『ディーパンの闘い』



『真夜中のピアニスト』、『君と歩く世界』のジャック・オディアール監督作品。カンヌ国際映画祭パルムドール最高賞を受賞した。

以下、ネタバレです。








スリランカの内戦により、難民となって、パリの郊外へ亡命してきた一家の話。一家とはいっても、難民キャンプでの寄せ集めである。細かい説明はないけれど、家族だと移民として受け入れられやすいのだろうか。それとも、子供がいると、ということなのかもしれない。

パリといえども、こんなに治安の悪い場所があるのかと驚いた。団地だが、一部は麻薬の売人の事務所のようになっている。銃撃戦もときどき起こる。偽とはいえ一家の大黒柱であるディーパンはここで管理人として働くことになる。

治安の悪い場所について、行きたくはないけど、見てみたいという願望はある。だから、その事務所内の映像などもちゃんと映してくれて、見ることができるのは嬉しかった。知らない世界を見るのは少しわくわくしてしまう。

ジャック・オディアールはフランス人の監督だけれど、主演もタミル人、場所もフランスのイメージとはかけ離れた場所である。そんな作品がフランスの映画祭であるカンヌ国際映画祭で賞をとったのはおもしろい。
移民を受け入れるフランスや、それでも貧しい地区にしか住むことができないという問題点など、政治的なメッセージも含まれているからかもしれない。

ディーパンのスリランカでの境遇についてはあまり説明もされないし、スリランカの内戦のことも序盤だけでほとんど描かれない。
ディーパンが所属していた“解放のトラ”という組織も架空の集団なのかと思ったけれど、本当にあった。他民族国家であるスリランカは7割がシンハラ人で、ディーパンたちタミル人は2割弱。国では少数派なようだ。そのため、シンハラ人優遇政策がしかれ、タミル人がそれに反発し、内戦が勃発したとのこと。
ある場所には“解放のトラ”は“テロ組織”という書かれ方をしていたけれど、政府(シンハラ側)に対抗していたから“テロ組織”扱いをされてしまうだけなのではないかとも思う。映画で、ディーパン(タミル)側から見てしまったからそう思うのかもしれない。

どちらにしても、ディーパンはもう、戦わずに他国で真っ当に生きることに決めたのだ。
解放のトラ時代の上官のような人物とフランスで再会し、「武器を調達しろ」との命令を受けたがディーパンは断った。強く何度も蹴られても、応じなかったようだ。
家に帰ってきて、あれは軍歌のような感じに解放のトラの同志を鼓舞するような歌を威勢良く歌ったあとで泣き崩れるシーンが良かった。
もう戻りたくは無いんだという想いがちゃんと伝わってきた。

ディーパン役のアントニーターサン・ジェスターサンは今回が俳優としては初めての映画出演らしい。実際に解放のトラで戦っていて、タイ経由でフランスに亡命したとのこと。境遇が同じなので、よりリアリティがあったのかもしれない。

ディーパンの偽の妻ヤリニ役のカレアスワリ・スリニバサンは、舞台には何度か出ていたとのことで、演技自体は経験があったらしい。
妻の気持ちの移り変わりも特にセリフでの説明がなくてもよくわかった。
団地内の高齢者の介護の仕事をするのだが、ある日、その高齢者の息子ブラヒムが帰ってくる。ヤリニと同い年くらいで、「料理がおいしい」と褒めてくれる。
多分、ヤリニは誰かに優しい言葉をかけてもらいたかったのだと思う。そこまでいかなくとも、ただの雑談でもいい、誰かと話したかったのだと思う。ブラヒムはヤリニに気さくに話しかけていた。

ヤリニはそこまで仕事が億劫そうだったけれど、目に見えて、表情が輝き始めていた。恋をしている表情である。笑顔も見えた。
強烈な赤の服をミシンで縫っていて、子供の何かを作っているのかなと思ったら自分の服だった。次の日に着ていっていた。

ただ、ブラヒムは堅気じゃないんですよね。足にGPSを付けているのは、性犯罪者の監視とか仮釈放者の証であることは知っていたけれど、ヤリニはそれを知らないで、「ジョギング?」などと無邪気に聞いてしまう。
たぶん、気さくな態度から、もしかしたらこの人ともっと親しくなれるのではないかなんてことを考えていたのではないかと思う。隣りの締め切った部屋で麻薬を売っていることはなんとなくは知っていても、こわい人という認識は徐々に消えていったのではないか。そして、おそらく、ここで再確認したのだろう。
だから、その日、ディーパンとおそらく初めて一夜を共にするが、それはこの人といるしかないのだなと改めて覚悟を決めたのと、ブラヒムに対する想いへの訣別と、いろんな想いが混じってのことだったのではないかと思う。

