あとは、拷問シーンですよね。問題はその種類なんですが、全裸に剥かれて椅子に縛り付けられ、局部を打たれるっていう…。なんで、男の全裸が出てくるんでしょうか。これ、ダニエル・クレイグだから脱がされてるんじゃないの?

この、若く無鉄砲なボンドは007としてどうなのだろうと思いながら観ていたんですが、驚くのはこれが原作一作目にかなり忠実な作品だったということです。もともとのボンドはこんなだったんですね。拷問シーンもあるらしい。
 ただ、映画では構成や時間配分が少しおかしいような気がした。拷問以降のボンドガールとのいちゃいちゃが妙な長さ。舞台が変わっているから仕方ないのかもしれないけど、カジノシーンとその後のボンドが休養しているシーンは同じ映画と思えない。とってつけたように見えて、統一感がなく思えた。
 そのくせ、最後はボンドガールに裏切られ、しかもその謎につつまれた正体については、全部Mがセリフで説明しちゃう。ラスト付近に急に駆け足になって、そのまま終わる。 カジノシーンが盛り上がったのに、その後の展開も結構長い。どこまで原作どおりなのかはわかりませんが、カジノはクライマックスに持ってきてほしかった。


早稲田松竹にて、『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』との二本立て。今年の映画なので、ネタバレ表記をしておきます。





説明らしい説明がないまま話が進んでいくので、かなりアクの強い登場人物やその人同士の関係がなかなか見えづらい。The Cureのロバート・スミスのようなゴスメイクをしているショーン・ペンはあまりにも異様。少しずつ明らかにはなっていくんですが、それでも説明しすぎない作りなので、ぼんやりしたところが残る。
そして、途中から何故か、自分探しのロードムービーになって驚いた。この映画を一言で説明するなら、“ショーン・ペンがロバスミ風のメイクでナチの残党狩りをしながら成長するロードムービー”という風になるのかもしれない。なんだかいろんな要素がギチギチに詰め込んであるんですが、映像が綺麗なせいか、旅の途中で出会う人々がそれぞれ魅力的なせいか、観ていて不思議と心地の良い作品。

デヴィッド・バーンが本人役で出てくるんですが、そこで披露されるライブがかなり実験的でおもしろい。本当にあんなライブをやっているなら観てみたい。けど、ちゃんとステージの見える場所でないとつまらなそう。

旅を終えたシャイアン(ショーン・ペン)が苦手だった飛行機に乗るために空港にいるラストはそれだけで、ひとまわり成長したのがわかる。加えて、もらい煙草をするんですが、これは、序盤で煙草をすすめられた際の「僕は煙草はやらないんだ」「子供だから吸わないのよ」というのを受けて、大人になったことを示しているのだと思われますが、伏線回収としてはちょっとくどいかなと思ってしまった。

ラストがよくわからなかったので調べていたんですが、よくわからないということでいいみたい。
“探されているトニーというのがシャイアンなのではないか”という考察もありましたが、それにしては母親が若すぎる。シャイアンの母ならもっとおばあちゃんだろう。

私は、シャイアンはメイクをして過去のロックスターを気取っているが、それはすべて彼の妄想なのかと思った。小さな村っぽかったし、周囲の人も全部知った上で、話を合わせて優しく見守っているのかと。『ラースと、その彼女』みたいな感じですね。そして、シャイアンはその妄想から解き放たれて、普通の男性の姿に戻って、本当の妻の元に帰ってきたのかと思った。あの豪邸もそこにいた妻も全部ニセモノ。
でも、彼の楽曲が原因でファンを死なせてしまっているみたいだし、そのことで両親に本当に怒られていたし、村を出てもみんな彼のことをロックスターだって知っているみたいだったので、どうやら妄想ではなく、本当に過去のロックスターだったらしい。

あの母親はトニーの帰宅を待って、ずっと悲痛な表情をしていた。その失踪にはシャイアンが関わっているようだった。でもラスト、メイクを落とし髪も切ったシャイアンと母親は幸せそうに笑いあっている。しかもシャイアンは自分の家じゃなくて、そっちに帰ってしまうのか。『きっと ここが帰る場所』というタイトルだけに、帰る場所は重要なはずなのに。少なくとも、豪邸にいる妻よりはトニーの母親のほうが重要だということなのか。でも、本物の妻は、電話でシャイアンがいつ帰ってくるのか心配していたし、それはひどすぎる。

