原題『Stan & Ollie』。BAFTAにていくつかノミネートをされていましたが、日本公開はないと思っていたら、気づきにくいタイトルで公開されていた。実在のコメディアンコンビ、ローレル&ハーディの話。スタン・ローレル役にスティーヴ・クーガン、オリヴァー・ハーディ役にジョン・C・ライリー。
このコメディアンコンビについてはまったく知らなかったのですが、楽しめました。
監督は『フィルス』のジョン・S・ベアード。

以下、ネタバレです。








1937年、彼らがまだまだ好調だったあたりから映画が始まる。ぺらぺらととりとめのない話をしながら撮影所の中を歩いていく二人にカメラがついていく。長回しなのか、その時点で二人の息が合っている名コンビっぷりがよくわかる。そして、16年後の1953年に時代が移る。

二人も年を取っているし、新しいコメディアンは出てくるし、テレビができたのでみんな劇場に足を運ばなくなり、人気が下火になっている。そんな時代の話だった。

二人が舞台に立つシーンは本当に二人の舞台を見ているようで、スティーヴ・クーガンとジョン・C・ライリーであることを忘れてしまった。しかもこの二人は日常からコントをやっているようで、映画自体がコメディータッチになっている。
ホテルにチェックインするシーンと電車に乗り遅れそうになるシーンは、二人が意図してコントをやってるのか(奥さん方を迎え入れるところは意図したコントだったけど)、日常生活を映画内でコメディータッチにしてるのかわからなかった。

どちらにしても、ステージのシーンも日常のシーンも、このスティーヴ・クーガンとジョン・C・ライリーの二人が本物のコンビ、しかも長く活動している息の合ったコンビにしか見えない。演技の上手さに舌を巻いた。演技が上手いだけではなく芸達者である。

また、この二人の奥さんコンビ、シャーリー・ヘンダーソンとニナ・アリアンダのやりとりもコントっぽくなっていた。軽妙さが楽しい。

スタンの脚本がプロデューサーに受け入れてもらえず、映画をやりたいのにできないとか、二人が言い合いの喧嘩をしても、何もわかってない市長他の人々がコントをやっているのかと思って「ブラボー!」などと囃し立てるシーンは、コメディアンの悲哀を感じた。二人は変わらなくても世間とのズレが生じてくるセンチメンタルのようなものを感じた。この物悲しさは、少し『フィルス』にも似ている。

オリヴァーは心臓発作で倒れてしまう。そこからスタンは違う人とコンビを組もうとするがうまくできなかったり、結局、病床に寄り添ってあげていて、友情を感じた。
言い合いをしていたので、このまま別れ別れになって死んでしまったらどうしようかと思ったけれど、そんなコンビではないのだ。あっという間に仲直りをする。
スタンにしても、ここまで何十年も一緒にやってきて、ここにきて相方が倒れて違う人と組むなどできないのだろう。今更である。

最後のステージの時は、スタンの気遣いの表情と、つらそうでも楽しくて仕方ないというオリヴァーの表情、二人のやりきった達成感などすべてが感じられた。
時代の終わりは寂しいものだけれど、必ず終わる時がくる。彼らには後悔がなさそうだった。

57年にオリヴァーが亡くなって、スタンは65年に亡くなったらしく、そこまで長くは生きなかったようだ。それにオリヴァーが亡くなった後も、他にコンビも組まなかったという。

描かれているのは晩年の巡業についてなのだが、この二人の間にしか芽生えていない絆、歩んできた道などが全部見える演技が良かった。
また、ステージのシーンも多いので、古き良きコメディーの舞台を観たような気持ちにもなる。爆笑といった感じではないが、可笑しいし、笑ってしまう。古典的ではあっても、それは心が温かくなるような笑いだった。

原題が『ローレル&ハーディ』というコンビ名ではなく名前のほうの『スタン&オリー』になっているのがとても良いなと思います。


MCU22作目。今回で最後とのこと。
もちろん『インフィニティー・ウォー』の直接的な続編ですが、『アイアンマン』から続く一連のMCUすべての作品の集大成になっていた。

以下、ネタバレです。








MCU作品は増え続け、それに伴いアベンジャーズも増えて、キャラの交通整理力が試されるところですが、今回はサノスの指パッチンで消された人たちを救うための戦いなので、残っているヒーローたちの活躍が主である。人数が減っているので、多少、交通整理も楽なのかな…と考えると、もしかしてルッソ兄弟がサノスなのでは…とも考えてしまう。

『インフィニティー・ウォー』の時にはそこまで意識していなかったと思うんですが、残ったのはアイアンマン、キャプテン・アメリカ、ブラック・ウィドウ、ソー、ハルクということできれいに初期メンバーは残っていた。前回は場所がいくつかに別れていたので、わからなかったのかもしれない。本作で集合して初めて気がついた。宇宙組がアイアンマンとネビュラ、キャップのほうにはウォーマシーンとロケットとポッツがいる。また、キャプテン・マーベルとアントマン、ホークアイも加わる。

サノスは人類を半分にした後、自分は農業をやりながら自給自足で暮らしていた。少しのどかにも見えた。ガントレットを奪い、もう一回指パッチンをして消された人たちを戻そうと、ヒーローたちはサノスの元に乗り込むんですが、サノスはもうインフィニティストーンを消してしまっていた。
サノスの元に乗り込むのも序盤すぎてびっくりしたが、そこで、ソーが怒りのあまりサノスの首を切って殺してしまうのもびっくりした。え? じゃあこれ、なんの映画なの?と思っていたら、5年後に飛ぶ。まさか、人類の半分が消えてから5年も経過するとは思わなかったからここもびっくりした。

そして、量子世界に閉じ込められていたスコット・ラングが現れて、タイムマシン作戦を敢行することになる。過去に戻ってインフィニティストーンをそもそも奪われないようにする作戦だ。
しかし5年である。スタークはポッツが生きていたから結婚して子供もいる。今は今でそれなりに幸せだから、今の生活を脅かすような危険をおかしてまで過去に戻りたくない。また、ハルクは怒りをコントロールできるようになって、見た目的にもハルクとバナー博士のハイブリッドというか、マーク・ラファロ気味の顔のハルクになる。ソーはすっかり荒れた生活で、アルコールが大好きで(元々好きだったが…)、腹がでっぷりとしている。ソーは途中で格好いいソーに戻るのかと思っていたが、最後までこのままだった。髪も精悍だった短髪ではなく、長髪、しかも洗ってなさそうな長髪…。ポスターやパンフ、グッズ、イベントなどではかっこいいソー、かっこいいクリス・ヘムズワーズなので、ネタバレ対策がされているのが少しおもしろい。
しかし今回、ムジョルニアもキャップが持ててしまうし、いいところをすべてとられている。ハルクとソーは映画の中での面白要員になっていて、これは、『マイティ・ソー バトルロイヤル』で決定づけられた流れなので、タイカ・ワイティティのせいである。私は『バトルロイヤル』も好きだったkらいいのだけれど、
また、新入りのくせにすごく強いせいだと思うが、キャプテン・マーベルは他の星を救いに出かけてしまう。バランスをとるためだろう。

