叙情的でいい邦題だと思うけど、これがベン・ウィショーの『Lilting』(原題)だとは気付きにくいかも。

以下、ネタバレです。







ざっくり、本当にざっくり言ってしまうと、嫁姑問題です。けれど、そこに様々な事柄が絡み付いている。

まず、姑はカンボジア系中国人、“嫁”はイギリス人。お互いの言葉がわからず、通訳を介してしか話ができない。
姑は介護施設に入っている。
“嫁”は男性であり、息子はゲイであることをカミングアウトしようとしたが、事故に遭い他界。“嫁”と書きましたが結婚はしていない。

残された青年は、恋人の母親と一緒に住もうともちかけるが、母親は年代特有の頑固さと、息子をとられた嫉妬と、イギリス文化への馴染めなさなど、様々な感情が入り混じって青年を受け入れることができない。

特に事件が起きるわけではない。一つの大きな、悲しい出来事を発端として、緩やかに過ぎる日々が描かれている。
大切な人がいなくなっても、そこで時が止まるわけではなく、残された人々の日常は続いていく。

死んでしまったカイが生きていた頃の過去のエピソードが何度かはさまれますが、カメラがゆっくり動くと、同じ場所でも過去と現在が自然に移り変わるという手法がとられていた。過去と現在が地続きであるのを感じるし、現在に移ったときにそこに彼だけがいないという喪失感がたまらなかった。大切な人が消えてしまっても、世界は対して変わっていない。
恋人のリチャードも母親のジュンも、まるでカイがそこにいるかのように身近に感じていて、おそらくまだ亡くなったばかりのようだった。

ジュンはカイのカミングアウトを聞かなくても、あれだけリチャードを嫌っていたのだからなんとなくは気づいていたのだろうし、リチャードとカイが暮らしていた家に来たときにはその気持ちは濃くなっただろう。それで、リチャードが箸を上手に使って料理をする場面で確信したのだと思う。
そしてその後、リチャードからのカミングアウトを聞いて、気持ちの鎖を解いたようだった。

通訳を介してしか言葉は通じなくても、大事な人を失った気持ちは同じだから、きっとそれだけで通じ合うことができる。自分だけが悲しいわけではなく、他にも同じように悲しんでいる人がいることに目を向けると、少しは孤独感もやわらぐかもしれない。

二人の心の交流とはいっても、まだまだほんの入り口あたりまでしか映画では描かれていない。でも、おそらく今よりはいい関係になるだろうというのはわかる。
ほんの短い間の出来事を切り取って、繊細に丁寧に描いている。

通訳を介した演技というのは相当難しいのではないかと思う。特に、怒鳴り合いというか、一気に険悪になるシーンはおもしろさすら感じてしまった。
感情が爆発するのは通訳が相手の言葉を伝えた後であり、その爆発した感情は通訳を介さないと伝わらない。時間差なのだ。
そして、通訳でワンクッション置いても、空気は悪くなることには変わりない。それは、何を言っているかはその時にはわからなくても、口調や表情でなんとなくの感情は伝わるからだろう。
リチャードとジュンが二人で話すシーンでは、ジュンの北京語(多分)のセリフには字幕がつけられておらず、観ている私たちもリチャードと同じタイミングでジュンの気持ちを知ることになったが、不快に思っているのはセリフの前に理解できた。

二人の間に入る通訳は重要な役柄だと思う。それでも、パンフレットの表紙やメインビジュアルに、通訳とリチャードが踊るシーンが使われているのはどうかと思った。踊るシーンならば、カイとリチャードのほうがいい。

二人のシーンはどれも美しかった。
リチャードを演じているのがベン・ウィショーなのだが、彼は今までアクの強い役が多かったと思うけれど、今回は素なのではないかと思わされるほど自然体の演技だった。
特に、カイと一緒の過去のシーンはとても幸せそうだった。とろけてしまいそうな笑顔を見せていた。

カフェで機嫌を損ねたカイの眉間を優しく撫でて戻そうとするのも良かった。頭ごと愛おしそうにやわらかく抱きしめるのもいい。
ベッドシーンというか、ベッドで裸で二人で寝ているシーンも何度かあるけれど、そのどれもが夜ではなく、朝の光の中での会話なのも印象的だった。いやらしくはないけれど、色っぽい。
いちゃいちゃと言ってしまってもいいと思うけれど、猫のように絡み付くベン・ウィショーが可愛いし、リチャードは本当にカイのことが愛おしいのだというのがわかる。

それと同時に、ベン・ウィショーご本人も、好きな人の前ではこんな感じなのではないかと妄想してしまった。ふにゃっとした笑顔も、おそらく好きな人にしか見せない。

映画ではそれをおすそわけしてもらったようだった。でも、もちろんスクリーンのこちら側ではなく、リチャードとしてカイに向けられている。ああ、私は本当はこの二人が幸せになる話が観たかった。
このように、二人のシーンにうっとりすればするほど、もうカイはいないんだ…という現在がつらくなってしまう。

