コーエン兄弟監督作『ファーゴ』を観た日本人女性が、劇中でスティーヴ・ブシェミが雪に埋めた大金の入ったブリーフケースを探しに行く、というストーリー。
監督はデヴィッド・ゼルナー、主演は菊地凛子。

アメリカでは2014年に公開されたが、日本では公開されていないどころか、ソフト化もされていない。

以下、ネタバレです。








前述の通りのあらすじを読んでいたので、わくわくする冒険譚を想像していたのだけれど、ちょっと事情が違っていた。

日本で公開しないということは、よっぽど日本に馴染みがない話なのだろうと思っていたけれど、前半45分は舞台が日本である。主人公のクミコは制服を着て働く29歳の OL。上司のお茶出しやクリーニングを代わりに出すのが仕事なようだ。他の子たちは集まってランチを食べていて、まつげパーマのことをきゃいきゃい話して いるが、クミコはそこへは混じらない。年齢的に上司や母親からは結婚をせかされている。

外を歩いていれば、古い知り合いが「ぐうぜー ん!」なんて言いながら近づいてくる。こっちは会いたくないから、お茶の誘いを断ったら、「じゃあ、携帯の番号教えて。今度時間合わせて会おうよ」なんて言われる。気が進まないので黙っていたら、謎の擬音を発しながら、携帯で体をつついてくる。

会社での描写も、この知り合いとの描写も生々しいんですよ。やや過剰とも言えるくらいの生々しい嫌さ。
しかも、すごく日本人的だと思うんですよね。監督や脚本の方(監督の兄弟)は、日本のOLの会話をどこかで見てたのだろうか? 菊地凛子が何かアドバイスをしたのだろうか?

クミコの住む家も散らかり放題で、2001年(たぶん)とはいえ、トイレが和式なので相当築年数が経っているアパートだと思う。
うさぎを飼っていて、夕飯に食べていたカップラーメンを分けたりしてた。
ちょっと虐待っぽい気もするけれど、うさぎとの別れはつらそうだったので、クミコなりの愛情だったらしい。

こんな生活をしていたら、そりゃ宝探しにも出かけたくなる。この作品はアメリカでいくつか賞をとっているみたいだけれど、アメリカ人よりも日本人からのほうが共感されると思う。
なぜ、日本公開しないのだろう。日本人にしかわからない事情みたいなのたくさん出てくる。たぶん、描かれている人間関係のうざったさみたいなものは、日本特有のものだと思う。
また、ファーゴに向かってからも、クミコは英語が得意ではない日本人役だった。もう、むしろ日本向けとも思える。
生々しい嫌さから受けるダメージが大きすぎるからだろうか。たぶん、クミコと同じような気持ちを抱えている人はたくさんいるだろうから、その人たちかこぞってトレジャーハンターになってしまったら困るからだろうか。

ただ、『トレジャーハンタークミコ』というタイトルから受けるわくわく感はなかった。

まず最初に整理すると、コーエン兄弟の『ファーゴ』(1996)ですが、最初に“これは実話です。生き残った人の尊厳を尊重し、名前は変えてあるが、事件についてはなるべく忠実に描いた”という注意書きが出る。描かれる事件は、嘘の誘拐事件がちょっとしたズレによって本当の殺人事件になってしまい…という内容。スティーヴ・ ブシェミ演じるカールが身代金として受け取った金を雪の中へ埋める。
ところが、最初の“実話です”という文言が嘘なのだ。Blu-rayの特典映像で主演のウィリアム・H・メイシーが「それは観客を騙すことになるからだめだってコーエン兄弟に言ったけど、映画というのは作り話なのだと言われ押しきられた。意表をつくのが狙いだろう」と言っていた。
そして、最初の文言を信じた日本人女性が、ブリーフケースを探しに行って死亡したという事故が2001年に起こる。特典映像ではこのことにも触れられており、フランシス・マクドーマンドが「そこまで思い詰めて命を落とした人がいる。あまりに悲しすぎるわ」と言っていた。

『トレジャーハンター・クミコ』は2001年のこの事故をもとにしている。
しかし、『トレジャーハンター・クミコ』が実話なのかと言うとそれも違っていて、2001年の事故“ブリーフケースを探しに行って死亡”というのが真実ではなかったらしい。
この死亡した女性も英語があまり話せなくて、警官との意志疎通がうまくできなかったらしい。それで、警官の勘違いにより、ブリーフケースを探しにきた日本人という話が出来上がった。実際は恋人と別れた末の自殺だったらしい。

警官との意志疎通がうまくできないという描写は映画にも出てくる。しかし、映画は実話の通りではなく、クミコは本当にブリーフケースを探している。お宝の存在を信じている。

創作ならば、クミコがミネソタ州に降り立つところから映画をスタートさせることもできたはずだ。そして、『ファーゴ』のあの場所に埋められたブリーフケースを発見することもできたはずなのだ。

けれど、クミコは会社所有のクレジットカードを使ってミネソタ州に来るし、途中でクレジットカードを止められ、止まることもできずに、ホテルの毛布を盗んで、体に巻き付けて雪の中をひたすら歩く。
そして、もちろんブリーフケースは無いし、会う人会う人に「あれは創作なんだよ、実際には無いんだよ」と諭される。

クミコは日々の生活がつまらなくて、ファーゴのお宝のことを考えている時だけ生きているのを実感していたのだろう。
だから、説得には耳を貸さずに、意固地に探し続ける。結婚や会社よりも、もっと大切なものを見つけたのだ。たぶん、それは夢とか憧れとかいう言葉でしめされ るもの。『ファーゴ』は観すぎてVHSのテープが伸びてしまった。映像から計算し、自分で地図を作った。濡れたり破けたりしないように刺繍だ。それだけ夢中になれることに出会えたのだ。

ただ、警官にダウンコートを買ってもらった毛布をかぶっただけで、極寒の地の夜はこえられない。ちゃんとは映らなかったけれど、川に落ちたのかもしれない。

ラスト、雪の中をぽつんと歩いているクミコはまるで妖精のように見えた。かぶっていた毛布も、いかにも毛布という感じでずるずる引きずっていたけれど、ラストではちゃんと衣類のようになっていた。色とりどりで模様も細かい。真っ白な中で一人だけ色がある。
『ファーゴ』に出てきたフェンスのようなものの下を手で掘り返し、ブリーフケースを見つける。「やっぱり私、間違えてなかった」とつぶやくのが印象的。もちろん日本語です。そして、ミネソタ州に来る前に逃がしたうさぎを抱いて、片手に重そうなブリーフケースを持ってゆっくり歩いていく。

きっと、これはこれでハッピーエンドだと思う。クミコが寿退社するとか、他のOLさんたちと仲良くランチするとか、そんなのは幸せではない。
映画開始45分、クミコがミネソタ州の空港に降り立ったとき、New worldという文字が出た。日本でずっとへの字口だったクミコの顔に表情が浮かんでいた。もうそれでいいと思う。



去年の第69回トニー賞でベストプレイ賞、アレックス・シャープが主演男優賞を受賞した舞台。今回ナショナル・シアター・ライブで上映されたのは、2012年に上演されたイギリス版。こちらも、ローレンス・オリビエ賞のベスト・ニュー・プレイ賞、ベスト・ディレクター賞など7部門を受賞、ルーク・トレッダウェイも主演男優賞を受賞している。
両方でベスト・ライティングデザイン賞を受賞したPaule Constableは『戦火の馬』も手がけている。

以下、ネタバレです。






ルーク・トレッダウェイですが、弟のハリー・トレッダウェイと双子で二人とも俳優なため、個人的なメモとしてどちらが何に出ているか復習しました。
ハリー・トレッダウェイが『コントロール』、『ロンドンゾンビ紀行』、『ローン・レンジャー』『ペニー・ドレッドフル(ナイトメア〜血塗られた秘密〜)』。ルーク・トレッダウェイが『タイタンの戦い』『アタック・ザ・ブロック』『不屈の男 アンブロークン』。
彼らのことは、元々二人が結合性双子役で出ていた『ブラザーズ・オブ・ザ・ヘッド』で最初に観たんですが、双子だから当たり前なんですが顔がそっくりで区別がつかないくらいだった。それ以降も、何かに出ているとなると、トレッダウェイが出るという認識でどちらがどちらという区別は私の中でしていなかったのだけれど、今回、『夜中に犬に起こった奇妙な事件』を観る前に『ペニー・ドレッドフル』を観ていたら、だいぶ顔が違っていた。これからはちゃんとハリーとルークを分けて考えます。

