スピルバーグ監督、コーエン兄弟脚本、トム・ハンクス主演。冷戦時代、アメリカとソ連がお互いの国にスパイを送り込み、誰を信じていいかわからなくなっていた頃の実話。
最近のトム・ハンクス出演作は安定して良いんですが、今回も裏切られなかった。
いつものことながら、この出来事自体を知らなかったため、どうなるんだろうとハラハラしながら楽しめました。

以下、ネタバレです。









最初、ソ連のスパイの無罪を信じて弁護する善人の話なのかと思った。でも、さっき細工コインをいじってるシーンがあったしスパイなのは間違いないのはわかっている。裏切られるんだろうな…と思いながら観ていたけれど違った。
「逆に、ソ連にアメリカのスパイが捕まったときに交換材料になるから生かしておいてほしい」と話しているのを聞いて、そういえば、スパイ交換をする話だったと思い出した。
というのも、この話が出てくるまでが案外長い。トム・ハンクス演じる弁護士のドノヴァンが交渉のために東ベルリンへ向かうんですが、そこからが景色がかわって個人的にはとても面白かった。

まず、ベルリンの壁を作っている映像というのがぐっとくる。建物の窓から脱出している人物もいたけれど、この建物の窓も、いずれ板で塞がれてしまう。
また、一箇所空いている場所があって、そこから入っていったものの、出ようとしたらもう塞がれていた、というシーンもあって、こんな感じで、事態が急速に変わってしまったんだろうというのがよくわかった。

ソ連の経済学を勉強しているアメリカ人の学生が、東側に教授と娘を迎えにきて、結局壁は閉じられ、学生もアメリカ人ということと勉強している内容からスパイ容疑をかけられ拘束されてしまう。この学生さんと娘さんの話も中心になっていくのかと思ったら、学生さんは話に出てくるだけだったし、教授にいたっては姿すら出てこなかった。あくまでもドノヴァン(トム・ハンクス)メインだった。

ドノヴァンが滞在することになるホテルは汚くて寒そう。ただ、アメリカとはまったく違う、その頃のドイツの景色が興味深かった。そして、そこから電車で東ベルリンへ向かうのだが、まず、向かう電車が長蛇の列。警備が厳重。
東側についたらついたで、ガラの悪いちんぴらのような若者に囲まれてしまう。ドイツ語の字幕は入らなかったけれど、カシミアのコートを置いてけというようなことを言っていたようだ。たぶん、わざと字幕を入れずに、異国の言葉で脅されるドノヴァンの気持ちになれということだったのだろう。コートを脱げというのはジェスチャーで、カシミアというのはなんとなく聞こえた。

ソ連の大使館で会えと言われた人物は出てこない。怪しげな男はあとでKGBだとわかる。おまけにコートをとられたから風邪をひく。警察に一晩拘束される。
もう散々な目にしか遭わない。一応、政府は関係ない民間人ということで行っているから、汚いホテルには一人で、他の人らは綺麗な、おそらく暖房もしっかり入ったヒルトンに泊まっている。

こんな中で、ドノヴァンはソ連に拘束されているアメリカ人パイロット一人と、ソ連のスパイのルドルフと、拘束されている学生という二人の交換を要求する。しかも乗り込んでいっての仕事である。かなりタフであり、正義感のかたまりだと言える。

最後のスパイを交換するシーンは、実際に交換の行われたグリーニッケ橋でロケをしたらしい。
ここに、ルドルフがおどおどしながら連れてこられて、ドノヴァンの姿を見つけ、安堵に包まれた表情を見せる。
そういえば、ドノヴァンがベルリンに来てから、アメリカの様子はまったく流れなかった。だからルドルフの様子もわからなかった。弁護されている間、ドノヴァンが近くに居たときには、たとえ一人でも味方がいたからまったく気持ちが違っただろう。ただ、ドノヴァンがベルリンに行ってからは、敵国であるアメリカで一人、いつ殺されてもおかしくない状態で戦々恐々としていたのだと思う。
あのルドルフの表情で、ドノヴァンがいなかった間の生活や気持ちが想像できたし、久しぶりの再会を心底喜んでいることがわかった。
彼らの間には確かに友情が生まれていた。U-2撃墜事件からスパイの交渉という話が出て、ベルリンに来る、その前までが少し長いように感じたけれど、彼らの友情を描く時間として必要だったのだ。

ただそこで交わされる会話はほんの少し、ルドルフはソ連へ帰っていく。ただの好々爺ではない、毅然とした態度だった。ソ連に戻れば殺されるかもしれない。そんなことは覚悟ができているというような表情を見て、やはりスパイなのだなと思った。

ルドルフを演じたのがマーク・ライランス。トニー賞を三回受賞している舞台俳優。ローレンス・オリビエ賞も二回受賞。そして、本作でもアカデミー賞助演男優賞にノミネートされている。中盤ではまったく出演シーンがないが、橋の上での演技が見事だった。

ドノヴァンと別れるときにルドルフは「車の後部座席に座らされたら、きっと射殺されるのだろう」と言っていて、結局後部座席に座らされていたので、やりきれない気持ちになったが、最後に“ソ連はルドルフをスパイだと認めなかった”という文が出たので、殺されることはなかったらしい。実際、ルドルフ・アベルはこの9年後である1971年に死去しているらしい。ちなみに、ドノヴァンは1970年に亡くなっているのがなんとも言えない。

帰国したドノヴァンは自宅のベッドに倒れ込むようにして眠っていた。ベルリンの汚いホテルの固そうな寝床を思うと、お疲れさま…と思った。でも、この功績を認められて、ケネディ大統領に別の交渉も依頼されたというから驚いた。
少し前までただの弁護士だったのに、頼り過ぎである。しかも、この橋での交渉が1962年の2月、次のキューバでの捕虜帰還交渉が12月と同じ年内という。
橋での交換も政府は関係ないからみたいなひどい態度での依頼だった。大統領からの依頼では仕方がないのかもしれないけれど、また引き受けてしまったのだ。