二人がダンスをするのは観念的なシーンである。おそらく、現実に起こったことではない。ここでのカイとリチャードの身長差もいいのだが、少し低いリチャードが縋るようにカイを抱きしめるのも良かった。カイも、もう離さないというようにリチャードを抱き返す。

二人のシーンはたくさんあるような気がしていたけれど、三箇所しかないらしい。確かに、ベッドとダンスとカフェだけだ。そうとは思えないくらい印象に残っている。とても濃厚で濃密な関係に思えた。

カイを演じたのがアンドリュー・レオン。父が中国人、母がイギリス人でロンドン生まれ。本作が映画初出演らしい。去年、『ドクター・フー』にも出演したらしい。

ちなみに通訳を演じたナオミ・クリスティは演技経験すらなかったというのも驚いた。

監督のホン・カウは今作で長編デビュー。75年カンボジア生まれ。ベトナムで育ち、8歳の頃にロンドンへ移住。両親は中国系らしい。そう考えると、自伝的な意味も含まれている映画なのかもしれない。



160万部を売り上げている小説が原作とのこと。
映画が始まる前に、“エンドロール後に第二章の予告編が流れます”というような注意書きが流れ、この映画を最後まで観ても決着がつかないんだ…と思いながらの観賞になってしまった。
でも、続編があるのを知らずに最後まで観て決着がつかないほうが文句が出たかもしれないので、前提としてふまえさせてくれたのは良かったのかもしれない。

以下、ネタバレです。







ある若者が謎の場所に急に放り込まれるところから物語が始まる。
記憶も無くしているし、何もわからないということで、観賞している私たちと一緒に謎を解いていき、少しずつ物事が明らかになっていくスタイル。
また、どうやら閉じ込められていて、そこからの脱出をはかるということで、『CUBE』や『ソウ』系統でもあると思う。

違うのは、閉じ込められているのが若者たちであるという点。そして、性格に外見がぴったり合っていて、それが各キャラクターでかなり特徴的なため、漫画っぽく見えた。ガタイのいいリーダー、細いイケメンは全ての上で中立派、アジア系の頭が切れる子、腕っ節が強く男らしいタイプ、低身長でくせっ毛でおデブだけど下っ端の愛されキャラ…。登場人物は多いけれど、特徴があるのでおぼえやすい。
ランナー側にも主要な人物がいたらなとも思うけれど、そうすると主人公と性質がかぶりそうなのでいなかったのだと思う。

登場人物それぞれに愛着がわいたけれど、物語の性質上、どんどん死んでしまう。残り二作あるというのに、主要人物も容赦なく。これ以上死なないでほしい…と思いながら観ていた。

特にウィル・ポールター演じるギャリーが死んでしまうのは残念だった。『リトル・ランボーズ』『なんちゃって家族』も良かった彼が、まさか一作目で死んでしまうとは思わなかった。やっぱり、少し悪人顔だからでしょうか。
後半で、残ると宣言したときも、迷路に突入していった主人公たちを途中で助ける展開なのだと思っていた。離脱した主要級のキャラは、主人公がピンチの時に助けに来る、ガンダルフの法則です。
助けに来て仲直りするのもいいし、助けに来た結果で命を落とす場合は仕方ないと思える。でも、何故か追いかけて来て、途中で敵に刺されていたので正気を失っていて、仲間に殺された上、愛されキャラのチャックを道連れにするという…。

原作があるものなのでその通りなのだと思うけれど、ギャリーは仕方ないにしても、チャックまで殺す必要はあったのだろうか。感動シーンのために入れたのかもしれないけれど、不条理さしか感じなかった。それか、後二作がよりハードなものになるからこの辺でチャックは退場させたということだろうか。

ギャリーは、記憶をなくしていてもおそらく外の世界であんまりいい扱いを受けていなかったんじゃないかと思う。親からか、友達からかはわからないけれど。だけど、閉じられた世界では、それなりに上のほうの地位にも立っていたようだったし、尊敬もされていたようだったし、仲間もいた。だから、もう中でぬくぬくと暮らしていきたかった。壁で守られた世界はさぞ居心地が良かっただろう。乱暴者のようにも見えるけれど、臆病な子供であり、かなり保守的な人物のようだった。
あとから突然現れて、状況を変えようとする主人公トーマスと対立するのもよくわかる。リーダーがいなくなってからは尚更だ。

人物像を考えてしまうくらい好きなキャラになったのに、あの最期は本当に残念だった。

トーマスと一緒にわけがわからないながらも謎解きをしながら観るのはわくわくする体験だった。夢もたぶん記憶なのだろうし、その断片的な情報から予想するのもおもしろかった。WCKDという謎組織がどうやら諸悪の根源なのだというのもわかってくる。

直接的に攻撃してくるグリーバーは蜘蛛や蠍のようなデザインで、機械のような外見ながら、人間の内臓のようなものも併せ持つ。内臓の奥に機械のパーツが出て来て、そこに出ているデジタルの数字がキーになって…という展開も面白かった。

