『最悪の選択』



原題『CALIBRE』。口径の意味らしい。
主演のジャック・ロウデン目当てで観ました。
Netflixオリジナル映画ということで、スクリーンで観られないのは残念でしたが、全世界同時配信なのが嬉しい。普通の映画だと、日本では下手すると数ヶ月、数年待たされたり、公開されなかったりということもありうるので。

以下、ネタバレです。







学生時代の友達、マーカスとヴォーンは休日に狩りに出かける。「やっとシラフの女を抱いたのか」と冗談を言われていたので、二人で相当遊んでいた模様。マーカスはたぶん結婚しておらず、ヴォーン(ジャック・ロウデン)が結婚していて間もなく子供が生まれる。

二人が出かけて行くのはスコットランド北部の村で、遊ぶ場所は一軒のパブのくらいしかなく、そこにいるのはみんな知り合いという感じだった。
そこでやはり遊んでいた時代を思い出してなのか、声をかけられた二人の女性と一緒に飲むことになる。
邦題が『最悪の選択』ですが、もうこの時点から選択を間違っている。ヴォーンは女性と寝てはいないと思うけれど、だいぶ飲んだようで、翌日、二日酔いの状態で狩りに臨むことになる。
そして、それが原因だったかどうかは定かではないけれど、鹿を撃ったつもりが誤って子供を撃ってしまう。更にそれを父親に見つかり、錯乱した父親がヴォーンに向けて銃を向けているところ、遠くからマーカスが父親も銃殺してしまう。
この選択は合っていたのか間違いなのかわからない。ただ、マーカスはヴォーンを救おうとしたのだろうし、正当防衛といえばそうなのかもしれない。最初に撃ってしまった子供に関しては事故である。こちらの落ち度はないと言えばない。ちゃんと説明をしたらわかってもらえるかもしれない。けれど、目の前には死体が二つ転がることになる。

そして、撃ってしまった親子はおそらくキャンパーだろうから、行方不明にしてしまえばわからないだろうということで、死体を埋める。
この選択は間違っていて、二人は村民の親戚だった。しかも、一晩目にマーカスが女性とファックしてコカインをやったことが女性の親にばれ、激怒されて乗ってきた車のタイヤをパンクさせられる。
すべてが裏目裏目に出て、ここまでの選択の積み重ねは全て間違っていたのを思い知らされる。

結局、二人がしたことが村民に知られ、捕まってしまう。本当は二人とも村民に射殺されそうだったけれど、そうすると警察にばれるということで、ヴォーンがマーカスを撃てば、ヴォーンは許してやるという条件が出された。
結局、ヴォーンはマーカスを撃つんですが、そもそも最初に彼に助けられたのに…とも思ってしまった。それでも、そうするしかなかったとも思う。ただ、ここの選択も間違っていたのではないかと思わざるを得ない。

日常生活に戻っても、何事もなかったようにとはいかないのだ。子供が生まれていたから、事件からは時が経っているようだけれど、それでもヴォーンは夜も寝られないようだった。そりゃそうだ。誰にも言えない秘密を抱えながら生きるのはつらい。たぶん、死んだほうがマシだと思うくらいきついと思う。

そして、最後、自分の赤ちゃんを抱えたヴォーンがカメラ目線でこちらを観てくる。映画における、"観てたつもりが観られてた"である。
映画を観ながら、あーあ、ヴォーンは大変なことをやっちゃったな…と思ったけれど、他人事ではなくなってしまった。テレビのこちら側の安全な場所で観ていてたけれど、それを許さない視線。
選択の数々は間違えていても、まあそうするしかなかったよな…とぼんやり思いながら観ていて、でも、向こうにいる当事者に、君ならどうした?こうするしかなかったよね?と問いかけられてしまうと、一気に共犯者にさせられてしまう。厳しい。
また、許してよとも言われているようだった。こちらを巻き込まないでほしい。

オープニングの妻にメロメロの様子や、パブで調子に乗っている様子、女性と喫煙をする様子など、いろいろなジャック・ロウデンが見られる。事件以降は常に泣きそうな顔をしているし、嘔吐シーンもあるし、蹴られて顔を血だらけにしている。猿ぐつわ姿も見られます。
ただ、内容が内容だけに、繰り返し観るのはちょっと厳しいかなと思う。しばらく経ってからまた観ます。




2014年公開。
シネマトゥデイには“名門校に通う2人の男子が、学園で一番の生徒になろうと火花を散らす姿を、ある美少女との恋を交えて活写する。”というあらすじが載っていて、私が認識していたストーリーもそんな感じでした。

しかし、オープニングは色男のような男性は出てこない。モブとまではいかないが、色男と付き合えなかった女性、友達などがかつての校長先生が危篤になっているということで病院に集まってくる。
ちょっとした同窓会のようになっていて、そこで大人になった彼らが高校生当時のことを思い出すという内容。一体、その時になにが起こったのか?というのが徐々に明らかになっていき、少しミステリー調でもある展開がおもしろい。
また、彼らが明らかにカメラ目線でこちらに向かって説明してくるのもおもしろかった。

現在の病院と、過去の学生時代が交互に出てきて、過去ではイケメン二人と美女が主人公である。
学校は、御曹司グループと、ガリ勉グループに分かれていて、御曹司グループの中心にいるのがバンドをやっているロハンである。学校での権力を欲しいままにしていたが、そこにガリ勉グループの星としてアビが転入してくる。
属しているグループも違えば、生活も性格もまるで違う二人。当然ロハンは突っかかっていくけれど、サッカーで同じチームになり、アビがロハンにゴールを譲ったことで二人は仲良くなる。

この二人だけ明らかにイケメン。しかも、過去パートにはダンスシーンもふんだんに取り入れられている。二人はダンスも一流でした。インド映画は俳優がダンスも踊れるのがすごい。また、肉体美も素晴らしくて、この二人とロハンの彼女のシャナーヤが出てきて、音楽が流れると、動きがスローモーションになって、まるでイメージビデオのようになっていた。
過去パートはほとんどミュージカルのようで、夢っぽくも見える。

現在の病院と、過去の学生時代とは雰囲気がまったく違う。それに、現在パートにはイケメン二人と美女は出てこない。もしかしたら、三人は存在しなくて、偶像か象徴のような存在なのかもしれないと思ってしまった。
そうしたら、このモブたちは一体なんの話をしているのだろう?

