『猿の惑星:新世紀』


2011年公開の『猿の惑星:創世記』の続編だが、あのすぐ後から始まるわけではなく、人間側の主人公はジェームズ・フランコから変更されている。監督も前作からかわって、マット・リーヴス。

以下、ネタバレです。






前作はウィルとシーザーが別れたところで終わりでしたが、そのあと、ウィルスが蔓延して人類の数が少なくなり、残った人類も暴動などで殺し合い、ほぼ全滅…という出来事が起こったらしい。けれど、そこは描かれず、ニュースや断片的な映像のみで説明される。

次のシーンでは、シーザーと、かなり人間に近くなった猿たちのコミュニティが映されるので、もうすっかり猿の惑星になってしまったのかのようだった。人間が滅び、もう一度、アウストラロピテクスから進化をやり直しているようだった。
特に、人間が人間同士で殺し合っている未来のニュース映像のあとで、シーザーが「エイプ(猿の軍団)は仲間を殺さない」と言っていたので、彼らが残って、人間が滅びるのも当然だと思ってしまった。

ただ、単純にどちらが悪いというわけではなくて、人間の中にも良い人悪い人がいて、エイプの中にも良い猿悪い猿がいるんですよね。
一触即発の状態になったときに、どれだけ我慢できるか、どれだけ他者を信用できるかという話だと思った。緊張状態に耐えられなくなり、焦って、やられる前にやれという思考回路に陥って、暴走すると均衡がくずれてしまう。もともと一触即発だったのだから、一人でも勝手な行動をとれば、爆発してしまうのだ。
観ていると、臆病者ほど、周囲を信用していないのがよくわかった。弱い者は攻撃されるのが怖いから、先に殲滅に乗り出す。やられる前にやる。我慢をして、どっしりとかまえていることなどできない。

全員がマルコムやシーザーのようだったら、争いごとは起きない。でも、一人一人ではなく、集団になると、その中に必ず臆病者がいる。また、その臆病者が我慢出来ずにとる過激な行動は人目を引くし、そちらに扇動される者も集団の中には一定数いる。流行病のように伝染していって、結局、大きな騒動になってしまう。

最後のほうで、シーザーが猿側の反乱リーダーであるコバを止めようとし、マルコムが爆弾のボタンを押そうとするドレイファスを止めようとしているシーンがあった。どっちの軍団が悪いわけではなくて、結局どちらも同じことをしているのだ。

戦争だけではない。争いごとが起こる仕組みがわかりやすく描かれていた。人間対猿に限った話ではなく、普遍的なテーマだと思う。
また、それらがまわりくどく描かれているわけではないのが非常に観やすい。一つのことについて話していたら、次のシーンでもうそのことが起こっていたりとテンポがいい。

そんな中で、マルコムの息子がオランウータンのモーリスと一緒に本を読むシーンがあるのが良かった。最初は懐疑的だったけど、助けてもらったことで心を開き、打ち解ける。
シーザーが昔、ウィルと住んでいた家へ行き、ビデオに残された映像を見るシーンも良かった。前作を観ている人に対するおまけみたいなシーンですが。
また、最後のマルコムが「共存出来ると思った」という言葉にシーザーが「私もだ」というシーンも良かった。ポスターに使われているおでこを合わせるシーンが出て来るのもここです。
全体的に緊張状態が続き、結局崩壊してしまう映画の中で、両者がわかりあっている数少ないシーンで泣ける。どうしてこのようにうまくいかないのだろう。

マルコムがシーザーに「軍が来るからはやく逃げないと」と知らせると、シーザーが「もう遅い。戦争が始まるからお前が逃げろ」と言うラストシーンがとてもかっこいい。もうマルコムは逃げるしかない。シーザーは覚悟したようにその場に留まる。決意の表情も凛々しかった。
この映画、全体的にシーザーがよくできすぎなくらい恰好良かった。
演じているのはやっぱりアンディ・サーキス。さすがの職人芸。エンドロールでも名前が一番最初に出ます。

シーザーと結局敵対することになってしまうコバを演じたのがトビー・ケベルでびっくりした。確かに猿っぽいけれど。『ロックンローラ』の続編、『ザ・リアル・ロックンローラ』の話がどうなってるのか気になる。

マット・リーヴス監督は『クローバー・フィールド/HAKAISHA』とも『モールス』とも作風が違っていて、戸惑う。『モールス』は『ぼくのエリ 200歳の少女』のリメイクだし、今回も一応続編だから、沿った形になっているせいかもしれない。

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