中の世界で策を練って、それを元に迷路に乗り出して攻略するのはゲーム的でもあったし、その二つだけを舞台にして話が進んでいくのがコンパクトでおもしろかった。

ただ、今回で迷路は脱出してしまったし、主人公が何者かということも含め、謎もほぼ解けてしまった。
三部作なので、根本的な謎は残されているけれど、最後の方の展開と予告編を観る限り、話が大きくなりすぎそうな気がする。
あと、今回のように若者だけというわけではなく、大人も出てきそうだ。子供対大人というようになるのだろうか。

原作があるものなので仕方ないとは思うけれど、この一作で終わりにしてもらっても良かった。『CUBE』や『ソウ』も一作目が一番おもしろかった。

少年少女が集められて、それが実験で外部から見られてるというのは、まあそうだろうなという感じ。外の世界は更に地獄だったというのは、少しダンガンロンパを思い出した。
ちなみに、WCKDと書かれていたけれど、Wickedと呼ばれていた団体、最後の方で団体の代表みたいな女性が正式名称を言うけれど、字幕には出ず。調べてみたら、World In Catastrophe:Killzone Experiment Department(大災害の世界:戦場実験部、みたいな感じ…)だそう。

あと、さきほど少年少女と書きましたが、集められた若者が何歳設定なのかいまいちわからなかった。ニュートを演じるトーマス・サングスターは実際には25歳だけれど、かなり幼く見える。確実にティーンです。細身のタンクトップが似合っている。

主人公のトーマスを演じたディラン・オブライエンのほうが年下なのにびっくりする。一つ下の24歳。原作では16歳設定らしいけれど、ぎりぎり20歳くらいに見える。

ウィル・ポールターは更に年下の22歳。年相応か、少し下に見える。トーマスが16歳設定ということは、全員ティーンの設定なのかもしれない。

ただ、途中から加わるテレサ役のカヤ・スコデラリオが23歳ながらかなり大人びていて、トーマス・サングスターと並ぶと親子のように見える。また、小綺麗で、トーマスやニュートたちと一緒に行動していてもサバイバルっぽさを感じない。
「私たち、組織の人間なのよ」と言われても、確かにそのほうがしっくりくると思ってしまった。
今作ではあまり活躍もしないので、次作からどう動くのか気になるけれど、予告編を見るとトーマスとの恋愛もはさんできそうだった。ラブ要素は本当にいらないです。




少し前に英語字幕で観たので、日本語字幕で観た軽い感想。
以下、ネタバレです。






答え合わせがてら日本語字幕でも観たんですが、結局、ゾンビがなんで蘇ったのかわからないままだった。私が理解していないわけではなく、原因はわからないということが映画で言われていたと思う。
それとも、わからないってことになっているし、本人は行方をくらませていて直接は聞けないけれど、本当はパーリーンなのだろうか。でもそうすると、ベス以外のゾンビを蘇らせる必要がないから違うか。

『アバウト・タイム』のタイムトラベルルールもそうなんだけど、この映画もゾンビルールが明確でない点が一番気になる。
タイムトラベルもゾンビも、現実には存在しないものだし、ルールなんて勝手に作ってくれていい。むしろ、独自のルールがあったほうが面白い。
今回の、スムースジャズが好き、屋根裏が好きというのもいいと思う。ここも、英語で観た限りだと、なんでスムースジャズを聴いて気持ちよくなっているのかがわからなかったけど、そうゆう性質のゾンビだった。
それはいいけれど、他の部分の整合性がとれていないと、ただ単に、話を都合良く進めるための要素にしかならない。

今作では、ゾンビが人を襲う基準がわからない。そのため、怖さや緊迫感をまったく感じなかった。
「奴らは脳みそを喰う」「狭い範囲内の出来事で、収束に向かっている」という別々のシーンで出てきたセリフから、どうやら、食べられた人がゾンビになる感染型ではないらしいのはわかる。

でも、ザックの家に来た死んだおじいさん、家の前のオーナー夫婦などは、ザックの家族を食べようとはしていなかった。普通の人間のように会話をしていた。次第に理性がなくなって、凶暴化するのだろうか。

ベスは蘇ってきたときよりも、徐々に攻撃性が増していた。けれど、時間経過とともに凶暴化するならば、みんな一斉に蘇ったのであれば、一斉に凶暴化するはずである。このタイミングがずれていたということは、ベスと他のゾンビは違うタイミングで蘇ったのではないだろうか。そうすると、収束に向かっていても、原因がわからない以上、また新たに蘇ってくることもあるのではないだろうか。

パーリーンの家の前で会った裸のゾンビは、裸で外を歩いていたので理性があるとは言えない。しかし、凶暴化もしていないし、ザックのことを食べる様子も無かった。
その後で、気絶させられたザックが路上で倒れ、おそらく長時間そのままだったようだが、目覚めたときに、ゾンビは上から見ているだけだった。
路上に人間が気絶して倒れていたら、エサにならないほうがおかしいと思う。なぜ、ザックはおそわれないのだろうか。

