クリント・イーストウッド監督作品。トニー賞受賞のミュージカルの映画化作品。ザ・フォー・シーズンズの結成と栄光と衰退、メンバー間のいざこざなどが描かれている。
以下、ネタバレです。




ザ・フォー・シーズンズという四人組のデュオは名前を聞いたことがあるくらいだったんですが、どんなグループかはまったく知らなかった。ただ、曲は誰でも聴いたことがあるくらい有名なものだった。
ただ、頭のなかでそれぞれはバラバラになっていたんですが、それが映画を観ているうちに一つに繋がって行くのがおもしろかった。

まず、タモリ倶楽部のテーマソングとしても有名な『Short Shorts』を作った人がフォー・シーズンズのメンバーになるとは思わなかった。そして、『Shery』『Bye Bye Baby』などの有名な曲をこのボブ・ゴーディオという人物が一人で作っているとは思わなかった。

レコーディングスタジオで声をかけてくるお姉言葉の人物は音楽業界ならではのキャラなのかなと思っていたら、リベラーチェだったのも驚いた。リベラーチェと言えば、ド派手な衣装のピアニストでありエンターテイナーというイメージだったけれど、このようなプロデューサー業という裏方家業もやっていたとは。
そして、リベラーチェが彼らのレコード作りに深く関わっていたとは。
この映画というか元のミュージカル自体が、完全に実話というわけではなく、脚色ありらしいので本当のことなのかはわからないけれど。

結局、グループ特有の性格の不一致や金絡みのいざこざがあってバラバラになってしまうんですが、ソロで出した曲が『Can't take my eyes off you(君の瞳に恋してる)』だったのも驚いた。『Can't take my eyes off you』はイントロからして特徴的なので、始まった瞬間わかるんですけど、もしかしてと思ったら、“You're just too good to be true”とフランキー・ヴァリが歌い出されて泣いた。
フランキー・ヴァリという名前は映画の最初から出てきていたのに、ここまでどうして忘れていたかわからないんですが、フランキー・ヴァリの『Can't take my eyes off you』、持っていて、しかも何度も聴いていた。本当にここですべてが繋がったと同時に、私の映画になった感じがした。
しかも、この曲を作ったのも前述のボブ・ゴーディオ。
フランキーが、メンバーとも散り散りになり、落ち目ともいえるような存在になって、おまけに娘を失って、ラブソングなんて歌えるかと一度つっぱねたというエピソードもふまえると、余計に泣ける。この辺も脚色なのかもしれないけれど。

クリント・イーストウッドはもう84歳なんですが、もともと舞台版があるものというせいもあるかもしれないけれど、今作は作風が若々しいというか軽快だった。

ボブ・ゴーディオをメンバーに入れるか入れないかの話し合いのすったもんだや、ナンパをしたシーンの次に結婚式のシーンに移るなど、本当に軽やか。
また、レコーディングスタジオに行く時、ビルの外観が映っていて、カメラがそれぞれの部屋の様子を映しながら、上へと上がって行き、チンという音と共に、建物内部にカメラが移り、エレベーターが開いて、フランキーとボブが降りて来るというニクい演出もあり。
カメラワークだと、娘の葬式のあと、ベンチに座るフランキーの表情をとらえるようにまわりこんで下からのぞきこむようなショットも印象的だった。

これも、舞台版があるからかもしれないけれど、登場人物がカメラに向かって話しかけてきて自分のその時の心情やナレーションをするのもおもしろかった。
特に最後、ニックの「抜けた理由は明かしてないけど、存在感も理由の一つだよ。四人組の中でリンゴ・スターだったらどうする?」というのは、納得もしてしまうけれど、ブラックジョークでもあるし、苦笑した。

クリストファー・ウォーケンが地元のギャングの偉い人役で出演している。顔の怖さもあるけれど、威厳はありつつも、フランキーの歌を聴いて涙ぐむなど、可愛い面も多かった。
クリストファー・ウォーケン以外には知っている俳優はいなかったのですが、フランキー役のジョン・ロイド・ヤングとニック役のマイケル・ロメンダはブロードウェイの舞台版キャストらしい。
フランキーのファルセット、ニックの低音(『Shery』の“Why don't you come out”のコーラス部分などを歌っている)は、誰か他の人の録音なのかと思っていたけれど、実際に歌っていたらしい。他のメンバーも自分で歌っていたようだし、歌はスタジオで別録りしたわけではなく、カメラの前で歌ったらしい。最近だと『レ・ミゼラブル』と同じ方式ですね。