『夜中に犬に起こった奇妙な事件』、舞台が変わっていた。形はコロシアム型というか円形劇場。舞台のセットは何もない。ステージは液晶なのか、数字や映像が映るようになっている。チョークのようなもので、直に書くこともできる。セットがない分、ステージの平面を使った演出が多いので、座席も後ろというか、上のほうがわかりやすいのではないかと思う。

クリストファーがパニックになり、床に寝転んで痙攣を起こすようなしぐさをしながら丸くなった時、数字がクリストファーの周りをぐるぐると包むように動いていた。

列車に乗るシーンでは、最初は普通に椅子を置いて、何人か乗客が座っていて…という風だったけれど、途中から、電車を横から見たように視点が変わる。椅子を倒し、乗客もステージに寝ながら椅子に座っている形になる。ステージの液晶には車窓が映って動いていて、列車が走っているように見えるのだ。

この『夜中に犬に起こった奇妙な事件』、原作は2003年に刊行されたマーク・ハッドン著のベストセラー小説である。
特殊な作りというか、文字だけではなくて、途中で絵や記号などが入っている場面があった。人の感情を表すemoji、スマイルマークや片眉を上げた顔が入る場面も、ちゃんと舞台でも表現されていた。舞台上にクリストファーがチョークのようなもので描くのだ。これも、上から観たほうがわかりやすいと思う。
また、クリストファーが初めてロンドンに着いたときに、到着した駅でたくさんの看板などを見て、アナウンスを聞いて混乱してしまうシーン、小説でもいろんな企業のロゴが出ていたと思うけれど、舞台でもステージ上にロゴが洪水のように溢れ、いろんなアナウンスが一斉に流れ出す。
この前、映画『パディントン』でパディントンが駅に降り立ったときもそうだったけれど、私も初めてロンドンに行ったときに、情報量の多さ(しかも英語)に混乱したので、気持ちがよくわかった。その経験がなくても、クリストファーの気持ちになれるように作ってあると思う。

『夜中に犬に起こった奇妙な事件』、ご近所の飼い犬ウェリントンが何者かに殺され、クリストファーが疑われるところから話が始まる。
もちろん、自分じゃないのはわかっているので、犯人を探そうと、奮闘する。けれど、この話は、犯人探しだと思ったら大間違いなのだ。犯人は中盤であっさり明らかになる。後半は、クリストファーが一人で母親の元を目指そうとする。
前半が探偵パート、後半が冒険パートといった作りである。

最後に「一人でロンドンへも行けたし、何にでもなれる。なれるでしょ?」といったクリストファーからの問いかけで終わる。そこで先生は黙っているのだが、それに対して、大した冒険じゃないからなんとも言えなくて微妙な表情で笑ってるのだという意見を見かけたけれど、そんなに悲しくはないのではないかと思う。

問いかけの答えは先生がもたらすものではなくて、ここまで観て来た観客に委ねられたのだと思う。そして、最初からそこまでみたら、観客はクリストファーからの問いかけにそうだねと思うに違いない。
彼の未来は明るいと思うし、応援したくなる。勇気を貰う。

小説は、それ自体がクリストファーが語ったものを先生が記述し、注釈をつけたものという設定になっている。
舞台は更に、それを演じたものという設定になっていた。それは最後にわかるのだが、終盤、警官に対してクリストファーが「老い過ぎてる」と言ったり、「さっきとは違う警官」とか、俳優さんに直接文句を付けるシーンがあったが、演劇にはよくあるメタ発言なのかと思っていた。先生の「カーテンコールの時にやったら?」というセリフも同じ。
一人何役も演じているのも、そういうことだったらしい。

ちなみに、『SHERLOCK』のハドソン夫人役でおなじみのユーナ・スタッブスも出ていた。とてもキュートなご近所のおばあさん役他。不倫の関係だったというのをクリストファーに暗に説明しようとして、「とても仲が良かったのよ。とても、とっっっても」のVERYの言い方が可愛かった。

カーテンコールの後のシーンも良かった。クリストファーが受けていた数学の試験の解答です。先生が「カーテンコールにしたら?興味ない人は帰るし」と言っていたものだけれど、解答自体は聞いててわからなくても魅了される。
カーテンコールでも、ルーク・トレッダウェイではなく、ちゃんとクリストファーで出てきた。台に上がって、説明しながらステージ上に数字や三角形などの図が出てくる。手を動かすと、ステージ上にぱっと広がる様子が、まるで魔法のようだった。魔法使いクリストファーは、最後には紙吹雪を降らすというサービスまで!
完璧だ。けれど、本当にあの魔法を感じられるのは、現地にいる人だけなのかもしれないとも思った。

元々、主演俳優が好きだから、好きという評価しかできないけれど、クリストファーのことも大好きになってしまった。
クリストファーは宇宙飛行士に憧れていて、銀河を夢見るシーンがあるんですが、そこで、他の俳優さんたちによって持ち上げられる。小柄に見えたけれど、一応175センチとのこと。それほど小柄ではない。

リフトと舞台の効果によって本当に銀河に浮かんでいるように見えたが、電車や混雑する駅、家に入ってくるところなど、パントマイムのような動きをしていた。セットがないけれど見えてくるのがうまい。

あと、本を読んだときにはクリストファーは随分少年のイメージがあったけれど、ルーク・トレッダウェイで大丈夫なの?と思っていたけれど、大丈夫でした。クリストファー15歳、ルークが演じたときは27歳です。
ちなみに、今演じているアレックス・シャープも27歳でした。ステージデザインやライティングデザインは同じ方のようなので、演出面は同じなのだろうか。

アレックス・シャープ版は観てないですが、こちらもトニー賞をとっているということでいいと思うんですが、ジョン・キャメロン・ミッチェルの『How to Talk to Girls at Parties』という映画への出演が決まっているらしい。ニコール・キッドマンやエル・ファニングと共演するとのこと。

ルーク・トレッダウェイは『A Street Cat Named Bob
』という映画で主演らしい。猫を抱えてギターを持っている画像を見たので、『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』みたいな印象だったけれど違うようだ。
ホームレスで麻薬中毒だった男性が、一匹の野良猫と出会ったことから…という話らしい。実話の本の映画化で、“A Street Cat Named Bob”で画像検索をすると可愛いマフラーを巻いた猫がたくさん出てくる。カレンダーなども出てます。



イギリスで去年のクリスマスに放送されたテレビドラマを日本では映画館で上映することになった(日本以外でも、劇場公開されている国もあるみたいです)。『SHERLOCK』はいままでもイギリスで放映されてからとても遅れて日本ではNHKBSで放映されていたが、今回は少し遅れにはなったが映画館である。
一時間半と時間も普通の映画と変わらないサイズだし、本編前には脚本・製作のスティーヴン・モファットによるセットを紹介するスペシャル映像と、本編後に同じく脚本・製作、そしてマイクロフト役のマーク・ゲイティスによる出演者インタビューも流されて、トータルすると二時間弱になっている。上映時間的には普通の映画と遜色ない長さとなっている。

以下、ネタバレです。







『SHERLOCK』の新作がイギリスでクリスマスに放映されるとのニュースを最初に見たのはいつだか忘れてしまったが、その時の写真がいつもの『SHERLOCK』とは雰囲気が違っていた。
そもそも『SHERLOCK』は現代にシャーロック・ホームズがいたら?みたいなコンセプトで始まったものなのだと思うが、その写真では、ワトソンは立派な髭をたくわえ、ホームズは鹿撃ち帽をかぶり…、いわば原典のような恰好をしていた。
コスプレなのか、はたまた劇中劇なのか。ただのイメージ写真でしかないのかもしれない。
何も調べないまま見始めました。

