実在の脚本家ダルトン・トランボの自伝。
この人のことを知らなかったので、家族を顧みない、でも才能のある脚本家の話かと思った。サブタイトルの“ハリウッドに最も嫌われた男”というのも、その原因は気難しい性格ゆえかと思った。
偏屈オヤジが家族のあたたかさに触れて改心するハートウォーミングストーリーを想像していた。

実際には、赤狩りの話だった。家族ものというよりは、社会派ドラマの面が強い。家族も重要な役割なので、家族ものとも言えるけれど、単純にそれだけじゃなかった。

予告編を何度か見て、その時には、共産主義のきょの字も入ってなかったと思ったんですが、今公式サイトの予告編を見直してみたらばっちり入っている。予告編騙しかと思っていたけれど、私がちゃんと見ていなかっただけのようです。

トランボ役のブライアン・クランストンが主演男優賞にノミネートされた。

以下、ネタバレです。関連作品である『ヘイル、シーザー!』についてもネタバレがあります。






『ヘイル、シーザー!』も同じ時代であり、題材も同じくハリウッド関係者の赤狩りである。冷戦ものと言ってもいいかもしれない。
『ヘイル、シーザー!』のほうがコメディ色が強いかなとは思う。市街地から離れた場所にある小屋の中で、共産主義者たちが隠れつつ議論をかわしていた。今から考えれば、あの人たちがハリウッド・テンのメンバーだったのかもしれない。『ヘイル、シーザー!』は実話ではないけれども、なぞらえてはいそう。
チャニング・テイタム演じるミュージカル俳優が結局共産主義者たちのリーダーであり、ソ連に憧れて、潜水艦に乗って行ってしまうが、あそこまでやるとやはりスパイ容疑がかかるというか、結局スパイになったりするのだろうか。

あの時代(1940年代後半あたり)の背景、アメリカでの共産主義者に対する弾圧をまったく知らなかったので、『ヘイル、シーザー!』も俳優は豪華だけれど、話は理解できたようなできていないようなと思っていた。けれど、『トランボ』を観た後ならば理解できることも多いと思う。

ただ、『トランボ』は社会派作品とはいっても、堅苦しさはない。逮捕されて、刑期を終え、出所後は特に開き直ったかのような強さが見えた。
トランボの飄々としていて、したたかな様子はおかしみすらある。ブライアン・クランストンがよく合っていた。『ブレイキング・バッド』の教授の印象が強いので、裏で何かとんでもない悪いことを考えているのではないかとひやひやもしたけれど、そんなことはなかった。
年齢も高齢のようにも見えるから、幅広い年齢が演じ分けられていた。もちろん、顔だけではなく演技でも表現していたとは思う。
個人的には肩にインコを乗せていたあたりのトランボが好きです。

トランボご本人は、実際にはどんな人物だったのだろう。
他の名前でもアカデミー賞はもらっているくらいだし、映画の通り、ちゃっかりしたしたたかな人物だったのかもしれない。

映画本編には、予告編に入っていた家族に対して冷たくあたるシーンもある。これだけ観ると、家族をないがしろにする人物なのかなと思ってしまった。でも、それはほんの一部であり、最初から最後まで、基本的には家族想いな男だった。

違う名前で脚本を書いていても、その別名義は家族は知っているから、アカデミー賞授賞式に出席していなくても、家族だけでわっと喜ぶ。
別にステージにあがらなくてもいい。そんなことは重要ではなく、才能が認められたことには変わりない。そして、家のソファに受賞した本人も居て、家族全員で喜びをわかちあえるという状況は逆に幸せそうにも見えた。
けれど、エンドロールで、トランボご本人による音声で、「子供に3歳の時から秘密を背負わせたのは申し訳なかった。父親の職業を聞かれても答えられないのはつらかっただろう」という言葉があった。
確かに、常に守らなければいけない秘密があるというのは大変だったと思う。ましてや小さい子供だ。自分のために子供が苦労するのはしのびなかったと思う。

でも、トランボは意志を強く持って、貫き通していた。決して、権力に屈することなく、自分を曲げていなかった。
そして、それがしっかり娘にも受け継がれていたのが感動的だった。娘は共産主義者ではなく、黒人排斥反対運動をしていたのだが、ちゃんと親のことを見ていて、自分が正しいと思ったことは曲げないというのを学んでいたようだった。

エンドロールに使われていたトランボご本人や家族の写真が、写真集にできそうなくらい素敵だった。
エンドロールを見進めると、どうやら妻のクレオが撮ったものらしい。映画内でもよく写真を撮っていたし、本当にカメラが好きだったようです。



『はじまりのうた』のジョン・カーニー監督。またまた音楽映画。
今回は80年代イギリスを席巻した、デュラン・デュラン、ザ・クラッシュ、A-haなどが多数使われている。

以下、ネタバレです。







『ブルックリン』では1950年代、本作は1980年代が舞台になっているけれど、どちらの映画でもアイルランドは同じく不況である。そして、主人公たちが、そこから抜け出そうとする。二つの映画のテーマは同じだと思う。

主人公のコナーは、貧困のために転校することになるが、その先の学校が荒れ放題。いじめを受け、校長からも疎まれる。そんな中で出会ったから、ラフィナは天使にも見えたのではないだろうか。
一目惚れをして、ラフィナがモデルをしていると聞くと、「僕のバンドのミュージックビデオに出てみないか?」みたいな誘い方をしていて、案外積極的だなと思った。
ただ、その時点ではバンドすら始めていない。相手が決まっているとは言え、モテたくてバンド始めるのと一緒ですね。

