Nov 26
イアン・マキューアン『未成年』が原作。日本ではまだ公開が決まっていないけれど、イアン・マキューアンなのと、主演がエマ・トンプソンなのと、A24なので公開もしくはソフト化はされるのではないかと思う。
監督は1967年から様々な劇場のディレクターをしているリチャード・エアー。
裁判官のフィオナ(エマ・トンプソン)は仕事は順調だったが夫との仲がうまくいっていない。そんな中で白血病で輸血しないと死んでしまうが宗教上の理由により輸血ができない少年、アダムと知り合う。
このアダム役が『ダンケルク』のフィン・ホワイトヘッドだったので観ました。
以下、ネタバレです。
日本でもエホバの証人の信者が輸血を拒否する事件がありましたが、本作ではアダムの両親が敬虔な信者であり、アダムの意思を確かめるために、フィオナはアダムが入院している病院へ向かう。
明日までに輸血をしないと死んでしまうということで、アダムは色が真っ白で体に管がたくさん繋がっている。両親だけでなく彼自身も敬虔な信者なので、ここまで自分の意思で輸血を拒んでいた。
白血病になるまでのアダムのことはわかりませんが、両親の教育のせいか、自分の性格なのか、純粋で悪く言えば世間知らず。世間知らずというか、世界を知らない。浮世離れしている。肌の色だけでなく、心の中も真っ白のようで、17歳という年齢よりも子供っぽく見える。人工中絶はもちろん、マスターベーションすら禁止ということで、性的な経験も一切ないのだろうし、興味があるのかどうかもあやしい。17歳の思春期の男の子とは思えない。
ティモシー・シャラメが演じるような完璧美少年ではなく、危うい部分のある美少年だった。少女漫画作画ではあるけれど、ぶわっと興奮気味に一気に話して鼻の穴を膨らませたり、怒ったり泣いたり馬鹿にしたり笑ったりと、表情がくるくる変わる。特に帰り際の寂しがる表情。あんな子を置いて病室を出られますか…。
また、顔のアップも多く、ヘーゼル色の瞳が綺麗でまつ毛も長い。
子供っぽいけれど、感受性は豊かで、病室で詩を書いたり、ギターを弾いたりする。原作ではヴァイオリンでしたけれど、ギターに変更されたのは、弾ける、もしくは弾く演技のできるほうに変えたのだろうか。おじいさんのギターだというのがまたよかった。
弾いた曲に合わせてフィオナが歌うんですが、ここでアダムはフィオナを認める。一緒に歌った経験が彼の中で光り輝くのがわかる。恋に落ちた瞬間にも見える。
結局、生命維持を優先して輸血をすることになるのですが、この時の、チューブを流れて来る他人の血を見る怯えた表情も素晴らしかった。どうしても受け入れられないといった表情。入ってきたからも、絶望の表情をしていた。映画にはなかったけれど、「他人の唾を飲むよりひどい」のだそうだ。
退院後のアダムは見違えるように元気になって、年相応に見えた。生きるって素晴らしいという生命力に溢れているように見えた。もともとの宗教を捨てたように見えたが、今まで縋るものがあったからなのか、新たにフィオナを神格視してしまう。もしかしたら、両親がまだ敬虔な信者のようだったから、他人の血の入ったアダムともめたのかもしれない。親子仲はあまり良くなさそうだったから、フィオナを親代わりとして見てしまったのかもしれない。
原作ではフィオナから返事がこなくてもひたすら手紙を出していたけれど、映画ではボイスメールを入れていた。また、原作だと、住所の書いていない宛名だけの手紙が置いてあり、裁判所まで来ていたというのが示唆されるけれど、映画では実際について来ているシーンがあった。そこで自作の詩を渡していた。
原作にある7通目の手紙の「ケーキは食べてしまえばなくなるけれど、このケーキは食べても手の中にあった。彼らの息子はケーキだったのです!」みたいなくだりが好きだったので、映画にはなくて残念。アダムはもともと詩を書く子だから、手紙も少し詩っぽいんですよね。それが、ボイスメールであったり、直接会って話すということだとちょっと意味合いが違ってしまうとも思う。でも、アダム(フィン)の出番が増えているのは単純に嬉しかった。
ニューカッスルまでついてきちゃったシーンは原作にもあったけれど、遠くまでついてきてしまったこと、雨に濡れて髪がびしょびしょなことなど、映像で見るとより普通じゃない感が出ていてよかった。
ここで、一緒に住みたいという願いを断り、アダムは傷ついてしまう。
また、問題のキスシーンですが、原作だと、フィオナから頰にキスをしようとして、タイミングがずれてアダムがフィオナの首に手をまわすんですが、まわさなかった。フィオナからはせずに、アダムからでした。手は体には一切触れずに、顔だけ近づけてのキスでした。