偽物の家族だけれど、異国の地で慎ましやかに身を寄せ合って生きていこう。その夜以降、そんな風な“家族”の結束がわずかに芽生えたようだった。
ここで映画を終わらせてもいいと思う。
けれど、団地で銃撃戦が起こり、母娘に当たりはしなかったもののすぐ近くを弾がかすめ…という事態になり、話が急展開する。

少し前までだったら違ったかもしれないが、ディーパンは二人をまもろうと決めたのだ。そのため、邦題通りの“闘い”になっていく。
蹴っ飛ばされても耐えていたので、もう何が起きても、昔のことは封印していくのかと思ったけれど、ディーパンはアジトである団地に乗り込み、銃撃戦をしている若者たちを次々に殺していく。少し前までの真面目に働く管理人姿とは大違いである。

以前の上の人に「もう足を洗ったんで勘弁してください」みたいなこと言っているときには、なんとなく任侠映画を連想してしまったけれど、最後で本当の任侠映画のようになってしまった。

途中まで、難民問題も扱っているし…と思いながら、神妙な顔で映画を観ていた。この乗り込んでいって血塗れになっているディーパンのことも、虐げられてこんな治安の悪い地区に追いやられたせいで…と重く受け止めたほうがいいのかなと思った。
次第にディーパンのことが、悪者をばったばったとやっつける正義のヒーローに見えてきたのだ。けれど、ここで盛り上がってしまうのは不謹慎なのではないか…とも思い、むずむずしながら観ていた。

この映画は試写会で観たのですが、上映後に、松江哲明監督と山下敦弘監督のトークショーがついていた。ここで、松江監督が「高倉健さんみたいだった。普段は能力を隠してるこわい人が最後に本領発揮するっていう」と言っていて、山下監督が「『タクシードライバー』を思い出した。入り口と出口がこんなに違う映画だと思わなかった。最後、ジャンル映画のようになるとは思わなかった」と言っていた。お二人の話を聞いて、ああ、盛り上がっていいんだと安心した。

また、松江監督は、乗り込んでいくときにディーパンにカメラが密着するのが今風のカメラワークだと言っていた。今公開されている『サウルの息子』でも同じようなカメラワークが観られるらしい。団地に乗り込むディーパンの車の中の映像とか、団地の中に入っていくときも、ディーパンのすぐ後ろから撮っていたりとか。「普通、もっと引きで撮りたくなるよね」と言っていた。

ヤリニが初めて介護の仕事をする部屋に連れて行かれる時も、ヤリニ目線だったのが気になった。ガラの悪そうな若者が階段に座り込んで威嚇するようにこちら(ヤリニ)を見ていたり、鎖に繋がれていても飼い犬が歯をむいてきたり。いかにも、治安の悪そうな場所で、ヤリニの不安感が充分に伝わってきた。いくらお給料がたくさん貰えても、こんな場所に毎日通うのは私は嫌だな…と思った。これもカメラワークのうまさなのだろう。

あと、お二人の話で、確かに娘さんの出番少ないのは謎だった。フランスに来て学校に行き、他人と触れる機会も多い娘を主役にするという方法をとることが多い気もする。なぜ、ディーパンを主役にしたのだろう。

ラスト、急に場所がかわる。ディーパンがロンドンタクシーを運転していることで、場所がイギリスへ移ったのだとわかる。
ヤリニの従姉妹と思われる家族も居て、ヤリニがディーパンとの間に出来たと思われる赤ちゃんを抱いている。陽光が当たっていて、あたたかそうで、これ以上ないくらい、夢なようなハッピーエンドだ。

夢のような? というか、夢なのではないかと思った。
だって、あそこまで何人も殺して、いくらギャング相手とはいえ、おとがめなしというわけにはいかないと思う。序盤で、逮捕されたら国外退去という話も出ていた。イギリスへ行くことなどできるのだろうか。
それか、そもそもが偽の家族という違法な手段で移民になったようだし、ここも違法な手段で切り抜けたのだろうか? でも、人殺しはまずいだろう。

団地に乗り込む少し前、車の中にいるディーパンに弾が当たったようで、カメラにも少し変わった効果が加えられていた。その傷はどうなった? あそこで、撃たれて死んでしまったのではないかとも思える。
最後にヤリニがディーパンの頭を優しく撫でていたけれど、あれが撃たれた場所なのではないか。

どちらにしても、現実とは思えない。

ラストに関して、松江監督は現実だと思うと言っていて、山下監督は納得できないと言っていた。観る人による…という感じだった。松江監督は最近お子さんが生まれたそうで、それで見方が変わったのかもとも言っていた。山下監督は、「俺はひねくれ者だから…」とのこと。でも、答えは一つではなく、どうとらえてもいいということがわかって良かった。

そういえば、『君と歩く世界』のラストもうまくいきすぎというか、わりと唐突なハッピーエンドで、同じような印象を受けた。その時にも、私は“実は死んでいるのでは、”みたいなことを書いてる…。監督の好みの終わり方とかクセなのかもしれない。


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