実際のドノヴァンがどんな人物なのかはわからないけれど、そもそもソ連のスパイの弁護を引き受けた点と、そのために東ベルリンにまで行ったということを考えてもおそらく善人だったのだろうと思う。

そして、この頼りにできる安心感、味方にしたら百人力というようなイメージがトム・ハンクスに合っている。『キャプテン・フィリップス』を思い出した。



予告だともっとコミカルなのかと思っていたけれど、少し重めだった。ただ、“ゲラゲラ笑ってなにも考えずに観られる”というような感想もあるので、深く考える必要はないのかもしれない。
ハイスピードで展開していく勢い重視の作品なので、96分という上映時間がちょうどよい。
主演はジェシー・アイゼンバーグとクリステン・スチュワート。監督はイギリスでCMやMVなどを中心に活躍しているニマ・ヌリザデ。

以下、ネタバレです。





最初に「僕たちはバカップルだ」というモノローグが入ったけれど、単にいちゃいちゃするカップルではなくて、マイクのどうしようもなさが本当にどうしようもなく、フィービーが保護者というか、庇護しているように見えてしまった。マイクは「彼女に会って人生が変わった」と言っていたけれど、フィービーはどうして彼と一緒にいるのかよくわからなかった。よくできた人間なのか、天使なのか。
首を傾げながら観ていたら、マイクもフィービーのことを縛り付けているのがわかっているようで、そこでする“木と車”の例え話が泣けてしまった。
思っていたよりも切ないラブストーリー…と思いながら観ていたら、急にCIAが出てくる。
田舎町のカップルとCIAというのはまったく繋がりが見えない。けれど、お偉いさんが若者を監視しているというのは、某映画を思い出した。タイトルを書くとその映画のネタバレになってしまうので書きません。

そして、あんなにダメダメでふにゃふにゃしていたマイクが、何かを覚醒させたかのようなキレッキレの動きで、“悪をやっつける”。“悪をやっつける”というのはマイルドな書き方で、殺されそうになって逆に相手を殺す。要は正当防衛ではあるけれど、人を殺してしまう。
そのあとで、マイクがまた元のように戻って、どーしよーどーしよーと弱気で動揺しているのが可愛かった。これはジェシー・アイゼンバーグのギャップ萌え映画なのでは…。
彼によくある童貞演技、そして『ソーシャル・ネットワーク』などでも見せた人に話す隙を与えない早口、『グランド・イリュージョン』で見せた頭の切れるイケメン風といろんな面が見られる。ジェシー・アイゼンバーグの演技の幅にも驚かされる。

アクションも素晴らしかった。特に後半のホームセンターでの死闘が面白かった。ホームセンターが舞台で、そこに置いてあるいろいろなものを使う。キッチン用品の包丁なんて当たり前、トンカチや冷凍肉や缶など。その前にもちり取りやスプーン、フライパンなどを使っていた。一筋縄ではいかないアイディア満載の戦闘がわくわくする。

ここで、ゼムクリップが少し映るんですが、これを使って何をするんだろうと思っていたら、手錠を外していた。この針金を使って手錠を外すという知識は、少し前のシーンで、悪い友達の家で得た知識である。
その他にも、アロハシャツを着て後部座席に花火を積み込んで突っ込んで行ったりと、勢い重視の作品でありながら、細かい伏線や前に出てきた小道具などを見事に回収していって気持ちがいい。

CIAの電話の相手が誰か?という大きなところはもちろんだけれど、プロポーズの機会もずっとうかがっていたマイクが、そこか!という部分で思い切る。死闘を終えた後だから、二人とも顔がめちゃくちゃに腫れ上がっている。ホームセンターの外は警察が包囲していて、出てきた二人をライトで照らし、そのグロテスクなまでの顔が露になる。しかし、二人にはまるでそれがスポットライトのようになっていてロマンティックにも見えた。

ラブストーリー要素には実はまったく期待していなかったのですが、このプロポーズのシーンも良かったし、木と車の話が後半でもう一度出てくるのも良かった。フィービーがマイクのそばにいるのが最初は不可解だったけれど、次第に明らかになる。
そして、最初の空港のシーンで受けた違和感も納得がいった。

二人でハワイに行こうとしていて、マイクは飛行機の時間になってもトイレから出てこない。フィービーは待合室のイスに座って泣いているんですが、普通だったら、怒りだったり、あきらめのため息をついていたり、トイレに乗り込んで行くと思う。しかし、この時のフィービーは悲しくて仕方がないという泣き方だった。ハワイにそんなに行きたかったとも思えないし、怒りを通り越して悲しくなるにしても、そんなに怒るのに別れることはないのもおかしいと思っていた。

マイクが町を出られない理由を、フィービーは最初から知っていたのだ。その申し訳なさからの涙だった。そんな細やかな気持ちまでもがちゃんと描かれているのもいい。

ただ、展開は強引だし、これで一流諜報員誕生!という落としどころも、それでいいの?とも思ってしまった。一応、頭の中をいじられているわけだし。

それでも、最後に髪も切り、びっちりキメたジェシー・アイゼンバーグは恰好良かったし、エンドロールではマイクの代わりにマイクが描く猿のアポロが“悪者”をどんどんやっつけるアニメーションになっていて、アニメなので、やりたい放題やってもそれほど気分も悪くならない。それどころか、悲壮感もぶっ飛ばす爽快感。後味も最高。