もう、ザックはゾンビ(ベス)とセックスしたからゾンビに襲われないとか、勝手にルールを作っちゃえば良かったのに。そうでないと、ただの主人公補正にしか思えない。


最初の方で、ザックがゼリーを持ってベスの家へ行きますが、日本語字幕で観て、幼い頃ゼリーが好きだったからという理由があったのがわかった。

あと、改めて観ても、息子を思う母の気持ちなのかどうかわからないけれど、アナ・ケンドリックの役の女性は出てこなくていいと思うし、後日談としても不要だと思った。

デイン・デハーンについてですが、最初のベスの死に悲しむ姿は美しい。
なんとか家に入れて欲しいと必死になっているシーンでは、真夏なのに着けたままのベスの形見のマフラーの先端を、ぶらぶらしちゃうからTシャツの中に入れるのが細かいなと思った。不法侵入かと兄に咎められているときに、見上げているのも可愛い。
ベスといちゃいちゃしているシーンは彼らしくないので違和感がある。これもゾンビルールなんですが、蘇ったゾンビは欲求不満になっていたりするのだろうか。それとも、ベスが元々そんな子だったのだろうか。生前のベスがどんな子だったかという描写がまったくないのでわからない。
最後、ベスを撃った銃を投げ捨てて、兄に怒られるシーンは面白かった。兄との絡み、というか兄のキャラクターは、日本語字幕でよりわかりやすくなっていて、どんな場面でもギャグ要因なのがわかりました。

でも、オナニーしようとするデハーン、流行遅れの海パンをはくデハーン、ギターを弾いて歌うデハーン、Tシャツにボクサーパンツという部屋着のデハーンと、いちゃいちゃバカップルシーンも含め、他の映画では観られない姿は観られます。


2014年公開。イギリスでは2013年公開。
『ラブ・アクチュアリー』、『パイレーツ・ロック』のリチャード・カーティス監督。

主人公がタイムトラベル能力を身につけるところまでは前情報を入れていたのですが、まさかそれが、父親からの告白で「うちの家系の男は代々…」みたいな話だとは思わなかった。
きっかけがやんわりしたものなら、タイムトラベルのルールもやんわりとしたもので、クローゼットやトイレなど暗闇に入って戻りたい場所を想像して握りこぶしを作るというもの。目を開けたらもう時代が変わってます。
過去にしか戻れないとのことだったけれど、自分が経験した過去だけなのかと思ったら、住所・時間などを聞いて戻ることもできるようだった。

もう一人の自分と会えるタイプなのか、それとも過去の自分は消えてしまうタイプなのだろうかと思ったら、現在の記憶を持ったまま過去の自分になれるという新しいタイプだった。
後半一箇所だけ、子供の姿になるシーンがあるけれど、あれは姿は子供で心は大人だったのだと思うと…。ぼんやりとした描かれ方をするので、心情などはわかりませんが。

父親は好きな本を何度も読むために時間をさかのぼったらしい。
主人公は、自分の恋愛のために能力を使う。
運命の出会いをしたあとで、別の用事のために彼女に出会う前に時間をさかのぼり、現在に戻ると彼女とは会っていないことになってしまっていた。
手に入れた情報を駆使して彼女に出会い、恋に落ちるまで何度も時間を遡ってやり直していた。何度もやり直す様子や、前回おぼえたことを使う様子はまるで『オール・ユー・ニード・イズ・キル』のようで面白かった。

ただ、この映画では出会って恋に落ちるだけではなく、結婚、出産…とその先の普通の人生も描かれている。
個人的には、タイムトラベル能力を生かして、運命の彼女にもう一度出会うまでを濃く、しつこく描いて欲しかった。辻褄を合わせようとしておかしくなったり、邪魔が入るのをなんとか避けたりしつつ、最後にはジグソーパズルがぴたっと合うようにして、やっと出会ってハッピーエンドという感じで良かった。

私は恋に落ちるシーンが描かれている映画が好きですが、この映画の場合、最初の一回は偶然の出会いから恋に落ちるけれど、その次は演出された出会いと会話により、悪い言い方をしたら操るようにして手に入れた彼女なのである。
その先の生活は平穏そのものでしたが、元々の出会いなどについて、彼女が知ったらどう思うだろう。結局、タイムトラベルの能力については彼女には明かされないままだ。何年も一緒に生活している描写を観ていると、その秘密について一切明かさないのが不自然に思えた。バレることもなかったのだろうか。

もちろん、父親から話を聞いたときに内緒だと注意されていたけれど、自分の妹にはあっさり明かしていた。妹の窮地はタイムトラベルで救っても、自分の恋人(奥さん)の窮地はいままで無かったのだろうか。

どうしたって、秘密を共有しているほうが関係が濃く思える。だから、彼女との出会い以降もやるのであれば、結婚などという話より、元々の育ってきた家族側の話を優先してほしかった。