メンバーはすっと集まるし、演奏もわりとすぐうまくなるし、バンドとしてあっという間に形になる。あまりこのあたりは、映画内では重要視されていないようだ。
同じ荒れた学校の生徒のようだったし、コナー以外の子らも彼らなりの問題を抱えていたと思うのだ。赤毛だったり、黒人だったり、友達がいなかったり…。個性的っぽいのにあまり描かれないのが残念。
バンド内分裂みたいなのもなかったのかとか、ウサギを飼っている子は少し主張してたが、主人公以外の意見はあまり反映されていないようだった。
あくまでもコナー中心であり、コナーの夢(ラフィナと付き合う)のために都合良く集まったメンバーのように感じてしまった。

ラフィナは最初、すかした感じだったし、ビデオ撮影現場に現れた時も「騙された!帰る!」といったように怒るかと思った。けれど、バンドメンバーにメイクもしてあげる。ビデオ撮影にもノリノリだった。見た目と違ってこの子の性格でしょう。声もかわいい。もっと年上お姉さんかと思ったら、コナーの一つ上だった。

15歳の男の子の簡単に影響されてしまう感じが可愛かった。デュラン・デュランのビデオを見たら、作る曲も似ちゃう。
歌詞も、ラフィナのことを赤裸々に書いていて、すでに告白のようだった。でも、「このモデルっていうのは君のことじゃないからね」と隠しているのが良かった。

その他にも、ザ・キュアーの曲を聴いたあとにはロバスミの髪型にしてたり、スパンダー・バレエの『Gold』のMVを見た後にはポマードをつけて学校へ行ったりしていた。ホール&オーツの『Maneater』を聴いた後に作った曲も曲調が似ていた。いちいち影響を受けるのが可愛い。

ただ、次々できあがる曲にしてもMVにしても、ラフィナの協力があったとはいえ、すぐに形になっちゃったなとは思った。バンド関連のことでの苦労はないです。
これは、もしかしたら監督の特徴なのかもしれない。

『はじまりのうた』にしても、そんなうまくいくか?みたいなところがあったし。それか、音楽的な才能についてはある程度あるもの同士なのだろう。あと、音楽映画なのだし、曲ができない苦悩とかバンドの悩みなどはすっ飛ばさないと話が進まない。

また、そこでも悩んでいては映画が暗すぎてしまうからかもしれない。
コナーは家庭内の問題を抱えてて、学校でもいじめられて浮いていた。これで、バンドまでうまくいかなかったら救いがない。バンドやってるときくらい楽しくあってほしい。

バンド活動が上手くいくことで、学校での問題は克服しつつあり、ラフィナとも次第に仲良くなっていっていた(この辺についても、コナー以外のバンドメンバーにも上向きに働いていたんじゃないかなと思うけれど描かれません)。
それと反対に家庭内での問題はどんどん大きくなっていき、両親は離婚をすることになってしまう。

コナーにはお兄さんがいて、レコードをたくさん持っていて、バンド活動に関してアドバイスもくれて、ギターもうまく、音楽の先生のようになっていた。コナーも憧れているようだった。

序盤は学校も辞めたらしいし、長髪ひげ小太りによれよれのTシャツで、ただのボンクラのように見えていた。ただ、そこには両親との深い確執があり、長男としての責任もあったようだった。
大麻が切れたと言っていたのが本当だかわからないけれど、弟のコナーに本音をぶちまけるシーンがつらかった。
ある程度、兄が犠牲になることで、弟のコナーは好きにやっていられる。それをコナー自身はそれまでまったく知らなかった。

体育館のような場所で演奏するシーンがとても良かった。エキストラとして数人を呼んで、「『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のパーティーのシーンのように指を鳴らして踊って」と言うが、エキストラの子らは映画を観たことがなく、ダンスも上手くいかない。
でも、演奏が始まれば、バンドメンバーの衣装もびしっと決まる。ステージの下にはたくさんのお客さん。ミュージックビデオの主役であるラフィナも入ってくる。両親もいて、仲良く踊っている。兄貴も髪を切って爽やかになっていて、バイクで駆け付ける。最高に幸せな空間である。
だけど演奏が終わると、元の寂しい体育館に戻る。両親とお兄さんはもちろん、ラフィナも来ない。現実をつきつけられたようだった。

ラフィナはロンドンに行ってモデルとして活動するという夢にやぶれ、アイルランドに帰って来る。
メイクと髪型のせいかもしれないけれど、普通の女の子になってしまい、年相応に見えた。けれど、まったく魅力的じゃない。
そんな彼女が、今度はコナーのバンドに逆に感化されていたのも良かった。

学校でギグをやるんですが、ここでやる曲がバラードやパンクも混じっていて、ここまでバリバリのニューロマだったので、できればそのままやってほしかった。けれど、バラードはラフィナに対する想いであり、パンクは校長批判だったので、それに合った曲を、ということだったのかもしれない。ニューロマはかっこつけ成分が強く、メッセージを強く伝えるのには向かないのかも。

コナーはラフィナと一緒に、祖父の小さい釣り舟でアイルランドからイギリスを目指す。
思いつきで行動をするのも15歳だと思うけれど、アイルランドからいちぬけみたいな感じで、残される人々の気持ちはどうなっているのだろう。