また、フランキー・ヴァリやボブ・ゴーディオご本人たちも映画の制作にかかわっているそう。

最初にカメラに向かって話しているトミーが主役なのかと思った。通りの名前にもなっていると自慢げに話していたし。けれど、作中では結局、地元の悪ガキから抜け出せていない。仕事なのにお金に無頓着で、結局それが原因で、メンバーが離れて行ってしまう。

ラストでもう老人の姿だったけれど、再会できて、また一緒に歌うことができて良かった。四人が若者の姿に戻って、街灯の下で歌っているシーンが泣けた。

その後、路上で全員で歌い踊るのもミュージカルで言えばカーテンコールのような演出で楽しかった。フランキーがお付き合いした女性二人と腕を組み、両手に花になっていた。劇中の揉め事を考えると、とても幸せな気持ちになる。
クリストファー・ウォーケンも歌って踊っていて可愛かった。

2011年公開の『猿の惑星:創世記』の続編だが、あのすぐ後から始まるわけではなく、人間側の主人公はジェームズ・フランコから変更されている。監督も前作からかわって、マット・リーヴス。

以下、ネタバレです。






前作はウィルとシーザーが別れたところで終わりでしたが、そのあと、ウィルスが蔓延して人類の数が少なくなり、残った人類も暴動などで殺し合い、ほぼ全滅…という出来事が起こったらしい。けれど、そこは描かれず、ニュースや断片的な映像のみで説明される。

次のシーンでは、シーザーと、かなり人間に近くなった猿たちのコミュニティが映されるので、もうすっかり猿の惑星になってしまったのかのようだった。人間が滅び、もう一度、アウストラロピテクスから進化をやり直しているようだった。
特に、人間が人間同士で殺し合っている未来のニュース映像のあとで、シーザーが「エイプ(猿の軍団)は仲間を殺さない」と言っていたので、彼らが残って、人間が滅びるのも当然だと思ってしまった。

ただ、単純にどちらが悪いというわけではなくて、人間の中にも良い人悪い人がいて、エイプの中にも良い猿悪い猿がいるんですよね。
一触即発の状態になったときに、どれだけ我慢できるか、どれだけ他者を信用できるかという話だと思った。緊張状態に耐えられなくなり、焦って、やられる前にやれという思考回路に陥って、暴走すると均衡がくずれてしまう。もともと一触即発だったのだから、一人でも勝手な行動をとれば、爆発してしまうのだ。
観ていると、臆病者ほど、周囲を信用していないのがよくわかった。弱い者は攻撃されるのが怖いから、先に殲滅に乗り出す。やられる前にやる。我慢をして、どっしりとかまえていることなどできない。

全員がマルコムやシーザーのようだったら、争いごとは起きない。でも、一人一人ではなく、集団になると、その中に必ず臆病者がいる。また、その臆病者が我慢出来ずにとる過激な行動は人目を引くし、そちらに扇動される者も集団の中には一定数いる。流行病のように伝染していって、結局、大きな騒動になってしまう。

最後のほうで、シーザーが猿側の反乱リーダーであるコバを止めようとし、マルコムが爆弾のボタンを押そうとするドレイファスを止めようとしているシーンがあった。どっちの軍団が悪いわけではなくて、結局どちらも同じことをしているのだ。

戦争だけではない。争いごとが起こる仕組みがわかりやすく描かれていた。人間対猿に限った話ではなく、普遍的なテーマだと思う。
また、それらがまわりくどく描かれているわけではないのが非常に観やすい。一つのことについて話していたら、次のシーンでもうそのことが起こっていたりとテンポがいい。

そんな中で、マルコムの息子がオランウータンのモーリスと一緒に本を読むシーンがあるのが良かった。最初は懐疑的だったけど、助けてもらったことで心を開き、打ち解ける。
シーザーが昔、ウィルと住んでいた家へ行き、ビデオに残された映像を見るシーンも良かった。前作を観ている人に対するおまけみたいなシーンですが。
また、最後のマルコムが「共存出来ると思った」という言葉にシーザーが「私もだ」というシーンも良かった。ポスターに使われているおでこを合わせるシーンが出て来るのもここです。
全体的に緊張状態が続き、結局崩壊してしまう映画の中で、両者がわかりあっている数少ないシーンで泣ける。どうしてこのようにうまくいかないのだろう。