上映前の特別映像『脚本家スティーブン・モファットとめぐるベーカー街221Bの旅』では、モファットが今回のセットの説明をしていた。「今回はヴィクトリア時代が舞台で…」と言っていて、時代自体が違うことを知った。
シャーロックの部屋は現代版を元にしながら、ところどころが昔風になっていて凝っていた。たとえば、鹿の首の剥製は現代版ではヘッドフォンをしているけれど、ヴィクトリア版では補聴器を付けている。入り口のドアのステンドグラスの説明も、内容に関係のあるものだったため、聞いておいて楽しめた。
特別映像ではシャーロックの部屋の説明だけだったけれど、他のシーンの美術も凝っていたし、ごてごてした衣装もきれいだった。どちらも、大きなスクリーンでの上映に耐えうるものであった。

ただ、このドラマって、携帯電話やインターネットなどを使って捜査するシャーロック・ホームズ現代版というのが売りなはずなのに、なんでわざわざ元の設定であるヴィクトリア時代を舞台にするのかなとは思いながら観ていた。

まあ、その逆手に取ったわざわざ感がいいのかなとも。クリスマススペシャルというか、一話で終わる特別篇だし、これなら単独でも観られていいのかな…と思っていた。
途中までは。

マイクロフトに「データの中のウイルス」というセリフがあり、おや?と思う。この時代にパソコンなんてあるはずがないし、データやウイルスという単語がひっかかる。セリフのミス? いや、そんなはずは…。
と思っていたら、シャーロックが飛行機の中で目覚めた! 現代である。現代も何も、『SHERLOCK シーズン3』の最後で乗せられた飛行機の中である。ドラマ版の続きだった!

日本では劇場公開されても、イギリスや他の国ではテレビドラマなのだ。日本でよくあるTHE MOVIE的なものとは違う。あくまでも、ここまでシリーズを追いかけてきたファン向けのドラマだった。ちゃんと繋がっている。

原典でも、シャーロックは事件がなく退屈だとコカインなどを使っていたという描写があるという。今作は薬物中毒のシャーロックがトリップしながら事件を解決するという話だった。
いわば、シャーロックの頭の中でのことである。レストレード警部の扱いは相変わらずだし、マイクロフトは安楽椅子探偵のイメージが強いからか、体重増減ネタか、自分では動けないほどに太っていた。

ヴィクトリア時代だとジムは出てこないのかなと思っていたけれど、滝壺に落ちて死ぬという原典と同じ話が出てきた。
ヴィクトリア時代、死んだはずのジムがシャーロックの前に現れる。現代でも、シリーズ3のラストで死んだはずのジムが放送をジャックした。現代のジムは後頭部を銃で吹っ飛ばしている。ヴィクトリア時代の“忌まわしき花嫁”であるリコレッティ夫人も同じ方法で自殺し、蘇った。
ヴィクトリア時代と現代を行ったり来たりし、「死者が蘇るはずがない」という言葉が両者に対して当てはまってくる。二つの時代が相互に共鳴し合い、次第にねじれていくような構成が見事だった。
そして、現代で、「僕は時代をこえて蘇ったシャーロック・ホームズだ」と言うのも、メタというか、このテレビドラマの根本的なテーマが本人の口から敢えて宣言されて恰好良かった。

滝壺にモリアーティが落ちるシーンですが、シャーロックと殴り合いになるのはガイ・リッチーの映画版だけのものなのかと思っていたけれど、今作でも殴り合っていた。頭脳派であるシャーロックと殴り合いというのはミスマッチな感じもするけれど、原典でも殴り合っているのかもしれない。

今作ではこのシーンで、後ろからお取り込み中すみませんといった感じにジョンが現れる。一人ではピンチになってしまっても、二人なら勝てるのだ。これもシャーロックの頭の中のことなのだろうか。

また、シャーロックが相当気になっていたと思われ、現実にもトリップ中にも出てきたマイクロフトからの「リストを作成しろ」という言葉。ヴィクトリア時代では違う意味だったけれど、本当は摂取したクスリのリストを作成しろという意味。シャーロックは面倒がっていたけれど、兄であるマイクロフトがちゃんと弟のことを心配しているのがわかって良かった。

シャーロックは自分はどう思っているかわからないけれど、周囲から愛されている。ジムも偏執的ではあるけれど愛なのだろう。
アンドリュー・スコットは、出番こそ少ないものの強烈な印象を残した。ほこりのほとんどは人間の皮膚らしいと言いながら、ほこりを指で掬って舐めるようすなどぞくぞくした。吹っ飛ばした後頭部をシャーロックに見せつけたり。
ジョーカーがバットマンに固執するように、たとえ敵であっても、同じレベルで張り合える人間の存在に対する特別な想いがあるのだろう。
お互いに銃を構えて一触即発になるシーンがあるんですが、シャーロックが右利き、ジムが左利きだったため、鏡のようになっていてとても恰好良かった。鏡のようにしたのにも意味があるのかもしれないけれど、アンドリュー・スコットは左利きらしいので、偶然このようになったのかもしれない。

結局、ジムが生きているのか死んでいるのかわからない。でも、最初のほうでも出てきたが、死んだ者が生き返るなんてことはないのだ。何かしらトリックがあるはず。
ただ、今回はそこまでは明らかにならない。次回に続くというわけだ。

続きが作られるというのが明確にわかったのも良かった。クリスマススペシャルと言えども、日本でこれだけが映画館上映という単体でも楽しめるような扱いを受けていようとも、あくまでもシーズン3の続きであり、シーズン4への橋渡しとなる作品なのだ。

それにしても、これが普通にテレビドラマとして見られるイギリスのお茶の間が羨ましい…。



ダニー・ボイル監督、マイケル・ファスベンダー主演。脚本のアーロン・ソーキンや共演のケイト・ウィンスレットなどもアカデミー賞をはじめ、様々な映画賞にノミネートや受賞されている。

以下、ネタバレです。






アシュトン・カッチャー主演の『スティーブ・ジョブズ』が2013年公開と、それほど間があいていない中、同じ人物の映画が作られるのは珍しいと思う。実在の人物の実話なので、多少脚色はあるにしても、起こることは変わらない。

そのためなのか、この映画はジョブズの所謂自伝という形はとっていない。(アシュトン・カッチャー版は未見なので、内容はわかりません)
ジョブズはすでに亡くなっているけれど、そこまではやらないし、始まりもいきなり佳境だった。

一人の人間に対してのスポットの当て方、切り取り方が独特である。

ジョブズといえば基調演説がうまいことで知られているが、最初のMacintosh発表(1984年)、NeXTの発表(1988年)、最初のiMacの発表(1998年)と三つの基調演説の前に何が起こっていたかが描かれている。それだけが描かれていると言ってもいい。基調演説本番のシーンはない。
だから、場面転換がほとんどなく、長回しのようになっているので、舞台を見ているような感覚になる。役者さんたちの演技力の高さも味わえる。

会話劇と言えば会話劇であるが、そのほとんどがジョブズと他者の怒鳴り合いや言い合いである
他者とは、かつての相棒だったり、広報だったり、CEOだったり、娘だったり、娘の母親だったり、とにかく、周りのさまざまな人物だ。毎回毎回、言い合いになる。

しかも、基調演説前なので、終始、時間ないとか客を入れていいか?とか開始10分前とか、言い合いに参加してない周囲もぴりぴりしている。緊迫感が続き、目が離せない。

どうして毎度怒鳴り合いになるのか? 理由は一つ、ジョブズの個性の強さや主張の強さである。絶対に曲げない。でも、それくらいじゃないと、新しいものは作れないのだろう。
そのこだわりがMac製品なのだ。芸術家は小難しいタイプが多い印象だが、まさにそれである。技術屋とは相性が悪いのも頷ける。

ただ、相当嫌われているし、観ていてジョブズ信者の私すら眉をひそめた。
私は何も知らず、基調演説本番を客席(ネット越し)でわくわくして見ているだけだった。その裏側は知らなかった。本当にあんな言い合いがあったのかはわからないけれど。

