アカデミー賞でゲイリー・オールドマンが主演男優賞、辻一弘さん(“辻”の文字が正しくは一点しんにょう?)がメイクアップ&ヘアスタイリング賞を受賞。エンドロールに出るKazuhiro Tsujiの名前を見ると感慨深い気持ちになる。
チャーチルの生涯なのかと思ったけれど、1940年5月に首相に就任してから、ダンケルクの戦いを経ての翌6月の演説までとほんの一ヶ月くらいの中の数日が濃く描かれている。

戦争ものというよりは政治ものなので、室内での話し合いなどが多い。戦争側の描写はほとんどない。そのため、去年公開の『ダンケルク』を観ておくと、物事が立体的にわかっておもしろい。

監督は『つぐない』のジョー・ライト。脚本は『博士と彼女のセオリー』のアンソニー・マクカーテン

以下、ネタバレです。『ダンケルク』の内容にも触れます。











映画ではチャーチルの愛すべき人物像が描かれていた。ころころした体型でペンギンのようにひょこひょこ歩く様子はキャラクターのようだった。ゲイリー・オールドマンは主演男優賞を受賞していますが、とてもゲイリーには見えない。それはしゃべり方など彼の演技力もあるのだろうけれど、辻さんの技術もあると思う。
また、チャーチルと言えばという感じですが太い葉巻を常に吸っていたり、コニャックもいろんな場面で楽しんでいた。国王に「よく朝から飲めるな」と言われて「鍛錬です(Practice.)」と言うのが笑った。
あと、ビクトリーのVサインということで、写真をとるときにピースをしていましたが、逆さピースにしちゃってて、それが新聞に載って笑われるというシーンもお茶目だった。逆さピースはイギリスで相手を侮辱するときにやるやつです。中指を立てるのと同じ。なんとこれが実話なのがすごい。チャーチルご本人が逆さピースをやっている写真が実際にある。
ただ、よく怒鳴る。タイピストも泣かせていたし、国王ものちに友人のような関係になるけれど、チャーチルのことをこわいと言っていた。曲者ではあると思う。

また、戦争に対してもかなり強引であり、あまり賛同できなかった。
1940年5月19日のラジオでの演説では、イギリス軍はフランス軍とともにフランスで前進をしていると嘘を言っていた。国民を鼓舞するためだと言っていたが、戦時中の日本の新聞などを思い出してしまった。
この時にラジオのスタジオでは放送中である赤いランプが点いていた。それに照らされながらチャーチルが話すので少し不気味なイメージになっていたので、あまりいい意味では撮られていなかったのだと思う。チャーチルはこんなことを言っているけれど、戦場では兵士が死んでいるというように兵士の死体が出ますが、この兵士の目も赤かった。

チェンバレンなどはイタリアが仲介役にしてドイツと和平交渉をという意見だったようだけれど、チャーチルはそれを跳ね除けていた。今だからその選択が正しかったと言えるけれど、あの場にいたなら、私も和平交渉の側になりそう。でもこのあたりは、チャーチルを肯定的に撮っていたと思う。
ただ、ドイツがヒトラー、イタリアがムッソリーニなので、やはり和平交渉などという弱気な態度よりは一気に潰してしまおうという意見のほうが正しいのだろうか。

ただ、本土決戦があるかもしれないのに、他の市民はどう思っているのだろうと思ったら、後半でチャーチルが地下鉄に乗って市民の話を聞くシーンがあった。市民たちも和平交渉なんて絶対にだめだという意見だった。また、本土決戦になったら、ほうきで叩いてやるなどと勇ましいことを言っていた。
もしかしたら、私が日本人だから賛同できなかったのかもしれない。イギリス人だったら、チャーチルの意見に全面的に賛成して、愛国心とともに戦いたいと思ったのかも。

イギリス兵たちがダンケルクの浜に追い詰められていて、その惨状が伝えられたのが5月25日だった。チャーチルはダンケルクの30万人を救うためにカレーの4千人を犠牲にする。カレーでドイツ軍を引き寄せて、そのうちにダンケルクから撤退させようという作戦だ。
『ダンケルク』にはこのことは出てこなかったので、本当に裏側という感じで、カレーの彼らがいたからダンケルクの彼らが逃げられたのだと思うと本当につらかった。
また、ほとんど戦争シーンのない映画ですが、カレーのシーンだけは多数の傷ついた兵士と指揮官が映っていた。そして、チャーチルはそちらには助けは行かないという電報を指揮官に送る。仕方がないのだとは思うけれど残酷だ。
指揮官が上を向いて、カメラもぐんぐん上に上がっていく。傷ついた兵士たちのいる建物の屋根には空爆でできた穴が空いている。その建物の周囲も爆弾が落とされたらしく燃えている。上空にはドイツの飛行機が飛んでいて、そこから建物に向かって大量の爆弾が落とされた。
このシーンが本当につらかった。これもこの方法しかなかったのかと考えてしまった。
『ダンケルク』では序盤にコリンズが「ダンケルクは遠いからカレーに行くのはどうですか?」みたいなことを呑気に言いますけど、この状況は知らなかったんでしょうか。隊長に「敵が待ち構えてるからだめだ」と言われてましたが…。

ただ、チャーチルがだいぶ無茶なことを言っている…と思いながら観ていたけれど、日を追うごとにどんどんチャーチル自身も追い詰められて、条件付きなら和平交渉を考えてもいいというところまで譲歩していた。結局、国王に徹底的に戦えとエールを送られ、市民の話を聞いて、ドイツに従わず、倒すことを決意する。

最後はあの有名な演説で、この映画だとダンケルクからの撤退が成功したかどうかは描かれないし(それは『ダンケルク』を観てねということなのだと思う)、演説もダイナモ作戦中に行っているようにもとらえられるけれど、実際には成功した6月4日とのこと。
『ダンケルク』ではその翌日の新聞を読み上げるシーンがある。私は読み上げた後の最後のトミーの表情はまだ戦争は終わりではないというようなうんざりしたものだと思っていたけれど、実際には兵士たちはあれを読んで鼓舞されたのだろうか。アレックスは鼓舞されたのかもしれない。
実は『ダンケルク』を観たときにも、現場(戦場)で兵士たちはこんなに大変な思いをしているのに、チャーチルは国会で“never surrender”などと言っていて、まだ諦める気は全然ないのかとうんざいした気持ちになったのだ。でも、使われている音楽は感動的なものだったので、この諦めないで立ち向かうのは美徳として描かれているのかとも思った。日本人にはわからない、イギリス人の美徳として。
あのあと、まだ5年間は戦争が続く。

チャーチルはアメリカのルーズベルト大統領に電話で駆逐艦を貸してくれと言っていたが、新しくできた法律で…などと言われて断られてしまう。それで、民間の小型船の徴用を思いついて、ラムゼイ提督に依頼していた。これが5月25日の夜中である。もしかしたら、日付が変わっていたかもしれない。そして、ラジオで流れたのが翌日の朝である。
「860隻集まった」と話していたのが5月28日だった。向かっていく大量の小型船の映像も出ていた。
『ダンケルク』のドーソン家の船も混じっているのかなと思ったけれど、ドーソン家はたぶん6月4日だと思うので、徴用が呼びかけられてからだいぶ遅そう。

ところどころで、チャーチルの無茶さ加減や戦争したがり加減が気になったけれど、それくらい極端な人物でないとリーダーシップはとれないのかもしれない。それに、年月はかかったとはいえ、チャーチルが率いたイギリスは実際に戦勝国になった。