しかし、半分くらいストーリーが進んだところで、大人になったロハンが病院に来た。相変わらずイケメンではあるけれど、学生時代のようにキラキラはしていない。
現在パートに出てきたところで、現実堕ちしてしまったのが少し残念だった。夢の中の人物のままでもよかった。

学生時代パートは、学園ナンバーワンを決めるスチューデント・オブ・ザ・イヤーの開催に入る。階段に、イケメン二人と美女と病院にいるモブたちが座っているシーンが印象的だった。スクールカーストというほど上下はついていないと思うけれど、今までなら仲良くなることのなかった人物たちがロハンとアビが仲良くなることで、垣根が消えて、奇妙な友情が芽生えている。

スチューデント・オブ・ザ・イヤーは、小テストのあと、四人1組の謎解きのようなものが行われるが、それが、わちゃわちゃしていて非常に楽しかった。また、スチューデント・オブ・ザ・イヤーの発案者である校長が、「次はダンス対決です」などというから盛り上がってしまった。
しかし、ダンス対決までに、ロハンは家族と揉めるし、アビの祖母も亡くなり、いろいろある中で、ロハンの彼女のシャナーヤもアビのことが好きになってしまい、恋愛面でも家族面でも問題が出てきて、シリアスにこじれていく。
それでもダンス対決のシーンはとても長かったし、ディスコっぽい音楽が楽しかった。インドではディスコ上映なんてものも行われたらしい。楽しそう。

けれど、次のトライアスロンはロハンとアビがシャナーヤを賭けて真剣勝負になってしまう。
結局、ロハンが勝つものの、表彰式でモブ側の主人公である弁護士の男性が、スチューデント・オブ・ザ・イヤーというイベント自体とその発案者である校長に異議を申し立てる。こんなの、僕らの友情を壊すだけではないかと。

弁護士の男性はイケメン二人とはまるで違っていて、体型も太っているし、とてもスチューデント・オブ・ザ・イヤーには選ばれない(でもダンスはうまかった。さすが)。彼は、このイベントは、自分とは関係のないイケメンたちのものだし、これがきっかけで友情が壊れるのは納得がいかないと思ったのだろう。
もしかしたら、強烈なコンテスト批判でもあるのかなと思った。
でも、ならばロハンは現在パートに出てきてほしくなかった。アビとシャナーヤも終盤に病院パートに出てきてしまう。彼らも現実側に堕ちてきた。

モブの彼らがイケメンと美女のことをどう思っていたか、というのを焦点にして、最後までモブ目線でやってほしかったと思う。
けれど、弁護士の男性は序盤で「僕が呼んでもみんな集まらないかもしれない」と不安そうだったけれど、ロハンもアビも来てくれたのだから、信頼もされているし、スチューデント・オブ・ザ・イヤーを越えても友情は続いていると示されていると思う。
また、校長先生が病床で、「25年教師を勤めてきて、最期に来てくれたのが八人だけだ」と言っていたけれど、それがスチューデント・オブ・ザ・イヤーを批判した彼らなのだから、最期に許されたということでいいのだろう。

ただ、だったら、最後まで、実はモブの弁護士が主人公でしたってことにしてほしかった。結局最後は、ロハンとアビが、あの日の決着をつけ直すシーンで終わっていた。せめて現在パートの主人公はモブたちにしてあげてほしかった。別にモブたちがロハンとアビのことを嫌いだったわけではないけれど、現在パートの中心までイケメンたちにかっさらわれてしまうと、モブたちの居場所がなくなってしまうのだ。






メイズ・ランナーシリーズ三作目。一作目が公開されたのが2014年、二作目が2015年。日本だと一作目が2015年5月、二作目が同年の10月と、間を空けずに公開されたが三作目は三年経ってしまった。
なぜか一作目は覚えていて二作目の内容を忘れてしまっていたんですが、本作は続きというか、クライマックスのようなシーンから始まるので復習しておいたほうが良さそう。
監督は三作ともウェス・ボール。すべて一人で手がけているのは好感が持てる。

以下、ネタバレです。







疾走する列車の中にミンホが捕らえられていて、それを救助に向かうトーマスたち…という、映画終盤のようなアクションシーンから始まるけれど、まったくおぼえていなかったので、何が始まったのかわからなかった。
特に同行していた大人のホルヘは誰だかすら不明で、復習しておけば良かったと思った。

観ている間にクランケやWCKDという単語は思い出したけれど、観る前まではまったく忘れていた。
ミンホ以外の仲間は救出できるが、ミンホは別の場所へ連れ去られてしまう。
クランケになるウィルスを避けるために金持ちたちは壁の中に暮らしていて、そこへの潜入作戦が始まるんですが、ゴツめの体で顔が隠れていて、それはまるで正体を隠しているようで……と思って、え!もしかして!と思ったら、ウィル・ポールター演じるギャリーがここで大復活。原作でも復活もするらしい。
個人的に1のときに、ウィル・ポールターが退場したのがすごく残念だったので、復活はとても嬉しかったし、ここまでの序盤、話がわからずにぼんやり観てしまっていたけれど、一気に目が覚めた。
なら2で復活してくれればよかったのに、とも思ったけれど、おそらく原作通りということなのだろう。
でも、ウィル・ポールターがかなり演技がうまくて、浮いてしまっているように感じた。他の人が下手というわけではなくて、上手すぎるのだ。

ギャリーとトーマスとニュートの並びというのは、原作がヤングアダルト小説な面もあるのか、やはり漫画的に見える。主人公に金髪美青年にガキ大将とキャラクターがたっている。

ピンチに空から助けが来るシーンが複数回、上から吊り下げられて助けられるのが二回と、パターンが決まってしまっていて、もう少し工夫が欲しかった気もする。しかし、バスが吊り下げられて落とされるシーンは、バスが丈夫すぎるし、あんなことをされて中の子供が無事なわけはないとも思ったけれど、もとの状態に戻った時に、バスの行き先表示がOut Of Service(回送)に変わるのが、ちょっとお洒落だったので許した。くすっとしました。

ミンホを救出すると、アジア系のキャラも加わって、四人並ぶと、更に漫画っぽさが増す。加えてトーマスに、世界を救える特別な血を持っているという、これ以上ないくらいの主人公属性が付加される。

これも主人公っぽいといえばぽいのですが、劇中でも言われていたけれど、彼は全員救おうとするんですね。ミンホ、ニュート、テレサ…。いろいろなものを救出しようとするせいで、ストーリー自体はかなり取っ散らかった印象だった。
ただ、それは、ニュートが残した手紙に書かれてた“正しいこと”なのだろうし、こうしなければトーマスではない。そういうキャラなのだから仕方ないのかもしれないと考えると難しいところではある。

ただ、大事な人がたくさんいたことで、最後のニュートの手紙のあとに、石にテレサの名前を刻むのはどうなのだろうと思ってしまった。ニュートの手紙を噛み締めながらニュートの名前を刻めばいいと思う。ニュートの手紙の後に手紙に関係のない人物の名前を刻まれると、まるでニュートの手紙の内容がトーマスの心に響いていないように思えてしまう。手紙を読みながらも、テレサのことを思い出していたように見える。
テレサの名前を刻むなという話ではなく、トーマスにとって、ニュートもテレサも大切だったのだろうから、手紙の後にはニュートの名前を、そして、テレサの名前を刻む前にはテレサとの思い出を噛み締めたらいいと思う。
この辺は演出がうまくないと思った。

最後、血清を海に投げ捨てるのかと思ったら、大事に持ってるんですよね…。一応、今回でおしまいとのことですが、続編でニュートが出てきたりはしないのだろうか。
死んだと思ったキャラが二回も復活したら、それこそ、ご都合主義になってしまうか。
それに、原作小説は三部作らしく、映画もそれに倣っているらしいので、終わりかな。
綺麗に終わったとも思うけれど、トーマスの血清でニュートが救われるという展開があるならば、ぜひ作って欲しい。