ただ、タイムトラベル能力のせいで、人の死すらも軽いものになってしまっている。父親の葬式をやっている最中に過去に戻って、過去の父に会ったりしていた。
三人目の子供が産まれたら、その前に死んだ父の生きている頃には戻れない(子供の遺伝子が変わってしまうから)と苦悩するシーンがあったけれど、死んだ人には二度と会えないのが普通である。
そして、子供が産まれる直前に最後の別れをしにいくが、その父と一緒に更に過去に飛ぶ。そんなことをしたら、一人目、二人目の子供が産まれる前だし、彼女とも出会う前に戻っちゃったけど、あれは別に未来は変わらなかったのかな。「未来を変えないように慎重に」ってセリフがあったけれど、そのセリフで全て説明したということなのでしょうか。

主人公は父親から、一日を二回経験すると、一回では気づかなかったことに気づくという教訓を授かる。二回目は失敗も回避出来るし、あまり良くない状況でも常に笑顔で接することができる。帰宅の電車の中で、隣りの人のイヤフォンの音漏れが気になったって、一緒に体を揺らしちゃう。このように余裕を持って暮らすことができる。
申し訳ないけれど、そりゃそうだろうよとしか思えなかった。
そんなことを言われても、普通の人には一日は一回である。一日の大切さを描きたいならば、主人公はなんらかの状況でタイムトラベル能力が使えなくなったほうが良かったと思う。そうでないと、感情移入出来ない。一日は繰り返せないから大切なのだ。

回数制限や年齢制限などもなく、無限に使えるパワーならば、話のバランスが崩れるし、ご都合主義としか思えない。

主人公ティムを演じているのがドーナル・グリーンソン。
『Frank-フランク-』でもそうでしたが、巻き込まれる系というか、積極性がいまいち足りない情けない男役が良く似合う。でも、誠実でいい人なイメージ。
彼も『スター・ウォーズ』の新作に出るんだと思ったけれど、こんな細腕・色白ではこの人も主役向けではない。
応援したくなる感じはあるので、主人公成長ものならば主役でもいいのかも。
オスカー・アイザックがハン・ソロの息子役という噂もあるようなので、もしかしたらルークの息子だったりして。

父親役のビル・ナイは卓球をしている姿が素敵でした。
妹のチャラい彼氏役にトム・ヒューズ。チャラいと言われていたけれど、別にそれほどチャラい様子は無かった。チャラいならチャラいシーンがもっとあれば良かった。
でも、『CEMETERY JUNCTION』の役の子が成長したらこの映画の子みたいくなるかもしれないなとは思った。暴力は振るわないです。そもそも、それほど出番が無い。
この二人の俳優が好きなこともあって、やっぱり家族側を中心とした話だったら良かったのにと思った。






『太陽がいっぱい』の原作者パトリシア・ハイスミスの『殺意の迷宮』が原作。監督は『ドライヴ』の脚本家ホセイン・アミニ。音楽はアルベルト・イグレシアス。キャストは富豪役でヴィゴ・モーテンセンと妻役にキルスティン・ダンスト。そこに絡む旅行ガイド役にオスカー・アイザック…という感じに、スタッフ・キャストを並べてみただけで大体の雰囲気がわかる。

以下、ネタバレです。






ヴィゴ・モーテンセン演じるチェスターとキルスティン・ダンスト演じるコレットが金持ち夫婦で、旅行中の彼らをオスカー・アイザック演じるライダルが騙すようなシーンがあるため、悪役というか、元凶はライダルなのかと思っていた。
でも、ライダルは小銭をちょろまかす程度の詐欺しか働かず、チェスターがもっと悪い奴だった。ライダルはただただ巻き込まれていく。

わりと序盤でチェスターは人を殺してしまい、ライダルはその逃避行に付き合わされる。チェスターは殺人のせいもあるし、ライダルとコレットの関係にも嫉妬してしまうので、全体的に追いつめられている。そのため、本当に最初の方だけ身なりがきっちりとしているものの、大体のシーンで御髪は乱れ、シャツの襟元はだらしなく開いてしまう。そんな疲れきったヴィゴ・モーテンセンがセクシーでした。
後半で、空港で検査を受けるシーンがあるんですが、その時にはきっちりに戻って、それはそれで恰好いい。金持ちらしさなのか、ジャケットが白いのも似合います。

『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』以来のオスカー・アイザックだったんですが、彼もとても良かった。今回は髭はない。そのせいなのか、目元がどんよりしているのが目立った。
笑っていても目元が暗いのが気になる。『スター・ウォーズ』の新作も控えているけれど、あの目つきでは曇りの無いヒーローはできないと思う。何か裏がありそうというか、影を背負っていそう。でも、そんなところがとても気になる。常になにか、悪いことを考えていそう。

今作では、序盤からチェスターをじっと見つめていて、それは、まるで獲物を見つけたハイエナのように見えた。父親に似ているという理由を口にしていたけれど、それも口からでまかせなのかなと思ってしまった。本当だったようですが。