原題は『Darkest hour』。“もっとも暗い時間”ということで、映画で描かれたあたりから次の年までのイギリス軍がドイツ軍に一国で挑んでいた期間を指すチャーチルの言葉らしい。
邦題も『ダーケスト・アワー』にしてほしかった。サブタイトルにチャーチル云々をつければいいのに。
エンドロールの最後にビッグ・ベンの鐘の音が流れる。やはり、ここまで含めての作品だと思う。
ビッグ・ベンの鐘の音は『ウェストミンスターの鐘』という正式名称が付いているらしい。
ウェストミンスター宮殿(国会議事堂)はまさにチャーチルがいた場所でもあるし、もちろん演説の数々もここで行われた。
それだけではなく、暗い時間の終わり、夜明けを告げる鐘の音にも思えた。




カンヌ国際映画祭グランプリと国際批評家連盟賞を受賞、またフランスのアカデミー賞ともいわれるセザール賞では作品賞、有望若手男優賞、音楽賞など、6部門を受賞。また、その前のゴールデングローブ賞的な位置づけのリュミエール賞でも作品賞、監督賞など6部門を受賞していて、去年のフランス映画界の話題の中心だったようです。

時代は1990年代初頭。エイズが社会問題化する中で、見て見ぬふりをする製薬会社や政府に訴えかけるACT UP-Paris(本部はニューヨーク)という活動団体の話。ロバン・カンピヨ監督自身も当時メンバーだったということで、半自伝的な作品になっているらしい。
最近観た『エンジェルス・イン・アメリカ』と同時代で同テーマということで、様々なシーンで思い出した。
また、『パレードへようこそ』も1984年と85年の話なのでほぼ同時代であり、炭鉱夫たちを巻き込みながらのデモ行進の話なのでテーマも似ている。

以下、ネタバレです。『エンジェルス・イン・アメリカ』『パレードへようこそ』の内容にも触れています。











80年代から90年代を舞台にした同性愛を扱った作品では、どうしてもHIV問題についても語られることが多い。それほど彼らは病気の脅威にさらされてきたし、一向に動き出さない政府や製薬会社などに焦りと苛立ちを感じていたのだと思う。
今では治療を続ければHIVでない人の余命と同じくらい生きられる病気になったとのことだけれど、当時の焦燥感が伝わって来る。

今作でもHIVに感染するのがゲイ、売春婦、薬物乱用者、囚人が多いということは繰り返し言われていた。マイノリティのかかる病気ということで、余計に政府に疎まれていたらしい。
もちろん、活動では治療薬を!という訴えが一番だけど、差別反対という意味もこめられている。
『パレードへようこそ』も性的マイノリティの人々と職場を奪われた炭鉱夫という、立場は違っても政府に対抗するマイノリティということでの団結が美しかった。

映画内ではACT UPのミーティングシーンが多い。ドキュメンタリーのような撮り方で臨場感があった。発言の邪魔をしないように賛同の場合も拍手ではなく指を鳴らすというルールも優しいし、同じ目的に向かってはいても、様々な面で対立もあった。

序盤は、ミーティングをして、製薬会社に乗り込んでいって血に見立てた赤い液体の入った袋を投げつけるなど、過激な活動の様子がとらえられていた。やりすぎではと思わないこともないけれど、日々、仲間がエイズで死んでいくことを考えると、一刻も早くと思うのは当然だし、訴えても伝わらないなら過激な手段に出るしかない。
学校に乗り込んでいって、コンドームを配ったりもしていた。最近日本でも、性教育はいやらしいなどという親だか教育関係者だかがいたらしいけれど、若いうちから知っておかなくてはいけないことだろう。手遅れになってからでは遅い。

序盤は彼らの活動が中心で、かなり政治的な内容の映画なのかと思っていた。ACT UPのメンバーの中でも目立つ人がキービジュアルになっているだけで、様々なメンバーがいるけれど、一人一人の掘り下げはないのかと思っていた。
主人公がいて、彼と恋人の出会いがあって、日々が綴られて、二人で一緒に活動をして、血の袋を投げつけるなど派手な活動はクライマックスになりそうなものだ。

しかし、本作ではヒューマンドラマやラブストーリーの一面は中盤から出てくる。
キービジュアルにもなっているHIV陽性のショーンとHIV陰性のナタンはACT UPで出会う。実際のACT UPも出会いの場でもあったらしい。

ショーンはどんどん弱っていき、体も痩せていく。目が大きいので、痩せると目がぎょろっとして目立つ。痛々しい姿になっていく。
『エンジェルス・イン・アメリカ』でルイスは弱っていくプライアーのそばから逃げ出した。病気の恋人を見守ることができなかったからだ。しかし、本作ではナタンはずっとショーンのそばにいる。入院前には一緒に住んで点滴をかえてあげたりもしていたし、入院してからは見舞いにも行く。
ルイスの駄目さ加減がよくわかった。しかし、ルイスの気持ちもわかるし、私もあの行動になるかもしれないとも思う。
ナタンだって、おそらく逃げ出してしまいたい気持ちを耐えて介護をしていたのだろうを思うとつらさが際立つ。
両作品観ていると、ナタンの気持ちも想像できた。だから、ショーンが亡くなってすぐに、家に別の男性(自分に想いを寄せている)を呼び出すのもわかるのだ。

ちなみにショーンの末期、家に帰ってきたときに、さすがに一人では大変だろうと思ったら、女性も家にいて、看護師さんがついて来たのかと思ったらショーンの母だった。
ナタンは昔の彼氏の親にお前がうつしたと責められたみたいだけど(ナタンは陰性なので言いがかりである)、ショーンの母はそんなことはしなかった。

ショーンは「うつしたほうにも、うつされたほうにも責任がある」と言っていた。
だから、ショーンとナタンは欲望に任せたりせずにちゃんとコンドームをつけていた。学校に出向いてあれだけやっておいて当人たちがつけなかったらどうしようかと思ったけれどちゃんとしていた。
あと、ショーンが入院していて個室でナタンが手で出してあげるシーンは、それこそいやらしさなんて全然なくて、愛していてもどうにもならないというもどかしさと、その中でもせめてできることをという精一杯さだけが感じられて切なかった。

セックス=生命力というとらえかたをされていたと思う。他にも、パレードでのポンポンを持ちながらチアリーダーのように踊ったり、何度か出てくるクラブで踊っているシーンの躍動感も強烈な生のイメージを残す。
だからこそ、病気が進行してからのショーンがつらい。チボーが「パレードでは発症した人を前列に」という意見を出した時に、ショーンは自分がパレードに参加しているところを想像するが、その時にはチアリーダー姿だったときとは似ても似つかない、表情も死んだようだった。チボーと衝突してしまったのもよくわかった。当事者になると焦りはさらに加速する。

邦題だと『BPM』だけで、一体いくつかわからないんですが、原題は『120 battements par minute』。一分間に120拍。
劇中で何度か使われているBronski Beatの『Smalltown Boy』(1984年)(実際に使われているのはArnaud Rebotini Remix)は当時実際にゲイコミュニティの間で流行った曲らしい。
この曲のテンポが120なのかと思ったら130とのこと…。120は心臓の鼓動という意味もありそう。




『エンジェルス・イン・アメリカ』の第二部。一ヶ月前に第一部を観て楽しみにしていました(『ナショナル・シアター・ライブ:エンジェルス・イン・アメリカ 第一部 至福千年紀が近づく』の感想)。
先日、オリヴィエ賞のノミネートが発表されましたが、本作はベストリバイバル賞、ベストディレクター賞にマリアン・エリオット、主演男優賞にアンドリュー・ガーフィールド(プライアー)、助演女優賞にデニース・ゴフ(ハーパー)、助演男優賞にジェームズ・マカードル(ルイス)のほか、ライティングデザイン賞と多数の部門で注目されている(再演なので作品賞関連は無し)。