ニュート役のトーマス・B・サングスターは、童顔は変わらずだけれど、だいぶ大人になってきた。大人になってきたというか、もう28歳ですが。
ニュートもクランケになってしまうため、ゾンビものの定石みたいなのが使えたと思うんですが、中でもトーマスが正気を失ったニュートを泣きながら殺すみたいなゾンビセンチメンタルはやってほしかったと思う。観ていて落ち込みそうだけれど。ニュートが自分で自分の胸を刺すというのもなかなか辛くはあった。

そして、エイダン・ギレンもよかった。『ゲーム・オブ・スローンズ』のベイリッシュ公もそうでしたが、腹黒な役がよく似合う。余裕をぶちかました笑顔と柔らかい物腰が素敵です。そして、何より声がセクシーでした。








ジョン・シムとエイドリアン・レスターが主演のドラマ(iTV)。原題は『Trauma』だけなので、あとの部分はDVDになっているものでもないのでシネフィルWOWOWが独自に付けたものだと思われる。
日本語でトラウマというと確かに心的外傷のことだけれど、このドラマの本来の意味は医学用語の外傷(心的でない)のほうかなと思う。エイドリアン・レスター演じるジョンが勤めているのが外傷センター(Trauma Center)なので、それを示していそう。なので、ちょっと混乱するかなとも思う。でも、ダブルミーニングでもあるのかな…。

45分×3話と見やすいボリューム。
2018年に放送されたもので、年内の早い時期に見られたのは本当にありがたいです。

ジョン・シム演じるダンの息子が何者かに刺され、外傷センターに運ばれてくる。担当した執刀医がジョン。簡単かと思われた手術の甲斐なく、息子は亡くなってしまう。

全3話と短いため、息子が誰に殺害されたかは特に問題にされない。犯人探しが主題ではないのだ。

主題はダンとジョンの関係である。ダンはジョンが医療ミスをしたことで、手術が失敗したのではないかと疑う。ジョンはそれを認めない。ドラマを見ている側にも医療ミスがあったのかなかったのかは明らかにされない。

私はジョン・シム目当てでこのドラマを見たので、ダン側に立っていたんですが、ダンの行動が次第にエスカレートしていくことで、本当は医療ミスなどなくてただの逆恨みだったのではないかと思ってしまった。
医療ミスで恨むといえば、『聖なる鹿殺し』を思い出しますが、ダンの場合は、あのような悪魔的な力ではなく、もっと俗物っぽい嫌がらせである。

ジョンの働く病院に入っているコーヒーショップの店員として働き始める、正体を隠したままジョンの妻である心理カウンセラーに相談者として接触する、娘が家に一人の時に父の友達のふりをしてあがりこむ…など、ほとんどストーカーのよう。
しかも、職を解雇されてしまうわ、夫婦仲はうまくいってないわで、息子のことだけではなく、人生がうまくいっていない。
病院内のコーヒーショップで働き始めたときもそうでしたが、自分の妻にジョンの妻と同じ服を着せて抱こうとしたときには見ていてもひいてしまい、私はこの人の言うことを信じていいのだろうかと思ってしまった。

ストーリーが進むうちに、ダンがどんどんおかしくなっていくので、医療ミスなど本当は起こっておらずに、ただの逆恨みがエスカレートしているサイコパスとそれに追い詰められるまともな医師という話だと思ってしまった。

なんとなくの着地点を予想し始めた終盤、医療ミスをしたかしていないかはわからないけれど、ジョンは手術前に酒を飲んだことは認める。
またダンに煽られたことに腹を立て、ダンを激しく蹴飛ばすなど暴行を働く。それを見た娘は、ジョンに失望する。

ダンの側は、家族とも仲直りし、息子の幻とも穏やかな別れを告げた一方で、ジョンの側は、家庭は崩壊、ジョンの元に現れたダンの息子の亡霊は恨みがましい表情をしていた。

結局、一方的にジョンが悪者であることを示すような酷い仕打ちを受けて終わったんですが、一概に悪者とも言えないのではないかと思ってしまった。
もちろん、酒を飲んだら執刀するのは断らなければいけなかったと思うけれど、医師が足りないとも言われていたし、断ることもできなかったのかもしれない。ミスだってもちろん、しようとしてしたわけではないだろう。
また、ダンだって犯罪スレスレ…というか、家に不法侵入の上、娘にナイフをつきつけるなど明らかに犯罪のようなことをもしておいて、医療ミスだって認めてもらって良かったねとダンだけが救われるのもどうなのだろうと思ってしまった。すべて許されるのだろうか。

私はダン側に立って見ていたけれど、これが医師側に立って見ていた場合、とばっちりのようなことを言われ、追い詰められ、結局家庭も崩壊してしまい、ミスによって“殺してしまった”ダンの息子にも取り憑かれるという、、可哀想なラストだと思う。

ジョンとダンは生活も真逆なのもテーマでもあるのかなとも思った。途中で、私もまともな生活をしている方(ジョン)を信じ始めてしまったけれど、それ自体が知らぬ間に差別をしていたのかもしれない。
ひたむきに生きている側(ダン)が割りを食うということも描かれていたのだとすると、昨今のホワイトトラッシュものブームの一端でもあるのかとも思った。「お前は弁護士団を呼べるだろうけれど、俺は呼べない!」という怒りをぶつけていたし。
ただ、ダンの場合、ひたむきと言っても、ちょっとやりすぎていたのがなんとも言えない。
ラストを考えると、実はダンはただの思い込みで言っているだけじゃないの?というミスリードを誘うためなのかなとも思うけれど。それにしてもやりすぎでは…。

どちらの言い分もわかるので一概には言えないというラストだったら良かったのに、明らかにダンが善でジョンが悪という扱いのラストになってしまっていたのはどうかと思った。

ジョン・シムは出てきてすぐに会社を解雇されるし、そこからどんどん悪いことをしていくので、これが真骨頂というか、このような役がよく合う…と思ってしまった。
何食わぬ顔で病院のコーヒーショップで働いていた顔もすましていてぞわぞわしたし、ジョンの娘を申し訳なさそうな顔で騙して、家に入れてもらったら娘の後ろでばーかばーかというような悪い顔をしていたのも良かった。

『万引き家族』



カンヌ国際映画祭パルムドール受賞作品。
是枝裕和監督はこれまでも何度かカンヌでノミネートされていたり、他の賞を取っていたのでやっとという感じです。

以下、ネタバレです。











家族ものであり、子供達がいきいきと撮られているのは今までの是枝作品と同じだけれど、貧困がテーマなのと、子供の虐待が出てくるのでどうしても現実の事件を思い出してしまうのがつらい。
また、『わたしは、ダニエル・ブレイク』と、最近多いホワイトトラッシュものの中でも特に『フロリダ・プロジェクト』はあわせて観ておきたい案件だと思った。