バンド仲間は? コナーがラフィナと付き合うために集められて、バンド活動もうまく行きそうだったのに、コナー以外のメンバーはアイルランドに残されてしまうのか。
ウサギを飼っていたメンバーは「俺たちを引き上げてくれ」と言っていたし、「これが最後のライブになるかも」という言葉に「いいよ」と応えていたのであれで了承したのだろうか。
いじめっこをローディーとして雇ったのだから、本当はもっと活躍させてあげてほしかったが。

両親はどうでもいいとして、お兄さんはどうだろうか?
彼自身もドイツに行こうとしてあきらめてるという話がでてきた。それは、やろうと思えばできたことだったのか、それとも長男だから無理だったのか。
コナーとラフィナを海へ連れて行ったお兄さんは「やった!」って言ってたし嬉しいのだろう。夢を託したということか。
それとも、兄も、弟の突然の行動に感化されて、これからでもなんでもできると思い、動くのだろうか。
お前だけ逃げやがって、みたいな気持ちにはなっていないことは確かだ。

あと、どれくらいの確率でイギリスへたどり着けるのだろうか。小さく立ち乗りで屋根もない釣り船である。波でも転覆しそうだった。入国はできるのだろうか。
私はそんな細かいことを考えてしまっていたが、そんなこと考えずに、好きな女の子と二人で向かうという行為自体が大切ということなのだろう。

この時に流れていた曲では、振り返るな、前を向いていけ、なりふり構うなというようなことが歌われていて、コナーを応援しているようだった。
曲調は80年代ではないなと思ったら、歌っているのが、アダム・レヴィーンでそりゃそうだと思った。『はじまりのうた』に続いての楽曲提供になる。出演はありません。

後半に出てくる曲はニューロマっぽくないものが多くて、好きだったバンドと私の音楽性の違いにより、好きじゃなくなるパターンに似ていて、少し寂しかった。
でも、前半に出てくるものは、歌詞も素晴らしいし曲も好きだった。音楽映画なのだから、曲が素晴らしいということが一番重要である。

どの曲にもラフィナを好きという気持ち、その時にコナーが考えていること、そして何より音楽が好きという気持ちがぎゅっとつまっている。瑞々しい。
聴いていて、字幕で出る歌詞を読んで、涙が出た。サントラが欲しい。



『ブルックリン』



アカデミー賞作品賞、脚色賞ノミネート。また、主演のシアーシャ・ローナンが主演女優賞にノミネートされた。シアーシャ・ローナンはゴールデン・グローブ賞でもノミネートされていて、他、様々な賞を受賞したりノミネートされたりしている。
シアーシャ・ローナン、観た後で『つぐない』(2007年)の女の子だって知って驚いた。大人になってる!

以下、ネタバレです。








エイリッシュ(シアーシャ・ローナン)は、仕事を求めてアイルランドからアメリカのブルックリンに移り住む。経済移民ですね。
慣れない船旅、慣れない生活、慣れない仕事で当然ホームシックになるが、ある男性と知り合ってからは徐々に生活や気持ちが上向いて行く。職場の仲間とも仲良くなり、仕事も順調。もちろん、男性のおかげだけではなく、慣れてきたこともあるのだろう。
順調に見えた矢先、突然の姉の訃報が入り、帰郷することになる。だけれど、一度アイルランドに帰って来ると、なかなかアメリカには帰してもらえない…という話。

最初に出てくるエイリッシュはとにかく田舎くさい。ほぼノーメイクのせいかもしれないし、服装のせいかもしれない。アメリカに向かう船の中で同室の垢抜けた女性に化粧をしてもらい、多少はマシになる。
その後も、一緒にデパートで働く仲間にも振る舞いなどを教わったり、ビーチに行くにはサングラスがあったほうがいいとか、下に水着を着ていくとか、そこでの常識を身につけて行く。

シアーシャ・ローナンが異常に化粧映えするせいもあると思うけれど、エイリッシュが劇的に洗練されて行く様子には目をみはる。

それは、彼女がアイルランドに帰郷したときに一番よくわかる。
町は変わらない。そこにずっと住んでいる人も変わらない。でも彼女だけが変わったのだ。

エイリッシュの友達は、最初のシーンで二人並んでいても、確かにエイリッシュよりも綺麗に見えた。けれど、帰郷後は田舎の美人というように見えた。主人公のほうがよっぽど綺麗だし、見映えがいいし、垢抜けている。
けれど、アイルランドの町には似合わない。

友達の結婚式がアメリカに帰る予定の日の後だったり、友達に会おうとしたら男の人がついてきたり、地元の職場を手伝わなくてはならなくなったり、なんだかあれよあれよという間に町にとりこまれてしまう。
これは、そのまま東京と地方にも置き換えられるようで、わかりやすかった。多分、地方から東京へ出てきて一人暮らしをしていて、何かあって実家に帰ったときなどに同じようなことになりそう。

もしかしたらすべては母の陰謀なのかなと思ってしまった。陰謀というのはおかしいか。姉も亡くなり、一人きりになってしまったのだから、娘なのだしそばにいてほしかったのだろう。

けれど、少しいるとエイリッシュにとってもアイルランドでの生活が順調に進み始める。
仕事も元々希望していた簿記を生かせる事務職につけた。周囲の人も優しくしてくれる。友達もいる。自分に好意を持ってくれている男性も現れた(ちなみにこれが、出ているのを知らなかったドーナル・グリーソン。最近の出演作の多さに驚く)。