第一部の時には気にしていなかったのですが、ノミネートされているマリアン・エリオットは『戦火の馬』、『夜中に犬に起こった奇妙な事件』の人らしい。両方好きだったので、この作品も好きだということはマリアン・エリオットの他の作品も観たくなる。

第一部よりも宗教色が強くなっていたと思う。
第一部のラストで、天使がプライアーの病室に実際に出てきてしまったけれど、第二部はいろんなシーンで出てくる。
第一部のラストではとても禍々しい存在に見えたが、今回は禍々しくはありつつも、神々しさも感じた。羽根が大きく圧倒される。両方の羽根を数人が操っていて、その動きもリアルだった。

プライアーは天使を見たことで啓示を受けたようになる。預言者とも呼ばれていた。
友人のベリーズに天使を見たことをぺらぺらと話していて、ちょっと小難しくてわかりにくかったんですが、ベリーズが私と同じような反応だったので、そこまで理解しなくても大丈夫なのがわかってよかった。

ただ、天使が置いていった書を天国へ返しに行くのは、モルモン教に『原典を翻訳して天使に返還した』という話そのままだったので、少しはモルモン教のことがわかっていた方がいいのかもしれない。
また、ジョーの母親は敬虔なモルモン教徒ですが、彼女とプライアーも精神的に繋がる。
ただ、別にモルモン教が素晴らしいという話ではなく、ジョーの妻ハーパーやルイスはむしろ嫌っているようだった。

プライアーが天使を見るのも、実際に天使がいるわけではなく、おそらく薬や病気が見せた妄想なのだと思う。夢精とかオーガズムもおそらく副作用のようなものだろう。天使が近づいてきた時に勃起するというのがあって、プライアーが部屋にジョーの母がいるときに、「近づいてきてるんです!わかるんです!理由は言えないけど!」と言いながら股間を隠しているのが可愛かった。

天国へ書を返しに行くのも、現実世界ではプライアーは死にかけていたのだろう。雨に濡れて肺炎になりかけていた。熱も出ていた。
光るはしごを登って行くとそこには荒廃した天国があるんですが、その上下の高さを表現するセットが凝っていました。床の高さを移動させることで人物が上下しているように見える。

また、手前にセックス後のルイスとジョーがいて、後方にジョーの母に着替えさせてもらっているハーパーがいるシーンでは、もちろん、その二組が同じ場所にいるわけはない。けれど、ハーパーは精神安定剤の飲みすぎで妄想をよく見る。妄想でセックス後のジョーを責めていたけれど、実際にはルイスの部屋の様子なのだと思う。妄想が二つの場所を近づけた。

同じように、モルモン教センターでのシーン。ジョーの母はジョーが同性愛者であること、ハーパーをないがしろにしたことに怒ってアパートを売り払い、モルモン教センターで厄介になる。ハーパーもそこに住んでいる。
よくボタンを押すと人形が動いて事柄について説明してくれるものがセンターに置いてあったりしますが、このモルモン教センターにもそれが置いてある。
ハーパーがそれを見ていて、迷い込んできたプライアーも一緒に見るんですが、人形劇の幕が閉まっているときに、ハーパーが「父親の人形が夫に似てるのよ」なんて話すんですが、開くと本当にラッセル・トービーでおもしろかった。ラッセル・トービーの人形演技が素晴らしい。
しかし、そこに横からルイスが現れる。ルイスが人形のジョーと口喧嘩を始めるんですが、これも、実際にルイスがここに来たわけではなく、プライアーが見た妄想だ。しかし、ルイスの部屋で実際に行われたやり取りなのだと思う。ここでも妄想が二つの場所を繋げていた。

プライアーとハーパーは似ているところがある。第一部でも夢の中で会っていたけれど、第二部でも天国で二人は会う。イマジナリーフレンドと呼んでいた。二人とも、まだ生きたいと言って、天国から降りていった。

幕間が二回あるものの、約4時間20分とかなり長丁場なんですが、最後の幕間の時には終わってしまうのがさみしかった。それくらい各キャラクターが好きになってしまった。

でも、ロイ・コーンは第一部でもそうでしたが、怒鳴ることが多く、威圧的で好きになれなかった。怖かった。これも前回の時には知らなかったんですが、実在の人物らしい。隠れゲイだったり、ゲイのくせにホモフォビア(よくいるらしいですが…)だったり、エイズなのを隠して肝臓癌だと言っていたりとすべて真実だったらしい。なんと、ドナルド・トランプの弁護士もやっていたとか。
ただ、好きにはなれなかったけれど、「病気になるとアメリカは列からはずされる」と言っていたが、資格もあっという間に剥奪されてしまい、さみしく死んでいったのはかわいそうでもあった。

ハーパーは信じていた夫が実はゲイ(バイセクシャル?)で男と浮気をしていて…というのはつらくはあったと思うけれど、妄想は彼女の味方だったし、何より、最後はジョーを捨てて一人で飛行機に乗って飛び立つという決着のつけ方が良かった。強い。

ジョーは善人というか、善人であろうとした人なのかなと思う。それでも結局、上昇志向はあったようだし、差別主義者のロイ・コーンに仕えていたし、そのためには同性愛者を陥れるようなこともしていた。
法律では…と繰り返していたけれど、融通が利かないとか堅物というよりは、安全安心な道をただ歩きたかったのだと思う。

ただ、第二部の序盤、ルイスの家に連れて行かれて、「自分には妻がいるから…」と拒もうとしていたけれど、ルイスにがんがんに迫られて落ちちゃうあたりは良かったです。ここはジョーがどうというより、ラッセル・トービーが上手かった。またそこからズルズルとジョー側がルイスにはまっていくのも良かった。ジョーから熱烈なキスをしていた。

ルイスは第一部でも病気の恋人プライアーから逃げていて酷い奴だと思ったけれど、第二部はジョーに迫り、三週間ほどセックスをしたけれどモルモン教徒だとわかって気持ちが冷める。さらに、プライアーの元に行って、被害者面でやり直したいなどと言っていた。本当に酷いと思っていたら、プライアーに「誰が一番厳しい状態なのか考えてみて」と言われて追い返されていた。よく言った。

さらに、ジョーがロイ・コーンの元で働いていたことが発覚し、ただでさえ左寄りだったルイスは、ジョーに怒り出す。ちなみにこの時の喧嘩でそんなに強くはないけれど、ジョーに殴られた(初めて人を殴ったと言っていた)ルイスが床に寝転がる。その奥にプライアーのベッドがずっと置かれていて、その次のシーンのロイのベッドが手前に出てきていた。傷ついたままみんな舞台に残されていた。

ルイスはどうしようもないなと思うけれど、怒ったり泣き叫んだり逃げ出したりと、すごく人間臭い。結局臆病なだけなんですよね。見ていて怒りすらわく部分もあったけれど、プライアーのように強くはなれないし、一番自分に似ているのがルイスな気がして、とても愛しくなった。それに、観た後で一番考えてしまうのはルイスのことです。

ルイスが友人に依頼されて、亡くなったロイ・コーンの病室で、ユダヤ教の祈りを捧げるシーンがある。本当に嫌いだったやつを許す。このことで、ルイスも多少成長したのではないかと思う。

プライアーは視界が狭くなり、足も悪くなり、紫斑も多くなり…と病状が悪化していく。肺炎になりかけのときには自暴自棄にもなっていたと思う。また、例え妄想の中の話だったとしても、書物を返しに行かずに受け入れたら死んでしまったのかもしれない。でも、返しに行って、まだ生きたいと言って天国から帰ってきた。ルイスに関しても、「元のようには戻れない」と言っていたから別れるのかと思ったけれど、ラストシーンでは一緒にいてほっとした。