トニーの部屋にバウハウスのポスターが貼られていたので、ゴシックロックが好きなことは確実。あのメイクとファンが自殺していることから考えて、シャイアンがやっていたバンドはゴシックロックだったはず。そこから考えられるのは、トニーはシャイアンのファンだった、もしくはトニーとシャイアンが同一人物、どちらかだと思う。けど、ここまでしかわかりません。


2001年公開。映画館で観られるとは思っていなかったので嬉しかった。曲が全部素晴らしいので、映画館の音量で聴けたのも嬉しかった。この映画自体、久しぶりの再見です。あらためて観て気づいたことなど。

サントラに入っている『Freaks』はどこで流れているのかと思ったら、子どもの頃のハンセル(ヘドウィグ)が聴いてたアメリカのラジオ番組から流れている曲だった。

『The Origin Of Love』のときのイラストが舞台版でも映画でもどれでもヘタクソなのって、ハンセルが描いたイラストという設定だったからなんですね。

『Wig In A Box』は観るたびに毎回泣ける。ルーサーに捨てられて、トレーラーハウスでどん底状態だったヘドウィグは、きっとバンド仲間にあんな風にして救われたのだろう。メンバーはおちゃらけた様子でヘドウィグに新しいウィッグをプレゼントして、外の世界へ連れ出す。この過去の話をしているときに、現在のバンド内がすでにギスギスしていて、一番いい頃との対比がはかられている。幸せな記憶を思うと胸が締め付けられるよう。

あと、『Sugar Daddy』の“カーウォッシュ”ですが、観客の顔に自分の股間を擦り付ける行為をそう呼ぶのかと思っていたら、これを歌うときのヘドウィグの衣装が裾がひらひらと切れてるスカートなんですね。それで顔の上を行ったり来たりするから“カーウォッシュ”だった。三上博史も客席に降りてきて、男性のお客さんに跨って「カーウォッシュよ」ってやってたけど、あれも同じような衣装だったのかな。

ヘドウィグの衣装はどれも可愛かった。トミーの家で子守をしているときのナチュラルメイクのジョン・キャメロン・ミッチェル(ヘドウィグ)はキワモノでもバケモノでもなく、綺麗で本当に女性のように見える。トミーが勘違いをするのも無理ない。この辺が舞台だと、どうしたって三上博史や森山未來は女性には見えないからわかりにくい。トミーがヘドウィグのことを女だと思い込んでいるという設定に無理がある。

トミー・ノーシスとの別離のシーン、たぶんヘドウィグの頭の中でのことですが、映画版ではトミーがヘドウィグと向かい合って、目の前で『Wicked Little Town』を歌う。そして、「Goodbye, wicked little town.」と歌ったあと、声には出さずに「Goodbye.」という形に口が動く。完全な決別です。
これはこれで泣けるのですが、舞台版では、近くのスタジアムでライブをしているトミーがMCでヘドウィグの名前は出さないけれども謝罪をして大切な人だと認める。そして、「どこかで聴いていてくれるかもしれない」と言ったあとに『Wicked Little Town』になるんですね。ヘドウィグはこの事実を知らない。まあ、そこも含めて、全部がヘドウィグの頭の中の出来事なのかもしれませんが、なんとなく続きがあるのかもしれないと、わずかながら希望が残る。
この辺、オフブロードウェイの舞台から映画化するにあたっての変更なのか、日本で舞台化するにあたって加えられた変更なのか、もともとの舞台を観ていないので不明です。

『The Long Grift 』も、舞台だとギターの人が丸々一曲歌うシーンがありますが、映画では過去にトミーが曲を作ってるシーンでイントロとワンフレーズしか出てこない。いい曲なだけに全部聴きたいです。

『The Origin Of Love』で歌われている内容の、一つの生き物が二つに割かれ、片割れを探す旅に出るというのがこの作品のテーマなのは間違いない。それは東と西のドイツ分断も暗に示していて、真ん中に建つベルリンの壁が男と女の間にそびえるヘドウィグなのだから(『Tear Me Down』)、やっぱり森山未來版の舞台がフクシマだったのはおかしい。
いくら時代錯誤な感じがしても、ヘドウィグは東ドイツ出身で憧れのアメリカに出てこないといけない。ここはこの作品の根本的なところなんだから変更しては駄目だと思う。