本編中は実写だし、血なまぐさい成分は多い。おまけに、終盤でわかることだが、マイクに襲いかかるのは、命令されていて自分の意志では動いていない人間である。マイクと同様、頭の中をいじられている。マイクも一歩間違えたら…などと考えてしまうが、それも重い内容とは考えずに、作品に潜む毒とかぴりりとした隠しスパイスとして楽しめばいいのかもしれない。

荒唐無稽な展開と血の飛び散る量、弱い男の子、そしてそれを中和するようなポップさから、なんとなく『キック・アス』を思い出してしまった。本作ももしかしたら原作がコミックなのかと思ったら、『クロニクル』の脚本を手がけたマックス・ランディスによるオリジナルらしい。それはそれで、なるほどと思った。


『パディントン』



『くまのパディントン』の実写映画。日本でも有名なキャラクターなのに、こんなに待たされるとは思ってませんでした(イギリスでは2014年11月に公開)。
実写とはいえ、もちろん、パディントンはCGだし、エンドロールでも“実際の熊は傷つけていません”の注意書きが出る。けれど、コスタリカユニットというのがあったようなので、パディントンの故郷ペルーの様子は、ペルーではないけれど、実際にコスタリカで撮影をしたらしい。

以下、ネタバレです。








内容や登場人物はほぼ『くまのパディントン』準拠のようである。ただ、悪役であるミリセントは出てこないようなので、パディントンがロンドンを目指す原因になる冒険家も出てこないのかもしれない。
また、原作だと、パディントンはすぐにブラウン一家に受け入れられるようですが、映画は受け入れられるまでがテーマと言っていいと思う。ブラウン一家の家は仮住まいで、冒険家の家を探してすったもんだを起こすので、やはり絵本には冒険家も出てきていないと思う。

異国の地での周囲からの受け入れられなさ、この苦々しさは映画特有のものなのだろう。
パディントンは、ペルーからイギリスのロンドンに着いた時、礼儀正しく挨拶をし、次に天気の話題を出し、とマニュアル通りに進めようとするがうまくいかない。ビジネスマンは気にせずにすたすたと早足で歩く。「者を売りつけようとしてるんだろう!」などと恫喝を受けたりする。

ブラウン一家の家に行ってからも、父親のヘンリーは距離を取りつつ追い出そうとしていたし、隣りの家のカリーさんはペルーへ追い返そうとしていた。ミリセントも、受け入れたらそのうち熊だらけになっちゃうわよと言っていた。

パディントンがペルーからロンドンにやってきて受け入れられるかどうかというのは、ただほのぼのしたお話というわけではなく、現代の移民問題や難民問題に重ねることができそう。生活習慣の違いや困っているときに手を差し伸べられるか、そして家族として迎え入れることができるのか…など、考えさせられる。

そもそもパディントンというキャラクター自体が、第二次世界大戦中に疎開する子供にヒントを得た造型になっているらしい。“この子をよろしくお願いします”と書かれてある札を首から下げ、カバンに資金が入っているとのこと。パディントンの場合はマーマレードでしたけれど。
ところで、作者のマイケル・ボンドさんが映画にもカメオ出演しているらしい。ご容姿も今回映画のパンフレットで初めて見たばかりなのでどこに出ていたかはわからない。

映画のところどころでは、カリプソが多く使われている。1950年代にトリニダード・トバゴからの移民が持ち込んで、イギリスでも大流行したらしい。
原作の『くまのパディントン』も1958年に出版されているので、映画も同じ時代が舞台となっている。
合間合間でミュージシャンが演奏していて、ちゃんと歌詞にも字幕が付いていたけれど、パディントンの気持ちを代弁するかのような内容だった。これは移民の気持ちでもあるのだ。生まれた場所とは違う、初めての場所に来て不安感を抱えながらも、前向きで楽しい内容だ。

元々はポール・キング監督の妻が『London Is The Place For Me』というカリプソのコンピレーション盤を気に入っていて、この音源を出しているレーベルHonest Jon'sの共同出資者であるブラーのフロントマン、デーモン・アルバーンに連絡をとったという。
そして、デーモンがミュージシャンを集め、D Lime feat. Tabago Crusoeというバンドを作ったらしい(デーモン自身は演奏には参加していません)。

デーモンがやってきたことが、映画『パディントン』で生かされるという不思議な縁がおもしろい。また、調べるうちに、イギリスの歴史などもわかって興味深く、この映画が一層好きになった。

なんというか、この映画がロンドンそのものというか、居心地がいいのだ。何も移民だけではない。旅行者も同じような気持ちになる。
ロンドンには様々な人種の人々がいるのが見た目だけでわかる。住んでる人も観光客も大勢居て、澄まして歩いていれば紛れられる。受け入れられたのだと感じる。
思った以上にロンドンという街を描いている映画である。

俳優さんたちも魅力的です。
まず悪役の女性がニコール・キッドマン。ブラウン一家の面々がほわほわしているので、これだけ厳しめの美人が出てくると悪役として際立つ。
骨董屋グルーバーさん役がジム・ブロードベント。ちょっとした役だけれど、出てくると画面が締まる印象。シリーズ化してもっと活躍させてほしい。
ブラウン一家の親戚兼家政婦のバードさん役にジュリー・ウォルターズ。『リトル・ダンサー』のバレエ教室のコーチ役の名優。
お隣りのカレーさん役にピーター・カパルディ。『ドクター・フー』で12代目のドクターを演じた。『ドクター・フー』は11代目のマット・スミスの途中までしか見ていないので、スチルでは見ていても動くピーター・カパルディを見たのは初めてだった。今回、ケチで意地悪なじいさん役だったので、どんなドクターなのか想像がつかず気になる。