ところどころでやはり、プライアーを演じるアンドリュー・ガーフィールドが可愛かった。つんつんして強がっているけれど、ふにゃふにゃしているし、天使が現れたら錯乱する。全身真っ黒の妙な衣装もおもしろかった。
最後、退院しておそらく薬物療法をしているのだと思うけれど、発症から四年数ヶ月経つと言っていた。「ルイスと一緒にいた期間より長い」とも。背後に水の出ていない天使の噴水があって、ルイスとベリーズとジョーの母がわいわい話している。いまだにこの三人と一緒にいるのだというのがわかる。
手前側にプライアーが来て、観客に向かって話しかけているのが映画的でもあると思った。プライアーは穏やかな顔をしている。もう錯乱せずに、病気を受け入れて、一緒に生きていこうと覚悟を決めたようだった。強くなっている。「冬は凍るから水を止めているけれど、夏になればまた噴水の水が出る。僕はそれが見たい」というセリフが良かった。おそらく、生きる意志なんてそんなものでいいのだと思う。
また、観客あてに祝福を授けていたので、やはり彼が天国へ行くこと、また天使に会うことでなんらかの啓示を得たのかなとも思う。

ラストシーンは、カメラが斜め上から撮っているのも映画的だった。これはナショナル・シアター・ライブのカメラワークのうまさである。ただ、アンドリュー・ガーフィールドもカメラを見ていたと思うので、撮影が入るときだけの特別仕様だったのかもしれない。







アカデミー賞長編アニメーション部門と歌曲賞受賞。
監督は『トイ・ストーリー3』のリー・アンクリッチ。
同時上映は『アナと雪の女王/家族の思い出』。

以下、ネタバレです。











まず『アナと雪の女王/家族の思い出』についてですが、クリスマスの話だったので、ちょっと季節外れでした。本国公開は11/22だったのでちょうど良かったのだろうなと思う。日本での公開も当初は12/23だったらしいので、その時に観たかった。
アナとエルサが、お城でのクリスマスのお祝いのサプライズを用意しても、村の住民たちはそれぞれ家族で過ごすために帰ってしまう。アナとエルサにはそのようなものがない。そこでオラフが各家庭をまわって、伝統の品をお裾分けしてもらう。トナカイのスヴェンのひくソリに乗っているのでまるでサンタのようだった。

これはひねくれた意見なんですが、一家庭くらい、うちには家族の伝統はないよとか、一人暮らしの人とかが出てこないのかなと思ってしまった。家族の伝統がないのがアナとエルサだから、一般家庭の人々にはそれは重ねないか…とも思うけれど。
オラフが少し失敗してしまいプレゼントは台無しになってしまうけれど、アナとエルサは二人を繋ぐものはオラフだったと気づく。
『アナ雪』本編とまったく関係のない、キャラが同じだけの短編かと思ったら、ちゃんと本編の話も出てきたのが良かった。
クリストフが完全にギャグ要員になってたのはなるほどと思った。アナとエルサ、どちらの王子様でもないことが明確に示されていた。

『リメンバー・ミー』も、家族の伝統という点で共通するのかもしれない。
舞台がどことは明確には示されないけれど、死者の日の風習とミゲル、デラクルスなどの名前から、ラテンアメリカ、おそらくメキシコだろうと思われます。
母、祖母、曽祖母…と代々続くご先祖様の写真が飾られた祭壇があるが、家族を顧みずにミュージシャンになる夢を追い求めた男だけ、顔の部分の写真が千切られている。男に心底腹を立てたご先祖は、子供やそのまた子供に音楽を禁止させる。しかし、主人公、12歳のミゲルは音楽が好きで…という序盤。

予告でも出ていたけれど、ミゲルは、憧れの町出身のスター、デラクルスが写真の顔の部分が千切られたご先祖なのではないかと思う。
デラクルスの“チャンスを逃すな”という言葉を信じて、自分も音楽をやるために墓にあるギターを盗み出す。そのギターをじゃーん!と弾くシーンで『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』を思い出した。
亡くなった人について、語り継いでいく限り、思い出の中で彼らは生き続ける…というのは普遍的なテーマだから被りとかではないんですが、所々でどうしても『KUBO』を思い出して、最近観たなと思ってしまった。

映画を観る中でもう一つ雑音になってしまったのは、ヘクターが出てきた時点で、ミゲルはデラクルスがご先祖だと思ってるけど、本当はヘクターなんだろうなと予想がついてしまった。たぶん、デラクルスは本当は音楽の才能がなかったり、悪い奴なんだろうなというのもなんとなくわかった上での鑑賞になってしまったのが残念。
ヘクターを演じたのがガエル・ガルシア・ベルナルだったので、その声優バレという面もあります。
アカデミー賞の時にガエルが『リメンバー・ミー』を歌っていたけれど、あまり歌が上手とは言えなかったので、劇中では歌のシーンがないのに無理やりひっぱり出されたのかと思った。実際には、たくさん歌うシーンはあったし、ちゃんとしていました。アカデミー賞は緊張していたのだろうか。

ミゲルが死者の国に行き、死者と交流して成長して戻って来るというのは、典型的な行きて帰りし物語のパターンだとは思うけど、舞台をラテンアメリカにしたのがユニーク。
ラテンアメリカ、特にメキシコで大々的に行われている祭り、死者の日。死者が戻って来るということでお盆みたいなものだと思うけれど、もっと陽気な祭りのようで、ガイコツがカラフルに飾られていたり、花もたくさん飾られている。
映画に出てくる死者の国も、おどろおどろしさは微塵もない。ミゲル以外はガイコツなので、ミゲルもガイコツメイクをされていて、それはまさに死者の日に行われていることである。
また、ガイコツたちも顔にペイントされていて、これも死者の日に飾られるガイコツと同じだ。
世界観も原色で、導く動物たちはほとんど蛍光色だった。観ているだけで楽しい。
また、音楽もラテン系の曲が多く使われていた。
ここまでラテンアメリカで世界観が統一されていたアニメーション作品がメジャーな場で賞を取れるというのはやはり時代の流れもあると思う。それに、このタイミングでこのような作品を作るピクサーもなかなかすごい。

アカデミー賞ではオスカー・アイザックがプレゼンターで、受賞を読み上げた。そして、ガエルとハグをし、「ラテンアメリカ万歳!」というコメントを叫ぶ場面があって、映画を観てから見たらさらに感動しただろうなと思う。

原題は『Coco』。主人公の名前はミゲルだし、何を示しているのかわからなかったが、音楽のために家を出て行ったご先祖の娘の名前だと途中でわかる。ミゲルの曽祖母であり、まだ生きている。
車椅子で頭もぼんやりさせていて、娘(ミゲルの祖母)やミゲルの名前ももうおぼえていない。
序盤ではそんなイメージはなかったが、タイトルになっているということは、彼女がキーになるのか…と思っていたら、ヘクターがまだ幼いココに『リメンバー・ミー』を歌って聴かせるシーンがあった。
ココはまだ生きているからおばあちゃんになっていて、ヘクターは死んだから若い姿である(ガイコツですが)。これも、私の好きな想い合ってる二人の時がズレるパターンだった。

『リメンバー・ミー』は歌曲賞をとっただけあって、すごくいい歌で、劇中にもポイントポイントで何度か出てくる。ただ、ワンフレーズのみだったりと、がっつりと聴かせてくれるシーンがなかったのが残念。
最後、ミゲルがココに歌って聴かせるシーンはもっと長くとってくれても良かったのにと思った。