ヘドウィグがイツァークにウィッグを渡すシーンも同様に重要です。イツァークは渡されたウィッグを当然のようにヘドウィグに被せようとするが、ヘドウィグはそれを断り、代わりにイツァークに被せる。ここで、ヘドウィグがイツァークの束縛を解いたことになる。森山未來版のイツァークはまったく抑圧されてなかったので、解放されるシーンも不必要になってしまっていた。森山未來版については、イツァークを小柄な女の子にしたミスキャストについても文句はありますが、舞台の変更と重要な設定の削除も、本当にがっかりしてしまう。


前作、破が2011年8月にテレビ放映された際に、Qは2012年秋公開の告知がされて、まだまだだと思っていたのにあっという間でした。
ちょっと小難しくて、はっきりいって理解しきれてませんが、映像や音的にはすさまじかったし、こうゆうのって他にはないと思うから、映画館で観たほうがいいとおもいます。

以下、ネタバレです。






破とは印象がまったく違った。破はとてもわかりやすかったし、明るかった。みんなで海洋生物研究所に行くシーンは遠足みたいだったし、レイが食事をセッティングしたり、アスカがレイの代わりにエヴァに乗ろうとしたりと他人に気を配るのも良かった。ラストのほかのものを省みずにレイを救いたいという一心で行動を起こすシンジも、強くなったと思いました。全員、ちゃんと成長しているのが見られて嬉しかった。

でも、そのラストのシンジの行動の結果が今回のQなのだとしたら、あまりにも哀しすぎる。いろいろとはっきりしたことが語られないのでわかりにくいのですが、シンジのせいで世界が終わってしまったように見える。
ディザスターもののようだけれども、普通のパニック映画が逃げる人視点なのに対して、これは破壊する側視点。また、逃げまどう人々はほとんど出てこないので不気味。そもそも人自体がもう存在していないのではないかと思われる。けれど、その辺の詳細も詳しいことはあまりわからない。ただ、どうやらトウジはシンジが起こした事故が原因で亡くなったようです。加持さんは出てこなかったけれどどうなってるのかわからなかった。名前すら出てこない。

とにかく全体的に暗く荒んだ空気が流れていた。その中で、カヲルくんがシンジを連弾に誘う一連のシーンだけは唯一ホッとする。最初にピアノの予告が公開されたときにはぽかーんとしましたが、映画が終わったあとで観ると、なるほどと思える。重要なシーンだったんですね。
心を通わせる方法として連弾をもってきたのもスマート。あからさまなことをやらなくても、充分に伝わってくるし、終わったような殺伐とした世界にピアノの晴れやかな音が響くのは救われたような気持ちになった。

でもこのカヲルくんも、アニメのときよりも、よりショッキングな死に方をしていた。しかも、良かれと思っての行動の末のことだからいたたまれない。こんなはずじゃなかったって言いながら、結果的に破壊されたらたまったもんじゃないけれど、善悪がぼんやりしてるのもいろいろと考えさせられる面ではありました。

今回、シンジが駄々をこねているのが本当に子供に見えて、アスカがよっぽど大人に見える、と思ったら、14年経ってるという衝撃の事実が。目覚めていないシンジはそのままでも、アスカは外見は変わって無くても14年の時は経ていて大人になっている。しっかり、14年分年をとっている。口は悪くても、言っていることは正しいし、仕事はしっかりこなしていた。

あと、マリは破のときには新キャラなんて必要ないんじゃないかとも思ったけど、今回はたよりになるし、可愛いし、空白の14年間でアスカとも随分濃密な間柄になったようだし、必要なキャラクターになっていた。ピンクと赤のエヴァが一緒に作戦をこなしているのも画的に可愛い。

“序破急”は、もともとは雅楽で用いられていた言葉で、今は文章の構成の種類として使われているらしい。“起承転結”が四段であるのに対しての三段ということなので、三であることに意味がある。そうすると、次回作のシンって一体なんなのかわからなくなってくる。四作目になっちゃいますが…。単純に今回の三作の続編というわけではないのかもしれない。


東映創立60周年記念作品という謳い文句と吉永小百合主演というのと『北の零年』を想起させるタイトルから、大作っぽいものを想像していたんですが、それとは少し趣が違う作品でした。湊かなえ原作というのも知らなかった。
以下、ネタバレです。









湊かなえが悪いわけではないんですが、サスペンスだとは思わなかった。もっと壮大なものを想像していたんですが、案外こぢんまりしてしまっていた。映画というよりは二時間ドラマのように思えた。