原作だとこの後、フィオナがこのキスのことを結構しつこくずっと考えているんですが、映画だとまったく考えていなかった。原作はフィオナ視点でフィオナの心の中がつぶさに描写されてるんですが、映画だと特に心の声のようなものはないから、もしかしたら、考えてはいたのかもしれない。でも、察することもできなかった。
また、原作だと、このニューカッスル事件の後に、フィオナの元にアダムから詩が届く。アダム・ヘンリーのバラードというタイトルで、フィオナに裏切られた悲しみが書かれていて、最後の行が塗りつぶされている。これもあるとないとでは違ってきてしまうと思うのでカットしてほしくなかった。ただ、この映画のポルトガルでのタイトルが、『A Balada de Adam Henry』だったので、もしかしたらどこかに要素があったのだろうか…。
映画だとニューカッスル後の展開がとても駆け足になる。
駆け足になるけれど、原作にはない、アダムが自室で両親と喧嘩をするシーン、アダムが一人で裁判所に来て物憂げな表情をするシーン(ここがアダム・ヘンリーのバラードなのかも)やアダムが病室でいままさに死にそうになっているシーン、アダムの葬式シーンが挿入されていた。これも、アダムの出番が増えるのは嬉しいのですが、病室では土気色でもう本当に死にそうな状態で、近くに両親がいないのは何か理由があることなのかどうかわからなかった。理由がないなら不自然。
また、原作だとフィオナが福祉を頼ればよかったと後悔するシーンがあり、それもカットしないほうがよかったと思う。
アダムは再度病気になった際に輸血を拒み、死んだ。それは、フィオナに裏切られたことで元の宗教に戻ったのか、そのていを取りながら、絶望のあまり自殺をするために拒んだのかわからない。原作でも明らかにされないし、映画でもわからない。
けれど、それに対してフィオナがキスをしたからいけなかったのではないかとか、自分の家に住ませることはできないけれど何かできることがあったのではないかと考えるシーンは欲しかった。
アダムが出て来てから一気に話が加速するのは私がフィン・ホワイトヘッドが好きだからかもしれないけれど、前半30分くらいのミッドライフクライシスや法廷劇はちょっと地味かなとは思う。それでも、なんとか日本でも公開してほしいがどうなるか。
『The Children Act』(原題)
Posted by asuka at 7:17 PM
イアン・マキューアン『未成年』が原作。日本ではまだ公開が決まっていないけれど、イアン・マキューアンなのと、主演がエマ・トンプソンなのと、A24なので公開もしくはソフト化はされるのではないかと思う。
監督は1967年から様々な劇場のディレクターをしているリチャード・エアー。
裁判官のフィオナ(エマ・トンプソン)は仕事は順調だったが夫との仲がうまくいっていない。そんな中で白血病で輸血しないと死んでしまうが宗教上の理由により輸血ができない少年、アダムと知り合う。
このアダム役が『ダンケルク』のフィン・ホワイトヘッドだったので観ました。
以下、ネタバレです。
日本でもエホバの証人の信者が輸血を拒否する事件がありましたが、本作ではアダムの両親が敬虔な信者であり、アダムの意思を確かめるために、フィオナはアダムが入院している病院へ向かう。
明日までに輸血をしないと死んでしまうということで、アダムは色が真っ白で体に管がたくさん繋がっている。両親だけでなく彼自身も敬虔な信者なので、ここまで自分の意思で輸血を拒んでいた。
白血病になるまでのアダムのことはわかりませんが、両親の教育のせいか、自分の性格なのか、純粋で悪く言えば世間知らず。世間知らずというか、世界を知らない。浮世離れしている。肌の色だけでなく、心の中も真っ白のようで、17歳という年齢よりも子供っぽく見える。人工中絶はもちろん、マスターベーションすら禁止ということで、性的な経験も一切ないのだろうし、興味があるのかどうかもあやしい。17歳の思春期の男の子とは思えない。
ティモシー・シャラメが演じるような完璧美少年ではなく、危うい部分のある美少年だった。少女漫画作画ではあるけれど、ぶわっと興奮気味に一気に話して鼻の穴を膨らませたり、怒ったり泣いたり馬鹿にしたり笑ったりと、表情がくるくる変わる。特に帰り際の寂しがる表情。あんな子を置いて病室を出られますか…。
また、顔のアップも多く、ヘーゼル色の瞳が綺麗でまつ毛も長い。
子供っぽいけれど、感受性は豊かで、病室で詩を書いたり、ギターを弾いたりする。原作ではヴァイオリンでしたけれど、ギターに変更されたのは、弾ける、もしくは弾く演技のできるほうに変えたのだろうか。おじいさんのギターだというのがまたよかった。
弾いた曲に合わせてフィオナが歌うんですが、ここでアダムはフィオナを認める。一緒に歌った経験が彼の中で光り輝くのがわかる。恋に落ちた瞬間にも見える。