キャップとアイアンマンが出かけて行ったのは一作目の『アベンジャーズ』のラストあたりの世界で、知っているシーンの裏側で実はこんなことが起こっていました!というのが見せてもらえるのがおもしろかった。キャップの尻について言及されているのがおもしろい。ロキも出てくる。
ソーとロケットはソーの母が生きていたあたりのアスガルドへ行く。こちらもロキが出てくるし、ジェーンも出てくる。
ファンサービスが過剰なのだが、元々この作品はファンサービスの多い映画だった。しかし、本作はここまでありがとう!と言われているようにも思えた。こちらこそありがとう…。
ウォーマシーンとネビュラは『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のみんな大好き・最高のオープニングのあたりへ。クイルが音楽に合わせて踊っているのがすごくいいシーンだけれど、確かに端から見たらヘッドフォンだし音楽は聞こえないから鼻歌を歌いながら踊っている人にしか見えない。ローディが「アホなのか?」と言っていた。
また、スティーブとトニーは『アベンジャーズ』で失敗をしたのでさらに過去に飛ぶ。1970年代はドラマ『エージェント・カーター』の世界だった。マーベルのドラマで見ていないのもあるけれど、『エージェント・カーター』は好きで見ていたので、出てきて嬉しかった。ハワードの役者はドラマと違ったけれど、ペギー・カーター役はもちろんヘイリー・アトウェルだし、ジャーヴィス役のジェームズ・ダーシーも出てきた。好きなドラマがこんなところでこんな風に出てくるとは思わず、感無量でした。

全部の石を入手できるんですが、石入手の際に多少アクションはあるものの、作戦を立てる時にも全員生身のままだしヒーロー同士がごちゃごちゃ口喧嘩するのが好きなので、そのシーンが多くて良かった。一作目の『アベンジャーズ』もそうでしたが、人数が多いせいか個性が強いのか、顔を合わせりゃ口喧嘩ということが多かったし、本作でもそうだった。

なんとかガントレットを作り直して指パッチンをして人類の消えてしまった半分を戻すが、次の瞬間、サノスが攻め入ってくる。絶体絶命かと思いきや、消えてしまったメンバーが軍隊を引き連れて現れる。もうすごい人数で、助けに来てくれたことも嬉しいし、ああ、あの人もいる…この人もいる…と知った顔がたくさん見て取れるのに感動。
ここでのキャップの「アベンジャーズ…アッセンブル」も元気がいいというよりは、重みを持った言い方だった。11年のすべてがそこに集約されている感じがした。
ここから先は目が忙しく、画面の中で誰を見ていいかわからないくらいになるんですが、喋りまくるピーター・パーカーが可愛かった。「こんにちは! 初めまして!」と自己紹介していた。背中から足(アームらしい)がびゅんびゅん出る即死モードも恰好良かった。『ファー・フロム・ホーム』でも見られるんでしょうか。
女性ヒーローばかりが集められたシーンも恰好良かった。勢揃いすると圧巻だし、11年前には考えられなかったこと。時代が確実に変わっている。そして、時代を変えるのにMCUが一役買っていたのだ。

結局、決着をつけるのはアイアンマンであの、一作目『アイアンマン』のラストの名セリフ「I am Ironman.」で締め。ここでこのセリフが出てくるとは思わなかったので泣いてしまった。サノスたちを消せたものの、指パッチンの力に耐えられずに死んでしまう。
相変わらずピーターは早口だけれど、「スタークさん!」と言っていたのに最後は「トニー…」と言っていて、悲しみがにじみ出ていた。

タイムトラベルをして石を元に戻しに行く役割を担ったキャップは、帰ってくると、老いたスティーブになっていた。「普通の人生を生きてみたくなった」と言っていた。それは、キャプテン・アメリカとして生きなくてはいけないスティーヴ・ロジャースの気持ちだけれど、クリス・エヴァンスの気持ちでもある。
ロバート・ダウニー・Jr.の俳優としての復活がトニー・スタークの人生と似ていることもよく言われるが、クリス・エヴァンスも同じなのだ。彼は本作でキャップを演じるのが最後とはだいぶ前から言っていた。キャプテン・アメリカのイメージが付き過ぎて他の役ができないのと、いつでも正しいことをするのが求められるということだった。
スティーブは薬指に指輪をしていた。過去で結婚したのが示唆され、ペギーと踊っているシーンで映画が終了する。とても美しいシーンだった。
もちろん『アベンジャーズ』シリーズのラストでもあるけれど、個人的には『エージェント・カーター』のラストでもあると思った。ドラマはS2で終了。中途半端なところだったけれど、これでやっとあきらめがついた。とはいえ、いつでも続きをやってくれるのを待っています…。

風呂敷はちゃんと畳まれた。ここまで楽しませてくれてありがとうございました。最高のラストだった。
とはいえ、まだ続く部分もある。
帰って来た老いたスティーブの近くにいたバッキーとサムでドラマをやるのも楽しみ。ソーはラストでGotGメンバーの乗る宇宙船に乗り込んでいたが、このままいくとGotG3に出て来てしまいそうだけどどうするのだろう。
そして、『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』にはトニー・スタークが出てこないのがとても寂しい。





原題『Boy Erased』。タイトル通り、オープニングでタイトルを構成している文字が消えていっていた。
監督は『ザ・ギフト』も良かったジョエル・エガートン。もう俳優だけに留めておくのは勿体ないくらい今回も良かった。ちょっとトリッキーなカメラワークも所々に見られました。本作でも俳優としても出演している。
今回が初主演というのが少し意外だったルーカス・ヘッジズ。父母役にラッセル・クロウとニコール・キッドマン。グザヴィエ・ドラン、ジョー・アルウィンも出ています。
『ビューティフル・ボーイ』でも驚いたが、本作も同じく実話だった。実在の父がラッセル・クロウと似ていてびっくりした。