ブラウン一家の母親役はどこに出てきてもいい演技をするサリー・ホーキンス。『ブルージャスミン』では映画内唯一の良心のような役を演じて、アカデミー助演女優賞にもノミネートされた。『THE PHONE CALL/一本の電話』もアカデミー短編映画賞を受賞していた。そういえば、あれの電話の相手はジム・ブロードベントでした。
彼女は善人を演じることが多いように思うけれど、今回も善人です。

ブラウン一家の父親役はヒュー・ボネヴィル。『ダウントン・アビー』のグランサム伯爵役で有名。子供を思ってのことでも、あれもこれも禁止!とやっていて、ダウントンの旦那様に似た役だった。旦那様もコーラやメアリーから「石頭!」って言われたらいいのに。
途中からは、パディントンに親身になって、まさかの女装姿まで見られて満足。

そして、パディントンの声がベン・ウィショー。元々、コリン・ファースだったらしいけれど、コリン・ファースはヒュー・ボネヴィルより年上だということで降板することになったらしい。
ベン・ウィショーの声は特徴的なんですが、澄ましていて、飄々としている感じがとても合っている。悪気はないけどトラブルメーカーになってしまうのがよくわかる。
礼儀正しさと、純粋さもよく伝わってきた。彼は悪い人間がいるなんて思っていない。誰にでも、帽子を取ってきっちり挨拶。財布を落とした人を見かけたら、どこまでも追いかけて届ける。
そもそもロンドンに来るまで、人間を一人しか知らないんですね。それも伝聞。だから、人間を信じきっている。終盤で悪人に捕まって剥製にされそうにはなるけれど、団結したブラウン一家に助けられるし、人間に絶望するところまでは行っていないと思う。ロンドンで人間に絶望し、故郷のペルーに帰るという話だったらさみしかったけれど、ブラウン一家に家族の一員として受け入れられて終わる。良かった。

後半の自然史博物館での攻防はなかなかのスペクタクルでした。両手にコードレスのハンディ掃除機を持ち、その吸引力で壁を登っていくのは、音楽からもわかるけれど『ミッション:インポッシブル』のパロディ。『ゴースト・プロトコル』でイーサンがドバイの高層ビルを登るシーンですね。

パディントンは今でもロンドンで楽しく過ごしているらしく(?)、彼のTwitter(@paddingtonbear)が頻繁に更新されている。ちなみに、日本公開日には、「日本公開を祝って、イレブンシスにグルーバーさんと和菓子とお茶をいただきました。いつものパンとココアじゃなくね」と書いてあった。イレブンシス、#elevensesというハッシュタグがよく使われていて、おやつみたいなものかなと思っていたけれど、アフタヌーンティーのような軽食習慣で、午前11時に行われるものらしい。原作では、グルーバーさんのお店でパディントンがイレブンシスをとる描写が多いらしい。グルーバーさんも移民のため、パディントンの良き話し相手になっているのだとか。

掘り下げていくと、イギリスの文化についても知ることができる。俳優、音楽、ロンドンという街、文化…、私にとっては、好きなものがたくさんつめこまれたおもちゃ箱のような作品だった。

そして、これに限らず、映画を観るとよくあることですが、劇中に出てくるパディントンの好物、マーマレードがとてもおいしそうだったので、ジャムを買って帰りました。

『白鯨との闘い』



ロン・ハワード監督作品。
『白鯨』の元になった実話があった、というフィクションなのかと思ったけれど、実際に全米図書賞を受賞した『復讐する海ー捕鯨船エセックス号の悲劇』(ナサニエル・フィルブリック著)というノンフィクションを原作にしているらしい。
しかし、“『白鯨』の元になったのはこの事件ではないのではないか”という意見もあるらしい。

以下、ネタバレです。






クリス・ヘムズワーズ主演、一緒に船に乗る仲間にキリアン・マーフィー、同じく船に乗る少年役にトム・ホランド、船長役にベンジャミン・ウォーカー、予告編を見た限りではどこに出てるのかわからなかったベン・ウィショーは『白鯨』の作者ハーマン・メルヴィル役、ハーマンが話を聞く船員の生き残り役のブレンダン・グリーソンはドーナル・グリーソンの父親。
個人的に好きな俳優が揃っていたので観ました。

19世紀初頭、まだ石油がなかった時代には、街灯に鯨油が使われていたとは知らなかった。燃料のために捕鯨に出かけ、2〜3年帰ってこないこともよくあったという。
また、船長は家柄の良い人間がなるものであり、鯨を仕留める技術を持った人間でも勝つことはできない、というのも事実だったようだ。家柄によって船長になった男と、船長になることを望みながら一等航海士にしかなれなかった男の対立は、物語のエッセンスとして加えられたものなのかと思った。

大きな船で出て行き、鯨を発見すると小舟を漕いで近づいていき、銛を刺して仕留める最初の捕鯨が迫力があった。捕まえた鯨に鮫が寄ってきちゃうのもリアリティがあった。脳の油も取るということで、噴気孔から体の小さい者が中に入っていくのも本当にあったことなのだろう。観ているだけで、臭いが漂ってきそうだった。

この鯨は16メートルほど、鯨側の主役ともいえる白鯨は30メートルとしてCGで作ったという。確かに大きかったし、尾びれだけでも人間と比べて脅威となるサイズだった。

ただ、これだけの大きさがあると、怖くはあってもリアリティはない。実在しないモンスターのように見えてしまう。また、海洋シーンが多いが、そこにいるのが知っている俳優さんたちなので、どうしたってドキュメンタリーには見えず、作り物感が際立ってしまう。