マルコムがシーザーに「軍が来るからはやく逃げないと」と知らせると、シーザーが「もう遅い。戦争が始まるからお前が逃げろ」と言うラストシーンがとてもかっこいい。もうマルコムは逃げるしかない。シーザーは覚悟したようにその場に留まる。決意の表情も凛々しかった。
この映画、全体的にシーザーがよくできすぎなくらい恰好良かった。
演じているのはやっぱりアンディ・サーキス。さすがの職人芸。エンドロールでも名前が一番最初に出ます。

シーザーと結局敵対することになってしまうコバを演じたのがトビー・ケベルでびっくりした。確かに猿っぽいけれど。『ロックンローラ』の続編、『ザ・リアル・ロックンローラ』の話がどうなってるのか気になる。

マット・リーヴス監督は『クローバー・フィールド/HAKAISHA』とも『モールス』とも作風が違っていて、戸惑う。『モールス』は『ぼくのエリ 200歳の少女』のリメイクだし、今回も一応続編だから、沿った形になっているせいかもしれない。

フランスの山奥にある厳格な男子修道院の内部を撮影したドキュメンタリー。

1984年に撮影を申請したときには許可が下りず、準備が整ったと連絡が来たのが16年後だったとのこと。日本では更にその9年後の公開になった。

『大いなる沈黙へ』というタイトルの通り、映画には音楽がつけられていない。ナレーションもなし。修道士たちの会話も週に一回数時間しか許されていないため、ほとんど生活音と賛美歌のみである。
それが2時間49分。最初は見守るような気持ちだったのに、次第に自分もその修道院に入ったかのようになってしまう。

カメラも最初は扉と扉の隙間から遠慮がちに撮影していたのに、少しずつ、内部へ入っていく。それでも、しっかり配慮は感じられて、話しかけたりはしないし、一定の距離は保たれている。無遠慮にズケズケと撮影したり、いままでカメラが入れない場所だったからといって、秘密を暴こうという卑しさみたいなものは感じられない。

古く、ひんやりした質感で、それぞれの部屋はまるで刑務所の独房のよう。食事も質素。毎日の生活も同じことの繰り返しに見える。でも、一人一人の表情を正面からとらえた映像を見れば、そのつつましく禁欲的な生活が彼らに与えるものがわかるようだった。全員、穏やかな表情をしていた。
最後の方で一人だけ盲目の修道士のインタビューがあるんですが、「目が見えなくなったのもその方が良いと思ってそうなったことだし、死すら怖くない」と話していて、それを聞いていても、彼らの心の中がよくわかるようだった。
また、週一回の外に行ってもいい時間を撮影したシーンで、山だからみんなでそりで遊んでいるんですが、それがこの上なく楽しそうでとても和んだ。

回廊を歩く白いフードの修道士たちはそれだけで絵になる。修道院の周囲の自然も撮影されていて、植物の接写も美しい。静かに雪が降りしきる冬から気温が上がって来てもやが立ち上る春、太陽が降り注ぎ、花壇か畑か水やりが捗る夏、次第に葉っぱに霜が降りて、また冬が来る。季節も丁寧に撮影されている。

ドキュメンタリーがおもしろいのは、知らない世界を知ることができることだ。私は男子修道院には絶対に行くことができないから、この映画を通してしか、内部の様子を見ることはできない。
創作物ではないのに圧倒的な世界観だった。

この前観た『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のような賑やかで楽しいものも、映画館で観るものだと思うし、この映画も家では2時間49分、集中力がもたないと思う。
周りが真っ暗で、音がしなくて、椅子にじっと座ったまま、画面を見つめ、次第に神聖な気持ちになっていく。映画館内が独特な空間になっていたと思う。素晴らしい映画体験でした。

マーベル・シネマティック・ユニバースの10作目ではあるけれど、この前公開された『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』のように、直接アベンジャーズ等の続きではないです。原作ではこことここが繋がっていて…というのはもちろんあると思いますが、原作を知らないのでわかりません。
でも、『キャプテン・アメリカ』や『マイティ・ソー』が前作や前々作など数作をふまえないと話が少しわかりにくくなってきたのに対して、これは単体でも楽しめる。