以下、ネタバレです。











予告編を見る限り、同性愛者を矯正する施設に入れられた青年と両親の親子の話ということで、少し『ビューティフル・ボーイ』にも似ているのかとも思っていた。けれど、本作は予告編にない要素としてキリスト教の信仰の話も関わってきていた。
つまり、『ビューティフル・ボーイ』が離婚はしていても、息子を大切に想う両親の話だったのに対して、本作は信仰と性的嗜好と息子への愛が合わさって、より複雑になっている。
しかし、私は無宗教だし、信仰に関しては感覚的にはわからないので100パーセント理解できたわけではないと思う。

実話で本作の主人公であるジャレッドはニューヨークタイムズ紙に矯正施設の内部暴露を寄稿したとのことだけれど、アメリカには未だに矯正施設があり、70万人がそこに入れられているという。
映画を見る限り、キリスト教関連の施設のようだったが、そこにいるサイクスはキリスト教徒なのかもわからないし、カウンセラーの資格も持っていないようだった。
人のセクシャリティが矯正できるものではないのは、普通に考えればわかることだが、私の普通と、映画内(というか、実話なので実在でもある)の人々の普通が違うようだ。一応、聖書を使ってだけど叩いていたし、「悪魔よ、去れ」などと言っていたけれど、要は暴力によって抑圧されていた。
収容されている若者たちも実態がわかっているから、その施設から出るために自分に嘘をつく。異性愛者になったと見せかける。
しかし、ジャレッドは自分に嘘がつけない。母親の理解を得て迎えにきてもらい、施設を抜けて暴露本を出すことになるのだ。
でも、そううまくはいかない若者は、結局、嘘をついて施設を出たところで、隠れて生きて悩むことになる。施設の中で偽ることも逃げ出すことも両親の理解を得ることもできなかった若者は、自殺をすることになってしまう。自殺率も高いのだそうだ。当たり前だ。隔離された場所で自分を否定されるのだから。

ジャレッドが同性愛者であることが両親に知られた時に、母親は何も言わずに、面倒は起こさないでという顔をしてジャレッドを見つめていた。母親もまた、キリスト教の家父長制の中で抑圧されていたのだ。
日中は施設に入っている息子を抱きしめるシーンがあるが、後ろ向きの母の表情が見えずに、鏡に映し出されているのがおもしろかった。母の迷いがうかがえるカメラワークだった。
息子が施設から助けを求める電話をかけてきて迎えに来た時、施設の人間を「恥を知りなさい!」と罵倒するが、その後、「私もね…」とぽつりと言って、自分が間違えていたと即座に認めるシーンに泣いた。ニコール・キッドマンがうまい。
彼女は信仰を捨てたわけではないと言っていた。十字架のネックレスも着けたままだった。でも、教会に行く回数は減ったと言っていたし、父親の考え方ともズレが生じていたようだった。

途中で、神はどこかにいて崇拝するものではなく、自分の心の中にいるという話が出てきていた。もしかしたら、母はこの考え方になったのかもしれない。それに、女性として抑圧されているのは、同性愛者として抑圧されている息子と同じだと思ったのかもしれない。弱い立場であることは変わらない。
キリスト教の中でも宗派はあるのだと思うけれど、それを変えることなく、考え方だけを変えることができるのかは不明。
神への愛よりも息子への愛をとったという単純な話でもないのではないかと思うけれど、そこもわからない。

父親が牧師であり、地域で説教をする立場でもあるようなので、「複雑」だと言われていた。ジャレッドは「僕は変えることができないんだから、父さんが変わらなきゃいけない。そうしないと親子関係が破綻する」というようなことを言っていたけれど、変えることができることなのかもわからない。でも、もしかしたら父親の中には信仰だけではなく、世間体や上下関係も気にしているのかもしれないとも思った。その辺りは変えられるのではないかと思う。

両親役のニコール・キッドマンとラッセル・クロウはとてもうまいんですが、施設にいる抑圧する立場のサイクス役のジョエル・エガートンもうまかった。監督でもあるけれど、この嫌な奴役を自らやるのだなと思った。この人も実在人物らしいのだが、現在は夫と暮らしているのだという。ホモフォビアがホモセクシュアルであるというのはよく聞く話ではあるがここでも出てきた。それならなんで…とも思うけれど、本人もよくわかってないんだろう。

施設にいるジョンは握手の代わりに敬礼をしていて、ジャレッドが理由を聞くと、接触を避けるためだと言っていた。彼は、自分を偽るのがとてもうまくジャレッドとは逆方向に強い人間だった。自分の置かれた状況を把握して、楽に生きるために自分で自分を抑圧しているかのようだった。でも、その人生の虚しさに気づいているのだろうか。今は偽ることに慣れて、気づいていないのではないかと思ってしまう。そのうち、何のために生きているのかわからなくなって、他の若者と同様に自殺してしまいそう。ジャレッドの行動を見て、彼自身の中に何か変化があればいいと思った。
演じているのはグザヴィエ・ドラン。この人物も実在するのかは不明だが、彼自身同性愛者だし怒りを持って演じていたのだと思う。そのせいでとても濃いキャラになっていた。彼のスピンオフのようなものも見てみたい。

また、そこが主題ではないから少ないのだけれど、ジャレッドのラブ描写がとても素敵だった。
途中までのヘンリーは視線の絡み方と自然に肩を組んでくるあたりとか、二段ベッドの上で寝ているけれど眠れていない様子が下まで伝わってくるなどドキドキした。でもレイプは駄目です。きっと、もっと丁寧に育めばお付き合いできたのではないか。
演じているのはジョー・アルウィン。『女王陛下のお気に入り』、『ふたりの女王 メアリーとエリザベス』と最近よく出てくるがどうにも女性の影に隠れていたり情けなかったりと脇役な雰囲気が否めない。もっと誰も文句が言えないような超絶イケメン役が見たい。

また、キリスト教徒でありながら、新時代のというか、神について新しい独自の解釈(この辺も詳しいことはよくわからない。キリスト教徒でもないのかもしれない)をしている芸術家のゼイヴィアとのエピソードも好きでした。やはり何も言わずに視線が絡む。ベッドの上で向かい合って手を繋いで寝るという、もう夢の中のような出来事に見えた。暴力的に踏みにじられたあとだし、より優しさが際立つ。
こちらは演じているのはセオドア・ペレリン。『たかが世界の終わり』に出ていたらしい。少し、リズ・アーメッドにも似ている。

ジョンとの間にもほのかに愛が生まれそうだった。ジョンはやはり自分を抑圧していたけれど。ジョエル・エガートン監督には今度はラブストーリーも撮ってもらいたい。

『シャザム!』



監督はデヴィッド・F・サンドバーグ。
中身が子供のまま大人の姿のヒーローになっちゃって?ということで、大人役がザッカリー・リーヴァイ 、子供役がアッシャー・エンジェル(『ゲーム・オブ・スローンズ』のアリア・スタークに似ている)。
日本の宣伝の仕方が問題になってるし、私も問題だと思うけど、このネタバレのない予告を採用してくれた時点でいい仕事をしてくれたと思う。