いっそのこと、モンスター映画やパニック映画っぽくしてほしいくらいだったけれど、実話なので、そこまでリアリティを無くすわけにもいかない。
船員は、大きな鯨の影に怯えながら、船で漂流し、次第にやつれていくばかりだった。
ちなみにこのやつれはCG効果もあるけれど、実際に集団ダイエットをしたらしい。なので、ほぼ時系列順の撮影になっているとか。

映像はド派手である。海から巨大な白鯨がざばんと体を見せたときには驚いた。しかし、船員たちはそれに対して何の手も打てない。そのために、なんとなく地味に見えてしまう。起こっていることは壮絶ではあるけれど、静かに壮絶というか、精神面で壮絶というか。
少しちぐはぐに見えてしまった。

いっそ、ド派手な映像方面だけに振り切るために、3Dや4DXなど、映像の迫力がより堪能できる方式で観賞したほうが良かったかもしれない。特に、4DXは船に乗ったらゆらゆら揺れるだろうし、尾を海に打ちつけたときには水しぶきがくるだろうし、嵐に巻き込まれた時はそのようになるだろうし、ちゃんと効果が想像できる。アトラクションのように楽しむのが良いのかもしれない。



ホラー映画はどちらかというと苦手なので、普段好んで観ることはあまりないのですが、今作は『キャビン』『サプライズ』などが例にあげられていたのと、新感覚ホラーというコピーにひかれて観ました。“タランティーノ絶賛!”とも書いてあったけれど、それは最近、タランティーノはよく絶賛しているイメージなので、逆にマイナスイメージにもなり得ると思った。

怖さの基準は人それぞれなのでなんとも言えないですが、個人的には怖くはなく、青春映画だと思った。ただ、びっくり箱的な驚かせ方というか、音楽がいかにも出そう出そう…という感じになってから、大きな音とともに!というシーンがいくつかあり、それは嫌で、目をつぶってしまうところもあった。

以下、ネタバレです。






詳しくはないので紋切り型のイメージですが、普通のホラーであれば、車の中でカップルがいちゃいちゃしていたら、そこに殺人鬼が現れて、殺されたりしそうなものである。しかし、この映画では、序盤にそのようなシーンが出てきたあとで、男の側が女を気絶させ、イスに縛り付ける。謎に思っていたら、今作でのルール説明が始まった。
細かな謎は残るものの、大まかなルールは、性交渉で感染する、感染すると“それ”がつけてきて殺そうとする、殺されると前の人に感染者が移るというものだった。
これは字幕のせいなのかもしれないけれど、“感染”という言葉が使われていたので、映画の示すテーマが、何かの性病とかエイズなどの暗喩なのかと思った。けれど、それは公式が否定しているらしいです。

序盤でネタバレというか、ルール説明があるので、このあとはどうやって“それ”と立ち向かうかというのが主題になってくる。

序盤に彼氏からうつされるジョイと妹とヤラ、ポールの仲良し四人組と、ご近所のグレッグが話の中心になるのだが、仲良し四人組はおそらく幼馴染みっぽいし、グレッグもご近所だから付き合いは長そう…というような、人間関係が徐々に見えてくる。“それ”の正体よりも、この子たちの関係性が明らかになって行く過程と気持ちの移り変わりがおもしろかった。
ただ、それも完全に明らかにはならない。目線や表情で気持ちを切り取ろうとする撮影方法は、繊細だった。

ジョイが怖いと言って、ポールがジョイの家に泊まってあげるシーン、ジョイが「寝られないの」なんて言いながら一階に下りてきたので、こいつは隙あらばポールにうつそうとしているのかなと思った。服も薄着だったので。
ただ、ジョイはもともとうつされたときも、別にナンパされてそのままとかではないし、何度か拒んだみたいだし、見た目ほどいい加減でもないのかもしれない。だから、このシーンも、本当に怖くて、安心できるポールのそばに来たかったのかもしれない。

ポールはといえば、おそらく小さい頃からジョイのことが好きだったみたいなんですが、一歩踏み出せない。昔の映画が好きで気弱な性格。友情が壊れてしまうくらいならこのままでいいやと思ってそう。
そんなときに、ジョイの恐怖は性交渉によって取り除けることがわかる。ポールは自分の力でも取り除けることがわかるし、好きな子が他の男と…なんてことも嫌だろうし、話し合いの場で何度も言い出そうとちらちらジョイのほうを見る。でも何も言わない。何も言わないからジョイは気づかない。ずっと友達だと思っている。けれど、映画を観ている人たちは、ポールの気持ちを察して悶絶するという…。このもどかしさが本当に青春映画のようだった。

ジョイはポールの気持ちに気づかないので、ご近所のグレッグにお願いしてうつすことになる。ポールからしたら、好きな女の子と知っている人が関係を持ったことが丸わかりなのが切ない。おまけに、「過去に一回寝たことあるし」という余計な告白まで聞くことになる。
そもそも、ジョイが“それ”をうつされたときにも、ジョイが誰かわからない男と関係を持ったということがわかるわけで、ポールはいままでにも、ジョイの近くでこんな話をたくさん聞かされてきたのだろうなと思うと本当に切ない。

グレッグはジョイのことが今は別に好きではない風でしたが、「償いたいんだ」と言って受け入れていた。何を償うのかは明らかにはされないんですが、その過去に一度ジョイと寝た時の何かなのだろうか。自分の命を差し出せるくらいのことだから、相当なことなのかもしれない。グレッグは“それ”の存在を信じていなかったから、それほど深刻でもなかったのかな。
グレッグもグレッグで簡単に女の子をナンパして次の人にうつせそうだったけれど、三日だか四日だかそのままにしていた。それも信じていなかったせいかもしれないけれど、他の女の子がナンパできないくらい、もしかしたらジョイのことが好きになってしまったのかな…という深読みまでしてしまった。