もちろん、もともと住んでいた場所、ふるさとなのだし、馴染むのもブルックリンに行った時よりも早いだろう。
ブルックリンで出会ったトニーからの手紙も、最初は母が隠しているのかと思ったら、そんなことはなく、エイリッシュ自身が読まずに机の引き出しへ入れていた。自主的だった。
結婚までしたのに、そんなに簡単に忘れてしまい、目先の幸せをとるのか。

ブルックリンでの幸せとアイルランドでの幸せ。不幸な部分もどちらにもあるだろうし、だったら知っている人の多いアイルランドを選ぼうとしているのだろうか。
ぬるま湯にずぶずぶと浸かり、もうブルックリンへは戻らないのかと思った。
でもそうしたら、トニーはどうするんだろう。乗り込んできて修羅場になったりするのかななどと考えながら見ていた。

けれど、エイリッシュが以前働いていて、国を出るきっかけとなった店の店主の意地悪なばあさんにより目をさましたようだ。
人づてに聞いた話だと言って、トニーの話を持ち出す。エイリッシュもばあさんに対して「何がしたいか、自分でもわからなくなってるのね」と言っていたけれど、おそらくばあさんは良い悪いではなく、おとしいれるつもりもなく、ご近所の噂話が大好きなのだろう。噂話によって形成される狭い世界の中で、上の人には頭を下げ、下の人をこきつかい生きてきたのだ。ばあさんにとっては狭い世界の上下関係だけがすべてなのだ。
エイリッシュはおそらく、この狭い世界が嫌で、国を出たんですね。それを“思い出した”と言ったのだろう。
そして、この瞬間、誰よりもトニーに会いたくなったようだった。まるで魔法が解けたようにも見えた。

戻る船の中、甲板で初めてアメリカに向かうという女の子に会ったエイリッシュが、かつての自分の姿を女の子に重ねるのが印象的だった。最初に船で向かうときに教わったのと同じように、今度は教えてあげる。
なるほど、こうやって受け継いで行くんだ。
入国管理局で女の子は少し化粧をしていたけれど、それもエイリッシュが教えたのだろう。映像はないけれど、船の中ではかつての逆と同じことが起こったのだろうと推測されて感慨深い。
もう、アイルランドを最初に出た頃のエイリッシュではない。成長している。そして、今になると、最初に船に乗ったときに教えてくれた垢抜けたお姉さんの気持ちもよくわかる。もう立場が違うのだ。

ブルックリンに戻り、エイリッシュが壁に寄りかかってトニーを待つシーン。これが、ポスターなどのメインビジュアルになっている。ラストシーンでした。

ここの服装も本当に可愛いけれど、全体的に色づかいや服の形がレトロで可愛い。古着のワンピースが欲しくなる。
1950年代ということで、『キャロル』と同じ時代ですね。働くデパートの感じも似ていた。この頃のファッションのお洒落さも堪能できる。



『セトウツミ』



原作は漫画とのこと。漫画の一話が読める秋田書店のサイトへ映画の公式サイトからリンクがはられているので読んでみたが、雰囲気はまったく一緒だった。景色などは実際の漫画の舞台に撮ったのだろうか。

また、堺市のロケ地MAP、原作のLINEスタンプ、映画本編には入っていない短編が三つ(個人的には二つ目の『タイミング』が好きです)と公式サイトがかなり充実している。(http://www.setoutsumi.com/)

主演の二人が放課後に喋るのが主な内容である。学生なのに、学校での風景が一切無い。だらだらと喋る。
それはまるでコントのようなやりとりなのだが、そのコントっぽさは関西弁なせいかもしれない。
主演は池松壮亮(福岡出身)と菅田将暉(大阪出身)ということで、二人ともネイティブな関西弁使いである。

私はそれぞれ『海よりもまだ深く』と『そこのみにて光輝く』でしか見たことが無かったのですが、どうやら旬の俳優らしい。
もちろん、この二人のだらだら喋りだけを目当てに行ってもいいと思う。独特なテンポだし笑える。
けれど、映画の内容が喋るだけではない。コピーが“「喋る」だけの青春。”となっているけれど、彼らの青春が喋るだけなのと、映画の内容が喋るだけなのとは違うのだ。ほぼそれだけだけど。
でも、会話の内容や二人の制服の着崩し方や靴の履き方から徐々に見えてくるものを察するのがおもしろい。彼らの家族構成や二人の関係性がわかってくる。
それに、二人以外のサブキャラも抜群にいい。

監督は(私の中で)ブロマンス描写に定評のある大森立嗣監督。

以下、ネタバレです。









舞台はほぼ同じである。川辺の階段のあたりに二人並んで座っている。
一話、二話といった感じのオムニバスになっている。けれど、オムニバスと言えるほどの違いは無く、制服が夏服だったり冬服だったりと、季節が変わって行くくらいです。

最初の一話は、神妙な顔つきというのが一つのテーマになっていて、ああ、顔で笑わすようなコントを何話かやるだけなのかなと思った。

けれど、伏線的に川を見ていたおじさんに学校の怖い先輩が近寄って行って、おや?と思った。瀬戸と内海が話しているシーンはほとんど長回しというか、正面から撮っているだけだけれど、このシーンは急に映画的になる。
どうやら二人は親子で、でも両親は離婚していて、先輩はお父さんから養育費を受け取って、でも18歳の誕生日の今日が最後で…というやたらと重めの設定が急に盛り込まれる。
二人の演技が素晴らしく、泣かされてしまった。