以下、ネタバレです。







そもそも、ネタバレがあるタイプの映画だとは思わなかった。もっと軽く、さらっと見られるタイプかと思っていた。かといって、別に重いというわけではないです。ヒーロー物というより、家族物だった。しかも、疑似家族物であり、この要素については、予告にまったく出てこなかったので驚いた。

ピュアな心を持つ子供が魔術師の元に呼ばれてシャザムの力を引き継ぐのですが、本作のシャザムになるビリーの前にも何人も呼ばれていて、選ばれなかったことに嫉妬したサデウス(マーク・ストロング)が本作のヴィランとなる。
呼ばれた人たちは、「ハリーポッターのような魔術師が…」と言っていて、ハリーポッターは存在する世界なんだと思ったし、異世界らしき場所にいろんな人が連れて行かれることはそれほど変なことでもないようだった。世界観がいまいちよくわからない。

サデウスは子供の頃から父と兄に馬鹿にされているようだった。母も出てこないので存在しているのかはわからないが、家族に恵まれていない。
対するビリーも幼い頃に母とはぐれて以来、いろんな家に養子に出されては家出を繰り返して母を探していた。新しく行った家は子供がすでに五人いてその全員が個性的。お喋りな末っ子ダーラ、ゲーム好きのユージーン、太っていて無口なペドロ、ヒーロー好きで足が悪いフレディ、大学進学を目指す姉のメアリー。
彼らは人種もそれぞれで(夫婦も違う)、彼らが助け合いながら暮らしているのは、多様性なども示していたのかもしれない。その他にもちょっとした役でいろんな人種の俳優が使われていたと思う。

ヒーロー好きのフレディは同じ年くらいでビリーと同室なのだが、スーパーマンとかバットマンの話をしていて、さすがにマーベルヒーローの話は出てこないけど、ある意味メタなのかなと思いながら観ていた。
ビリーは異世界に連れて行かれ、若干ひきつつ、半笑いのまま契約をしてしまう。

元の世界に戻ると、コスプレか!と馬鹿にされて、別にヒーローが一般的ではない世界だということがわかる。戻り方もわからないし、肩身の狭い思いをしながら町を歩いて、でも家には戻れない。あたふたしながらフレディにだけ連絡をとり、姿を見せる。
このシーンがほとんどアドリブだったらしいのがおもしろい。演じているのはザッカリー・リヴァイなのに、子供が二人いるようにしか見えない。無邪気さが可愛いかった。中身が子供のままなのがよくわかるのはやはり演技がうまいのだと思う。
姿が大人だからビールもID無しで買えてしまうんですが、味覚も子供のままらしく、まずくてフレディと同じ動きでビールを吐き出す。代わりにスナックを買い込む。
フレディはサイドキックのような役割。ヒーローオタクなので、シャザムにどんなパワーがあるかを大喜びで解明しながら動画をインターネットに投稿する。
路上で歌いながらスーパーパワーを使って小銭を稼いでいて、その不意に手に入れたパワーを気軽に使っちゃう様子が好きでした。アニメの『時をかける少女』の真琴のようだった。
しかし、そのせいで重大事故を起こしてしまう。しかも、助けるほど使いこなせてないから、橋から落ちそうなバスの乗客に向かって、下にマットを引いて、「ここに飛び降りて!」と言っていた。でも格好はいっぱしのヒーローだから、乗客が呆れるという。このあたり、従来のヒーロー映画の展開をひっくり返すようで新しいと思った(ラスト付近の、遠くにいるヴィランの最後の長セリフを聞き取れないシーンも同様)。

しかし、ヴィランは構わずに襲ってきて、一般の人を巻き込まないためにビリーにも少しずつヒーローとしての自覚が芽生える。また、あれだけ探していた母にも実は捨てられたことがわかって、新しい家族との絆にも気づく。血の繋がりがなくてもちゃんと家族なのだ。
仲間…というか、家族の大切さに気づいたビリーと、家族についていい思い出のないサデウスと戦いである。

兄弟たちもシャザムの正体を知り、ヴィランと戦おうとする。シャザム自体も結局ビリーなので、子供たちが力を合わせて悪と戦っているようにしか見えなくなって、従来のヒーローものというよりは、『グーニーズ』のようにも見えてきた。
しかし、兄弟たちにはパワーはないし、フレディは足が悪い。助けたいという気持ちはあっても人質になってしまう。
しかし、ビリーは契約した時に、シャザムのポジションが何人分か空いていることを言われたのを思い出す。そこで、兄弟たちも一緒にシャザム化するのだ!(この時にビリーが「みんな、僕の名前を呼んで!」と言った時に兄弟たちが「ビリー!」って呼ぶのに笑ったが、兄弟たちにはあの姿でもビリーに見えているという証で、ギャグなだけのシーンではないと思う)
兄弟たちにもスーパーパワーが宿るのも予告に出てこなかったのでとても驚いたし、この『パワーレンジャー』のような見た目がアツい。しかも、中身はやっぱり子供のまま。特に末っ子のダーラがサンタさんに「いい子にしてるから来てね!」ってアピールするのが可愛かった。ダーラはスーパーヒーロー姿でも子供でも、どっちも可愛い。
またフレディは自分が飛べると元々信じているからびゅんびゅん飛び回る。

ラストは学校の食堂で孤立してしまっているフレディの元に兄弟たちが来て、シャザムも来る。学校のみんなは口あんぐりなんですが、「友達も呼んだよ」と言って、顔は出ないけど、スーパーマンもやってくる!これにはフレディも口あんぐり。
いまいちスーパーマンやバットマンがどの捉え方をされてる世界なのかわからなかったんですが、UMA的な、いるかいないかわからない伝説の存在みたいな感じなのだろうか。フレディはヒーローのロゴTシャツを着ていたし、スーパーマンに当たったつぶれた銃弾(証明書つき)を持っていた。
エンドロールのおまけでも、シャザムを金魚と話させようとして、アクアマンの能力があるか試そうとしていた。

シャザムがいろいろなDCヒーローと絡む漫画のエンディングも良かった。おちょくりながらも、DC愛とリスペクトを感じた。リスペクトは映画の本編でも感じられました。

原作でどうなのかわからないが、シャザムは、バットマンやスーパーマンに比べるとランク(というのがあるのかもわからないけれど)はだいぶ下だと思う。でも親しみやすさで言ったらピカイチだし、“ヒーローは孤独”という印象を吹っ飛ばしていた。
もしかしたら、兄弟がいても、一人だけスーパーパワーを持っていたら孤立してしまうかもしれない。でも、全員が等しくパワーを持ったことでそれも回避している。