あとこれも何のセリフが出てくると言うわけではなく目線だけなんですが、ジョイの妹はもしかしたらグレッグのことが好きだったのかもしれない。

“それ”が関わってくるため、やったのやってないのが明確にわかるけれど、エロが主題ではないのもおもしろい。“それ”が現れるから、敢えてエロシーンを加えなくてもわかるというのもあるかもしれないけれど。
ジョイに関しても、そんなシーンはあっても下着はとりません。サービスシーンは一切無し。

代わりに、というわけではないと思うけれど、形を変えてくる“それ”たちは、男も女もおしげもなく裸体をさらけ出しています。決してサービスではない形の裸をこんな風に見せる皮肉。
“それ”の正体は明らかにはならないんですが、裸だったり、股間を押し付けて襲ったりしていたので、もしかしたら性に関する何かなのかもしれない。そもそもの感染方法を考えたらあり得る話だと思う。

最初、女の子が家から出たり入ったりしながら半狂乱になっていて、車で遠い場所に出かけた挙げ句殺されてしまうというシーンが入る。
その時には何が起こっているのかまったくわからないが、これは感染していない人の目線だった。映画内だとここだけである。

ただ、感染していない人には見えないながらも、引っ掻かれれば肌に爪の跡が付くし、布をかぶせれば人の形が浮かび上がる。後半の、プールに“それ”を誘い出し、仲良し四人組で倒そうとするシーンは、夜のプールが映像としても美しかったし、仲間が協力している様子が頼もしかった。
最初の女の子は一人きりで殺されてしまったけれど、ジョイは逃げ延びて欲しい。一応、銃は当たったようだけれど、それで倒せたのかどうかは不明。

そして、念のためなのか、ジョイはポールに“それ”をうつす。ポールはその後、いかがわしい場所へ行こうとしていたけれど、彼の人柄を考えるとどうだろう…。誰かにうつせたかどうかはわからない。
その後、ジョイとポールが手を繋いで歩いていたので、やっとポールの想いは報われたようだ。しかし、付き合い始めの恋人同士という雰囲気ではなく、決意を持った者同士といった感じだった。けれど、映画の最初にはひょろひょろしてとても何かを任せることができない男に見えたポールが、とても頼もしく見えた。成長しているのがわかった。

油断していると“それ”が急に現れたりして、夜道が怖くなるタイプの映画ではあると思う。“それ”は怖い見た目をしているし。
けれど、ホラー面よりは青春ドラマ面こそがこの映画の見所なのではないかなと思う。役者さんたちも若くて、フレッシュな印象が残った。



ギレルモ・デル・トロ監督作品。ミア・ワシコウスカ、トム・ヒドルストンはゴテゴテしたゴシック衣装を着て華美な装飾をほどこしたおどろおどろしい屋敷にいるというだけで絵になる。この二人は『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』にも出ていた。あちらは現代的な服装でしたが、吸血鬼で、二人ともこのタイプの映画が似合うと思う。
更にジェシカ・チャステインというアクの強い女優さんも加わって、世界観や雰囲気は最高だった。けれど、もう少しストーリーはどうにかならなかったかな…と思ってしまった。
ドレスはどれも綺麗だし、映像や小道具なども凝っているので、写真集などで欲しい。また、裏話や細かい製作秘話などを知ったら、もっとおもしろく観られるかもしれない。
あと、ホラーというジャンルになっていますが、怖くはないです。ただ、残虐な殺され方をしたり、刃物が刺さったりというのはある。グロテスクさはない。

以下、ネタバレです。







ミア・ワシコウスカ演じるイーディスはゴーストが見えるのですが、もう根本的なところなのですが、その設定の必要性とか作品内でのゴーストのルールがよくわからなかった。
見た目は肉を剥がされたような、腐って半分骨が見えてしまっているような、ゾンビのようなものだった。母親の霊とは言っても、母親らしい優しさは感じられず、爪も伸びていておどろおどろしい。もちろん、イーディズも怯えるんですが、危害を加えることはしない。未来の警告までしてくれる。
なんで母親の霊は警告ができたのかもわからない。結核で死んだと言っていたから、別に屋敷の人々に何かされたわけでもなさそうだった。霊だから時間を超越できるのだろうか。それで、子供のことを思って、守ろうとしたのだろうか。

屋敷に行ってからも、過去に殺された女性たちの霊が出てきたけれど、イーディスは叫び声をあげて逃げていたが、ここでも危害は加えなかった。
むしろ、ここでも霊はイーディスを助けていた。兄妹がいる部屋を指差していたが、ただこれも、教えてもらうまでもなく、イーディスは夜中に屋敷内をうろうろしていたし、偶然遭遇するということにしても良かったと思う。
ここで勝手に夜中にうろうろするのを咎めないのもどうなのだろう。ルシールに怒られそうなものだけれど。毒を盛って徐々に殺そうとしていたし、どうせ死ぬだろうからいいと思っていたのだろうか。

脅かす者ではなく、警告する者としてのゴーストならば、父親はなぜ助けてくれなかったのだろう。ルシールに殺されたのだし、恨みもあるだろう。イーディスとルシールが対決するときに助けてくれても良さそうなものだし、そもそも、最初に結婚して屋敷に入るときには警告できなかったのだろうか。
あれだけ、ゴーストのことを言っていて、殺された父親だけ無視されるのがよくわからない。
女性の霊しか見えないのかもしれないとも思ったけれど、最後にトーマスの霊は見ていた。ここでトーマスの霊が他のゾンビタイプと違って白塗りなのもよくわからなかった。死んでから時間が経つと、霊も人間のように腐っていくということなのだろうか。
このように辻褄が合わないことが多く、疑問が残ってしまった。設定資料集や監督の話などを読んだら解決するのかもしれない。