以下、ネタバレです。







懐メロ満載だとは聞いていたんですが、まさか、10ccの『I'm Not In Love』から始まるとは思っていなかったので、開始直後に涙ぐんでしまった。しかも、このセンチメンタルな曲が母との別れのシーンでかかる。
かかるというか、映画内は確かに懐メロ満載なんですが、それはBGMというより、主人公のピーター・クイルがウォークマンで聞いているのだ。懐メロはすべて一本のカセットテープに集められている。お母さんの好きな曲が集められた“Awesome Mix(最強ミックス)”とカセットテープのラベルに手書きで書かれている。これが、お母さんの形見みたいになるので当然大事にしているし、ピーターがここぞというときには、音楽が寄り添っている。まるで母親が見守っているように。
主人公の見せ場のシーンで音楽が流れるから、結局は普通の映画で盛り上がるシーンで音楽が流れるのと同じなんですが、見せ方が工夫されていておもしろいし、いちいちピーターの母親に対する想いを感じて泣きそうになる。

序盤、子供ピーターが攫われたあと、場面が変わって、ゴキゲンナンバー『Come And Get Your Love』が流れていて、それをウォークマンで聴いている男が出て来る。それだけで、ピーターの成長した姿なんだろうなという想像はつく。そして、軽やかなステップで廃墟のような建物内に侵入。こんなシーンでは普通、神妙な音楽が流れるものだ。しかし、ピーターは踊りながら、足下の小さいエイリアンみたいなのを手でぎゅっと掴んで、マイク代わりにして歌っている。
もうこれだけで、どんな風に育ったかがわかってしまう。適当で調子の良い人物なんだろうなというのがわかるのだ。説明臭くないし、物語の導入部分として最高だと思う。
その次の、オーブを盗むシーンと追っ手をかわすシーンで、この人がどんな職業かもわかるし、話への引き込み方がうまい。

ストーリーとしては単純というか、王道というか、複雑なところはなくわかりやすい。星の名前が多少混乱するけれど、悪い奴を倒すというそれだけです。ただこの倒す側の人たちが王道のヒーローではないのが楽しい。最初はやる気もないし、てんでバラバラな人たちが、次第に友情を深め、結束し、しかも正義感を芽生えさせるのがぐっとくる。これは一作目ならではだと思う。

アライグマ型クリーチャーのロケットは親友である樹木型ヒューマノイドのグルートが間に入っていなければうまく馴染めなかっただろう。ロケットは全編通して乱暴者だけど、グルートには優しい。
ただ、馴染めてからはメンバー中、一番の常識人だし、しっかり者ゆえに、仕方なくお母さん的なポジションになってしまっている。こうゆうわちゃわちゃしたスチャラカ軍団の中で、なんとなくお母さんにならされてしまうキャラクターがとても好きです。
ちなみに、声を演じているのはブラッドリー・クーパー。ロケットのことがよくわかってなかったときには、アライグマから人間に戻ったりする展開がこの先あるのかなとも思ったが、そういう仕組みはないらしいので、イケメンの姿ではおそらく登場しないでしょう。残念。

この映画のCMではアライグマがフューチャーされていて、メインキャラのような推され方をしている。それとは少し違うけれど、表情や動きなど、充分に可愛かったです。アライグマの可愛さを期待して観に行ってもいいと思う。
特に、グルートがバラバラになってしまった際に、破片を抱きしめて落ち込んでいたところ、ドラックスに頭を撫でられて、しっぽが少し揺れてしまうあたりが良かった。

ドラックスは、なぜかCMなどでもまったく目に入っていなくて、仲間になるのも最後だし、この人はきっと、途中でみんなを庇って死ぬんだろうな…と思っていたら、主人公級の人物だった。ポスターなどにも載っていた。無骨だけれど、偽ることができないから、前述のロケットを撫でてあげるシーンも、ぎこちないながらも本心からの行動なのだと思うと泣ける。

アベンジャーズはハルク以外は地球人が衣装を着ているというか人間型だけれど(ハルクも変身前は人間型)、ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーの面々は外見からしてバラバラなのが面白い。人間っぽく見えるのはピーター・クイル=スター・ロードだけで、他は多種多様。
これは、他の登場人物にも言えることで、アベンジャーズは地球が舞台だから、モブも人間だけれど、この映画だと、宇宙の他の星が舞台なのでモブも多種多様なのだ。肌の色もピンクや青だったり、形からして人間型ではなかったり。特に、カジノみたいなシーンで、いろんな星人がガヤガヤやっているのは見ていて本当に楽しい。スター・ウォーズやDr.スランプ アラレちゃんを思い出す、古き良き懐かしい感じ。
星人もそうなんですが、乗り物なども色鮮やかで、それに合わせて懐メロが流れるものだから、全体的なトーンが統一されている。

