『万引き家族』



カンヌ国際映画祭パルムドール受賞作品。
是枝裕和監督はこれまでも何度かカンヌでノミネートされていたり、他の賞を取っていたのでやっとという感じです。

以下、ネタバレです。











家族ものであり、子供達がいきいきと撮られているのは今までの是枝作品と同じだけれど、貧困がテーマなのと、子供の虐待が出てくるのでどうしても現実の事件を思い出してしまうのがつらい。
また、『わたしは、ダニエル・ブレイク』と、最近多いホワイトトラッシュものの中でも特に『フロリダ・プロジェクト』はあわせて観ておきたい案件だと思った。

安藤サクラ演じる信代とリリー・フランキー演じる治が夫婦で、松岡茉優演じる亜紀と祥太が子供で、おばあちゃん(樹木希林)がいて、虐待されている子供を拾ってきて家族にする話なのかと最初は思っていた。
けれど、祥太は治のことをお父さんとは呼びにくいようで、本当の子供ではないようだし、亜紀も信代と腹違いの…と説明されていたから姉妹かと思ったら、実際には、おばあちゃんの元夫の孫だった。
また、信代と治は昔に人を埋めたことがあることがほのめかされるなど、家族の真実が映画が進むにつれて徐々に明らかになっていく構成。

“家族”の一人一人は、辛い人生を送っているけれど、みんなが揃った時にはわーわーぎゃーぎゃー言いながらも、結局楽しそうだし、幸せそうだった。
鍋には肉が少なく、白菜と麩で傘増ししてある。それでもみんなで囲めば楽しい。第三のビールだって構わない。
隅田川の花火の日、平家だしもちろん彼らの家からは花火など見えない。それでも、音を鑑賞するためにみんな縁側に出てくる。「見えないじゃないのよー」などと言いながらも楽しそうだった。

花火と海に行くシーンを頂点として、そこから一気に下っていく。海でおばあちゃんが「こんなのいつまでも続くわけないのもわかってるでしょ?」と悟ったようなことを言って、その後、おばあちゃんが亡くなり、綻びが出る。
貧困だと葬式もあげられなければ、火葬することもできないというところまで考えが及ばなかった。弔うことも、一定以上の金がないとできないのだ。
家の軒下に埋めていたが、彼らだって金があれば葬式をあげたかったのだ。仕方がない。
それなのに、あとからワイドショーでは、“家族”に殺害の疑いがかけられるし、血が繋がってもいないのになんの目的で一緒に暮らしていたのか?と面白半分に報道されることになる。私たちは映画の前半で彼らの家族以上に家族らしい面を見ているから怒りがわくけれど、普通ならば、テレビやニュースで見る面でしか知ることができない。

彼ら一人一人の素性について、決定的なネタばらしは逮捕されてから、警察の事情聴取によって、映画を観ている側にも明らかにされる。
結局、信代と治も夫婦じゃなかったし、二人の間に子供もいないので、信代とおばあちゃん以外、誰一人として血が繋がっていなかった(この二人はおそらく親子なのだと思うけれど)。

事情聴取シーンは、カメラが一人一人を正面からとらえるんですが、安藤サクラがうまい。「子供ができないから他の家の子供をさらったんじゃないか?うらやましかったのか?」という刑事の問いには、「恨んでいたかも」と言っていた。怒りを爆発はさせないが、静かに確実に怒っていた。でも、何を言っても不利なこともわかってるし、自分が正しくないことをしたのもわかってるから何も言い返せない。
「子供たちに何と呼ばれてました?」という問いにも答えられない。その前に「呼び方なんてなんでもいい。大したことじゃない」と男の子に話すシーンが出てきていた。大したことじゃなくても公の場ではどうにもならない。

ちなみに、「子供といるところ、見ちゃったんだよね」と同僚に言われたときに、「言ったら殺す」と返したときの、ああ、本当に殺すんだろうなという冷めた目も素晴らしかった。少し前までの冗談を言っていた顔とは違っていた。安藤サクラのうまさを改めて実感した。しかも、実際に人殺しをしていたことが後でわかってぞくっとした。
松岡茉優も可愛い女優さんなんですが、感情が死んだ顔がうまい。
リリー・フランキーと樹木希林もうまいですが、いつも通りの自然な演技とも言えない演技。