なるほど、こうゆうスタンスかと思った。ただ、コントを撮っているだけではない。

他にも出てくる人がそれぞれいい。
中条あゆみ演じる寺の娘、樫村さんは、瀬戸が言っていたけれど、確かにわびさびも感じる美人だった。
ものすごい美人だけれど嫌味ではない。けれど、美人ゆえに浮世離れしている。他の女子高生とは違っていて、描写はないけれど、たぶん校内でも一人きりっぽかった。
本当に綺麗に撮られていた。

二人の会話の端々には家族構成が出てくる。瀬戸に関しては母親が通りかかる。まさに大阪のおばちゃんといったヒョウ柄を着ていた。母親特有の謎の文面でメールを送ってくるが、愛情を受けているのもよくわかる。
父親は失業中。だから貧乏なのに、飼い猫(三毛猫)に高いエサをあげて離婚危機。喧嘩もしているけれど、母親は父親にも愛情がありそうだった。
認知症で徘徊癖のある祖父(この祖父も通りかかる)。祖母は亡くなっている。

内海の家庭環境は瀬戸の真逆のようで、金持ちの家だけれど家族の愛情は受けてなさそう。一切姿も出てこないし、謎。内海としても親について話す内容がないからなのか、瀬戸との会話にも出てこない。

家族構成など、二人の背景がわかると、ただ話しているだけでも会話に深みが増す。どうやら二人とも、能天気に見えて、幸せな生活を送っているわけでもない風だった。

何話かやったあとにプロローグ的な0話が入る。これは、内海と瀬戸が出会う前の話なので、喋る二人ではないし、一番映画的とも言える。
内海は一人きりで、それを気にするでもなく、周囲を馬鹿にしている。話しかけてくれる同級生もほぼ無視している。

塾までの時間のひまつぶしとして、川辺に座り、本を読みながらイヤホンで音楽を聴く。目も耳も、外界の情報をシャットアウトして、完全に一人きりになり殻に閉じこもっていた。

そこにある日、瀬戸が座ってるんですね。
(「サッカー部だったんちゃうん」)という内海のモノローグが入ることから、同級生の話を聞いてないようでちゃんと聞いてるし、瀬戸の存在も認識していたことがわかる。
その後、部活をやめた原因も、同級生は噂話として話していたが、内海は聞いてないようで、ちゃんと聞いていた。

結局、瀬戸は才能がありながら、他の人のために部活をやめた。いい奴なのも内海は知っている。

内海は塾までの時間が空いていた、瀬戸は部活をやめて暇、需要と供給だと言っていたけれど、それだけじゃないだろ。
後ろからわーわー話しかけてきていた同級生だって、おそらく内海と友達になりたかったのだと思う。それは無視したじゃないか。彼では駄目だったのだ。

瀬戸なら良かった理由は、おそらく、明るく見えても影で挫折を経験しているところと、本当は優しくていい奴なところだろう。
瀬戸は、内海がサッカー部時代のエピソード知ってるって知らないんだろうな。映画では出てこなかったけれど、原作でサッカー部在籍時の話をする回ってあるんだろうか。話の核になりそうなところだし、出てこないかな。

エピローグは樫村さん目線だった。二人のだらだら会話がだいぶ楽しくなってきたので、それで終わらせてほしかった…とも思ったけれど、これはこれでいい。
外部から見る瀬戸と内海二人の様子が描かれる。

樫村さんは瀬戸に好意を持たれているけれど、内海のことが好きなのだ。もしかしたら、内海も樫村さんのことが好きなのかもしれない。けれど、気持ちに応えられないのは、たぶん瀬戸のことを考えてのことだろう。

0話は内海のモノローグもあるし、内海の考えていることはわりとわかる。でも、瀬戸に関しては本心がよくわからない。でも、たぶんそれほど深く考えていなくて、話していることがすべてなのではないかなとも思う。

もしかして、映画でよくある、実は存在しないパターンだったらどうしようかと思った。孤独な内海の作り出したまぼろしだったら…。そして、樫村さんはそれを優しく見守る女子だったら…。

でも、瀬戸は瀬戸でただの馬鹿明るい奴ではなく、家庭に問題はあるし、可愛がっていた猫が死んで号泣する優しい部分もあるし、その前に変な形で部活をやめたりもしている。これらがなかったら、まぼろしを疑ったところだ。でも、瀬戸にも悩みもあるし、人間味はちゃんと感じる。

瀬戸の悩み、内海の悩み。だらだら喋ることで二人が同時に救われている。ちょうどいい存在に思えた。やっぱり需要と供給なのか?

喋りのコントだけ見て笑うだけでもいいけれど、喋るだけの映画とは言わないでほしい。大森監督のブロマンス手腕も堪能しましょう。くだらない馬鹿話とその裏側まで見たほうが絶対におもしろい。

上映時間が75分しかない。いくらでも観ていられる。三時間くらいやってほしい。どうにでもなると思うので、是非続編制作に期待したい。





原作は海外で大ヒットしたゲームですが、日本ではあまり知られていないらしい。ゲームの『ウォークラフト2』が出たのは1995年のようですが、2というからにはその前に1が出ているのだと思うけれど、いつ出たのか不明。

監督はダンカン・ジョーンズ。今までの作品とはだいぶ印象が違った。

以下、ネタバレです。






予告を見た感じだと、人間(善)対オーク(悪)という対立があって、オークの中に良いオークが出てきて人間と共闘するのかなと思っていた。
けれど、最初はオークしか出てこないし、夫婦の間に子供が産まれようとしていたりと、悪というイメージではなかった。
なんとなくですが、『猿の惑星』を思い出した。相手には相手の事情があり、人間には人間の事情がある。それぞれに世界があって、事情を抱えているから対立するといった感じに。