後半、ルシールがふわっとしたドレスを着て包丁を持って追いかけてくるシーンがあり、これがまさにゴーストに見えた。
また、トーマスがいろんな女性と結婚している写真が出てきて、その写真がやけに古そうだったので、トーマスは何百年もこの姿のまま生きていた!みたいな衝撃の事実かと思ったけれど、外見が変わらないのはただ単に最近の話というだけのようだった。

最初に出てくる母親のゴーストがゾンビタイプではなく人間の姿をしていたら、この二人も実はゴーストなのでは…と思いながら観ていたかもしれない。序盤で父親や他の人も二人の姿を見ているので、見えているということはゴーストではないんですけれど、何か人外のものであってほしかった。『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』のせいなのかもしれないし、トム・ヒドルストンとジェシカ・チャステインが醸し出す雰囲気のせいかもしれない。ただの結婚詐欺師と殺人者だった。ゴーストよりも生きている人間のほうが怖いみたいな凡庸なことを今更描きたかったとも思えない。人外であってほしかったというのは単純に好みです。

トーマスがなぜイーディスのことを好きになったのかもよくわからなかった。単純に顔が好みだったのだろうか? それとも、彼女の書く小説がおもしろかった? 旅行中に何かがあったのだろうか。でも、旅行中も喪に服して手を出してこなかったようなことを言っていた。
トーマスが情熱を傾けていた採掘機械にイーディスが興味を持っていた風でもなかった。
なんだか、一緒にいてくれたからとか、自分のことを好きになってくれたからとか、ルシール以外なら誰でも良かったとか、簡単に好きになったように見えた。
彼は本来優しそうというか、すぐに情がわきそうなタイプに見えたので、前に結婚した女性や前の前に結婚した女性のことは好きにはならなかったのだろうか。イーディスのどこが特別だったのかがわからない。

しかし、それとは別にトム・ヒドルストンはすらっとして手足が長くて頭が小さいなどスタイルもいいし、身のこなしも上品で本当に素敵だった。序盤のロウソクを持ってワルツを踊るシーンでもうっとりしたし、お尻が少し出たときは腰が浮いたし、顔にナイフを刺されたときはよりによって顔に!と思ってショックだった。

今回、チャーリー・ハナムも出ているんですが、彼はトム・ヒドルストンとは対照的な体つきをしていた。ずんぐりしていて顔も大きくお尻が大きい。ゴシック衣装越しにも見て取れる。町の医者役なのですが、身のこなしなどからも田舎者っぽさが滲み出ていた。この人はこの人で好きです。

あと、バーン・ゴーマンが今回も出ています。イーディスの父親がトーマスたちを怪しんで、調査のために雇う探偵役という、彼にぴったりな役。彼のために作られたような役。影からすっと出てきて、敵なのか味方なのかわからないポジションのまま、すっと消えて行く。たまらない。

屋敷の雰囲気も良かった。古く修繕費が出せないため、一部天井の穴が塞げないのだが、そこから雪が入ってくる。ちらちらと家の中に舞ってくる様子が美しい。古いエレベーターもいい。
屋敷の外で採掘している粘土質の土が血色に似た赤なのも特徴的だった。屋敷の外に積もった雪が、まるで大量虐殺の後のように真っ赤になっていた。

映像や役者さんたちにはうっとりしたのだけれど、ストーリー面では首をひねる部分が多かったのが残念だった。もう少し、内容について調べてみます。



『ロッキー』の続編が今になって作られるなんて想像していなかった。私は観たことはあるくらいで、特に『ロッキー』に強い思い入れがあるわけではないけれど楽しめた。強い思い入れのある方なら、より号泣間違いないと思う。ロッキーの盟友であり、試合中に亡くなっ たアポロ・クリードの息子が主人公。
続編とはいえ、古くささがなく、フレッシュな手法がとられているのも本作の特徴だと思う。
それもそのはず、監督は『フルートベール駅で』のライアン・クーグラー。29歳。主演がマイケル・B・ジョーダンなのもその繋がりなのかもしれない。マイケル・B・ジョーダンは『クロニクル』の人気者生徒会長候補役も良かった。
また、スポ根ものというよりは、ヒューマンドラマに重きが置かれているのも個人的には見やすかった。でも、試合シーンも迫力や爽快感がありました。

以下、ネタバレです。









最初ですが、児童養護施設にいたアドニスを、メアリー・アンが引き取りにくるシーンだけでちょっと泣いた。メアリー・アンはアポロの本妻でアドニスは愛人の子なんですよね。それでも育てようとする、その懐の深さ。
そして、次のシーンでメキシコの違法格闘場みたいな場所でアドニスがボクシングをしていて、あー、こうゆうのってボクシング映画にはよくあるよね…と思うんですが、その何時間後というテロップが出て、アドニスがスーツを着てオフィスワークをしている。しかも、そのスーツが似合っている。昇進も決まったという話が出ている。そして、高級車に乗って豪邸へ帰って行くという、ちょっと今までのボクサーとは違うタイプ。

いい暮らしをさせてもらっていて、おそらくメアリー・アンにも愛情をもって大切に育ててもらったのだろうなというのがわかる。もしかしたら、就職口も斡旋してもらったのかもしれない。映像を見るだけで、引き取られたアドニスのここまでの生活がなんとなくわかる。
それは、マイケル・B・ジョーダンのしゃんとした佇まいのせいかもしれない。

ロッキーにも、話し方がちゃんとしてるから勉強もできるだろと言われていたし、ビアンカにもボクサーなのに不良っぽくないと言われていた。
今までのボクシング映画だと貧乏で、ハングリー精神旺盛で、ファイトマネー目当てでボクサーを目指すパターンが多かったと思う。
アドニスがボクシングをやろうと思う理由は、会ったことのない父親への憧れや、血などです。少し変わっていておもしろい。