そこまで出番があるわけではなかったが、兄弟全員が好きになってしまった。是非とも、他の兄弟の話も見たいので、続編をお願いしたい。エンドロール後にサデウスに新たな動きがありそうだったので、続編あるかな。本国でもヒットしてるし、高評価のようです。期待してます。

『荒野にて』



アンドリュー・ヘイ監督作品。
主演のチャーリー・プラマーがヴェネチア国際映画祭マルチェロ・マストロヤンニ賞(新人男優賞のようなものらしい)受賞。
2010年の同名小説が原作とのこと。
以下、ネタバレです。









少年と馬が触れ合っているキービジュアルとタイトルから牧場か競馬を題材としているのかと思ったら、少年はトレイラーハウスに女にだらしない父親と二人暮らしで、母親はいないようで…ということで、ホワイトトラッシュが題材だった。そして、ロードムービーでした。

主人公のチャーリーはティーンではありそうだった。しかし、どうやら学校には行かせてもらってないらしい。
そこで、家の近くの厩舎のオーナー、デルの元で働かせてもらう。
明らかにはされないが、借金なのか人間関係なのか(仕事の関係とは言われてたけど本当かなと思ってしまった)わからないが、チャーリーと父親は各所を転々としていて、友達もいないようだった。だから、馬と触れ合い、友達ができたような気持ちになったのかもしれない。馬と触れ合うのも楽しそうだし、お金も貰えるし、働くという行為自体に満足しているようだった。
しかし、ある夜、父親が手を出していた女の夫が家に乗り込んでくる。父親は瀕死の状態で病院へ。やはり父親のせいで、生活が軌道に乗りそうだったところを滅茶苦茶にされる。

父親が入院をして一安心。また競馬関連で働くのを再開し、騎手の女性ボニーとも友達のようになる。デルにしてもボニーにしても、どこかはぐれ者のようなところがあるようだったが、それ故に、孤独な魂同士が寄り添い合うというか、決して仲良しというわけではなくても、どこかでわかり合っているようないい関係を築いていた。
しかし、これも上向きそうなところで父親が死んでしまう。あんな父親でもチャーリーにとっては唯一の肉親だし、あんな父親と思っているのは観賞している私たちで、チャーリー自身は子供の頃から接しているからなのか、そこまで酷い奴だとは思っていなさそうだった。

これでチャーリーは天涯孤独になってしまう。しかも、心を通わせた(とチャーリーは思っている)馬のピートは高齢のため、レースに負けて売られてしまう危機。
ボニーにも競走馬はペットじゃないと言われていたけれど、それもよくわかる。商売道具である。愛してしまえば別れづらくなるだけだ。
でも、チャーリーにとってはやっとできた友達だから、そう簡単に手放し別れることはできないのだ。

チャーリーは父親が死んだことで、悲しくはあるけれど、やっと自由にもなったのだ。それで、馬主の車を盗み、ピートを連れ出す。
途中で車は壊れてしまい、何もない広大な大地を馬を引きながら歩く様子はポエティックにも見えた。
荒野の中にあるトレイラーハウスで、いいようにこき使われる女性に「君はなんで逃げないの?」とチャーリーは聞いていた。かつての自分の姿にも見えたのかもしれない。でも多分、チャーリーは若くて体力のある男性だからいいけれど、女性はそうもいかないと思う。女性では一人で荒野を歩くわけにもいかない。

途中、車に怯えたピートが逃げ出して車に轢かれてしまう。チャーリーはにとってピートは話し相手だった。もちろん馬なので返答はなく一方的にピートに話しかけていただけだけれど、吐き出すだけでも楽になれるだろうし、おそらく心の拠り所になっていたのだと思う。そのピートすらいなくなってしまった。
ここで警察が来て保護されそうになるし、タイトルが『荒野にて』なので、ここで映画が終わってしまうのかとも思った。けれど、チャーリーはここからも逃げ出す。

更に歩いたチャーリーは、ワイオミング州の町に着く。都市だから炊き出しもやっていて、金を持っていないチャーリーはそこでご飯をもらって食べたりもしていた。「言いたくないがホームレスだ」とホームレスに言われて反発していたが、確かにホームレスなのだ。街にいると、荒野を歩いてきたとか馬と一緒だったとか叔母さんを探しているとかはすべて紛れてしまう。家のない人々は他にもいて、チャーリーもその一部である。

ここまでも万引きやら食い逃げやら犯罪を重ねてきた。しかし、空き巣に入った際は水をもらって洗濯をさせてもらうだけで金品は奪っていなかった。服を盗めば手軽なのにわざわざ洗濯をするのである。悪いことはしない。よくあの父親の元でこんな良い子に育ったものだ。別に身体的な虐待をしていたわけではないからだろうか。
しかし、自分の働いたお金をとられるのには激怒し、バールのようなもので殴っていた。

この後、もしかしたら、ドラッグに手を染めたりと堕ちるところまで堕ちてしまうのではないかと思ったが、『ビューティフル・ボーイ』を最近観たこともあり、そうはならなくてほっとした。
とにかくチャーリーは叔母さんに会いたいという一心なのだ。もう彼には叔母さんしかいない。

叔母さんには無事に再会し、しかも叔母さんは良い人だった。ここでつっぱねられたらどうしようかと思った。でも、もしかしたらチャーリーの周囲にいる大人がロクでもなかっただけで、叔母さんは普通なのかもしれない。
この良い人と喧嘩をしたのだから、父親がいかにひどかったかがわかる。父親は父親である以上、チャーリーを所有する権利を持っていて、叔母さんもどうすることもできなかったのだろう。

「叔母さんと旦那さんさえよければ一週間くらいいさせてくれないか」と言うのも、健気というか、無理やり大人にさせられてしまったというか、10代半ばの天涯孤独の少年が吐くセリフではない。それに対して叔母さんは「いつまでもいてくれていいのよ」と返していた。おそらくこれが普通の大人の反応なのだ。
「学校にも行ける?」と聞いていたので、学校に行けないことは気にしていたようだ。そうすると、父親のことも多少恨んだりもしていたのだろうか。叔母さんとの写真を見て、叔母さんと一緒だったら…と思っていそうだったから、特に父親のことが好きでもなかったのかもしれない。それとも、単に血の繋がりによる愛着だろうか。

最後、チャーリーはピートのことを話して泣いてしまう。叔母さんと再会した時にも、抱きしめられた時にも涙を流していなかった。ここで泣くのか!と思うと、ピートを失ったのは本当にショックだったのだろうと思う。それでも、ショックだったと誰にも言うことはできなかった。聞いてくれる人がいなかったから。今はいる。おそらく、ずっと話したかったのだ。その想いを抱えながら一人で歩いていたのだと思うと苦しくなる。

