『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』


2001年公開。映画館で観られるとは思っていなかったので嬉しかった。曲が全部素晴らしいので、映画館の音量で聴けたのも嬉しかった。この映画自体、久しぶりの再見です。あらためて観て気づいたことなど。

サントラに入っている『Freaks』はどこで流れているのかと思ったら、子どもの頃のハンセル(ヘドウィグ)が聴いてたアメリカのラジオ番組から流れている曲だった。

『The Origin Of Love』のときのイラストが舞台版でも映画でもどれでもヘタクソなのって、ハンセルが描いたイラストという設定だったからなんですね。

『Wig In A Box』は観るたびに毎回泣ける。ルーサーに捨てられて、トレーラーハウスでどん底状態だったヘドウィグは、きっとバンド仲間にあんな風にして救われたのだろう。メンバーはおちゃらけた様子でヘドウィグに新しいウィッグをプレゼントして、外の世界へ連れ出す。この過去の話をしているときに、現在のバンド内がすでにギスギスしていて、一番いい頃との対比がはかられている。幸せな記憶を思うと胸が締め付けられるよう。

あと、『Sugar Daddy』の“カーウォッシュ”ですが、観客の顔に自分の股間を擦り付ける行為をそう呼ぶのかと思っていたら、これを歌うときのヘドウィグの衣装が裾がひらひらと切れてるスカートなんですね。それで顔の上を行ったり来たりするから“カーウォッシュ”だった。三上博史も客席に降りてきて、男性のお客さんに跨って「カーウォッシュよ」ってやってたけど、あれも同じような衣装だったのかな。

ヘドウィグの衣装はどれも可愛かった。トミーの家で子守をしているときのナチュラルメイクのジョン・キャメロン・ミッチェル(ヘドウィグ)はキワモノでもバケモノでもなく、綺麗で本当に女性のように見える。トミーが勘違いをするのも無理ない。この辺が舞台だと、どうしたって三上博史や森山未來は女性には見えないからわかりにくい。トミーがヘドウィグのことを女だと思い込んでいるという設定に無理がある。

トミー・ノーシスとの別離のシーン、たぶんヘドウィグの頭の中でのことですが、映画版ではトミーがヘドウィグと向かい合って、目の前で『Wicked Little Town』を歌う。そして、「Goodbye, wicked little town.」と歌ったあと、声には出さずに「Goodbye.」という形に口が動く。完全な決別です。
これはこれで泣けるのですが、舞台版では、近くのスタジアムでライブをしているトミーがMCでヘドウィグの名前は出さないけれども謝罪をして大切な人だと認める。そして、「どこかで聴いていてくれるかもしれない」と言ったあとに『Wicked Little Town』になるんですね。ヘドウィグはこの事実を知らない。まあ、そこも含めて、全部がヘドウィグの頭の中の出来事なのかもしれませんが、なんとなく続きがあるのかもしれないと、わずかながら希望が残る。
この辺、オフブロードウェイの舞台から映画化するにあたっての変更なのか、日本で舞台化するにあたって加えられた変更なのか、もともとの舞台を観ていないので不明です。

『The Long Grift 』も、舞台だとギターの人が丸々一曲歌うシーンがありますが、映画では過去にトミーが曲を作ってるシーンでイントロとワンフレーズしか出てこない。いい曲なだけに全部聴きたいです。

『The Origin Of Love』で歌われている内容の、一つの生き物が二つに割かれ、片割れを探す旅に出るというのがこの作品のテーマなのは間違いない。それは東と西のドイツ分断も暗に示していて、真ん中に建つベルリンの壁が男と女の間にそびえるヘドウィグなのだから(『Tear Me Down』)、やっぱり森山未來版の舞台がフクシマだったのはおかしい。
いくら時代錯誤な感じがしても、ヘドウィグは東ドイツ出身で憧れのアメリカに出てこないといけない。ここはこの作品の根本的なところなんだから変更しては駄目だと思う。

ヘドウィグがイツァークにウィッグを渡すシーンも同様に重要です。イツァークは渡されたウィッグを当然のようにヘドウィグに被せようとするが、ヘドウィグはそれを断り、代わりにイツァークに被せる。ここで、ヘドウィグがイツァークの束縛を解いたことになる。森山未來版のイツァークはまったく抑圧されてなかったので、解放されるシーンも不必要になってしまっていた。森山未來版については、イツァークを小柄な女の子にしたミスキャストについても文句はありますが、舞台の変更と重要な設定の削除も、本当にがっかりしてしまう。

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