キャプテン・アメリカのように品行方正ヒーロータイプも観ていておもしろい。今回はまったく品行方正ではない。いくら正義感が芽生えても、大人ピーターの登場シーンの通り、飄々としていて適当人間である、根本的なところは変わらない。最後の決着シーンでもそれが出て来るのがおもしろかった。
ロナンの前で、音楽に合わせて踊りだし、ダンスバトルなどと言って注意をそらすシーンは『LEGO(R)ムービー』を思い出した。緊迫しているシーンなのに、奇をてらうというか、一瞬ぽかんとしてしまう行動をとるのは、純粋なヒーローとは違う。でも、時にはその作戦が成功することもある。人間くさい小狡さすらある。ヒーローでなく、普通の人間でも、強敵を倒すことができるのだ。
より、私たちに近い主人公、これは『LEGO(R)ムービー』の主人公エメットとも共通していると思った。ちなみに、エメットの声を演じているのは、今回ピーター・クイル=スター・ロードを演じたクリス・プラットである。彼がこうゆう役が似合うのかもしれない。

まあ、敵を無事に倒すんですが、その敵も滅ぼす星に降り立ったときに、長々と口上を述べてるんですよね。そこまではどうなっちゃうの?と思いながらヒヤヒヤ観ていたけれど、ここでこの敵は倒されるためにここに来たなというのがわかる。でも、このどんでん返しなどない、安心感が心地よい。

ラストで“ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーは戻って来る”という文字が出たので、続編があるみたい。キャラクターが全員いいし、この楽しい雰囲気は引き継がれると思う。一作目が結束して敵を倒すところまでなので、盛り上がったところで続けざまにもう続編が観たくなってしまう。また彼らに会えるのが楽しみ。

主要キャラ以外だとヨンドゥも粋だった。裏切ったピーターを執拗に追いかけて、命すら狙っていそうだったけれど、最後は騙されても笑って許す。それは親代わりとしてピーターと一緒にいたから、なんだかんだで情があるのだろう。もしかして、退却する時点で偽物だと気づいていたのかもしれない。
オーブの容器の中にピーターがそれなりに大事にしていたであろうトロール人形が入っていたのにも、何かしら想いを感じる。おそらく、地球にいたころからの持っていたものですよね? ヨンドゥは古い何の役にも立たなそうな人形というか置物みたいなのを集めるのが趣味だったようなので、その辺の配慮もあったりするのかも…というのは多分考え過ぎ。

今回も、マーベル映画恒例のエンドロールおまけ映像がある。
奥のほうでナイフの手入れをしているドラックスと、手前の鉢でJackson 5の『I Want You Back』に合わせてフラワーロックのようにゆらゆら踊るベイビーグルート。ドラックスがおや?とグルートのほうを向くと、ぴたりと動きを止める。すごく可愛い。また、グルートが本編最後の状態から確実に育っているのもわかって安心出来る。

そして、エンドロールが一通り流れたあとに、コレクター登場。コレクターが雰囲気たっぷりで出てきたのは、『マイティ・ソー/ダーク・ワールド』のエンドロールの最後だったんですが、今作のヴィランなのかと思っていたら、オーブの力で吹っ飛ばされるかませ犬ポジションだった。ベニチオ・デル・トロのねちっこい喋り方が邪悪だったけれど、大した活躍もなかった。でも、最後で出て来るあたり、制作者たちにも愛されているのがわかるし、今後の作品ではヴィランらしい活躍をするのかもしれない。
ガラスが粉々になって、コレクションが外に逃げ出しているんですが、その中の一つにハワード・ザ・ダックが! どこまでも懐かしで攻めてくる映画である。そして、ハワード・ザ・ダックがマーベルなのを初めて知りました…。

巨大竜巻によるパニック映画。翻訳がアンゼたかしさんだというのと4DX向きだというので観ました。

以下、ネタバレです。








いままで、4DXで『パシフィック・リム』と『ゼロ・グラビティ』を観たことがある。『ゼロ・グラビティ』に関しては、動かないほうが落ち着いて観られるというか、動かないのに動いている感じが良かったということに4DXを観た後に気づいたのですが、『パシフィック・リム』は本当にイェーガーに乗っている感じがして感動した。
それで、この『イントゥ・ザ・ストーム』なんですが、これも4DXで観て良かった。いろいろなものが飛んで来るのでできれば3Dで観たほうが迫力があったかもしれない。しかし、2Dの4DXでも充分に臨場感が味わえた。