ラストシーンはオープニングと同じくチャーリーがランニングしているシーンなのだが、最初とはまるで顔つきが違う。オープニングは単純に、やることがないのか体力づくりなのかわからないけど、少し無邪気さすら感じるランニングだった。ラストは、自分のいる状況がまだ信じられない、自分は幸せになってもいいのだろうかと少し迷うような顔をしていた。
この旅がチャーリーに与えたものはあまりにも大きかったのだなと感じた。

チャーリーを演じたのはチャーリー・プラマー。まだ数本しか映画に出ていないようだが、透明感のある瑞々しい演技で、ほぼずっと一人で出ずっぱりだったがもっと演技しているところが見たいと思った。




主演がティモシー・シャラメなので、最初にタイトルを聞いた時にはティモシー・シャラメが美しいという話かと思ったら、薬物中毒の息子を立ち直らせようとする父親と周囲の人物たちの話であり、タイトルはジョン・レノンの曲名だった。
そして、主演ティモシー・シャラメというよりは、父親役のスティーヴ・カレルとのダブル主演となっている。
監督はベルギーのフェリックス・ヴァン・フルーニンゲン。初の英語作品とのこと。

以下、ネタバレです。








情報を入れずに見たので、実話だということも最後まで知らなかった。父親のデヴィッドの書いた回顧録と息子のニックの書いた回顧録、それぞれが元になっていてほとんどリアルな内容とのこと。
序盤からすでにニックは薬物中毒で行方不明になっていて、施設に入れられる。過去の回想が入るので、この更生施設に入るまでの話なのかと思ったが違った。一度施設に入ったらそれでめでたし終了ではないのだ。施設に入ったところで、一時的に断つだけ。大学に行きたいとの言葉を尊重して行かせれば、結局そこでまた摂取してしまう。
この大学の話も過去回想なのかと思って観ていたが違ったのだ。更生施設はあまり意味がない。

デヴィッドはニックを愛してるし、頭もいいと思っているから本人が勉強したいならそれを押さえつけることはしたくない。悩んだ末だったと思うのだ。それでも結局、駄目だった。裏切られる。

少し『君が生きた証』を思い出した。親だから当たり前に子供のことを生まれた時から知っている。でも子供は大人になるほどに自分の意志を持ち、勝手に行動し始める。別々の人間だからコントロールすることなんてできない。
なるべく力になりたいし、正しい方向へ導いてあげたいと思っていても、干渉しすぎると反発もされるし、親から見たら子供でも子供自身は自分で自分をちゃんとコントロールできていると思っている。

ニックが薬物にはまった原因は何とははっきり示されないし、そんなものなのだろうと思う。
両親の離婚の影響はあるのだろうか。子供の頃に離婚したみたいだし、多少はあるのではないかと思ってしまう。性格形成の一端を担っていそうだった。
好きなものがニルヴァーナやデヴィッド・ボウイなどというのも関係あるのだろうか。ニルヴァーナは『Territorial Pissings 』が使われていて、車の中で絶叫して歌っていた。彼の思想を作るものだったのかもしれない。また、エンドロールで彼の好きな詩が朗読されるが、それもまた孤独感が滲み出ているものだった。

最初は大麻から始まって、そのうちに強いドラッグに移行し、最後はクリスタル・メスを使っていると言っていた。
クリスタル・メスを使うと脳の神経が死ぬとか、その副作用についても説明される。かなり詳しく説明されていて、薬物乱用『ダメ。ゼッタイ。』映画でもあるのだろうと思った。子供をオーバードーズで亡くした親たちの会の様子もだ。
このあたり、プランBらしいというか、いい意味での説教くささを感じた。
しかし、ドラッグを使った時の描写も多く、ハイになっているニック、というかティモシー・シャラメがかなり魅力的で、興味もわいてしまうのはどうなのかと思う。
ティモシー・シャラメは体重をかなり落としたらしく、裸だと肋骨が浮き出ていた。
スティーヴ・カレルは先日観た『バイス』とまったく違っていて驚く。『バイス』『フォックスキャッチャー』『バトル・オブ・セクシーズ』あたりは破天荒な役で演技も大袈裟だったりするのだが、今回のような人格者というか、抑えめの演技もできるのが本当に素晴らしい。
もともとはマーク・ウォールバーグとウィル・ポールターだったらしく、そのパターンも観てみたかった。ティモシー・シャラメは美少年すぎて、この人が人生うまくいかないの?と疑問にも思ってしまった。でも、繊細さと弱さはティモシー・シャラメのほうが合っているかもしれない。

ニックはドラッグを断ち切ろうという気持ちもあったようだった。特に、デヴィッドの家で幼い妹と弟と遊んでいる様子は明るくて、このままなら立ち直れそうだと思った。しかし、そう簡単にはいかないようだった。
家から去った後で、デヴィッドが『少し落ち込んでるようでしたね。いつでも相談してください』とメールを送っていた。楽しいことが起これば起こるほど、それが終わった後に一人になった時に耐えられない。それがデヴィッドにはわかっていたようだった。
ニックはあのままデヴィッドの家にいることはできなかったのだろうか。もう自分だけがよそ者という気持ちになってしまったのだろうか。大人なのだし、いつまでも親に甘えてはいけないと思ったのかもしれない。

結局、その帰りに昔、通っていた遊び場に行く。そこに昔の彼女がいるんですね。ここも脚色無しなのだろうか。落ち込んでる時に昔好きだった女の子がいて、ドラッグを進めてきたらやってしまうのは仕方がないと思う。孤独感を紛らわすにはそれしかない。
でも、そこから再び転落していくニックは見ていられなかった。勝手にしろと思ってしまったし、デヴィッドも愛想をつかしていた。
ニックが扉を壊して家に忍び込んだ後には、デヴィッドの新しい妻のカレンが泣きながら追いかけていた。
カレンにとってもニックは息子だし、助けてあげたいという気持ちももちろんあったとは思う。けれど、それよりも、あんたがそんなだと夫はあんたにばっかり構うのよ!という怒りを感じた。個人的にはデヴィッドの親ならではの大きな愛よりも、カレンの怒り混じりの愛のほうに涙が出た。

結局、ニックは過剰摂取でERに搬送され一命を取り留める。その後、現在に至るまで、8年間クリーンなのだそうだ。
映画内でも文才があると言われていたが、Netflix『13の理由』の脚本も2エピソード書いているらしい。