教え子の一人が殺人事件を起こし、その真相を探すために北海道の各地を回る吉永小百合は少し、ファミコンのゲームの『オホーツクに消ゆ』を思い出させました。

吉永小百合が教師だった時代と現在の映像が変わる変わる出てきますが、その切り替えがあまりうまくなかったため、観ていても流れが感じられず、気持ちもぶつぶつ切れてしまった。
かつての生徒に話を聞いて、その人物が話す内容が子どもの頃の映像として出てきて…。それを生徒一人一人について、基本的に同じように繰り返していく。
また、原作が小説だからなのかもしれませんが、会話で事足りるというか、セリフでほとんど説明してしまうのもどうかと思う。だから、吉永小百合と誰か一人が話しているというシーンがすごく多くて、画的に単調になってしまっている。その背景で吹雪いていても、そんな場所で話し込んでいる状況が不自然に思えるだけで、舞台を北海道にした意味が感じられない。造船所で働いていたり、母親がスナックで働いていたり、噂がすぐに広まってしまうのも、別の漁村が舞台でも良さそう。

大人になった生徒を演じた俳優さんたちの演技は全員うまかった。勝地涼さんだけ知らなかったのですが、満島ひかり、宮崎あおい、小池栄子、松田龍平と、最近の映画界を牽引している若手を揃えてきた。特に、最後に出てきた森山未來は迫力があった。演技だけでなく、合唱曲を歌うシーンもさすが。

ただ、これらの俳優さんたちが一人一人、別々に出てくるので、それぞれの出番が少ないのがもったいない。そのために、更に映画自体の印象もバラついてしまう。せっかくこれだけ揃えているのだから、もっと共演シーンを多くしてほしかった。逆にこれだけ役者さんを揃えたせいで、スケジュールなどの関係上、合わせられなくなってしまったのかもしれませんが。

最後、やっと全員が勢ぞろいして合唱をする。それは中盤くらいからずっと観たかったシーンなので、一気に盛り上がることは盛り上がるのですが、そこに辿り着くまでが退屈だった。130分は長すぎる。

『声をかくす人』


ロバート・レッドフォード監督作品。この間観た『リンカーン/秘密の書』とは趣がまったく違うリンカーンもの。リンカーン暗殺に関与した女性の裁判の話。
以下、ネタバレです。



ネタバレといってもこれも『アルゴ』と同じく、事実を元にした映画なので、ネタバレらしいネタバレはないです。ポスターに“アメリカで最初に絞首刑となった女性の…”と書いてあったので、結末はわかっていた。それなのに、観ながらイライラしたり、なんとか死刑を回避できないかと祈るような気持ちになった。

主人公の弁護士は、最初は嫌々引き受けていたが、次第に何かおかしいと気づき、正義感に目覚めていく。大きすぎるシステムに戦いを挑んで、自分の無力さに気づく。そしてラストでは、観ているこちらもやりきれない気持ちになった。劇場のいろいろな方向から重苦しいため息が聞こえていた。決して後味が悪いというわけではないです。心にしっかりと残る映画で、とても観ごたえがあった。

映画に没頭できた要因の一つとして、出演している俳優さんの演技力の高さがあげられると思うんですが、弁護士役はジェームス・マカヴォイ、良かったです。今回、マカヴォイ目当てでもあったんですが、かなり渋い役柄でした。顔は可愛らしいのに、重い役を演じているのをよく見かける。今回は『つぐない』と似た印象を受けた。『つぐない』が2007年、今作がトロント国際映画祭で上映されたのが2010年なので、『X-MEN: ファースト・ジェネレーション』より前なんですね。

弁護士として戦っている様子を見て、「本当の親子でもあるまいし」と揶揄されたり、本当の息子が弁護士に向かって、「あなたのほうがいい息子でした」と言ったりと、弁護士と容疑者の女性は、いつの間にか疑似家族のようになっていた。でも、しんみりとした家族物というのが主題ではなく、あくまでも力との戦いに重きが置かれていたように思った。

今回、フィルム上映で観たのですが、全体的に日差しがとてもやわらかく撮られていたのはフィルムのおかげなのか、それとも意識して観ていたからなのか。
独房の窓から差し込む光、裁判所に差し込む光。晴れているけれど、ぎらぎらしていたり、色をぱっきりさせる強さは無かった。どきつさみたいなものは、徹底的に排除されていた。
処刑台に向かうシーンでも、太陽はあくまでも日傘越しだったのが印象的でした。