話の中では、ライダルがチェスターをカモにするのかと思っていたら、次第に立場が逆転していく。チェスターがどんどん悪魔のようになっていき、ライダルは魅入られた若者のようだった。離れたいけれど離れられず、話が進むにつれて、関係がどんどん濃厚になっていく。特に、コレットの死以降は、秘密の共有のせいで、互いに憎みつつも離れることができないという、運命共同体のようになってしまった。

船においかけてきたライダルがチェスターの正面に座るシーンが良かった。ライダルはコレットを殺されたことで怒りのあまり涙ぐみながらチェスターを睨みつけ、チェスターも余裕の表情を浮かべながらも本当は殺したくなどなかったと涙ぐむ。
セリフは一切ないし、表向きは他の人の目を警戒してただ単にテーブルに向かい合って座っている二人のように見えるけれど、その実、二人の周囲の空気だけが強烈に濃くなるのがわかる。セリフはなくても、怒り、憎しみ、哀しみなど、激しい感情が入り混じって絡み付くのがわかる。二人の演技のうまさのせいもある。

また、空港で、親子を装うシーンも良かった。元々、父親に似ているということで近づいたことを後悔している気持ちもあっただろうし、父親が亡くなった今、父親のような人物と一緒にいる皮肉も感じた。ここも、顔は笑いつつも、ひそひそと憎しみの言葉をぶつけるのが良かった。
あと、それまで、ほとんど睨むようにしてチェスターを見ていたライダルが「父さん」と言うときだけ、少し甘えたような、優しい表情になるのも見のがせなかった。オスカー・アイザックの活躍は今後も楽しみです。

最後、死ぬ間際にちゃんと謝罪の言葉を口にして、罪も全て認めるということをやってのけるあたり、チェスターもライダルのことを憎んでいただけではないのがわかった。ライダルもチェスターの墓参りに訪れていたし、お互いにこんな出会いでなければ、親密になれたのかもしれない。ただ、秘密の共有により濃くなった関係とも言えるからどうだったろう。ただの、現地ガイドと旅行者として、互いに通り過ぎていく関係で終わったかもしれない。

チェスターとライダルの愛憎入り混じった関係がとても良かった。愛1:憎9くらいの関係であったとしても。

舞台がギリシャのアテネ、クレタ島、トルコと異国情緒あふれているのも良かった。
ただ、少し土曜ワイド劇場っぽさを感じたのはなんでなんだろう。原作が発行されたのが1964年、舞台が1962年の話だからか、古典ミステリーの雰囲気があるからだろうか。いかにもあやしげな音楽のせいかもしれない。


立派な邦題を付けてもらいましたが、『スティーヴとロブのグルメトリップ』の続編。
監督は同じくマイケル・ウィンターボトム。こちらも完全版がテレビシリーズで放映されたようです。

以下、ネタバレです。
『スティーヴとロブのグルメトリップ』のネタバレも含みます。





前作とほとんど同じです。舞台がイングランド北部からイタリアに変わっただけ。なので、タイトルも『スティーヴとロブのグルメトリップ:イタリア編』などにしたほうがわかりやすそう。
今作でも、料理を作っているところが少し映ったり、テーブルに運ばれて来るときに店員さんが料理名を言ったりはするけれど、彼らが料理に対するコメントをすることはほとんどない。
じゃあ何をしているのかと言ったら、今作ももちろんモノマネである。
そういえば、今作では運ばれて来たパンをちぎって両頬に入れてモノマネの小道具として使ったりもしていて、やっぱりこれはグルメ映画ではないと再確認させられた。
でも、馬鹿馬鹿しいお喋りや、時々本当に笑っちゃってるところなど、本当に観ているこちらまでにこにこしてしまうシーンばかりだった。

前作ではどっちが似ているかのモノマネバトルが多かったけれど、今作ではモノマネを交えた即興コントみたいなのも飛び出してより楽しい。
特に、お馴染みマイケル・ケインのモノマネから『ダークナイト ライジング』ネタになり、クリスチャン・ベールとトム・ハーディ(というかベイン)のモノマネまで出てきたのは、元ネタが好きなこともあって本当におもしろかった。多分、一人で観ていたら声を出して笑っていたと思うけれど、周りで誰も笑っていなかったので、声を堪えるのに必死だった。堪え過ぎて、なぜか涙が出てくるほどだった。しかも、このシーンはしつこいし結構長い。

今回は運転のおともとして、ロブがアラニス・モリセットのファーストアルバム『Jagged Little Pill』を持ってくる。スティーヴは、最初、アラニス・モリセットを馬鹿にするような発言をしていたけれど、曲を流せば、歌詞につっこみを入れたり一緒に歌ったりと楽しそうで、本当は好きなのがわかる。
スティーヴの憎まれ口は、単なる憎まれ口で、本心は別のところにある人物なのだというのがわかる。だから、ロブに対しても終始わーわー文句を言ってるけれど、本当は好きなんだろうねと思う。
『Hand In My Pocket』を歌いながら、実際に片手をポケットに片手でハイファイブをして、ロブに危ないからやめろと言われるシーンも笑った。「だってアラニスがそう言うから」としれっと言うスティーヴに、「運転してるときには両手でハンドル持てってアラニスも言うよ!」とロブ。