ただ言い合いをしているだけでは、いくら演技が素晴らしくても映画として退屈してしまう。それを考えてか、見せ方も凝っていた。ダニー・ボイルらしさも感じた。
特に、二番目の基調演説、NeXT発表の時は、AppleCEOのスカリーとの言い合いの合間合間に、ジョブズがAppleを解雇されたときの会議の模様が挿入される。おそらくジョブズの心象風景なのか、会議の殺伐とした雰囲気を表すためか、薄暗い会議室で、窓の外は雨が土砂降りなのだ。それはリアリティのあるシーンではない。ちょっと考えられないくらいの土砂降りだから、演出である。
次のシーンで、ジョブズが広報のジョアンナに話す内容が廊下の白い壁に映る。これももちろん、本当に映っているわけではない。
言い合いのみなので舞台っぽいが、この辺の演出も舞台でありそうだと思った。
また、二人が言い合いをしているときに、天井の電気が揺れて、地震なのかと思ったら、観客が待ちきれずに足を踏み鳴らしているのだった。全員が足を踏み鳴らしていた。他のシーンでは観客がウェーブをしていて、みんながジョブズのことを待っているという描写があったが、ここは本当に焦がれているといってもいい。急かされている。
急かされている中で、うわーっと言い合いをしたあとで、結局、ジョアンナがそこまで考えていたのかと完敗したように黙って、カメラがすうっと引いていき、ジョアンナがジョブズの胸にこつんとおでこをあてるシーンが良かった。許したのがわかる。

それに、ここに向けて言い合いが少しずつでも確実に盛り上がっていき、頂点まで登り詰めて、ふっと静かに終わるというのが良かった。ここまで息を止めてじっと観ていた私も、やっと息をつけた。きっとこのような事態の連続だったのだろう。

ニュートンについて、「ペンを持ってると五本指が使えないだろ」と言っていたのはiPhoneのことだろうし、娘がぶら下げているウォークマンをさして「まるでレンガじゃないか。500曲も1000曲もポケットの中に入れて持ち歩けるようにしてやる」と言っていたのはiPodのことだろう。両方ともこの映画には出てこないし、本当のことなのかはわからないけれど、誕生秘話である。
また、かじられたリンゴのマークについて、「アラン・チューリングは毒リンゴで死んだから?」「そうゆう都市伝説にするか」みたいなやりとりがあったけど、この辺ははっきりしてないのかな。

リハーサルで後ろのスクリーンに“Think different.”と出ていて、それを背負いながらわーわー言い合いしているシーンもあった。確かにThink different.なんだと思う。でも、これだけ色んな人と、ジョブズだけが対立するとなると、それはそうとして別の問題もジョブズにあるのではないかと思ってしまう。

それは圧倒的な人付き合いのわからなさだ。友達とも仕事仲間とも子供とも。別に、誰のことも嫌いなわけじゃないのだと思う。多分、わからないだけなのだ。
ラスト付近、子供のためにiPod(という名前は出てこないけれど)を作るという宣言をしたり、幼い頃に描いたイラストをプリントアウトしたものを持っていたりというエピソードが出てくる。嬉しいからプリントアウトしてとっておいたのだろうし、iPodだけではなくコンピューター本体についても、便利になったらみんなが喜ぶという精神でものづくりをしている。でもそれを、相手に伝えることはうまくないのだと思う。

二番目の基調演説の前にはスカリーとの言い合いの最中には、土砂降りの雨と会社を追放される会議の映像が挿入されていたけれど、三番目の前に二人が話している最中には、若かりし二人がカフェのような場所で話している映像が入っている。わくわくするような、物語の始まり。スカリーがCEOになることを受け入れた時の映像だ。そして、三番目の基調演説の前に、二人は仲直りする。

この映画がすごいのは、基調演説の前のことだけを描いているのに、ジョブズの人となりがわかることだ。脚本がうまく作られているのだと思う。マイケル・ファスベンダーのセリフ量はすごく多かったと思う。

ジョブズが好きだったボブ・ディランがところどころで流れる。エンドロールもボブ・ディランを聴きながら、もうジョブズがこの世にいないことを思い出していた。そして、映画が終わった後でポケットからiPhoneを出して、感慨深く見つめてしまった。





『真夜中のピアニスト』、『君と歩く世界』のジャック・オディアール監督作品。カンヌ国際映画祭パルムドール最高賞を受賞した。

以下、ネタバレです。








スリランカの内戦により、難民となって、パリの郊外へ亡命してきた一家の話。一家とはいっても、難民キャンプでの寄せ集めである。細かい説明はないけれど、家族だと移民として受け入れられやすいのだろうか。それとも、子供がいると、ということなのかもしれない。

パリといえども、こんなに治安の悪い場所があるのかと驚いた。団地だが、一部は麻薬の売人の事務所のようになっている。銃撃戦もときどき起こる。偽とはいえ一家の大黒柱であるディーパンはここで管理人として働くことになる。

治安の悪い場所について、行きたくはないけど、見てみたいという願望はある。だから、その事務所内の映像などもちゃんと映してくれて、見ることができるのは嬉しかった。知らない世界を見るのは少しわくわくしてしまう。

ジャック・オディアールはフランス人の監督だけれど、主演もタミル人、場所もフランスのイメージとはかけ離れた場所である。そんな作品がフランスの映画祭であるカンヌ国際映画祭で賞をとったのはおもしろい。
移民を受け入れるフランスや、それでも貧しい地区にしか住むことができないという問題点など、政治的なメッセージも含まれているからかもしれない。

ディーパンのスリランカでの境遇についてはあまり説明もされないし、スリランカの内戦のことも序盤だけでほとんど描かれない。
ディーパンが所属していた“解放のトラ”という組織も架空の集団なのかと思ったけれど、本当にあった。他民族国家であるスリランカは7割がシンハラ人で、ディーパンたちタミル人は2割弱。国では少数派なようだ。そのため、シンハラ人優遇政策がしかれ、タミル人がそれに反発し、内戦が勃発したとのこと。
ある場所には“解放のトラ”は“テロ組織”という書かれ方をしていたけれど、政府(シンハラ側)に対抗していたから“テロ組織”扱いをされてしまうだけなのではないかとも思う。映画で、ディーパン(タミル)側から見てしまったからそう思うのかもしれない。

どちらにしても、ディーパンはもう、戦わずに他国で真っ当に生きることに決めたのだ。
解放のトラ時代の上官のような人物とフランスで再会し、「武器を調達しろ」との命令を受けたがディーパンは断った。強く何度も蹴られても、応じなかったようだ。
家に帰ってきて、あれは軍歌のような感じに解放のトラの同志を鼓舞するような歌を威勢良く歌ったあとで泣き崩れるシーンが良かった。
もう戻りたくは無いんだという想いがちゃんと伝わってきた。

ディーパン役のアントニーターサン・ジェスターサンは今回が俳優としては初めての映画出演らしい。実際に解放のトラで戦っていて、タイ経由でフランスに亡命したとのこと。境遇が同じなので、よりリアリティがあったのかもしれない。

ディーパンの偽の妻ヤリニ役のカレアスワリ・スリニバサンは、舞台には何度か出ていたとのことで、演技自体は経験があったらしい。
妻の気持ちの移り変わりも特にセリフでの説明がなくてもよくわかった。
団地内の高齢者の介護の仕事をするのだが、ある日、その高齢者の息子ブラヒムが帰ってくる。ヤリニと同い年くらいで、「料理がおいしい」と褒めてくれる。
多分、ヤリニは誰かに優しい言葉をかけてもらいたかったのだと思う。そこまでいかなくとも、ただの雑談でもいい、誰かと話したかったのだと思う。ブラヒムはヤリニに気さくに話しかけていた。

ヤリニはそこまで仕事が億劫そうだったけれど、目に見えて、表情が輝き始めていた。恋をしている表情である。笑顔も見えた。
強烈な赤の服をミシンで縫っていて、子供の何かを作っているのかなと思ったら自分の服だった。次の日に着ていっていた。

ただ、ブラヒムは堅気じゃないんですよね。足にGPSを付けているのは、性犯罪者の監視とか仮釈放者の証であることは知っていたけれど、ヤリニはそれを知らないで、「ジョギング?」などと無邪気に聞いてしまう。
たぶん、気さくな態度から、もしかしたらこの人ともっと親しくなれるのではないかなんてことを考えていたのではないかと思う。隣りの締め切った部屋で麻薬を売っていることはなんとなくは知っていても、こわい人という認識は徐々に消えていったのではないか。そして、おそらく、ここで再確認したのだろう。
だから、その日、ディーパンとおそらく初めて一夜を共にするが、それはこの人といるしかないのだなと改めて覚悟を決めたのと、ブラヒムに対する想いへの訣別と、いろんな想いが混じってのことだったのではないかと思う。

