『BPM ビート・パー・ミニット』



カンヌ国際映画祭グランプリと国際批評家連盟賞を受賞、またフランスのアカデミー賞ともいわれるセザール賞では作品賞、有望若手男優賞、音楽賞など、6部門を受賞。また、その前のゴールデングローブ賞的な位置づけのリュミエール賞でも作品賞、監督賞など6部門を受賞していて、去年のフランス映画界の話題の中心だったようです。

時代は1990年代初頭。エイズが社会問題化する中で、見て見ぬふりをする製薬会社や政府に訴えかけるACT UP-Paris(本部はニューヨーク)という活動団体の話。ロバン・カンピヨ監督自身も当時メンバーだったということで、半自伝的な作品になっているらしい。
最近観た『エンジェルス・イン・アメリカ』と同時代で同テーマということで、様々なシーンで思い出した。
また、『パレードへようこそ』も1984年と85年の話なのでほぼ同時代であり、炭鉱夫たちを巻き込みながらのデモ行進の話なのでテーマも似ている。

以下、ネタバレです。『エンジェルス・イン・アメリカ』『パレードへようこそ』の内容にも触れています。











80年代から90年代を舞台にした同性愛を扱った作品では、どうしてもHIV問題についても語られることが多い。それほど彼らは病気の脅威にさらされてきたし、一向に動き出さない政府や製薬会社などに焦りと苛立ちを感じていたのだと思う。
今では治療を続ければHIVでない人の余命と同じくらい生きられる病気になったとのことだけれど、当時の焦燥感が伝わって来る。

今作でもHIVに感染するのがゲイ、売春婦、薬物乱用者、囚人が多いということは繰り返し言われていた。マイノリティのかかる病気ということで、余計に政府に疎まれていたらしい。
もちろん、活動では治療薬を!という訴えが一番だけど、差別反対という意味もこめられている。
『パレードへようこそ』も性的マイノリティの人々と職場を奪われた炭鉱夫という、立場は違っても政府に対抗するマイノリティということでの団結が美しかった。

映画内ではACT UPのミーティングシーンが多い。ドキュメンタリーのような撮り方で臨場感があった。発言の邪魔をしないように賛同の場合も拍手ではなく指を鳴らすというルールも優しいし、同じ目的に向かってはいても、様々な面で対立もあった。

序盤は、ミーティングをして、製薬会社に乗り込んでいって血に見立てた赤い液体の入った袋を投げつけるなど、過激な活動の様子がとらえられていた。やりすぎではと思わないこともないけれど、日々、仲間がエイズで死んでいくことを考えると、一刻も早くと思うのは当然だし、訴えても伝わらないなら過激な手段に出るしかない。
学校に乗り込んでいって、コンドームを配ったりもしていた。最近日本でも、性教育はいやらしいなどという親だか教育関係者だかがいたらしいけれど、若いうちから知っておかなくてはいけないことだろう。手遅れになってからでは遅い。

序盤は彼らの活動が中心で、かなり政治的な内容の映画なのかと思っていた。ACT UPのメンバーの中でも目立つ人がキービジュアルになっているだけで、様々なメンバーがいるけれど、一人一人の掘り下げはないのかと思っていた。
主人公がいて、彼と恋人の出会いがあって、日々が綴られて、二人で一緒に活動をして、血の袋を投げつけるなど派手な活動はクライマックスになりそうなものだ。

しかし、本作ではヒューマンドラマやラブストーリーの一面は中盤から出てくる。
キービジュアルにもなっているHIV陽性のショーンとHIV陰性のナタンはACT UPで出会う。実際のACT UPも出会いの場でもあったらしい。

ショーンはどんどん弱っていき、体も痩せていく。目が大きいので、痩せると目がぎょろっとして目立つ。痛々しい姿になっていく。
『エンジェルス・イン・アメリカ』でルイスは弱っていくプライアーのそばから逃げ出した。病気の恋人を見守ることができなかったからだ。しかし、本作ではナタンはずっとショーンのそばにいる。入院前には一緒に住んで点滴をかえてあげたりもしていたし、入院してからは見舞いにも行く。
ルイスの駄目さ加減がよくわかった。しかし、ルイスの気持ちもわかるし、私もあの行動になるかもしれないとも思う。
ナタンだって、おそらく逃げ出してしまいたい気持ちを耐えて介護をしていたのだろうを思うとつらさが際立つ。
両作品観ていると、ナタンの気持ちも想像できた。だから、ショーンが亡くなってすぐに、家に別の男性(自分に想いを寄せている)を呼び出すのもわかるのだ。

ちなみにショーンの末期、家に帰ってきたときに、さすがに一人では大変だろうと思ったら、女性も家にいて、看護師さんがついて来たのかと思ったらショーンの母だった。
ナタンは昔の彼氏の親にお前がうつしたと責められたみたいだけど(ナタンは陰性なので言いがかりである)、ショーンの母はそんなことはしなかった。

ショーンは「うつしたほうにも、うつされたほうにも責任がある」と言っていた。
だから、ショーンとナタンは欲望に任せたりせずにちゃんとコンドームをつけていた。学校に出向いてあれだけやっておいて当人たちがつけなかったらどうしようかと思ったけれどちゃんとしていた。
あと、ショーンが入院していて個室でナタンが手で出してあげるシーンは、それこそいやらしさなんて全然なくて、愛していてもどうにもならないというもどかしさと、その中でもせめてできることをという精一杯さだけが感じられて切なかった。

セックス=生命力というとらえかたをされていたと思う。他にも、パレードでのポンポンを持ちながらチアリーダーのように踊ったり、何度か出てくるクラブで踊っているシーンの躍動感も強烈な生のイメージを残す。
だからこそ、病気が進行してからのショーンがつらい。チボーが「パレードでは発症した人を前列に」という意見を出した時に、ショーンは自分がパレードに参加しているところを想像するが、その時にはチアリーダー姿だったときとは似ても似つかない、表情も死んだようだった。チボーと衝突してしまったのもよくわかった。当事者になると焦りはさらに加速する。

邦題だと『BPM』だけで、一体いくつかわからないんですが、原題は『120 battements par minute』。一分間に120拍。
劇中で何度か使われているBronski Beatの『Smalltown Boy』(1984年)(実際に使われているのはArnaud Rebotini Remix)は当時実際にゲイコミュニティの間で流行った曲らしい。
この曲のテンポが120なのかと思ったら130とのこと…。120は心臓の鼓動という意味もありそう。

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