それで、私は人間なので人間側に共感すると思うでしょ? それが、できなかったのだ。かといって、オークに共感したわけではない。
遠い世界で起こっている出来事をぼんやりと眺めるだけになってしまった。いや、実際に遠い世界なんだけれど、それが身近なものと置き換えられない。

少しでもゲームを知っておいたほうが良かったかもしれないと思った。
固有名詞が人の名前なのか、場所の名前なのか、能力なのか、組織の名前なのかがわからないのだ。知らない単語が次々と出てくるので、一度出てきた単語もなんだったかがわからなくなる。理解が追いつかないので、結果、騒動からは離れた場所でぼんやりと観ているしかなくなる。没頭できないのだ。
最後に、人間側の主人公?が鼓舞するときに出てくる“アゼロス”すら何なのかわからなくなっていた。調べたら大陸の名前だった。

原作がそうだからそうなんだけど、洋モノのファンタジーRPGとかSLGの雰囲気だった。個人的には日本版のそれらのゲームはやっても、海外版はなんとなく難易度が高そうとか、世界観に馴染めそうでプレイしていない。そんな人が観る映画ではない気がした。映画の出来どうこうではなく、単純に合わない。

トビー・ケベル演じるデュロタンはオークの中でも邪悪な力を使うオークに疑問を持っていて、人間側と手を結ぼうとする。もっと交流があるのかと思っていたけれど、さほどないまま殺されてしまう。
冒頭で産まれた息子も赤ちゃんのままだったけれど、この先何かあるのだろうか。

ハーフオークのガローナは陛下の苦渋の決断により陛下を刺していた。それにより、ガローナはオーク内での地位が上がっていた。今後、デュロタンがなし得なかったような人間との架け橋になるのだろうか。

デュロタンの子が誰かに抱き上げられるという、どう考えても続編がありそうな終わり方だったし、ダンカン・ジョーンズも三部作構想と言っているそうだ。

本作が悪かったわけではない。このゲームが好きな人からしたら満足できる内容だと思う。違う監督だったら、作品の印象もまったく違ったと思う。私は、今までのダンカン・ジョーンズのこぢんまりした感じのアイディアSFが好きだったので、どちらかというと、またそっち系の作品が観たいのだ…。彼の次回作が仮に『ウォークラフト2』と『ウォークラフト3』だとすると、しばらくは戻ってこないですよね…。


でも、「小さい頃に父(デヴィッド・ボウイ)に『ラビリンス』の撮影現場に連れて行ってもらい、こんな映画が作りたいと思った」的な話がパンフレットに載っていたらしいので、もう何も言うまいと思った。好きな作品を作ってください。そして、いつか戻ってきて…。



チェルシー・フラワーショウというガーデニングの品評会で、2002年に28歳という最年少で金賞をとった女性の実話。

以下、ネタバレです。





監督のヴィヴィアン・デ・コルシィは、弁護士から監督になったという変わった経歴の持ち主。アイルランドでメアリーご本人に会って脚本を書き始めたとのことだが、映画化するにあたって苦労したのが資金集めだったらしい。
映画の中でもメアリーは資金集めに苦労している。なんとなく重なる部分もあるのかなと思った。

しかし、映画の中のメアリーはわりとトントン拍子で話が進んでいく。実話を基にしているということだけれど、どこまでが実話なのだろうか。
まず由緒あるコンテストなので、当然、一見さんというか若者は願書すら取り寄せることができず、チャレンジもできない。
けれど、問い合わせの電話を何度かするうちに、受付の女性と仲良くなり、内緒で願書を送ってもらう。そして、2000通の応募のうちの8件に入るという…、まさにシンデレラストーリー。
本来ならば、急にこの大会に挑戦するとなったらそこまでが厳しいのではないかと思う。彼女に才能があったということだろうか。

資金繰りも、あては無く苦労はしていたけれど、ラジオで訴えたところ、地元の企業(病院?)がわりとあっさり援助してくれていた。

大会本番でも、カリスマガーデナーと火花を散らすのかと思った。最初に弟子入りし、メアリーのネタ帳を盗むなどいわく付きだったからだ。
けれど、別に対決らしい対決はなかった。夜にメアリーの作った庭に忍びこんだときも、こっそりとぐちゃぐちゃにしてしまうのかと思っていたけれど、ノートを返しにきただけだった。
きっと、悪い人ではないのだろう。意地悪で盗んだわけではない…のだと思う。

ただ、このように大会があっさりしてしまったのも、観ている人は金賞をとることを知っているからなのかもしれない。あらすじを読んだりせずとも、ポスターや予告に書いてあった。情報を極力入れないようにしていても、入ってきた。
だから、金賞を取れるの?取れないの?というドキドキはなかった。思えば、願書受付のシーンがあっさりしていたのも、出るのがわかっていたからなのだろう。

ではメアリーは何に苦労したのかというと、クリスティという植物学者関連についてだった。
彼女の庭に野草を植えたいので、野草の専門家に手伝ってほしいと。けれど、クリスティはガーデニングのような作られた物、金持ちの道楽には興味がなく、砂漠の緑化のために、エチオピアに旅立ってしまう。
これも実話なのだと思うけれど、大会まで残り日数が少ないというのに、しかも資金のあてもないのに、彼女は彼を説得するためにエチオピアに一人乗り込む。
彼女がいない間、彼女の庭作りを手伝うことに賛同した人々はどうしていたのだろう。多分、旅立つ時点でメアリーはクリスティに恋をしているようだったし、なんとなく身勝手に感じてしまった。
でも、映画の見せ場的な意味合いとしての恋愛要素も入れたかったのだと思う。