偽物の家族だけれど、異国の地で慎ましやかに身を寄せ合って生きていこう。その夜以降、そんな風な“家族”の結束がわずかに芽生えたようだった。
ここで映画を終わらせてもいいと思う。
けれど、団地で銃撃戦が起こり、母娘に当たりはしなかったもののすぐ近くを弾がかすめ…という事態になり、話が急展開する。

少し前までだったら違ったかもしれないが、ディーパンは二人をまもろうと決めたのだ。そのため、邦題通りの“闘い”になっていく。
蹴っ飛ばされても耐えていたので、もう何が起きても、昔のことは封印していくのかと思ったけれど、ディーパンはアジトである団地に乗り込み、銃撃戦をしている若者たちを次々に殺していく。少し前までの真面目に働く管理人姿とは大違いである。

以前の上の人に「もう足を洗ったんで勘弁してください」みたいなこと言っているときには、なんとなく任侠映画を連想してしまったけれど、最後で本当の任侠映画のようになってしまった。

途中まで、難民問題も扱っているし…と思いながら、神妙な顔で映画を観ていた。この乗り込んでいって血塗れになっているディーパンのことも、虐げられてこんな治安の悪い地区に追いやられたせいで…と重く受け止めたほうがいいのかなと思った。
次第にディーパンのことが、悪者をばったばったとやっつける正義のヒーローに見えてきたのだ。けれど、ここで盛り上がってしまうのは不謹慎なのではないか…とも思い、むずむずしながら観ていた。

この映画は試写会で観たのですが、上映後に、松江哲明監督と山下敦弘監督のトークショーがついていた。ここで、松江監督が「高倉健さんみたいだった。普段は能力を隠してるこわい人が最後に本領発揮するっていう」と言っていて、山下監督が「『タクシードライバー』を思い出した。入り口と出口がこんなに違う映画だと思わなかった。最後、ジャンル映画のようになるとは思わなかった」と言っていた。お二人の話を聞いて、ああ、盛り上がっていいんだと安心した。

また、松江監督は、乗り込んでいくときにディーパンにカメラが密着するのが今風のカメラワークだと言っていた。今公開されている『サウルの息子』でも同じようなカメラワークが観られるらしい。団地に乗り込むディーパンの車の中の映像とか、団地の中に入っていくときも、ディーパンのすぐ後ろから撮っていたりとか。「普通、もっと引きで撮りたくなるよね」と言っていた。

ヤリニが初めて介護の仕事をする部屋に連れて行かれる時も、ヤリニ目線だったのが気になった。ガラの悪そうな若者が階段に座り込んで威嚇するようにこちら(ヤリニ)を見ていたり、鎖に繋がれていても飼い犬が歯をむいてきたり。いかにも、治安の悪そうな場所で、ヤリニの不安感が充分に伝わってきた。いくらお給料がたくさん貰えても、こんな場所に毎日通うのは私は嫌だな…と思った。これもカメラワークのうまさなのだろう。

あと、お二人の話で、確かに娘さんの出番少ないのは謎だった。フランスに来て学校に行き、他人と触れる機会も多い娘を主役にするという方法をとることが多い気もする。なぜ、ディーパンを主役にしたのだろう。

ラスト、急に場所がかわる。ディーパンがロンドンタクシーを運転していることで、場所がイギリスへ移ったのだとわかる。
ヤリニの従姉妹と思われる家族も居て、ヤリニがディーパンとの間に出来たと思われる赤ちゃんを抱いている。陽光が当たっていて、あたたかそうで、これ以上ないくらい、夢なようなハッピーエンドだ。

夢のような? というか、夢なのではないかと思った。
だって、あそこまで何人も殺して、いくらギャング相手とはいえ、おとがめなしというわけにはいかないと思う。序盤で、逮捕されたら国外退去という話も出ていた。イギリスへ行くことなどできるのだろうか。
それか、そもそもが偽の家族という違法な手段で移民になったようだし、ここも違法な手段で切り抜けたのだろうか? でも、人殺しはまずいだろう。

団地に乗り込む少し前、車の中にいるディーパンに弾が当たったようで、カメラにも少し変わった効果が加えられていた。その傷はどうなった? あそこで、撃たれて死んでしまったのではないかとも思える。
最後にヤリニがディーパンの頭を優しく撫でていたけれど、あれが撃たれた場所なのではないか。

どちらにしても、現実とは思えない。

ラストに関して、松江監督は現実だと思うと言っていて、山下監督は納得できないと言っていた。観る人による…という感じだった。松江監督は最近お子さんが生まれたそうで、それで見方が変わったのかもとも言っていた。山下監督は、「俺はひねくれ者だから…」とのこと。でも、答えは一つではなく、どうとらえてもいいということがわかって良かった。

そういえば、『君と歩く世界』のラストもうまくいきすぎというか、わりと唐突なハッピーエンドで、同じような印象を受けた。その時にも、私は“実は死んでいるのでは、”みたいなことを書いてる…。監督の好みの終わり方とかクセなのかもしれない。


『キャロル』



『ベルベット・ゴールドマイン』のトッド・ヘインズ監督。主演のケイト・ブランシェットとルーニー・マーラはアカデミー主演、助演女優賞他、様々な賞にノミネートされ、カンヌ国際映画祭では、ルーニー・マーラが女優賞を受賞している。

原作は『太陽がいっぱい』のパトリシア・ハイスミスの『The Price of Salt』。1952年にクレア・モーガン名義で出版され、1990年になってようやくパトリシア・ハイスミスだと明かされたという。
理由については、当時は同性愛小説は出しづらかったというものと、彼女自身も同性愛者でこれが自伝的小説であるというものがある。

以下、ネタバレです。









少し前に『クリムゾン・ピーク』の感想で“あの人があの子のことを好きになった理由がわからない”みたいなことを書いたんですが、この作品の場合は好きになる理由がわからなくても納得してしまった。一目惚れである。
出会いからして衝撃的だった。テレーズはデパートのおもちゃ売り場で販売員をしていて、そこにキャロルが来る。もう来た瞬間から目を奪われていた。
クリスマス時期だからテレーズはサンタ帽をかぶっているんですが、それが少しミスマッチというか、間抜けに見えてしまう。サンタ帽をかぶっていることを忘れて、ぽけっと見とれてしまう。
極めつけに、キャロルが去り際に、「それ、可愛いわよ」とサンタ帽を褒めるんですよね。もう、ここで完全に恋に落ちたと思う。出会いの瞬間から心を奪われ、恋に落ちる。この流れがとても美しい。

また、1950年代が舞台ということで、その時代風のお洋服、メイク、ヘアスタイルなども美しい。
テレーズはお洒落で可愛らしく、キャロルはエレガントで上品に。主演の二人が本当に美しく、うっとりしてしまう。まるで美術品を眺めるかのような映画鑑賞だった。

二人が逃避行に出かけてからは、ほぼ二人芝居のようになる。特にケイト・ブランシェットは目の伏せ方、タバコの吸い方、指先にまで気を遣ったような演技だった。
車で走り出してすぐあたり、寝てしまったテレーズをキャロルが見つめるシーンがある。悲しそうな、少し怖いような表情にも見えたので、もしかして、殺すのかなとも思った。それか、どこか遠くへ逃げて心中でもするのかと思った。
けれど、あれはテレーズへの申し訳なさだったのかもしれない。

二人の関係が公のものとなり、別れなくてはならなくなったとき、テレーズがタバコを吸うシーンがある。気を静めるために吸っているのだろうが、泣きながら吸っているためにむせてしまうなど、まったくタバコが機能していない様子がリアルだった。

別れたキャロルはどんどんやつれていく。輝きやエレガントさが失われていく。
テレーズはキャロルに電話をするが切られてしまう。ここの二人の悩んだ末に震える指で電話をかけ、震える指で電話を切り、という逡巡具合も本当に素晴らしい。気持ちが痛いほど伝わってくる。
キャロルがやつれていく一方で、テレーズは電話を切られたことで忘れる決心をする。仕事も順調で、逆にいきいきとしていく。