まず、ファウンド・フッテージ形式なのがいい。竜巻を観測する人、Youtubeにアップしようとカメラを持ち歩く自称冒険家、卒業式を撮影しようとする学生とみんながビデオカメラを持っている。
竜巻のシーンでなくても、冒険家がバイクに乗っているシーンのウェアラブルカメラでもう楽しい。視点は完全に運転しているようになっていて、それに合わせて座席も揺れる。

おそらく、途中で竜巻に巻き込まれるのだろうなというのはなんとなく想像していて、その時に座席が大きく揺れるんだろうと思っていたのだけれど、それ以上に風と雨が本物っぽかった。
建物から外に出た時に、ひゅうっと横から吹いて来る風。それに、上空からパラパラと降って来る雨。雨の時に傘をささないで外に出たときの、ああ、雨が降って来ちゃった、しかも風が出てる、いやだなあと思う気持ちになったのだ。映画館の椅子に座りながら。
もちろんその時に、スクリーンでは嵐の前兆のようなシーンが流れている。

ストームにイントゥする映画だというのはタイトルからもわかるから、やはりその瞬間を待ってしまう。中盤に出て来るのは細い竜巻が数個。それでもとんでもないことになったと思うんですが、それが去った後で、終盤にとんでもないデカさの竜巻があたかもKAIJUのように迫って来る。
主人公たちは壕のような場所でなんとか凌ぐんですが、うち一人が車ごと竜巻に巻き込まれてしまう。その車にはカメラが搭載されているから、当然その視点でも見せてくれる。一瞬、しんとなったと思ったらそこは竜巻の一番てっぺんで、雲の上だから太陽も出ているし、綺麗ともいえる景色が見える。
『ゼロ・グラビティ』を観た時に、私は一生宇宙に行くことはないだろうけれど、束の間だけ宇宙を体験出来た。
この映画はそれと同じで、実際に竜巻に巻き込まれるのはいやだけれど、映画を観ることで巻き込まれ体験をすることが出来るのだ。それが、4DXだとおそらくより本物の体験に近づいているし、アトラクションっぽくもなる。
台風が来た時の少しわくわくしてしまう気持ち、川を見に行きたくなる気持ち、それらが安全な場所で発散出来る。

この映画は竜巻シーンがやはり一番盛り上がるところだし、竜巻シーンを心待ちにしてしまう。でも、人間ドラマ的な部分の特に主人公というか、兄弟と学校の教頭であり父親の三人のシーンはもっと見たかった。兄弟は外見も性格も似ていなそうだったけれど、結局仲良しな面をもっと見たかった。
父親役はリチャード・アーミティッジ。『ホビット』のトーリン・オーケンシールドはもうそこにいるだけで大丈夫というか安心感みたいなものが生まれてくる役だったけれど、今回の役柄もこのお父さんならきっと助けてくれる!と信じられる役だった。がっちりした体格は頼りがいがありそうで、高い鼻に誠実さが現れている。

あと、自称冒険家の若者二人組は、Youtubeで閲覧数を稼いで有名人になってモテたい!みたいなことを言っている、いかにもな雑魚キャラだった。酒を飲んで竜巻に巻き込まれてしまい、まあそうだよね、こうゆう人たちはパニック映画ではすぐに死んじゃうよね…と思っていたら、最後の最後で木に引っかかって二人とも生きているというオチがついていた。
竜巻が過ぎ去った後のめちゃくちゃになった町を復興しようとしている人たちの映像のあとにそのシーンがあるので、ちょっとしんみりのあとにちゃんと笑いがとっておいてあるのがすごく良かった。

マペッツの映画としては8作目だけれど、2011年の映画『ザ・マペッツ』の続編にあたる作品。日本での劇場公開は二つの映画館のみというさみしい結果になってしまった。それでも劇場公開してくれるだけでもいいのかもしれないけれど。そのため、シネマイクスピアリに観に行きました。当たり前だけれど、パンフレットもグッズも製造されていません。

