『SHERLOCK 忌まわしき花嫁』



イギリスで去年のクリスマスに放送されたテレビドラマを日本では映画館で上映することになった(日本以外でも、劇場公開されている国もあるみたいです)。『SHERLOCK』はいままでもイギリスで放映されてからとても遅れて日本ではNHKBSで放映されていたが、今回は少し遅れにはなったが映画館である。
一時間半と時間も普通の映画と変わらないサイズだし、本編前には脚本・製作のスティーヴン・モファットによるセットを紹介するスペシャル映像と、本編後に同じく脚本・製作、そしてマイクロフト役のマーク・ゲイティスによる出演者インタビューも流されて、トータルすると二時間弱になっている。上映時間的には普通の映画と遜色ない長さとなっている。

以下、ネタバレです。







『SHERLOCK』の新作がイギリスでクリスマスに放映されるとのニュースを最初に見たのはいつだか忘れてしまったが、その時の写真がいつもの『SHERLOCK』とは雰囲気が違っていた。
そもそも『SHERLOCK』は現代にシャーロック・ホームズがいたら?みたいなコンセプトで始まったものなのだと思うが、その写真では、ワトソンは立派な髭をたくわえ、ホームズは鹿撃ち帽をかぶり…、いわば原典のような恰好をしていた。
コスプレなのか、はたまた劇中劇なのか。ただのイメージ写真でしかないのかもしれない。
何も調べないまま見始めました。

上映前の特別映像『脚本家スティーブン・モファットとめぐるベーカー街221Bの旅』では、モファットが今回のセットの説明をしていた。「今回はヴィクトリア時代が舞台で…」と言っていて、時代自体が違うことを知った。
シャーロックの部屋は現代版を元にしながら、ところどころが昔風になっていて凝っていた。たとえば、鹿の首の剥製は現代版ではヘッドフォンをしているけれど、ヴィクトリア版では補聴器を付けている。入り口のドアのステンドグラスの説明も、内容に関係のあるものだったため、聞いておいて楽しめた。
特別映像ではシャーロックの部屋の説明だけだったけれど、他のシーンの美術も凝っていたし、ごてごてした衣装もきれいだった。どちらも、大きなスクリーンでの上映に耐えうるものであった。

ただ、このドラマって、携帯電話やインターネットなどを使って捜査するシャーロック・ホームズ現代版というのが売りなはずなのに、なんでわざわざ元の設定であるヴィクトリア時代を舞台にするのかなとは思いながら観ていた。

まあ、その逆手に取ったわざわざ感がいいのかなとも。クリスマススペシャルというか、一話で終わる特別篇だし、これなら単独でも観られていいのかな…と思っていた。
途中までは。

マイクロフトに「データの中のウイルス」というセリフがあり、おや?と思う。この時代にパソコンなんてあるはずがないし、データやウイルスという単語がひっかかる。セリフのミス? いや、そんなはずは…。
と思っていたら、シャーロックが飛行機の中で目覚めた! 現代である。現代も何も、『SHERLOCK シーズン3』の最後で乗せられた飛行機の中である。ドラマ版の続きだった!

日本では劇場公開されても、イギリスや他の国ではテレビドラマなのだ。日本でよくあるTHE MOVIE的なものとは違う。あくまでも、ここまでシリーズを追いかけてきたファン向けのドラマだった。ちゃんと繋がっている。

原典でも、シャーロックは事件がなく退屈だとコカインなどを使っていたという描写があるという。今作は薬物中毒のシャーロックがトリップしながら事件を解決するという話だった。
いわば、シャーロックの頭の中でのことである。レストレード警部の扱いは相変わらずだし、マイクロフトは安楽椅子探偵のイメージが強いからか、体重増減ネタか、自分では動けないほどに太っていた。

ヴィクトリア時代だとジムは出てこないのかなと思っていたけれど、滝壺に落ちて死ぬという原典と同じ話が出てきた。
ヴィクトリア時代、死んだはずのジムがシャーロックの前に現れる。現代でも、シリーズ3のラストで死んだはずのジムが放送をジャックした。現代のジムは後頭部を銃で吹っ飛ばしている。ヴィクトリア時代の“忌まわしき花嫁”であるリコレッティ夫人も同じ方法で自殺し、蘇った。
ヴィクトリア時代と現代を行ったり来たりし、「死者が蘇るはずがない」という言葉が両者に対して当てはまってくる。二つの時代が相互に共鳴し合い、次第にねじれていくような構成が見事だった。
そして、現代で、「僕は時代をこえて蘇ったシャーロック・ホームズだ」と言うのも、メタというか、このテレビドラマの根本的なテーマが本人の口から敢えて宣言されて恰好良かった。

滝壺にモリアーティが落ちるシーンですが、シャーロックと殴り合いになるのはガイ・リッチーの映画版だけのものなのかと思っていたけれど、今作でも殴り合っていた。頭脳派であるシャーロックと殴り合いというのはミスマッチな感じもするけれど、原典でも殴り合っているのかもしれない。

今作ではこのシーンで、後ろからお取り込み中すみませんといった感じにジョンが現れる。一人ではピンチになってしまっても、二人なら勝てるのだ。これもシャーロックの頭の中のことなのだろうか。

また、シャーロックが相当気になっていたと思われ、現実にもトリップ中にも出てきたマイクロフトからの「リストを作成しろ」という言葉。ヴィクトリア時代では違う意味だったけれど、本当は摂取したクスリのリストを作成しろという意味。シャーロックは面倒がっていたけれど、兄であるマイクロフトがちゃんと弟のことを心配しているのがわかって良かった。

シャーロックは自分はどう思っているかわからないけれど、周囲から愛されている。ジムも偏執的ではあるけれど愛なのだろう。
アンドリュー・スコットは、出番こそ少ないものの強烈な印象を残した。ほこりのほとんどは人間の皮膚らしいと言いながら、ほこりを指で掬って舐めるようすなどぞくぞくした。吹っ飛ばした後頭部をシャーロックに見せつけたり。
ジョーカーがバットマンに固執するように、たとえ敵であっても、同じレベルで張り合える人間の存在に対する特別な想いがあるのだろう。
お互いに銃を構えて一触即発になるシーンがあるんですが、シャーロックが右利き、ジムが左利きだったため、鏡のようになっていてとても恰好良かった。鏡のようにしたのにも意味があるのかもしれないけれど、アンドリュー・スコットは左利きらしいので、偶然このようになったのかもしれない。

結局、ジムが生きているのか死んでいるのかわからない。でも、最初のほうでも出てきたが、死んだ者が生き返るなんてことはないのだ。何かしらトリックがあるはず。
ただ、今回はそこまでは明らかにならない。次回に続くというわけだ。

続きが作られるというのが明確にわかったのも良かった。クリスマススペシャルと言えども、日本でこれだけが映画館上映という単体でも楽しめるような扱いを受けていようとも、あくまでもシーズン3の続きであり、シーズン4への橋渡しとなる作品なのだ。

それにしても、これが普通にテレビドラマとして見られるイギリスのお茶の間が羨ましい…。

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