安藤サクラ演じる信代とリリー・フランキー演じる治が夫婦で、松岡茉優演じる亜紀と祥太が子供で、おばあちゃん(樹木希林)がいて、虐待されている子供を拾ってきて家族にする話なのかと最初は思っていた。
けれど、祥太は治のことをお父さんとは呼びにくいようで、本当の子供ではないようだし、亜紀も信代と腹違いの…と説明されていたから姉妹かと思ったら、実際には、おばあちゃんの元夫の孫だった。
また、信代と治は昔に人を埋めたことがあることがほのめかされるなど、家族の真実が映画が進むにつれて徐々に明らかになっていく構成。

“家族”の一人一人は、辛い人生を送っているけれど、みんなが揃った時にはわーわーぎゃーぎゃー言いながらも、結局楽しそうだし、幸せそうだった。
鍋には肉が少なく、白菜と麩で傘増ししてある。それでもみんなで囲めば楽しい。第三のビールだって構わない。
隅田川の花火の日、平家だしもちろん彼らの家からは花火など見えない。それでも、音を鑑賞するためにみんな縁側に出てくる。「見えないじゃないのよー」などと言いながらも楽しそうだった。

花火と海に行くシーンを頂点として、そこから一気に下っていく。海でおばあちゃんが「こんなのいつまでも続くわけないのもわかってるでしょ?」と悟ったようなことを言って、その後、おばあちゃんが亡くなり、綻びが出る。
貧困だと葬式もあげられなければ、火葬することもできないというところまで考えが及ばなかった。弔うことも、一定以上の金がないとできないのだ。
家の軒下に埋めていたが、彼らだって金があれば葬式をあげたかったのだ。仕方がない。
それなのに、あとからワイドショーでは、“家族”に殺害の疑いがかけられるし、血が繋がってもいないのになんの目的で一緒に暮らしていたのか?と面白半分に報道されることになる。私たちは映画の前半で彼らの家族以上に家族らしい面を見ているから怒りがわくけれど、普通ならば、テレビやニュースで見る面でしか知ることができない。

彼ら一人一人の素性について、決定的なネタばらしは逮捕されてから、警察の事情聴取によって、映画を観ている側にも明らかにされる。
結局、信代と治も夫婦じゃなかったし、二人の間に子供もいないので、信代とおばあちゃん以外、誰一人として血が繋がっていなかった(この二人はおそらく親子なのだと思うけれど)。

事情聴取シーンは、カメラが一人一人を正面からとらえるんですが、安藤サクラがうまい。「子供ができないから他の家の子供をさらったんじゃないか?うらやましかったのか?」という刑事の問いには、「恨んでいたかも」と言っていた。怒りを爆発はさせないが、静かに確実に怒っていた。でも、何を言っても不利なこともわかってるし、自分が正しくないことをしたのもわかってるから何も言い返せない。
「子供たちに何と呼ばれてました?」という問いにも答えられない。その前に「呼び方なんてなんでもいい。大したことじゃない」と男の子に話すシーンが出てきていた。大したことじゃなくても公の場ではどうにもならない。

ちなみに、「子供といるところ、見ちゃったんだよね」と同僚に言われたときに、「言ったら殺す」と返したときの、ああ、本当に殺すんだろうなという冷めた目も素晴らしかった。少し前までの冗談を言っていた顔とは違っていた。安藤サクラのうまさを改めて実感した。しかも、実際に人殺しをしていたことが後でわかってぞくっとした。
松岡茉優も可愛い女優さんなんですが、感情が死んだ顔がうまい。
リリー・フランキーと樹木希林もうまいですが、いつも通りの自然な演技とも言えない演技。

映画の前半を観ていたら、治と信代だって心で繋がってるし、亜紀だって事情があっておばあちゃんが引き取ったのだろうし、祥太もパチンコ屋に置き去りにされていたら死んでいたかもしれないし、ゆりだって治たちが拾わなかったら虐待死していたかもしれない。血が繋がっていなくても、彼らは一緒にいることで、絆も芽生えていたし、幸せだと思える瞬間もあったはずだ。少なくとも、ばらばらに生きていたら、幸せな瞬間すらなかったと思う。
映画を観終わった後でポスターを見ると、良かった頃、幸せな瞬間は確かにあったのだと思ってまた泣いてしまう。

柄本明が演じる駄菓子屋の主人が、祥太に「妹には万引きをやらせるな」と言うのも印象的だった。彼は祥太が万引きしていたのもずっと知っていて、見て見ぬふりをしていたのだ。
正しい方向に導いてあげられる大人の存在も必要なのだ。
駄菓子屋の主人は『フロリダ・プロジェクト』におけるウィレム・デフォーが演じていたモーテルの管理人のようにも思えた。

信代が祥太に両親のヒントを与えていたのは、もう私たちとは縁を切りなさいということだと思うし、治が祥太を泊まらせたのも最後のわがままだろう。
祥太の乗るバスを走って追いかけていたし、祥太も振り返って見ていたが、万引きよりも勉強をさせてあげたほうがいいことも、勉強させるなら自分から離れたほうがいいことも、たぶんわかっていたのだと思う。
だって、学校も行かず、万引きをして暮らしていくという生活を続けていたら、ろくな大人になれない。自分の二の舞だ。
治が“祥太”という自分の本名をつけたのは、自分の人生はろくでもないものになってしまったけれど、やり直したいという意味も含まれていたのではないかと思う。祥太は自分の代理というような。
事件が明るみに出たことで彼らが世間にさらされてばらばらになってしまっても、貧困の連鎖が断ち切れたのは良かったことでもあると思う。一概に可哀想という話ではない。

ゆりについては、子供は本物の親の元にいるのが幸せという一般的な考えにより、虐待親の元へ返されてしまう。
ラストシーン、信代に教わった数の数え方をしていたし、相変わらず家の外にいた。遠くを見ていたのは、また救いに来てくれるのを待っていたのだろう。
でも、親がゆりの捜索願を出していないのがワイドショーであやしまれていたから、きっと虐待のことも公になって、ゆりはどこかに保護されると信じている。そこまでは描かれないけれど。
だから、「帰ってきた娘さんに何を作ってあげたんですか?」「オムレツです」みたいなくだらないインタビューだけではなく、ジャーナリストたちは捜索願をなぜ出さなかったのかということも追いかけて行ってほしいのだ。それがジャーナリズムの役割だろう。
ある一面だけを報道するなという意味も含めて、この辺も監督からの問題提起かなとも思う。

『フロリダ・プロジェクト』や『わたしは、ダニエル・ブレイク』は主人公たちが社会保障についての不満をしっかりと口に出してぶちまけるが、本作にはそれがないのが日本的だと言われていた。
でも、ゆりが虐待親に返されてしまうということや、刑事の安藤サクラへの不躾な事情聴取シーンを見て、怒りをおぼえない人はいないだろう。
作り手の怒りも伝わってくる。直接、叫ばれなくても、どうにかしろよという怒りの気持ちはわくし、どうにかならないのかなと考えるきっかけにはなる。子供達の将来や貧困家庭について、いろいろと考えるきっかけにはなれば、それで十分だと思う。

映画を観た後で、是枝監督が安倍総理の祝意を辞退した話を改めて考えてみる。是枝監督もだと思うけれど、映画を観た私たちが求めているのは、監督への祝意などではない。もっと、違う、見える形で示してほしい。