アメリカでは50歳以下の死亡理由の1位がオーバードーズとのこと。日本では違法だし、薬物がそこまで蔓延していないから違うだろう。大麻くらい合法にしてもいいのではないかと思っていたこともあったけれど、ニックの様子を見ていると転げ落ちる原因にはなるのかもしれない。

タイトルの『Beautiful Boy』はデヴィッドが幼いニックに歌う子守唄として使われていた。本作は音楽にも注目していて、ニルヴァーナの『Territorial Pissings 』は納得したけれど、マッシヴ・アタックの『Protection』は私があなたを守るという歌詞なので、歌詞付きでどこかデヴィッドの心情と重ねて使われるのかと思っていたが、違った。そんなセンチメンタルな使われ方ができるほど甘い話ではなく、もっと重く、つらい話だった。『Protection』はニックの部屋で流れていた。ニックはマッシヴ・アタックも好きなんですね。趣味が合う。

好きな音楽と薬物乱用の関係なんぞわかりませんが、日本でももっと薬物が出回っていたら、ここがアメリカだったら、などと考えるともしかしたら私もニックのようになっていたかもしれないとも考えてしまった。


“『ジュラシック・ワールド/炎の王国』『永遠のこどもたち』のスタッフが…”と書いてあったので、J・A・バヨナ周りなのだなとは思っていたけれど、『永遠のこどもたち』の脚本のセルヒオ・G・サンチェスが監督。初監督作とのこと。お屋敷ホラーというか、家を舞台にしたあれこれなので、前述2作の雰囲気が色濃く出ているし、特に『永遠のこどもたち』とは共通点も多々あると思います。
J・A・バヨナはエクゼクティブプロデューサー、他スタッフもスペイン人が多いとのこと。
主演はジョージ・マッケイ。妹役にミア・ゴス。弟がチャーリー・ヒートン。友達役にアニャ・テイラー=ジョイ。

以下、ネタバレです。













怖い家に家族が引っ越してくるところから始まるので、家に取り憑いたゴーストに悩まされるものかと思った。『永遠のこどもたち』もこんなスタートでした。
しかし、母親と四兄妹ということで、父親がいない。話を聞いているとどうやら父親から逃れて来ているようだった。DVかな…と思いながら観ていた。でもそれと別に、怪現象も起こっていた。

序盤はDV(?)から逃れ、母親は病床に伏してはいるものの、兄妹は自由に生活を謳歌していた。近所に住む友達もできた。この友達アリー役にアニャ・テイラー=ジョイ。彼女が演じることで、敵か味方かわからなくなるのもおもしろい。服装なども含めてすごく可愛かった。アームストロングの月面着陸のニュースが流れていたので時代はその辺のようだけれど、服装は特にその辺ということもなく、時代背景もそれほど関わらない。携帯がないから行方をくらませやすいというあたりだろうか。

お屋敷の中で鏡を怖がるとか、異音がして何かがいる気配がするというのはお屋敷ホラーの定番であり、『永遠のこどもたち』でも『ジュラシック・ワールド』でも出てきたもの。カラーをよく受け継いでいた。特に、夜に屋根に登るシーンの空が月明かりでぼんやりとなっている様子はバヨナで観た!と思った。
ゴーストが現れた時に兄妹で砦(と彼らが呼んでいる隠れる場所)の中に入るのは、一番小さい弟を楽しませるための遊びなのかなとも思ってしまった。それは秘密基地のようでもあり、兄妹が身を寄せ合って音楽をかけるのは楽しそうにも見えた。怖がっていたけれど。

母が遺したいわくつきの大金など謎がいろいろあるのですが、途中で、追いかけてきた父親を屋根裏に閉じ込めて殺したという事実が明かされる。それで異音が…とも思ったんですが、どうやら生きているらしいと…。死者よりも生者のほうがよっぽど怖いというのも、バヨナ作品ではよく出てくるテーマ。
兄妹が次々と生きている父と遭遇するのですが、ここで、更に父は、過去に強盗殺人で13人殺しているということが明らかになる。
また、序盤で何者かが銃で窓を割り、急に6ヶ月飛ぶんですが、最初は家を奪いにきた弁護士にしては乱暴だったなくらいに思っていて、途中で、父が来てその時に屋根裏に閉じ込めたと明かされる。しかし、もう一つ隠されている真実がある。6ヶ月前のその日、何が起こったのかが明かされる。

長男のジャックは母親からの教えを守り、兄妹を守ろうとする。しかし、相手は大人で父親といえども容赦ない。崖から落とされてしまう。ジャックの頭に傷があるなとはずっと思っていたけれど、これはその時にできたものだった。
そして、気を失ってる間に兄妹たちは父親に殺されていたという。
考えていたよりも数倍つらい真実だった。怖いことがあっても四人で力を合わせて乗り越えてるんだと思っていたが、ジャックは一人だったのだ。兄妹を守ることができなかったことを悔いたのか、ショックでなのか、一人がつらすぎたのか、ジャックは他の兄妹の人格を自分の中に作り出していた。頻繁に気を失っていたのも、頭痛がするというのもすべて説明がついた。また、鏡を隠していたのも、鏡には一人しか映らないという悲しい理由からだった。

鏡は真実しか映さない。それがいいことなのかどうかというのはラストで結論づけられる。
アリーは、怪我をしていたこともあってジャックを病院へ連れて行くのですが、他の人格を消すための薬はジャックには渡していなかった。だって、渡すと三人が消えてしまう。三人との別れは彼にとって決していいことではない。
世間や医者は他の人格を消せと言うだろうし、惨劇のあった家を出ろと言うだろう。でも、ジャックにとっては思い出の家であり、大切な家族なのだ。そこを理解しているアリーは優しい。

それにこれは、この映画の結論でもある。今回はゴーストというより多重人格として出てきたけれど、ゴーストは決して怖いものではない。ゴーストだとしても、一緒にいられるならそれでいいのではないか。生と死が曖昧になるような結末はある種のファンタジーでもあると思う。『永遠のこどもたち』も同じような結論だった。
生きている人に向かって、あの人は死んだのだから忘れなさい、忘れて前を向いて一人で生きていきなさいと言うのが正しいことなのか。死者と仲良くしたっていいではないか。

アニャ・テイラー=ジョイは多重人格者に優しく接する役ということで『スプリット』で演じた役と似ていた。よくここでキャスティングしたなとは思う。ただ、“普通”とちょっとずれてしまった人に優しく接する役が合っているのかもしれないと思った。