押しかけて行ってもクリスティとは意見がすれ違っていて、もう残して帰るのかと思っていたが、わりと長く滞在しているようだった。お願いだから、アイルランドに残した仲間のことも少しは思い出してほしい。
恋は盲目ということなのかもしれないけれど、これだけ恋愛要素を出してくるなら、ライバルのカリスマガーデナーとは恋もライバルみたいな描き方のほうが良かったような気がする。もともとはクリスティはカリスマの元にいたのだし。

結局、クリスティともうまくいったけれど、最後に出てくる現在の彼らというような文章によると、二人は良い友達関係らしい。
どうゆうことかと思ったら、実際のメアリーは、あの後でミュージシャンとつきあい、クリスティを振ったらしい。そして、二人の子を産んだけれど、結局うまくいかずに別れたとか。このことがあって、クリスティとは8年間喧嘩していたらしく、今では許してもらって“良い友達”になっているとのこと。

なんとなく、アバンギャルドさとか思いきりの良さに、彼女の性格が出ているような気がする。いきなりフラワーショウに申し込む、いきなりエチオピアに行く…。思い切った行動の一端である。性格なのだろう。

ちなみにメアリーを演じたエマ・グリーンウェルは、メアリー・レイノルズご本人と対面し、大股ですたすた歩く様子なども似せたらしい。ご本人いわく、結構似ているとのこと。けれど、クリスティはイメージが少し違うらしい。
本物のクリスティは“大地の人”という感じと書いてあったけれど、どうゆう雰囲気なのか、いまいち想像がつきにくい。がっしりした体型なのだろうか。

“大地の人”の想像はつきにくくても、映画版のクリスティは明らかに違うのはわかる。王子様であり、かなりいい男に、そしてものすごい色気が醸し出されている。

序盤、カリスマガーデナーのパーティで、メアリーが一人暗い部屋で泣いているシーンがあるんですが、そこにクリスティが通りかかるんですね。暗い部屋にぱっと顔を出しただけでドキッとしてしまう(私が)。暗い場所で二人きりという状況に、何かが起こりそうな気配を感じてしまう。序盤だし、向こうは何とも思ってないし、何も起こりません。

ツリーハウスに招待をしてくれたときも、「梯子にのぼって」と言って、後ろから手を重ねてきた。顔も近い。それだけでも(私が)緊張するのに、ツリーハウス内で二人きりになったときも、もしかしたらここで二人で寝るのか?と思って、ドキドキしてしまった。クリスティは出て行ってしまった。

ポラロイドを撮るときに、肩を組んできたのも良かったし、無駄に上半身裸シーンも多かった。

エチオピアでは、クリスティもメアリーのことが好きになってきて、目線が熱いというか、すごく見てくるというか、ねっとりと絡んでくるというか、見られているだけなのにとんでもないいやらしさだった。

もちろん、メアリー相手のクリスティなのだけれど、(似ているところがあるとかそういう話ではなく)メアリーに自分を重ねてしまうというか、劇中のメアリーがどんな気持ちだったかはわからないけれど、私は存分にドキドキさせてもらいました。

トム・ヒューズ、『セメタリー・ジャンクション』のときは、悩める不良というか、喧嘩っぱやくて鬱屈してるけれど爽やかな部分もある若者だった。いつのまにこんなに色っぽくなってしまったんだ。なってしまったというか、大歓迎ですけれど。
『セメタリー・ジャンクション』が2010年ということは、多分、トム・ヒューズは23歳とか24歳くらいですね。今まだ30歳、これからどうなるのか、期待しています。


ティム・バートンは製作総指揮には名前が入っているが、監督はジェームズ・ボビンに変更。
実は、前作はそんなに好きではなかったため、観る予定はなかったけれど、『ザ・マペッツ』が好きだったので観ました。
本作の原題が『Alice Through the Looking Glass』、『鏡の国のアリス』の原題が『Through the Looking-Glass, and What Alice Found There』だったので、『鏡の国のアリス』を原作としているのかと思ったけれどそうではないらしい。
そもそも、一作目にも出てくる白の女王は『鏡の国のアリス』に出てきたキャラクターだし、ヘレナ・ボナム=カーターが演じる赤の女王は、外見や「首を刎ねておしまい!」というセリフなど、ハートの女王と合わさったようなキャラクターになっている。
今作は特に、そもそも原作とはあまり関係がなさそう。鏡を通り抜けた先でチェスが繰り広げられているのは原作の通りらしいので、ここだけオマージュなのかもしれない。
以下、ネタバレです。



最初、アリスは船で旅をしている。海賊に襲われそうになっているし、海は大荒れだし、海洋アドベンチャーのよう。一体何を観にきたのかなと思ってしまう。ただ、映画の始まりが夜空にチェシャ猫が浮かび上がって、にんまりと笑った歯が三日月に変わるので、紛れも無くアリスなのがわかる。
ただ、描かれているのは不思議の国ではなく、現実世界のようだ。父親の船は売らねばならず、プロポーズを断った相手からは嫌がらせのような扱いを受ける。中国で手に入れた奇抜な色と形のドレス(チャイナドレスではない)はパーティでは浮いてしまい、アリスと現実世界の馴染めなさが現れているようだった。
そのドレスが、というかドレス姿のアリスが、鏡を通じて訪れた不思議の国ではまったく違和感がなかった。世界もカラフルだし、アリス自体が馴染んでいるのだろう。この表現がおもしろかった。

