『怒り』



吉田修一原作、李相日監督の『悪人』コンビ。
上映時間144分ですが、長さはまったく感じなかった。

以下、ネタバレです。









刑事が殺人事件の現場を調べているシーンから始まるため、考えていたよりもミステリーっぽいのかなと思いながら観始めた。

東京と千葉の房総と沖縄が舞台のストーリーが同時に進行していく。それぞれに素性のわからない謎の男が出てくるので、おそらくこの中の誰かが犯人なのだろうなと思いながら観ていた。
謎の男を演じるのは、綾野剛(東京)、松山ケンイチ(千葉)、森山未來(沖縄)。事件の指名手配の写真が映画中に出てくるけれど、この三人のいずれにも見えてしまう。顔の系統が似ている絶妙なキャスティングだと思う。この辺、原作小説だと叙述トリックを用いているのかもしれないけれど、映画だとばっちり映像が出てしまう。けれど、ちゃんと見てみても誰ともわからない感じがうまい。

三つの物語はほとんど同じ流れである。
素性のわからない男はあやしいけれど、ミステリアスでひかれてしまう。
モテモテで仕事も順調そうだけどどこか空虚感を抱えているゲイの青年。風俗嬢として働いていたけれど、体を壊し田舎に連れ戻された家出少女。波照間島に引っ越してきたばっかりで慣れない環境で生活する少女。
おそらく、ひかれる側も何か生活に満たされない部分があった。

出会って、ひかれて、あの殺人事件の逃亡犯では?と疑うタイミングも三つほぼ同時である。
この中の誰かが犯人なのだろうな。それか、三人ともただあやしいだけで、犯人はまた別にいるのか。それとも、時系列が前後していて、この三人は実は同一人物なのではないか。
素性のわからない男と出会う人物目線ではなく、刑事目線で推理しながら観てしまった。三人とものことを疑ったのである。

結局、三人のうちの一人(沖縄)が犯人で、二人は違った。違ったけれども、登場人物たちも素性のわからない男をそれぞれ疑った。殺人犯ではない人物の事も疑ってしまった。そのことで、無関係の人物を傷つけた。そして、私も疑ってしまったので同罪である。この話は警察ミステリーなんかじゃない。主題は誰が犯人かということではなかった。
更に、三つの話が進行していくと、それがどこかで関係し合う群像劇でも無かった。一つの同じ殺人事件が出てくるけれども、やりとりなどは無い。

考えてみたら、直人(東京)と田代(千葉)には共通点があった。
人を殺してはいなくても、後ろ暗いのとは違っても、ほっといてくれというオーラが出ていた。彼らは人と関わらず生きていきたいと思っていたのだ。
扉を閉じて閉じこもっていたところ、そこをこじあけるようにして、接触してきた人物がいた。優馬(東京)と愛子(千葉)だ。
直人も田代も様子を見ながら、おそるおそる心を開いていく。直人や田代にしたら、きっと、やっと心を開く事ができる相手に出会えたのだろう。しかし、二人とも、その相手に疑われるのだから、たまらない。こっちは接したくなかったのに、向こうからぐいぐい来たのに、結局こんなことになってしまう。やっぱり心を開くんじゃなかった。そう思ったと思う。

しかし、田中(沖縄)の場合は最初からフレンドリーだった。徐々に打ち解けるという過程がなかった。性格なのかもしれないけれど、何を考えているかわからない怖さがある。直人と田代のような人間味がない。

誤解がとけても、東京パートでは結局取り返しがつかないことになってしまう。謝る事すら許されない。
後から考えると、優馬の病気の母親と接するときに、直人が泣きそうな切ない顔をしていた理由もわかってしまう。
昼間も家にいていいよと言われたとき、母親に会わせてもらったとき、一緒の墓に入るかと言われたとき、本当に嬉しかったと思う。今までに感じた事の無い喜びだったろう。「信じてくれてありがとう」という言葉も、後から思い出すと胸が締め付けられる。

だからせめて、千葉パートの愛子と田代は幸せになってほしい。田代がもう一度電話をかけてきてくれて、本当に良かったと思った。田代は愛子と接するうちに、生きる喜びのようなものを思い出したのだろう。電話をかけるのも勇気がいったと思う。傷つけられるくらいなら、接しないのが一番だし、そうやって生きてきた。それでももう一度と思って電話をしたのだから、愛子が田代を変えたのだろう。
直人も、病気でなかったらもう一度優馬にコンタクトをとったのだろうか。あんな猫のような去り方をしたのも、もしかしたら直人の勇気なのかもしれない。

愛している人のことを信じていたら、こんなことにはならなかっただろう。でも、沖縄パートでは無条件で信じて、結局酷い目に遭う。それに、元々は素性がわからない人物なのだ。愛したからといって、無条件で信じるのは難しいだろう。

それに、愛しているからこそというのもある。愛子の父親は、娘の事を愛しているから、相手の素性を独自に調べた。そして、愛子に助言をした。愛子はその助言で揺れてしまい、田代を疑ったのだ。
ただ、ここも心配をするふりをして、愛子を疑っているから自分で動いたのかもしれない。

愛しているなら、何があっても相手の事を信じるというのは綺麗ごとだろう。そんなに簡単にいくわけはない。そこまで強くない。

それに、優馬も愛子も愛子の父親も、今までの生活を考えると、信じるのみでは生きて来れなかっただろう。

優馬はだいぶ生活が派手なようだったし、彼自身も騙したり騙されたりが日常茶飯事だったようだし、周囲の人間もそのような感じだった。
愛子の父親は、村の人たちの噂話で、愛子への偏見を持ってしまっていたかもしれない。狭い村での噂話は洗脳のようなものだろう。
愛子は客のどんな要望にも応えていたというのはもしかしたら信じていてそうなったのかもしれないけれど、その結果、酷い想いばかりをしたと思う。

優馬も愛子も、直人と田代と出会ってからは幸福で、まるで世界が変わったようだったろう。こんなに世界は輝いているのかと、人生捨てたもんじゃないと思っただろう。

それでも、変わらない過去はついてきて、影を落とす。
またか、と思ったのは、直人と田代だけではなく、優馬と愛子もなのだ。

愛する相手のことを無条件で信じて、なおかつ、幸せでいられたら、それにこしたことはない。
疑った優馬と愛子は、相手の事を傷つけた。傷つけられた側の気持ちを思うと苦しい。けれども、疑った彼らの気持ちもよくわかってしまって、それもまた苦しい。どうすれば良かったかなんてわからない。



0 comments:

Post a Comment