『ピクセル』



『グーニーズ』『グレムリン』などの脚本、『ホーム・アローン』『パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々』の監督をてがけたクリス・コロンバス監督。
パックマンやドンキーコングなどが宇宙から襲ってくる。対抗するのはかつての天才ゲーマーたちだったという内容。

以下、ネタバレです。







上記の内容は予告編で知らされているもの。パックマンなどが襲いかかると、建物であれ人間であれ車であれ、その場所が四角くぼろぼろと崩れて行くのが視覚的に新鮮だった。人間が襲われても、血は出ないので、刺激的にならないための配慮なのかもしれない。

予告編で、“地球の危機に立ち上がったのはオタクだった!”というような宣伝文句が流れる。それで、いかにも冴えない、決してハンサムとは言えない男たちが主人公というのはおもしろいと思った。今は冴えない、でも、子供の頃はゲームが得意だったという彼らが選ばれたということは、かつての栄光や人生を取り戻すストーリーなのだろうと思った。

ただ、襲ってきた敵に対し、“体を撃つと分裂するから頭を狙え”という法則を教えるのはいいにしても、その後、主人公のサム(アダム・サンドラー)が実際に敵を撃ち始めるのはどうなのだろう。法則はNavy SEALsの面々も知らないかもしれない。でも、実際の銃の扱い自体は、海軍特殊部隊より配線業者のほうが優れているということはありえないだろう。

その次のパックマンにしても、カラフルな色の車をゴーストに、そして町をステージに見立て、パックマンを追いかけるというアイディアは楽しい。けれど、実際に車に乗り込んでしまっては、ゲームが得意なのは関係なくなる。カーテクニック勝負になってしまう。ゲームが得意ならば、車を運転するのではなく、上空から見ないとだめだろう。その上で、自分が車に乗りこむのではなく、何か遠隔操作でもいいから、別の方法があったはずだ。

ゲームオタクと、自分が実際にゲームの中に入って戦うのとは要求されるものがまったく違う。銃が扱える、超絶カーテクニックを持っているでは、ゲームオタク以外のものになってしまう。

最後のドンキーコングだって、地上組はゲームの法則など一切関係なく、迫り来る敵を撃ちまくっていただけだ。ゲームオタク二人で撃っていたけれど、むしろSEALsに任せたほうが良かったのではないかと思う。

サムは宇宙船に吸い込まれてドンキーコングステージへ行っていたけれど、ヴァイオレットと大統領は一緒に行く必要あったのだろうか。ヴァイオレットに関しては息子が攫われたし心配ということもあるかもしれない。けれど、大統領は? 幼い頃にクレーンゲームが得意だったことを思い出したのは伏線なのかと思っていたけれど、別に活躍もしていなかった。
そもそも、サムの幼馴染みのウィルがなんで大統領になれたのだろう。何の説明もなく、いきなり大統領になっていたのは唐突だった。幼馴染みが大統領になっていなかったら、サムの元に地球を救ってくれという話もいっていなかっただろう。

すべてがサムに都合が良く進み、そのために唐突な展開になっている部分が多かった。ゲームしかできないと思ったら大間違いだ、銃や車も完璧に扱えるぜ!という願望で、全部サムの夢なのかと思った。けれど、そんな種明かしは無かったです。
これでは、オタクでも軍隊に負けずに戦えるぞ!というのを表したことにはならない。ゲームテクニックではなく、普通の軍隊並かそれ以上の働きをしているし、幼馴染みが大統領になっているというのもずるい。なにかと世話を焼いてくれる。

予告編を見たときに感じた負け犬讃歌のようなストーリーではなかったのだ。子供の頃は輝いていて大人になったらいいことがなくても、その子供の頃に手に入れたゲームテクニックで人生の大逆転をする。そんな、勇気のわいてくるような話なのかと思っていたら違ったようだ。これではむしろ逆、ゲームテクニックだけでは何もできないぞ自分が体を動かせと言われているようである。