アカデミー賞外国語映画賞受賞。
チリのセバスティアン・レリオ監督。前作『グロリアの青春』はジュリアン・ムーア主演でハリウッドリメイクも決まっているとのこと。
トランスジェンダーの女性が主人公ということ以外、何の情報も入れずに観ました。

以下、ネタバレです。












トランスジェンダーの女性が主人公だと思っていたのに、最初に出てきたのは初老の男性で、彼目線で進んでいくので、こっちが主人公だったか…と思った。彼、オルランドの恋人がトランスジェンダーのマリーナだったので、年の差もあるし、二人の恋路が邪魔されるのかなとストーリーを想像した。

しかし、マリーナの誕生日を幸せに祝った後(チリにもレストランでケーキが運ばれてきて、店員さんが♪ハッピーバースデートゥーユーと歌ってくれて、店の客が拍手をしてくれるというサービスがあるのを初めて知った)、自宅で動脈瘤で亡くなってしまう。

最初に連絡をとったオルランドの弟はまだ友好的だった。けれど、急死だったため、マリーナに疑いがかかり、刑事に尋問される。マリーナはうっすらと乳房が膨らんではいるけれど、ほぼ平らである。それでも格好が女性なので、刑事はあからさまに胸を見ていたし、名前を聞かれて「マリーナ」と答えても、本名は?などと聞き返していた。

その時点でも相当失礼だけれど、仕事先のカフェには女刑事が押しかけてくるし、オルランドと住んでいたアパートにも息子が入ってきて体をじろじろと見るし、アパートをはやく引き渡せと言われる。

元妻はもっと失礼で、実際にマリーナに会って、「キメラみたい」などと言っていた。
元妻は不倫されたわけだし、怒るのも当然なのかもしれないけれど、それとトランスジェンダー批判はまた違う。ただ、マリーナがトランスジェンダーでない若い女性だったとしても、なんやかんや文句つけたり酷いことを言いそう。葬式に来るなとも言いそうである。
大体、そんなだから不倫されるんじゃないの?と思い、観ながら憤ってしまった。

女刑事の抜きうちの身体検査も酷い。虐待の疑いをかけられて、全裸にさせられ写真を撮られていた。しかも、その様子を女刑事も見ているという。それって、もう疑ってるとかではなくて、ただの意地悪ではないの?と思った。

また、通夜に現れたマリーナを、息子や親戚が車で拉致したシーンもつらかった。直接的な暴力こそふるわれなかったけれど、顔にテープをぐるぐる巻きにされる。
マリーナを演じているダニエラ・ヴェガは綺麗なんですが、それが醜く歪む。監督の言葉として、「彼らにはこう見えている」というものがあって戦慄した。どうしてここまでの憎悪をぶつけられるのか。

トランスフォビアたちのマリーナに対する数々の仕打ちを見ながら、怒って、差別は良くないという気持ちにもなるが、本当のところ、この映画の本質はそこではないと思う。

マリーナはオルランドを亡くしたときに病院のトイレで座り込んでいたし、様々な場所でオルランドの幻影を見ていた。
外野がうるさすぎてそちらに目がいってしまうが、一番大切なこととして、彼女は恋人を亡くしたのだ。大切な人を亡くしたばっかりなのに、彼にゆっくり想いを馳せることもできない。通夜にも葬式にも出られないなんて。

マリーナが一番オルランドを愛してたかどうかはわからない。元家族側の描写が対マリーナでしか出てこないのでわからないが、元家族もオルランドのことは夫であり、父でもあるのだから大切ではあったのだろう(でも、オルランドについて、「マリーナとのことを知って変態だと思った」と言っていた。これも私には怒りポイントだった。そんなこと言ってる奴らがどうしてでかい顔をしているのか。家族だからというだけで。でも、“元”家族なのに)。それでも、マリーナにも別れを言う権利はあるはずだ。

結局、火葬場の職員にお願いして火葬前のオルランドに別れを告げさせてもらっていたのでほっとした(ここでは、チリでは家族は火葬が終わるのは待たないんだと思った。文化の違いなのか、宗教の違いなのか)。
ここで、マリーナは初めて涙を見せるんですよね。ここまでもかなり辛い目に遭っていたが決して泣かない。パンチングマシンやシャドウボクシングで怒りを発散させていた。お別れができて本当によかった。

原題は『una mujer fantástica』。直訳すると“幻想的な女性”で、英語のタイトルも『A Fantastic Woman』なのでそのままのようです。
邦題の『ナチュラルウーマン』は挿入歌『(You Make Me Feel Like)A Natural Woman』から取られているのだと思うが、“ありのままの私を見てくれるのはあなただけ”という歌詞が印象に残っているのでいい邦題だと思う。

劇中では鏡の使われ方も印象的だった。街中で、家で、マリーナは自分の姿を見る。それはありのままというよりは鏡にうつった姿である。あくまでも姿形なのだ。オルランドが見ていたのは姿形も含まれてるのかもしれないが、内面も含めてのマリーナだ。
マリーナが全裸でベッドに寝ながら、股間の部分に丸い鏡が置かれていて顔がうつっているというシーンがあった。これはそのままのシーンというよりは、彼女自身が大切で性別は関係ないというイメージでもあるのかと思った。

アパートや車、飼い犬など、彼との思い出の品を全部奪われたマリーナに唯一残されたのがどこかわからない鍵…という、少しミステリーっぽい要素もあったのがおもしろかった。たびたび映されるが不明で、でもマリーナの働くカフェの客が同じ鍵を持っていて、サウナのロッカーだとわかる。
マリーナは体がまだ男性の部分もあるから、男性用のサウナへ潜入していく。心は女性なのだから相当勇気がいる行為だと思うが、それでも、意を決して入っていき、ロッカーを見つける。
ロッカーの中が映されるが、真っ暗で何かがあったのか、なかったのかは不明だった。

マリーナの誕生日に、オルランドは滝に行くチケットをどこかに忘れたと言う。この滝は『ブエノスアイレス』でも出てきた滝で、その繋がりで出したのかと思った。映画のオープニングが滝の映像である。
また、動脈瘤に繋げるたけのフックとしての、ど忘れかと思っていた。
映画の後半でもう一度、滝に行くチケットの件が重要なシーンで出てきて、脚本もうまいと思った。

元家族らが折れたのか、本当に必要なかったのかはわからないが、マリーナは飼い犬だけは取り戻していた。
エンドロールで流れていた曲は、死者を弔うような歌詞だった。この先は外野にも邪魔されず、飼い犬と一緒に、オルランドのことを思い出しながら暮らしていってほしい。

主演のダニエラ・ヴェガの顔が魅力的。目に強い意志が宿っている。映画内で本当に酷い扱いを受けていて、挫けそうになっても必死で生きている。マリーナが、飛んでくる葉っぱやゴミなどに負けずに、向かい風に向かって歩く映像が印象的だった。
そして、映画を観た後、私もそんな風に歩きたくなってしまう。ふざけんなとか負けるもんかという気持ちになる。観た後に歩き方が変わる映画はいい映画。

ダニエラ・ヴェガは歌手でもあるらしく、劇中でサルサやオペラを歌うシーンがあったがおそらく吹き替えではなさそう。
また、実際にトランスジェンダーということで、監督は最初、この映画の脚本などについてダニエラに相談していたらしいが、主演女優のキャストに迷っていたところ、目の前にいるじゃないか!となって、彼女に決定したらしい。

公式サイトを見ていて、音楽がマシュー・ハーバートだったことに驚いた。また、エンドロール後に出たアンゼたかしの文字にも驚いたと同時に嬉しかった。アンゼさん、このようなスモールバジェット映画の字幕も担当するんですね。