掛け合いが本当にどれも楽しい。
「アメリカでも英国人バーに行ってたくせに」と罵られたスティーヴが「アメリカ人にも友達いるよ。オーウェン・ウィルソンとか」と答える。咄嗟に彼の名前しか出てこないあたり、本当に友達がいなさそう。「『ナイトミュージアム』撮影以降会った?」と聞かれ口ごもっていた。

それ以外にも、眉を片方ずつ交互に上げるのがどちらがうまいか競ったり、マンドリンの真似をしたりしていた。
会話自体、全部何気ないし、脚本がないと書いてあったけれど、大筋のキャラクター設定はあるにしても、本当にすべてアドリブなのかもしれない。
でも、そんな仲良し同士の会話を覗き見るのが本当に楽しい。罵り合いながらも、相手の言うことに爆笑しちゃったり。もう年齢的なこともあるだろうけれど、大げんかをしてもこの二人はすぐに元通りになると思う。

少し話し出すとお喋りが止まらなくなるのだけれど、それはレストランで料理が運ばれて来ても同じこと。普通ならば、おいしそうな料理が来たら目を奪われるし、食べたら料理の感想を言うはずだ。お喋りよりも料理に興味が移る。
けれど、彼らの場合、興味はずっとお喋りやモノマネに釘付けなのだ。話題の中心が料理には移らない。
おいしそうな料理が出てくれば出てくるほど、それを越えてしまう会話の大事さが際立ってしまう。そのためのグルメ描写なのではないかと思わされるほどだ。

前作を観ていないと話がわからなくなるような続き方はしていないけれど、観ていると余計に楽しい。カメラマンの女性の話が出てきたときにも、前作に出てきたあの人か…とスティーヴと一緒に気まずい気分になれたりもする。

前作が公開されたのが2010年、今作が2014年。撮影されたのはそれぞれ少し前としても、数年間空いている。
しかし、ノリ自体はまったく変わらない。私が視聴したのは10日ほど前ですが、本当に同じ。
久しぶりに会っても、本当に親しい友人だとすぐに元の調子に戻る

ただ、二人の関係は変わらなくても、二人それぞれの個人的な状況は変わっていたようだ。
前作で、行く先々で女性と寝ていたスティーヴは、ギラギラした野心みたいなものがなくなり、丸くなったようだ。最後も、別れた妻と一緒に住んでいる息子の側に住みたいと言っていた。

一方、ロブは、前作の最後で妻と離れたくないと言ってベタベタになっていたけれど、今作では妻に電話しても、子供を優先されてないがしろにされてしまう。アメリカでの役が貰えた話をしようとしても、聞いてもらえない。夫婦仲が冷えているようだった。

ちゃんと時の流れを感じる。年月は移り変わり、時間が積み重ねられている。前作を観ていると、それがわかって感慨深い。

また、前作と今作がなんとなく対照的な作りになっているのもわかる。
今作では、スティーヴはカメラマンの女性とは寝るものの基本的におとなしい。今回、アバンチュールにはまってしまうのはロブのほうだった。仕事の面でも悩んでいるようだった。

これは、イギリス盤のDVDのジャケットが象徴していた。
二人が並んでいるのは一緒だが、前作、『スティーヴとロブのグルメトリップ』では、ロブがガハハと笑っていて、スティーヴが難しい顔している。『イタリアは呼んでいる』のほうは、スティーヴがにっこりしていて、ロブが眉をひそめてる。
二人ともに中年の悩みは感じるけれど、より深く考えているのは、前作ではスティーヴ、今作ではロブなのである。
そのため、片方を観ておもしろいと感じたら、両方を観た方が対になっているのがわかっておもしろいと思う。それなのに、日本版では邦題がまったく別作品のようになってしまっているのが残念である。

『アーティスト』のミシェル・アザナヴィシウスが監督&脚本。
サイレント映画調に撮影された『アーティスト』とは作風、雰囲気などががらりと変わり、今作はチェチェン紛争について描かれている。

以下、ネタバレです。







邦題と"両親を殺されたショックから声を失った少年"云々のあらすじを見ると、少年とそのサポートをする大人の心のふれあいを描いた感動のヒューマンドラマだと思っていたが、実際にはゴリゴリの戦争ものだった。

そんなものなのかもしれないけど、ちょっとしたきっかけで一気に普通に喋れるようになる。少しずつ話して、最後に普通に会話ができるようになって、ああ、良かった、めでたしめでたしではない。