映画の前半を観ていたら、治と信代だって心で繋がってるし、亜紀だって事情があっておばあちゃんが引き取ったのだろうし、祥太もパチンコ屋に置き去りにされていたら死んでいたかもしれないし、ゆりだって治たちが拾わなかったら虐待死していたかもしれない。血が繋がっていなくても、彼らは一緒にいることで、絆も芽生えていたし、幸せだと思える瞬間もあったはずだ。少なくとも、ばらばらに生きていたら、幸せな瞬間すらなかったと思う。
映画を観終わった後でポスターを見ると、良かった頃、幸せな瞬間は確かにあったのだと思ってまた泣いてしまう。

柄本明が演じる駄菓子屋の主人が、祥太に「妹には万引きをやらせるな」と言うのも印象的だった。彼は祥太が万引きしていたのもずっと知っていて、見て見ぬふりをしていたのだ。
正しい方向に導いてあげられる大人の存在も必要なのだ。
駄菓子屋の主人は『フロリダ・プロジェクト』におけるウィレム・デフォーが演じていたモーテルの管理人のようにも思えた。

信代が祥太に両親のヒントを与えていたのは、もう私たちとは縁を切りなさいということだと思うし、治が祥太を泊まらせたのも最後のわがままだろう。
祥太の乗るバスを走って追いかけていたし、祥太も振り返って見ていたが、万引きよりも勉強をさせてあげたほうがいいことも、勉強させるなら自分から離れたほうがいいことも、たぶんわかっていたのだと思う。
だって、学校も行かず、万引きをして暮らしていくという生活を続けていたら、ろくな大人になれない。自分の二の舞だ。
治が“祥太”という自分の本名をつけたのは、自分の人生はろくでもないものになってしまったけれど、やり直したいという意味も含まれていたのではないかと思う。祥太は自分の代理というような。
事件が明るみに出たことで彼らが世間にさらされてばらばらになってしまっても、貧困の連鎖が断ち切れたのは良かったことでもあると思う。一概に可哀想という話ではない。

ゆりについては、子供は本物の親の元にいるのが幸せという一般的な考えにより、虐待親の元へ返されてしまう。
ラストシーン、信代に教わった数の数え方をしていたし、相変わらず家の外にいた。遠くを見ていたのは、また救いに来てくれるのを待っていたのだろう。
でも、親がゆりの捜索願を出していないのがワイドショーであやしまれていたから、きっと虐待のことも公になって、ゆりはどこかに保護されると信じている。そこまでは描かれないけれど。
だから、「帰ってきた娘さんに何を作ってあげたんですか?」「オムレツです」みたいなくだらないインタビューだけではなく、ジャーナリストたちは捜索願をなぜ出さなかったのかということも追いかけて行ってほしいのだ。それがジャーナリズムの役割だろう。
ある一面だけを報道するなという意味も含めて、この辺も監督からの問題提起かなとも思う。

『フロリダ・プロジェクト』や『わたしは、ダニエル・ブレイク』は主人公たちが社会保障についての不満をしっかりと口に出してぶちまけるが、本作にはそれがないのが日本的だと言われていた。
でも、ゆりが虐待親に返されてしまうということや、刑事の安藤サクラへの不躾な事情聴取シーンを見て、怒りをおぼえない人はいないだろう。
作り手の怒りも伝わってくる。直接、叫ばれなくても、どうにかしろよという怒りの気持ちはわくし、どうにかならないのかなと考えるきっかけにはなる。子供達の将来や貧困家庭について、いろいろと考えるきっかけにはなれば、それで十分だと思う。

映画を観た後で、是枝監督が安倍総理の祝意を辞退した話を改めて考えてみる。是枝監督もだと思うけれど、映画を観た私たちが求めているのは、監督への祝意などではない。もっと、違う、見える形で示してほしい。

それにしても、邦画はあまり観ないので正確かどうかわかりませんが、どうにもガラパゴス的な印象だったけれど、ちゃんと世界の時流に沿った映画が作られたというのは素晴らしいことだと思う。






0 comments:

Post a Comment