以下、ネタバレです。





前作の撮影が終わったあと、もうENDマークが出ているシーンから始まるので、直接的な続編です。
でも、前作とは雰囲気が全く違う。前作が『テッド』や『トイ・ストーリー』系だとしたら、今作は『ボーン・アイデンティティ』『007』『ミッション:インポッシブル』系。前作のほうが誰でも楽しめる、ストーリーの強さがあった。
あまりにも違うのでてっきり監督が変わったのかと思っていたら、同じ方だったので、どうやら作風に幅がある方らしい。

それに、最初の続編を作ろうという曲で、前作はこえられないけれどって歌っちゃうんですよね。前作のラストが今作のオープニングだったり、続編を作ろうとキャラたちが歌っていたり、ウォルターに対して「前作で主役にしてあげたのに!」などというメタ発言が多数あった。これを考えると、前作が本編で、今作はそれに付随するおまけのようにも見える。いずれにしても、肩を抜いてのんびり作ったような印象を受けた。

前作のキーとなったウォルターの特技である口笛も、一回だけだけれど出て来て良かった。

ワールド・ツアーという楽しげな邦題がついていますが、原題はMost wanted(最重要指名手配)という物々しいものになっている。ストーリー的には、ワールドツアー(というか実際にはヨーロッパツアー)の影で指名手配犯が強盗を行うというものなので、邦題と原題でうまく裏表になっているのかもしれない。

このツアーをまわる先なんですが、ベルリン、マドリード、ダブリン、ロンドン、シベリアとなっているが、島国(イギリス)に行くにもすべて電車なんですよね。地図の上で電車がびゅーんと動く絵はインディジョーンズのようでもあったし、場所何時何分という文字がスクリーンの右下に出るのがボーンシリーズっぽいと思った。
ただし、実際には不可能なスケジュールだし、ドーバー海峡ではなかったと思うので海を電車では越えられない。
今回のマペッツは、前作に比べて子供向けではないと感じたが、この辺のリアリティはない。ただ、細かいことはいいんだよというような強引さは痛快でもある。

人間側の出演者はまったく調べていなかったのですが、ジェイソン・シーゲルとエイミー・アダムスが少しも出てこないとは思わなかった。
そして、人間側の主役のポジションがイギリスの人気コメディアン(であり、俳優・脚本・司会業などもこなしている)、リッキー・ジャーヴェイスだとも思っていなかった。
カメオについても誰が出ているのか知らなかったため、気を抜いていると知っている人がどんどん出てきてびっくりするのの連続だった。観ながら驚いて「あっ!」と言ってしまうこともあった。
クリストフ・ヴァルツ(ワルツがワルツを踊るというダジャレで出演。ワルツを踊っている)やダニー・トレホ(歌を披露している。かわいい)やトム・ヒドルストン(歌と変な体操。かわいい)、ザック・ガリフィアナキス(前作にも出てました。マペットとの絡みが似合う)くらい長い時間出ていればわかる。長い時間といっても1分くらいなものです。ダニー・トレホはトータルで3分くらいはあったかもしれない。
その他に、一瞬出て来る系の人は本当に気が抜けない。ジェームズ・マカヴォイ、マッケンジー・クルックは見間違えかと思った。特にマッケンジー・クルックは釘付けになってしまって、隣りにトビー・ジョーンズがいたらしいんですが、それを見逃している。
他にも多数見逃していて、クロエ・グレース・モリッツ、ラッセル・トビーあたりはちゃんと観たかった。あと、ダウントン・アビーの当主役のヒュー・ボネヴィルは言われてみれば、そういえば何か見たことある…と思った気もする。
特にカメオにはイギリスの俳優が多く、好きな人が続々出てきて、発見するたびに楽しかったです。

ミュージシャンからはトニー・ベネット、レディー・ガガ、セリーヌ・ディオンなど。セリーヌ・ディオンは役名がピギーのフェアリー・ゴッドマザーとなっている。迷えるピギーが歌うときに、後押しするように一緒に歌っている。

今回も曲はどれも楽しく、聴いているだけで顔がにこにこしてくる。
どの曲もいいんですが、特に『I'll Get You What You Want』が好きです。エンディングではブレット・マッケンジーも一緒に歌う。

今作ではカーミットにそっくりなコンスタンチンという悪党が出てくるのですが、マペッツなのにちゃんと表情が違うのが面白い。動きもそうなんですが、カーミットとはまるで違うのがよくできている。悪い顔のときは少し口がしゃくれたりしていた。
あと、これは今回に限ったことではないけれど、恐縮するときにカーミットの頭が三角っぽくなるのが可愛かった。
悪党と入れ替わるので、カーミット自身の出番は少なめ。でも、シベリア仕様のもこもこの服を着ていたりと可愛い。
途中まで、というか、わりと終盤までコンスタンチンのことをマペッツたちはカーミットだと思い込んでいるので、カーミットが不憫でならないんですが、最後の『Together Again』で全部帳消しです。強引ながらも丸くおさまる。