それにしても、邦画はあまり観ないので正確かどうかわかりませんが、どうにもガラパゴス的な印象だったけれど、ちゃんと世界の時流に沿った映画が作られたというのは素晴らしいことだと思う。








『少年は残酷な弓を射る』のリン・ラムジー監督作品。

晴れやかな印象のタイトルですが、内容は晴れやかではない。でも、ラストまで観ると味わい深いというか、じわじわと感動してしまう。フランス版のタイトルも『Beautiful day』らしい。原題は『You Were Never Really Here(あなたがここにいたことはなかった)』。この虚無感も素晴らしい。

ホアキン・フェニックスが第70回カンヌ国際映画祭で主演男優賞を受賞、リン・ラムジーが脚本賞を受賞している。

原作小説もあるみたいだけれど、映画版は映像と音楽が凝っていて、映画ならではという仕上がりになっていそう。

音楽はジョニー・グリーンウッド。『ファントム・スレッド』でアカデミー賞にノミネートされていたけれど、個人的にはこちらの不穏さだったり不安感を掻き立てられる音のほうがジョニーっぽいかなと思った。ギターも使われていたが、エレクトロニックな劇伴もあって、レディオヘッドっぽくもあったと思う。

予告を観た感じだと、殺し屋が少女を救う、いわゆる『レオン』的な話かと思っていたけれどまったく違った。

以下、ネタバレです。













必要以上に説明がなく、主人公ジョーの素性は不明。途中で雇われの殺し屋(と自分で言うシーンがあったから殺し屋だと思っているけれど、公式サイトには“行方不明の捜索を行うスペシャリスト”と穏便な書き方になっている)だということがわかる。

過去についてもフラッシュバック的に何度か挿入されるし、それによって苦しめられているようだったのでPTSDだとは思ったけど、退役軍人であり元FBIで児童買春から子供達を救えないという過去を持つということはわからなかった。軍服を着ていたし、何か事件に巻き込まれたような少女たちが集められているシーンはあったけれど。公式サイトを見て初めて知った。
でも、思い出してみると、ジョーの背中には大きな傷があったし、あれも軍人時代につけたものだったのだろう。

また、もう一つの過去として、父からの虐待も受けていそうだった。これもトラウマになってしまっているようで、所々で思い出していた。

トンカチを武器(父からの虐待もトンカチによるものだったようだ)に、依頼によって人を殺しているようだったけれど、家にいる母との関係は良さそうだった。ただ、「一人で『サイコ』を観てたら怖くなっちゃった」と言う母に、「帰ってくるまで待ってたら一緒に観たのに」と言っていて、人を殺した後に人を殺す映画を観るのはどんな気持ちなのだろうと考えてしまった。それだけ、もう何も感じなくなってしまっているのか。『サイコ』のナイフで滅多刺しにするあのシーンを、ふざけているとはいえ再現していたのもどうかと思う。しかもあの音楽付き。

虐待されていたことの再現のようにビニール袋をかぶったり、寝っ転がってナイフを口の中に入れようとしていて、自殺願望があるのか、いつ死んでもいいと思っているのか、とにかくあまり精神状態が良好とは言えなさそうだった。表情も虚無感にあふれていた。

議員の娘ニーナを救出する依頼も虚無顔で受けていて、おそらく、いつもの通り、着実に仕事をこなすつもりだったのだと思う。
売春宿…というよりは館に潜入する襲撃シーンは、館の監視カメラを使った映像だったのがおもしろかった。普通なら、ばりばりにアクションを入れたシーンにしそうだし、熱のこもった見せ場になりそう。でも、この映画では、一歩離れた、冷めた場所から見守る形になる。しかし、監視カメラというのが逆にリアリティもあって、怖い仕上がりにもなっていた。

ジョーは、ニーナを無事に救出し、父親に引き渡そうとする。ちなみに、私はこの時点でも『レオン』だと思っていたから、ニーナが実は父親に虐待されていたのがわかり、ニーナを連れて逃げるのかと思っていた。
しかし、そんな話ではなく、引き渡すための部屋でテレビをつけて、父親である議員が自殺したというニュースを知ることになる。思っていたのと違う方向に話が進み始めたので驚いていると、侵入者にニーナがさらわれる。

部屋のドアがノックされて、警備員が立っていたが、すぐさま後ろから頭を撃ち抜かれる。
これ、警備員が映るのは一瞬なんですが、その前のシーンで、警備員がイヤホンを付けていてジョーとニーナに気づかないってシーンがあって、一瞬だけ映る人もイヤホンを付けているから警備員だとわかるんですね。説明がなくても、視覚的に印象づけるアイテムを使うというのがすごくうまい。大変なシーンなのに感心してしまった。

ニーナがさらわれた後、ジョーの仕事の仲介人など、周囲の人物が次々と殺される。ここも、コーヒーメーカーから湯気が出っぱなしになっていて、突然日常が途切れた感がうまく表れていた。ここもアイテムの使い方が上手で驚いた。

家に戻れば、やはり母も殺されている。
ニーナをさらいに部屋に突入してきた人らも警官の服で、その時には制服を着ているだけかと思ったけれど、ここでも、同じく制服で、これも後で知ったんですが、彼らは汚職警官とのことだった。

致命傷を負わせた警官に、ニーナはどこにいる?と問い詰めていた。そんなシーンは他の映画でもあって、普通なら聞くだけ聞いてとどめを刺すと思うんですが、この映画その後で、汚職警官の隣りにジョーが寝転んで、ラジオから流れる『I’ve Never Been to Me』を一緒に口ずさむ。
意外な場面で意外な名曲が流れるという演出に弱いというのは、先日観た『デッドプール2』でも実感したけれど、この場面でもやはり泣いてしまった。

彼に母親を殺されたのだから、本当は憎いはずだ。でも、汚職警官だって雇われだろうし、ジョーからしたら共感する部分もあったのだと思う。でも、とどめをささなかったのは情けをかけたわけではなく、もう少し待てば、自分が手を下さずとも死ぬのがわかっていたからだろう。
『I’ve Never Been to Me』は後悔が歌われているし、“自分というものが何もないのよ”という歌詞は、この映画のタイトルとも繋がってきそうだ。映画でも字幕がわざわざ出ていたし、二人の気持ちを代弁しているとも言えるのだろう。
ジョーと汚職警官は“敵”同士でもある。それでも、後悔と死が二人を繋いでいる。死にたがっているジョーと、死にゆく汚職警官が手まで繋いで美しいメロディーのこの曲を口ずさむというシチュエーションは、ちょっと他では見られない。
厭世的な雰囲気と、隣りに横たわる死の気配は耽美にも見えてしまう。

ジョーは、横抱きにした母の遺体と一緒に、湖の中へ入っていく。ビニールからはみ出した白髪がゆらゆらと水に漂っていて綺麗だし、石を重りにして一緒に沈んでいくジョーの姿もポエティックにも見えた。

