『ビューティフル・デイ』



『少年は残酷な弓を射る』のリン・ラムジー監督作品。

晴れやかな印象のタイトルですが、内容は晴れやかではない。でも、ラストまで観ると味わい深いというか、じわじわと感動してしまう。フランス版のタイトルも『Beautiful day』らしい。原題は『You Were Never Really Here(あなたがここにいたことはなかった)』。この虚無感も素晴らしい。

ホアキン・フェニックスが第70回カンヌ国際映画祭で主演男優賞を受賞、リン・ラムジーが脚本賞を受賞している。

原作小説もあるみたいだけれど、映画版は映像と音楽が凝っていて、映画ならではという仕上がりになっていそう。

音楽はジョニー・グリーンウッド。『ファントム・スレッド』でアカデミー賞にノミネートされていたけれど、個人的にはこちらの不穏さだったり不安感を掻き立てられる音のほうがジョニーっぽいかなと思った。ギターも使われていたが、エレクトロニックな劇伴もあって、レディオヘッドっぽくもあったと思う。

予告を観た感じだと、殺し屋が少女を救う、いわゆる『レオン』的な話かと思っていたけれどまったく違った。

以下、ネタバレです。













必要以上に説明がなく、主人公ジョーの素性は不明。途中で雇われの殺し屋(と自分で言うシーンがあったから殺し屋だと思っているけれど、公式サイトには“行方不明の捜索を行うスペシャリスト”と穏便な書き方になっている)だということがわかる。

過去についてもフラッシュバック的に何度か挿入されるし、それによって苦しめられているようだったのでPTSDだとは思ったけど、退役軍人であり元FBIで児童買春から子供達を救えないという過去を持つということはわからなかった。軍服を着ていたし、何か事件に巻き込まれたような少女たちが集められているシーンはあったけれど。公式サイトを見て初めて知った。
でも、思い出してみると、ジョーの背中には大きな傷があったし、あれも軍人時代につけたものだったのだろう。

また、もう一つの過去として、父からの虐待も受けていそうだった。これもトラウマになってしまっているようで、所々で思い出していた。

トンカチを武器(父からの虐待もトンカチによるものだったようだ)に、依頼によって人を殺しているようだったけれど、家にいる母との関係は良さそうだった。ただ、「一人で『サイコ』を観てたら怖くなっちゃった」と言う母に、「帰ってくるまで待ってたら一緒に観たのに」と言っていて、人を殺した後に人を殺す映画を観るのはどんな気持ちなのだろうと考えてしまった。それだけ、もう何も感じなくなってしまっているのか。『サイコ』のナイフで滅多刺しにするあのシーンを、ふざけているとはいえ再現していたのもどうかと思う。しかもあの音楽付き。

虐待されていたことの再現のようにビニール袋をかぶったり、寝っ転がってナイフを口の中に入れようとしていて、自殺願望があるのか、いつ死んでもいいと思っているのか、とにかくあまり精神状態が良好とは言えなさそうだった。表情も虚無感にあふれていた。

議員の娘ニーナを救出する依頼も虚無顔で受けていて、おそらく、いつもの通り、着実に仕事をこなすつもりだったのだと思う。
売春宿…というよりは館に潜入する襲撃シーンは、館の監視カメラを使った映像だったのがおもしろかった。普通なら、ばりばりにアクションを入れたシーンにしそうだし、熱のこもった見せ場になりそう。でも、この映画では、一歩離れた、冷めた場所から見守る形になる。しかし、監視カメラというのが逆にリアリティもあって、怖い仕上がりにもなっていた。

ジョーは、ニーナを無事に救出し、父親に引き渡そうとする。ちなみに、私はこの時点でも『レオン』だと思っていたから、ニーナが実は父親に虐待されていたのがわかり、ニーナを連れて逃げるのかと思っていた。
しかし、そんな話ではなく、引き渡すための部屋でテレビをつけて、父親である議員が自殺したというニュースを知ることになる。思っていたのと違う方向に話が進み始めたので驚いていると、侵入者にニーナがさらわれる。