ジョージ・マッケイ、私は『サンシャイン 歌声が響く街』で好きになったんですが、今回は日本で観られる映画の中では主演らしい主演だったと思う。多重人格部分ももちろん含めてですが、とてもうまかった。アリーに恋をしていて自転車でいそいそと出かけていくさまは可愛かったけれど、後から考えると泣けてしまう。ジャックに兄妹以外にも繋がりがある人物がいて良かった。
彼は気弱だけれど優しいという役が多いと思う。今回も、兄妹を守ろうとして守れなくて自分が壊れてしまうという役だった。でも、死んでしまってもなお守るという様子はやはり優しいと思う。
時々、すごく色っぽく見える瞬間があるのも気になる。
どうやらワンカットらしいということが明かされたサム・メンデス監督の第一次世界大戦映画『1917』もたぶん主演なので楽しみ。



『バイス』



アカデミー賞で8部門ノミネート。うち、メイクアップ&ヘアスタイリング賞受賞。主演のクリスチャン・ベイルはどこまでが生身なのかわからない。去年のアカデミー賞主演男優賞をとったゲイリー・オールドマン対して、「本当に太らなくてもいいのか!」と言ったとか言わなかったとかいう冗談もあるくらいで、実際に太ったり痩せたり筋肉をつけたりしている。
スチルで出ている老チェイニーだけかと思ったら、若いチェイニーに関してもクリスチャン・ベイルが演じていた。その姿は太ってはいても、クリスチャン・ベイルだとわかるくらいだった。
老いてからのチェイニーの喋り方はがさがさした小声のようなもので、『ダークナイト』のバットマンの喋り方に似ていた。実際のチェイニーもしわがれ声だったらしい。
また、チェイニーの妻役のエイミー・アダムスも彼女とわかりづらいくらいだったし、サム・ロックウェルの息子ブッシュやスティーヴ・カレルのラムズフェルドも似ていた。
監督は『マネー・ショート 華麗なる大逆転』のアダム・マッケイ。ブラット・ピットのプランB製作。

以下、ネタバレです。







同時多発テロの後の会議の様子からスタート。その時点から暗躍している副大統領の様子がわかる。まさに、“暗躍”なのだ。副大統領なのに、実権を握っていたのがわかる。それは、大統領がブッシュだったから、いいように操っていたのかもしれないけど。
しかし、チェイニーに関しては秘密主義の部分も多いらしく、実話でない部分もあるとのこと。
ご存命の方の映画なのに。本人に許可はとってないのだろう。ご本人が観た感想も知りたいところだ。

そして、過去に戻り、チェイニーの学生時代からスタートする。
『マネー・ショート』の監督ということで、同じようなテンポの良さだったと思う。ぽんぽんとさまざまな事態が進んでいき、セリフも多い。少しぼんやりしているとついていけなくなる。チェイニーのことを少し調べておいても良かったかなと思った。『マネー・ショート』もサブプライムローンに関して、もう少し把握しておいても良かった。

途中、「第一線を退いたチェイニーは、政治と同性愛者でもある娘との間で板挟みになるが娘をとりました。釣りをしながら過ごしています」というような文言と、家族が幸せに暮らしている映像が流れる。いい音楽が流れ、エンドロールが…。めでたしめでたしの風合いである。あそこで終わっていたら、本当に穏やかな余生を送っていたのだろうと思う。

しかし、息子ブッシュに呼び出され、チェイニーは副大統領になる。話している時にも心の声が流れ、どこか馬鹿にしているようだった。こいつなら操れると思ったのだろう。
その先は、大体の流れを知っている、同時多発テロ、よくわからないイラク戦争、その結果、ISISの元になるものが誕生してしまうなど、完全に現代に繋がっている話だし、すべての元凶はここだったのではないかとすら思えてくる。
どうしてよくわからないイラク戦争が始められたのかは、法律を変えるなど大統領に最大の権限を持たせたからで、それも何か聞いたことがある話だし、もうアメリカだけの話でもなくなってくる。地続きで、日本にいても他人事ではない。
ラストには、過去を振り返るトーク番組に出るチェイニーが出てくる。しかし、司会者ではなく、こちらに向かって話しかけてくる。少しでもテロリストの可能性があったら攻撃する、私は悪くない、国民から好かれたければ映画スターにでもなる、と。

エンドロールではフライフィッシングのフライと釣り針が流れる。チェイニーがフライフィッシングが趣味というのもあるけれど、娘の「なんだか魚を騙しているみたい」というセリフがある。国民を騙しているのともかかっているのだと思う。チェイニーがブッシュをのらせるシーンでも、釣りの映像が使われていた。
それだけではなく、フライフィッシングのフライは凝ったものが多いけれど、形が心臓だったりとお遊び要素が感じられた。

お遊び要素といえば、ナレーションの男性が序盤からちょこちょこと出てくるのだが、演じているのはジェシー・プレモンス。普通の生活を送っている普通の市民である。チェイニーのせいで、イラクにも行かされた。「なんでイラクに来ることになったのかわからない」と言っていて、他の兵士たちもきっと同じ気持ちだったのだと思う。市民代表として話しているだけで、チェイニーとの関係は特にないのかなと思いながら見ていたら、終盤、こちらに向かって話している男性が車に轢かれて死んでしまう。そして、心臓の悪いチェイニーに彼の心臓が移植される。
チェイニーが誰かから心臓移植を受けたのかは実話なのかどうかわからない。けれど、ナレーションの男性の正体が終盤で明らかになるのが映画的でおもしろかった。
ただ、これは、市民が犠牲になってチェイニーが生き延びたということの暗喩でもあると思うし、開き直るチェイニーの態度を見ていると、影で誰が死んでいっているかなど、あまり気に留めていなかったのだろうと思う。
兵士はわけがわからないまま戦争に行き、わけがわからないままイラクの民間人が大量に犠牲になった。退役軍人の自殺者も多いと言う。

円になって市民たちに自由に討論させる(と見せかけて世論を誘導する)シーンが出てきますが、エンドロールでもその討論シーンが出てくる。一人が「この映画(『バイス』のこと。メタ)、リベラル臭がする」と意見する。リベラル寄りの人が反論すると「お前の支持したヒラリーは負けたくせに!」と殴りかかり、トランプ支持派とヒラリー支持派がわーわーとやりあう。それに興味なさそうな若い女性が「次の『ワイルド・スピード』楽しみ」と言う。結局は、そのノンポリが一番怖いのだと思う。どちらでも、支持して殴り合うくらいに白熱していたほうがまだいい。ノンポリは流されやすいし、斜に構えていると、気づいたらとんでもないことになってしまう。

もちろん、そんなメッセージではなく、本当に、こんな政治映画もあれば、『ワイルド・スピード』のような娯楽映画もあっていいし、みんな違ってみんないいみたいな意味も含まれているのかもしれないが。