『NO』


チリで作られたのは2012年で、日本でもその年のTIFFで上映されていたようなので、やっと本公開といったところ。
1988年、チリのピノチェト独裁政権に対しての国民投票の前に、テレビで賛成派、反対派がそれぞれ15分間のPR番組を放送する。その反対派にやり手のCMクリエイターが抜擢されて…という実話が元になっている。主演はガエル・ガルシア・ベルナル。
パブロ・ラライン監督はこれまでにも独裁政権の映画を撮ってきているらしい。

以下、ネタバレです。




奇想天外な方法で政治問題を解決するということで、偽映画を作って人質の救出に成功した『アルゴ』に似てないこともない。主人公の立ち位置も似ている。『アルゴ』の主人公、CIAのトニー・メンデスも一歩ひいたところから全体を見ていたけれど、この映画のCMクリエイターであるレネ・サアベドラも同じ。最初はNO派ではあっても、国民投票にはなんの期待もしていないようだった。

でも一歩ひいているからこそ見えてくるものというのもあって、彼が最初から断固NO派だったなら、もともとNO派の人たちが作っていたような、政権からの酷い仕打ちを集めた怒りに溢れたCMになっていたかもしれない。のめりこみすぎると、特に怒りにとらわれすぎると、まわりが見えなくなってしまう。
それを一歩ひいて、冷静に事態を見つめることによって、CMの方向を転換することができた。最初は仕事と割り切っていたのかもしれない。
怒りよりも、退陣後の明るく楽しく希望に満ちた世界を描くことで、自分と同じ、諦めていた民衆の心をつかむ。おそらくその頃には、自分も完全にNO派になっていたのだろう。

なぜおそらくなのかというと、作中で、レネはほとんど表情を変えないんですね。なので、感情が読み難い。もちろん、仕事中だから感情を出していなかったのかもしれないけれど。
ラスト付近でNO派の投票が過半数をこえたときにも、事態がすぐには把握できていない様子だった。信じられなさそうに外へ出て、沸き立つ民衆の中に身をさらして、じんわりと嬉しさがにじみ出て来るような表情をするガエルの演技がうまかった。決して喜びを爆発させるわけではない。でも、自分がいままでやってきたことは間違っていなかったと確信するような表情をしていた。

レネ自体も冷静だけれど、それを撮影しているカメラもまた冷静。手持ちで微妙に揺れているカメラと、登場人物に密着するような撮影方法から、ドキュメンタリータッチなのかなとも思ったけれど、登場人物がカメラを意識することはないし、違いそう。しかし、感情的にならず、淡々と登場人物を追いかけて行く。

画面がガサガサしていたり、アスペクト比が4:3(地デジ前のアナログテレビのサイズ)だったり、シーンとシーンの繋ぎがぶちっと切れるし、ピントが合うのに時間がかかる部分があるし、人と人が話しているときにそっちを向こうとしているカメラが追いつかなかったりと、わざと昔っぽく見せる演出をしているのかと思っていたけれど、ヴィンテージカメラで撮影されていたらしい。わざとじゃなくて、本当にそうなっちゃってたのか。

両陣営の作るCMがキモの映画だし、CMと普通のシーンの区別のために、CMは画面を揺らさず、日常では手持ちにしたのかもしれない。また、80年代のCMなのに綺麗な画面ではおかしいということでガサつく映像にして、CMだけがガサついているのも変だと思うし、全体的に古くしたのかもしれない。それによって、アーカイブ放送を見ていると錯覚しそうになった。2012年の映画なことをしばし忘れていた。

監督のインタビューでは、実際の昔の映像と馴染むようにヴィンテージカメラで撮影したと言っていたけれど、どれが実際の映像だったのかわからない。

監督がすでに撮影した他のピノチェト独裁政権の映画がどんな内容だったかはわからない。しかし、CMクリエイターを主人公にするという手法をとることで、私のようなピノチェト政権のことを知らない人が映画に興味を持って、独裁のことを知ることができた。映画の中と、更にその外側という二重の構造になっているようでおもしろい。