原題が『The Search』なのでそのような邦題になったのだろう。もちろん、心のふれあいを通じて…という面もある。けれど、探しているのは声だけではない。

最後に“1948年の『The Search』にインスパイアされました”という文言が出る。アカデミー賞三部門ノミネート一部門受賞の本作は、『山河遥かなり』の邦題で日本でも公開されている。
もちろん、時代的にチェチェンではなく、ナチス関連の話らしい。母親と離ればなれにされて、子供が失語症になってしまう。こちらは、アメリカ兵と子供の心の交流があるようだ。母親が子供を探すことになるので“The Search”。
なるほど、今作ではアメリカ兵が国連の欧州人権委員会の女性、子供を探すのは姉だけれど似ている。

オープニングは手持ちカメラで戦闘地域を映しているシーン。手持ちカメラも綺麗な映像ではないし、劇中の誰かが撮っている様子でリアリティがある。
カメラの前で、少年ハジの両親が殺されるが、その様子もリアル。
隣で泣き叫ぶ姉、声をひそめて近くの家からその様子を見るハジともに、演じている役者さんが実際にチェチェン出身で、映画出演も初めてということで、ドキュメンタリーのように見えたのかもしれない。

程なくして、国連の欧州人権委員会の女性キャロルが出てくるが、その方はいかにも女優さんのようだったので、これは映画であるとほっとしてしまった。だけれど、実際にチェチェンで起きたことだろう。

キャロルを演じたのは、ベレニス・ベジョ。『アーティスト』でもヒロインを演じていた。監督のパートナーでもあるらしい。
いかにも女優さんと思ったのは演技が下手というわけではなく、立ち居振る舞いがしゃんとしているというか、おそらくチェチェンの難民の役の方々は役者さんではないと思うけれど、その中でオーラが隠しきれていないというか、少し違った雰囲気が出てしまっていたのだ。

キャロルとハジの交流も描かれないわけではない。野良猫のようだったハジが、キャロルにネックレスをプレゼントするシーンはいじらしさに泣けた。
けれど、この映画が他と違うのは、チェチェンの一般人からだけでなく、ロシア兵側からのストーリーもしっかり描いているところである。

ロシアの若者が、おそらくマリファナを吸っているところを警察に見つかり逮捕される。もしかしたら路上喫煙かもしれないけれど、刑務所云々の話も出ていたので、単に煙草ではないと思う。
刑務所にははやいということで、強制入隊させられてしまうのだ。

ロシア兵の話は、キャロルとハジの話と並行して描かれる。ハジが少しずつ回復し、キャロルもハジのことが好きになって。とにかく、話は良い方向へ進んでいく。
しかし、ロシア兵側の話は、普通の若者が戦地へ送られ、上官に殴られ、遺体の処理をする日々の中で、徐々に心が死んでいく様が描かれていて、見ていてつらかった。
最初は純粋で涙すら浮かべてた。しかし、暴力にまみれ、遺体に慣れて、その世界での処世術を学んでいく。特に、いじめられている兵士を何発も殴ったあたりからは、完全に変わってしまったようだった。
一 目おかれるようになり、クスリと酒を貰い、飛び立つヘリコプターの下に忍び込む“遊び”を教えてもらうシーンが印象深い。この世にこんなエキサイティング なことがあるのか!というような表情、叫び声。皮肉であるが、そんなことで生きている喜びを感じているようだった。もう狂っているのだろう。

程なくして前線にかり出され、初めて人を撃ったときには動揺こそしても、それにも慣れていく。戦場でもにやにやと笑っている他の兵士たち、老人や子供を“獲物”と呼ぶ兵士たちも、もしかしたら、最初は同じように純粋で涙ぐむことだってあったのかもしれない。


並行して描かれていているとは言っても、きっとハジたちとまったく関わらないということはないのだろうと思ったら、ラスト、ロシア兵が壊れかけたビデオカメラを手に取る。
冒頭のハジの両親が殺された映像を撮影していたのが彼だったのだ。

どこかうんざりしたような口調と、中立性を感じたので、もしかしたらジャーナリストなのではないかと思っていたが彼だった。まったくの悪人ではないような感じではあっても、殺すのを止めないのだからやはり他のロシア兵と一緒である。

しかし、こんな形でオープニングへ繋がるとは思わなかった。構成がうまい。
両方の立場から、更にハジを探す姉の話も含め、多角的に描くことによって、全貌がわかるようになっている。

個人的にはロシア兵の話の方が印象に残った。
演じたのはマキシム・エメリヤノフというロシアの俳優。若い頃のトム・ハーディに見えるシーンもあった。

ハジ役のアブドゥル・カリム・ママツイエフ君も良かった。常にハの字困り眉。
実際にチェチェン生まれであり、両親とも別れているらしい。現在は叔父と一緒にフランスへ亡命しているとのこと。
途中でBee Geesの“You Should Be Dancing”に合わせて、見事なダンスを披露するシーンがある。そのため、ダンスで採用されたのかと思ったけれど、ダンスをおぼえるのが大変だったと言っていて、役に決まってから練習したのがわかって驚いた。
よくあるヒップホップ系のものではなく、どこか民族舞踊っぽさすら混じっている独特のダンスだった。“父はダンスがうまくて”という話が出て来るので、その伏線も回収されている。印象的なシーンである。