そんな中で、すべてを捨てたキャロルがテレーズを呼び出す。笑顔を取り繕いながら必死にお喋りをするキャロルを、テレーズが無表情で見ている。キャロルが「綺麗になったわね」というけれど、この時のテレーズが本当に綺麗になっている。あか抜けたような印象を受けた。

けれど、この無表情は、今更…という顔なのだろうなと思った。こうゆうパターンをいくつも見て来た。気持ちのすれ違い。一人が求めたときにもう一人が無視をし、もう一人が求めるとすでに手遅れ。どうしてうまくいかないのだろう。

そこで二人は別れ、テレーズは友人のパーティーへ向かう。ところがテレーズは浮かない顔で、パーティーを途中退席しタクシーを走らせる。
あれ?待って、もしかして…と思っていたら、テレーズがキャロルの姿を見つける。
そこで、カメラはテレーズの目線になる。気付いて…!と思っていたら、キャロルはこちらに目を止めて、ゆっくりと、それはそれは綺麗に微笑んだ。

キャロルがテレーズの姿を見つけ、微笑むまでの数秒、息が止まってしまった。カメラがテレーズ目線だったこともあり、私もテレーズの気持ちになってしまい、ああ、私この人のこと好きだと思った。
びっくりした。大ハッピーエンドだった。

同性愛を描いた映画で、ここまでのハッピーエンドはなかなか見ないと思った。
“時代のせいで偽名を使って本を出版し…”などという背景を聞いていたら、もっと社会情勢などを交えながら、同性愛者が迫害されてしまうのかと思っていた。周囲のせいで、彼女たちは離ればなれになってしまうのだろうと思っていた。
病院で治療などというエピソードもちらっと出てくるが、あくまでもにおわせるだけで、そちら方面のことはほとんど描かれない。ロマンティックな方面に徹底されている。少女漫画的といってもいい。

もちろん、『チョコレートドーナツ』や『パレードへようこそ』などの問題提起も大切だと思う。それを観て、許せないと怒りをおぼえたし、考えさせられることもいろいろとあった。
けれど、同性愛を扱っているから必ずしも問題提起をしなければいけないというのは逆に差別だと思う。ナンセンスでもある。

特に本作は、実際にあったことに着想は得ていても、フィクションである。そろそろ、異性愛と同じ形で同性愛が描かれてもいいと思う。

最後のケイト・ブランシェットの余裕すら感じられるゆったりした優雅な微笑みは、もちろん美しいし、愛おしいものを見る愛に溢れたまなざしであるとともに、ハッピーエンドで何が悪いの?とでも言っているような強さまでもを感じた。


『オデッセイ』



リドリー・スコット監督。マット・デイモン主演。ベストセラー小説の映画化。
原作『火星の人』を先に読んだ上での感想なので、小説のネタバレも含みます。











映画では、序盤に主人公のマーク・ワトニーが自分で自分の手術をするシーンがある。自分で患部を鏡に映しながら体に刺さった破片を取り除き、スキンステープラーでとじる様子がかなり生々しく、痛々しく流される。もちろん、死んだと思った彼がどうやって生きていたか?というのを示すためだとも思うが、こんないろんなことを一人でやってしまうような精神力の高さもここで表したのかもしれない。
けれど、こんなシーン、小説にあったっけ?と思ったら、マーク・ワトニーによってさらっと簡素な口調でほんの5行で書かれていた。9針縫ったと書いてある。なんにしても、この大けがを映像で表すとこうなる。

火星に一人残されたマーク・ワトニーが乗り越える大きな試練が二つあるんですが、その両方とも、映画だと意外にあっさりと解決したように見えてしまった。
じゃがに芽が出た時、地球と交信ができた時、両方ともやっと!と思った。当面の食料はこれで大丈夫だ!とか、これでひとりぼっちじゃない!とか、本を読んでいても思わずガッツポーズが出そうになった。

ただ、あっさり感じてしまったのは、最初に原作を読んだせいなのかもしれない。最初に映画を観ていたら、じゃがの芽を見て、やっと!と思ったかもしれない。
私は芽が出ることを知っていた。交信ができるようになることも知っていた。
途中で出てくる中国だって、小説だと、もっと得体が知れなかった。敵なのか味方なのかもわからない。協力してくれるの?してくれないの?とひやひやした。
けれど、これも、映画だとあっさり思えたのは、すでに協力することも知っていたからかもしれない。

何も知らない、まっさらな状態で映画を観たら、受ける印象が違ったかもしれない。
どうしたって、感動は、最初の一回が一番大きい。だから私は、なるべくネタバレを避けたいのだ。本作に関しては原作を先に読んでしまったけれど。

本作の予告編で、「帰れなかったら家族に伝えてくれ」というようなセリフがあり、その後に、女性と子供の映像が出る。原作のマーク・ワトニーは独身のはずだったのに、どう見ても妻と子供である。変に感動的な話にするために改変されているのかと思った。
けれど、本編を見れば、女性と子供はマルチネスの家族で、予告の時点で「家族に伝えてくれ」となっていたのは本編では「母親に伝えてくれ」となっていた。familyなのでどちらでも間違えではないが、何か、意図的なのかなとも思った。
ちなみに、海外版の予告でも、同じ映像の作りになっていたけれど、日本のように感動的に盛り上げるような音楽ではなく、ジミ・ヘンドリックスである(『All Alone』という曲?)。

ともあれ、変な改変がなかったのは喜ばしいことである。ほぼ原作通りだった。登場人物の多い作品だけれど、それも、全員について納得のキャスティングだった。マーク・ワトニー役のマット・デイモンはもちろん、ヘルメスクルーも最高。ルイス船長役のジェシカ・チャステインも合っていたし、マルティネス役はみんな大好きマイケル・ペーニャです。クルーにセバスチャン・スタンがいるのもいいですね。
NASAの職員など地上でマーク・ワトニーを援護する人たちも、キウェテル・イジョフォーやクリステン・ウィグなど豪華。個人的には、JPLの所長役に、ジョン・シムとの共演も多いベネディクト・ウォンが起用されていたのも嬉しい(観ている最中は太ってしまっていて誰かわからなかったけど)。

本を読んでいて私の頭の中で見えていた映像をそのまま映画にしてくれたように思える。ただ、やはり原作にあって、映画ではとばされている部分があることなどを考えると、原作のダイジェスト版のようにも感じてしまうのだ。

原作だと後半もMAVまでの一人旅が長く、きちんと距離が感じられるものとなっていた。嵐が来ていることを地上ではわかっているのに火星のマークだけが知らないという緊迫するシーンも。本の冒頭に火星の地図があり、今、マーク・ワトニーはこの辺で…などと辿りながらどきどきしたものだ。
映画ではそのような要素がなく、あっさりとたどり着いていたので、意外と近く思えてしまった。再び地球と切り離されてひとりぼっちになる不安感もない。

ただ、その代わりといってはなんですが、MAVで打ち上がったあとの、宇宙のシーンが長かった。
もちろん映画だから時間の制約があって、原作のエピソードの取捨選択をしたのだろう。そして、映像的に派手な部分を残し、強調したのだと思う。そりゃそうだ。本ではなく映画なんだもの。
だから、ジャガのエピソードについても、原作では土作りや水作りの途方もなさについて書かれているが、映像にすると、マーク・ワトニーが計算や考察をしているシーンが長くなってしまったりととても地味になってしまう。

それよりは、宇宙のシーンを長くしたほうがいい。『ゼロ・グラビティ』くらいは観たでしょとでも言いたいような感じだった。あの映画を観た人なら、宇宙で独りきりになる怖さを知っている。ふよふよと漂う頼りなさ。足りなくなる酸素。どうしてもあれを想像してしまう。火星でひとりぼっちだった男が宇宙でひとりぼっちに?なんてことも想像してしまい、ひやひやした。

あと、地球での話も多く残されている。ただこれは、原作に余分なエピソードが追加されているというわけではなくて、マーク・ワトニーのシーンが削られているというだけの話である。比率として多くなっているというだけだ。原作通りにやったら、ほぼマーク・ワトニーの一人芝居になってしまう。出演者も揃っているし、映画としての見栄えも良くなる。
(中国が出てくることについて、ハリウッドが中国市場に媚びている!という怒りの声もあるようですが、原作通りです)