最初のビニールをかぶるシーンも、ナイフを口の中に入れようとするシーンも美しかったが、このシーンも本当に美しい。それは死に魅了されているジョーの気持ちの表れなのかもしれないけれど、死の匂いが濃くなるほどに画面の作り方が綺麗になっていくのは危険なほどだった。
しかし、ジョーは水の中でニーナの幻を見て、重りを捨てて浮上する。

ジョーにとって、ニーナはどんな存在なのだろう。FBI時代の失敗を取り戻すためのチャンスなのかもしれない。また、ジョーが虐待を受けてきたから、この子にはそんな思いをしないでほしいと思っていたのかもしれない。単純に児童買春が許せないという思いももちろんあるだろう。
勝手ではあっても、自分がやり直せる手段ともとらえていたのではないかと思う。救えたら自分の中で何かが変わるのではないかと。

自分の姿とも重ねていそうだった。
ニーナのカウントダウンが印象的ですが、子供の頃のジョーも同じくカウントダウンをしているようだった。これはおそらく、つらいことが過ぎ去るまで、何も考えないようにひたすら数を数え続けるという行為だろう。ジョーがニーナのカウントダウンを聞いていたかはわからないけれど、その点でも彼らは似ていたと思う。
救った時に、ジョーの車に乗りながら外の景色を見ていたニーナと、バスに乗りながら外を見ていたジョーの姿も重なる。

前半のジョーは虚無顔だったけれど、後半は明らかに怒りが滲み出る表情になっていた。ニーナと出会って、目的のようなものができて、人間味が戻ってきている。後半は依頼ではなく(依頼してくる人物も皆殺しにされてるんですが)、自主的に行動していた。

ニーナがとらえられている屋敷の内部が本当に気持ち悪かった。
ドールハウス、少女趣味のピンクで統一されたふりふりのベッド、置かれたぬいぐるみ。作り込まれた、幸せそうな少女の部屋。しかしこれは、少女に対する優しさではなく、あのベッドで少女を抱くためのものだ。自分のために一生懸命整えている。ちょっと、ここまでおぞましいものを見たことがなくて吐き気がした。よくこんなことを思いつくなと驚いてしまった。

楽しげな音楽が流れ、一見幸せそうな屋敷の内部が映され、それと交互にトンカチを持って、屋敷を目指してずんずん歩いていくジョーの姿が映される。こちらは無音で、そのギャップがすごくて思わず笑ってしまうほどだった。ダークヒーロー物のようにも見える。

ジョーはもちろん議員を殺すために屋敷に潜入したんですが、議員はすでに首を切られて倒れている。たぶん、ジョーはこの事態こそ避けたかったのだ。ニーナの身は守れても、これでは駄目なのだ。

この次の、議員の屋敷の中でニーナを探すシーンも静かな迫力があった。ここのことを考えると、やはり、売春宿のシーンはわざと一歩引いていたのだと思う。(監督インタビューを読んでみたら、「アクションシーンを撮るのが苦手で」と言っていた…)

微かな音がして、屋敷内にいることはわかる。そのあとで大きな音が鳴って、それはニーナが立てた音かと思ったけれど、ジョニー・グリーンウッドによる劇伴だった。曲もキャストの一部だと監督がインタビューで話していたが、このシーンは特に重要な要素だったと思う。不吉さすら感じさせながら刻まれるリズムのような音は、ジョーの心臓の鼓動を思わせた。

結局、ニーナは、首を切り裂いたであろうナイフを横に置いて、血まみれの手のまま食事をしていた。「大丈夫よ」とは言っていたけれどとてもそうは見えない。取り乱すでもない姿は、大人びて見えて、それが逆に痛々しい。

ラストのダイナーで、やはりジョーの死にたがりは治っていなくて、顎に銃口を押し当てて引き金を引く。広がる血で大惨事になっているし、銃声も響いたけれど、店員や他の客はジョーになど眼を向けていない。返り血を浴びた店員も笑いながら伝票を渡していた。ここも、やはり死が美しく撮られている。血まみれでも、屋敷の内部のような気持ち悪さやおぞましさはまったくない。
これもジョーの頭の中のことだったので、やはり、ジョーが心惹かれる感じで死が描かれていたのかもしれない。
ニーナと一緒だったから思いとどまったところもあるのだろう。少女を救うことで自分が救われるというところまではいけていないと思うけれど、少なくとも死ぬのを思いとどまることはできていた。

ニーナが最後に「今日は天気がいいから(Beautiful day)出かけよう」と言う。
初めてニーナの感情が見えるシーンだ。天候に心を動かされるのは人間らしい感情だと思う。ジョーはニーナを救えなかったと思ったけれど、ちゃんと救えたのかもしれない。わずかでも希望が見えるラストだったと思う。

二人はダイナーにいながら、お気楽な会話をしている周囲の客とは無縁の場所にいた。『ファントム・スレッド』もそうだったけれど、やはりこの共犯関係(本作では文字通りの意味で共犯者だけれどそれだけではなく)と、二人だけが違う場所にいる感じがいい。片方がいなくなると、もう片方も駄目になってしまう濃い関係。

また、他のお気楽な客たちという日常をわざと出すことで、彼らの日常までの遠さを思い知らされる。彼らにとって、日常は白々しさすら感じる別世界のもので、彼らだけが遠く離れた場所まで来てしまったことが際立っている。うまい演出だと思う。
これは、ラジオから流れる曲を口ずさむシーンも同じである。普通ならあんなシーンにラジオは流さない。しかし、凄惨とも言える現場でも、ラジオを流すことで日常を割り込ませることができる。離れてしまった日常を慈しむような気持ちで一緒に口ずさんでいたのだろう。だからあんなに感傷的とも思えるシーンに仕上がっている。
ジョーにとって、日常とは手の届かない憧れのようなものなのだろう。まだわかっていないかもしれないけれど、たぶんニーナもこの先それを実感することになるのだと思う。



2016年公開『デッドプール』の続編。
監督は『ジョン・ウィック』、『アトミック・ブロンド』のデヴィッド・リーチ。

以下、ネタバレです。









R指定では『ローガン』の興行収入を抜いたというニュースが出てきていましたが、映画の最初から『ローガン』をライバル視していて笑ってしまった。これは、映画を先に観てから本当に抜いちゃったんだ!と思いたかった(日本では10日くらい公開が遅い)。
また、序盤からデッドプールの体がバラバラになって、「こういう映画ですよー、気をつけてねー」という注意喚起がなされていたように思う。
その他、Fワードなど下品な言葉も満載だし、ヘリコプターの羽根で体がバラバラになったりなどやりたい放題で、これはR指定じゃないと無理。

序盤から恋人のヴァネッサが殺されてしまう。悲しみに暮れたところでオープニングに入るけれど、それが明らかに007のパロディ。特に『スカイフォール』か『スペクター』あたりの悲哀に満ちた感じです。でも中に『フラッシュダンス』のパロディも入っていたりともう滅茶苦茶。でも、ウェイド(デッドプール)本人は本当に悲しんでいる。