結局、生命維持を優先して輸血をすることになるのですが、この時の、チューブを流れて来る他人の血を見る怯えた表情も素晴らしかった。どうしても受け入れられないといった表情。入ってきたからも、絶望の表情をしていた。映画にはなかったけれど、「他人の唾を飲むよりひどい」のだそうだ。
退院後のアダムは見違えるように元気になって、年相応に見えた。生きるって素晴らしいという生命力に溢れているように見えた。もともとの宗教を捨てたように見えたが、今まで縋るものがあったからなのか、新たにフィオナを神格視してしまう。もしかしたら、両親がまだ敬虔な信者のようだったから、他人の血の入ったアダムともめたのかもしれない。親子仲はあまり良くなさそうだったから、フィオナを親代わりとして見てしまったのかもしれない。
原作ではフィオナから返事がこなくてもひたすら手紙を出していたけれど、映画ではボイスメールを入れていた。また、原作だと、住所の書いていない宛名だけの手紙が置いてあり、裁判所まで来ていたというのが示唆されるけれど、映画では実際について来ているシーンがあった。そこで自作の詩を渡していた。
原作にある7通目の手紙の「ケーキは食べてしまえばなくなるけれど、このケーキは食べても手の中にあった。彼らの息子はケーキだったのです!」みたいなくだりが好きだったので、映画にはなくて残念。アダムはもともと詩を書く子だから、手紙も少し詩っぽいんですよね。それが、ボイスメールであったり、直接会って話すということだとちょっと意味合いが違ってしまうとも思う。でも、アダム(フィン)の出番が増えているのは単純に嬉しかった。
ニューカッスルまでついてきちゃったシーンは原作にもあったけれど、遠くまでついてきてしまったこと、雨に濡れて髪がびしょびしょなことなど、映像で見るとより普通じゃない感が出ていてよかった。
ここで、一緒に住みたいという願いを断り、アダムは傷ついてしまう。
また、問題のキスシーンですが、原作だと、フィオナから頰にキスをしようとして、タイミングがずれてアダムがフィオナの首に手をまわすんですが、まわさなかった。フィオナからはせずに、アダムからでした。手は体には一切触れずに、顔だけ近づけてのキスでした。
原作だとこの後、フィオナがこのキスのことを結構しつこくずっと考えているんですが、映画だとまったく考えていなかった。原作はフィオナ視点でフィオナの心の中がつぶさに描写されてるんですが、映画だと特に心の声のようなものはないから、もしかしたら、考えてはいたのかもしれない。でも、察することもできなかった。
また、原作だと、このニューカッスル事件の後に、フィオナの元にアダムから詩が届く。アダム・ヘンリーのバラードというタイトルで、フィオナに裏切られた悲しみが書かれていて、最後の行が塗りつぶされている。これもあるとないとでは違ってきてしまうと思うのでカットしてほしくなかった。ただ、この映画のポルトガルでのタイトルが、『A Balada de Adam Henry』だったので、もしかしたらどこかに要素があったのだろうか…。
映画だとニューカッスル後の展開がとても駆け足になる。
駆け足になるけれど、原作にはない、アダムが自室で両親と喧嘩をするシーン、アダムが一人で裁判所に来て物憂げな表情をするシーン(ここがアダム・ヘンリーのバラードなのかも)やアダムが病室でいままさに死にそうになっているシーン、アダムの葬式シーンが挿入されていた。これも、アダムの出番が増えるのは嬉しいのですが、病室では土気色でもう本当に死にそうな状態で、近くに両親がいないのは何か理由があることなのかどうかわからなかった。理由がないなら不自然。
また、原作だとフィオナが福祉を頼ればよかったと後悔するシーンがあり、それもカットしないほうがよかったと思う。
アダムは再度病気になった際に輸血を拒み、死んだ。それは、フィオナに裏切られたことで元の宗教に戻ったのか、そのていを取りながら、絶望のあまり自殺をするために拒んだのかわからない。原作でも明らかにされないし、映画でもわからない。
けれど、それに対してフィオナがキスをしたからいけなかったのではないかとか、自分の家に住ませることはできないけれど何かできることがあったのではないかと考えるシーンは欲しかった。
アダムが出て来てから一気に話が加速するのは私がフィン・ホワイトヘッドが好きだからかもしれないけれど、前半30分くらいのミッドライフクライシスや法廷劇はちょっと地味かなとは思う。それでも、なんとか日本でも公開してほしいがどうなるか。
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