帰ってきたアリスを仲間たちが歓迎する。可愛いけれど、各々の説明は一切ないので、その辺が知りたかったら前作を観たほうがいいと思う。けれど、直接的な続きではありません。ハンプティ・ダンプティも最初に出てくるだけだけれど、ちゃんとサービスで割れてくれた。
マッドハッターが、家族が実は生きているのではないか、過去に戻って救ってくれないかと、アリスに無茶な願いをする。ハッターは死にかけているのでそれを助けるために、アリスは時の番人タイムのところへ行き、タイムマシンのような機械を盗み出す。詳しくは説明されないけれど、多分それはタイムにとっても核というか心臓のようなものらしく、タイムが徐々に弱っていく。

本作は、不可能なんて言葉が一番嫌い、なんでもチャレンジしてみる!というのがテーマになっていたようで、それは確かに大切なことだと思う。けれど、その行動のせいで、苦しんでいる人がいたらどうなのだろう。
信じたことを疑わずまっすぐに突き進む、それは長所でもあると思うけれど、ハッター第一で、他人の迷惑を考えないのは短所にもなってしまう。長所と短所は紙一重なのだ。
だから、アリスがタイムマシンを使って時間旅行をしていても、ワクワクはせずに、ただの身勝手な行動に感じてしまった。

結局、赤の女王の頭が大きくて戴冠式でハッター家族の作った冠がかぶれなかったことで恨みを買ったらしいのだが、更に過去に遡るとそもそも、赤の女王の頭が大きくなったのは白の女王のせいだったんですね。
こうなると、本作の悪役はアリスを執拗に追ってくるタイムでも赤の女王でもなく、アリスと白の女王なのではないかと思えてくる。タイムを演じているのがサシャ・バロン・コーエン、赤の女王を演じているのがヘレナ・ボナム=カーター。2012年公開の『レ・ミゼラブル』の意地悪夫婦を演じていた二人である。なので、なんとなくその印象で騙されてしまった。ちなみに、白の女王のアン・ハサウェイの『レ・ミゼラブル』でコゼットの母を演じていた。配役だけ見たら完全に騙される。

ただ、騙されたと思っているのが私だけで、映画の中では何事もなかったように、なんらかの方法でタイムと赤の女王が“やっつけられて”、めでたしめでたしで終わってしまったらどうしようと思っていた。それではまったく共感できない。
しかし、終盤「どうして私だけが酷い目に遭うの。こんな容姿でなければ愛されたのに」と赤の女王が泣きながら本音を吐露したのだ。それで、ちゃんと血の通ったキャラクターになる。

赤の女王ではなくハートの女王だけれど、原作のイラストだと、妙に頭が大きい。ただ、ハートの女王なので、白の女王的な存在もいないだろうし、頭が大きくなった原因まで想定されていないだろう。おそらく、ティム・バートンも想定していなかったはずだ。
頭が大きいことで、コミカルで威圧的でギョッとする印象が与えられる。その姿形だけだろう。

けれど、赤の女王自身は本作ではその容姿にコンプレックスを抱いていたというのがわかる。ずっとずっと昔から。それはアリスがタイムマシンで過去に遡っても変えられない。けれど、過去を顧みて、未来を変えていくことはできる。
白の女王は子供時代に過ちをおかした。それは変えられない。けれど、大人になった今でも、「ごめんなさい」と謝った。遅くなかったのだ。こうして、歪で邪悪でしかなかった赤の女王が救われた。個人的にはティム・バートンよりジェームズ・ボビン監督のほうが、キャラクターに寄り添って、優しい目線を向けている印象を受けた。
つい、誰が悪者なの?誰を倒す話なの?という感じで観てしまっていたが、誰も悪者ではないのだ。

また、タイムにしても、アリスがタイムマシンを盗んで混乱させたことをちゃんと謝っていた。
序盤に出てきたタイムはガミガミしていたし、サシャ・バロン・コーエンなこともあったし、主人公を追いかけてくる者として、いかにも悪役だった。だが、終盤では王のような風格があった。悪い意味で威圧的だったのが、良い意味で威圧的に変わっていた。これはサシャ・バロン・コーエンのうまさだと思う。素晴らしかったです。

そして、もちろん、アリスなので、ちゃんと行きて帰りし物語形式になっている。現実世界に戻ったアリスは結局、母親と大海原へ乗り出す。二人で同じような服装でしゃんと背筋を伸ばしているのが良かった。力強く、爽やかなラストだった。
アリスの母親を演じているのが、リンゼイ・ダンカン。前作と同じキャストですが、前作の2010年の時点では特に意識していない女優さんだったけれど、『ドクター・フー』(シリーズ4.5の“火星の水”)や『SHERLOCK』(シーズン3-3“最後の誓い”)、『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(演劇批評家)など、観るもの観るもので気になっていました。今作も良かった。

“悪いことをしたら謝りましょう”だけでは、子供向けの教訓めいている。しかし、本作は、過去にしてしまった過ち、胸の奥にチクリと残っているもの、そんなものを抱えながら、時間を過ごしてきた大人向けでもある。前作より断然こちらのほうが好きです。