船長が残していったディスコソングが映画を彩るのもおもしろい。けれど、おそらく、船長コレクションではないと思うけれど、デヴィッド・ボウイの『STARMAN』が流れるシーンが感動的だった。
スターマンとはマーク・ワトニーのことかもなのかもしれない。火星で一人、うごうごしている彼については、畏怖とか尊敬とか、得体の知れなさとかいろんな感情がうずまいていたと思う。それでも、無事に帰ってきて欲しいという気持ちはみな同じ。彼の帰還にむけて、地球のみんなが力を合わせて作業している風景のバックに流れるのだ。
一つの目的に向かって、進んでいく。妨害する人もいないし、みんなが帰還を信じているのがいい。アメリカと中国も手を取っていて、小さいけれどここに世界平和を見た。宇宙から見たら、地球なんてちっぽけなものなのだ。

この感動的なシーンはラストに向かっていってるところなので、このあとで、マーク・ワトニーに火星での嵐と宇宙に放り出されるかも?みたいなのと二つも障害があったら、映画としてはくどいのかもしれない。あのいいシーンのあとでは一つの困難を乗り越えるくらいでいいだろう。ヘルメスクルーも活躍するし。

地球に届けられる写真で、マーク・ワトニーが変なポーズをして、NASA広報の女性が「『ハッピーデイズ』じゃない!」と言って呆れるシーンがある。『ハッピーデイズ』とは1974年から1984年に放送されたアメリカのドラマ(主演はロン・ハワード!)ですが、この辺の説明も省かれていた。
これはマーク・ワトニーが火星で暇で暇で仕方なくて、クルーの残していった昔のテレビドラマを見ていてつい出ちゃったポーズなのだ。昔のドラマを見ているシーンが一瞬映るけれど、あれが『ハッピーデイズ』なのだろうか。
それでも、マーク・ワトニーの飄々とした性格はよく伝わってきた。

これは原作でも映画でも同じなんですが、地球の側の人らの方が真剣だし、悲壮感にくれている。もちろんそう見えるだけかもしれない。小説はマーク・ワトニーのパートは一人称なので、彼の心の奥底までは見えない。けれど、とても軽いタッチで書かれているので読みやすい。

原作を読んでいてい一番笑ったのは、真剣な話をしているところでの、卑猥な言葉である。火星に一人残されていることで全世界の注目を集めているのを知っていて、ヘルメスのクルーには知らせないということへの反対をこめた嫌がらせでもあるのだろうけれど、ある言葉を記す。
映画だとこれは地球側で、マーク・ワトニーの発信を見た人たちが心底呆れた顔をしてため息をついているだけなんですが、原作だとばっちり書いてある。
もしかしたら、映画は年齢制限のせいで削ったのかもしれない。
火星に一人なのにこんなことができるなんて、余裕すら感じる。並大抵の神経ではない。

もちろん、死にたくないという思いがあってこそのことだとは思うけれど、飄々としていても、やるときゃやるし、意志も強いし、頭がいい。最初の段階から、諦めずに自分で考えていた。自分でというか、自分しかいないんですけどね。一人でも落ち着いて考えていた。

普通だったら、パニックに陥ったり、精神が病んでそのままひからびて死んでしまうのではないだろうか。
そして、置いていったクルーたちを逆恨みして、復讐に燃えて、迎えにきた宇宙船を奪って自分だけ逃げることも考えるだろう。
実際、どこかのマン博士がそのような状態に陥っていた。

けれど、マーク・ワトニーはそうはならないし、置いていかれたからそんな性格になったわけではない。元々の性格である。ヘルメスのクルーたちも、マーク・ワトニーの性格を知っているからこそ、通信で軽口をたたいたのだろう。

普通の話ならここで、クルーたちは罪悪感に苛まれ、ひたすら謝り…とじめじめした雰囲気になるだろう。ところが、マルティネスは「ヘルメスが一席空いてるから広々使える」などと冗談を言っていた。お互いの表情は見えない。けれど、お互いの表情はたぶんわかったのだろう。信頼関係のなせるわざである。冗談を言いあえるのも生きているからこそ。冗談をかますマルティネスの横で、ルイス船長がその辺にしときなさいよみたいな母親のような顔をしていて、その関係も素晴らしかった。

原作を読み終わったときにはマーク・ワトニーのことが大好きになってしまったんだけれど、映画だと、他の人たちについてもちゃんと描かれているので、もう登場人物全員が大好きになってしまった。からっとした雰囲気も含めて最高です。






ジョエル・エガートン、ジョニー・デップ、ベネディクト・カンバーバッチと豪華出演者が揃っている実話を元にした作品。
FBIとギャングと政治家とが組んで悪巧みをする作品かと思ったけれど、政治家(ベネディクト・カンバーバッチ)が荷担していたのかというのは描かれていない。よって、出番も少ないです。

以下、ネタバレです。







FBI捜査官のコノリーはギャングのバルジャーと同郷の幼馴染みなため、情報屋として雇う。バルジャーはその立場を利用して、野放しのまま犯罪を犯し続けるという話。

なんというか、観ていてもまったくおもしろくならなくて、バルジャーが悪行を重ねれば重ねるほど、それをコノリーが庇えば庇うほど、イライラしてしまった。

FBIの上司や妻は、最初からバルジャーをとりこむことを反対していたけれど、私も反対だったし、最後までその気持ちは変わらなかった。

コノリーは、ことあるごとに「地元の絆」とか、「忠誠心」という言葉を口にしていた。しかし、実際に映像では出てこず、話だけだ。若い頃、一緒につるんでいた頃に何があったのか。それをちゃんと描いてくれないと説得力がない。だから、なんでそこまでしてコノリーがバルジャーに肩入れするのか、コノリーの気持ちがまったくわからずに、彼が独りよがりなだけに感じてしまった。

妻に、何故あの人(バルジャー)と付き合うのかと聞かれた時、「昔からの忠誠心なんだよ! わからないだろうけど」などと逆ギレをしていて、こっちもわからないわと思った。
けれど、もしかしたら、ここで逆ギレしたことに意味があるというか、不当な怒りをぶつける登場人物をそのままにはしないだろうと思って、ここで言い訳や種明かし的に、昔のエピソードを挟んで来るのかと思った。ああ、そんなことがあったなら仕方ないねと思える。序盤に過去エピソードを持ってこないで、あえて終盤で持ってきたんだ…とも思える。このシーンの逆ギレだけでなく、証拠を隠すなどしてバルジャーを庇ってきたことにも納得できる。同情すら抱いてしまうかもしれない。

しかし、別に過去のエピソードなど流れない。もしかして、最後の最後に贖罪のようにして流すのかなとも思ったけれど流れない。
妻には話せないこともあるかもしれない。それは仕方がない。けれど、観客には教えて欲しかった。うちに秘めた想いをこっそり知ることで、共犯者になれる。そうすれば、理解者になれる。
理解者になれればキャラクターを愛せるけれど、考えていることがわからないキャラクターは愛せない。そりゃあ、妻にも愛想をつかされる。

バルジャーもバルジャーで、「町の人気者」とか「根は善人」などと言われていたけれど、そんな様子は少しも見えなかった。「息子と母を亡くしてから人が変わった」と言われていたけれど、亡くなる前からそれほど印象は変わらなかった。亡くしてから凶悪になるならば、弁解の余地もあるし、可哀想とも思う。
悪人でも愛嬌のある悪人ならいいけれど、低い声でぼそぼそと話すバルジャーはこわいだけだった。笑顔もない。手下の恋人を殺し、その手下に死体の処理を任せるというのも血の涙もない。
残忍なギャングとして描きたかったのだろうけれど、だとしたら、尚更、過去の、残忍でなかったころのエピソードが観たい。それがないと、同郷だとはいえ、FBIという役職についた男が慕う理由が見つからない。

ラスト、逮捕される時に悲しげな音楽が流れていたけれど、やっと逮捕されたか!とかスカッとした気持ちにしかなれなかった。バルジャーだけでなく、コノリーに対しても同じ気持ちです。