自暴自棄になっているところを、前作にも出てきたコロッサスに助けられて“恵まれし子らの学園”へ。ここが出てくるということで、本作は思った以上にX-MEN要素が強かった。
前作では予算がなくて(と劇中で言われている)、コロッサスとネガソニック・ティーンエイジ・ウォーヘッドしかミュータントは出てこなかったんですが、今回は前作のヒットを受けて、デッドプールが「もっとちゃんとしたX-MENを出せよー」と言っている後ろにおなじみの面々が一瞬映る!
私はビーストしかわからなかったけれど、クイックシルバーやチャールズ、サイクロプスやストームなどもいたらしい。一時停止したいです。このために集まったというわけではなく、合成とのことだけれど、本作では予算があるのが暗に示される。

別の学園でミュータントの子供ラッセルが暴れているのを止めに行くんですが、そこで実は虐待されていたとわかって、デッドプールが汚れ役を買って出て学園の職員を殺し、ラッセルとともに収容所に連れて行かれる。
もうこのあたりで普通のいい奴というか、X-MENですよね。口は悪いけど。

ラッセルは収容所の中でもウェイドを慕うけれど、ウェイドは面倒がって遠ざけようとする。そんな中でケーブルという体が半分機械の強面の男がやってきて、ラッセルを狙う。今回のヴィランはケーブルなのかと思ったけれど、彼も彼なりに考えるところのありそうな根っからの悪人とはいえなさそうな人物だった。それはまるでサノスのような。
ちなみにサノスもケーブルも演じているのはジョシュ・ブローリン。タイムリーだしサノスネタはあるだろうとは思っていたけれど、「黙れ、サノス!」というセリフが出てきたときには笑ってしまった。

デッドプールは、ヴァネッサが遺した「子供があなたを成長させる」という言葉を信じ、ラッセルを救うためにメンバー集めをする。
ビル・スカルスガルド演じる強酸性のゲロを吐くツァイトガイストは制御するためなのか口に奇妙なマスクを付けていて外見がとても恰好良かったけれど大した活躍もなくて残念。
体が透明なバニッシャーは死ぬ直前に一瞬だけ姿が映って、あれ?ブラット・ピット?と思ったら、エンドロールに名前が出ていた。ご本人でした。
また、カメオ関連だとケーブルが最初に攻めてきたときに、収容所の監視係の二人が「ウェットティッシュでケツを拭いてから乾いたティッシュで拭くときれいになる」とかどうでもいいことを話しているんですが、これがマット・デイモンとアラン・テュディックだとか。気づかないって。マット・デイモンは『マイティ・ソー バトルロイヤル』に続き、クソカメオといった感じ。

バニッシャーもツァイトガイストも他のメンバーも全く役に立っていなかったけれど、強運というスキルを持つドミノは最高でした。御都合主義もパワーだからってことで納得できるし、ストーリーが止まることなく進む。ここがクライマックスというわけではないから、そこまで時間を割くことなく、テンポも良くなる。
そして、何よりドミノが恰好いい。

ラッセル奪還作戦は失敗するけれど、ケーブルはなぜラッセルを狙うかの事情を話しにやってくる。
未来のラッセルに家族を殺されたために、ラッセルが学園長を殺す前にラッセル自身を殺してしまおうとタイムスリップしてきたケーブルと、子供なんだから学園長を殺さないよう説得すれば大丈夫だ殺すのはやめろというデッドプールと、意見は異なっても学園長殺害阻止という目的は同じなので組むことになる。
ここでもデッドプールが意外にまともでいい奴だった。本当にX-MENである。亡くなったヴァネッサのおかげかもしれない。
ここからのジョシュ・ブローリンがとても恰好良かったです。

これでケーブルはヴィランではなくなった。ラッセルが解放したミュータント、ジャガーノート(『X-MEN:ファイナルディシジョン』に登場したキャラ。やっぱりX-MEN要素が強い)ももしかしたらラッセルを食うかなと思ったら、あくまでも子分に徹していた。学園長も人間のままで、この人が何かに変身でもしたらヴィランになるかなとも思うけれど弱い。ちなみに学園長を演じたのがエディ・マーサン。今までどちらかというと良い人や気弱な人の役が多かったと思うので意外だった。でもちゃんと憎たらしいし、やはりうまいのだと思う。
大人のラッセルがヴィランなのかもしれないけれど、別に未来から攻めてくるわけでもない。現代の子供ラッセルも凶悪というにはまだほど遠い。

一概にヴィランを倒すというわけではないのにちゃんとヒーローものになっているのは、ケーブルがラッセルを狙って放った銃弾を、デッドプールが身を挺して受け止めて代わりに撃たれるというシーンがあるからです。
ちゃんと子供を守った。しかもそのシーンがスローモーションで、しかも流れる曲が、ミュージカル『アニー』の『Tomorrow』。この場面でこの曲という組み合わせは意外すぎたし、本当にずるい。卑怯とも言える。しかも歌っているのがミュージカルでアニーを演じたアリシア・モートンというのもずるい(予算…)。
アニーもラッセルと同じ、孤児である。“明日になれば太陽は昇る”と明るい未来を信じるような歌詞で、それは現在の状況に絶望しているラッセルに、デッドプールというかウェイドが伝えたいことなのだろう。
こんなの泣いてしまうしかない。

本編中でもデッドプールがカメラに向かって「ミュージックスタート」と言えば曲が流れ出すし、「歌い出しが似てる。♪雪だるま作ろうはパクリだ」と話すシーンもある。前作もだが、音楽の力が最大限に発揮されている。

ウェイドはラッセルの代わりに撃たれて死んでしまう(なかなか死なないお約束ギャグもあり)。ケーブルはタイムリープを一度だけできるとのことだったので、きっと、未来に帰るのをあきらめてここで使うのだろうなとは思った。
しかし、奪ったコイン、ヴァネッサとの思い出の品をここで使うとは思わず、伏線がちゃんと回収された気持ちよさがあった。

また、映画の最初から仲間になりたいなりたいと言っていたインド人のタクシー運転手のドーピンダーが、逃げた学園長をはねる。これも、しっかりとした伏線回収だと思う。ラッセルに殺させるわけにはいかないし、デッドプールももう殺さないとヴァネッサに誓った。でも学園長は逃げ出そうとしている。
学園長は普通の人間だから、普通の人間であるドーピンダーでも対抗できるのである。ちゃんと活躍の場が与えられた。

最後、みんなが横並びで歩いていたけれど、人種も性別の様々、服装だって統一されていない。それでも仲間であり、ファミリーなのだ。
序盤で、デッドプールが本作はファミリームービーだと言っていてまたまたあと信じられなかったけれど、本当にそうだった。R指定ですが。
デッドプールなのに気持ち悪いくらいよくできている。誰にでもおすすめできるし、みんなで観よう!というキャッチコピーも納得した。R指定だけれど。

かといって、R指定をとってしまったら、デッドプールの良さがなくなってしまう。
良い話であることは間違いないけれど、良い話という大枠の中でR指定をやるわけではなく、R指定は全力でR指定、なのに見終わると良い話だった…となってしまうのがどういった作りなのかちょっとよくわからない。よくできているとしか言いようがない。