セリフなど無粋な説明は交えず、事情を察することができるような映像は、一回目の勝利のあとの打ち上げでも見ることができる。
ぱーっとやるか!みたいなことを言っていたのでどんな豪華パーティなのかと思ったら、ロッキーとアドニスとビアンカの三人のみのホームパーティだった模様。
テーブルの上にはオレオのクッキー&クリームらしきフレーバーなど大容量アイスの容器が三つ。一人一つ食べたのかもしれない。
テレビでは『007/スカイフォール』。地下鉄が斜めに滑り落ちてくるシーンが一瞬映る。あんなの一瞬しか映らなくても『スカイフォール』だってわかるし、わざわざ映したということは、三人が鑑賞してた映画が『スカイフォール』である意味もあったのかもしれない。少し調べてみると、両方とも世代交代の話だから、とか、この映画が父と子供の映画で、スカイフォールは母と子供の映画だから、という意見もあった。
どちらにしても、三人が試合の興奮そのままに『スカイフォール』やアイスをチョイスしているところが、想像できてかわいい。ソファに座ったまま、三人で寝てしまっている、あのシーンだけでそこまでの行程がありありとわかるのだ。

また、序盤、父親の過去の試合をプロジェクターみたいなもので壁に映して、そこにアドニスが重なるようにしてシャドーボクシングするシーン。ここもセリフはないけれど、そんなプロジェクターとかホームシアターめいたものが家にあるだけでよい暮らしをしているのがわかるし、それでもここでの暮らしよりも父親と同じボ クシングをしたいという強い気持ちも伝わってくる。

父親がアポロであることを黙っていて、ビアンカが怒って少し喧嘩になるシーンも撮り方がおもしろかった。
二人の言い合いを交互にカメラを切り替えてパッパッと映す。ちょっとコミカルな印象になって、これはおおごとにはならないなというのがわかる。実際、あっという間に仲直りしていた。

ビアンカは、アドニスが引っ越すのも何も言わずに笑顔で見送っていたし、とても好感がもてる女性だった。

最初、アドニスがご近所の音楽がうるさくて文句を言いに行こうとしたのがそもそもの出会いで、おそらく、アドニスはそこでもう恋に落ちてたと思う。
デートじゃないよ、食事だよっていう誘い方もかわいかったし、そこでのやりとりもとても爽やかで好感が持てた。

聴いている曲がそのままBGMに変わる手法や、スポーツニュースやドキュメンタリーなどのテレビの映像がそのままスクリーンに大写しになるのも、最近の若い監督らしさを感じる。おしゃれだと思う。

トレーニングのシーンも、鶏を追いかけるとかなわとびとか様々なメニューをこなしている様子がコラージュされていた。短くまとめられているが、どの項目も確実に上達していくのがわかる。トレーニングを汗臭くしなかったり、長く時間を割かなかったりしたのは、スポーツという部分以外にも重きを置いているからだと思う。

ここまで触れていないけれど、もちろん、シルヴェスター・スタローンも出ている。最近のスタローンは映画でお茶目な面を見せることが多く、たぶん、わかってやっていると思う。今回も老眼鏡をかけて「クラウド?」と言いながら雲を見上げてみたり、早朝にアドニスを起こすためにひょこひょこ踊ってみたり。

今作ではもちろんロッキーとして出てくるけれど、途中で病気になるせいもあるけれど、スパーリングのみでもちろん試合にも出ないし、ほとんど打つこともない。本当にアドニスが主役なのだ。

ロッキーの銅像が街に建っていたり、ジムに来ればみんなが歓迎したりと有名人であり、映画の世界がかつてロッキーが活躍していた世界と地続きなのがわかる。この世界ではロッキーが伝説である。
そして、ロッキー=スタローンではないけれど、現実世界ではスタローンがほとんど伝説のような存在であるから、劇中でアドニスがロッキーを尊敬するように、監督もおそらく、スタローンを尊敬し、憧れを持って撮影しているのが伝わってくる。

この映画の予告編で「一緒に戦おう」というようなセリフを見たけれど、すっかりボクシングのことなのかと思っていた。
映画の中で、ロッキーはエイドリアンとポーリーの墓の近くにイスを常備し、そこで新聞を読むことを日課にしている。セコンドには立つけれど、一線を退いているのだ。
それでは何と戦うのかというと、病気である。

最初は治療を嫌がっていたけれど、アドニスが説得をする。二人は疑似親子のようであり、友人のようでもあった。戦う対象は違うけれど、共に戦う。トレーニングシーンの少なさからもわかったが、単にスポーツものというより、ヒューマンドラマに仕上がっている。

『ロッキー』を観たことがない人でも知っているであろう、ロッキーが階段を駆け上がり上でガッツポーズをする名シーン、あの階段は通称ロッキー・ステップと呼ばれているらしいが、それが本作でも出てくる。ただ、治療中のため、息もたえだえで見ていて切ない。しかし、隣りにはアドニスがいる。二人でのぼりきり、そこから見る景色はあの時とは少し変わったかもしれないけれど、おそらく気持ちは同じだと思う。

あくまでも主役はアドニスで、ロッキーは出しゃばりすぎず、でも、確かな存在感を持って、尊敬とともに描かれている。旧作にたよりすぎていないのがいい。

これは、有名すぎるテーマ曲にも同じことが言える。そのままは使わず、フレーズがちりばめてあるのが粋である。その匙加減がちょうどよいのだ。

ちなみに、いい映画を観た…と感動しながらエンドロールを見ていたら、最後に“字幕:アンゼたかし”のテロップ。また一つ、忘れられないアンゼ映画ができました。