もしかしたら、三人(かコノリーとバルジャー兄二人だけでも)の若い頃のエピソードを話せる人がいないのかもしれない。実話だから、話せる人がいなければ、映像として作ることもできない。
けれど、公式サイトのプロダクションノートを見ると、“貧しい生まれ”とか“公営住宅に住み、”とか“いじめられていたところを助けてもらった”とか、ヒントとなるようなことはちょこちょこと書いてあった。
それを映像で観たかった。監督の頭の中には過去も映像として出来上がっていて、それを踏まえた上での映画だったのかもしれないけれど、見せてくれないとわからない。三人を使わなくてはいけないのなら、若いメイクをさせたらいい。

過去に地元で何があったのかを描かずに、現在だけで撮るならば、FBIの上司(ケヴィン・ベーコンです)とか、新任捜査官とか、新聞記者の二人(この映画の原作者でもある)とか、正義の人を主人公にして、バルジャーとコノリーは完全に悪役にしてしまえば良かったと思う。共感したいのだ。

それか、兄がギャングであるにも関わらず、なぜか昇進している政治家のバルジャー弟。兄弟の間で、何か施しがあったのかどうかは描かれないのでわからない。
けれど、何かあったとしても、過去が特に描かれなくても“弟だから”という理由ですべて納得できる。コノリーがバルジャーを慕うような意味のわからなさはない。

元々、新聞記者の二人は、ギャングと政治家という、まったく違った道にすすんだ兄弟にスポットを当てて何かを書く予定だったらしい。けれど、兄について調べるうちに、不自然な点が多々見つかり、調査したところ、今回映画で描かれたFBIとギャングの癒着が発覚したのだそうだ。

あと、プロダクションノートで、「二人の人間味を出すために妻を出した」と言っていたけれど、 どうせ妻にも何も話さないなら、妻エピソードをまるまる削って、過去エピソードをやったほうが人間味が出たと思います。

『ザ・ウォーク』



ロバート・ゼメキス監督、ジョセフ・ゴードン・レヴィット主演。綱渡りで有名な大道芸人、フィリップ・プティの実話。
フィリップ・プティと言えば、『マン・オン・ワイヤー』が2008年に公開されてますが(未見)、あれはご本人出演のドキュメンタリーらしい。それに、今回の映画の中心である、1974年のワールド・トレード・センターのツインタワー間での綱渡りは映像にはおさめられていないらしい。

以下、ネタバレです。











途中までは、ストーリーの進み方が予告で見たままをなぞっているだけに思えた。それでも、映像が凝っていて楽しませてもらった。景色を見て、手に持った細いロープを重ね、綱渡りが出来るのではないかと連想するフィリップの様子や、ワールド・トレード・センターの写真にペンで一本線を引く様子を紙の裏から撮るとか(そうすると線を引いている表情も見える)。

また、特に3Dの使い方が効果的でした。個人的には、3Dが生きるシーンというのは、飛行シーンか上からぱらぱらと細かいものが落ちてくるシーンだと思っている。今回は、ぱらぱらはしていなかったけれど、綱渡りのバランスを取るために持っている棒が上から落ちてくるシーンで、思わずビクッとして目をつぶってしまった。3Dでこんな感じになったのは久しぶりである。
テストで飛ばした槍もこちらに飛んできたし、ジャグリングをしているのを上から撮影しているシーンではピンがちゃんと浮き上がって見えた。
最近の3Dは飛び出すというより奥行きを出すのが主流になっているけれど、高いところにかけたワイヤーの上を歩くという行為に距離感の臨場感が生まれ、奥行きであってもリアルだった。

フィリップ・プティはフランス人なんですが、JGLが最初に出てきたときに「この訛り、わかるでしょ?」と言っていて、確かに少し変わった発音で英語を喋っているのがわかった。ただ、他のフランス人キャストの中に混じってしまうと、アメリカ人であるJGLの発音は少し浮いてしまうように感じた。それに、私は彼がフランス人ではないことを知っている。目が青いのも不自然に見えてしまった。それならばJGLでなくても、別のフランス人俳優を使った方が良かったんでは、と思ってしまった。

事前に許可などおりるはずはないからなのか、ツインタワー間の綱渡りはこっそり建設中のビルに忍び込んで、警備員の目をかいくぐり、設営なども密かに行われた。もちろん違法である。
そのため、反対のビルにも人を配置するなど様々な根回しが必要で、フィリップ一人で行うことができる所業ではない。映画内でも“共犯者”という言葉が使われるが、元々の友達や、様々な特技を持った人物が協力者として現れ、まるで銀行強盗でも企むかのようだった。まるでケイパーものである。特に、高所恐怖症のジェフはよくがんばっていた。うまくいったときの喜び方もかわいかった。また、フィリップと同年代の仲間が多かったために、みんなで力を合わせて一つのことを成し遂げる青春ものにも見えた。

クライマックスの綱渡りのシーン、予告の感じだと、釘を踏んだ足の怪我が致命傷になって落ちそうになるのかと思った。けれども、落ちそうになるシーンは見受けられなかった。あったのだろうけれど、記憶にない。
一回目の綱渡りがあっさり終了し、フィリップはなんと反対側へ戻り始める。そして、反対側で警察が待ち受けているのが見えると、綱の上でUターンをしてしまう。
何往復もするし、綱の上で膝をついてお辞儀をしたり、上で寝転んだりして、観ているこちらが、やめてよーもういいよーとひやひやしてしまった。隣りの席の人も、綱渡りのシーンではお祈りポーズみたいになっていた。
カメラも綱を渡っている上から撮ったりするんですよね。上から撮っていて、ぐーっと下に寄っていって上を見上げている人々を撮ったりする。110階のビルの上から下を眺めるのは怖い、けれど、見てみたい…。そんな欲望を叶えてくれる。

フィリップが綱渡りをするのを見て、危ない!と思ったり、足の裏から出血しているのを見て気をつけて…と思ったりするのは、JGLの演技に説得力があるからなんですよね。だって、ワールド・トレード・センター自体がないのだ。だからもちろん、綱もかけられない。それでもちゃんと、見ている側がひやひやする。
また、JGLが実際にフィリップさんご本人に綱渡りの指導を受けたという話も、あのシーンにリアリティを持たせたと思う。もちろん110階ではないけれど、12フィート(約3.6メートル)くらいの高さの綱渡りは実際にやったらしい。3.6メートルでも充分に高い。
彼の身体能力の高さがうかがえる姿勢の良さも、バランスを保つためには重要なのだろう。なので、途中まではJGLでなくても…などと思っていたけれど、やはり彼でなくてはならなかったのだ。

フィリップ役のJGLは、自由の女神の上から、ツインタワーを眺めつつ、全編にわたってナレーションをしている。ワイヤーは渡り終わっていて、けれど、まだツインタワーはある状態。渡ったのが1974年なので、たぶんフィリップさんが24歳の時の話。現在のJGLが34歳なので、その10年後と考えて、1984年とか、それくらいの状態から過去を振り返っていたと考えられる。

彼は渡った時のことを「素晴らしい日々だった」と振り返る。そして、ツインタワーの展望台へのパスを持っていて、普通は期日があるけれど、「“永遠”と書いてある特別パスを貰った」と話す。
そこで、ほのかに寂しそうな顔でツインタワーを見るのが切ない。現在は無くなったツインタワーを。
1974年の綱渡り時にはツインタワーはまだ上のほうは建設中だった。けれど、綱渡りによって、ビルも有名になり、市民にも愛されるようになったと言っていた。それが、あんな形でなくなってしまうとは、もちろん、フィリップさんも知らなかったろう。
最初は無茶な挑戦だっただろう。けれど、もしも、フィリップさんが気持ちを貫かずに諦めてしまったら。ツインタワーはなくなってしまうのだから、後悔してもしきれなかっただろう。

劇中のフィリップは、ツインタワーとも心を通わせていて、まるで人間に対して関係を築くように見えた。人間だって同じだ。いつ、どんな風にふっと消えてしまうかわからない。
永遠なんてないのだ。だから、やりたいと思ったことはやったほうがいい。もちろん映像的な見所の多い映画だけども、そんなメッセージも感じた。