ギリシャのヨルゴス・ランティモス監督。
本作もカンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞しましたが、『籠の中の乙女』はある視点部門のグランプリ、『ロブスター』は審査員賞とカンヌ映画祭の常連でもある。

ただ、カンヌ映画祭だからというのもあるけれど、内容はいまいちわかりにくく変わっている。『籠の中の乙女』はラストでおいてけぼりになってしまった。『ロブスター』は揃えられているキャストほどキャッチーな内容ではなかった。
前2作に比べると本作はわかりやすかった。
独特の映像美とひんやりした世界観は相変わらずです。

出演はコリン・ファレル、ニコール・キッドマン、バリー・コーガン。

以下、ネタバレです。









まったく内容を知らないで観たのですが、コリン・ファレルとニコール・キッドマンの夫婦のもとにバリー・コーガンが養子としてやってきて、幸せな生活が一変するのかと思っていた。

だから、序盤にコリン・ファレル演じるスティーブンとバリー・コーガン演じるマーティンが密会していて、これから養子になるのかと思ってしまった。序盤ではすべての関係性が明らかにされない。
話が進むうちに、スティーブンとアナ(ニコール・キッドマン)の間にはキムとボブという二人の子供がいて、家族は円満のようだったし、マーティンにも母がいるようだったので、どうやら養子にはならなそうだと気づく。

マーティンはスティーブンにご執心のようだったが、スティーブンはつきまとわれていることをあまりよく思っていなさそうだった。しかも、マーティンの家に呼ばれた際には、マーティンの母から誘われる始末。

事態は少しずつ明らかになっていく。どうやら、心臓外科医であるスティーブンの執刀ミスによって、マーティンの父親は死んでしまったらしい。だから、ご執心とは言っても結局は恨んでるんですね。この辺の愛憎紙一重の想いがかなりぞくぞくする。
呪いなのかなんなのか、説明はないんですが、マーティンはスティーブンの家族三人は、「1.まず足が麻痺する。2.食欲がなくなる。3.目から出血をする。4.死に至る。」という予言めいたことを言う。この時点だと、もうマーティンもスティーブンにつらく当たっていて、「用事があるなら早く済ませてくれ」と言うんですが、上記の不吉なことをマーティンは早口で言う。普通、こういうことって、ゆったり、怖い感じで言いますよね。早口でなんでもないことみたいに言って、「早く済ませろって言ったから早口で言ったよ」と言うのが、逆にとても怖い。
しかも、それを止めるためには、スティーブンが家族の誰かを殺さないといけないと。
スティーブンを最高に苦しめるけれど、スティーブン自体は死なないというのも愛憎紙一重っぽい。

実際に足が麻痺していくんですが、末っ子のボブとアナがエスカレーターに乗っているところを長い間上から映していて、下に着いたところでがくんと足から崩れるのが怖かった。キムについても、聖歌隊で聖歌を歌っている途中で立っていられなくなってしまうのが怖い。
緊迫したシーンでバイオリンをひっかくような不快な音が鳴るのも怖かった。
ジャンル分けするならホラーなのかもしれない。

途中で執刀ミスはスティーブンが酒を飲んで手術に臨んだせいだとわかり、もう本当にスティーブンがどうにかするしかないんですが、そのどうにかが結局誰かを殺さなければならないということだから、どうしようもない。

誰を殺せば症状の進行が止まるということが家族にも知れると、家族三人がスティーブンに媚を売り始めるのがまた怖い。ボブは髪を自分で切って褒めてもらおうとし、さらに「父さんと同じ心臓外科医になりたいんだ」などと言う。キムは「命を授けたものが奪う権利があるから私を殺して」と言う。ただこれは本心なのかはあやしいと思ってしまった。アナはスティーブンの前で裸で寝転んだり「子供のどちらかがいなくなってもまた作ればいい」などと言い出す。
スティーブンも学校に出向いて、どちらの子供が優秀かなどと聞いていた。
きっとここまでがマーティンの望んでいたことなのだと思う。

結局、家族三人を目隠しして悲鳴が出ないように猿轡をして、スティーブン自体も目隠しをしてぐるぐるまわってルーレット形式で銃を撃っていた。結果的にボブを殺してしまう。
そして、スティーブンとマーティンが二人で会っていた喫茶店のような店で、スティーブン、アナ、キムとマーティンが顔を合わせるところで映画は終わる。
三人が自分の足で立って歩いているし、ボブがいないからマーティンはスティーブンが家族殺しを実行したのもわかるし、誰を殺したのかもわかる。
しかし、マーティンは怒るでも笑うでもない。何を考えているのかわからない。目がガラス玉のように青くて、そこからは感情が読めない。それがまた怖い。

普通の映画だったら、なんとか殺さずに終わると思う。しかも、一番の年少者を殺してしまった。ちょっとびっくりしたし、後味が悪い。嫌な気持ちにもなるけれど、それは観なきゃよかったというものではなくて、嫌な気持ちにさせるために作っている映画なのだと思うからいいです。

また、タイトルの『聖なる鹿殺し』なんですが、“アウリスのイーピゲナイア(イピゲネイア)”という、聖なる鹿を殺した男が自分の子供を生贄として差し出すことになるというギリシャ神話からとったらしい。このギリシャ神話を知らなかったのですが、知っていたらネタバレっぽくなりそう。
ただし、元にしたわけではなく、作った話に似ているギリシャ神話があったということらしい。

ホラーテイストだとは思うけれど、普通なら、たぶん主人公のスティーブンはひどいことをしたにしても、マーティンから何かしら赦されて、殺さなくても事態は解決するはずだ。また、マーティンがもう少しかわいそうな存在に描きそう。
しかし、マーティンはどこまでも不気味だった。駐車場にいるのがちらっと映るのが怖かった。

マーティンを演じているバリー・コーガン目当てでしたが、大満足。
マーティンは16歳で、『ダンケルク』のジョージも17歳なんですが、ご本人は現在25歳。演技力の高さがわかる。
あと、映画自体は静謐でまさに病院のような印象だったのですが、その中で殴られて、顔を血まみれにしているマーティンの姿はなぜか妙にどきどきした。
バリー・コーガンはボクシングをやっているとのことですが、そこまで筋肉質ではなくて、でも引き締まってはいて、少年らしい生々しさのある体でした。腋毛を見せるシーンもあった。

マーティンがどうやって呪いのようなものを発動させたのかはわからないけれど、理屈では説明できない存在感があった。『ダンケルク』とはまったく違う。この先の出演作も楽しみ。



ギレルモ・デル・トロ監督がゴールデングローブ賞の監督賞を受賞。意外にも、デル・トロ監督は監督賞を初受賞とのこと。他にも来週のアカデミー賞も13部門ノミネートされている。

ストーリーに難しい部分はない。口のきけない女性と半魚人のようなモンスターが恋をするというあらすじはもともと知っていたけれど、そのストーリーのままです。

ただ、細部まで丁寧に丁寧に作られた世界観と、聴いた瞬間にそれとわかるデスプラ節の音楽で、映画にどっぷりと浸かってしまい、観終わって数時間が経ってもまだ余韻が続いている。もっと長く観ていたかった。

鑑賞したのは『ブラックパンサー』と同じ日だったのですが、『ブラックパンサー』を先にして本当に良かったと思う。この状態では他の映画は頭に入ってこないし、他の音楽を聴くこともまだできない。

ちなみに、ぼかしについては、話の内容を邪魔するシーンでもなかったし、あれくらいなら仕方ないと思う。ぼかし無しバージョンの上映があっても、別にあえて観なくてもいいくらいです。