部屋のドアがノックされて、警備員が立っていたが、すぐさま後ろから頭を撃ち抜かれる。
これ、警備員が映るのは一瞬なんですが、その前のシーンで、警備員がイヤホンを付けていてジョーとニーナに気づかないってシーンがあって、一瞬だけ映る人もイヤホンを付けているから警備員だとわかるんですね。説明がなくても、視覚的に印象づけるアイテムを使うというのがすごくうまい。大変なシーンなのに感心してしまった。

ニーナがさらわれた後、ジョーの仕事の仲介人など、周囲の人物が次々と殺される。ここも、コーヒーメーカーから湯気が出っぱなしになっていて、突然日常が途切れた感がうまく表れていた。ここもアイテムの使い方が上手で驚いた。

家に戻れば、やはり母も殺されている。
ニーナをさらいに部屋に突入してきた人らも警官の服で、その時には制服を着ているだけかと思ったけれど、ここでも、同じく制服で、これも後で知ったんですが、彼らは汚職警官とのことだった。

致命傷を負わせた警官に、ニーナはどこにいる?と問い詰めていた。そんなシーンは他の映画でもあって、普通なら聞くだけ聞いてとどめを刺すと思うんですが、この映画その後で、汚職警官の隣りにジョーが寝転んで、ラジオから流れる『I’ve Never Been to Me』を一緒に口ずさむ。
意外な場面で意外な名曲が流れるという演出に弱いというのは、先日観た『デッドプール2』でも実感したけれど、この場面でもやはり泣いてしまった。

彼に母親を殺されたのだから、本当は憎いはずだ。でも、汚職警官だって雇われだろうし、ジョーからしたら共感する部分もあったのだと思う。でも、とどめをささなかったのは情けをかけたわけではなく、もう少し待てば、自分が手を下さずとも死ぬのがわかっていたからだろう。
『I’ve Never Been to Me』は後悔が歌われているし、“自分というものが何もないのよ”という歌詞は、この映画のタイトルとも繋がってきそうだ。映画でも字幕がわざわざ出ていたし、二人の気持ちを代弁しているとも言えるのだろう。
ジョーと汚職警官は“敵”同士でもある。それでも、後悔と死が二人を繋いでいる。死にたがっているジョーと、死にゆく汚職警官が手まで繋いで美しいメロディーのこの曲を口ずさむというシチュエーションは、ちょっと他では見られない。
厭世的な雰囲気と、隣りに横たわる死の気配は耽美にも見えてしまう。

ジョーは、横抱きにした母の遺体と一緒に、湖の中へ入っていく。ビニールからはみ出した白髪がゆらゆらと水に漂っていて綺麗だし、石を重りにして一緒に沈んでいくジョーの姿もポエティックにも見えた。

最初のビニールをかぶるシーンも、ナイフを口の中に入れようとするシーンも美しかったが、このシーンも本当に美しい。それは死に魅了されているジョーの気持ちの表れなのかもしれないけれど、死の匂いが濃くなるほどに画面の作り方が綺麗になっていくのは危険なほどだった。
しかし、ジョーは水の中でニーナの幻を見て、重りを捨てて浮上する。

ジョーにとって、ニーナはどんな存在なのだろう。FBI時代の失敗を取り戻すためのチャンスなのかもしれない。また、ジョーが虐待を受けてきたから、この子にはそんな思いをしないでほしいと思っていたのかもしれない。単純に児童買春が許せないという思いももちろんあるだろう。
勝手ではあっても、自分がやり直せる手段ともとらえていたのではないかと思う。救えたら自分の中で何かが変わるのではないかと。

自分の姿とも重ねていそうだった。
ニーナのカウントダウンが印象的ですが、子供の頃のジョーも同じくカウントダウンをしているようだった。これはおそらく、つらいことが過ぎ去るまで、何も考えないようにひたすら数を数え続けるという行為だろう。ジョーがニーナのカウントダウンを聞いていたかはわからないけれど、その点でも彼らは似ていたと思う。
救った時に、ジョーの車に乗りながら外の景色を見ていたニーナと、バスに乗りながら外を見ていたジョーの姿も重なる。

前半のジョーは虚無顔だったけれど、後半は明らかに怒りが滲み出る表情になっていた。ニーナと出会って、目的のようなものができて、人間味が戻ってきている。後半は依頼ではなく(依頼してくる人物も皆殺しにされてるんですが)、自主的に行動していた。