エンドロール後では、ネガソニックがケーブルのタイムリープに使う機器を直していた。なので、ケーブルも未来に帰ったのかな。その映像はなかったけれど、ヴァネッサは救っていた。次作(あるかはわからないけどヒットしたみたいだしありそう)で登場できるがどうなるか。

また、ライアン・レイノルズギャグの過去作へ出張していろいろ改変するという自虐ギャグも。
なんかもう、デッドプールだけでなく、ライアン・レイノルズ自体も好きになってしまった。キャラクターや演じている俳優を好きになる映画は良い映画。





アカデミー賞作品賞、シアーシャ・ローナンが主演女優賞、ローリー・メトカーフが助演女優賞、グレタ・ガーウィグが監督賞、脚本賞にノミネートされた。
ゴールデン・グローブ賞では作品賞と主演女優賞を受賞しました。他、様々な賞にノミネートされた。

グレタ・ガーウィグの自伝的な話とのこと。『フランシス・ハ』のスマッシュヒット後に出演依頼などが多数来るかと思ったら案外暇でその間に書いた脚本らしい。

以下、ネタバレです。










この映画の舞台が何年なのかはクレジットなど出ないんですが、彼氏の祖母の家にレーガンのポスターが貼ってあって、この映画も『エンジェルス・イン・アメリカ』や『アイ,トーニャ』のように80年代の話なのかと思った。しかし、ハッピーニューイヤーの場面で2003年のメガネをかけていたので違いました。
けれど、2003年なのに、いまだにレーガンのポスターを貼っているということでヤバさは際立った。レーガンを何年も引きずっているということで、超保守の祖母です。

レディ・バードというのは本名でもあだ名でもなく、自らこう呼んでと決めた名前である。それだけでもだいぶ痛々しい。
サクラメントという町がどの程度の田舎なのかはわからないけれど、その場所が嫌で、東海岸に逃げ出したくてじたばたしている女子高生の話。

グレタ・ガーウィグ脚本・主演の『フランシス・ハ』のフランシスも痛々しかったけど、本作も似ていたと思う。見栄を張るための嘘と、結局それに追い詰められる自分と。

あと、やはり男よりも女同士の友情のほうが信じられるあたりとか。ただ、『フランシス・ハ』ほど、友情面に重きは置かれていなかった。変な姿勢で二人でおかし食べながらオナニー談義するところとか、二人とも失恋して車の中で一緒に泣くところとか、結局男から離れてプロムでお友達と踊るところとか好きだったけど。このプロムの時の絶妙にセンスが悪いドレス、最高でした。自然体のほうがおしゃれで、気合を入れようとすると空回りする。
ちなみにこの友達役のビーニー・フェルドスタインはジョナ・ヒルの妹さんらしい。似てる!

友情面や恋愛面より、親子というか、母娘面に重きが置かれていた。脚本も最初は『Mothers and Daughters』というタイトルだったらしい。
この映画を観る前は、なんとなく自分にも思い当たる節のある映画になるのかなと思っていた。自分の青春時代を思い出してしまうかと思っていた。
18歳になったからと言いながら煙草とプレイボーイを買いに行くあたりでは、20歳になった3日目から煙草を吸い始めたことを思い出したりはしたけれど、母とあそこまで険悪になったことがないというか、家族とあそこまで密な関係になったことがないので、そのあたりでは自分の映画ではなかったかなと思ってしまった。

レディ・バードがサクラメントを恨みながらも小論文に事細かく書いてシスターに褒められるシーンで、「“注意を払う”と“愛情”は同じじゃないかしら」と言われていた。それはそのまま、レディ・バードと母の関係にも当てはまると思う。激しく衝突をするシーンがいくつも出てきて、最後のほうでは何日間も口を利かないというシーンもあった。
私自身は母と喧嘩をしたことがないわけではないけれど、そこまで衝突をしたことがなかった。家を出て随分経ってるから忘れてしまったわけではない。

母や家族との関係性がこの映画と私とで明らかにかけ離れているため、私の映画とは思えなかった。
もう少し、友情面や彼氏たちとの関係や恋愛面の痛々しさがフォーカスされていたら違ったかもしれない。

『勝手にふるえてろ』のヨシカの痛々しさは本当に私に似ていて、個人的すぎて感想が書けないくらいだった。『レディ・バード』についても同じような感じになるのではないかと思ったけれど、そこまでは抉られるような映画ではなかった。もっと抉ってきてほしかった。他人事になってしまった。

別に映画なんだし他人事でいいんだけど、キャッチコピーで“これは、あなたの映画”というのもあったし、そのつもりで臨んでしまったのだ。自分と似ている部分がないわけではなくても、家族や母娘関係が主題のようになっていたので、その面では入り込めなかった。映画が悪いわけではなく、私の映画に対する姿勢が悪かった。
それならそうと最初から言ってほしかった。別に親子ものが苦手というわけではない。どうせなら、グザヴィエ・ドラン作品っぽい気持ちで観たかった。

主演はシアーシャ・ローナン。髪が赤だかピンクだかに染めていて、でも根本に地の色が出てきてしまっていて、綺麗とは言えない感じになっていたのが逆におしゃれ。紫のネイルも時々剥げていてリアルだった。服装もどれもこれも可愛かった。

一人目の彼氏がルーカス・ヘッジズ。『マンチェスター・バイ・ザ・シー』でアカデミー賞助演男優賞にもノミネートされていた。『スリー・ビルボード』にも出ていたし、作品のチョイスが素晴らしい。
彼が演じるダニーの祖母がレーガンのポスターを貼っている超保守です。しかも家の感じから、金持ちだし、おそらく一族を牛耳っていそうだし、逆らえないのだろう。家族も敬虔なクリスチャンなのだと思う。しかし、ダニーはゲイだった。こんな超保守がいる中でゲイなのは辛かろうと思う。
たぶんそれがわかっているレディ・バードも、彼を責めてはいなかった。
ダニーは、本当はレディ・バードのことを好きになれたらいいのにと思っていただろう。気持ちには答えようとしてくれていたのだと思う。それでも、恋愛対象が同性であることは変えられなかった。仕方ないのだ。彼の将来に幸あれ。
どちらかというと、この彼との関係に焦点を当ててほしかった気もする。でもそうしたら『わたしはロランス』みたいになるだけかも。

二人目の彼氏役カイル役にティモシー・シャラメ。
ベースを弾いている姿からすでにかっこいいけれど、常に気怠げ、笑わない。クール。しかし話す内容は、携帯電話のGPSで政府に管理されてるとか、煙草は自分で巻くとかわりといけすかないことばかり。色気のあるイケメンだけど、高校生なのにすでに6人かそれ以上(カウントしてないと言っていた)と経験を持っているという…。レディ・バードはそれを知らずにその人と初体験をしてしまう。

彼氏役の二人は旬の俳優を揃えたなという感じ。ミーハー目線で見るとどちらも出てきているのは嬉しい。できれば対立するシーンなどもあるとよかったけど別々です。旬ゆえか。
ルーカス・ヘッジズは誠実さも見えるいい役だったけど、ティモシー・シャラメは本作ではほとんどギャグ要員ですね。