大人だから軍顔負けの運動能力を発揮してしまうわけで、もう80年代の子供らを主人公にしたら良かったのではないだろうか。本当にゲームの腕で倒すなら、そのほうがわかりやすい。チャンピオンになっても大人になったら腕も鈍っているだろうし、子供たちのほうが有能ではないだろうか。

劇中では80年代の音楽がよく使われていて、実はこの点からも、サムが一番輝いていた時代の音楽を流すということは、彼の夢なのではないかと疑っていた。
インドの若者がプロポーズをするときに、演出として、自分でiPhoneで曲を流す。Spandau Balletの『True』のイントロが流れ出し、なるほどと思っていたら歌い出しがヒンズー語でインドバージョンのカヴァーだったのが笑った。この映画のために作られたのか、もともとあるものなのかはわかりません。
ラドローがステージ上で気持ち良さそうにTears For Fearsの『Everybody Wants To Rule The World』を歌っていたのも印象的。ホール&オーツやマドンナの80年代の映像も出てきます。

ピーター・ディンクレイジがとにかくいい。顔の表情一つとっても、彼が出てきたシーンはすべて目を奪われた。すかしていて、刑務所に入れられても偉そう。『X-MEN:フューチャー&パスト』では怖かったけれど、今回はかなりおちゃらけ役。どんな役でもできるのが素晴らしい。

ピーター・ディンクレイジ演じるエディがパックマンなどを倒す引き換え条件に、「セリーナ・ウィリアムズとマーサ・スチュワートとデートさせろ」と言うシーンがあって、即座に二人ともが思い浮かばなかった。女優さんかと思ったけれど、テニス選手とカリスマ主婦である。誰のアイディアだかはわからないけど、この二人をチョイスするセンスがおもしろい。
どちらか片方と言われ、結局、セリーナを選び、ご本人が登場。嫌々デートするという役を演じていた。
でも、最後に地球を救った後ではエディのもとに「部屋で待ってるわ」とのメールが届く。エディが部屋を見上げると、部屋の窓からセリーナが手を振っていて、隣りにマーサ・スチュワートも立っていた。まさかのご本人登場で笑ってしまった。手にはパニーニ。

エンドロールがとても良かった。ドット絵で映画の最初から最後までを数分ですべて振り返る。マーサはちゃんとパニーニを持っていて、ここでも笑った。こだわりが感じられた。

そこでこのドットが流れているのを見て、実際にこのようなゲームがあったと考えてみると、展開上の唐突さや、なんでドンキーコングステージに関係ない人がついてくるんだというのも妙に納得した。チープさや昔のクソゲー感を出したのではないだろうか。
また、彼らが戦っている姿をドットで表すために、彼ら自身が戦うことになったのかなと考えると、このエンドロールを作りたいがための映画だったのではないかとも思える。
それくらい、エンドロールは良かったです。

ゲーマーたちが途中からユニフォームを着だすんですが、それも何の説明もなくいつ何のために、作る時間や必要があったのかもわからないまま着ている。最後にはヴァイオレットと大統領も着ていたけれど、本来、ゲーマーたちではないから、ユニフォームを着る想定もされていない人らであり、しかも女性と太った男性だからサイズも誰のでもいいというわけでもないだろうけれど…と首をかしげていたが、これも、エンドロールのドットでお揃いのユニフォーム姿だと見栄えがいいという、ただそれだけのことなのだろうと思った。

あと、後頭部で機械がむき出しになっていて、どう見てもロボットで、ロボットだとも紹介されているマイケルというヴァイオレットの秘書のようなキャラクターがいるんですが、あまり掘り下げがない。
見た目も強烈だし、いくらでも活躍できそうなキャラクターなのにほぼ触れられない。大したセリフもない。あの技術があれば、侵略阻止に貢献できそうだけれども。
キャラクターとしての唐突さ、いてもいなくても良さから、これもやっぱり夢なのではと思わせる一因だった。
あまりにも強烈だったので調べてみたところ、演じたのがトム・マッカーシー。2014年公開のアダム・サンドラー主演『靴職人と魔法のミシン』の監督さんだったので、そのつながりでの隠しキャラっぽい存在だったのかもしれない。


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