以下、ネタバレです。









途中までわからなかったんですが、アメリカとロシアが宇宙開発で競っていたので時代は冷戦下でした。
口のきけない女性イライザが主人公。政府の研究機関で掃除係として働いている。
彼女は絵描きのジャイルズと住んでいる。彼女は孤児らしいので、詳しくは説明されないけれど、親代りだったのかもしれない。一階が映画館、二階がジャイルズのアトリエ兼部屋、三階がイライザの部屋のようだったけれど、この家の作りからしてとても可愛らしい。猫も数匹飼っている。昔の映画もいくつか出てきて、映画愛にもあふれていた。

イライザは、ジャイルズはもちろん、一階の映画館の支配人や職場の友人ゼルダ(オクタヴィア・スペンサー)などにも好かれているし、口がきけないながらもいつも幸せそう。テレビで映画を観ながら、ジャイルズと座ってタップダンスをするシーンも可愛かった。
しかし、ただの聖人として描かれているわけではなく、映画開始直後に風呂で自慰をするシーンがあったりと、ちゃんと人間くさく描かれている。聖人だとわざとらしくなりそうだし、それが主人公ではあまりおもしろくならなそう。

彼女は職場に持ち込まれた秘密の生物に心を奪われる。見た目は半魚人のようだったが、半魚人という呼ばれ方はされていなかった。南米で神としてあがめられていたらしい。エラがあるけれど人型で、イライザが優しく話しかければ意思の疎通がはかれる。
映画を観る前にはこのクリーチャーは、水の中の影くらいであまりはっきりと出てこないのではないかと思っていたけれど、ばっちり出てくる。そういえば、デル・トロ監督でした。準主役級です。それくらい出番も多い。

この不思議な生き物は研究機関で解剖されそうになるが、イライザはゼルダなどと協力して奪還することに成功する。
もちろん人間ではないし、少しぎょっとするような見た目である。それでもジャイルズも差別はしない。
それなのに、不思議な生き物が家から外に出てしまった時、私は市民を大虐殺し、捕獲されて殺されるのではないかと思ってしまった。
ここまで、私は一体何を観ていたのだろうと思う。そういう話ではないのだ。私の中の差別する心に気づかされた。
彼は一階の映画館に忍び込み、呆然としながらスクリーンを観ていた。猫を食べちゃったのは仕方ないけど、本当は優しい。

いつもはバスタブの狭い中に押し込められていたけれど、バスルームのドアを閉めて、水が漏れないようにドアの下にタオルをつめて、イライザも裸になって水をいっぱいに溜めて抱き合うシーンは本当にロマンティックだった。
このシーンだけではなく、“彼”が水の中の生物だから、水の使われ方が効果的。特に雨の日、バスの窓に打ちつける雫が流れて一つになる様子をとらえた映像は綺麗だった。

また、“今は緑の時代”という言葉が出てきて、ジャイルズが描いたポスターのベリー系のパイの赤を緑に描きかえろと言われていましたが、その他にもキーライムパイやマイケル・シャノン演じるストリックランドの車やドロップの色も緑だった。“彼”の浸かっていた水にも緑色の粒が浮いていた。ところどころで印象的な使われ方がされていたので、映画全体のイメージがしっかりとかたまる。
また、最初、目の錯覚かと思ったけれど字幕も薄い緑色だった。エンドロールの文字もその色だったけれど、字幕はずっとその色だっただろうか。慣れてしまって普通の字幕の色に見えていたのか不明。

本作は絵本の挿絵のようなイラストのポスターがありますが、全編にわたってあのイメージそのままです。ポスターのイメージそのままの映画ってなかなかないと思う。

細かいこだわりを感じさせる小さい部分を織り込みながら、本当に丁寧に大切に作られているのが感じられた。
“彼”は撃たれた部分がすぐに治ったり、薄毛を気にしていたジャイルズに毛を生やすことができたりと、万能である。ラストも“彼”が海に帰り、イライザと別れて、イライザは“彼”を想いながらこの先の人生を過ごしていくのかと思っていた。しかし、お姫様だっこで水の中へ連れて行ってしまうし、キスで息を吹き返していた。

リアリティなんてものは関係ない。寓話なのだ。完璧に作り込まれた綺麗な世界と、そこに生きる優しい人物と、息づくロマンティックな恋愛。
デル・トロ監督がこんなにロマンティストだとは思わなかった。
この映画の世界、何もかもが一から作られていることを考えると、デル・トロ監督の頭の中を覗いてみたくなるし、本作では少しだけ見せてくれたのだと思う。
モンスターやクリーチャーを多少なりとも人間と別の存在と思っていたら、私みたいに猫を傷つけたあとに外に出て大虐殺…みたいなことを考えてしまうと思う。でも、デル・トロはおそらく、モンスターも人類皆兄弟というか、そもそも人類ではないけれど、私たちと同じ存在だと思っている。今までの映画を観てきても、大好きなのがわかる。本作では特に、同じ位置に立っているという監督の目線がわかりやすい。

あと、これも特に言及はなかったけれど気になったのは、イライザの首に爪の痕があって、それが原因で声が出なくなったらしいけれど、イライザが川のそばで捨てられていたことを考えると、それって…それって…。
(追記:↑と書いた時点では“彼”が捨てられていたイライザを傷つけて声が出なくなっちゃったのかなと思ってた。けれど、もしかしたら、モノローグで“王女様”という言葉も出てきたし、イライザももともと水の中の住民で、何かあって地上にあがり、その報いのような感じで声を失ったのかな、とも。人魚姫のように。そして、運命的に“彼”と出会って、水の中に帰って行ったのかな。水の中に連れて行かれたというより、そのほうがロマンティックですよね)



MCUの18作目。一つ前が『マイティ・ソー バトルロイヤル』ですが、直接の続編ではない。『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』にはすでに登場していたブラックパンサーの単独映画。
監督は『クリード チャンプを継ぐ男』のライアン・クーグラー監督。
主演はチャドウィック・ボーズマン。他、『クリード』のマイケル・B・ジョーダン、『ゲット・アウト』のダニエル・カルーヤ、ルピタ・ニョンゴなど旬な俳優が揃えられている。

Rotten Tomatoesでのほとんど異常事態のような高評価を始め、各方面からの評判の高さから、かなり期待度が高い状態での鑑賞でしたが期待しすぎて失敗ということはまったくなかった。
俳優、カメラワーク、脚本、衣装、美術、音楽とあらゆる面で完璧でした。

以下、ネタバレです。






私はワカンダのことを、ヴィブラニウムがとれるということだけしか知らなかった。
ワカンダの中に幾つかの少数民族がいるのも知らなかったけど、普通のアフリカのようだった。国王の親衛隊のような女性達も首にたくさんの輪っかをはめていたりと、服装もアフリカの民族衣装をアレンジしたもののようだった。新しい国王の選出儀式として決闘があったりと、よくあるとまでは言わないけれど、知っている世界観だった。
しかし、ただの途上国だと思ったら大間違い。隠されてたワカンダはとてつもなく文明が発達した都市だった。世界中のどこよりも進んでいる。最強金属のヴィブラニウムを大量に持っているのだからそりゃそうです。

もう一つそりゃそうだと思ったのは、ブラックパンサーのスーツを作ってるくらいだから、かなり近代的なラボがある。陛下の妹はそこでメカニックを務めている。彼女のスーツとかガジェットの説明の仕方がとてもキュートだった。陛下を吹っ飛ばしてケラケラ笑えるの、彼女だけだと思う。
国王を決める決闘のときに、手を挙げていたのでもしかしたら兄妹で争うことになるのかな、それは嫌だなと思っていたら、「おなかすいたから帰ろうよ」と言い出していて、本当にいいキャラクターだと思った。好きになりました。
ラボはただ近代的というだけではなく、アフリカっぽいイラストがデザイン的に取り入れられているのも良かった。