ニーナがとらえられている屋敷の内部が本当に気持ち悪かった。
ドールハウス、少女趣味のピンクで統一されたふりふりのベッド、置かれたぬいぐるみ。作り込まれた、幸せそうな少女の部屋。しかしこれは、少女に対する優しさではなく、あのベッドで少女を抱くためのものだ。自分のために一生懸命整えている。ちょっと、ここまでおぞましいものを見たことがなくて吐き気がした。よくこんなことを思いつくなと驚いてしまった。

楽しげな音楽が流れ、一見幸せそうな屋敷の内部が映され、それと交互にトンカチを持って、屋敷を目指してずんずん歩いていくジョーの姿が映される。こちらは無音で、そのギャップがすごくて思わず笑ってしまうほどだった。ダークヒーロー物のようにも見える。

ジョーはもちろん議員を殺すために屋敷に潜入したんですが、議員はすでに首を切られて倒れている。たぶん、ジョーはこの事態こそ避けたかったのだ。ニーナの身は守れても、これでは駄目なのだ。

この次の、議員の屋敷の中でニーナを探すシーンも静かな迫力があった。ここのことを考えると、やはり、売春宿のシーンはわざと一歩引いていたのだと思う。(監督インタビューを読んでみたら、「アクションシーンを撮るのが苦手で」と言っていた…)

微かな音がして、屋敷内にいることはわかる。そのあとで大きな音が鳴って、それはニーナが立てた音かと思ったけれど、ジョニー・グリーンウッドによる劇伴だった。曲もキャストの一部だと監督がインタビューで話していたが、このシーンは特に重要な要素だったと思う。不吉さすら感じさせながら刻まれるリズムのような音は、ジョーの心臓の鼓動を思わせた。

結局、ニーナは、首を切り裂いたであろうナイフを横に置いて、血まみれの手のまま食事をしていた。「大丈夫よ」とは言っていたけれどとてもそうは見えない。取り乱すでもない姿は、大人びて見えて、それが逆に痛々しい。

ラストのダイナーで、やはりジョーの死にたがりは治っていなくて、顎に銃口を押し当てて引き金を引く。広がる血で大惨事になっているし、銃声も響いたけれど、店員や他の客はジョーになど眼を向けていない。返り血を浴びた店員も笑いながら伝票を渡していた。ここも、やはり死が美しく撮られている。血まみれでも、屋敷の内部のような気持ち悪さやおぞましさはまったくない。
これもジョーの頭の中のことだったので、やはり、ジョーが心惹かれる感じで死が描かれていたのかもしれない。
ニーナと一緒だったから思いとどまったところもあるのだろう。少女を救うことで自分が救われるというところまではいけていないと思うけれど、少なくとも死ぬのを思いとどまることはできていた。

ニーナが最後に「今日は天気がいいから(Beautiful day)出かけよう」と言う。
初めてニーナの感情が見えるシーンだ。天候に心を動かされるのは人間らしい感情だと思う。ジョーはニーナを救えなかったと思ったけれど、ちゃんと救えたのかもしれない。わずかでも希望が見えるラストだったと思う。

二人はダイナーにいながら、お気楽な会話をしている周囲の客とは無縁の場所にいた。『ファントム・スレッド』もそうだったけれど、やはりこの共犯関係(本作では文字通りの意味で共犯者だけれどそれだけではなく)と、二人だけが違う場所にいる感じがいい。片方がいなくなると、もう片方も駄目になってしまう濃い関係。

また、他のお気楽な客たちという日常をわざと出すことで、彼らの日常までの遠さを思い知らされる。彼らにとって、日常は白々しさすら感じる別世界のもので、彼らだけが遠く離れた場所まで来てしまったことが際立っている。うまい演出だと思う。
これは、ラジオから流れる曲を口ずさむシーンも同じである。普通ならあんなシーンにラジオは流さない。しかし、凄惨とも言える現場でも、ラジオを流すことで日常を割り込ませることができる。離れてしまった日常を慈しむような気持ちで一緒に口ずさんでいたのだろう。だからあんなに感傷的とも思えるシーンに仕上がっている。
ジョーにとって、日常とは手の届かない憧れのようなものなのだろう。まだわかっていないかもしれないけれど、たぶんニーナもこの先それを実感することになるのだと思う。

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