Blu-rayが発売されました。
特典映像についてネタバレです。


ベネディクト・カンバーバッチ演じるピーター・ギラムがサーカスから書類を盗み出した帰りに、ロイ・ブランドと階段でとすれ違う。電話の奥で聞こえていた曲を意図的に口ずさみ、お前の電話は聞いてたぞと暗に脅した上で、ブランドはギラムをランチに誘う。そのランチシーンが未公開シーンとして収録されています。
「車は何に乗ってるのか」とか当たり障りが無いような、しかし盗聴をほのめかす質問を繰り出すブランドに、ギラムがにっこりとひきつった愛想笑いを返す。バッチさんのこの表情がいいです。顔もアップだし、ひやひやするけれど、同時にこの一連のシーンばかりに時間を割いてもだらだらしてしまうかなとも思う。ただでさえ長い映画だし、その前の階段のシーンの一撃必殺な緊張感がすごいので、まあ、カットされても仕方がないのでしょう。

もう一つ、スマイリー(ゲイリー・オールドマン)が黙々と目玉焼きらしきものを作っているというなんだかすごい未公開映像も入っている。
たぶん、サーカスを解雇されたあとで、日中に家で暇を持て余している。近所からうるさい音楽が漏れてくるのも日中に家にいるようになって初めて気づいた様子。妻も出て行ってしまっていて、喋る人もいない。慣れない危なっかしい手つきで料理を作る。しかも目玉焼き…という、なんとももの寂しいけど、おかしくて少し可愛くも見えてくる映像が長回しで撮られている。
こんなのもちろん映画内ではカットですよ。完全に浮いてしまう。だから、トーマス・アルフレッドソンはこれで一本別に、短編を作って欲しい。お願いします。ビルとジムの過去編と同時上映して欲しい。
ちなみにゲイリーはこの映像について、「シド・ヴィシャスを演じてたこともあったんだけど…」と嘆いていたらしい。

出演者のインタビューでは、トム・ハーディがゲイリー・オールドマンに見とれていてNGを出した旨を話していた。ゲイリー・オールドマンはジョン・ハートとの共演を喜んでいた。ベテランから旬の若手まで、様々なイギリス俳優の交流の場にもなったらしく、出演する側も楽しかったようです。どうりで観る側が楽しめるはずだ。



“昼は大統領、夜はヴァンパイアハンター”という宣伝文句にワクワクしていたし、製作にディム・バートンの名前があったので公開前からかなり期待をしていました。しかし、アメリカで一足先に公開されたときの評価が低く、興行収入もいまいちということで不安になっていたのですが…。
以下、ネタバレです。





アクションシーンはよくできてたと思う。大量の馬が駆けてくる中での格闘、舞踏会でのカーテンを使った演出、走る列車と落ちる橋など、各シーンはおもしろかった。役者さんたちも恰好良かった。くすんだような全体の色合いも、ゴテゴテしたゴス衣装も、統一されていたし雰囲気は良かった。それなのに、流れがない。それぞれがブツ切れ。

なんとなく、『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』に悪い面が似てた。短時間で人の生涯を描こうとしてるから、一つ一つのエピソードに深みがなくて、総集編みたいに上滑りしてしまう。

今作だと、ヴァンパイアハンターとして活発に活躍していたのは大統領になる前で、いざ大統領になってからは、通常の大統領業務をこなしているようだった。年老いてから再び斧を手にするものの、それでは“昼は大統領、夜はヴァンパイアハンター”というキャッチコピーとは違ってしまう。一人の人間の二面性が見たいのに、ヴァンパイアハンターパートと大統領パートはきっちり分かれてしまっていた。
大統領として普通に働いているシーンはいらない。それを観たいなら、別の映画を観る。中途半端です。もうずっと、斧を振り回してヴァンパイアを狩っていれば良かったと思う。斧アクション、恰好良かったのに。だからもう、大統領になろうとしている若い頃のエピソードはいらなくて、最初っから大統領になっていてくれていい。

ドミニク・クーパー演じるヘンリーだって、もっとうまくいかせるキャラクターだったはず。リンカーンが大統領になって普通の仕事をしている何年間かは、この人が何をしていたのかもわからない。
リンカーンとのブロマンス的な引っ張り方だってあったはずだし残念です。

ストーリー/キャラクター共に、素材はいいのに、それがうまく調理されていなかった。いくらでも面白くできそうだったのにもったいない。最後の締め方は良かったけど、それでうまくまとまったみたいな顔をされても困ってしまう。