序盤だけで本当にいろんな要素が入っていて楽しくなってしまったけれど、そこからワカンダの三人が釜山の違法っぽいカジノに行くのもいい。
国王親衛隊の女性オコエはいつもはスキンヘッドなんですけど、ここでは鬱陶しそうにカツラをかぶっている。
でも、いざバトルになるとカツラをかなぐり捨てて、大きい槍を取り出して大暴れ。車の上に乗って、真っ赤なドレスが靡いているのも恰好いい。妹がワカンダから遠隔操作で運転する車の上に乗るブラックパンサーも恰好良く、この序盤だけでもアクションは完璧である。

映画は、お話を読んであげる父親と息子のセリフで始まる。「ワカンダは隠されてるんだよ」「なぜ?」と子供が素朴な疑問をぶつけるんですが、これが、途中で子供が今回の悪役のキルモンガーであることがわかる。

ワカンダがヴィブラニウムを独占していたことで争いが避けられていた面は確かにあるのだと思う。
それでも虐げられている人々(直接は言われないけど、キルモンガーが話していたのは人種差別だと思う)がいる。実際に地球で育ったキルモンガーは酷い目に遭わされてきたのだろうし、ならば、憤る気持ちもわかる。助けることができるのに、なぜ隠れてる? これは、キルモンガーが幼い頃から抱えていた疑問だ。

更に父親を元国王に殺されているから、悪役になってしまう要素は十分にある。アンディー・サーキス演じるユリシーズはただの極悪だけど、キルモンガーは気持ちもわかってしまう悪役というか、仕方ないし、憎めないのだ。

だから、最後に陛下がキルモンガーにワカンダの綺麗な景色を見せてあげるシーンも泣ける。せめて故郷を嫌いにならないでくれ、好きになってくれ、こんなにも綺麗なんだとでもいうようだった。しかし、これは本当はキルモンガーの父親の役割だったのだろうと思うと、さらに泣けてしまう。

陛下の最後の演説は人種差別問題だけではなく、あらゆる差別に対抗しようというものだろう。
もちろん本作はMCUだから、地球人内で争わずに力を合わせて侵略者から戦おうという演説にもとれるけれど、それよりは今の時代に沿ったものだと思う。
一つの民族になろうというメッセージは理想論かもしれないけれど、実際に口に出してくれるだけでもとても力強い。
ましてや、それが力を持っている国王だとしたら信じて、ついていきたくなる。

それにこれって、そのままではないけれど、キルモンガーのやろうとしていたことでもあるんですよね。悪役の遺志を継ぐのは結構珍しいと思う。
キルモンガーは子供の頃の思いをためこんだまま大人になって、悪の方向へ暴走してしまった。では、第二のキルモンガーを出さないためにどうするか。陛下はワカンダ以外の貧しい子供たちへのケアも忘れない。

陛下の志の高さには平伏したくなるし、ヒーローである前に国王だと思う。だから、本作もヒーローものというよりは、父を亡くし、国王になった男の話という意味合いが強いと思った。

そう考えて思い出すのが、『バーフバリ』なんですよね。
立派な王様の話というだけでもう、『バーフバリ』要素があるとおもうけれど、国王になるための決闘もそうでしたが、そのときにまわりの囃し立て方とか、名前の連呼もバーフバリっぽいし、鎧で武装したサイも思い出した。
なにより、序盤から恰好良すぎて泣いていたのも『バーフバリ』と同じでした。

単なるヒーローものではないということで、MCUの中の一作ではあるけれど、この作品単体でも十分楽しめると思う。他の作品のように、いかにも途中から始まって続くで終わるということもない。

他、伏線回収とまではいかないけれど、序盤で説明されたことが後半に復習のように出てきて効果的にきいてきていた。

ヴィブラニウムを運ぶリニアモーターカーの線路の両脇の、ヴィブラニウムの力を制御する機械についても、関係のないところで露骨とも言える感じで機能を説明して、後半にそこでブラックパンサーとスーツを着たキルモンガーが戦った。
目立たないほうがいいからこっちでと陛下は銀の首飾りのスーツを選んだけれど、金の首飾りのほうをキルモンガーが着たり。ジャバリ族は威嚇するときに猿が吠えるような声を出していたけれど、後半のバトルで声だけが聞こえてきて助けにきたのがわかったり。
序盤に出て来た車の遠隔操作も、後半ではロスが飛行機の遠隔操作をする。

カメラワークも長回し調の部分が多くて恰好良かった。ぐるっと一周まわるようにして全体を把握させる。バトルや街の雰囲気がわかりやすい。
カジノ内のバトルも、狭さがわかっておもしろかった。ヴィブラニウム採掘場の上から入っていくカメラも、その深さといかに大量にヴィブラニウムがあるかがわかった。

最後の入り乱れてのバトルシーンでは、陛下はキルモンガーと肉弾戦をしているのですが(これもあまりヒーローものという感じではない)、他の場所では、陛下の元恋人のナキアや妹もちゃんと戦っていた。親衛隊も全員女性である。しかも全員恰好いい。最高でした。

主演のチャドウィック・ボーズマンはスタイルが良くてセクシーでした。
また、キルモンガー役のマイケル・B・ジョーダンはやんちゃないたずらっ子系の顔だから、根っからの悪党には見えない。そこがいい。
登場シーン、博物館にいるときの金縁メガネ姿もとても良かった。

この二人は大事なシーンだとスーツを着ていてもちゃんと顔が出るし、上半身裸シーンも多いのはサービスかなと思った。
この二人が10歳差というのがとてもぐっとくる。チャドウィック・ボーズマン41歳、マイケル・B・ジョーダン31歳です。

ちなみに、マイケル・B・ジョーダンについては『クリード』のときにも『クロニクル』のデイン・デハーンを含んだ3バカの一人だと知って驚いたんですが、今回もまた驚いてしまった。
随分大人になった…と思ったんですが、『クロニクル』が2012年と案外最近公開だったので驚いた。撮影も2011年らしい。たった7年前。高校生役だったのに。
ただ、デイン・デハーンも現在32歳で、もう一人のアレックス・ラッセルも30歳なので、童顔3バカだったのかなと思っている。

ロス役はマーティン・フリーマンで、出てきて、初めてそうだった出るんだったと思い出したんですが、思ったよりも出番が多かった。
巻き込まれる一般人役は久々かなと思う。相変わらずよく似合っていた。CIAだからなので一般人でもないけど、ワカンダ内では一般人である。
遠隔操作中に、指示されるままに、両手を体の前でクロスして放つあのワカンダの挨拶の型をとるシーンがあって、マーティンにこれをやらせるのはサービスだなと思いました。

この挨拶も本当に恰好良くて、ビシッ!とキメるのもいいんですが、ついでとかルーチンみたいに適当にやるときもそれはそれでいい。

エンドロール後恒例のおまけ映像は、ワカンダと思われる場所で、子供達がテントで寝ている誰かを覗き込んでいて、その誰かが目覚めてテントから出てくるんですが、それがバッキーでした。長髪。
陛下の妹が子供達を「いたずらしないの!」って怒ってましたが何をされたんでしょうか。
ロスの件のとき「また白人を治療できる」とうきうきで言っていたのが気になりましたが、監督インタビューを読むと、この“また”の前回がバッキーだという話。

「ホワイトウルフ」と呼ばれてたんですが、知らなかったので調べてみたら、ブラックパンサーに出てくるキャラクターらしい。MCUではバッキーとホワイトウルフを同人物にするのではという予想が立てられていた。5月公開の『アベンジャーズ/インフィニティー・ウォー』が待ちきれない。