『ライフ・アフター・ベス』


少し前に英語字幕で観たので、日本語字幕で観た軽い感想。
以下、ネタバレです。






答え合わせがてら日本語字幕でも観たんですが、結局、ゾンビがなんで蘇ったのかわからないままだった。私が理解していないわけではなく、原因はわからないということが映画で言われていたと思う。
それとも、わからないってことになっているし、本人は行方をくらませていて直接は聞けないけれど、本当はパーリーンなのだろうか。でもそうすると、ベス以外のゾンビを蘇らせる必要がないから違うか。

『アバウト・タイム』のタイムトラベルルールもそうなんだけど、この映画もゾンビルールが明確でない点が一番気になる。
タイムトラベルもゾンビも、現実には存在しないものだし、ルールなんて勝手に作ってくれていい。むしろ、独自のルールがあったほうが面白い。
今回の、スムースジャズが好き、屋根裏が好きというのもいいと思う。ここも、英語で観た限りだと、なんでスムースジャズを聴いて気持ちよくなっているのかがわからなかったけど、そうゆう性質のゾンビだった。
それはいいけれど、他の部分の整合性がとれていないと、ただ単に、話を都合良く進めるための要素にしかならない。

今作では、ゾンビが人を襲う基準がわからない。そのため、怖さや緊迫感をまったく感じなかった。
「奴らは脳みそを喰う」「狭い範囲内の出来事で、収束に向かっている」という別々のシーンで出てきたセリフから、どうやら、食べられた人がゾンビになる感染型ではないらしいのはわかる。

でも、ザックの家に来た死んだおじいさん、家の前のオーナー夫婦などは、ザックの家族を食べようとはしていなかった。普通の人間のように会話をしていた。次第に理性がなくなって、凶暴化するのだろうか。

ベスは蘇ってきたときよりも、徐々に攻撃性が増していた。けれど、時間経過とともに凶暴化するならば、みんな一斉に蘇ったのであれば、一斉に凶暴化するはずである。このタイミングがずれていたということは、ベスと他のゾンビは違うタイミングで蘇ったのではないだろうか。そうすると、収束に向かっていても、原因がわからない以上、また新たに蘇ってくることもあるのではないだろうか。

パーリーンの家の前で会った裸のゾンビは、裸で外を歩いていたので理性があるとは言えない。しかし、凶暴化もしていないし、ザックのことを食べる様子も無かった。
その後で、気絶させられたザックが路上で倒れ、おそらく長時間そのままだったようだが、目覚めたときに、ゾンビは上から見ているだけだった。
路上に人間が気絶して倒れていたら、エサにならないほうがおかしいと思う。なぜ、ザックはおそわれないのだろうか。

もう、ザックはゾンビ(ベス)とセックスしたからゾンビに襲われないとか、勝手にルールを作っちゃえば良かったのに。そうでないと、ただの主人公補正にしか思えない。


最初の方で、ザックがゼリーを持ってベスの家へ行きますが、日本語字幕で観て、幼い頃ゼリーが好きだったからという理由があったのがわかった。

あと、改めて観ても、息子を思う母の気持ちなのかどうかわからないけれど、アナ・ケンドリックの役の女性は出てこなくていいと思うし、後日談としても不要だと思った。

デイン・デハーンについてですが、最初のベスの死に悲しむ姿は美しい。
なんとか家に入れて欲しいと必死になっているシーンでは、真夏なのに着けたままのベスの形見のマフラーの先端を、ぶらぶらしちゃうからTシャツの中に入れるのが細かいなと思った。不法侵入かと兄に咎められているときに、見上げているのも可愛い。
ベスといちゃいちゃしているシーンは彼らしくないので違和感がある。これもゾンビルールなんですが、蘇ったゾンビは欲求不満になっていたりするのだろうか。それとも、ベスが元々そんな子だったのだろうか。生前のベスがどんな子だったかという描写がまったくないのでわからない。
最後、ベスを撃った銃を投げ捨てて、兄に怒られるシーンは面白かった。兄との絡み、というか兄のキャラクターは、日本語字幕でよりわかりやすくなっていて、どんな場面でもギャグ要因なのがわかりました。

でも、オナニーしようとするデハーン、流行遅れの海パンをはくデハーン、ギターを弾いて歌うデハーン、Tシャツにボクサーパンツという部屋着のデハーンと、いちゃいちゃバカップルシーンも含め、他の映画では観られない姿は観られます。

0 comments:

Post a Comment